朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
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エリア地区 / 大谷
見どころ・注意/
・菅原道真の太宰府左遷時に側室家族が移り住んだと伝わります。
・江戸幕府のご朱印寺社がたくさんある由緒ある歴史を持つ地区です。
・秋葉山山頂からの眺めは美しいです。
・睡蓮ため池の見頃は6月中頃〜7月はじめです。
・大谷地区は道が狭く小路も多いので迷いやすいのでご注意下さい。
・小さな寺社やため池は、分かりづらい場所も多いので、エコミュージアムガイドの利用をお薦めいたします。

(お願い)
 このサイトは、朝日町エコミュージアムがこれまで培ってきたデータを紹介することにより、郷土学習や観光により深く活用されることを目的に運営いたしております。
 よって、サイト内で紹介しているほとんどの見学地は、観光地として整備している場所ではありません。夏は草が茂り道がなくなる場所もあるかも知れません。もちろん冬は雪に閉ざされます。また、個人所有の神社や建物等も一部含まれております。アクセスマップも細道までは表示されません。
 予め御了承の上、見学の際は下記についてご留意下さるようお願い申し上げます。

・安全に留意し危険な場所には近づかないで下さい。
・マナーを守り、無断で個人敷地内に入らないで下さい。
・不明な場所につきましては、エコミュージアムルームへお問い合わせ下さい。または、エコミュージアムガイドをご利用下さい。
Tel0237-67-2128(月曜休)

 大谷の風祭は、今から250年前、宝暦年間(1751〜1764)に始めたといわれ、町では最も賑やかな夜祭りです。
 立春から数えて二百十日目、この頃は大暴風雨による農作物の被害が毎年のようにあり、この風水害を鎮め、豊作を祈願する行事が風祭で、毎年二百十日の前日8月31日の夜、盛大に行われます。
 祭当日、家々では、御神灯と書いた四角の田楽提灯(でんがくちょうちん)を門口に立て、御神輿が通る道筋から家々の玄関まで、清浄な盛り砂をし、縁側に机を置き、灯明・花・赤飯・果物そして初穂料を供え御神輿を迎えます。
 行列は、毎年決められた順序により、夜七時の花火を合図に白山神社を出発し、2時間かけて村中くまなく巡行します。 
 江戸時代から続く打ち上げ花火は、行列に合わせ夜空を彩り、40店余の夜店も立ち並び、招待客と近辺からの参詣客で、大通りは身動きできないほど混雑します。
 車に飾り付けした各区(1〜6区)の屋台は、毎年趣向ををこらした出し物が披露され、観客の拍手喝采を浴びます。
 大谷の風祭は、子供からお年寄りまで地区民総参加により、250年の歴史と伝統を継承しながら、大谷地区の融和と活性化に貢献しています。
(堀敬太郎氏資料「大谷の風神祭」より抜粋)

※写真は屋台の寸劇風景/撮影 堀敬太郎氏(大谷一)

大谷風神祭をもっと楽しむためのリーフレット
二百十日頃の稲作について
大谷風神祭の歴史
風神祭の神事
提灯行列の思い出
田楽提灯の絵付けについて
田楽提灯作りのアドバイス
角田流大谷獅子踊
大谷獅子踊りの由来
大谷獅子踊り保存会について
大谷獅子踊りの思い出
代々神楽(獅子神楽)と天狗について
風神祭の屋台について
各区の屋台 こだわりと見所
大谷の花火の歴史
大谷の花火打ち上げ
空から人形、人形傘花火
風神祭の露店
消防団の役割
風神祭のお供え物
大谷風神祭の特異性(基調講演)
大谷風神祭のこれからを考える(バネルディスカッション)
関連書籍 小径第15集『大谷風神祭』
白山神社マップ
秋葉山エリア(大谷)
 大谷の獅子踊りは、江戸時代の後期、文化年間(1804〜17)に、天満宮の神官であった白田家31代外記清安(きよやす)が仙台藩角田村(現在の角田市)の切幕の獅子を取り入れたのが最初といわれている。
 毎年、二百十日の前夜8月31日の風祭りに奉納するほか、8月15日には「送り盆の供養獅子」として永林寺本堂前で踊っている。
 この獅子踊りも戦後、後継者難のため解散寸前にあったが、大谷4区(浦小路)の青年たちが、伝統ある郷土芸能の保存継承を決意、幾多の困難を克服して飛躍的に発展させたのである。その努力と功績が認められ、昭和57年(1982)に朝日町無形文化財に、平成3年(1991)には山形県無形文化財に指定された。
『大谷郷』より抜粋 写真は送り盆の供養獅子

大谷獅子踊りの由来
大谷獅子踊り保存会
大谷獅子踊りの思い出
映像(Youtube)
大谷の獅子踊り/佐藤孝男さん
大谷の風神祭
小径第15集『大谷風神祭』
秋葉山エリア(大谷)
白山神社・永林寺マップ

 白山神社は承和7年(840)、加賀の白山権現より勘定したと伝えられています。その後、大江家や最上家より社領の安堵を受け、慶安2年(1649)徳川将軍より19石4斗余のご朱印地をいただいています。もとは村の中央にありましたが、小学校と隣接していたため終戦後に進駐軍より命令され解体。昭和25年に西野天満宮跡地とされる現在地に再建しました。旧大谷小学校校門先のヒバの木は、白山神社本殿跡に植えられた記念樹です。
『大谷郷』より抜粋

秋葉山エリア(大谷)
アクセスマップはこちら
旧神社跡マップはこちら
 大谷地区には、西の天満宮、北野天満宮、高木天満宮、峯壇天満宮の四つの天神様があり、古くから村人の崇拝を受けてきました。
 白田内記家・外記家は、菅原道真の子孫であるといわれ、そのため代々天神信仰が厚く、大谷の四天神は白田一族と関わりのある人が建立したといわれています。西の天満宮は白山神社と合祀されました。(写真は峯壇天満宮)
『大谷郷』より抜粋
大谷の白田氏と天神様(見学会)
幻の大谷天満宮を訪ねる(見学会)

アクセスマップ
峯壇天満宮
高木天満宮
北野天満宮
※いずれも分かりづらい場所にあります。地区の方にお聞きするかエコミュージアムルームへお問い合わせ下さい。
秋葉山エリア(大谷)
 寺の創建は南北朝時代の貞治年間(1362〜67)。曹洞宗のお寺としては県内でも5本の指に入るほど古く、村の名を山号にした由緒ある寺です。白田内記藤原安重の懇情を受けた湖海理元和尚が開山し、本師の道愛禅師を一世としました。
 もとは虚空蔵菩薩御堂がある裏山の開山にありましたが、寛文8年(1668)盗賊の放火にあい全焼。21年後の元禄2年(1689)白田内記家が主になり現在地に再建しました。それから百年後の宝暦11年(1761)お盆の8月16日の晩、失火で再び消失。それ以降大谷の送り盆は1日早い15日に行うようになったといわれています。三年後、渡辺平治郎、大谷武助、白田六郎右衛門、大谷五郎兵衛が中心となり安永3年(1774)に現在の永林寺が再建されたのです。
『大谷郷』より抜粋
秋葉山エリア(大谷)
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※白山神社の隣りです。
 左陣は身長2.5m阿形(開口の形)の密迹金剛、右陣は2.4mの那羅延金剛です。文久3年(1863)に西の天満宮焼失で焼け残った仁王尊を明治3年(1870)に仮安置していた永林寺山門に再建しました。
 昭和21年には、台風で仁王門が倒れ体内から祈願札が発見され、元禄5年(1692)に京都の仏師井関宗意、同念性の二人の手によって作られたものであることが分かりました。(写真は那羅延金剛)
『大谷郷』より抜粋

永林寺
秋葉山エリア(大谷)
 元禄12年(1699)大谷大堰をつくった一人である白田内記則安の三男安豊(内匠)が病身のため、健康を祈願して独力で寄進したものでした。この梵鐘は京都の藤原国次という人が作ったもので名鐘といわれていました。しかし、昭和17年(1942)10月、戦争が激しくなり金属不足から供出させられ二度とその姿と音を聞くことができなくなりました。
 現在の梵鐘は、昭和42年(1969)に鋳造されたもので、これまでの梵鐘と重量、音色とも勝るとも劣らない立派なものです。
『大谷郷』より抜粋
秋葉山エリア(大谷)
 大谷盆地は水利に恵まれなかったため、大谷大堰や油子沢新堰とともにたくさんのため池が作られてきました。江戸時代に幕府が整備した「内林」のため池や「西堤」。村人達が自力で作った「仲丸」「猿田」のため池。大谷川を塞き止めた悲願の「馬神池(ダム)」など、昔は40個以上あったそうです。現在も10個以上のため池が大谷の水田を潤しています。平成22年3月「馬神池と大谷の郷」が、農水省の「ため池百選」に選定されました。(応募数600件以上)
※写真は谷地山のため池

主だったため池
馬神池
西堤
内林の堤
衣沢のため池
谷地山の睡蓮池
※詳細な位置はエコミュージアムルームにお問い合わせ下さい。
田畑開拓の歴史
秋葉山エリア(大谷)

 大谷には睡蓮が咲き誇る美しいため池があります。“谷地山三連ため池”の一つで、毎年6月中頃に最盛期を迎えます。所有する渡邉勝美さんが10年以上前に、沼に棲む在来メダカを守るために一株だけ植えたものが増えたそうで、現在は多くの人が訪れるスポットになりました。また、ため池までのアプローチも様々な花で彩られ、美しい田園風景の中を歩く事ができます。

渡邉勝美さんのお話
フォトギャラリー(PC)
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※看板はありませんが、ため池下の棚田に彩られた菖蒲やアザミが目印です。県道9号線に駐車して徒歩で数分。
※午後になると花は閉じてしまいますので、午前中にご覧下さい。
※睡蓮やメダカの採取は絶対になさらないで下さい。
秋葉山エリア(大谷)
 大谷集落の南西方向に標高247.5mの真木山があります。大江、伊達、最上の三勢力が争う戦国時代、ここは真木山城とよばれた城であり、東方にある秋葉山楯、北東の位置にある猿田楯とともに敵からの攻撃に備えました。
 天正12年(1584)血縁関係にあった大江高基が最上義光により滅ぼされた時、城主大谷彦次郎元秀は平塩池之坊に婿養子として亡命します。家臣達は農民となり大谷党を組織し時勢の訪れを待ち続けました。
『大谷郷』より抜粋
※登山不可。秋葉山交遊館から見て西の山です。
真木山と大谷の周辺風景
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秋葉山エリア(大谷)

 標高224.6メートルの秋葉山は、戦国時代には本城である真木山城の出城として、曲輪・空堀・堀切など中世の城館跡の遺構が明瞭で、歴史的にも貴重な文化遺産となっています。平成10年に北部地区の文化拠点として山頂まで遊歩道等が整備され、子供も高齢者も容易に登ることができるようになりました。学び・見る・遊ぶ場所として利用されています。
『大谷郷』より抜粋

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※秋葉山グラウンド北側駐車場(右側)から登れます。山頂まで10分。途中には山ノ神社や稲荷神社が祭られています。
フォトギャラリー(PC)
秋葉山エリア(大谷)
 延享4年(1747)二代鈴木清助が山頂に秋葉神社を創建したことから、以後この山を秋葉山というようになりました。秋葉神社は古くから火伏せ、商売繁盛の神として周辺村々の厚い信仰をうけてきました。頂上西側下には奉納相撲を行った跡が見られます。明治40年(1907)7月に神社焼失しますが、同43年(1910)1月に再建しました。その後、社屋の破損がひどく昭和59年(1984)に解体、ご神体は鈴木家の土蔵に安置し跡地に記念碑を建立しました。
『大谷郷』より抜粋

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※秋葉山の山頂です。
秋葉山エリア(大谷)
 秋葉山山頂に『大谷往来』の全文を表した説明板が建てられています。『大谷往来』は、元禄7年(1694)大谷村の彦七が記したもので、自然豊かな大谷の四季を順序よく的確に美しい文章で書き表しています。しかも短い文章の中で名所旧跡や神社仏閣、動植物、特産品など、300年前の村の様子が一目で分かり、『大谷往来』は、まさに元禄のエコミュージアムといえます。
『大谷郷』より抜粋
『大谷往来』全文
大谷の皆さんのお話
大谷往来の風景について
彦七は風和かもしれない
大谷往来には節があった
『大谷往来』について

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秋葉山エリア(大谷)
 戦国時代、大谷集落の南西方向の真木山に真木山城(写真左)があり、秋葉山(写真中央)は森山と呼ばれ、猿田楯(写真右)と共に敵からの攻撃に備える出城(楯)となっていました。弓の矢に使ったといわれる矢竹は今も自生しています。真木山城大谷家は血縁関係にあった大江家が天正12年(1584)に最上家に滅ぼされた時、最上家に仕えるのではなく農民として土着する道を選びました。
※写真は用山山頂から見た秋葉山
『大谷郷』より抜粋
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秋葉山エリア(大谷)