朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

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大谷風神祭バネルディスカッション
「大谷風神祭のこれからを考える」

バネラー
菊池和博氏(東北文教短期大学教授)
白井淑浩氏(大谷風まつり実行委員会)
堀敬太郎氏(風和会)
白田敏男氏(大谷角田流獅子踊り保存会)
コーディネーター
長岡信悦(NPO法人朝日町エコミュージアム協会

■長岡 ただいまからパネルディスカッションを始めさせていただきます。パネリストの方からご意見いただきますが、ぜひ地域のみなさんからもお考えなどを聞ければと思っております。

■白井
 今年の大谷風神祭も、地区のみなさんから大変なご奉仕をいただき例年通り行うことができました。心から御礼を申し上げます。
 ただ、長い間、祭礼の時だけは雨に降られたことがなかったのでありますが、今年は、どういうことか大変強い雨が降ってしまいました。途中で区長が集まり相談をしたところ、子供の田楽提灯以外はとにかく続行するべ、となりました。花火も四十一発打ちそびれましたので、来年の風祭りに多く上げるようにいたします。
 さて、私が実行委員長になって七年目になりますが、今年も実行委員会は七月の中旬に一回しただけです。安全協会さん、消防団さん、商工会さん、そして氏子会の皆さんなどで、今年は三十八名に集まっていただきました。その後は、それぞれの皆さんが分担通りにしてくださり風祭りは行われます。そして、祭りの後にもう一度集まって決算報告をご承認いただいて、一杯飲んで終わりとなります。これは長い歴史と伝統の中での大谷地区の連帯感や責任感などの賜物でないかなと思っています。

■堀
 風神祭に関しては、明治二十二年に北部地区が合併し大谷村になった折りに発行した『大谷村史』に載っています。
 神輿巡行ですが、順路は今まで大きく三回変わっています。もともと神輿は、現在の白山神社あたりにあった「天満宮」に保管していたものでした。この天満宮はおよそ二千五百坪の境内を有し、素晴らしい格式と歴史のある神社だったのです。そこから高木地区の若衆が担いで、永林寺、立小路を下って、横小路に行って、小学校跡にあった白山神社で宮司の小野さんが出迎え、行列が整い、そこから出発するという具合になっていたようです。
 その天満宮が、明治維新五年前の文久三年三月三十日に全焼した時からは、白山神社にその御神体や御神輿を収め、そこから出発したと書かれてあります。
 終戦後、白山神社に対してGHQ(進駐軍)から「学校の側に神社があるとはとんでもない。早く移転しろ」という命令がありました。私は、これは反対だと思うんですね。千何百年、白山神社はそこにあったわけで、あとから明治になって小学校がその隣にきたので、小学校を移転すろと言いたいところでした。
 昭和二十一年の五月に、今でいう村民大会を開き移転先を話し合いましたが、まとまらず、とりあえず解体だけし、昭和二十五年十月に現在地に移転しました。そして、翌年からは現在のような巡行順路になったようです。
 行列については「白山神社の別当が先導して天満神社の神官白田外記以下、神官保利内匠、同白田惣吉郎他、村役一同これに従って、前後左右を各戸から出た高張提灯で囲み巡行する」と書いてあります。ただ、各戸で高張提灯(たかはりちょうちん)というのは間違いだと思います。風祭りは農民の祭りであるということから言っても、高張提灯を各戸で持つ余裕があったのかなと思うのです。実際は、庶民的な、自分で作り、書くこともできる田楽提灯だったと思われます。
 それから、神楽獅子については「前に加わり(後(のち)のことなり)」と書かれてありますが、代々神楽は昭和三年頃に東地区の青壮年の方たちが、宮宿の豊龍神社の大獅子を習いに行って、それを大谷の風祭り、夜祭りに合うようにアレンジして作ったんだと、以前に白田常松さんから聞いております。ですからこの文書はいつ書いたのか少し疑問は残りますが、大体間違いないんじゃないかと思っています。
 そしてとにかく、昔から近郷近在より参詣人がすこぶる多く、露店もすこぶる繁盛したというふうに書いてあります。昔から露店が来ていますが、やはり儲かるから来ていたのではないでしょうか。花火を打ち上げて祭りをよりいっそう彩るということも書いてあります。

■白田
 昭和四十七年に、師匠の先輩方から教えてもらって四十年になります。始まりは、第四区の若者たち「チョンガー会」の芋煮会の時のこと。獅子踊りの道具が北部公民館の押し入れに入っていると聞き、「我々で復活させよう」と盛り上がったのでした。そして、その勢いで連合区長だった鈴木幸次郎さん宅を訪ねてお願いしたのですが、「飲んだ勢いで出た話では引き受けられない。出直して来い」と断られました。そして、もう一度集まってみんなの気持ちを確かめてから、改めてお願いに行きました。「ほんとにいいのか」と何回も電話ももらい、やっと「分かった」と言ってもらいました。二十四歳くらいの若者達のこと、連合区ではきっと大きな問題になっていたのだと思います。
 師匠は、白田芳美さん、亡くなられた大谷武助さん、石井好男さん親子、そして鈴木正一さんにお願いしました。元は四十五分の踊りだったのですが、師匠さんたちのアドバイスでいい所をとって十五分につめて踊ることになりました。口でピーローピーとか、ドンドコとか言いながら練習しました。
 生の笛に合わせて踊るのは難しくいろいろ苦労しました。踊るのが大変だから笛をしてみるかとやってみると、音なんか出るものではなく、頭がふらふらしてしまうようなものでした。(笑)
 始めた頃は二十年続けることを考えていましたが、その後、町の無形文化財、県の無形民俗文化財となり、なかなかやめられなくなりました。(笑)
 毎年、風祭りの他に、白山神社のお祭りとか、永林寺の十五日の送り盆の供養として踊っています。練習後はビールを飲んで、これからの部落や大谷のことを話しながら、いいコミュニケーションとなっています。会員は二十七人。親子でやっている人もいます。
 昨年から衣装も立派に交換していただき、これからも頑張らなければいけないなと思っています。

■菊地
 実行委員会一回だけで済むというお話は、やはり、かなり基盤が確立していらっしゃるんだなと思いました。これはよその地区では、必ずしもこういうわけにはいかないのです。協議も意思確認もままならず、共通理解にいたるまでなかなか大変で、結果的に住民参加型に形だけはなっても、実態は一部の人間だけが、というのが多くなってきているんですね。祭り・行事・芸能と、住民の方々の「絆」はそれだけ薄れてきているんです。
 だけど、東日本大震災が起った後、沿岸の方々が仮設住宅に住むことを余儀なくされて、やっぱり元に戻りたいと言ったときに祭りや芸能っていうのがものすごく故郷意識を呼び起こすものであり、気持ちを一つにするには、とても大事だっていうことが見直されてきていますよね。
 私達山形は今、少子化、高齢社会になり、絆の意識の希薄化っていうんでしょうか、だんだん合理的な考え方の浸透する中で、簡略化の傾向が強いです。みなさんには風神祭をずっと同じ形のままで維持していただきたいなと、いっそう強く思った次第です。
 それから、明治二十二年の『大谷村史』のお話が出てきましたけど、やはりそこでもすでに露店がたくさん出ているってことは、賑わいはそこからずっと連続しているということが分かります。儲かるっていうことは、それだけ人が集まって買ってくれるということ。それだけ集まる祭りなんだということがよく分かります。
 全戸から高張り提灯が出ると書いてあるのは疑問だっておっしゃっていましたが、やっぱり疑問ですね。高張提灯は、卵型のたたみ伸ばせるいわゆる提灯のこと。そこに書いてあることは、「高く掲げる提灯」という意味に理解したほうがいいのかなと思います。あくまでも形は角形の田楽ですよね。やっぱりこの田楽提灯はかなり以前からあったんだろうと思います。
 私の東根市の田楽提灯の行列は、始まりは明治以降だっていうのがもっぱらです。ひょっとしたらこちらのほうが古いかもしれませんね。東根が習ったのかもしれません。大谷に誰か見学に来て、俺たちも七夕でやりたいとなったのかもしれないです。その辺のことは分かりませんが、いずれにしても伝統あるということだろうと思います。
 あと、大谷の獅子踊りを、親子でやっている方があるというは羨ましいですよね。なかなかこれが他の獅子踊りの団体さんは継承に苦労しています。財政問題もそうですけど、芸能が今一番直面している課題です。
 私は、こういう芸能の団体さんの集まりで、どうしたら後継者が作れるでしょうかって、よく質問されると、うまくいっている事例を挙げるんですが、これからは大谷のこともいい参考事例に加えさせていただきます。

■白田進さん(質問)
 菊地先生にお尋ねします。永林寺の三浦蔵人のお墓見てきたと聞きましたが、大谷はもともと官軍の地なんです。それで庄内藩がある時点において賊軍だったもんだから、白田外記は庄内藩につかまって首を討たれたっていうことです。私の父がよく言っていたことがありました。一緒に打ち首になった東根の若宮八幡の宮司の息子さんが三浦蔵人さんなので、東根と大谷は繋がりがあったんじゃないかと。

■菊地 
 おっしゃるとおりです。三浦家は若宮八幡神社の代々の宮司で、蔵人も幕末の神主です。白田外記も天満宮の宮司。同じ官軍側の新しい時代を開こうとして、気持ちが一緒だったんでしょうかね。庄内軍に捕まえられて、寒河江川の臥龍橋近くの川原で首討たれたという、これは歴史的事実ですね。永林寺に二つ碑が並んで眠っているということで、私と皆様はそういう意味でも繋がっているのですよね。田楽提灯の行列が双方の神社で行われているというのもその縁かも知れません。東根と大谷、歴史を遡るとこんな因縁というか、縁があるということだと思います。

■白田進さん(質問)
 花火のことですが、昔、白田藤三郎さんが、自分のところで花火を作って自分のところで寄付金を集め風祭りのときに花火を上げたということをお聞きしましたが、何かそれに関する資料とかあるんでしょうか。

■堀
 昭和三十六年の町報あさひに、花火に関する詳細が出ています。
 大谷地区では江戸時代から花火を打ち上げておったといわれておりますが、本当かどうかの確証はありません。しかし、この記事には、江戸時代には火薬の取り扱いは医者が扱っており、白田内記家が白田医者を製造元として「旭連」という連を作ったと。そして白田外記家は、ちょうど今の鈴木床屋近辺にあったといわれる浜田医者を製造元として「松本連」をつくって、お互い競い合って花火を打ち上げておったと書いてあるんです。それが明治になり、警察がほとんど火薬を取り扱うようになって、勝手に花火を作ることができなくなり、さあ困ったということで、東の白田藤三郎さん(昭和三十九年に亡くなって、ちょうど今年が五十回忌)を福島に花火師として養成するためにやったと。そこで勉強して大谷に戻り、松本連、旭連を解消しまして「旭連金玉屋煙火製造販売業」という会社を興して、大正十四年まで製造販売もしたと。ちょうど愛宕様に火薬庫があったと昔の人から聞いておりますし、実際製造したことは間違いないと思います。私たち小さい頃はよく花火屋、玉屋って呼んでいいました。今も屋号は花火屋ですね。白田八郎さんの小屋に行ってよく花火の殻なんかも見たことがあるので、製造したことは間違いないと思うのです。それが大正十四年まで続いたというふうに書いてあります。
 そして明治四十三年に東北の花火大会に白田藤三郎さんが出場して、第三位になったんだそうです。その時の賞品が柱時計なんだけど、残念ながらこれはないそうです。今は孫さんが打ち上げを現在も継続してやっています。

■長岡
 では、風神祭のこれから、もっとこんなところもということをお話下さい。

■白井
 私はさっき申し上げましたように、風祭りは長い歴史と伝統の中から続いているわけであります。この前、風和会で堀さんから新庄に連れて行っていただいて、新庄祭りの歴史の説明があったんです。新庄祭りとおそらく大谷の風祭り同じ頃始まったのでないかなと、その時思ってきたんですけども、新庄祭りは宝暦六年から始まったんです。そうしますと、大谷の風祭りも今年は二百五十七回目となるのではと、ちらっと思ったところでありました。
 そういうふうな意味合いからいきまして、私は八月三十一日というこの記念すべき日でもありますので、日曜日にずらすとかしないで、この日の開催を長く続けていきたいなと思っております。私は連合区長あと二年任期がありますので、来年と再来年はがんばってさせていただきますが、雨だけは降らないようにだけはしたいというふうに思っています。(笑)どうぞよろしくお願いいたします。

■堀
 やっぱり、なんといっても大谷の風祭りの一大特徴は田楽提灯です。これをもっと多くしたいですね。戦前は一戸から一人必ず出なければならなかったので、最低二百人は出ているはずなんですね。多く出るような方法を色々策がないものかなと考えています。この田楽提灯だけはどうしても長く継続してもらいたいです。
 それからもう一つ、盛り砂ですね。村の中を見ますと最近どうも途切れ途切れになってるような感じがします。大変だけども今までどおり長く続けていきたいものだなと考えております。
 それから御神輿ですが、最近は「ワッショイ ワッショイ」っていうのが流行っていますが、大谷の場合は厳粛に粛々と練り歩きます。ということは、中に御神体が入っていますから、各戸でお参りしてお賽銭をあげるのです。豊島宮司の話では、このような神輿は、昔は結構あったそうですけど、今はあんまり無いのだそうですね。これもすばらしい伝統の一つではないかと思っております。

■白田
 私も獅子踊りしてから四十年風祭りに参加しています。最初に屋台を出したのは私達で、その次が峯壇だったと思います。
 先ほど菊池先生がおっしゃったように、自分達でやるということが一番賑わいのもとになっていると思います。立小路は現代もの、田中は子供に向けたもの、高木は風神太鼓とお神楽、浦小路は獅子踊り、峯壇は時代もの、東は風神神輿と、各地区でやるのは素晴らしいことだと思います。
 西川町海味の愛宕神社氏子会の皆さんが、去年に引き続きタクシーで見にきてお祝いをいただきました。「こんな小さな集落で、なんでこんなに大きなお祭りできるのか」と感心していました。
 これからも各区でがんばって風神祭を続けてもらいたいと思います。

■長岡
 お集りいただいたフロアの皆様方からも、風神祭のこれからについてご意見などをいただきたいです。

■遠藤貞悦さん(感想)
 栗木沢の遠藤です。詩の同人誌で阿部宗一郎さんが、祭りが例祭日ではなく日曜日に開催されることが多くなったことについて「現代のお祭りは神様に合わせずに人に合わせている」と書いていらっしゃいました。大谷は二百十日の前日の祭りということもあるが八月三十一日を守っていらっしゃる。
 「籠に乗る人、担ぐ人、そのまたわらじを作る人」という言葉がありますが、本日はそれぞれの立場で努力なさっている皆さんの話を聞き、お祭りはみんなで盛り上げるものなんだなと大変感動しました。みんなで努力して脈々と続けていく。そのことに尽きるのだなと思います。大変勉強になりました。ありがとうございました。

■白田慎一さん(質問)
 盛り砂の件ですが、小さな頃に「その砂にお前だ上がって悪いなだ。御神輿様がはじめに歩くなだ」と言われた覚えがあります。汚れた道を、塩の代わりに山の新しい砂を持ってきて清めておいて、自分のうちのところまで来てもらうとのことでした。
 それと遠藤さんから話のあった風神祭の期日の件ですが、やはり私が連合区長していた時に、その問題が出たことがあります。若い人たちから、おらだも出られるように、前後の日曜日とか土曜日に変更したらどうだと、喧々諤々そうとう問題になりました。けれども、二百十日にしなければ、風の神様の本当のお祭りにならねんねがとのことになりました。

■菊地
 この大谷の風神祭の特徴的なことは、やっぱり手作りの祭りだろうと思います。地元の人たちが自ら手間隙をかけて、作業の忙しい合間を縫ったり、お仕事の疲れた体に鞭打って公民館に集まって、一生懸命練習あるいは準備をする。そういうことを通して、地域の方々がみんな仲良く楽しくという、大事な原点を忘れずに続けてらっしゃる。今、祭りはインスタント的で、簡略化・省略化して済まそうという傾向が非常に強いのは残念なことです。開催日を土日に変更するというのもその一つかもしれない。でも、それでうまくいってるかというと、そうでないのがたくさんあります。要は、そこに住む方々が祭りというものを、いかに暮らしの中で身近に感じて、人との繋がり・絆をつくるのがきっかけだっていう意識を持っていただくかだと思うのです。そういうことが大谷ではうまくいっているということで大変感動しました。
 それから最後にもう一つ、先ほど六十代でも獅子踊りはこれからというような力強い白田さんのお言葉を聞きました。今日ここにお集まりになっている皆さんは、簡単に祭り・芸能行事から引退しないで下さいね。もう六十、七十代隠居、現役引退だとか言っている時代はもう前の時代です。あと十年、二十年と現役意識でこの祭りをひっぱっていただきたい。私も六十四歳です。私もがんばりたいなと思います。「五十、六十代は鼻たれ小僧、七十代から働き盛り」というような言葉をうたい文句に、七十、八十代の方々はそのくらいの気持ちでやっていただきたいです。今日はほんとにありがとうございました。

■白井
 本日は大変長時間にわたりご参加いただきましてありがとうございました。今、先生から引退しないでくださいってお話がありましたが、たしかに大谷の風神祭は、体が不調な方以外はあらゆる方が参加しています。行列には出なくとも、各区の公民館に設けた本部で、接待係をするなど、いろんな形で参加していただいております。末永くお元気でそういうふうにがんばっていただきたいと思います。
 それから、やっぱり今のお祭りっていうのは人に合わせているんだと思います。豊島宮司さんも資料でおっしゃっていますが、現在、例大祭は七月の十七日に一番近い日曜日にしていますが、これも人に合わせてしているから流行らないのです。私は氏子会のみなさんに、どうせこんなに流行らないなら七月十七日に戻したらいいんねがと提案しています。
 風神祭の日程についても、先日の反省会で一人の方から私に話しがありました。「来年はまた日曜日にあたるので問題ないにしても、いずれそういうようなこと考えないんでしょうか」と。私は考えませんと申し上げました。というのはお勤めの方々が大分おられるわけですが、確かに後片付けとか準備とか当日の行事とかってなると前後併せてひまだれしなければならないことは分かります。でも、どうかお勤めの方は正月明けて年始のご挨拶を社長からいただくときに、各上司に「私のところ八月三十一日にお祭りなので是非、年次有給休暇をお願いします」と言っておけば駄目だっていう会社はないです。それを三日前位に言うから駄目だって言われるのです。
 どうかひとつ二百十日の縁起というふうなことを考えていただいて、そのようにしていただければとお願いしたところです。今後ともみなさんひとつよろしくお願い申し上げます。本日は大変ありがとうございました。

■白井 淑浩さん
(大谷風まつり実行委員会委員長)
昭和17年(1942)東京都生まれ。疎開により父方の大谷に移り住む。平成16年朝日町助役退職。平成19年より大谷連合区長。大谷風神祭シンポジウム実行委員長

■堀 敬太郎さん
(風和会会長)
昭和3年(1928)大谷生まれ。平成元年より、郷土史セミナー(町立北部公民館事業)世話人代表。平成8年、大谷郷土史学習会「風和会」設立。同会長を務める。

■白田 敏男さん
(大谷獅子踊り保存会副会長)
昭和22年(1947)大谷生まれ。昭和47年大谷浦小路の若者有志らと大谷獅子踊り保存会を発足。獅子踊りは昭和57年に朝日町無形文化財指定、平成3年には山形県無形民俗文化財に指定される。白田電気工事店代表。

■菊地 和博さん
(東北文教大学短期大学部総合文化学科長)
昭和24年(1949)生まれ。法政大学文学部哲学科卒業。文学博士。 県立高校教員、県立博物館学芸員などを経て現職。 専門分野は民俗学・民俗芸能論。

■長岡 信悦
(NPO法人朝日町エコミュージアム協会理事長)
昭和25年(1950)常盤生まれ。昭和47年山形大学教育学部卒。その後、山形県公立学校教員として西村山管内の小中学校に勤務し、平成22年宮宿小学校長で退職。現在は朝日町町史編さん専門員・文化財保護委員。

(大谷風神祭シンポジウム 平成25年(2013)9月29日 峯壇公民館)


大谷風神祭
小径第15集『大谷風神祭』


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