朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

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『西五百川小学校百年のあゆみ』によれば、中国の魏の古書『魏略書』の「日餘夜 時餘雨也 而年餘冬也(日の余りは夜にして、時の余りは雨なり。そして年の余りは冬なり)」にあるといわれています。この三つの余りは農作業もできないことから、過ごし方によっては、どのようにも過ごせるものです。しかし、若者たるものは、夜と雨と冬こそ活用し修養に精進せよ、との教訓ととらえることができます。私なりに解釈すれば、「働くこと、生きること、生活すること」の本業を大切にし、その余りを自分なりに工夫し時間を見つけて、有効に勉強に結び付けようということだと思います。
お話 : 石島庸男さん(山形大学教授)
※平成10年 旧三中分校シンポジウムにて


 三中分校は、明治八年に八ツ沼村若宮寺に八ツ沼学校として設立されたことから始まります。同年、八ツ沼村、能中村、西船渡村の合併により三中村となり、翌年には三中学校と改称しました。その後、児童数が増えたことからでしょうか、明治十五年三月に現在の校舎である三中学校の新築工事がはじまり、同年十一月には、和洋風三層の新校舎が落成。校名もシンポジウムのタイトルである「三餘学校」と改めています。おそらく山形県内においてこの三中分校は、擬洋風(和風造りでありながら洋風造りを装った建物)の建物では一番古いかもしれません。
お話 : 石島庸男さん(山形大学教授)
(平成10年 旧三中分校シンポジウムにて)


 旧西五百川小学校三中分校は、明治十五年に建てられたものであり、非常に古い校舎です。
 全国的に見て、学校としてはもちろんのこと、明治初期の時代に建設された三階建ての建物で現在まで残っているものでは、大変珍しいものとなりました。山形県内でも同時代の三階建ての建物は、おそらく三中分校しか現存していないと思われます。
 創建当初の姿については、設計図などがないために詳しいことは分かりませんが、現状から見えるこん跡や申請図として提出された『三中村学校新築建図』(図2参照)を参考にすると、二階の窓は現在よりずっと少なく、縦長の細い窓が相互に離れて配置されていた可能性があります。部屋の間取りや外観についても、時代とともに改修を重ねたようです。
 現在の建物の概要(図1参照)を説明すると、木造三階建てで、総二階建ての建物の上に、面積を縮小した三階が載った形となります。基礎は自然石を切り出したものに直接柱が建つ石場建てです。窓の開口部は片引きや引き分け障子戸を用いています。壁の部分は和風の土蔵造りで、壁に空けられた丸窓が大きな特徴となっています。
 本来丸窓は、西欧のレンガや石を積み重ねる組積造りでできるもので、当時の日本にその技術はありませんでした。三中分校の丸窓は、土蔵造りの白壁に丸い型枠をはめ込む「擬洋風的建築手法」で造ることにより、洋風に見せる努力をしたと考えられます。このようなことから、創建に際しては、まったく西欧指向がなかったとはいえないと思います。
 要するに三中分校は、明治初期の時代において、和風様式を基にした、堂々たる白亜(白壁)の三階建ての建物で、学校建築としては、非常にざん新でユニークな存在であります。大工の棟梁の名も明らかであり、在来の伝統的技法に従いつつも、意欲的な西欧建築への指向も見える、地元大工棟梁の苦心の作といえます。
 一部に改修の跡も見えますが、保存状態は良好です。明治初期の地方における学校として、また当時の新しい建築に対処した地元棟梁の技量の知られる作例として貴重であり、建築史上、文化財的価値は高いものと考えます。現在、破損が進んでいる所もあることから、今後の利用方法も考え、その保存修復には、十分の考慮を期待しています。

講演 東北大学名誉教授 佐藤 巧 氏
(旧三中分校シンポジウム基調講演(平成10年)より)