朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

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『朝日町史編集資料第六号 今井治郎三郎家文書(上)』『朝日町の歴史』(朝日町教育委員会刊)によると、初代今井左衛門兼満は鳥屋ヶ森城主の岸美作守義光の家老を先祖とし、代々新宿村の肝煎名主・大庄屋として精働し、天保年間(1830〜)以降には在方荷主(買次問屋)として青苧集荷商や土地の集積に着手したとあります。
 特に14代今井治郎三郎は、地元新宿で生糸製造会社を設立するのみならず、横浜を拠点に蚕糸貿易の大事業を行い、史編集資料には「膨大な財力を利用して諸種の事業に関与し、その明敏な頭脳と非凡な才腕をふるい、努力奮闘し、蓄財益々加えた」と紹介されています。また、奥羽鉄道の誘致や、電気事業、通信事業の促進など、郷土の振興にも大いに尽力しました。明治時代後半に生糸が暴落するまでは、今井家がもっとも隆盛を誇った時代といえます。
 14代今井治郎三郎の活躍ぶりを年表にしてみました。

安政 4年(1857)11月生まれ。幼名政吉。
明治 3年(1870)父嘉兵衛の死により、13歳で家督をつぐ。
明治 10年(1877)(株)良進社を新宿に興し、10ヵ年以上にわたり生糸の機械製造を行う。
明治25年(1892)横浜市弁天通で蚕糸貿易商となる。人望高く横浜取引所仲買委員長を七回、横浜商業会議所議員も勤め副会頭にもなる。宮宿まで電信を架設するため、西村山郡会議員や県議会議員の地位を活用して促進にあたる。明治31年(1898)山形電気株式会社設立に尽力、重役となる。またこの頃に奥羽本線鉄道の誘致に奔走。板谷峠トンネル工事に際しては、自ら煉瓦工場を設置し資材を供給する。        
明治42年(1909)今井五郎八に協力して「今井商業銀行」の創立に出資、および運営指導にあたり、地方金融に多大の貢献をする。
大正元年(1928) 生糸の暴落により、横浜取引所を整理し新宿に戻る
大正2年(1913)山形電気会社で白岩町の白岩発電所、西五百川村の旭発電所を建設する。
大正8年(1919)川土居村の吉川発電所を建設する。
  
 その後も今井家は、15代は東五百川村長、16代は宮宿町長を勤めるなど、引き続き地方自治に功績を残された家柄で、ご子息は昭和40年代に資産を整理し新宿をはなれ東京都内に生活されています。

※写真は大正初期の今井治郎三郎家の正門(今井孝一郎氏所蔵)



 この木造薬師如来立像は、像高が100センチメートル。材質構造は、桂材・一木割矧ぎ造りで、彫眼・漆箔仕上げである。頭・体の根幹部は、通して両耳の後ろを通る線で前後に割矧ぎ、三道下で頭部を割離す。これに左右の体側部各一材を両肩部で矧ぎつけ、袖を含め体幹部と共木で彫出す。両手首から先、両足先は、後補檜材で矧ぎつけている。襟際以下の背面材や、両耳朶も後世に補修したもので、漆箔も後補である。
 形状は、頭部が螺髪切子型で彫出し、肉髻は珠、白ごうは相を表わさない。納衣は両肩を覆い、左腕は垂下し、掌(たなごころ)を上にして薬つぼを持ち、右腕は屈臀(くっぴ)、掌を前にして立て五指を開き、やや左足先を外に開いて直立した形をとる。肩幅が広く堂々とした正面観をあらわし、衣文も流れるように美しいこの像は、願容がきわめて都ぶりのすぐれた藤原様式の典型的な表情である。
 製作年代は十二世紀の比較的早い時期(藤原時代後期)と推定され、作者は地方の優れた仏師で、平安時代中期の京都の有名な仏師・定朝(〜1057)以後の影響をその表情に受けついでいる。
 薬師如来を祀っている東善(漸)院瑠璃堂は、羽黒山修験の末寺で、豊龍神社を祀る、もと東守寺の配下寺であることが、この御堂に保存されている棟札にて知ることができる。棟札には、宝永五年(1708)四月、造立主は不動院・東善院とあり、供養導師は東守寺永学と記されている。
 史実としては疑わしいが、この薬師如来は天智天皇の時代(662〜71)異国の仏師父子が都の誓願寺の本尊阿弥陀如来を造立した際、その余材を持って医王仏(薬師如来)の尊像を作って、東善院に納めたと『宗古録』に書かれている。
 しかし何よりも雄弁に朝日町の藤原文化を物語ってくれるのは、藤原時代に地方仏師の手による薬師如来立像が存在することである。

昭和五十年 朝日町指定有形文化財 
平成三年  京都・財団法人美術院にて修理
平成五年  山形県指定有形文化財

ここに述べた事項は、群馬県立女子大学の麻木脩平氏の調書と財団法人美術院の解説書、並びに『朝日町の歴史』より紹介してみた。