朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

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エリア地区 / 大沼、大暮山

・大型バスは八ッ沼〜大沼線をご利用下さい。大谷からは通れません。

(お願い)
 このサイトは、朝日町エコミュージアムがこれまで培ってきたデータを紹介することにより、郷土学習や観光により深く活用されることを目的に運営いたしております。
 よって、サイト内で紹介しているほとんどの見学地は、観光地として整備している場所ではありません。夏は草が茂り道がなくなる場所もあるかも知れません。もちろん冬は雪に閉ざされます。また、個人所有の神社や建物等も一部含まれております。アクセスマップも細道までは表示されません。
 予め御了承の上、見学の際は下記についてご留意下さるようお願い申し上げます。

・安全に留意し危険な場所には近づかないで下さい。
・マナーを守り、無断で個人敷地内に入らないで下さい。
・不明な場所につきましては、エコミュージアムルームへお問い合わせ下さい。または、エコミュージアムガイドをご利用下さい。
Tel0237-67-2128(月曜休)


 大沼の発見は今を去ること約1300年前の白鳳9年(680)の昔にさかのぼります。大和国(奈良県)の修験者役の証覚(小角)が、その弟子覚道をともない、朝日岳を目指し修行の途中、大沼に着きました、島々が浮遊する神秘的な影に感動した役の証覚が、湖畔に浮島稲荷神社をまつり、弟子覚道に託したとされます。祭神は「宇迦之御魂命」「天熊之大人神」。例祭は5月5日。五百川三十三観音第12番札所
※『大谷郷』より抜粋

浮嶋稲荷神社由緒

浮嶋稲荷神社及び別当大行院略年表

小林富蔵さんのお話
神社のお祭り
白田隆さんのお話
浮島稲荷神社のこと
最上俊一郎さんのお話
浮島雅楽保存会のこと

五百川三十三観音縁起
五百川三十三観音霊場一覧
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 拝殿前の二基の石灯籠は、元和7年(1621)最上義光の孫にあたる13代山形城主最上義俊(家信)が進納したものです。幢身(竿)には、最上一族のお家騒動のなかで、最上家の武運長久を祈願し、この難局をきり開くために知見を求めている17歳の幼主の心境がきざまれています。一基は熊野権現に寄進されたもので、明治初期浮島稲荷神社に合祀された折に移されました。朝日町指定有形文化財。

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 大沼は、標高310mの山あいの地にあり、南北約70mの小さな湖沼で、狐の形をしているといわれています。湖畔にある浮島稲荷神社の神池とされ、湖岸の老い松と四面の深緑が調和する神秘的な沼として千年余の間保存鑑賞されてきました。しかし、戦後周辺の自然環境が大きく変化したため六十余りあった浮島が十数個に減少しました。昭和62年(1987)大沼地区民が主体となって「浮島を守る会」が組織されました。
※『大谷郷』より抜粋

小林富蔵さんのお話
沼の不思議
神聖な場所「大沼」
子供の頃の大沼
島出し
白田 隆さんのお話
『浮島物語』
大沼の水
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 浮島は風の向きなどに一切関係なく、静かに、あるときは走るように動き、すれ違ったり、一列に並んだり自由自在に遊泳する。大正14年に国の史跡名勝地に指定された。「…大小種々の島形の団塊となり、水面に遊し浮島をなせり。島形五、六十に達す。この島は風なくして除々種々の方向に運動し…奇観極まりなし。…全国浮島中最も著名なるものなり。」(指定理由書より抜粋)
※『大谷郷』より抜粋

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 大沼には多くの文人が訪れている。古くは長徳元年(995)に藤原実方が二首の歌を残し、橘南谿(1754〜1805)は『東遊記』に紹介し全国に知られることとなった。湖畔の芭蕉句碑は享保から天明年間(1716〜88)に地方俳人として活躍し中央にも名の聞こえた鸞窓(大沼大行院43代)が建立したもの。またすぐ近くには、訪ねた記念に建てた大正14年(1925)の花の本聴秋の石碑や昭和10年(1935)の福田古道人の句碑もある。
※『大谷郷』より抜粋

最上敬一郎さんのお話
芭蕉塚
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 文化3年(1806)の浮島絵図面には、「七夕の夜、牽牛星と織女星が年に一度の逢瀬をかささぎが翼をならべて天の川を渡したという故事によって名づけられた。神秘的で霊験あらたかな浮島にふさわしいところからこの名がある。また、相愛の男女がこの橋を渡ると縁が結ばれると伝えられている」とあるそうです。昭和55年(1980)に閼伽沼と共に復元されました。
※鵲橋説明板より

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 別当大行院は役の証覚の弟子覚道の直系であり、現当主の最上氏は54代目を数えます。浮島稲荷神社は、源家、徳川家、大江家、最上家など時の権力者の尊崇厚く祈願所として加護を受けてきたことから、多くの貴重な文書が所蔵されています。
※『大谷郷』より抜粋
※無断見学不可
最上敬一郎さんのお話
緋網代の駕篭
弁慶の笈
ウワバミのミイラ
大沼絵図

浮嶋稲荷神社及び別当大行院略年表

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「雨願い地蔵」と呼ばれ、地区の皆さんに親しまれてきたお地蔵様は、白田隆さんの自宅でお祀りしています。雨を願う時は、このお地蔵様を大沼に浮かべて祈願したのだそうです。
 ※見学はできません。

白田隆さんのお話
雨願い地蔵様

 大暮山地区を一望できる小高い丘に八幡神社が建っています。本殿屋根葺き替えのおり、発見された棟札には「文政□□年、棟梁□□」と書かれており、少なくとも文政年間には建立されていたことが分かります。
 ご神体は桧の一本造りで、素朴にして雄大な作品です。高さ40センチメートル。臥獣に乗った応神天皇の立像で江戸中期の作と推定されています。
 4月15日の例祭は村を挙げて盛大に行われます。
※『大谷郷』より抜粋

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 元禄4〜5年(1691〜2)頃の大火により、十数戸の村とともにことごとく焼失しました。この時萬福寺のご本尊地蔵菩薩だけはぜひ助けなければならないと、村人は猛火をくぐりぬけなんとか運び出しました。しかし、ご本尊はひどい火傷にあい、それ以来お厨子の奥深く安置され秘仏となっています。境内には、経文を納めた宝篋印塔やあきごぜの墓があります。
五百川三十三観音第14番札所(聖観世音)朝日町大暮山46-1
※『大谷郷』より抜粋
五百川三十三観音縁起
五百川三十三観音霊場一覧
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 大暮山萬福寺の境内には「あきごぜ」の墓が建てられています。 
 萬福寺の中興第二世和田宥啓住職の資料によると、天保12年(1841)は天候不順で水稲不作、蚕腐れの年でした。
 越後からやってきた瞽女(三味線をひいて歌いながら門付けする盲目の女性)たちは、四、五人で組をつくり、目が見えないので、前の人の腰からのばした手ぬぐいを後ろの者が握り、大きな荷物を背負いながら、暗くなった大暮山の山道を歩いていました。ところが連日の大雨で土砂崩れにあい、最後尾を歩いていた「あきごぜ」だけが生き埋めになってしまったのです。村人たちは、あまりにもかわいそうに思い、みんなで和尚に頼み葬式をあげたと伝えられています。
※『大谷郷』より抜粋

 昭和57年(1982)、大暮山地区で途絶えていた大黒舞が一人の若者により復活しました。同地区の長岡清一郎さんが、宴会の演し物のために同僚から清助新田大黒舞(寒河江市)を教わったのが始まりです。それ以来、結婚式や歳祝い、開店祝いなど、様々なお祝い事でお願いされるようになりました。

長岡清一郎さんのお話
大黒舞との出会い
演出と衣装
大暮山の大黒舞のこと
※大黒舞をご用命の際はエコルームへお問い合わせ下さい。

 

 樹齢約1,100年、根周14.7m、胸高直径3.38m、約3mの上部で多くの枝を分かち、枝は四方に張り出して垂れ下がり、西側の一枝は地に接して着根し、すでに親木と離れて独立している。
 主幹は約10mの上部で四幹に別れ直上し、高さおよそ26mにおよび、樹冠は円錐形をなして一樹で森を形づくっている。
 日本海側に自生する杉の一種で、山形県下の杉では第1位の巨樹とされている。
 昭和28年8月31日山形県指定天然記念物となる。
※大江町教育委員会

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※旧大暮山分校跡より細道を10分。道が狭く軽トラックが望ましい。