朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

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 東永寺は、開創時には鳥屋が森城のあった館山の中腹にあった。元々檀家の持たない祈願寺だった。それに対して同じ館山の左側にあった福昌寺は檀徒寺だった。
 本尊の延命地蔵菩薩様は乳地蔵とも呼ばれている。乳が出なくて困っている人はここで祈願した。乳が出たら、乳の形にしたものを布で作って奉納した。本尊は秘仏になっているから見られない。前に立っている地蔵様は、前仏といって本尊を守っている。左右には観音様。右側には五人だけの位牌壇がある。
 東永寺の寺子屋の歴史はとても古く、裕福な子供だけでなく区別なしに使用人の子供なども学ぶことができたそうだ。だから100人をこえる大人数だったと言われている。ここにある「児翫」の石碑はその証拠のようなものだな。

(お話 : 熊谷與志雄さん 取材 : 平成17年11月)


 これは昔からの建物で、新宿の自慢の一つ。めずらしいということで、たまに写真撮りに来る人もいる。そんなに古くはないな。恐らく明治位だと推測している。古文書がないからはっきり分からない。トタン葺きにする前は木場葺きだった。
 下はポンプ庫で、上は火の見やぐらになっている。火事が起こるとすぐに登って「どの辺だろうか」と眺めたんだろうな。半鐘は少し離れた別の所にもあって、そこに番小屋もあつた。だから、あっちに行ったりこっちに行ったりしていた時代があった。そこでも火の晩をしたり、水かけの控え場になっていた。 
 それから火の用心をした。錫杖(しゃくじょう)を引きずって歩くと、砂利道だからジャラジャラ音がして、みんな「消防が来た。火の用心さんなね」と分かるわけだ。柏木を打つようになったのは新しいな。子供の火の用心なんかも戦後少したってからやり始めた。その前までが錫杖引きずってたんだ。夜警は戦争中くらいまで毎日していた。
 上は畳敷きで仮眠もできる。小さいころ登ってみんな落書きなんかして遊んだんだ。今も残っている。私のはないな。(笑)

(話 : 熊谷與志雄さん 取材 : 平成17年11月)


 江戸時代は、村のことを「郷村」と呼んでいた。その郷を使って「郷倉」と呼ぶようになった。ここには、冷害や干ばつなどの不作時に備えて部落で米を蓄えておいた。郷倉は江戸時代から昭和まで続いてきた歴史がある。「恩賜郷蔵」と看板があるのは、昭和のはじめに天皇陛下から予算をもらって建てたから。現在は収納庫にして使っているが、ちょっと前は子供の卓球場にしていたこともあったな。
(お話 : 熊谷與志雄さん 取材 : 平成17年11月)


 新宿の古い家がどれも大きいのは、屋根裏が養蚕の蚕室として使っていたからだ。今ではめずらしい建物になるのかな。私らは珍しいとは感じないな。
 ここは高田さぜんじさんという名主をつとめた方の家で、蚕の「種屋」で方々に知られていた。現在は今井左官屋さんが住んでいる。総二階の上に梁の上があるから三階分ある。もともとは茅葺き屋根だった。昔は屋根葺き屋さんがいた。時代が下がってくると萱が買えなくなって茅葺きはなくなってきたんだ。萱を買うとすれば仙台のほうから持ってくるとかしなければならなかった。屋根葺き屋さんも少なくなった。 
(お話 : 熊谷與志雄さん 取材 : 平成17年11月6日)


 「不動院」は、俺だは「法印様」と言ってた。山伏だったんだ。その不動院というところが、ずうっと昔から薬師様の別当だったらしい。名字は大江というんだけど、子孫は山形で暮らしているらしい。
 成原家に移管される前に、何年間かは「薬師講」で管理し、お祀りしていた時期があるんだな。でも、いわゆる信者の集まりなので、なかなか管理することがままならない。それで成原家で引き受けることになったんだ。今は、薬師講はなくなったようだな。成原家でも一生懸命してくれたんだけれども、現在は新宿区全体でお祀りするようになった。
 ただ、まったく新宿区と関係がなかったというんでなく、昔から一戸二十把ずつの萱を供出して薬師堂の屋根の改修や補習を行ってきたし、明治とか大正の板札を見ると、屋根改修とかで寄付してきたことがわかる。お金を出せなかった人は「人足」といった労力奉仕で出した人もいるんだな。
 まあ、区の管理になってから、昭和三十年代なかばには、萱が集められなくなってきて、今のトタン屋根に直したんだな。今頃になって、役場の人からは「もったいないことした。お堂も県指定文化財になったのに」と言われるけど、仕方ないんだな。だから、昔から半分は区のものとして大切にしてきた薬師様なんだ。
 掃除は、各組一年間の当番で、折を見てしている。冬になると、当番で正月と八日の道踏み、そして雪下ろしをしている。
 昔は、自治会って言って今でいう子供会が日曜日や夏休みに掃除をしてた。大人のまねで自主的に行ったもんだ。ただ、掃除中にけんかしたり、お堂の鐘をへこまして、さんざんな格好にしたり、悪いこともしたけどな。お堂の脇の小山でお紫灯もしたな。ほだなことが小さい頃の一番の思い出だな。

(お話 : 熊谷與志雄さん、熊谷小三郎さん 取材 : 平成6年)




 「法印様〜ほういんさま〜」という家があって、そこの最後の当主が大江豊磨さんという人だった。その人の親戚という人が米沢にいて、お盆あたりにお参りに来ている。大江さんがいつ頃転出したかは、はっきりしないんだけども、大正末あたりではないかっていう話だ。山伏みたいな修験者で祈祷とかしていたらしい。
 豊磨さんたちが転出した後も、昔からあった薬師講で、お祀りやなにかをした。薬師講の箱があって、その中に薬師講のことを書いた綴りが残っているんだ。書いてあることは全部目を通したことはないけれども、薬師講には十二軒の名前があった。今は、新宿に六軒ぐらい残っている。昭和十二〜三年頃ぐらいが最後らしく、その後は戦争やらなにやらで、詳しいことは記されていない。その他には、幟(のぼり)とほら貝、数珠、杖、『妙法連華経』という八巻が入っている。
 薬師講の人たちで引き継いで、十二月八日には、今でいう「契約」みたいな飲み会もやって一年の会計をしめていたようだ。家では一番近くだから、何やっても「先立ち」みたいな形で、してたようだね。私がおばあちゃんから引き継いでいることは、お祭りの時に、真鍮でできた三つの器に“ふかし”をもって、お薬師様に、もう一つは湯殿山のところに上げることかな。
 お祭りの他には、昼休みの時間を利用して「お千度参り」を、四月に三日間している。参道のまん中に水を入れた桶を置いて、椿の葉で額を清めてお参りするんだ。重箱に豆を五百粒数えて持って行く。区の人がみんな来るけど、たいてい女子衆がくるな。その中で年長の人が、お堂の中で豆の数を数えてお参りするんだ。
 お薬師様は、健康を守る神様ということもあるし、薬師講があったから、こうして残ったと思うんだ。これからも、みんなで守っていがんないと思っているんだ。
(お話 : 成原 浩さん 取材 : 平成6年)

 薬師講の家々で当番して、お薬師様の「おどすこす(お年越し)」って12月だが11月の八日にかんなねがったな。本家のばあちゃんが、まだ嫁っこの時、手伝い行った覚えあんなよ。八日に「御八日-おようが-」だから、お参り行ってきたっていう人が今でもいるな。お祭りは旧の4月8日だっけな、それが新歴の5月8日になって、今度は日曜日になった。
(お話 : 小関 絹さん 平成6年取材)
薬師堂 瑠璃殿


 五月に行われるお祭りは、「お薬師様のまつり」とか「薬師まつり」とか言ってるな。
 昔は、五月八日と決まっていたんだが、今は、五月の第二日曜日にするようになった。世の中、勤め人が多くなって忙しい時代だから、準備する人もお参りする人も日曜日でないと来られないということで、若い人から要望出たことなんだ。年寄りは「お祭りは動かすもんでない」ということで反対だったんだけど、お祭りは賑やかにすねどダメだということで、何年か議論して平成元年から五月の第二日曜日になった。今は、花火も寄付してもらって上げているし、区民あげての行事になっている。
 区の各組ごとに当番制でしているんだ。五班まであるから五年に一回は当番が回ってくる。どういうふうなお祭りにするかは、それぞれの当番によって工夫があるな。カラオケしたり売店出したり。なるべく区あげてにぎやかにしたいと思っているんだ。
 まず、準備だけれど、今年は五月三日にお堂の周囲の草刈りや掃除、堰上げをする。当日はのぼりを立て、お堂のまわりに幕を張り、門灯などをつけて飾り付けをする。幕は紫色で新宿の文字を染め抜いたものだし、門灯も新宿の文字をデザインしたものなんだ。
 当番はお参りに来た人に御馳走するために、煮しめ料理を重箱につめて持ち寄るんだ。赤飯は、全戸からもち米二合ずつ提供してもらって御馳走している。お酒もふるまって賑やかなお祭りだな。当番の組の婦人会では、だんごやこんにゃく、焼そばなんかの売店を出すんだ。ただ、焼そばは肉を焼くので、山門の下のところでしたな。昔は不動院が山伏だったから、お祭りのときは、ほら貝を吹いたりした覚えがあるな。
 お参りに来る人は、区民は老若男女ほとんど参加する。そのほかは隣の大町区の人が多いな。昔から新宿区と関係があったからな。それから、山形や東京からも来る。近郷近在からお祭りに来てもらって300人ぐらいになるかな。普段でも、特に新聞に薬師様のことが載ってから遠くからもお参りくるようになった。薬師様は健康を願う仏様だから病平癒をお祈りしていく人が多いな。助からねという人が助かったりしている御利益のある、ありがたい仏様なんだな。
(お話 : 熊谷與志雄さん、熊谷小三郎さん 取材 : 平成6年)

 ここら辺の地名を薬師堂って言うなよ。お祭りの時は、薬師堂の人と薬師講の人が別当すんなだっけ。お参りはみんな来たな。
(お話 : 小関 絹さん 取材 : 平成6年)




 「不動院」は、俺だは「法印様」と言ってた。山伏だったんだ。その不動院というところが、ずうっと昔から薬師様の別当だったらしい。名字は大江というんだけど、子孫は山形で暮らしているらしい。
(お話 : 熊谷與志雄さん 熊谷小三郎さん 取材 : 平成6年)

 薬師様は、昔は村のものでなかったなよ。ちょうど私の家の上手に「ほういんさまー」ってあって、その人のものだったらしいな。大江豊麿ったていう人だったけど、私が小さい頃は居たんだ。転出後も家はあって他の人が借りていたな。
(お話 : 小関 絹さん 取材 : 平成6年) 


 法印様(不動院)の家をほごす(解体)頃まで、奥の使っていない部屋に「十二天様」があった。手もげたり、足もげたりしていたんだ。ほごす時に上のお堂に持っていったなだと思うなよ。
(お話 : 小関 絹さん 取材 : 平成6年)

 薬師如来修復実行委員会の副委員長をさせていただいた。お蔭で、京都の国立美術館まで修復の様子を見せてもらいに行ったんだ。国立美術館では、普通は国宝級のものしか扱ってもらえないところ山形大学の先生のお力添えで特別に修復してもらったなよ。
 お薬師様は、足もぼろぼろで立ってられなかったなだ。このままでは、身体の方もだめになってしまうということで、修復してもらったなったな。修復の様子などは、普通見せてもらえないんだけど、これも特別に見せてもらたんだ。
 国立美術館の修復する所では、仁王様がゆうに入るすばらしい大きい消毒室で、真空状態にしてガスを入れ燻蒸するんだ。そして薬剤で丁寧に丁寧に解体して、神経を使って気の遠くなる作業だっけ。
 残念だったのは、身体の中になにも書いていなかったことだね。仕方ないから作り方とかから、いつ頃のものか推定してもらうしかなかったなね。私は思いがけず、いい思いさせてもらったなよ。
 立派といえば、ここの参道も「造った人の技量がはかられる」と、よくほめられんなだ。この長い参道は、木の根でちょっと壊れたり、木を切った時壊した所を修理したくらいで直したことがないなよ。お参りすっときは、ここら辺も見てけろな。
(お話:熊谷武四さん 取材 : 平成6年)