朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

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 じいさんが青苧を栽培して製品化して出荷していた。いつも胸元にカスがいっぱい付いていたのを覚えているな。
 青苧は水にも強く丈夫だったので、一般家庭では主にひもや綱として使っていた。貴重なものだったから、使っていたのは売り物にならない色の悪い物や、はいで残った表皮を利用していた。
 私の家では、馬の手綱(馬のくつわに付けて引く綱)として使っていた。藁では馬の力ですぐ切れてしまうから、青苧でないとだめだった。一本を二間から3間くらいになって使っていた。御神楽の天狗のひげにも使っていたな。青苧は白くて先のほうが細くなっているから、櫛でかっつぐと、いい感じになったんだ。それから、水道工事をしている地元の鍛冶屋さんがよく貰いに来た。水道から水が漏れないように、ネジに巻いて締めてパッキン代わりに使っていたんだ。
お話 : 志藤富男さん(大谷)

 綿代わりとしても使っていたな。皮をはいで残った表皮(一番上の皮)を水に浸し
ながら叩いて伸ばし、拡げたものを乾燥させ綿の代用品として布団などに利用していた。昔、兵士として出征する時には日の丸の旗を立てたが、その登り竿のひもも青苧で作っていたな。鯉のぼりにも使っていた。家には青苧でなったたこ糸も残っている。藁のように何さもかにさも使うと「ほだなさ使うな」とごしゃがれたものだった。
 この辺りでは、皮をとった茎の木の部分を�からむし�と呼んでいた。それは茅葺屋根の軒先の角のかたい部分に使っていた。家を壊したときに屋根の中からすこだま出てきた。お話 : 白田千代志さん(大谷)

 江戸時代から明治時代にかけて朝日町の代表的な一大産業だった青苧は、衣料の原料として何百両という取引が行われていた。年貢として納めていた家もあったほど珍重された物だったから、一般家庭では何にでも使えたという訳ではなかった。
 私たちが子どもの時代には、ごく一部の人しか作っていなかった。家でも作っていなかったから、青苧糸を束で買ってくるものだった。やはり一番はひもや綱として使っていた。下駄の鼻緒などにも使ったりしていた。今みたいにビニールひもなんてなかったから、一般家庭において青苧はなくてはならない貴重な生活必需品だった。
 それから、「からむし」を乾かしたものに硫黄を先に少しつけて、釜戸などに火をつける「点け木」としても使っていた。よく燃えるから、火種としてとても重宝していたんだ。
 農家による青苧生産は栽培から「日干苧」として出荷するまでで、青苧糸を使って布を織るということはなかった。
お話 : 堀敬太郎さん 取材 : 平成19年

志藤富雄さん、
白田千代志さん、
堀敬太郎さんのお話
青苧の栽培と製品化
和田新五郎さんのお話
和田新五郎さんの青苧
栽培から糸とりまでの作業
報告
青苧糸とり体験記

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア


 残念なことに雨があがらず、室内で糸とりにチャレンジしました。
 はじめに、講師でお招きした和田新五郎さんが出演されたVTR『和田新五郎さんの青苧』を見て予習し、その後実際に、作業の仕方を教わりながら体験を進めました。
 前日から用水路に浸しておいた青苧から、まずは葉っぱをとり、根元20センチ位を折り、使わない茎を取り出しました。手が茶色になることにみんな驚いていました。そして剥いだ皮を台において、スクレパーを使って茶色い表皮を取り除きました。しかし、これがなかなかうまくいきません。実は、糸をとるための台は本物を見よう見まねで作っておいたのですが、この材質が柔らかかったことが原因でした。本来は、硬くて薄い板を重ねて使っていたのだそうです。皮をはぎとるスクレパーとして準備したケーキ用のへらは好評でした。
 作業しながら、年輩の参加者の皆さんは、いろいろな思い出話をされていました。「季節になると学校休んで手伝わされた。青苧は見るのもいやな程手伝わされた」と苦笑してた方も。
 途中、志藤富雄さん(大谷六)が、おじいさんが作っていたという出荷用の青苧糸をお持ち下さりました。本物の柔らかさやきれいさに感心しました。
 天気が悪く仕上げの乾燥はできませんでしたが、和田さんからいただいていた糸を使って、実際に紡いでみたり、なってみたりして楽しみました。本当に糸の状態になるのが驚きでした。

協力 東北芸術工科大学博物館実習生
平成19年(2007)7月15日
場所 秋葉山交遊館ときめき体験館
講師 和田新五郎さん
参加者 32人

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア



 大谷裏小路の和田新五郎さんは、現在も「青苧」を栽培し、糸をとっています。
 古来からの衣料原料だった青苧の栽培は、江戸時代から明治時代にかけての朝日町の代表的な産業でした。
 和田さんの栽培している青苧は、昭和10年(1935)、15歳のときに祖父の元治さんと植えたものを残しておいたものだそうです。糸をとる「青苧はぎ」は、母ふみえさんの仕事で、収穫したものは馬具用の縄をなったりするのに使っていたそうです。
 八月、刈り取りや青苧はぎを見せていただきました。和田さんは背丈ほども伸びた枝を一本一本刈り取ると、手のひらで茎をぎゅっと掴み、手前に引き、葉っぱを見事に扱き落としました。私も真似をしてみましたが、柔らかな手のひらではとても痛くてできませんでした。また、糸をとるために、一晩水に浸けた茎に鉄製のへらを押しあてて引っ張り、青い表皮をはぎとる作業は弱くするととれず、強すぎると糸が切れそうになったりしました。大変でしたが楽しく体験させていただきました。
 手のひらに付いた茶色い染みは四、五日消えませんでしたが、昔の青苧職人と同じと思うとうれしくなりました。
 報告 宮森友香(エコミュージアムルーム職員 2004)

和田新五郎さんのお話
栽培から糸とりまでの作業
DVD『和田新五郎さんの青苧』

志藤富雄さん、白田千代志さん、堀敬太郎さんのお話
青苧の栽培と製品化
青苧の使われ方
報告
青苧糸とり体験記

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五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア


1.霜の季節が過ぎた頃、まばらに伸びた新芽を背丈が揃うようにいったん全て刈る。
2.お盆頃に、根元から刈り取り、葉を取り除く。
3.束にして、水に一晩浸けておく。
4.茎を折り木質の芯を取り除き、皮だけをはぎ取る。
5.専用の板に載せ、鉄製のへらを使って緑色の表皮を取り除き、糸を取り出す。
6.一束ずつ天日に軽く干す。

お話 : 和田新五郎さん(大谷)
取材 : 平成16年(2004)

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五百川峡谷の自然の素晴らしさ
                    お話 姉崎一馬氏(自然写真家)

 五百川峡谷は、何度かボートで下っているが、とにかく素晴らしい自然が残っている。他の所と違って川岸が切り立った崖なので、人の手が入ってない(入れない)から、自然の迫力や豊かさ、景観の素晴らしさを見ることができる。この魅力は、道路から見下ろしても分からない。実際に川を下りながら見ると、川の持っているパワー、大自然のエネルギーを感じる。「こんなにも違うのか?」と思ってしまう。感動の大きさは数百倍違う。
 川岸は変化の大きい自然といえる。崖が崩れたりする不安定な場所は、パイオニア的な植物が多い。ケヤキ類をはじめとして水に強い樹木が多く、大木もけっこうある。切り立った川岸では、太くなりすぎると支えられなくなってしまうので巨木とまではいかないが、それでも太い木はいっぱいある。
 なにより人が入れないので、生き物たちのサンクチュアリ(逃げ場)となっていて、とても貴重な場所といえる。
 以前、仲間と静かに五百川峡谷を下った時には、アオサギやゴイサギ、ヤマセミなどがたくさんいた。特にゴイサギは、四畳半ほどの柳の茂みから100羽以上も出てきて驚かされた。ヤマセミは、数十メートルに一羽は出てきた。この鳥は奥山に行かないとなかなか見られないから、一般的に憧れの鳥となっている。町の中でこんなに見られるのはとても珍しいこと。鳥を観察する人たちにとっては、とても面白い場所でないか。
 日本の自然を象徴できるのは、森と川だと思っている。森がなければ川はないし、川がなければ森が育たない。川は、接してみなければ理解できない自然です。多くの人に、素晴らしい五百川峡谷に接して感動して欲しい。きっと、自然の豊かさ、川の恵み、循環など、我々が生かされている根源の自然を感じてもらえるのではないか。

お話 : 姉崎一馬さん(立木) 取材 : 平成19年 

姉崎 一馬(あねざき かずま)氏
昭和23年(1948)京都生まれ。朝日町立木在住。
雑木林から原生林まで日本全国の森林をフィールドとする自然写真家。山形県朝日連峰山麓を活動の中心とした子供のための「わらだやしき自然教室」もボランティアとともに行っている。著書に「はるにれ」(福音館書店)、「はっぱじゃないよ、ぼくがいる」(アリス館)など多数。

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五百川峡谷の魅力
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 栗木沢地内の川原に、小山のような白っぽい砂岩が長く連なっていて、その先に青々とした最上川の清流が見える。こんな景観を面白岩と言ったのだろう。
 大正3年(1914)頃、大隅の菅井長蔵という人が、面白岩を使って養蚕用の暖炉を考案し、「安全だんろ」の名で新案特許を取り、大量生産をはじめた。養蚕が盛んな時代だったので、注文が殺到し、年間3000個以上販売し、石工が18人もいたと言われていた。県内一のかまどの産地として有名になったそうだ。
 以前は左岸側を水が流れておらず、昭和40年の羽越水害から現在の流れになった。

お話 : 堀敬太郎さん
平成20年
※写真は志藤富男氏所有の安全だんろ(縦33cm、横60cm、高28cm)

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 カヌーランド(通称「タンの瀬」)は、全国屈指の激流ポイントです。休日に限らず、カヌー愛好者たちが全国各地から集結し、年間を通してにぎわいを見せる知る人ぞ知るメッカの地です。雪解けの頃には、世界選手権の第一次予選会を兼ねた選抜大会も開かれます。
 カヌーをしに最上川に通いはじめて15年。最初の頃は、川に入るたびに目がチカチカしたり、口や鼻に臭みが残ったり、そんなことが多々ありました。しかし、ここ最近では、水がきれいになっているのをすごく感じています。

お話 : 庄司克史さん(SOIL-W-PLAY代表)
平成18年11月 五百川峡谷シンポジウムにて

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〜祖父の初仕事〜
 私の祖父は、中学を卒業して初めて働いたところが明鏡橋の架け替え工事だったと話します。一番記憶に残っているのは橋脚の土台となる土を玄播山から運んだことと言います。当然ですが工事用のダンプなどは無いため、すべて手作業で運んで大変だったということを昔の思い出話として話してくれました。

〜父の水遊び〜
 祖父が橋の工事に携わったとすれば、父はその下で遊んだ少年時代の思い出話をしてくれました。明鏡橋付近、最上川の左岸は栗木沢、右岸は大隅、それぞれの子供たちにとって絶好の遊び場でした。栗木沢が橋よりも少々上流、大隅が橋よりも少々下流に泳ぎ場があったといいます。泳ぎに疲れたり、体が冷え切ったときは、水の浅いところで温かくなった水に浸かり体をあぶったということです。最上川を泳いで横断できれば一人前と認められたり、対岸に向かって石を投げたり、栗木沢と大隅それぞれ川の両岸のお隣同士で同じような遊び(ときにはケンカも)をしていたようです。

〜私の少年時代〜
 私の年代になると、もう川で泳ぐものはいませんでしたが、ちょうど二見屋さんの現在の主である遠藤憲一氏の長男が私の弟と同級生で仲がよかったので、私も小学生の頃はよく河岸に遊びに行きました。
 雪解けによる増水が引いた春先ごろは、岸にいろいろなものが落ちていました。釣りに使う浮きや軟式ボール、ゴムボール、靴類からその他の生活雑貨、使えるものから役に立たないものなどあらゆるものがあって、それらを拾って帰るのがうれしかった思い出があります。
 また、梅雨が明けて夏になると、父に連れられて明鏡橋の真下で釣りをしました。以前は近くの沼で浮き釣りしかしたことがなかったので、初めて最上川に行った時はリール竿と吸い込み針を使ういわゆる「ブッコミ釣り」にとてもわくわくした覚えがあります。明鏡橋の下には今でも昔の橋の支柱を立てたと思われる直径50cm、深さ30cmほどの丸い穴が数箇所あり、そこに釣った魚や、稚魚程度の小さな魚を捕まえて放しては楽しんでいました。河岸にはその他にも、明鏡橋の少し上流・中州の手前辺りにちょうどお風呂くらいの四角の穴があったり(昔の岩採り場の跡らしい)して、子供心ながらも何の跡か疑問に思っていました。釣りをしない日でも、中州に行ったり、上流下流両方の河岸をどこまで歩いていけるか散策してみたりと、特に目的がなくとも何気なく遊びに行っていたものです。

お話 : 佐久間 淳さん
あさひまち宝さがし2002(平成14年)

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