朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

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この松永氏の寄稿(山形新聞)が海野秋芳を改めて紐解くきっかけとなりました。

海野秋芳の思想伝える〜農民視点に人間の悲哀〜
詩人/松永伍一氏

 書庫で資料探しをしていたら1冊の珍しい詩集が出てきた。海野秋芳の『北の村落』である。昭和16年に鵡鸚社(東京)から出ている。定価1円70銭。
 記憶は確かではないが、三十数年前に私が『日本農民詩史』を執筆中に古本屋で見つけたものらしい。その中の一遍を取り上げて論評しただけで、出生地もプロフィルもわからぬまま歳月が過ぎたが、こんどこの詩集が偶然書庫から出てきたのは、海野秋芳の名とかれの詩業がこのままでは消えてしまうぞ、との天の警告に思えて私は義務感につき動かされた。そしてこのテーマで「直言」に一文を草し、末尾に「ご存じの方があればプロフィルを教えて欲しい」と書き添えた。
 
 すると本紙編集部(山形新聞)から電話があって、山形県朝日町の出身で、昭和18年に二十七歳で他界しているとのことであった。「あの詩集1冊を残して夭折したのか」との思いが、私の胸を打った。
 『北の村落』は東北農村の凶荒をうたい、土着者の目ではなく離農者の望郷の熱い視線で「村」をあぶり出している。しかもあの時代にあって厭戦のテーマが書かれていたのだ。
 詩集が書かれたのは太平洋戦争勃発の年であり、前年は「皇紀二千六百年」を奉祝する行事がつづき「神国日本」を鼓吹するムードがちまたに満ち満ちていた。「美しの日本」をうたいあげるならいざ知らず、農村の貧困や戦がもたらす人間の悲哀を訴えるとなれば、身の危険すら感じなくてはならなかったろう。
 後に戦争協力の詩を書くことになる高村光太郎が、この詩集に序文を寄せている。「此処には東北の冷害がある。北方の水の災いがある。天をさす稲穂のなげきがある。そして農民の低いが凄い言葉がある」という書き出しで「低く生きて下を深く見ることこそ銃後をまもる者の責任」とも述べている。「凄い言葉」の中身を読みちがえたのか、意図的にぼかしたのか、作者には「銃後をまもる」積極的な意識はなかったはずである。

 つぎに引用する「雲低き日」には「親友Y君の英霊かへる」とサブタイトルがある。
 君は
 僕の側から
 隙間風の様に
 征った
 とほく
 海を越へ
 長江のほとりで
 任務についた
 回転する
 世界も知らず
 好きだつた論説欄も見ずに
 固く銃を握ったまま
 また 秋が来て
 君もかへつて来た
 無言のすがた いたましく
 半旗に護られながら
 いまは
 なににも云へない
 御苦労様
 御苦労様
 
 ほかに厭戦をテーマにした「仏間」(夫を戦死させた姉の狂おしい様を描く)などがあるが、それらの視点が娘を売らねばならなかった農民たちの生存への視点と重なっていることに、私は感じ入った。海野秋芳については本紙の「本の郷土館」シリーズで松坂俊夫氏が触れておられる(平成7年7月8日付)が、この機会に一人でも多くの人々がこの詩人の思想に触れて下さればと、願ってやまない。

(平成  年)山形新聞特別寄稿


松永伍一氏(まつなが ごいち)プロフィール
詩人・エッセイスト。1930年福岡県に生まれる。八女高校を出て中学教師8年、1957年以降文筆生活。文学・民族・美術・宗教など広範囲にわたる評論で知られ、とくに子守唄・農民詩・キリシタン・古代ガラスの研究者として著名。あらゆる文学組織に参加せず。『日本農民詩史』全5巻の大作により毎日出版文化賞特別賞を受ける。テレビ・ラジオ出演も多く、ドキュメンタリー番組の制作にもかかわってきた。趣味の絵画で10回を超える個展を開く。著書には『日本の子守唄』『天正の虹』『散歩学のすすめ』『フィレンツェからの手紙』『老いの品格』『花明かりの路』『快老のスタイル』『金の人生 銀の人生』『感動の瞬間』『モンマルトルの枯葉』など140冊がある。2008年没。



 秋にスズメバチが来るのはひどいね。亀蜂(キイロスズメバチ)も来るけど、ひと回り大きい熊蜂(オオスズメバチ)も来る。数匹でかがって二時間くらいで皆殺される。
 ガマガエルも来る。よく箱の下からくぐって出てきて、静かにじっとして蜂を食っている。けっこう食っているんだ。かわいそうで殺せないから、用の橋の向かいさ置いてきても、三日も経つとちゃんと戻ってきている。(遠藤理さん/栗木沢)

 熊には最近、特にやられる。猟友会へ有害駆除をお願いしたりするんだ。採蜜期にやられるのはどうしようもない。巣箱を移動するにも近いと戻ってしまうから、蜜源を一ヵ所あきらめることになるんだ。最近はやられそうな場所は、あらかじめ牛用の電気牧柵を使うようになった。(安藤光男さん/宮宿)

取材/平成6年(1994)

 JAさがえ西村山西五百川支所の建物は、昭和3年に創立20周年記念事業として建てられた鉄筋コンクリート建築です。当時として鉄筋コンクリートの組合事務所は、全国的に珍しかったそうです。
 細部に見られる洋風な装飾や、丸いステンドグラス、そして通りにどっしりとそびえ立つプラタナスの並木がとても印象的です。
 取材させていただいた佐竹支所長から、同じ建物が九州の方にもあるらしいという話を聞きました。もし、今もまだ残っていたら是非見てみたいなと思いました。
 白壁、幾何学的デザインの木製のドア、三階の半丸窓、昔の計算機、たくさんの昔の帳簿、木製の本棚、地下室、玄関…。様々な歴史が刻まれています。
報告 : 宮森友香(エコルーム職員)
取材 : 平成14年(2002)
※内部見学はJA西五百川支所にお問い合わせ下さい。
 Tel0237-67-2131
 


 新宿(あらじく)地区の南東に位置する山地は、岸美作守(きしみまさかのかみ)義満が居城した鳥屋ヶ森城跡です。永禄8年(1565)娘の弥生姫と八ッ沼城主原甲斐守の子兼道との婚約成立をもって最上義光との五百川合戦につながり両城ともに落城しました。(天正9年、12年説もあり)慶長5年(1600)の出羽合戦では上杉勢に攻められ再び落城しました。曲輪、三重掘、たて掘、家臣の屋敷跡などが残っています。

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※登り口は東永寺と郷倉の間の細道です。舗装はされていますが狭いです。

 山頂の城跡からは朝日岳や月山・葉山、朝日町西〜中〜北部の町並みを一望することができます。城主の岸美作守も眺めていたであろう景色に、身近に歴史を感じさせてくれる場所です。山頂は遊歩道が整備され、鐘楼堂跡を訪ねることもできます。

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※登り口は東永寺と郷倉の間の細道です。舗装はされていますが狭いです。

 館山山頂へは新宿の東永寺裏手に続く山道を車で10分ほど。(舗装はされているが道は狭い)山頂の鳥屋ヶ森城跡には、通称“テレビ塔”と呼ばれる放送局の中継施設が設置され、朝日町の中部・西部地区(一部北部地区にも)電波を送っています。

 旧新宿警備所は、一階は消防ポンプ庫、二階の畳の敷かれた部屋は仮眠のできる火の見やぐらとして使われ、夜警の拠点となっていました。夜警は戦争中までは毎晩行われていたそうです。明治時代の建物と推定されており、屋根は木場葺きでした。独特な姿が新宿地区の自慢の建物となっています。
熊谷與志雄さんのお話
旧新宿警備所について

紅葉の城下町“新宿”を訪ねる(PC)

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 薬師如来を祀る東善寺 瑠璃殿(堂)は、宝永5年(1708)の棟札から、羽黒山修験の末寺で豊龍神社(宮宿)を祀るもと東守寺の配下寺だったことが分かりました。木造薬師如来立像は平成5年に山形県有形文化財に指定されました。。毎月8日が“おようが”と呼ばれるお参りの日とされ、例祭は5月8日だったが、現在は第2日曜日に新宿区民をあげて賑やかに行われています。

熊谷與志雄さん、熊谷小三郎さんのお話
お薬師様の管理

紅葉の城下町“新宿”を訪ねる(PC)

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※案内看板はありませんので分かりづらいです。事前にエコミュージアムルームでご確認いただくか、地元の方におたずね下さい。

 昭和のはじめ頃まで、薬師堂参道左側の山手に薬師堂を守っていた不動院と呼ばれる羽黒山の末寺がありました。参道のそばには代々の法印様のお墓が並んでいます。薬師堂の十二神将の像は、この不動院に置かれ入口で薬師様を護っていたそうです。

熊谷與志雄さん、熊谷小三郎さんのお話
不動院のほうえんさま

 お薬師様のお祭りは、毎年5月の第二日曜日に新宿区を挙げて盛大に行われています。病平癒を祈願して大勢の参拝者で賑わいます。

成原浩さん、小関絹さんのお話
薬師講
熊谷與志雄さん、熊谷小三郎さんのお話 
お薬師様のお祭り

薬師堂 瑠璃殿

 夏草三中堰は、果沼の薬師沼水田に水をひくために、常盤堰の水を分ける水口分水新堰として安政二年(1855)に考えられ、惣代名主阿部与三郎を筆頭に八ッ沼村名主佐竹三郎兵衛が中心となり計画。秋から冬にかけ工事が進められ、翌年の春から夏にかけては岩を切り通し堰路工事に従事しました。旧西五百川公民館(水口)の上まで引かれていた常盤堰の水を、西五百川小グラウンドの下を引き回し、夏草墓地の下を通り、沢を越えて果沼の薬師沼水田に流すルートです。様々な苦難を乗り越え、安政四年(1857)に完成しました。
 その後、大正3年(1914)に東北電力・旭発電所(夏草)が完成し、電気沼(発電所の貯水池)から引かれるようになりました。

夏草三中堰と椹平の棚田(水とくらしの探検隊2005)

 瑠璃殿の薬師如来立像は、肩幅が広く堂々とした正面観をあらわし、衣文も流れるように美しく、藤原様式の典型的な表情をしています。日光・月光菩薩が脇侍を務める薬師三尊の形をとっています。朝日町で最も古い仏像であり、製作年代は12世紀の比較的早い時期と推定され『蒙古録』では、天地天皇の時代(662〜71)京都誓願寺の本尊阿弥陀如来を造立した際、その余材をもって作り瑠璃殿に納めたとされています。
薬師如来立像の文化財的価値

熊谷武四さんのお話
お薬師様の修復

 薬師如来は人々の心身にまつわるあらゆる病や苦悩を取り除いてくれるとされます。脇侍の日光菩薩は昼を、月光菩薩は夜を、薬師如来の助手の働きをして人々を守ります。十二神将は薬師如来や崇める人々の守りや、日光・月光菩薩の手助けを一日十ニ支の刻を交代して務める役割を持ちます。 地方の小さな村で十二神将までそろっているのはとてもめずらしいそうです。全ての像は平成3年に京都美術院で修理されました。(写真は十二神将)

小関絹さんのお話
不動院の十二天

 愛宕山東永寺は、天文年間(1532〜1553)に宥白上人により開山されました。はじめは館山の陰の倉沢にありましたが、寛永年間(1624〜1643)に真言宗の祈祷寺として現在地に移りました。往古はご朱印寺でもあり、信仰を集めひろく寄進された板札が見られます。ご本尊は秘仏の延命地蔵菩薩。脇侍に千手観音、三十三観音、弘法大師像。最上48ヵ所地蔵尊札所第24番札所。五百川三十三観音第25番札所。朝日町新宿245
熊谷與志雄さんのお話
東永寺について
五百川三十三観音縁起
五百川三十三観音霊場一覧
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 東永寺では、天保3年(1832)から明治7年(1874)まで“東永寺学問所”として寺子屋が開かれ、7〜10歳までの教育が行われていました。裕福な家庭の子供だけでなく区別なしに使用人の子供なども学ぶことができ、100人以上の大人数だったといわれています。文久4年(1864)に、お堂左側に立てられた「児翫」の石塔は、子供を愛した東永寺の象徴といえます。