朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

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 尾花沢丹生の巣林寺10世和尚の開創しました。裏山にありましたが延宝年間(1673~1680)に現在地に移り、二度火災に遭った歴史があります。寺の宝に永正年間~寛文年間(1504〜1672)に長岡久郎左衛門家で使用した大はかりやほら貝があります。また本堂内の蔵に祭られている金毘羅様やおしら様は火災の焼失を免れた貴重なものです。天井絵「花」も有名です。曹洞宗。五百川三十三観音第7番札所
※参考文献/『郷土学習辞典』阿部美喜男編著 『続・山形のお寺』大風印刷発行
※本堂内の見学は直接お問合せ下さい。祥光院 Tel0237-67-2444
五百川三十三観音縁起
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大正15年(1926)に、宮宿郵便局長をしていた父の栄三郎が自費で建てた。新しい局舎ができた昭和33年まで使われていた。道路拡張で今の位置に少し動かしたんだ。
お話/鈴木澄さん(宮宿)

玄関は山高帽のような屋根がせり出していた。観音開きの扉、その両隣には明かり取りのアーチ型の洒落た小窓が付いていた。玄関の上の掲額には「局便郵宿宮」と書いてあった。当時、寒河江西村山地区では一番モダンな局舎として名高かった。玄関を入るとガラスで仕切られた高いカウンターがあり、右側には公衆電話室もあったな。
お話/落合登喜雄さん(宮宿)

郵便の他にモールス信号の電報業務もしていた。戦時中はたくさんの召集令状が届き、そのたびにその方に電報を届けに行った。辛い仕事だった。二階は電話交換室で、24時間、電話をかけた人の線と相手の線をつなぐ仕事を交代でやっていた。郵便、電報、電話と、宮宿町の全ての情報はここに集まっていた。文化発祥の役割を担っていた建物だったといえるね。
お話/清野寅男さん(宮宿)

(取材/平成12年6月 安藤竜二)


 九月はじめ一枚のCDが届いた。その一週間ほど前の山新に、朝日町が生んだ詩人海野秋芳の詩を、町の有志グループ「燭の会」が朗読しCDに収めたという記事が出ており、早速朝日町エコミュージアムを通して取り寄せたのだった。
 海野秋芳については、『やまがた現代詩の流れ-2006/やまがたの詩の存在-』で、鈴木直子氏による紹介文を通してはじめて知った。大正六年(1917)生まれの海野秋芳は十六歳で小学校高等科を卒業し上京、薬局の住み込み店員となる。詩に目覚めたのはこの頃だが、その後泉與史郎に師事し本格的に詩作に取り組み、精力的に作品を発表する。薬局を退職後金属工業所の職工として働くが、腎臓結核で太平洋戦争のさ中、昭和十八年(1943)二十六歳の若さで夭折した。
 今回CDとして世に出されたのは、詩人25歳の時に発刊された、唯一の詩集『北の村落』の朗読。町で五年前に開催された「海野秋芳シンポジューム」の参加者の中から数人が集まり「秋芳の詩を読む会」を結成、「燭の会」と名づけ、月一回の集まりで彼の作品を読み解く活動を重ねてきたとのこと。CDには高村光太郎から寄せられた序文と34編の作品すべてを載せたブックレットも添えられている。朗読は、11人の会員がそれぞれ3〜4編を担当しているが、最年少のメンバーは秋芳の大甥にあたる青年で、詩人が亡くなったときとほぼ同じというのも縁のように思われる。
 CDからはじめに流れてくるのは、どこか懐かしい想いにつつまれるメロディー。電子音楽による手作りの曲は朝日連峰の裾野を吹きすぎる風のようだ。集中何度か挿入され特注ののテーマ・ミュージックといったところ。
 高村光太郎の序文に続いて詩の朗読がはじまる。ふるさとの風景や情景、当時の貧困にあえぐ寒村の様子、その故郷への思慕、労働にたずさわる者の思索、そして戦争への複雑な感情-、様々なテーマの作品が、淡々と、読み続けられる。ドラマティックな展開やパフォーマンス的な表現はほとんどない。感情移入も極力抑えられているように思われる。演劇や朗読のプロ、あるいはセミ・プロ的な人が読めば、ずっと違った〈作品〉に仕上がったであろう。率直に言わせてもらえば、いわゆる‘上手な朗読’とはいえないものもある。また‘正しいアクセント’や‘イントネーション’などにこだわって、注文をつけようと思えばいくらでもつけることはできるかもしれない。が、そんなことはここでは瑣末なことだと思わずにいられない。読み手は、生半可な色などつけずに、それぞれの詩のことば一つひとつをていねいに、いとおしむように読んでいる。むしろそれ故に聴き手は自分なりの秋芳の世界をイメージすることができるといってもいい。
 小さな町で制作された素朴な一枚のCDから、海野秋芳はわたし(たち)の宝物」という、会の人々の熱い想いがまっすぐに伝わってきて、手放しで嬉しく、同時に詩人生誕100年にあたる2017年の、詩集『北の村落』復刻版の出版を心から応援したい気持ちでいる。
 最後に短い作品をふたつ紹介しよう。

 故園
あの頃のほころびを
木綿針でつついて
日向ぼっこの婆さんがいる

 土
この生活(くらし)になれても
苔むした無縁墓石に
何の希(ねがい)をかけようか

都会がへりの人見れば
ゆらぐこのこころ
聞かないでくれ

粧ひのまぶしさ
百千の金 何になろう

稲穂天を指す秋
一杯の粥すすりあふても
しぶとく生き抜いて
俺ら
みのりする秋を知っている


『E詩14号』( E詩の会 2009.10発行)より抜粋

 平成19年、佐藤五郎氏により五百川峡谷に30kmに渡り人工的に掘削した舟道があることが確認されました。これは元禄時代の米沢藩御用商人西村久左衛門が開削した遺構で国内最長の規模を誇ります。この大工事により、最上川舟運と北前船による西回り航路がつながり、米沢藩はもちろん流域に大きな産業をもたらしました。
※写真は渇水すると現れる明鏡橋下の舟道遺構

佐藤五郎さんのお話
五百川峡谷の舟道遺構

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア

 最上川最大の狭窄部の五百川峡谷は、最も大きな浄化力・蘇生力を持ち、最上川の心臓部と呼ばれています。白く波の立つ瀬は、酸素を充分に水に溶け込ませ、プランクトンや水生昆虫、魚に至るまで、いろんな生物を活発にし、汚れが餌となり浄化されます。上流部で汚れた水を蘇生させる五百川峡谷がなかったら、現在の最上川の水質は維持できていなかったそうです。

佐藤五郎さんのお話
五百川峡谷の水質浄化力
 
ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア


 栗木沢地内の川原に、小山のような白っぽい砂岩が長く連なっていて、その先に青々とした最上川の清流が見える。こんな景観を面白岩と言ったのだろう。
 大正3年(1914)頃、大隅の菅井長蔵という人が、面白岩を使って養蚕用の暖炉を考案し、「安全だんろ」の名で新案特許を取り、大量生産をはじめた。養蚕が盛んな時代だったので、注文が殺到し、年間3000個以上販売し、石工が18人もいたと言われていた。県内一のかまどの産地として有名になったそうだ。
 以前は左岸側を水が流れておらず、昭和40年の羽越水害から現在の流れになった。

お話 : 堀敬太郎さん
平成20年
※写真は志藤富男氏所有の安全だんろ(縦33cm、横60cm、高28cm)

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア

 五百川峡谷は、川岸が切り立った崖になっているために人の手が入らず、豊かな自然が残り、様々な生き物たちのサンクチュアリ(逃げ場)になっています。特に鳥類が多く、奥山に生息するヤマセミも度々見かけることができます。バードウォッチングに最適な場所と言えます。

姉崎一馬さんのお話
五百川峡谷の自然の素晴らしさ

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア

 昭和39年(1964)最上川で初めての吊り橋として、今平〜大瀬の渡船場に、朝日・白鷹両町により架橋されました。大瀬の「大」と今平の「平」の字を使って「大平橋」と名づけられたそうです。500枚以上の渡り板が貼られた橋上からは、スリルと共に美しい五百川峡谷の風景を眺められ、人気のスポットとなっています。昭和の終わりにはNHKテレビの人気ドラマ「おしん」の撮影にも使われました。

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五百川峡谷の魅力
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五百川峡谷ビューポイント。「松程へ向かう高台からの風景は素晴らしい。特に秋は水面に紅葉が映り落ち葉も浮かんでいてきれい」
  撰/佐藤幸信さん(大船木)

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ビューポイント一覧

 最上川で唯一の発電用ダムが、昭和37年(1962)に完成しました。23.5mのダムを築いて水をせき上げ、その落差で放水しタービンを回して発電しています。年間発生電力量は約8000万キロワット、一般家庭約2万戸分の発電を行い、朝日町や山形市に供給しています。
 ダム湖には釣り人が多数訪れ、流し網による鮎漁も盛んに行われています。ダム湖畔には魚供養碑があります。

東北電力(株)
笠原信年さんのお話
上郷ダム発電所について
柴田つやさんのお話
上郷ダム建設の思い出
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ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
    

 上郷地区は、詩人「海野秋芳」(うんの・しゅうほう)が生まれ育った村です。
 大正16年(1917)上郷宇津野に生まれた秋芳は、16歳で上京し、薬局店員として働きながら詩作を始めます。二十歳の時、泉与史郎に師事し詩誌『モラル』の同人となり、それから数多くの詩を発表しました。詩人の高村光太郎、草野心平らとも親交を深め、昭和16年(1942)25歳の時、高村光太郎に序文を贈られて詩集『北の村落』を刊行します。しかし、二年後の昭和18年(1943)秋芳は腎臓結核を患い27歳の若さで亡くなってしまいます。
 詩集『北の村落』には、戦争、農民、工場労働者など弱者の悲哀や叫びが綴られてあり、高村光太郎の「序」は、戦時下の世に刊行するこの詩集を、弁護するように表現されてあることがとても興味深いものとなっています。

高村光太郎の序文
詩集『北の村落』より詩7編
詩人松永伍一氏の寄稿文(山形新聞)
海野秋芳略年譜
遺品
シンポジウム 報告(PC)2004.12
上郷地区見学会 報告(PC)2004.12
朗読CD 詩集『北の村落』(平成21年)

上郷ダム湖畔を見下ろす高台に昭和56年(1981)開業。
作品には、植物の絵が女性的なやさしいタッチで描かれ、工房で開かれる年に一度の作品展には多くのファンが訪れている。

代表 柴田とみ子氏
住所 朝日町大滝542 
電話 0237- 67-3710

柴田とみ子さんのお話
ほおずき窯について

 江戸時代、大庄屋佐竹長右衛門家は、米沢藩の通船差配役を勤めた家柄です。船子(水主)雇い、綱手道の管理、梁仕掛けの管理、破船の救出における人足割り当て、払い米(濡米)の世話など、安全な通船を図る仕事をしていました。「佐竹家住宅」は、元文5年(1740)に建てられたもので、現在も佐竹さんご家族がお住まいです。見学申込みはエコルームへ。

佐竹家住宅について/鈴木治郎氏(pdf)
佐竹家住宅見学会
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