朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

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 残念なことに雨があがらず、室内で糸とりにチャレンジしました。
 はじめに、講師でお招きした和田新五郎さんが出演されたVTR『和田新五郎さんの青苧』を見て予習し、その後実際に、作業の仕方を教わりながら体験を進めました。
 前日から用水路に浸しておいた青苧から、まずは葉っぱをとり、根元20センチ位を折り、使わない茎を取り出しました。手が茶色になることにみんな驚いていました。そして剥いだ皮を台において、スクレパーを使って茶色い表皮を取り除きました。しかし、これがなかなかうまくいきません。実は、糸をとるための台は本物を見よう見まねで作っておいたのですが、この材質が柔らかかったことが原因でした。本来は、硬くて薄い板を重ねて使っていたのだそうです。皮をはぎとるスクレパーとして準備したケーキ用のへらは好評でした。
 作業しながら、年輩の参加者の皆さんは、いろいろな思い出話をされていました。「季節になると学校休んで手伝わされた。青苧は見るのもいやな程手伝わされた」と苦笑してた方も。
 途中、志藤富雄さん(大谷六)が、おじいさんが作っていたという出荷用の青苧糸をお持ち下さりました。本物の柔らかさやきれいさに感心しました。
 天気が悪く仕上げの乾燥はできませんでしたが、和田さんからいただいていた糸を使って、実際に紡いでみたり、なってみたりして楽しみました。本当に糸の状態になるのが驚きでした。

協力 東北芸術工科大学博物館実習生
平成19年(2007)7月15日
場所 秋葉山交遊館ときめき体験館
講師 和田新五郎さん
参加者 32人

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア




 大谷裏小路の和田新五郎さんは、現在も「青苧」を栽培し、糸をとっています。
 古来からの衣料原料だった青苧の栽培は、江戸時代から明治時代にかけての朝日町の代表的な産業でした。
 和田さんの栽培している青苧は、昭和10年(1935)、15歳のときに祖父の元治さんと植えたものを残しておいたものだそうです。糸をとる「青苧はぎ」は、母ふみえさんの仕事で、収穫したものは馬具用の縄をなったりするのに使っていたそうです。
 八月、刈り取りや青苧はぎを見せていただきました。和田さんは背丈ほども伸びた枝を一本一本刈り取ると、手のひらで茎をぎゅっと掴み、手前に引き、葉っぱを見事に扱き落としました。私も真似をしてみましたが、柔らかな手のひらではとても痛くてできませんでした。また、糸をとるために、一晩水に浸けた茎に鉄製のへらを押しあてて引っ張り、青い表皮をはぎとる作業は弱くするととれず、強すぎると糸が切れそうになったりしました。大変でしたが楽しく体験させていただきました。
 手のひらに付いた茶色い染みは四、五日消えませんでしたが、昔の青苧職人と同じと思うとうれしくなりました。
 報告 宮森友香(エコミュージアムルーム職員 2004)

和田新五郎さんのお話
栽培から糸とりまでの作業
DVD『和田新五郎さんの青苧』

志藤富雄さん、白田千代志さん、堀敬太郎さんのお話
青苧の栽培と製品化
青苧の使われ方
報告
青苧糸とり体験記

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア



1.霜の季節が過ぎた頃、まばらに伸びた新芽を背丈が揃うようにいったん全て刈る。
2.お盆頃に、根元から刈り取り、葉を取り除く。
3.束にして、水に一晩浸けておく。
4.茎を折り木質の芯を取り除き、皮だけをはぎ取る。
5.専用の板に載せ、鉄製のへらを使って緑色の表皮を取り除き、糸を取り出す。
6.一束ずつ天日に軽く干す。

お話 : 和田新五郎さん(大谷)
取材 : 平成16年(2004)

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア

 最上川の荒砥・左沢間は五百川峡谷と呼ばれ、急流で難所が多い上に、昔は峡谷入り口の菖蒲(白鷹町)に黒滝という丈余(約三メートル)の滝があり、船の運航ができなかった。従って米沢藩の全ての物資の藩外輸送は山越えを強いられ、幕領の年貢米は二井宿峠か板谷峠越えで福島まで馬で運び、阿武隈川を船で下り、東回りの回船で江戸まで運んだので、費用がかさんだほか荷痛みがあった。
 元禄(約三百年前)の頃、米沢藩の御用商人西村久左衛門は、この黒滝をはじめとする五百川峡谷の難所を開削すれば、荷を藩内から船だけで酒田まで下すことができ、当時河村瑞賢により開発されていた日本海西廻り航路に結びつかれば、航路は下関・瀬戸内海・大阪と長くなるがきわめて安全に荷痛みもなく江戸まで運べると考えた。
 西村の本業は青苧商だったが、幸い縁戚に角倉了似という大土木実業家がおり、その援助で間兵衛という優秀な手代を譲り受け、綿密な調査をさせた上、船大工は大石田から、船鍛冶は越後の飛鳥井村から呼び寄せて準備し、藩および幕府の許可を取り付け、元禄六年(一六九三)開削に取り掛かった。
 その工法は、川の流れを迂回させて滝を干上がらせ、岩の上で焚き火をして岩を焼き、川水を掛けて岩を割ったり、岩盤の上に高い櫓を建て、重い鉄錐をロープで縛り、大勢で吊り上げて落とす「どん突き工法」を用いたりした。工期は一年三ヶ月、総工費一万七千両(現在で一七億)の巨費を投じて翌七年九月開通。間兵衛船と呼ばれた船は米沢藩米を積んで、五百川峡谷を矢のように下り酒田まで通船したのである。この上下の通船がもたらした恩恵ははかり知れず、まさに水運の革命といえるものだった。
 しかし昔のことゆえ、工事の成功や船の安全には神仏の加護を祈ることが第一で、川沿いに神仏に堂宇の再建や鰐口の奉納などの安全祈願が行われた。また、この舟運を持続するため、菖蒲と左沢には船陣屋を置き通船を管理し、途中には通船差配役を置いて、船を曳き上げる綱手道の整備や難破船の濡れ米の処理などをさせた。
 五百川峡谷の朝日町域には大滝瀬・どうぎ瀬・三階滝などの難所が多くあり、しばしば船が難破し、その都度濡れ米を引き揚げた。これには川沿いの百姓が頼まれ、引き揚げた米は払い受けて餅をついたそうで「かぶたれ餅」と言われた。
 しかし、この舟運は後に訳あって西村から藩運営に変わった。そして後年、陸上交通の発達でその役目を終えた。綱手道も今では殆ど姿を消し見られなくなった。

お話 : 若月啓二さん(西船渡) 平成18年

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア



五百川峡谷の自然の素晴らしさ
                    お話 姉崎一馬氏(自然写真家)

 五百川峡谷は、何度かボートで下っているが、とにかく素晴らしい自然が残っている。他の所と違って川岸が切り立った崖なので、人の手が入ってない(入れない)から、自然の迫力や豊かさ、景観の素晴らしさを見ることができる。この魅力は、道路から見下ろしても分からない。実際に川を下りながら見ると、川の持っているパワー、大自然のエネルギーを感じる。「こんなにも違うのか?」と思ってしまう。感動の大きさは数百倍違う。
 川岸は変化の大きい自然といえる。崖が崩れたりする不安定な場所は、パイオニア的な植物が多い。ケヤキ類をはじめとして水に強い樹木が多く、大木もけっこうある。切り立った川岸では、太くなりすぎると支えられなくなってしまうので巨木とまではいかないが、それでも太い木はいっぱいある。
 なにより人が入れないので、生き物たちのサンクチュアリ(逃げ場)となっていて、とても貴重な場所といえる。
 以前、仲間と静かに五百川峡谷を下った時には、アオサギやゴイサギ、ヤマセミなどがたくさんいた。特にゴイサギは、四畳半ほどの柳の茂みから100羽以上も出てきて驚かされた。ヤマセミは、数十メートルに一羽は出てきた。この鳥は奥山に行かないとなかなか見られないから、一般的に憧れの鳥となっている。町の中でこんなに見られるのはとても珍しいこと。鳥を観察する人たちにとっては、とても面白い場所でないか。
 日本の自然を象徴できるのは、森と川だと思っている。森がなければ川はないし、川がなければ森が育たない。川は、接してみなければ理解できない自然です。多くの人に、素晴らしい五百川峡谷に接して感動して欲しい。きっと、自然の豊かさ、川の恵み、循環など、我々が生かされている根源の自然を感じてもらえるのではないか。

お話 : 姉崎一馬さん(立木) 取材 : 平成19年 

姉崎 一馬(あねざき かずま)氏
昭和23年(1948)京都生まれ。朝日町立木在住。
雑木林から原生林まで日本全国の森林をフィールドとする自然写真家。山形県朝日連峰山麓を活動の中心とした子供のための「わらだやしき自然教室」もボランティアとともに行っている。著書に「はるにれ」(福音館書店)、「はっぱじゃないよ、ぼくがいる」(アリス館)など多数。

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア


川岸はサンクチュアリ
                お話 姉崎一馬氏(自然写真家)
 最上川五百川峡谷の川岸は変化の大きい自然といえる。崖が崩れたりする不安定場所は、パイオニア的な植物が多い。ケヤキ類をはじめとして水に強い樹木が多く、大木も結構ある。切り立った川岸では、太くなりすぎると支えられなくなってしまうので巨木とまではいかないが、それでも太い木はいっぱいある。
 なにより、人が入れないので、生き物たちの逃げ場となっていて、サンクチュアリとしてとても貴重な場所といえる。
 以前、仲間と静かに五百川峡谷を下ったときには、青サギやゴイサギ、ヤマセミなどがたくさんいた。特にゴイサギは、四畳半くらいの柳の茂みから百羽以上出てきて驚かされた。ヤマセミは、数十メートルに1羽は出てきた。この鳥は、奥山に行かないとなかなか見られないから一般的に憧れの鳥となっている。町の中でこんなに見られるのはとても珍しいこと。鳥を観察する人たちにとってはとてもおもしろい場所ではないか。
お話 : 姉崎一馬さん (立木) 取材 : 平成19年

姉崎 一馬(あねざき かずま)氏
昭和23年(1948)京都生まれ。朝日町立木在住。
雑木林から原生林まで日本全国の森林をフィールドとする自然写真家。山形県朝日連峰山麓を活動の中心とした子供のための「わらだやしき自然教室」もボランティアとともに行っている。著書に「はるにれ」(福音館書店)、「はっぱじゃないよ、ぼくがいる」(アリス館)など多数。

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア


 つぼみがふくらみ始め、今年も伊豆権現(宮宿栄町)のご神木樹齢700年の桜のライトアップが始まりました。

 4月15日現在で、まだまだ雪の下でしたが、溶け始めた上流部では花芽が顔をのぞかせていました。日当りの良い斜面では咲き始めていました。

藤沢盛治さんのお話
杉山と長谷地エリア

 町道杉山〜水本線を杉山から登り、通称「大道」と呼ばれる所、標高500mを越えるあたりに広がるブナ林の中にいくつかある湧水とそれを集めて流れる小さな沢の周辺にはミズバショウが群生しています。
 群生地一帯は杉山地区で管理しており、公民館活動として、夏の草刈りや案内板の設置などを行って整備しています。例年、4月の下旬頃雪解けとともに花が咲き、道路の除雪もしていますので、その時期にぜひ訪れていただきたいものです。

お話: 藤沢盛治さん(杉山)

 大沼の浮島は、前半は朝日岳と非常に深い関係があります。朝日岳は、人間にとって大切な水の源ですから、神様が山から田植え前に降りてきて、秋に帰っていくと思われていました。ですから、修験者は神様のいる山に入って、体を鍛え験力を得たのです。当時、朝日修験は栄えたようです。
大行院の文書には朝日岳に宿坊を建てたとか、水口、野々山などのルートから登ったとか書かれています。役の行者によって発見された。そして北条時頼の時に閉鎖されたとなっています。しかし、このような言い伝えは県内によくあるようです。竜山、御所山、肘折などもそうです。
 ここには、水に対する信仰があったと思います。沼には24から66の島があると言われていたのが、江戸時代には、それが日本の国の数32になったと思われます。池の形は上から見るとキツネに見えます。カササギ橋もあります。キツネは、稲荷様で水の神様。カササギは七夕で農耕の神様です。そんな意味から大沼は神の住む地だったのです。
 大沼は個人より時の支配者の願いをかなえる場所だったようです。鎌倉の将軍大江氏、最上氏などの名前が残っている文書が多く残っています。江戸時代に朱印地になったのもそんなことからだろう。しかもその順番が、慈恩寺の次になっています。慈恩寺は平泉と並ぶ東北一の寺だから、大沼の位の高さがわかります。そのため月に4度は島にこもり神事をしていたようです。そんな大切な所だから、周りの木は切らないとか、朱印状をもらいに行く時は皆で分担するとかの取り決めがありました。
 大沼の人は、神事をする以外は、農業をしていたようです。米を作り、畑を作り、蚕を飼い、青麻を作っていました。
 またここには、多くの有名人が来た話が多くあります。藤原実方は本当かどうか分からないが、芭蕉は来ていない。芭蕉塚は、18代の別当が俳句が好きで作ったようです。多くの旅行記に書かれているのは本当で、出羽三山の帰りに寄ったのだろう。出羽三山には7〜8万人が来た。丑の年は15万人もきたのだから、かなりの人が大沼にも来た。大沼では泊めたり案内していたのだろう。明治時代の村山地方の収入は30万で10万が紅花、10万が商業で、10万が出羽三山といわれています。多くの人がその帰りに寄ったとすれば、大沼もかなり賑わったと思います。だから県内に広く知れ渡り、神殿の修復などには多くの寄付が集まったらしい。今の私達が考える以上に大切な所だったのです。だから、大正15年に国の名勝に指定されたのだろう。

お話:鈴木 勲氏(朝日町文化財保護委員、郷土史研究家)


 大正15年に、日本を代表する植物学者三好先生が、国の名称にするために調査に来られました。
 大沼は、標高330mですが、非常に珍しい植物がたくさんあります。たとえば、ここのホオノキは、10mくらいのところから枝がまっすぐ上に伸びています。また、ここには雑木林になる標高なのですが、ブナなどの標高の高いところの木と、標高の低いところの木が一緒に生えています。また、沼地の林もあります。山形ではここだけです。ブナは太いものも細いものもありますが、葉が大きいのが特徴です。ブナの葉は、鹿児島が小さく、北海道が大きいのですが、ここのは特に大きいです。
 湿原の植物では、ハルニレもあります。この木は、土地が豊かだという証拠です。アイヌは昔からハルニレのあるところを開拓してきたのです。さらに、アイダモ。これはいい板がとれます。それに天然スギもあります。スギは暖かいところの植物で、最上川沿いに少しありますが、それがここに残っています。アサダも神社などに残っているだけで今は少なくなりました。
 ここは低層湿原なのですが、白竜湖よりいい状態です。カサスギ、アマモ、カングモ、それにヤナギトラノオなど氷河期の生き残りも5〜6種類あります。
 さらに大切なのは、ここは日本で浮島研究の基準地に指定されています。浮島を研究する人は必ずここに来ます。ですから、朝日町だけではなく、日本としても非常に大切なところです。
お話:吉野智雄氏(山形県文化財保護指導員、植物研究家)


 浮嶋神社は、役の行者と覚道が創設して、一院三十三坊があった。私の家もその坊のひとつであった。四代前に柴橋から嫁に来た人の持参金で浮島神社神輿を寄付したごとにより、資格を得て、私の家で行者を泊めるようになった。最上家では庄内の人を、私の家では福島の人を泊めた。浮島というイメージが船が沈まねという縁起を生んで、海岸に住んでいる漁師の人がたくさん来て宿泊した。私の家では、昭和十年頃まで、坊を営むことで生計を立てた。行者を、御行様、御行様と呼び、家の前に玄関が二つ、脇に一つと、玄関が三つあった。
屋根もピーンとした立派な屋根だった。食事には精進料理を出して家の所得も相当なものだった。
 その当時の部落の繁栄を再現するためにも、浮嶋神社を活かしていかなければならない。その当時、浮嶋神社を経由して朝日に出かける行者と月山に出かける行者がいたが、私の家の使用人が先達となり案内した。その修験者の道を復活すったいという話もあり、
古くなったお守りなどを燃やす場所として復活したらなんたべという話が、現在出ている。
お話:白田隆さん(浮島を守る会会長)取材 : 平成6年


 浮島には、科学的には説明できない神秘的なことがうがい。浮島の不思議な出来事は、私の姉の佐藤ちよが、『浮島物語』にまとめて出版している。私の姉は、浮島に隣接した道路を歩いて三年間大暮山分校に通った。毎日、欠かさないで浮島を観察して、不思議だなと思うことを記録に残した。その記録に残したのが『浮島物語』なんだ。
 おらだが浮島に関して不思議に思うのは、雑木林の落ち葉が大沼のまん中さ、ひとりで集まり、流れる方さ真直ぐに流れることだ。そして、朝、行ってみると落ち葉が全部消えている。
また生の葉っぱが底に沈んでいる。科学者たちは、いろいろ解釈をするけれど、私達は神秘的なものと思ってる。それは、お姫様が来て大沼を掃くのだという言い伝えがある。
お話:白田隆さん(浮島を守る会会長)


 立木にある朝日川河川公園は、川遊びや芋煮会など、最も朝日川と親しめる場所となっています。8月第一週に開催される渓流まつりは毎年大勢の人が参加します。朝日川の川遊びはコシジロアブの出始める8月初めまで楽しめますが、河川公園は周りに林がないためかアブは少ないようです。
※アブは排気ガスに集まりますのでエンジンはすぐに切りましょう。

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 朝日川十景の会(代表/長岡啓)では立木地区より朝日鉱泉にかけての美しいポイントを、毎年看板を立てて紹介しています。
※ 写真は「与市の大岩」
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朝日川渓谷の転石
与市の大岩
五枚田の滝
玉石橋の清流
木川ダムの水鳥
朝日の白滝
猿渡の渓谷
朝日鉱泉の大朝日
ヌルマタ渓谷のブナ原生林
愛染峠の朝日連峰