朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
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 空気神社は、昭和47年頃に朝日町松程の白川千代雄さんが「日本には八百萬の神が様々あるのに「空気」を祀る事を忘れていた。「空気神社」を建てよう」と提唱していたものを、平成2年(1989)に町民有志「一歩会」の働きかけにより実現したものです。本殿の設計は、平成元年にコンペが行われ、51点の中から谷津憲司氏(東北工業大学建築学科助教授)の作品が選ばれました。
 空気豊かな自然と空気に感謝するこのモニュメントは、ブナ林の中に、5m四方のステンレス板を鏡に見立てて置いたもので、四季折々の風景がこの鏡に映り、空気への感謝をよりいっそう強く感じさせてくれます。空気の日に制定した6月5日の例祭では、鏡の上で地元小学生の「巫女の舞」や浮島雅楽保存会により「雅楽」が奉納され多くの人で賑わいます。

清野寅男さんのお話
空気神社の誕生
アクセスマップはこちら※入口駐車場より参道を10分程歩きます。


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〈きっかけは一人の町民の思い〉
 空気神社は、朝日町松程の白川千代雄さんが「私たちの先祖は、日本には八百萬の神の社が様々あるのに、私たち生き物にとって一分一秒その恩恵をいただかなければ死滅してしまう「ありがたい空気」を祀る事を忘れていた。「空気神社」を朝日町に建てよう」と、提唱していたものです。この考えが、朝日岳山麓家族旅行村「Asahi自然観」のオープンを契機に実現することになりました。まだまだ環境問題は縁の遠い時代ではありましたが、当時の観光協会長だった菅井敏夫を中心に私たちが下に入り、町おこしのために「この地に作ろう」と気勢をあげたのでした。
 当時は「若者がいなくなって村の神社の神輿もかつげない時に新しい神社を作るなんて」と反対者も多数いました。しかし、各集落の区長、各法人、団体等に熱意を伝えて、農協や商工会、漁業組合に賛同をいただくことができました。そして、区長さんや団体の有力な方々に役員になっていただきいよいよ寄付集めが始まりました。一万円以上は芳名板に名を刻して永久に感謝するとしました。残念な事に、当時の私は国家公務員だったので、神社の寄付集めはしないほうがよいだろうということで、できませんでした。お盆などに子供たちが帰省して空気神社に来ると、父親やじいさんの名前を見つけ感心してながめていきます。

〈「光と音」で表す神社のしくみ〉
 さて、空気は色も形も重さもないもの。ご本尊が空気の神社を、どのようなものをどのような方法で作るか?頭を悩ませました。当時の小林富蔵町長が、知り合いの東京の武蔵野工業大学の先生に相談しました。すると先生は「環境問題のこの時代に必要である」と、大いにご賛同下さいました。しかし先生も神社は手がけた事がなく分からないので、全国の建築美術工芸の専門家や大学などによびかけて設計をお願いしてはどうかとご指導をいただき、コンペテーションを行いました。
 佳作まで賞金を出すことと、1500万円の予算で作ることを前提として募集した所、全国から多数の方に応募していただきました。
 結果、仙台の東北工業大学の谷津憲司先生が設計したものが採用されましたが、これまでの神社の形式とは全く違うものになりました。
 外部表面の5m四方のステンレスの鏡板は、森羅万象、春夏秋冬の全てを写し出すもの。すなわち空気を光に変えて写し出します。また、3mの深さの地下殿には素焼きの大きなかめが12個設置してあり、外部の振動を音に変えることができます。空気を音に変えて表すことができるのです。

〈独自の参拝方法「天空感謝」〉
 毎年6月5日の祭礼の時には、地元和合小学校の子供たちが巫女の舞いを奉納します。寒河江の八幡宮から「豊栄の舞」を伝授していただき練習を重ねたものです。
 参道には「木・火・土・金・水」の五つのモニュメントが建っています。これは古代中国の「五行」の思想を取り入れたもので「この世の中のものは全てこの五つの元素から成り立つもの、空気もここから生まれたものである」という考えから建てました。ヒマラヤの回して拝む「マニ車」を真似て、ぐるぐる回せるようにしてあります。最後の水のモニュメントでは、ブナの森の水が湧き出るしくみになっており、参拝者がここで水を飲み、手足を清めて、空気神社に参拝できるようにしてあります。
 参拝方法については、宗教的なこだわりはないのでどのような参拝でもよいですが、空気神社奉賛会では二礼四拍一礼を勧めております。二礼したあと、春夏秋冬に四回柏手を打ち、次に空高く両手を上げ、空気を一杯吸って、「いつも大切な空気をありがとう。空気を汚さないよう注意します」と誓って最後に一礼をする。この天空感謝の参拝方法は空気神社にしかないものです。

お話 : 清野寅男さん(宮宿)
平成19年 空気神社案内時に採録 ※写真は清野さんです。
上記ダウンロードボタンよりPDFファイルを開く事ができます。


 五百川峡谷ビューポイントにも推薦された川通地区の最上川フットパスは、五百川峡谷ならではの切り立った川岸や、舟道、稲荷神社の御池とされた雪花渕と桜並木の風景などを眺めながら歩けるコースとなっています。また、村内には三瀧山観音寺をはじめ、古い絵馬のある観音堂、見事な彫刻のなされた町内唯一の八坂神社、町内で最も古いと推測される石仏などがあります。※詳しくは秋葉山エリア川行をご覧下さい。

アクセスマップはこちら
※アクセス看板が未設置です。上流部入口は観音堂のある墓地の終わり(ガードレールの終わり)付近、下流部入口は集落の終わり付近です。

ビューポイント一覧

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア

〈大竹國治さんのこと〉
 國治じいさんは、明治十三年生まれ、大地主の息子で昔は福島の蚕業学校なんか行ってたし、和合の信用組合なんかも作ったり、大正六年からずっと村会議員や町会議員もしていた。昭和十八年前後には宮宿町長なんかもしていたから普通の百姓の人ではなかったらしい。昔は、養蚕の種屋をしていた。この家も総二階で蚕を二階なんかに飼っていたのだろう。種屋は良い種を見つけるのが仕事で、この家の造りもこの土間も広いのは売り買いしていたからだな。

〈國治さんと考古学〉
 國治さん自身は、考古学的なものは何も残していないが、書については興味があったえらしい。歌お膳や何かにも詳しくて近さん(國治さんの息子)が結婚する時は、お膳とか何か輪島の名人に注文していろいろなお花とか鳥とか描いてあって、一枚ずつ違う文様のを取り寄せたりしたこともあった。
東京に行ったときも、三越からお土産を買ってくるような人だった。良いものを見る目はあったのだろう。私は詳しく分からないが、いろいろなものに興味を持った人だったらしい。昭和十二年に明鏡橋の工事があって、その時に自分の畑から出た石を見つけて二階の部屋にとっておいた。二階は、滅多に人の行かないところだから置いておくには良かった。これが大隅の旧石器だった。

〈田原眞稔さんとの関係〉
 國治さんの妹が大井沢に嫁いでいて、その旦那さんは校長先生なんかした人で、その子供が倫子さんで田原さんの奥さんだ。だから、仲人なんかもしたと聞いた。倫子さんの実家は大井沢で、あの当時だと冬は行くのが大変で正月なんかこの家によく遊びに来ていた。それで田原さんが考古学に興味があるからというので見せたのだろう。だからきっと、國治さんは大隅で見つけた石が、石器と分かっていて二階にとっておいたのじゃないか。

〈潤次郎さんも発見した〉
 潤次郎さんは昭和六十二年五十四歳で亡くなったが、区長もしたし森林組合なんかの仕事もしたし、教育委員も務めたんだ。昭和五十四年にまた道路の改修工事があって国道二八七号線の工事をした。この時に潤次郎さんも畑に毎日のように見に行って、自分の畑が削られるときに掘ってまた石器を一個発見したのだな。この石器発見で、はじめて大隅遺跡が発掘された。調査は、この時が初めてらしい。三個くらい見つかったと聞いている。

〈國治さんは偉かった〉
 國治じいさんが偉いと思うのは、戦争に負けてこれからは今までと違って生きなくてはいけないというので、大きな屋敷のこの家のお坪を少し壊してりんごを植えたり柿を植えたりした。この気構えはなかなかできないな。自分が大事にしてきたお坪壊すのだから。その変化は偉かった。雑木林もりんごに換えた。今もそのままりんごを作っている

〈この土地の良さ〉
 ここの大隅の場所のことだけど、この間全国を地質調査に回っているという人が来て、ここは風景も良いし三メートル下は岩盤で地震に強い。排水も良いし井戸水も枯れない良いところだ。ご先祖さんは、良い所を探したなと誉めていた。こんな良い所だから大昔から人も住んでいたのだろう。最上川の段丘には遺跡が多いということらしい。そこは住むにも良いところだ。

〈大隅の旧石器のこと〉
 大隅の旧石器が見つかって、田原さん達が研究したのだけど、長い間放っておかれた。これだけ価値のあるものだと思う人が少なかったのだろう。國治じいさんは、石器は貴重なものであれば私有化してはならない。社会へ提供するべきだといって、全部あげたと聞いている。だから町でこういうものを大切にしてもらえたら、國治じいさんも喜ぶだろう。

お話 : 大竹敦さん



〈小学校三年から石器拾い〉
 田原眞稔が石器や土器に興味を持ったのは、小学校三年くらいからだったと聞いている。その頃だと、この大隅あたりを歩いては、石器や土器を拾いに出かけたらしい。今も残っているが、ボロリュックと巻き尺なんか持って歩いていた。菅井進さんなんかと一緒に歩いたこともある。石器のでる所は、裏に丘陵があって、下は開けているという所だと話していた。そして、こういうところが昔の人が住まいするのだと話してくれた。

〈結婚した頃〉
 眞稔さんは、大正十四年生まれで、私は大正十五年生まれです。私は大井沢(西川町)生まれで、父は学校の先生で姉は医者(志田周子)だった。私は、兄が出征して帰るまでの約束で家に帰った。そんな私をみて、叔父が田原との縁談を進めてくれた。どうせ百姓するなら良い場所がいいと思っていたので、家の周辺が畑なのは、働きよいと思った。

〈田原家のこと〉
 眞稔さんもこの土地が好きだった。田原家は、五町歩の御朱印地を持っている神社だった。大谷には、白田外記、内記など御朱印地が多かった。この田原家は、本業は神職で、医業が副業だった。三代前頃は、寺子屋をしていて近隣の子弟を教えていた。兄が医者になる予定だったが、若くして死んだので後を継いだらしい。

〈『縄紋』を出していた頃〉
 考古学が好きだったので、入門書から専門書、までずいぶん多く読んでいたようだ。山形師範では、長井政太郎先生の弟子で、三面部落の調査の時の原稿も自分が書かせてもらった。昭和二十年に師範を卒業すると和合小学校に勤務した。この頃菅井進さんや大竹家と知り合った。私が結婚したのは、昭和二十六年だから、もう『縄紋』も終わりの方だった。今でも多くの人達から来た手紙が残っているが日本中の研究者と連絡していたようだ。後々までいろいろな連絡が来ていた。学校から帰って夜中になると原稿を書いていた。あまり遅くまで起きているので朝はつらかったようだ。学校に遅れて行ったりしていた。あの頃はそれでも勤まったが、今だったら勤められたか分からない。昭和二十二年に『縄紋』第一集出しているけど、あの時は紙の少ない時代で、教員になってからの給料は、ほとんど『縄紋』に使ったと思う。私は、一度も主人の給料を見たことがない。

〈東京大学で講演したことも〉
 日本中で『縄紋』読んでいたみたいで縄紋文化研究会には、日本中に会員がいたようだ。文部省から研究費をもらっていたこともあったが、経済的には大変だった。この研究には、会費とか会議とかいろいろなお金がかかったようだ。学術会議の会員にもなっていて人文学部の選挙権もあった。昭和三十年頃だったと思う。「縄文学の提唱」という題で、東京大学で論文発表してきた頃が、主人としては一番良い気分の時だったと思う。
それ以降、病弱な子がいて、母が病気になったりで、生活に重点を置かざるを得なくなり、学校を辞めたのだと思う。農業で生きられる人ではないと思ったので、私も、私の姉たちも学校を辞めないようすすめたが、言い出したら聞かない人だった。

〈縄文の博物館を作ろうとした〉
 学校を辞めたのが昭和三十二年です。私が畑、主人が給料と二つあるのが良いと思っていたが、りんごを始めていたので、それを本格的にするというので辞めた。学校辞めてりんご作ろうとしたのは「縄文博物館」を作るのが夢だったと話していた。にんごで生活を安定させて夢を実現しようとしたが、現実には思うようには行かなかった。

〈日本のシュリーマンに〉
 体こわしてからも菅井さんなんかが、改めて発掘しようとか誘いに来たけどあまり熱心ではなくなった。シュリーマンの様に大きなことをやりたかった。そのためにはお金が必要で、それで農業で生活の基礎を築きたいと思った。その頃、給料は安いし戦後の食糧不足の時代だったが、和合の方はりんごで景気が良かった。りんごで稼いで本格的に縄文の研究したかったのじゃないかな。大学の非常勤講師もしていたが、農作業が忙しくてそれどころではなくなった

〈何にでも研究熱心だった〉
 学校を辞めてりんごづくりと鳥飼もした。鳥飼したときも『養鶏の日本』なんて本を読んでいた。りんご箱でゲージ(鳥かご)を作って五百羽も飼ったことある。その卵を仙台のお菓子屋に売りに行ったり、塩釜から魚のアラをトラック一杯買ってきたりした。何でも大規模にしたい人だった。研究熱心で鳥のくちばし切ったり、羽根切ったりしてどうしたら効率良く育てられるか研究したりもした。
 りんごも作り始めると青森の渋谷雄三さんの剪定の本を取り寄せて勉強していた。剪定は、教えに行ったこともあるし賞ももらったし、本人も剪定が一番面白いと言っていた。でも、若いときから労働した人ではないから、労働の連続はできなかったのじゃないかと思う。
 大竹の叔父は、大分主人を気に入ったらしく、和合小から送橋に転任になるときなど教育委員会に異議申し立てをしたハガキもある。だから、石器も預ける気になったのだと思う。旧石器のことが次第に知られるようになってくると、山形大学生や石器に興味を持つ人が訪ねてくることが多くなり、仕事に影響するようになっていたし、柏倉先生や加藤稔先生等も見にいらっしゃったのを覚えている。その頃だったと思う。「山形大学に貸してやることにした」と言っていたのを覚えている。どなたと、どんな約束をしたのかは分かりませんが、貸してやったと言っていました。
 この家には、集めてきたいろいろな石器や土器が町から貰った収納箱に残っている。いつかどこかで展示できたら良い。

〈この土地が好きだから〉
 千年近くも続いている家なので、できるだけこの土地を残したいと思っていたのだと思う。ずいぶん苦労もさせられたが、夢のある楽しい人だったと思っている。個人でスプレヤー(消毒などの散布機)を採り入れたのも早かったし、自家用の車を入れたのも早かった。中古で買った牽引車を今も使っている。この土地を残してもらったおかげで、今も働けて何とか生きてこられたのだと思う。
眞稔さんもこの土地が好きだったから、ここでりんごづくりをしたのだろう。小さい時から自分が大きくなったら、この土地に住んでこの土地を守ると話していたらしい。
 本当にこの土地が好きだったのだろう。手相を見る人に、五十代で命に係わる病気をすると言われたと言っていた。四十代半ばで大病をし、五十五までの人生は短すぎたと思う。

お話 : 田原倫子さん
平成8年



〈幸運の重なった発見〉
 大隅遺跡については、本当にいろいろな幸運が重なって起こったのだと思う。明鏡橋の工事、大竹國治さんの発見、田原眞稔さんへの紹介、そして私が田原さんのを見せてもらって実測図を書いた。さらに、「縄紋」第三集に「粗石器に関して」として載せたことなど、幸運が次から次へと続いたのが大きな原因だと思う。

〈田原さんの指導があったからこそ〉
 私が「縄紋」に書いたときは、まだ十九歳で論文の書き方も知らなかったし、どういった説得で論を進めていったらいいのかも分からなかった。しかし、私は石器に興味があったので、いろいろな外国の文献も読んでいたのと、田原眞稔さんという考古学についての専門家が側にいたので、田原さんの助言で可能になったと思う。もともと石器自体も大竹さんから田原さん自身にお渡しになったもので、私の所有ではなかった。だから、この研究をするには、私が田原さん宅に伺って勉強させてもらいながら実測図を作った。

〈私にとり大隅は、考古学のすべてだ〉
 私が今まで考古学に取り組んできたのは、この最初に書いた『粗石器に関して』の論文のいろいろな不備を直すためにやってきたようなもので、これがなかったら今までやってこれなかっただろう。そして、東北大学教授の芹沢先生に目を通してもらい、この『粗石器に関して』の不審な点をなおすように書いたのが『山形県大隅の石器文化』という論文だった。

〈旧石器だと思っていた〉
 粗石器という言葉は、田原さんと私が「粗末な石器」だから粗石器と勝手に名付けたのではないかと思う。ただ表紙に粗製石器という言葉を利用しているのでその略語だったのかもしれない。ただ、私としては田原さんを含め、これは旧石器と思っていたことは確かだと思う。ただ日本では、洪積世のローム層での骨の発見などがなかったので、その頃は、無土器時代、先土器、先縄文時代という名称もできたのだと思う。最近は、もう旧石器という名前にだれもこだわらなくなってきている。

〈藤森栄一さんとの出会い〉
 藤森さんは、当時田原さんがしていた縄紋文化研究会の会員だったので、手紙のやり取りなんかがあった。それで一度私は長野県諏訪市の藤森さん宅に見学に行ったことがある。すると藤森さんは、考古学の研究会を作られていて、お弟子さん三人くらいいたのに紹介する時に「山形からカモがネギ背負ってきたよ。一生懸命勉強したらいいよ。」なんて言われたことがある。これは、旧石器かもしれないというのは、全国そっちこっちにあったと思う。だから全国でいろいろ研究していた人がいたのだ。私の場合、幸運に恵まれたのだと思う。山形県が旧石器の宝庫だったのと、たまたま大隅が最上川の河岸段丘の丘の上にあり、最も人間が住まいするのに適していたということがあって報告できたのではないか。

〈代用教員になった頃〉
 私が代用教員をしていたので、和合小学校で田原さんと一緒に研究できたのです。その代用教員になった時代は、教育委員会でなく先生たちが代用教員を選んだらしい。候補の一人は背の高い人、もう一人は背の低い私だった。先生方の多くは「背の高い先生の方が生徒に示しがつくのでいいじゃないか」と言っていたが、田原さんが「背は低くても菅井がいい」というので、私に決まったという話を後から聞いた。私が代用教員になれたのもこういう幸運があったからだろう。

〈大隅から始まって、大隅に帰ってきた〉
 昔、代用教員で教育に関わって、そしてまた、今も教育委員長という教育の仕事に関わらせてもらっている。また教育に戻ってきたのだ。大隅も同じで、大隅から初めて、大井沢遺跡などの発掘にも関わったが、今また大隅の再発見に関われた。また大隅に帰ってきたのだと思う。

〈旧石器の日本発祥の地という看板でも建てて貰えたら嬉しい〉
 大隅の発掘は、一九七九年に二日間おこなっただけだ。この時はあまりに出土品が少なかった。たった三点だけで、もっと多くの遺物が出土してほしかったが、それでも、石刃の出土位置が地表から九十センチメートル下のローム層の真上のところにあったのを確認できたのは幸いだった。そのまま掘り進んだら撹拌層にぶつかったので、見込みがないというのでやめた。でもあの台地はまだまだ将来発見できる余地はあると思う。
 ただ発掘すればいいというわけでもない。発掘というのは、間違いなく遺跡の破壊でもあると思う。吉野ヶ里遺跡だったか、一度発掘して、風化して駄目になるというので埋め戻したらしい。だから土の中にあと一万年も眠らせておいて、一万年ぐらい先の考古学者に委ねるという手もある。しかし、まだまだ大隅遺跡には可能性がある。できればあの地に「旧石器の日本発祥の地」なんて看板を建てて貰うと嬉しいのだがな。

お話 : 菅井進さん(和合)
平成8年


五百川峡谷の誕生1
                   佐竹伸一氏(常盤)
1 はじめに
 最上川は、米沢盆地から上山盆地へと流入することなく、米沢盆地の西北方にある長井盆地に迂回して、出羽丘陵を貫く五百川峡谷を北進し、左沢から山形盆地へと流れを進めています。
 最上川には五百川峡と最上峡の二つの峡谷があり、このうち荒砥〜左沢の約25kmが五百川峡谷と呼ばれています。
 今回の講座では、最上川が、隆起量が結果として最も大きかった所をわざわざ選んで流れ五百川峡谷を誕生させた謎を探っていくことにしましょう。

2 最上川の誕生
 今から1500万年前ごろ、東北地方の大半は深い海の底に沈んでいました。現在の山形県にあたるところも全域が海の底にあったわけです。1200万年前頃になると、東北地方全域に広がっていたこの深い海の中の所々に山脈のような高まりができ、海の中に盆地のような地形が形成されました。
こうした海盆化されたやや深い海は、1000万年前頃になると、広い範囲で地盤が隆起したことにより、さらに少しずつ浅くなっていきました。現在の地理で言えば、庄内から新庄・山形・米沢にかけての一体が長い入り江となり、入り江の両側は陸地となりました。ヤマガタダイカイギュウは、このような入り江に生い茂る昆布などの海藻を食べて生活していました。
500万年前頃になると、地盤の隆起はさらに進み、日本海から続く入り江は分断されて、米沢、山形、新庄の順に、ほぼ現在の盆地にあたるところが湖沼となっていきました。この時、各地に分断された湖沼をつないで誕生したのが原始の最上川であり、起伏のゆるやかな大地の中を悠然と流れていたのです。

3 五百川峡谷の誕生
 人類が誕生する第四紀という時代をむかえると、それまでゆるやかだった地形は、激しい地殻変動によって彫刻をほどこされることになります。山がより高さを増す一方で、盆地は沈降を続けながらも隆起した山地から運ばれてくる土砂で埋め立てられていくことになったのです。
先に述べたように激しい隆起活動が始まる以前、最上川はすでに本地域を流れの場として選んでいました。川幅は現在よりも広く、ゆるやかな流れでした。しかし、周辺の大地が隆起していくにつれて、そのような環境は激変していくことになります。水の働きによる浸食量より大地の隆起の量が上回れば、川はその流れを変えてしまいますが、浸食が隆起の量を下回らないかぎり、川はより深く大地を削りこんで周辺は切り立った峡谷となります。最上川の浸食の力と大地が隆起する力とがせめぎあい、数万年の時間をかけて五百川峡谷が誕生したのです。
こうした地殻変動は、山形県においては村山変動と呼ばれており、60万年前頃に始まったと考えられています。この変動によって、それまでのっぺりとした丘のような存在にすぎなかった朝日連峰が、断層運動を伴いながら激しく隆起し、現在のような高く深い山岳となっていきます。地殻にできた亀裂からマグマが上昇し、月山や蔵王山が誕生したのも同じ時期です。五百川峡谷の誕生は、こうした激しい地殻変動と一連のものなのです。
平成18年

佐竹 伸一(さたけ しんいち)氏
昭和57年(1982)山形大学教育学部卒業。山形大学理学部教授(地球環境学科長)山野井徹氏に師事。現在、河北町立谷地西部小学校教諭。
山形応用地質研究会幹事。朝日山岳会副会長。現代俳句協会会員・俳誌「小熊座」同人。
著書「朝日連峰の四季」など。また、「朝日町町史 上・下巻」に執筆。


五百川峡谷の誕生2

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア


4 五百川峡谷の二つの景観
五百川峡谷は上郷付近を境に、直線状をなす上流部と、段丘が発達し曲流が著しい下流部とに二分されます。五百川峡谷が地形的に二分される原因として、まず地質の違いがあげられます。地質図からも明らかなように、前半部は硬質な泥岩層であるのに対して、後半部は軟質なシルト岩や砂岩層です。また、もう一つの原因として、北方にV字形の口を開けた構造で隆起が起こったことがあげられます。V字形の内側は外側よりも隆起量が小さかったので、最上川に河道を選択する余地が残されたということです。地質の硬軟の差に加えて隆起量の程度の差が、五百川峡谷に異なる二つの顔を持たせたということができます。
また、五百川峡谷の下流部の地質構造を最上川と直交する東西方向の断面で見ると、地層が小さな褶曲を繰り返しつつも大局的には向斜構造となっています。このような構造は複向斜構造といわれるもので、最上川は複向斜の軸部付近を流れています。このことから、五百川峡谷の下流部において、最上川は最も隆起量の少なかった所を選んで流れていると言うことができるのです。

5 河岸段丘の形成 
山間部にある朝日町に貴重な平地をもたらしているのが河岸段丘であり、朝日町の集落のほとんどはこの段丘面上にあります。
 段丘は一般的には土地の隆起によって形成され、何段かの平坦面(段丘面)とその間にある崖からなっています。標高の異なる段丘をつなぐ道路は必ず坂道となるので、結果として朝日町には多くの坂道が存在します。 
本地域を流れる最上川、すなわち五百川峡谷の段丘面は五つに区分されます。現在の河床との比高は、段丘群鵯が200〜140メートル、段丘群鵺が140〜70メートル、段丘群鶚が70〜50メートル、段丘群鶤が50〜数メートル、段丘群鶩が数メートル以下です。なお、段丘群は標高の高い所にあるものほど古く、低いものほど新しくなります。
 段丘群鵯はほとんど残っておらず、宮宿柏原葡萄団地や和合平付近などにわずかに分布しているだけです。段丘群鵺は、和合平や能中のクヌギ平。段丘群鶚は、西部公民館のある熊の山、豊龍神社の丘陵、秋葉山の西側の段丘面などです。段丘群鶤には幅の広い段丘面が多く、松程・常盤・宮宿・和合・大谷などの段丘面があります。段丘群鶩は現在の河床沿いに低く分布しています。新しい段丘群が形成される時には、これまでに作られた古い段丘群は側方侵食によって削りこまれてしまうので、結果として古い段丘はあまり残っていません。
 この他、標高220メートル付近に、堆積物の多い埋積段丘群があります。これらは宮宿付近で起こったと考えられる山体の崩壊によって最上川が堰き止められ、その上流が湖沼となった時の湖沼堆積物からなるもので、杉山・沼ノ平・杉の原などはこの埋積段丘であり、20〜30メートルの厚さで砂や粘土が堆積しています。ちなみに、この堰き止めがあったのは段丘群鵺の形成が終わり段丘群鶚の形成が始まるまでの間ということになります。崩壊という自然の力でできた天然のダムは、自然の侵食の力によっていつしか消えてなくなってしまいました。
段丘群鶤が形成された時期は、木片の年代測定から3万年前頃であることが明らかになっていますが、この時期の最上川は現在以上に大きく曲流していました。その後、最上川は流路を直線的に変えたために、曲流の内側には丘ができ川跡は三日月湖となって残りました。すなわち、宮宿と大谷は、その大きく曲流していた最上川の川跡にできた町であるし、豊龍神社の丘と秋葉山は、その周りが最上川に削り取られることによってできた丘陵なのです。

平成18年

佐竹 伸一(さたけ しんいち)氏
昭和57年(1982)山形大学教育学部卒業。山形大学理学部教授(地球環境学科長)山野井徹氏に師事。現在、河北町立谷地西部小学校教諭。
山形応用地質研究会幹事。朝日山岳会副会長。現代俳句協会会員・俳誌「小熊座」同人。
著書「朝日連峰の四季」など。また、「朝日町町史 上・下巻」に執筆。

佐竹伸一さん(常盤)

五百川峡谷の誕生3

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア


 6 地すべりと活断層    
本地域の大地は、新第三紀の海成層が隆起してできたものであり、砂岩や泥岩などの地質からなるため軟らかく、もともと地すべりを起こしやすい性質を持っています。また、隆起量が多いところほど地すべりが発生しやすいという特徴があるため、本地域の山地部には地すべり地が多く分布しています。
 一般に、斜面を構成する物質が、斜面の摩擦抵抗を排して比較的ゆっくりと断続的に滑動する現象を地すべりと言います。本地域の山手にある集落は地すべり地にあるものが多いのですが、地すべり地は土砂が攪拌されていて耕作しやすい土地であるということが、地すべり地に集落を形成させた大きな要因であると考えられます。
 この地すべりの他に、本地域には数多くの線構造地形が存在することがわかっています。これらは、断層や褶曲によって形成された崖であり、この中には、活断層であるとされているものもあります。
 本町域において活断層とされる断層は、宮宿断層と常盤断層の二つです。宮宿断層は、大滝から栄町まで1.5キロメートルの断層であり、国道287号線部分が断層線にあたります。一方、常盤断層は西部公民館がある熊ノ山の丘陵とその周辺の二、五キロメートルにおよぶ断層です。どちらの断層も10メートルほどずれておりその変位量は1000年に0.5メートル程度であり、3千年から3万年程度の間隔で地震をおこすB級活断層です。

7 おわりに
 五百川峡谷の最上川にはたくさんの瀬が存在しています。こんな所は、最上川のどこにもありません。瀬が多い原因として、隆起帯にある五百川峡谷では岩盤を削りこむ流れであるために川床が浅いということ、最上川の中上流部にあり比較的に水量が少ないこと、最上川を横切る何本もの断層が存在していること、朝日連峰の主峰・大朝日岳を源流とする支流の朝日川からたくさんの花崗岩礫が供給されていることなどがあげられます。
 江戸時代、この瀬の存在が舟運にとっての多くの難所を生みだしていました。このことについては、次回の講座で詳しく語られることでしょう。また、これはあまり知られていないことですが、このたくさんの瀬の存在が最上川の水質浄化に役立っているのです。瀬では、多量の空気が攪拌され、汚れた水にたくさんの酸素が供給されるからです。
瀬を利用して作られていた数多くの簗場、近年盛んになりつつあるカヌーやボートでの川くだりなどは、五百川峡谷の成因と深く関係したものであると言えるでしょう。

佐竹伸一さん(常盤)
平成18年


〈仲を取り持つ明鏡橋〉
「ようぐ、こだい大きな機械来たもんだ」。
旧明鏡橋ができたのは、私が小学校を卒業するのと同じ年だったから、橋工事の様子や橋ができた時のことは良く覚えている。コンクリートを上げるタワーが高くそびえて、この静かな山村にゴーゴーと音が鳴り響いていた。子供ながらに、これは景気が良い、活気があるなと思っていた。
 あの当時は戦争中だったから、我々小学生は、工事現場にたくさん落ちていた鉄筋などの鉄くず集めをよくやった。当時はヘルメットなんてなかったから、拾いに行くと「来んなず、この野郎べら」とごしゃがれた。
橋が架かるまでは、大隅と栗木沢は、最上川をはさんでよく喧嘩したものだった。でも明鏡橋ができてからは喧嘩しなぐなった。私の母親はいつも風呂からあがると、「ここは大巻、向がいは栗木沢、仲を取り持つ明鏡橋」。こういう歌を歌っていた。          
(菅井敏夫さん)

〈終戦直後の明鏡橋〉
 私は昭和14年生まれだから、橋の方が2年先輩になる。小学校5、6年生の頃は、学校から帰ると、カバンなんかバーンと投げて、明鏡橋の下によく泳ぎに行ったものだった。橋から上流へ 150メートル位の間が泳ぎ場所だった。
 ある日、5、6人で泳いでいると、明鏡橋の欄干の上で大人の声がして、見上げてみると、欄干に20人ぐらいの大人が手をたたいたりして大声で笑っていた。しばらく立ち泳ぎしたりして遊んでいたら、上の方からチューインガム落としてくれた。落とせば、私たちが潜っては上がってくるから、その姿が面白かったのだと思う。今度はチョコレートも落としてくれた。そうやって30
分くらい遊ばせてくれて、最後にハーモニカを投げてくれた。しかし、そのハーモニカだけは、やっぱり沈むの早くて、子供の私たちは誰一人拾うことができなかった。終戦直後だったから、ガムでもチョコレートでもとても珍しくて、大変貴重なものをいただいたなと思った。帰ってから親に「何であだい大人の人いたんだ?」と聞くと、「アメリカの兵隊さんだ。進駐軍だ。」と教えてくれた。(志藤正雄さん)

〈恋の架け橋、ロマンの花咲く明鏡橋〉
 あの頃は、明鏡橋さ、栗木沢の人も大隅の人も関係なく、みんな夜な夜な集まってきて夜遊びしていた。んだがら私は、橋ができたのがうれしくてうれしくて、何べんも橋の上を走ったもんだった。みんな集まってきて夕涼みして、男女の出会いの場になった。別名「恋の掛け橋」と私は思っていた。事実何組ものカップルが結ばれた。そういう意味でも、橋が架かって本当に良かったと思った。(菅井敏夫さん)

 私の家は、旧明鏡橋のすぐ近くなので、青年会の方々が恋を囁いていたのをよく知っている。一晩に30人くらい集まって、「ワーワーワーワー」。笑った声、叫んだ声が聞こえ、それはすごかった。子供ながらにドキドキして眠れなかった。明鏡橋で何組も花が咲き、今でも幸せに家庭を持っている方がたくさんいらっしゃると思う。  
 もう一回、この明鏡橋を「ロマンの花を咲かせる朝日町の場所」にしたいというのが私の願いだな。(志藤正雄さん)

平成19年「明鏡橋思いで語り会」
※写真提供/堀敬太郎さん


〈事業のあらまし〉
 国営最上川中流農業水利事業は、朝日町四ノ沢からトンネルで最上川の水を取り、山形市と山辺町・上山市と天童市の一部を加えた三市一町にまたがる農地で不足する水を補っている。
 山形盆地の東側の馬見ケ崎川から一秒間に2t、西側の畑谷大沼、荒沼、玉虫沼などの西部湖沼群から3tまでとれるようになっていて、それで足りない分を最上川から最大8t(現在は4t)まで取水できる。馬見ケ崎川からは、現在1tしかとれない状況なので、ほぼ半分は最上川の水に頼っていることになる。主に須川より西側の西部地域の1500haの農地に使われている。国から委託され、私たち土地改良区が管理運営を行っている。

〈尊い命が犠牲になった大工事〉
 西部幹線トンネルは、山辺町の根際まで9.1kmの長さがある。その間の高低差が3.6mしかない。2500分の1のゆるやかな勾配を二時間以上かけてゆっくり流れてくる。工事費65億円をかけ、昭和48年の着工から10年後の昭和58年に完成。山形盆地の水田を潤し、江戸時代からの悲願が成し遂げられた。
 しかし、昭和51年と53年に、二度のメタンガス爆発で18人の尊い命が奪われた。掘削が1パーティ9人で、朝日町側と山辺側でそれぞれ9人ずつ犠牲になった。出口の山辺町に慰霊塔が建てられ、年に一度遺族の方も参加して慰霊塔の参拝を行っている。トンネルに入る時は、四ノ沢の入口の大きな扇風機で空気を動かし、必ずガス検知器を携帯している。


〈遠隔操作で用水管理〉
 ここは中央管理局といって、頭首工の様子や、揚水機(ポンプ)の運転状態を把握し、遠隔操作できるようになっている。大きなモニターには、四の沢頭首工(取水口)の現在の流れる様子も映し出されている。除塵作業は朝日町の鈴木さんに毎日行ってもらっているが、特に多い日は、再度連絡をし、除塵機を使って取り除いてもらっている。また、取水量の調整などがここでできるようになっていて、雨で増水した時は、たくさん流れ込まないようにゲートを下げ、水かさが減るとゲートを上げて、取水量を調整している。
 西部地域の水の流し方は、自然流下と、高い所までポンプアップして流し直す方法をとっている。六割が管路(パイプライン)になっている。ポンプが故障すると、黄色に表示されブザーもなる。管路の中が空にならないように三つのポンプはいつも稼働できる状態にしている。万一空になると、充水に一週間はかかってしまう。管が壊れるのでいきなり圧力をかけられない。壊れるとお金もかかるし、補修に時間がかかる。水が出ないとお金を出してくれている組合員の皆さんに申し訳ない。なので、取水し続けるため、ポンプの管理をし続けなければならない。そのような管理を夜中も泊まってここで行っている。
※写真は山辺町側の出口

お話 : 仁藤輝夫さん(最上川中流土地改良区管理課長)
取材 : 平成20年7月

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア


 舟運時代の五百川峡谷は、最上川最大の難所と呼ばれていました。元禄時代以前においては、滝や浅い川底の岩盤のため船の運航ができず、米沢藩の全ての物資の藩外輸送は山越えを強いられていました。元禄7年、米沢藩の御用商人西村久左衛門が、総工費一万七千両(現在で17億円)の巨費を投じて五百川峡谷の難所を開削しました。平成19年、佐藤五郎氏により30kmにわたる西村久左衛門が掘削した舟道遺構の存在があきらかになりました。

若月啓二さんのお話
五百川峡谷開削の歴史
横山昭男さんのお話
最上川舟運と五百川峡谷
佐藤五郎さんのお話
五百川峡谷の舟道遺構
花山傳夫さんのお話
花山家の船曵き絵

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア

魚の番人しながら
 私が子供の頃、昭和20年代の話だが、夏に、カヌーランドの所の西側の流れをまるっきりせき止めて魚を捕まえることがあった。私の父も、その4〜5人いた仲間の一人で、5年に1回位ずつ、2回やったことがある。コイやヘラブナがたくさんか獲れた。獲りきれない魚を誰かに持って行かれないように、夜通し“えるが汁”(塩クジラ汁)を食べながら、魚も焼きながら、番人として過ごすっていうのも芋煮会の一つだった。

なじみがなかった牛肉の芋煮
 青年会とか男女共同でやった芋煮会は、古い明鏡橋の少し上流や、橋の下の川原でやった。そこらにある玉石を重ねて、釜みたいに作って、大きな鍋を載せて、焚き木は流木が山ほどあるから心配なかった。今みたいに、「焚いで悪い、煙だして悪い」という法律もなかったから、もんもん焚いていた。
 こんにゃくやじゃがいも、えるがを入れて作るのだけれど、あの頃は余程の収入がないと、えるがなんて買えなかったから、安いほっけを入れたりした。青年会で、えるがを入れられたのは、今の年代でいうと76、7歳くらいの先輩方だな。
 それからあの頃、兎(うさぎ)の肉を入れて食べさせられた記憶がある。皮を売るためにどの家でも飼っていた。半年に1回位ずつなめした皮を買いに来る業者がいて、その時の肉を芋子汁にいれたりした。上手な芋煮会だとユウガオも入れたものだった。小麦粉とじゃがいもを練って作る“すっぽこ”も入れた。私などは、今の牛肉の芋煮には余りなじみがない。えるがとか兎とか、鶏や鴨の肉しか食べられなかった。芋子汁と言うよりは、えるが汁とか鳥汁、兎汁だったな。

夏の芋煮会は男女の出会いの場
 特に私が小学校四、五年生の頃は、青年会の人たちが賑やかだった。夜中の2時になろうが3時になろうが構わなかった。おまわりさんが来るわけでもないし、青年会の行事だって言えば、夜通し酒を飲んでいられるものだった。好きな者どうしが寄って恋愛の話をしたり、踊ったり、芋煮会は男女をそういう風に導いてくれるような集まりだった。明鏡橋は“男女の出会いの場”って前も話したけれど、橋の下の芋煮会もそんな風だった。でも、私が青年会に入る頃は少し冷めたような感じだったな。

すたれた夏の芋煮会
 えるが汁の芋煮会がすたれたのは昭和42年頃だった。理由はやっぱり物が豊富になったこと。それに上郷ダムができたから水が汚くなって、川に行かなくなったこともあるな。私などは昔のきれいな川を見ているから、今はあんまり行く気が起きないね。

お話 : 志藤正雄さん(栗木沢)
取材 : 平成19年


〈材料〉
じゃがいも、玉ねぎ、ささぎ、ゆうがお、にんじんなどの野菜、丸麩、いるか肉、味噌
すいとん…じゃがいも、片栗粉、小麦粉

〈作り方〉
1.丸麩を水に浸けておく。えるがはざっと洗って塩をとっておく。
2.野菜類を食べやすく切って煮えにくいものから水とともに鍋にいれ、水から煮立たせる。
3.えるがを小さく切って、煮立った2に入れる。
4.野菜が柔らかくなったら味噌をあんばいをみながら入れる。ささぎなど煮えやすい野菜もここで入れる。
5.水に浸けておいた丸麩を手でギュッと絞って、ちぎって鍋に加える。1〜2分煮立てさせる。
6.すいとんを作る。じゃがいもをすりおろし、片栗粉と小麦粉を混ぜてゆるい粥状にする。(スプーンですくってぼてっと落ちるくらい)
7.
煮立たせた鍋に、スプーンですくって入れていく。すいとんが煮えたら出来上がり。

お話 : 志藤三代子さん(栗木沢)
取材 : 平成19年


五百川峡谷の舟道遺構

                    佐藤五郎氏(米沢中央高校教頭)

〈舟道の発見〉
 毎年の水質調査時に、五百川峡谷の岩盤の所々に切り目が入っているのを不思議に思っていた。白鷹町菖蒲から上郷ダムまでGPS調査をした結果、人工的に堀削した舟道であることが分かった。目測だが左沢まで30kmに渡り同じような工事が成されている。これは、元禄時代の米沢藩御用商人の西村久左衛門が開削した遺構であり、国内最長の舟道といえる。

〈腑に落ちない工期〉
 西村が幕府に開削普請の願い状を出したのは元禄5年(1692)。翌6年(1693)の正月に許可が下り、6月に工事着工し、翌7年(1694)の9月には完成している。そしてすぐに、米沢藩の藩米13,700俵を長井市の宮から下している。しかし、30kmに渡る大工事を、たった一年三ヶ月位で出来るわけがない。私も腑に落ちなかった。

〈道開削の本当の歴史(私感)〉
 それはやはり表向きであったことが分かった。西村は、左沢の大庄屋海野家に「船は通れるようになったので、船頭の差配や舟屋敷を建てる土地の確保などをお任せしたい」旨を願った手紙を出している。それが幕府から許可が下りる一年前の元禄五年(1692)の正月のこと。これにより大部分の工事はすでに終わり、舟は通れるようになっていたことがうかがえる。
 西村は、京都から当時の舟道開削専門のゼネコン“角倉一門”の間兵衛(まへえ)という優秀な技術者を呼び寄せているが、それは船が開通した元禄7年(1694)のおよそ10年も前になる。すぐに開削工事の可否を調査させたのだろう。
 そして、貞享4年(1687)。51才の三代目西村久左衛門が引退している。その若さで引退したのはなぜか。おそらく工事が可能ということになり、御用商人の家業は息子に任せ、本人はいよいよ本格的に開削工事に取り組みはじめたことを意味しているのではないか。
 翌年の元禄元年には、大石田から舟大工を移住させている。これも開通する五、六年も前のこと。工事の為の舟作りを始めたのではないか。
 おそらく、米沢藩の内諾のもと、藩自身も内々に関わり領外の代官にも根回しをし、下流の左沢から上流に向かい工事を徐々に進めていたのだと思われる。そして、最上流部の黒滝を残し、ほぼ完成の状態に近づいたところで、開削普請願いを出したのではないか。黒滝だけの開削なら一年三ヶ月で充分やれただろう。
 工事は、平らな所を新たに掘るのではなく、所々にある自然の浸食による深みをうまく繋げるようにした。浅いへりや蛇行して出っ張っている岩盤を砕いてまっすぐにしていった。砕くのには、長さが1m位、太さが10cm位、重さは50kg位の先が尖った鉄のかたまりを4、5mの高さのやぐらから落とした。これは、計算すると水中の岩も砕ける破壊力がある。
 工事費は、一万七千両かかったとある。米で換算すると現在の20億円前後とされているが、当時の日当は一人米一升程度。現在の日当一万〜一万五千円とかで計算すれば二百億とか三百億円の額になる。30km区間の大工事も充分可能だったとうなずける。

〈期待される古文書調査〉
 朝日町・左沢間は、元禄5年あたりには工事は終わり、船の往来はあったと思われる。左沢はすでに船着き場の最上流地点だったが、朝日町区間は船着き場としての町並みが充実しはじめた頃と言える。関わる資料が残っていないだろうか。その視点でもう一度古文書等を調べ直して欲しい。
取材 : 平成20年7月

佐藤 五郎(さとう ごろう)氏
山形大学教育学部卒業後、昭和44年(1969)米沢中央高等学校教諭着任、副校長を務める。最上川水系の水質調査を同校科学部で指導され、平成5年(1993)からは毎年ゴムボートで流下しながら水質や河川環境の調査を実施。現在は国土交通省最上川水系流域委員会委員、山形県環境アドバイザーなどの各種委員を兼ねている。著者多数。

※写真は明鏡橋下の舟道遺構
舟道(明鏡橋下)

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