朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

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 私も上郷ダム建設で冬の間だけ稼がせてもらった。仕事の中身は番線曲げやもっこ担ぎ、セメント、パケットの掃除などいろんなことをしたっけなあ。日当は350円位だった。時には“こまわり”ていうて、ノルマを終わすと二時半頃に終わることもあった。川に中洲があったけど、そこにも畑があって舟で畑仕事に行ったりしたもんだ。はじめはダムの建設に反対したけど、役場も進めているし長いものに巻かれろってことで、賛成したんだ。んだげっと、今考えてみると、いい時代にしてもらた気がするなあ。花火大会もあったし、ワイン祭りもあるし、町や地域のためになったんだと思うな。あと、工事で犠牲になった人もいたけど、工事に来てだ人に嫁行った人も何人かいたな。とても賑やかな時代だったな。
お話 : 柴田つやさん(大滝)
取材 : 平成15年上郷宝さがし

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア

 大谷盆地中央の広い平坦な所は、水利に恵まれず、昔から荒地と湿地がほとんどでありました。水田といえば、山田や谷田で小さな溜池や沢水、わずかな清水(涌水)と、天気まかせの天水を利用して細々と耕作していたのです。その田んぼも、日照りになると、田は割れ、稲は枯れてしまい、毎年のように水不足に悩まされてきたのです。そんな時代が何百年と続いてきたのでした。      
 江戸時代になって、初めて大型のため池が二か所つくられました。それは山形藩主鳥井忠政預り支配のとき御普請所(幕府の公費)により、郡中の幕府領内の村々から大勢の人足が出て築かれたものです。内林のため池は寛永三年(1626)、西堤は翌年の寛永四年に完成したのです。     
 それから二十年後、慶安元年(1648)に村人だけの力(自普請)で中丸と猿田のため池二か所を構築したのです。これらの本格的な溜池四か所の完成により、盆地周辺の山裾一帯が新田開発され、耕地面積も倍増しました。しかし、平地を開田するだけの水量はなく荒地のままだったのです。

『水とくらしの探検隊〜大谷大堰編〜』より抜粋
編集 : 平成14年(2002)


 明治16年(1883)より毎年旱魃が続き、特に明治十九年は、歴史に残る大旱魃となったのです。田植後6月18日は一日雨。それより8月22日まで、五5、6回一時的な雷雨があったものの、65日間ほとんど降雨なく、連日摂氏30度以上の猛暑が続き、稲や野菜も枯れはじめ、収穫は半作という悲惨な状況でありました 
 油子沢新堰完成後20年にして、またもや水不足が問題となったのです。そこで衣沢に30日間通水できる大型の溜池築堤を村会で決議、明治新政府の基盤も弱く、国からの助成は困難な状況にありまた、村民に費用の全額を負担させることもできず、苦心相談の結果、村の有力者5人より、田地買上代として150円の寄付を願い、村民の協力で、難工事も順調に進み遂に完成したのが滑の股ため池(通称村堤または衣沢の堤)であります。
 明治23年建立の「滑股溜池碑」に総工費1,593円、総人夫1,050人と刻まれています。 
滑の股溜池碑写真

『水とくらしの探検隊〜大谷大堰編〜』より
編集 : 平成14年(2002)
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 大谷で最初に、大型のため池が御普請所(幕府の公費)によりつくられたのが、内林のため池です。今から377年前のことです。
 現在の潅漑面積は、7,1ヘクタールで内林水利組合が管理運営をしています 堰堤(えんてい)からは、大谷盆地全域を一望でき、春夏秋冬、季節ごとに変わる大谷の美田を楽しむことができます。   
 大谷の周辺には、昔あったものを含め、大小40以上のため池がありました。学校にプールができ、落ちると危ないからと親から注意され、溜池に寄りつかなくなりましたが、昔は溜池がレクリエーションの場でありました。特に、この内林の堤は、大谷地区のプールがわりに、毎日水泳や釣りを楽しんだものです。このように、溜池に関わった人、親しんだ人が大勢いたのです。

『水とくらしの探検隊〜大谷大堰編〜』より抜粋
編集 : 平成14年(2002) 
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 今から375年前御普請(幕府の公費)により築堤されたものです。この西堤も老朽化したため、5年の歳月と1億7300万円をかけ改修。平成九年に完成いたしました。   
 『大谷往来』に、西の「溜井に鷺立ち(つつみにさぎたち)」、名物は、西堤の鮒(ふな)の記述があり、当時は村一番の堤で、また鮒釣りの名所として有名だったのでしょう。       
 この堤の特長は、大旱魃(かんばつ)の時でも、三分の一の水は、大谷村の防火用水として残さなければならない約束事が今でも守られていることです。昔の人は不時の災害に備え万全の対策を講じていたようです。

『水とくらしの探検隊〜大谷大堰編〜』より抜粋
編集 : 平成14年(2002)
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 寺の創建は南北朝時代の貞治年間(1362〜67)。曹洞宗のお寺としては県内でも5本の指に入るほど古く、村の名を山号にした由緒ある寺です。白田内記藤原安重の懇情を受けた湖海理元和尚が開山し、本師の道愛禅師を一世としました。
 もとは虚空蔵菩薩御堂がある裏山の開山にありましたが、寛文8年(1668)盗賊の放火にあい全焼。21年後の元禄2年(1689)白田内記家が主になり現在地に再建しました。それから百年後の宝暦11年(1761)お盆の8月16日の晩、失火で再び消失。それ以降大谷の送り盆は1日早い15日に行うようになったといわれています。三年後、渡辺平治郎、大谷武助、白田六郎右衛門、大谷五郎兵衛が中心となり安永3年(1774)に現在の永林寺が再建されたのです。
『大谷郷』より抜粋
秋葉山エリア(大谷)
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※白山神社の隣りです。

 左陣は身長2.5m阿形(開口の形)の密迹金剛、右陣は2.4mの那羅延金剛です。文久3年(1863)に西の天満宮焼失で焼け残った仁王尊を明治3年(1870)に仮安置していた永林寺山門に再建しました。
 昭和21年には、台風で仁王門が倒れ体内から祈願札が発見され、元禄5年(1692)に京都の仏師井関宗意、同念性の二人の手によって作られたものであることが分かりました。(写真は那羅延金剛)
『大谷郷』より抜粋

永林寺
秋葉山エリア(大谷)

 元禄12年(1699)大谷大堰をつくった一人である白田内記則安の三男安豊(内匠)が病身のため、健康を祈願して独力で寄進したものでした。この梵鐘は京都の藤原国次という人が作ったもので名鐘といわれていました。しかし、昭和17年(1942)10月、戦争が激しくなり金属不足から供出させられ二度とその姿と音を聞くことができなくなりました。
 現在の梵鐘は、昭和42年(1969)に鋳造されたもので、これまでの梵鐘と重量、音色とも勝るとも劣らない立派なものです。
『大谷郷』より抜粋
秋葉山エリア(大谷)

 大谷盆地は水利に恵まれなかったため、大谷大堰や油子沢新堰とともにたくさんのため池が作られてきました。江戸時代に幕府が整備した「内林」のため池や「西堤」。村人達が自力で作った「仲丸」「猿田」のため池。大谷川を塞き止めた悲願の「馬神池(ダム)」など、昔は40個以上あったそうです。現在も10個以上のため池が大谷の水田を潤しています。平成22年3月「馬神池と大谷の郷」が、農水省の「ため池百選」に選定されました。(応募数600件以上)
※写真は谷地山のため池

主だったため池
馬神池
西堤
内林の堤
衣沢のため池
谷地山の睡蓮池
※詳細な位置はエコミュージアムルームにお問い合わせ下さい。
田畑開拓の歴史
秋葉山エリア(大谷)


Q1・・いつ建設されましたか。
上郷ダムの建設は、昭和35年11月15日に工事に着工し、昭和37年 2月23日に完成し、その日より発電を開始しております。

Q2・・どんな発電をしていますか。(発電)
最上川本川に高さ23.5メートルのダムを築いて水をせき上げ、それによって得られる落差により発電を行っています。

Q3・・どれ位発電していますか。(量)
発電所では、最上川より最大で毎秒百立方メートルの水を取水し、最大出力一万5400キロワットの発電を行っています。また、年間発生電力量は約8000万キロワット時で一般家庭約二万戸分となっています。

Q4・・どこに配電していますか。(場所)
発電した電気については、地元朝日町や山形周辺をはじめとするお客様に供給しております。

Q5・・どのような仕事をしていますか。
発電のために必要な水車・発電機等の機器の維持管理および洪水時のダム操作を行っています。

Q6・・苦労していることは。
上郷ダムの上流より、生活廃棄物等を含んだゴミが大雨のとき大量に流れてくることから、ゴミ処理に苦労しています。

Q7・・ゴミについての対策はありますか。
ゴミの処理については取水口に設置した移動式除塵機により、河川から陸揚げし、ゴミの分別のうえ、適正な処分およびリサイクルを実施しています。

Q8・・魚道について教えて下さい。
アユ、サケなどの魚が遡上できるように階段状の水路を設置してあります。魚道延長は330メートルあり、ダム水位に関係なく、常時毎秒一立方メートルの水を流しております。

Q9・・建設時のエピソードなど、その他上郷ダムについてご存じでしたら何か教えて下さい。
当時発電所の建設工事は昼夜兼行で進められ、多くの組員や行員、それに地元からも大勢の老若男女の労務者が出て工事現場で働いていました。そんな中で長い期間の大工事ともなれば、そこここの工事現場に何時しか美しいロマンスの花が咲き、寸時の休みを惜しむようにしてささやき合っている何組かのカップルが発見されたそうです。そのロマンス組がやがて実を結び、発電所工事が完成し世の人々に明るい灯を送る頃、めでたくゴールインしたと聞きます。

ご回答 東北電力株式会社山形支店
    電力流通本部土木グループ 笠原信年氏(平成20年)

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア


 旧西五百川小学校三中分校は、明治十五年に建てられたものであり、非常に古い校舎です。
 全国的に見て、学校としてはもちろんのこと、明治初期の時代に建設された三階建ての建物で現在まで残っているものでは、大変珍しいものとなりました。山形県内でも同時代の三階建ての建物は、おそらく三中分校しか現存していないと思われます。
 創建当初の姿については、設計図などがないために詳しいことは分かりませんが、現状から見えるこん跡や申請図として提出された『三中村学校新築建図』(図2参照)を参考にすると、二階の窓は現在よりずっと少なく、縦長の細い窓が相互に離れて配置されていた可能性があります。部屋の間取りや外観についても、時代とともに改修を重ねたようです。
 現在の建物の概要(図1参照)を説明すると、木造三階建てで、総二階建ての建物の上に、面積を縮小した三階が載った形となります。基礎は自然石を切り出したものに直接柱が建つ石場建てです。窓の開口部は片引きや引き分け障子戸を用いています。壁の部分は和風の土蔵造りで、壁に空けられた丸窓が大きな特徴となっています。
 本来丸窓は、西欧のレンガや石を積み重ねる組積造りでできるもので、当時の日本にその技術はありませんでした。三中分校の丸窓は、土蔵造りの白壁に丸い型枠をはめ込む「擬洋風的建築手法」で造ることにより、洋風に見せる努力をしたと考えられます。このようなことから、創建に際しては、まったく西欧指向がなかったとはいえないと思います。
 要するに三中分校は、明治初期の時代において、和風様式を基にした、堂々たる白亜(白壁)の三階建ての建物で、学校建築としては、非常にざん新でユニークな存在であります。大工の棟梁の名も明らかであり、在来の伝統的技法に従いつつも、意欲的な西欧建築への指向も見える、地元大工棟梁の苦心の作といえます。
 一部に改修の跡も見えますが、保存状態は良好です。明治初期の地方における学校として、また当時の新しい建築に対処した地元棟梁の技量の知られる作例として貴重であり、建築史上、文化財的価値は高いものと考えます。現在、破損が進んでいる所もあることから、今後の利用方法も考え、その保存修復には、十分の考慮を期待しています。

講演 東北大学名誉教授 佐藤 巧 氏
(旧三中分校シンポジウム基調講演(平成10年)より)


 今もやっている遊びに「春の山遊び」がある。山菜がうまく、りんごの仕事が忙しくなる前の春盛りに、冬から開放された喜びを身体の内外から味わうものになっている。
 村のみんなに山遊びのことを連絡し、当日の役割分担を決め、村で一番高い高森山か、村を一望できる田の頭の古峯神社に歩いて登り、途中の旧道の由来や清水、種まきこぶしなどをお年寄りから聞きながら,春の陽を浴びながら進む。その中で興味のあったものに「館山にあったお城のお姫様弥生姫が紅葉狩りにきた伝説のある「緋の沢」の話がある。そんな話を聞きながら頂上に着くと別動隊が朝から準備していた昼の宴が始まる。
 昼の宴は、山菜をふんだんに入れた「いれか汁」と鰊汁。途中採ってきた山菜をその場で天ぷらにして振る舞う。子供は自家製のりんごジュース、大人はビールに日本酒を注ぎこみ、つらかった冬の話や四方山話が満開になる。帰りはいっぱい気分でぽかぽか陽気の中をゆっくりと下って来る。そして段取りを含め三日の春遊びが終了する。…と思ったら公民館に入り、山遊びの反省会となる。山から里遊びになり夜も深まっていく。これが送橋の春の山遊び。

お話 : 清野孝一郎さん(送橋)
取材 : 平成17年(2005)

 夏の送橋川での遊び。瀬になり広くなっている場所に石と草などを使ってやや大きめの池のようなものを作る。その池の水をふんどし一丁の姿で、井戸かきの要領で水を干していく。仲間数人で汗だくになってがんばるが、最初は全然水が減らない。やはり川の水が入ってくる所があり、また水止め作業を行って掻き出す。やがて岸辺の草が大きく垂れ下がるようになると魚の背中が見えてくるようになる。掻き出す動きも益々早くなり出し、のどもカラカラになってくる。一番低い所に魚が集まり始める時がもっとも興奮する。気をもんで「かぶたれ」する者が出てくる。それを尻目に魚を捕まえ篭に投げ入れる。懐かしく楽しかった夏の思い出。

お話 : 清野孝一郎さん(送橋)
取材 : 平成17年(2005)

 和紙づくりは、昭和41年頃まで夫が主に冬仕事でしていた。私も手伝いをしていたが、漉き方は1年しかしていない。和紙作りは夫の母がしていたことだが、どこから伝承されたかは分からない。古槙部落では多い時には5軒くらいで和紙作りをしていた。材料のコウゾは家の付近に植えてあるもののほか、八ッ沼などの西五百川方面から購入しソリで運んでいた。できた紙は主に障子紙として使われた。宮宿の近江屋などに納品していた。

〈製造工程〉
1.コウゾを60センチ程度の長さに切る
2.桶をかぶせて半日くらい蒸かす
3.あたたかいうちに皮をはぐ
4.村の人に委託し、皮から黒い表皮をはぎ取ってもらう
5.その白い内皮を煮る
6.すりこぎ棒より大きめの棒で叩く。(家族みんなで)
7.水を張った舟に入れる
8.目の粗い布に入れて水分をとばす
9.水にニレの根を加工したものをいれた紙すき用の舟にいれる
10.紙を漉く
11.漉いた紙を取りやすいようにクグ(草)をはさみこんで重ねる
12.万力で水分を搾る
13.厚手のトタン状のものに貼る
14.下から水蒸気をあてて乾かす
15.周囲の部分を切りそろえる
16.20枚位に束ね出荷する
※蒸かす桶は古槙和紙組合の共有だった

お話 : 清野よし子さん(古槙)
取材 : 平成17年(2005)