朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

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代々神楽(獅子神楽)と天狗について

志藤 富男さんのお話

■お神楽の始まり 

 お神楽は、昭和3年頃、東(第6区)の青年会で初めてやった。宮宿の豊龍祭りのお神楽を教えてもらったんだそうだ。獅子頭は浦小路の原信敏さんの家からの借り物で、原さんの神棚さ飾っておくものだった。
 練習は、今みたいに1週間も10日もすねがったな。31日の午前に枠を組んで、一発勝負だった。太鼓と笛だけは一週間前から田んぼの真ん中の稲干場で練習していた。
 お神楽(獅子頭)は、目としわ三本と歯を金紙で貼りかえて墨で塗った。目は少し恐ろしそうに書いた。今みたいにしっかり塗られていながったからそうしたんだべな。桐だったから軽かった。踊りお神楽は、飾りお神楽と作りが違うんだ。鼻が長くてたがくのに、ちょうど良くできていた。耳も動いた。
 昔は、幕が蚊帳みたいな麻で出来きていたから少し見えたんだ。今の幕は真っ黒でいくら明かりがあっても見えなくて、胴に入っている人は、どこ歩いているのか分からねなよ。
 出る時には、お神酒を少しだけ飲むだけ。今みたいに酒飲みお神楽ではなかったな。
 20人は必要だった。天狗1人、提灯2人、頭2人、首や胴に6人、太鼓は1人で背負った。笛は最低6人。3人ずつ交代して吹いた。鐘1人。尻幕かつぎ1人、後ろにも小さい提灯2人いた。お神楽を踊れるのは25歳位までの若い人だ。歳とってからでは、怪我してしまう。
 お囃子は、東の時は今でも生笛だけど、他の区の時はテープに録音したものを使っている。東の笛を吹く人達が録音したんだ。太鼓を入れると笛が聞こえなくなるから、笛だけで録音した。一ヵ所ちょっと止まる感じの少し違うなと思う所があるのは、テープを繋いだ所だ。太鼓も鐘もそれさ合わせて叩いている。
 太鼓は真ん中を叩かないといい音出ない。歩きながら叩くからうまくいかないことがあるようだ。

■お神楽の役割
 
 昔は、照明なんてなかったから、前を歩いている天狗の両脇の大きな田楽提灯の灯りだけが頼りで、天狗と離れられなかった。「天狗ば、ぶっ飛ばしてやるなよ」とよく言った。今は、天狗ばっかり早く歩いて来て、お神楽が来なくなっていることがあるな。
 案内役の天狗と、神輿の前を悪魔払いする役割のお神楽は一緒に歩くのが本当だ。天狗の提灯には、一つには「代々神楽」、そしてもう一つに「悪魔払い」と書いてある。
 東では、昔のように白い足袋にわらじを履かせるから、冬の間に作らせておく。寒のうちに作るのがいいって言うな。昭和10年頃までに生まれた人でないと作れないべな。
 枠の幕は、細長い一反の布を横に10枚合わせて作った。大谷十次郎郵便局長が寄付してくれた。これまで3回位換えたな。今は舗装道路だからいいけど、砂利道だと水たまりで幕が汚れて干したりした。雨が降ると幕に水が染み込んで重たくなって大変だった。特に頭と首の間は重たかったね。

■大切な尻幕

 お神楽の頭と首までが2間、胴が2間、尻は2間以上あって尾っぽになっていた。今のは少し短いみたいだな。尾っぽの尻幕はブレーキ役で、身体に巻き付けて、その人がぎゅっとすると止まるんだっけ。そうすると胴体がそっちゃ行ったり、ほっちゃ行ったりしないんだ。
 2回目に作った幕は、尾っぽがなかったから止まらなかった。「そーれ」と言ってどこまでも走って行く。だだだーっと、まっすぐ突っ込んで、ずるずるずるとバックしたりしていたけれど、お神楽にバックはないな。尻幕する人がしっかりしているとそんな事はなかったんだ。邪魔だと思って尾っぽを切ったけのかもしれないな。
 俺もしていたけど、道路を右往左往に踊りながら進むんだっけ。今の踊りはまっすぐ行くから、幕につっかえてぶち転んだりしてしまう。横に上げて身体ごと行くと幕につっかえたりしないし、人にお神楽をぶつけたりもしない。

■暴れお神楽

 昔は、暴れお神楽ではなかったな。今と違って道は暗いし、狭いし、今みたいに暴れたくても暴れられなかったね。
 俺は昭和18年からかぶった。今だったら高校1、2年。昭和20年は終戦だったからおそらく出なかったと思う。昭和19年は、出る時に空襲警報が鳴ったから、提灯もつけないで村社に行って来て終わった。かが(妻)もらうまではしていたから、12〜3年はしていたな。
 ほかに出られなかったことがあったのは、当番制にした年に大雨になった時と、村中集団赤痢になった昭和30年。風祭りをしなかった。
 当番というのは、東だけで大変だということで、各地区でまわすようになったんだ。初めの年(昭和46年)は立小路と田中が担当した。ところが大雨降ってお神楽出せなくて、悔しくて次の日に、神社まで行って来たって言っていたな。
 次の年は、高木だったが、誰かが暴れ獅子を教えたんだ。練習の時に弥次右衛門の塀さぶつけてお神楽割ったりしていた。高木は3年続けてしたな。
 次に峯壇が担当だったけど、やっぱり走ってばかりいるっていうので区長から頼まれて教えに行ったことあった。でも、本番になるとやっぱり暴れたな。踊る人が4人も5人もいるから、1人あたり少ししかできなくて面白がって暴れてしまうなだ。前は2人だけで交代して踊っていた。消防本部さ突っ込んだりするようになったのもそれからだべな。
 お神楽は静かに恐ろしくみせる人が上手。たがき方は、あごを見せずに下向き加減にするとおっかなく見える。右に行っても左に行っても、常に道路の真ん中を見るようにする。あさって(見当違い)の方を向いては魅力ない。

■天狗

 天狗も大変だった。先頭を両脇の提灯の灯りで、面の鼻の穴から足下を覗いて歩かんなねがった。おらだの時は2本下駄だったが、前は1本だったな。天狗が早く歩けば行列も早く終わるものだった。
 天狗の装束は白かったから目立ずっけな。天狗のひげと髪は青苧で作るっけ。金紙で目と口を貼りかえた。
 天狗の手ひかえは子供1人。人のいない所は高下駄をせったに履き替えたので、それを持ってもらったりした。高下駄で足くじいたなんてあったからね。
 昔は甲種合格すれば兵隊に行がんなねがったから、その人を天狗にさせた。天狗すると、死なないで帰って来れるとよく言ったものだった。
(取材/平成24年7月)

志藤 富男(しとう とみお)氏
昭和3年(1928)大谷生まれ。昭和18年〜30年頃までお神楽の頭役を務める。東在住

大谷の風神祭
小径第15集『大谷風神祭』


■白田辰雄さん(峯壇)

 昭和十年頃に「肉弾三勇士」の屋台が出たっけな。これは、昭和7年の満州事変で、敵陣の鉄条網を破るために、3人の兵隊が細長い爆弾を抱えて自爆するという実際にあった美談だ。
 峯壇の白田綱右エ門さんと、長岡重雄さんは、満州事変に実際に兵隊で行って来た。その2人が帰って来て、長岡五郎八さんもまざって、その武勇伝を屋台にしたんだ。生きていたらみんな百歳くらいだな。
 車がなかった頃だから、五郎八さんの仕事で使っていた馬車車に乗って人が引っぱったんだ。新聞かなんかで、7尺くらいの爆弾を作って、その馬車車の上で突っ込むのを寸劇にして演じていた。綱右エ門さんは、親子で金鳩勲章もらったんだ。
 それから、「天野屋利兵衛」も覚えている。赤穂浪士を武器で応援していた商人利兵衛が奉行の取り調べで拷問を受けて、しまいに「子供を火あぶりにするぞ」と脅されるけれど屈しなかったという武勇伝だ。長岡寛治さんが小学校1年生位の時に、その利兵衛の子役で屋台さ乗ったんだ。寛ちゃんは今77、8歳だから、70年位前になるね。


■榊寿太さん(立小路)

 戦前の私が子供の頃は、もの凄い大きな祭りだと感じていた。
 おしろいや紅をつけて衣装も着せてもらって踊らんなねがった。それは、選ばれて出るので、出られた子供はとても誇らしかった。
 屋台は飾りをつけた馬車車を子供達が引っ張った。子供はいっぱいいたからね。「わっしょい、わっしょい」と声かけ合ったり、「うさぎ うさぎ 何見てはねる 十五夜お月さん 見てはねる」なんて、歌ったりしてみんなで引っ張って歩いた。
 「養老の滝」の屋台なんかは記憶あるね。親孝行の息子が父親のために滝を流れる酒をヒョウタンにくんでくるという昔話だけど、その物語風景を杉皮なんかを使って屋台に作るんだ。滝は下に洗濯するたらいを置いて、行列している間、上から水がちょろちょろと流れるような細工がしてあった。人形も作って置いた。田中にはそういうのを得意な人達がいてよく作るんだっけ。金をかけないで作るんだ。田中が今も昔話をいろいろ演出して上手にしているのはそういう立身的な背景があるからだと思うね。


■堀敬太郎さん(立小路)

 この辺では昔から「屋台」と言っている。普通一般的にはお店という意味になるべな。でも、「山車」と呼ぶと何だか大げさで「屋台」と言ったほうが庶民的でいいなよ。おらだはずーっと使っているから、そのほうがいいな。
 白田八十二さんの本には、大正時代から屋台を出していたとあるけれど、おらだは戦争頃からのことしか分からないな。きっと、屋台はしていた時もあり、途切れた時もあり、また復活したというようなことを繰り返してきたのではないか。
 戦後は、子供達が引っぱった荷馬車を舞台にして、各区それぞれの持ち唄や踊りを披露した。立小路は「おいとこ」、峯壇は「徳利踊り」、浦小路は「村は土から」、東は「消防踊り」などだった。特に「村は土から」は新しい発想の踊りで大好評だったことを覚えている。しかし、この手踊り屋台も長続きはしなかったね。
 立小路(第1区)では、平成元年にテレビで流行っていた志村けんの「バカ殿」したのが始まりだった。町報の表紙に載ったんだけど、その記事見ると、屋台が峯壇と立小路と田中と高木の風神太鼓と4台出はったと書いてある。風神太鼓は、学校の先生に作曲してもらって、高木の子供たちが教わって、ずーっと今まで続けているんだ。
 各区の練習や準備は、盆すぎあたりからだね。夜公民館でやっている。みんな勤めているから夜の7時半とか八時頃からする。その頃は、どこの公民館も賑やかなんだ。屋台の組み立ては、盆過ぎの最初の日曜日あたりの昼にする。
 各区とも、準備も練習も色々なアイデア出して面白おかしくするんだけど、みんなまとまるんだ。区民の融和が、風祭りの果たす役割ってこともあるね。
 この屋台が出るようになったのは、各区に公民館ができたのもあるのでないか。昔は、お神楽出すのでも、大きい小屋を借りらんなねがった。練習したり、枠作ったり拠点となる場所が必要だからね。花火屋の小屋を借りて提灯書きした覚えもある。
 昔は、風祭りを見学する親類縁者がどこの家でも泊まりがけで来たなよね。だから女の人は、ごちそう作ったり接待さんなねくて、風祭りの行事一切は男だけがしてきたんじゃないかと思う。男が女役しているんだよね。化粧とか、着付けとかは、若妻や婦人会の人がしてくれる。でも、だんだん人手不足でやって行けなくなるので、決まりはないのだから若い女の人も出てくれるといいんだげどね。

(取材/平成26年3月)

大谷の風神祭
小径第15集『大谷風神祭』

大谷風神祭バネルディスカッション
「大谷風神祭のこれからを考える」

バネラー
菊池和博氏(東北文教短期大学教授)
白井淑浩氏(大谷風まつり実行委員会)
堀敬太郎氏(風和会)
白田敏男氏(大谷角田流獅子踊り保存会)
コーディネーター
長岡信悦(NPO法人朝日町エコミュージアム協会

■長岡 ただいまからパネルディスカッションを始めさせていただきます。パネリストの方からご意見いただきますが、ぜひ地域のみなさんからもお考えなどを聞ければと思っております。

■白井
 今年の大谷風神祭も、地区のみなさんから大変なご奉仕をいただき例年通り行うことができました。心から御礼を申し上げます。
 ただ、長い間、祭礼の時だけは雨に降られたことがなかったのでありますが、今年は、どういうことか大変強い雨が降ってしまいました。途中で区長が集まり相談をしたところ、子供の田楽提灯以外はとにかく続行するべ、となりました。花火も四十一発打ちそびれましたので、来年の風祭りに多く上げるようにいたします。
 さて、私が実行委員長になって七年目になりますが、今年も実行委員会は七月の中旬に一回しただけです。安全協会さん、消防団さん、商工会さん、そして氏子会の皆さんなどで、今年は三十八名に集まっていただきました。その後は、それぞれの皆さんが分担通りにしてくださり風祭りは行われます。そして、祭りの後にもう一度集まって決算報告をご承認いただいて、一杯飲んで終わりとなります。これは長い歴史と伝統の中での大谷地区の連帯感や責任感などの賜物でないかなと思っています。

■堀
 風神祭に関しては、明治二十二年に北部地区が合併し大谷村になった折りに発行した『大谷村史』に載っています。
 神輿巡行ですが、順路は今まで大きく三回変わっています。もともと神輿は、現在の白山神社あたりにあった「天満宮」に保管していたものでした。この天満宮はおよそ二千五百坪の境内を有し、素晴らしい格式と歴史のある神社だったのです。そこから高木地区の若衆が担いで、永林寺、立小路を下って、横小路に行って、小学校跡にあった白山神社で宮司の小野さんが出迎え、行列が整い、そこから出発するという具合になっていたようです。
 その天満宮が、明治維新五年前の文久三年三月三十日に全焼した時からは、白山神社にその御神体や御神輿を収め、そこから出発したと書かれてあります。
 終戦後、白山神社に対してGHQ(進駐軍)から「学校の側に神社があるとはとんでもない。早く移転しろ」という命令がありました。私は、これは反対だと思うんですね。千何百年、白山神社はそこにあったわけで、あとから明治になって小学校がその隣にきたので、小学校を移転すろと言いたいところでした。
 昭和二十一年の五月に、今でいう村民大会を開き移転先を話し合いましたが、まとまらず、とりあえず解体だけし、昭和二十五年十月に現在地に移転しました。そして、翌年からは現在のような巡行順路になったようです。
 行列については「白山神社の別当が先導して天満神社の神官白田外記以下、神官保利内匠、同白田惣吉郎他、村役一同これに従って、前後左右を各戸から出た高張提灯で囲み巡行する」と書いてあります。ただ、各戸で高張提灯(たかはりちょうちん)というのは間違いだと思います。風祭りは農民の祭りであるということから言っても、高張提灯を各戸で持つ余裕があったのかなと思うのです。実際は、庶民的な、自分で作り、書くこともできる田楽提灯だったと思われます。
 それから、神楽獅子については「前に加わり(後(のち)のことなり)」と書かれてありますが、代々神楽は昭和三年頃に東地区の青壮年の方たちが、宮宿の豊龍神社の大獅子を習いに行って、それを大谷の風祭り、夜祭りに合うようにアレンジして作ったんだと、以前に白田常松さんから聞いております。ですからこの文書はいつ書いたのか少し疑問は残りますが、大体間違いないんじゃないかと思っています。
 そしてとにかく、昔から近郷近在より参詣人がすこぶる多く、露店もすこぶる繁盛したというふうに書いてあります。昔から露店が来ていますが、やはり儲かるから来ていたのではないでしょうか。花火を打ち上げて祭りをよりいっそう彩るということも書いてあります。

■白田
 昭和四十七年に、師匠の先輩方から教えてもらって四十年になります。始まりは、第四区の若者たち「チョンガー会」の芋煮会の時のこと。獅子踊りの道具が北部公民館の押し入れに入っていると聞き、「我々で復活させよう」と盛り上がったのでした。そして、その勢いで連合区長だった鈴木幸次郎さん宅を訪ねてお願いしたのですが、「飲んだ勢いで出た話では引き受けられない。出直して来い」と断られました。そして、もう一度集まってみんなの気持ちを確かめてから、改めてお願いに行きました。「ほんとにいいのか」と何回も電話ももらい、やっと「分かった」と言ってもらいました。二十四歳くらいの若者達のこと、連合区ではきっと大きな問題になっていたのだと思います。
 師匠は、白田芳美さん、亡くなられた大谷武助さん、石井好男さん親子、そして鈴木正一さんにお願いしました。元は四十五分の踊りだったのですが、師匠さんたちのアドバイスでいい所をとって十五分につめて踊ることになりました。口でピーローピーとか、ドンドコとか言いながら練習しました。
 生の笛に合わせて踊るのは難しくいろいろ苦労しました。踊るのが大変だから笛をしてみるかとやってみると、音なんか出るものではなく、頭がふらふらしてしまうようなものでした。(笑)
 始めた頃は二十年続けることを考えていましたが、その後、町の無形文化財、県の無形民俗文化財となり、なかなかやめられなくなりました。(笑)
 毎年、風祭りの他に、白山神社のお祭りとか、永林寺の十五日の送り盆の供養として踊っています。練習後はビールを飲んで、これからの部落や大谷のことを話しながら、いいコミュニケーションとなっています。会員は二十七人。親子でやっている人もいます。
 昨年から衣装も立派に交換していただき、これからも頑張らなければいけないなと思っています。

■菊地
 実行委員会一回だけで済むというお話は、やはり、かなり基盤が確立していらっしゃるんだなと思いました。これはよその地区では、必ずしもこういうわけにはいかないのです。協議も意思確認もままならず、共通理解にいたるまでなかなか大変で、結果的に住民参加型に形だけはなっても、実態は一部の人間だけが、というのが多くなってきているんですね。祭り・行事・芸能と、住民の方々の「絆」はそれだけ薄れてきているんです。
 だけど、東日本大震災が起った後、沿岸の方々が仮設住宅に住むことを余儀なくされて、やっぱり元に戻りたいと言ったときに祭りや芸能っていうのがものすごく故郷意識を呼び起こすものであり、気持ちを一つにするには、とても大事だっていうことが見直されてきていますよね。
 私達山形は今、少子化、高齢社会になり、絆の意識の希薄化っていうんでしょうか、だんだん合理的な考え方の浸透する中で、簡略化の傾向が強いです。みなさんには風神祭をずっと同じ形のままで維持していただきたいなと、いっそう強く思った次第です。
 それから、明治二十二年の『大谷村史』のお話が出てきましたけど、やはりそこでもすでに露店がたくさん出ているってことは、賑わいはそこからずっと連続しているということが分かります。儲かるっていうことは、それだけ人が集まって買ってくれるということ。それだけ集まる祭りなんだということがよく分かります。
 全戸から高張り提灯が出ると書いてあるのは疑問だっておっしゃっていましたが、やっぱり疑問ですね。高張提灯は、卵型のたたみ伸ばせるいわゆる提灯のこと。そこに書いてあることは、「高く掲げる提灯」という意味に理解したほうがいいのかなと思います。あくまでも形は角形の田楽ですよね。やっぱりこの田楽提灯はかなり以前からあったんだろうと思います。
 私の東根市の田楽提灯の行列は、始まりは明治以降だっていうのがもっぱらです。ひょっとしたらこちらのほうが古いかもしれませんね。東根が習ったのかもしれません。大谷に誰か見学に来て、俺たちも七夕でやりたいとなったのかもしれないです。その辺のことは分かりませんが、いずれにしても伝統あるということだろうと思います。
 あと、大谷の獅子踊りを、親子でやっている方があるというは羨ましいですよね。なかなかこれが他の獅子踊りの団体さんは継承に苦労しています。財政問題もそうですけど、芸能が今一番直面している課題です。
 私は、こういう芸能の団体さんの集まりで、どうしたら後継者が作れるでしょうかって、よく質問されると、うまくいっている事例を挙げるんですが、これからは大谷のこともいい参考事例に加えさせていただきます。

■白田進さん(質問)
 菊地先生にお尋ねします。永林寺の三浦蔵人のお墓見てきたと聞きましたが、大谷はもともと官軍の地なんです。それで庄内藩がある時点において賊軍だったもんだから、白田外記は庄内藩につかまって首を討たれたっていうことです。私の父がよく言っていたことがありました。一緒に打ち首になった東根の若宮八幡の宮司の息子さんが三浦蔵人さんなので、東根と大谷は繋がりがあったんじゃないかと。

■菊地 
 おっしゃるとおりです。三浦家は若宮八幡神社の代々の宮司で、蔵人も幕末の神主です。白田外記も天満宮の宮司。同じ官軍側の新しい時代を開こうとして、気持ちが一緒だったんでしょうかね。庄内軍に捕まえられて、寒河江川の臥龍橋近くの川原で首討たれたという、これは歴史的事実ですね。永林寺に二つ碑が並んで眠っているということで、私と皆様はそういう意味でも繋がっているのですよね。田楽提灯の行列が双方の神社で行われているというのもその縁かも知れません。東根と大谷、歴史を遡るとこんな因縁というか、縁があるということだと思います。

■白田進さん(質問)
 花火のことですが、昔、白田藤三郎さんが、自分のところで花火を作って自分のところで寄付金を集め風祭りのときに花火を上げたということをお聞きしましたが、何かそれに関する資料とかあるんでしょうか。

■堀
 昭和三十六年の町報あさひに、花火に関する詳細が出ています。
 大谷地区では江戸時代から花火を打ち上げておったといわれておりますが、本当かどうかの確証はありません。しかし、この記事には、江戸時代には火薬の取り扱いは医者が扱っており、白田内記家が白田医者を製造元として「旭連」という連を作ったと。そして白田外記家は、ちょうど今の鈴木床屋近辺にあったといわれる浜田医者を製造元として「松本連」をつくって、お互い競い合って花火を打ち上げておったと書いてあるんです。それが明治になり、警察がほとんど火薬を取り扱うようになって、勝手に花火を作ることができなくなり、さあ困ったということで、東の白田藤三郎さん(昭和三十九年に亡くなって、ちょうど今年が五十回忌)を福島に花火師として養成するためにやったと。そこで勉強して大谷に戻り、松本連、旭連を解消しまして「旭連金玉屋煙火製造販売業」という会社を興して、大正十四年まで製造販売もしたと。ちょうど愛宕様に火薬庫があったと昔の人から聞いておりますし、実際製造したことは間違いないと思います。私たち小さい頃はよく花火屋、玉屋って呼んでいいました。今も屋号は花火屋ですね。白田八郎さんの小屋に行ってよく花火の殻なんかも見たことがあるので、製造したことは間違いないと思うのです。それが大正十四年まで続いたというふうに書いてあります。
 そして明治四十三年に東北の花火大会に白田藤三郎さんが出場して、第三位になったんだそうです。その時の賞品が柱時計なんだけど、残念ながらこれはないそうです。今は孫さんが打ち上げを現在も継続してやっています。

■長岡
 では、風神祭のこれから、もっとこんなところもということをお話下さい。

■白井
 私はさっき申し上げましたように、風祭りは長い歴史と伝統の中から続いているわけであります。この前、風和会で堀さんから新庄に連れて行っていただいて、新庄祭りの歴史の説明があったんです。新庄祭りとおそらく大谷の風祭り同じ頃始まったのでないかなと、その時思ってきたんですけども、新庄祭りは宝暦六年から始まったんです。そうしますと、大谷の風祭りも今年は二百五十七回目となるのではと、ちらっと思ったところでありました。
 そういうふうな意味合いからいきまして、私は八月三十一日というこの記念すべき日でもありますので、日曜日にずらすとかしないで、この日の開催を長く続けていきたいなと思っております。私は連合区長あと二年任期がありますので、来年と再来年はがんばってさせていただきますが、雨だけは降らないようにだけはしたいというふうに思っています。(笑)どうぞよろしくお願いいたします。

■堀
 やっぱり、なんといっても大谷の風祭りの一大特徴は田楽提灯です。これをもっと多くしたいですね。戦前は一戸から一人必ず出なければならなかったので、最低二百人は出ているはずなんですね。多く出るような方法を色々策がないものかなと考えています。この田楽提灯だけはどうしても長く継続してもらいたいです。
 それからもう一つ、盛り砂ですね。村の中を見ますと最近どうも途切れ途切れになってるような感じがします。大変だけども今までどおり長く続けていきたいものだなと考えております。
 それから御神輿ですが、最近は「ワッショイ ワッショイ」っていうのが流行っていますが、大谷の場合は厳粛に粛々と練り歩きます。ということは、中に御神体が入っていますから、各戸でお参りしてお賽銭をあげるのです。豊島宮司の話では、このような神輿は、昔は結構あったそうですけど、今はあんまり無いのだそうですね。これもすばらしい伝統の一つではないかと思っております。

■白田
 私も獅子踊りしてから四十年風祭りに参加しています。最初に屋台を出したのは私達で、その次が峯壇だったと思います。
 先ほど菊池先生がおっしゃったように、自分達でやるということが一番賑わいのもとになっていると思います。立小路は現代もの、田中は子供に向けたもの、高木は風神太鼓とお神楽、浦小路は獅子踊り、峯壇は時代もの、東は風神神輿と、各地区でやるのは素晴らしいことだと思います。
 西川町海味の愛宕神社氏子会の皆さんが、去年に引き続きタクシーで見にきてお祝いをいただきました。「こんな小さな集落で、なんでこんなに大きなお祭りできるのか」と感心していました。
 これからも各区でがんばって風神祭を続けてもらいたいと思います。

■長岡
 お集りいただいたフロアの皆様方からも、風神祭のこれからについてご意見などをいただきたいです。

■遠藤貞悦さん(感想)
 栗木沢の遠藤です。詩の同人誌で阿部宗一郎さんが、祭りが例祭日ではなく日曜日に開催されることが多くなったことについて「現代のお祭りは神様に合わせずに人に合わせている」と書いていらっしゃいました。大谷は二百十日の前日の祭りということもあるが八月三十一日を守っていらっしゃる。
 「籠に乗る人、担ぐ人、そのまたわらじを作る人」という言葉がありますが、本日はそれぞれの立場で努力なさっている皆さんの話を聞き、お祭りはみんなで盛り上げるものなんだなと大変感動しました。みんなで努力して脈々と続けていく。そのことに尽きるのだなと思います。大変勉強になりました。ありがとうございました。

■白田慎一さん(質問)
 盛り砂の件ですが、小さな頃に「その砂にお前だ上がって悪いなだ。御神輿様がはじめに歩くなだ」と言われた覚えがあります。汚れた道を、塩の代わりに山の新しい砂を持ってきて清めておいて、自分のうちのところまで来てもらうとのことでした。
 それと遠藤さんから話のあった風神祭の期日の件ですが、やはり私が連合区長していた時に、その問題が出たことがあります。若い人たちから、おらだも出られるように、前後の日曜日とか土曜日に変更したらどうだと、喧々諤々そうとう問題になりました。けれども、二百十日にしなければ、風の神様の本当のお祭りにならねんねがとのことになりました。

■菊地
 この大谷の風神祭の特徴的なことは、やっぱり手作りの祭りだろうと思います。地元の人たちが自ら手間隙をかけて、作業の忙しい合間を縫ったり、お仕事の疲れた体に鞭打って公民館に集まって、一生懸命練習あるいは準備をする。そういうことを通して、地域の方々がみんな仲良く楽しくという、大事な原点を忘れずに続けてらっしゃる。今、祭りはインスタント的で、簡略化・省略化して済まそうという傾向が非常に強いのは残念なことです。開催日を土日に変更するというのもその一つかもしれない。でも、それでうまくいってるかというと、そうでないのがたくさんあります。要は、そこに住む方々が祭りというものを、いかに暮らしの中で身近に感じて、人との繋がり・絆をつくるのがきっかけだっていう意識を持っていただくかだと思うのです。そういうことが大谷ではうまくいっているということで大変感動しました。
 それから最後にもう一つ、先ほど六十代でも獅子踊りはこれからというような力強い白田さんのお言葉を聞きました。今日ここにお集まりになっている皆さんは、簡単に祭り・芸能行事から引退しないで下さいね。もう六十、七十代隠居、現役引退だとか言っている時代はもう前の時代です。あと十年、二十年と現役意識でこの祭りをひっぱっていただきたい。私も六十四歳です。私もがんばりたいなと思います。「五十、六十代は鼻たれ小僧、七十代から働き盛り」というような言葉をうたい文句に、七十、八十代の方々はそのくらいの気持ちでやっていただきたいです。今日はほんとにありがとうございました。

■白井
 本日は大変長時間にわたりご参加いただきましてありがとうございました。今、先生から引退しないでくださいってお話がありましたが、たしかに大谷の風神祭は、体が不調な方以外はあらゆる方が参加しています。行列には出なくとも、各区の公民館に設けた本部で、接待係をするなど、いろんな形で参加していただいております。末永くお元気でそういうふうにがんばっていただきたいと思います。
 それから、やっぱり今のお祭りっていうのは人に合わせているんだと思います。豊島宮司さんも資料でおっしゃっていますが、現在、例大祭は七月の十七日に一番近い日曜日にしていますが、これも人に合わせてしているから流行らないのです。私は氏子会のみなさんに、どうせこんなに流行らないなら七月十七日に戻したらいいんねがと提案しています。
 風神祭の日程についても、先日の反省会で一人の方から私に話しがありました。「来年はまた日曜日にあたるので問題ないにしても、いずれそういうようなこと考えないんでしょうか」と。私は考えませんと申し上げました。というのはお勤めの方々が大分おられるわけですが、確かに後片付けとか準備とか当日の行事とかってなると前後併せてひまだれしなければならないことは分かります。でも、どうかお勤めの方は正月明けて年始のご挨拶を社長からいただくときに、各上司に「私のところ八月三十一日にお祭りなので是非、年次有給休暇をお願いします」と言っておけば駄目だっていう会社はないです。それを三日前位に言うから駄目だって言われるのです。
 どうかひとつ二百十日の縁起というふうなことを考えていただいて、そのようにしていただければとお願いしたところです。今後ともみなさんひとつよろしくお願い申し上げます。本日は大変ありがとうございました。

■白井 淑浩さん
(大谷風まつり実行委員会委員長)
昭和17年(1942)東京都生まれ。疎開により父方の大谷に移り住む。平成16年朝日町助役退職。平成19年より大谷連合区長。大谷風神祭シンポジウム実行委員長

■堀 敬太郎さん
(風和会会長)
昭和3年(1928)大谷生まれ。平成元年より、郷土史セミナー(町立北部公民館事業)世話人代表。平成8年、大谷郷土史学習会「風和会」設立。同会長を務める。

■白田 敏男さん
(大谷獅子踊り保存会副会長)
昭和22年(1947)大谷生まれ。昭和47年大谷浦小路の若者有志らと大谷獅子踊り保存会を発足。獅子踊りは昭和57年に朝日町無形文化財指定、平成3年には山形県無形民俗文化財に指定される。白田電気工事店代表。

■菊地 和博さん
(東北文教大学短期大学部総合文化学科長)
昭和24年(1949)生まれ。法政大学文学部哲学科卒業。文学博士。 県立高校教員、県立博物館学芸員などを経て現職。 専門分野は民俗学・民俗芸能論。

■長岡 信悦
(NPO法人朝日町エコミュージアム協会理事長)
昭和25年(1950)常盤生まれ。昭和47年山形大学教育学部卒。その後、山形県公立学校教員として西村山管内の小中学校に勤務し、平成22年宮宿小学校長で退職。現在は朝日町町史編さん専門員・文化財保護委員。

(大谷風神祭シンポジウム 平成25年(2013)9月29日 峯壇公民館)


大谷風神祭
小径第15集『大谷風神祭』



大谷風神祭シンポジウム基調講演
大谷風神祭の特異性 〜あの賑わいはどこからくるのか〜

菊地 和博氏(東北文教大学短期大学部総合文化学科長・教授)

■はじめに

 子供が小学五、六年生の頃、夏休みの社会科の自由研究で白山神社と永林寺にお邪魔したことがありました。そこで何を一緒に調べたかといいますと、私の住んでいる東根市の若宮八幡神社神主三浦蔵人(みうらくらんど)と大谷の白山神社宮司の白田外記(しらたげき)が、永林寺に一緒に眠っていることでした。幕末にこの二人は組んで、薩長、薩摩・長州の官軍に対抗しようとして兵を上げたのですが、途中の寒河江川臥龍(がりゅう)橋あたりの川原で首切られるんですよね。
 それから、私はシシ踊りを全国的に調査しており、大谷の獅子踊りのみなさんにも大変お世話になっております。シシ踊りは、静岡県の真ん中あたりの掛川市にわずか一団体あるだけで、だいたいは神奈川県以北の東日本にしかない民俗芸能なんです。
 こちらでは、十五日の送り盆の時に境内で踊られますが、今となっては珍しいことです。東北地方では、ほとんどそういう風習はなくなってしまいました。現在は神社のお祭りなどで踊られていますが、本来は東北地方のシシ踊りは亡くなった方に対するお盆の鎮魂供養の踊りなんです。
 さて、大谷の風神祭は十数年前にはじめて訪れて素晴らしいなと思ってから、二、三度友人たちと来ています。ここに『山形県の祭り・行事調査報告書』というものがありますが、私は村山地域を担当しました。調査執筆委員が、これは特に取り上げたほうがいい祭りだな、と思うものを掲載する方針だったのですが、その一つに大谷の風神祭を選ばせていただきました。
 このようなことで、私は大谷にずっと親しみを感じています。今日はこのようなかたちでお招きいただくとは夢にも思っていなかったので、とても嬉しいです。


■風神祭のはじまり

 大谷の風神祭の由来・伝承を改めて確認しますと、白山神社の行事と
して宝暦年間(一七五一〜一七六四)に始まっていることが一つ大きなポイントです。宝暦五年は「宝五(ほうご)の飢饉」と言って、特に東北地方に大飢饉が起こった年です。この風神祭は、豊作祈願を祈る切実な気持ちで始められたということが見えてきます。神社とその集落の人々の暮らしと一緒になって作られてきた祭りなのだというふうに思います。
 さて、打ち上げ花火が明治以降加わっているということですが、どういう理由で始まったのかをご存知の方はあとで教えていただきたいんです。
 実は、全国の先がけでもある隅田川の花火は、江戸時代に飢饉で食べ物が無くて死んだ餓死者と、さらに、餓死する前に栄養失調になって体が弱り、疫病が蔓延して死ぬ疫死者の供養として花火を打ち上げられているのです。新潟県の長岡の花火大会は、戦死者を供養するねらいで始まりました。二年前の東日本大震災の夏もやはり供養の花火という意味で沿岸沿いで打ち上げられました。「三陸海の盆」と称して、花火を打ち上げて、弔いの芸能のシシ踊りや鬼剣舞などを踊りました。
 風神祭で田楽ちょうちんを持ち歩いていることや、供養の踊りである大谷獅子踊りが加わっているということなどは、やはり宝暦の餓死者などの供養という意味で加わった可能性もあると思います。

■盛り砂

 神輿が通る道筋に、大きな道路から細い路地、そして家の前まで点々と二、三十cmぐらいの間隔で「盛り砂」がまかれています。これは神の通る通り道を示しているんだろうと思います。これほど丁寧にやっている所というのはなかなかないです。祭りのとても素敵な風景ですね。
 この盛り砂というのは、古い時代に儀式や貴人、尊い人を出迎えるとき、車寄せの左右に高く盛る砂のことを言います。また、御所車みたいな牛車に位の高い人が乗って到着した家、その前の左右にも三角型に砂を盛るんですね。場合によっては、盛り砂の一番上に神社にある御幣を立てます。それから、お祭りで御神輿が一泊する場所の御旅所(おたびしょ)にも、ここに神がいらっしゃるということを示すために盛り砂をします。
 ですから、大谷の盛り砂はそれぐらい神様を尊くお迎えする神祭りだということを示しているのだと思うのです。私は、今まで見たことがなかったものですから最初に見た時はびっくりしました。これはとてもいい習慣だと思いますのでぜひ続けてください。


■参加型の祭り

 さて、資料の「大谷風神祭の特異性」というタイトルに「あの賑わいはどこからくるのか」と、あえてサブタイトルに付けさせていただきました。小規模な集落なのに、あれぐらい多くの、しかも若い小・中・高生たちが集まるっていうのが、私にとっては疑問だったのです。そこに何かカラクリがあるんだろうかと思うほどでした。
 ひとつはっきり言えることは、地区民参加型ということ。地区民が主役である参加型の祭りって意外とないんですよ。どうしても集客力アップのために、よそから歌手や漫才師などの有名人や演技者を招いて主役として組み立てることが多くなっていますが、こちらはまさに地元の人を資源として大事にし、それを基本として企画立案されています。ここがなんといっても素晴らしいことであり、祭りが盛り上がる要因になっていると思います。


■屋台(山車)

 具体的に言いますと、一つに屋台の寸劇・出し物が見事です。舞台から解き放たれた、路上でパフォーマンスをやっておられます。区によって出し物がかち合わないように、またバラエティーに富むよう棲み分けをしておられる。
 ここに飾っていらっしゃる大きな絵は、今年の屋台で使った人気ドラマ「水戸黄門」のバックに使った図柄ですよね。「西遊記」もやっていました。以前はNHK大河ドラマの「利家とまつ」や昔話の「花咲か爺」や「桃太郎」をおやりになっていた記憶もあります。民話・昔話などの題材はとてもいいですよね。日本人の心みたいなものを、このお祭りの賑わいの中で、それとなく、あまり説教調でなく伝えている。芝居って非常にいいですよね。
 そうかと思えば、いきなりの現代もの「ぱみゅぱみゅ」とか、昨年はダンスチームもあって、今流行の踊りや芸能を取り入れてやっておられる。古いものだけでなく、新しいのも一緒にやることによって若者も参加しやすい。そういう意味で大変成功している例ですね。路上でやるっていうのが、見る者・演じる者が一体化しやすくいいですよね。


■田楽提灯(でんがくちょうちん)

 子供たちの参加ということで、各自が持って行列する田楽提灯。祭りの中に、参加の時間と空間がちゃんと保障されているのですよね。みんなで祭りを盛り上げるんだという思いを、子供の頃から体験させている。提灯も出来合いのものを買ってくるわけじゃなくて、手づくりということがまたいい。そして、近代的な灯りではないロウソクが中でボーっと灯って、まだ真っ暗ではない夜の帳(とばり)が降りる頃に、たくさんの提灯がスタートする。中々いい光景が見られます。
 この田楽提灯のパレードというのは、実は私の東根市でも「動く七夕提灯行列」ということで毎年八月十日の夜にやっています。戦前からあり、以前は子供の集団の先頭に音楽隊が付いていました。私も小さい時に参加したんです。音楽隊のうち小太鼓をさせていただいたり、それから田楽提灯に自分の好きな絵を描いて、友達と持って歩きました。
最初にこちらにお邪魔した時、同じものがあるということでびっくりしました。向こうが七夕提灯行列、こちらは風神祭の提灯行列なんですよね。
 これと同じのは秋田に割りと多いんですよ。秋田県上小阿仁村の「ネブ流し」。やっぱり七夕の提灯行列です。それと、岩城町の「刻(とき)参り」は、主に将棋の駒みたいな形ですね。でもこれらがどこで繋がっているのかどうか、その背景や理由を明らかにするのはちょっと難しいですね。
 近年、なかなか子供が少なくなり大変な側面があるかと思いますが、ぜひ続けていただければなと思います。


■角田流獅子踊り

 大谷獅子踊りが風神祭に加わっているというのも特徴の一つですね。
 ここの獅子踊りの伝来は宮城県の角田市から伝承されたとされますが、角田市には今現在獅子踊りはないんですよね。かつてあったことも、もちろん考えられるんですが、角田流っていう名前が、どこからそうなったのかがいま一つ分からないのです。
 今後の手がかりとしてシシの頭数があります。大谷の獅子踊りは三頭のシシ踊りですよね。あと、八ツ沼獅子踊りもそうです。でも、三頭というのは山形県では置賜だけなんです。村山・最上・庄内は、最低でも五頭です。それからあと七、八、というふうに多くなっていきます。東北のシシ踊りは頭数が多いです。関東のシシ踊りが三頭なんです。不思議なことに、この三と五と七とかっていうシシの頭数は、同じ市町村内や地区内でごちゃごちゃあるっていうことは絶対にないんですね。不思議なほど一定のエリアで棲み分けが出来ているんです。これは、東日本全域見てもそうなんです。この頭数からシシ踊りの根拠というか伝播されたかっていうことがある程度分かってくるんです。このことから、大谷獅子踊りは、村山地方南部でありながら置賜圏域に属するものだということがわかります。
 これを考えるのにもう一つヒントがあるのが暴れ獅子です。

■獅子神楽

 あばれ獅子は、村山地域と置賜地域との文化的融合性を感じさせるものです。あばれ獅子のあの姿ですが、何人か中と外に複数で幕を支えています。そして時折元気につっこみますね。そして地面を這うように頭(かしら)を動かす。なかなか見事で凄い芸だと思います。あの踊り方は、やはり置賜なんです。置賜は“黒獅子”とか“ムカデ獅子”というのですが、黒獅子と呼ぶのはカシラが黒いからなんです。 大谷のは赤いカシラですよね。これは見慣れた「唐獅子系」なんです。ところが置賜の黒は「蛇頭(じゃがしら)系」と言って、蛇とか龍とかを意味しカシラが平べったい。大谷のは少しカシラが立ってる。置賜はムカデ獅子であり幕の中に二十人くらい入るんです。南陽の熊野大社のシシ(「獅子冠」といいます)は、大谷みたいに脇からひっぱってますね。中にも入ってる人いますけど、さらに外にも出ている。
 以上、シシが三頭であることやムカデ系獅子舞ということから、大谷は村山地域と置賜地域の境界にあたっていることもあって、双方の文化的要素が溶け合ったということが考えられる。


■望まれる参加型の祭り

 私が住んでいる東根市の若宮八幡神社にも「風祭り」があるんです。今は八月最後の日曜日にやっているんですけど、私が小さいころは盛大な祭りだったんです。この祭りでは「若宮八幡神社太々神楽」という神楽が、毎年境内の舞台で演じられています。江戸時代から続く素晴らしい芸能です。そのほかに子供の相撲大会、これも少なくなったけれど今もやっています。それから剣道大会、柔道大会には、近隣から境内が溢れるほど大人や子供がやってきたんです。そして出店もこちらと同じくらい並びました。大谷が四十店近く出るというのは凄いことです。八幡神社では今ではもう少なくなって三つか四つくらい、まったく寂しくなりました。
 私はその神社の四軒下った場所にある家に育ったので、小さい頃の賑わいをはっきり覚えています。境内で相撲してみたり野球してみたり、神社とともに育ったみたいです。そのお祭りは楽しくて心待ちにしていました。学校は半分休みで、相撲大会に出るため授業は午後から終わり。昔の学校って地域と一体で、お祭りがあるとお休みだったんですけどね。今は、そういうのがないのは残念です。
 大谷ではずっと江戸期以来の賑わいを保ち、参加型が続けられていますが、これとは正反対に東根の若宮八幡神社の風祭りでは地元参加型がほんとに少ないんですよ。
 こちらの風神祭は子供や大人ともに七区あげて参加する。屋台、出し物それぞれ工夫を凝らしてやる。その練習も辛いだろうけども楽しい。参加するための練習を公民館で一生懸命やって、そこで人間関係が作られる。祭りの時の披露だけでなくて、子供も大人も準備の段階がとっても大事なわけですよ。私は、まざまざとその比較ができますので、こちらの賑わいが羨ましくてしょうがない。やっぱり若宮八幡神社の風祭りが賑わいを取り戻すためには、地域住民が参加してみずから楽しむ企画内容を工夫しなきゃ駄目だと思いますね。ただ来て下さいだけではなく、その祭りを見る人も一緒に楽しむという、そういう空間・場をつくらないといけないだろうと思います。


■神なき祭りと神々の祭り

 最後になりますが、現代の祭りは、あんまり祈り・願いなんて考えない「神なき祭り」が増えている。つまり、祈りを捧げる神様などはあまり意識しない「よさこいソーラン」なんてやっていらっしゃる場合が多い。それに対してこちらの祭りは、伝統の祭り、神々の祭りなんです。白山神社の神に対する、あるいは風の神に対する切実な祈りと願いですね。それらが中心として成り立っている祭りなのです。
 そういう意味で、私たちは自然に対する畏れや祈りを取り戻す必要があると思いますね。あの大震災を経験して自然の威力を感じ、やっぱり私たち人間のやれる範囲っていうのは限られていることが分かりました。科学技術も大事だけれども、やっぱり風の神、山の神、田の神、川の神、海の神とか、そういう自然の神々への祈り・願い、畏れ敬う気持ち、つまり信仰心を持ち続ける。傲慢な気持ちを排除して敬虔な気持ちになって、自然と折れ合いながらささやかな幸せを求めていかなければならないと思います。 
 風神祭というのは、風の神に対して五穀豊穣、悪疫退散、身体堅固、地域社会の平穏な生活の保証を切実に祈り、願いを託する。近代社会になって合理的な世の中になっても、こういう心を大事にすることによってそこに暮らす人々の絆が深まり、集落にまとまりが出来ていく。それが、小さくてもキラリと光る大谷をつくりあげているんだと思っています。ぜひ住民参加型を大事にしてこの祭りを続けていってください。


菊地 和博(きくち かずひろ)氏
昭和24年(1949)生まれ。法政大学文学部哲学科卒業。文学博士(東北大学)。県立高校教員、県立博物館学芸員などを経て現職(東北文教大学短期大学部総合文化学科長・教授)。専門分野は民俗学・民俗芸能論。主な著書は『シシ踊り 鎮魂供養の民俗』(岩田書院)『庶民信仰と伝承芸能』(岩田書院) 『やまがた民俗文化伝承誌』(東北出版企画)『山形民俗文化論集1 やまがたと最上川文化』(東北出版企画)『手漉き和紙の里やまがた』(東方出版企画)など。」

大谷風神祭
小径第15集『大谷風神祭』


 朝日町には山形県指定無形文化財の角田流獅子踊りが、八ッ沼地区と大谷地区に伝承されています。今年は8月15日に両方の獅子踊りが披露されます。旧暦閏年の今年は八ッ沼春日神社大祭で大名行列が行われ獅子踊りも披露されます。また、大谷地区は毎年送り盆の15日に「供養獅子」として永林寺境内で披露されます。両方見られるのは4年に一度のチャンスです。ぜひご覧下さい。

■八ッ沼獅子踊り 午前8時半春日神社祭礼 9時10分に神社出発     
■大谷獅子踊り 午後5時半過ぎより永林寺本堂前
※時間は前後する場合があります。お早めにどうぞ。

※写真は大谷角田流獅子踊り
八ッ沼の大名行列と獅子踊り


 八ッ沼春日神社例大祭の大名行列が行われる8月15日、同地区内の旧三中分校舎(県指定文化財)を見学できます。エコミュージアム案内人が解説いたします。また、町内で伝承されている火縄銃実演(森重流砲術伝承会)も見学できます。一石三鳥です^^ぜひご覧下さい。
 ■ふるさと歴史探訪(無料)
 ・旧三中分校舎 10:00〜14:00
 ・火縄銃実演  10:30〜11:00

詳しくはこちら
ふるさと探訪
旧三中分校について
大名行列について
  
※写真/萩原尚季(コロン)

今年は旧暦のうるう年なので、朝日町八ッ沼の春日神社例大祭で大名行列が行われます。
 ■8月15日午前8時半 神社奉納後に行列出発

詳細はこちら
八ッ沼の大名行列
お通り絵図(コース)もダウンロードできます。

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(記事 / 町報あさひ 昭和36年(1961)8月5日号より抜粋)

堀敬太郎さんのお話

 昭和三十六年の町報あさひに、花火に関する詳細が出ています。
 大谷地区では江戸時代から花火を打ち上げておったといわれておりますが、本当かどうかの確証はありません。しかし、この記事には、江戸時代には火薬の取り扱いは医者が扱っており、白田内記家が白田医者を製造元として「旭連」という連を作ったと。そして白田外記家は、ちょうど今の鈴木床屋辺にあったといわれる浜田医者を製造元として「松本連」をつくって、お互い競い合って花火を打ち上げておったと書いてあるんです。それが明治になり、警察がほとんど火薬を取り扱うようになって、勝手に花火を作ることができなくなり、さあ困ったということで、東の白田藤三郎さん(昭和三十九年に亡くなって、ちょうど今年が五十回忌)を福島に花火師として養成するためにやったと。
 そこで勉強して大谷に戻り、松本連、旭連を解消しまして「旭連金玉屋煙火製造販売業」という会社を興して、大正14年まで製造販売もしたと。ちょうど愛宕様に火薬庫があったと昔の人から聞いておりますし、実際製造したことは間違いないと思います。私たち小さい頃はよく花火屋、玉屋って呼んでいました。今も屋号は花火屋ですね。白田八郎さんの小屋に行ってよく花火の殻なんかも見たことがあるので、製造したことは間違いないと思うのです。それが大正十四年まで続いたというふうに書いてあります。
 そして明治四十三年に東北の花火大会に白田藤三郎さんが出場して、第三位になったんだそうです。その時の賞品が柱時計なんだけど、残念ながらこれはないそうです。今は孫さんが打ち上げを現在も継続してやっています。
(大谷風神祭シンポジウム・パネルディスカッション 2013.9.25)
エコミュージアムの小径第15集『大谷風神祭』より抜粋

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大谷の花火打ち上げ
大谷の風神祭
空から人形!?人形傘花火
小径第15集『大谷風神祭』


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白田寿春さんのお話

〔祖父と父のこと〕
 うちは玉屋とか花火屋とか呼ばれている。じいさんの藤三郎が花火を作って打ち上げていたんだ。そして、親父の八郎がその後を継いだ。だけど、花火製造は、規制がだんだん厳しくなったのと、危険を伴う仕事だったのでしなかったんだ。
 じいさんの花火を作る木型とかあったけね。火薬を入れる丸い紙のお椀を作るもので、木の球になっている。そこに何枚も何枚も紙を重ね貼りして、最後に包丁を入れて二つに割るんだな。刃物の跡がついていたっけね。三寸玉とか五寸玉とかのお椀を、昔は、そうして全部手作業で作っていたんだな。
 子供の頃、白山神社のお祭りや学校の運動会の日に、昼間の花火を上げるんだけど、ちょうど学校の裏のほうの田圃で親父が打ち上げるから自慢だったね。その頃はパラシュート入れてあったから、それを拾いたくてみんなで田圃の中をこいで行ったりもした。じいさんもそういうのを作っていたようだ。殻玉も魔除けになるからみんな拾うもんだったね。
 親父にはよく追っかけていって打ち上げする所を見ていた。大船木の橋が完成した時や上郷のダム祭りの花火打ち上げにも行った。親父が打ち上げる姿はかっこ良かったね。

〔松田花火屋(中山町長崎)とのつながり〕
 その頃は、長崎の松田花火屋が作った花火を買って打ち上げていた。松田さんの話では、花火の作り方を、私の曾じいさん(藤三郎の父)から、松田さんの曾じいさんが教わったのが親しくしている始まりだと聞いている。
 親父に「お前もしてみろ」みたいなことをよく言われていたから、自然とするようになったんだ。手伝い経験3年以上で講習を受けると「煙火打ち上げ従事者」という資格をもらえるので23歳の時にとった。松田花火屋所属を表す自分の番号がもらえる。
 俺がするようになってから、山形や左沢の花火大会にも松田花火屋の手伝いとして行ったことがある。宮城県で花火を製造している仲間も呼んでやるんだっけ。今は、県外から入って来るようになって呼ばれなくなったね。

〔風神祭の花火打ち上げ〕
 風神祭(8月31日)の花火打ち上げは、あの頃は連合区とは関係なかったから、親父も一人でバイクに乗って寄付集めしているんだっけ。寒河江や山形までも行くっけね。
 昭和46年頃に、うちでだけするのは大変だということで、連合区さお願いするようになったんだ。ちょうど東区でやっていたお神楽(大獅子)も各区で回すようになった時だった。
 俺は静岡で働いていたので、毎年風神祭の時には帰って来て打ち上げを手伝うんだっけ。親父は俺が33歳の時、62歳で亡くなった。その年は、お袋にもだんどってもらって、松田花火と一緒にあげたんだ。
 打ち上げするのに最低5人いるから、今でも風祭りの時に松田花火に来てもらっている。筒を立てるための杭立ての準備は、朝からしないと間に合わなくなる。3号と4号を10本ずつ、あとは5本ずつ立てる。
 打ち上げは、線香花火みたいに散る小さな火種があって、それに火を点けて筒の中に上から入れる。すると筒底に敷いておいた黒煙火薬が爆発して玉は上がっていく。その時に、同時にへそ(導火線)にも火がついて、上まで行って中の色付きの火薬に引火して玉が開くんだ。ちょうどいい高さで開くように火薬の量を調整する。
 万一、筒に火薬入れるのを忘れると、上がらないで筒割れして吹っ飛んでくるから危ないなだ。「騒がずゆっくりでいいから火薬はきちんと入れるべ」と呼びかけながら作業している。
 火種を筒に入れると、一瞬のうちに花火は飛び出すけど、火花も筒から飛び出すから、その火花を被らないように風向きを考えて入れるようにする。背中に入ったりしたら大変だからね。火種を持つ指先なんかは、いつもピリピリ火傷している。好きでないとできない仕事だね。
 打ち上げは、行列している人達も見て楽しめるように、見えやすい保育園の所を通過している時とか休憩している時とかに集中して上げるようにしている。
 俺は、行列に混ざったのは小学生の時にちょうちんをたがったのが最後だったね。風祭りの行列は近くで見たことないな(笑)

〔やりがい〕
 嬉しいのは玉が上がっていって無事開いた時だね。一発、一発嬉しくなる。そして、すべて無事に終わった時は、やっぱり安堵感はあるね。特に去年は途中から土砂降りだったから、濡らさないようにするのが大変だった。事故がなくてほっとした。あんなことは初めてだったけ。部落の年寄りからは「大変だったな」と声かけてもらえるね。
 大谷の花火の歴史は古いし、大切な役割だと思っている。うちも代々花火屋しているから無くさないで続けていけたらと思っている。なにより、大谷の皆さんの協力でできているので、これからも喜ばれる花火を上げていきたいね。

取材/平成26年3月

■白田寿春(しらた・としはる)さん
昭和31年1月11日生まれ 昭和55年に煙火打上従事者資格取得。平成2年より父八郎氏に代わり大谷風神祭の花火打ち上げ従事者となる。

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大谷の花火の歴史
大谷の風神祭
空から人形、人形傘花火
小径第15集『大谷風神祭』


榊寿太さんのお話

 夜の花火も良かったけど、昼間の花火も楽しみだった。人形傘が落ちてくるんだっけ。空のうえで爆発すると、鉛の重りに引っぱられて降りる。すると中に空気が入って人形の形にふくらんで、ぶーら、ぶーらと等身大くらいの人形が降りてくるんだ。大黒様とか恵比寿様 福助様とか姉様の人形で、色の付いたものだった。
 集団での競争心理というのか、それを競い合って拾うのが楽しかったんだね。これが祭りだもんね。それは子供ではなく、青年団が拾うものだった。火災予防のお守りとして玄関に飾るから、大人も一生懸命探したんだな。拾った優越感もあったんだべな。おらだは拾えなかった。とても子供達が拾えるようなものではなかった。
 燃えて降りてくることもあったから、火災予防上危なくて無くなったんだな。
(2014年3月取材)

大谷の花火の歴史
大谷の花火打ち上げ/白田寿春さんのお話
大谷の風神祭
小径第15集『大谷風神祭』



 高田のホタルが見頃になったと情報をいただきました。「見頃は、毎年6月20日から7月10日頃の夜8時〜9時頃。ピークは6月末頃。夜でも気温が高く、湿った空気の時にたくさん見られる」とのこと。どうぞ出かけてみて下さい。
※詳しい場所はエコルームまでお問い合わせ下さい。
メダカの高田分校とホタルの里
高田メダカとホタルの里マップ

「ため池百選」(農水省)に選ばれた大谷のため池群の一つ、「谷地山三連ため池」(渡邉勝美さん所有)の睡蓮が、今年は例年より早く開花し見頃を迎えています。湖面を埋め尽くす優しいピンクの美しさに心癒される風景となっています。安全とマナーに気をつけて見せていただきましょう。

アクセスマップはこちら
大谷の睡蓮ため池
渡邉勝美さんのお話
フォトギャラリー



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「私たちの先祖は、日本には八百萬の神の社が様々あるのに、私たち生き物にとって一分一秒その恩恵をいただかなければ死滅してしまう「ありがたい空気」を祀る事を忘れていた」故白川千代雄氏

空気に感謝! 空気を産み出す自然に感謝!
今年も空気神社の祭礼がアースデイに開かれます。祭礼では、年に一度の「御開帳」や鏡上での「みこの舞い」奉納、「浮島雅楽」の演奏が行われます。また、朝日町の特産品の販売や、手打ちそば、ツリーイング(ロープで木登り)、釣り大会、など楽しめるコーナーも充実しています。

日時 6月5日(木・空気の日)7(土)・8日(日)
会場 空気神社・Asahi自然観
主催 空気まつり実行委員会
問い 朝日町役場総合産業課 ☎0237-67-2113

詳しくは↑上記ダウンロードボタンよりPDFチラシをお開き下さい。

空気神社の誕生
空気神社エリア概要
朝日町観光協会ホームページ


 樹齢100年以上といわれる紅玉の木は見事に美しい花を咲かせ、たくさんのミツバチ達が花粉交配に働いていました。
 園主の菅井敏一さんによると「山形に果樹試験場ができた時に植えられた5本のうちの1本を残しておいたもの。100年こえているりんごの木は青森でも少ないのでは」とおっしゃっていました。
 また、収穫されたりんごは生きていることを教わりました。「りんごを磨くと気孔を閉ざすことになるので息が吸えなくなって死んでしまう。磨いたらすぐに食べて欲しい。凍ったりんごも、水が凍る時に針状になるから細胞が壊されて死んでしまう。」
 さらに和合平のりんごについて「ここは白鷹山の火山灰が混じった深層強酸性の土。重たくて固くて酸が強いから長持ちする。フジの場合は、普通は収穫した時が一番おいしくなる。ここのは、一週間から10日位で気にならない酸味になり、収穫時よりもはるかに美味しくなる。そして一か月そのおいしさが続く」と。とても興味深い話を伺うことができました。
 秋にまたお邪魔します。菅井さんありがとうございました。

朝日町最古のりんごの木
朝日町のりんご栽培の歴史
見学会「朝日町りんごのはじまり物語 」(H15)
見学会「あっぷるニュー豚とりんご誕生物語」(H26)