朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

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 角田流大谷獅子踊りは、江戸後期の文化年間(1804〜1818)に仙台藩の角田(現丸森町)の宗吽院(そううんいん)から、大谷の天満神社神官だった白田外記家に入婿した清安が伝えたとされます。
 宗吽院は、朝日町の大沼浮島神社の山伏神楽を600年前に伊具郡に伝承した歴史を持ちます。さらに、菅原道真の六女みよこ姫が輿入れし中興の祖となった修験寺でもあり、同じ菅原道真の子孫とされる大谷白田家と共通する歴史を持っていることが双方の強いつながりを物語っています。      
参考文献『20年のあゆみ』朝日町大谷獅子踊保存会
    『つどいの庭に降りた神々』丸森町文化財友の会
    『よみがえれ大沼浮島の響き』大沼浮島ものがたり実行委員会

角田流大谷獅子踊
大谷の風神祭
小径第15集『大谷風神祭』

二百十日の稲作について

お話 志藤富男さん

 稲は、二百十日から二百二十日までの間が一番大切なんだ。実の入り始めだからね。ここで嵐が来て、ぺたっと倒されたら実が入らなくなって全滅になってしまう。熟むれてしまうから、縄や草履作る藁にもならなかった。そこが過ぎれば実が入るから影響は少ないなだ。
 同じ時期にスズメの被害もある。二百十日がくる前に案山子を立てるのも仕事だった。固くなる前の実のつゆを吸いにくるんだ。うまいなだべ。ピシャピシャ、ピシャピシャと吸って行く。腹くっつくなんねから、なんぼでも吸うんだな。すると黒くなってダメになる。

大谷の風神祭
小径第15集『大谷風神祭』
露店について
                   お話 白田都一郎さん

■90年以上続く松谷屋の露店

 松谷屋は、大正11年の帳簿を見たことがあるので、9年か10年頃に両親が結婚した時に始めたのだと思う。風祭りで店の前に露店出すようになったのも、その時からだから90年以上経つね。
 うちでは毎年、玉こんにゃくと饅頭を売っている。玉こんにゃくは、いい匂いするから買ってもらえる。みそ饅頭や笹饅頭は、風祭りを見に来た人達のみやげとして買ってもらえるんだ。風祭りの日は、人手が足りないから朝早くから手伝いを頼むがった。今でもうちの親戚は手伝って行くけど「招待されたんだか、手伝いに来させられたんだか分からね」なんて言っていくなー。(笑)
 天気は心配だね。天気悪いと人が出なくて売れなくなるからね。昔に一度、饅頭がたくさん売れ残ってしまって、栗木沢とか売り歩いたことがあったな。

■戦前戦後の露店

 昔は、店の前の通りに露店が並んで賑やかだった。白田栄一さんの角から今の白田米屋さんまで並ぶんだっけ。でも、戦前はせいぜい十店くらいだったな。賑やかになってきたのは戦後だね。
 戦争の前後頃で、特に印象に残っているのは、寒河江から来る「だるませともの屋」だったな。お祭りの次の日も店出すっけね。せとものは、当時の経済状況からしても、おいそれと買えないものだったから、魅力あったんだべな。
 おもちゃ屋も人気だった。子供が多かったから売れたんだべ。なにしろ、当時の大谷小学校は600人位いた。おれの同級生も男女合わせて90人位いたったけからね。
 当時は、今みたいな「たこ焼き」とか「焼きそば」とかの食べ物屋はなかったね。金魚屋も植木屋もなくて、簡単な店ばっかりだった。
 戦争の時は、俺は海軍の兵隊になった。舞鶴で主計兵として三ケ月教育を受けて鹿児島へ行った。主計兵は事務担当と調理担当と2つに分かれていたけど、俺は兵隊達に料理を作るほうだった。お菓子屋出身だったからだべな。
 昭和20年の終戦後は、すぐに帰って来れたけれど、砂糖とかの原料がなんにもなかったからお菓子は作れなかった。少ししてアメリカの放出品の砂糖が配給になったので、農家を回って少しずつ砂糖を売ってもらって飴類を作ったね。少しずついろんな材料を買えるようになったのは昭和23年頃だな。風祭りで露店を出せるようになったのはいつだったかな。うちは田圃も畑もなかったから、仕事なくて東京に2年位、働きに行っていたからはっきり覚えていないな。

■現在の露店

 露店が今みたいにたくさん出るようになったのは、昭和30年代からだな。露店商の人に、「大谷の風祭りはとにかく売れるから人気あるんだ」と聞いたことがある。このあたりの夜祭りでは一番売れるらしいね。
 子供たちにとっては、露店とお祭りは一緒だもね。夕方露店が出ていると「お祭りしったけはー」というのが子どもらの昔からの言葉だ。露店とお祭りは付きものなんだよね。
 以前は、露店の場所割りを露天商の中に親方みたいな人がいて仕切るんだっけな。集めた場銭の一部をお祭りに寄付ということで持ってくるものだった。15年位前、不公平にならないようにとのことか商工会でするようになった。
 昭和58年頃に、浮島線の大きな道路ができたのだけれど、その何年か後に、露店の場所が田中屋さんのほうに移ったんだ。きっと理由はバスの関係だったと思う。バスも大きくなったからね。それで、きっとこちらの通りは寂しくなるだろうし、みんなと同じようにさんなねと思って、一度だけそっちで店を出したことがあったけ。ところがあんまり売れなかったので、それからは、また自分の店の前で出すようになったんだ。変わらず賑やかで売れたっけ。
 みそ饅頭は、うちの名物にしたいと思って本格的に作ったのが昭和45年だった。「これはうまい」と思ってもらえるように、その日に作ったものしか売らない方針にしてきた。おかげさまでよその町からも買いに来てくれる。ありがたいことだね。 
 暴れお神楽(獅子)が来ると、饅頭のパックを口の所さ持って行くんだ。すると、中にいる人は口をぱかっと開けて手を出して持ってく。見ている人達が面白おかしくて大笑いする。それも一つの「笑わせ」「お客様喜ばせ」だね。大抵毎年やるようになったな。

(取材/平成26年3月)

白田都一郎(しらた・といちろう)さん
大正13年3月生まれ 91歳 松谷屋菓子店の二代目当主。

大谷の風神祭
小径第15集『大谷風神祭』


提灯行列の思い出

畑 俊美さんのお話

 子供の頃は、提灯の持つ棒が長かった。六尺とかあったから、子供たちの頭よりもぐっと高い所に提灯の灯りが見えて、遠くから見るときれいだった。今は長いと重たくて大変だからということで、だんだん短くなったんだ。昔の子供のほうが体力も力もあったんだべな。
 あの頃は、田中から中道っていう田んぼ道を通って元の学校の方に向かったんだけど、家がなかったから、どこまでも見えて見事な眺めだった。提灯だけで百メートルは繋がるっけね。子供は大勢いたからね。それに、今よりみんな信心深かったから、子供のいない家でもご利益あるようにと、じいちゃん達が提灯たがきに出てくるもんだっけ。おらだは中学生まで提灯たがったな。各部落に最低でも子供は三十人いたから、二百人近く行列作るんだった。
 がぐど(いたずら)もしたね。行列スタートする前に、人の提灯ば自分の提灯で引っ掛けて倒すと紙さ火付くのったな。あの頃、行列出る前に、紙ぺろっとなくなる子供がいっぱいいたっけたな。(笑)

昭和14年(1939)生まれ。
建築業に55年従事。元朝日町建設労働組合長。田中在住。


柏倉 儀一さんのお話

 提灯行列に大谷以外の子供も参加していると聞いたけど、とてもいいことだと思う。近頃は、屋台が大変盛り上がっていていいけれど、提灯行列が寂しくなってきている。やっぱり風祭は提灯行列が伝統だから、なんとか大切にして欲しいものだね。
 子供達の提灯を見ていると上手な絵も多いので、青森のねぶたのようにコンテストにして、優秀な作品は表彰してあげたらどうだろう。金賞・銀賞・銅賞とか。連合区長賞とか氏子会長とかでもいいな。絵も益々上手になるだろうし、行列に参加したくなる子供も増えるのでないか。

昭和4年(1929)東京生まれ。
農業。戦後父方の大谷に移り住む。毎年高木区の田楽提灯と高木天満宮の絵馬を描いている。高木在住。

(取材/平成26年3月)

田楽ちょうちんを作ろう!
大谷の風神祭
小径第15集『大谷風神祭』
消防団の役割
                         お話 榊 寿太さん


 風神祭そのものは、消防団と連合区と商店会の三仕組で会場設営などにあたったけれど、監督・指導の総指揮としての一番の実力者は昔から消防団だったね。
 風神祭実行委員会の折に、消防団の若者が「なんで消防団が風祭りをさんなねんだ?」と、実行委員長に食ってかかってきたことがあった。確かに普通考えると、お祭りに消防は関係ないもね。
 でも、それはとても関係あったんだ。昔の風祭りは、要所要所にもっとローソクの提灯が多いお祭りだった。子供達の田楽提灯も現在の何倍も多かったし、各道路道路には、屋根の付いた提灯が設置されていた。各区でも、ローソクを数本も入れる扇形の大きな祭り専用の提灯も掲げたしね。風が吹いたりするとローソクは危ないし、時々消えるので、その管理を消防団が責任を持って当たっていた。防火上と、治安維持に大切な役割を担っていたんだ。
 その後、だんだんと電気で安全に明るくなり、ローソクの提灯は少なくなり、ローソクの係も無くなり、消防団とお祭りの関係は、今日的役割として重責を担っているのが分かりづらくなってしまったんだな。
(取材/平成二十六年三月)

榊 寿太(さかき じゅた)氏
大正12年(1923)生まれ。朝日町役場議会事務局長、社会福祉協議会専門員、朝日町商工会事務局長、空気神社奉賛会事務局長等を歴任。

大谷の風神祭
小径第15集『大谷風神祭』

大谷獅子踊りの思い出

お話/大谷獅子踊り保存会の皆さん

■復活させたチョンガー会
 飲んだ勢いで復活話が盛り上がったのは「チョンガー会」だった。チョンガーっていうのは、まだ結婚していない若い男のことを呼んだんだ。浦小路(第4区)の若い衆たちが、毎月50円ずつ会費出して、お茶菓子を買って仲間の誰かの家にお邪魔するんだっけ。そして、そこのお年寄りから昔の話を聞いたり、大谷の将来のことをみんなで話し合ったりしていたんだ。

■初めてのお披露目
 今年で40年になるね。10年位途絶えていたのを若い衆12人で発足した。以前にやっていた師匠たちに教わって、必死に練習して3ヶ月くらいで覚えた。初めての年はとにかく夢中だった。そして、供養獅子として永林寺の8月15日の送り盆で初めて披露した。緊張したっけね。その晩は盆踊りでも踊ったな。
 そして2週間後の、31日の風祭りでは、第1区から7区まで公民館全部と高木の旦那様(白田彌次右衛門家)と峯壇の旦那様(鈴木清助家)でも踊った。どこでもみんな出て来くれて、いっぱいの中で踊った。大谷の伝統芸能が復活したから、みんな嬉しかったなんねべかね。真面目にやっていたら最後に足がつって踊れなくなったけ。
 これまで、那須の大谷にも7回行ったし、いろんな大会にも出た。町や県の無形文化財にもしてもらった。

■踊りには物語がある
 踊りは、ちゃんと物語になっているんだ。獅子は、雄獅子と雌獅子と友獅子と3匹いるんだけど、友獅子が雌獅子にちょっかいかけてくるんだ。雄獅子は友獅子と喧嘩する。雌獅子は逃げて行く。雄獅子は雌獅子を探して歩く。そしてやっと逢うことができる。よっく見ていると分かる。
 本当は45分あるんだけれど、15分につめて踊っている。でも、風祭りでは、15分も踊っていると行列から置いて行かれるから、1ヵ所で一節ずつ踊るようにしている。
 全国の獅子踊りには、獅・鹿・猪の三つあるんだそうだ。以前に北海道・東北ブロック民俗芸能大会に出た時は、鹿踊りが多く、大谷のように獅子と太鼓が別れている獅子踊りは無かったね。こういうのは珍しいらしい。他のは、わりと緩やかな踊りだったな。大谷の角田流獅子踊りは、よく意味が分からないけれど「一人立ち三匹獅子」という名前で県の無形民俗文化財に指定されている。

■練習でつながる
 昭和63年の北海道・東北ブロック民俗芸能大会はかなり練習したね。山形県代表で出るっていうので、2ヶ月間毎日練習した。あの大変な練習があったからこそ、次の世代につながるいい経験になったんだと思う。もし、なかったら踊れてもそれなりの踊りで終わっていたかも知れない。一回熱心に練習して覚えると、もう忘れないんだ。メロディーが流れると自然に踊りが出てくるようになるんだよね。
 大谷を離れた人でも、獅子踊りには帰ってきて参加する人が何人もいる。一緒に練習することで、若い人たちとも繋がれるし、浦小路のみんなの結びつきは強くなっていると思う。とてもいいことだと思うから続けていきたいね。

※皆さんのお話をまとめて要約させていただきました。

お話を伺った皆さん
鈴木 清さん  佐藤 伸寛さん  佐藤 孝男さん
白田 信哉さん 佐藤 健さん   長岡 浩利さん
鈴木 吉彦さん 白田 剛さん   東海林 良さん
阿部 哲也さん 佐藤 俊輔さん  白田 薫さん 
小嶋 紘太さん 
※練習後の懇親会でお話を伺いました

(取材/平成24年8月)

角田流大谷獅子踊
大谷の風神祭
小径第15集『大谷風神祭』

各区の屋台のこだわりと見所

第1区 立小路 区長 兼子 正昭さん

◆テーマ
 現代物というか、その年の流行りものを基本にしてやってきたね。「バカ殿」から始まって、「ちびまる子ちゃん」「サザエさん」「ドラえもん」「アンパンマン」と、最初は人気アニメをやっていた。被り物はビーチボールに紙を何枚も貼って手作りしていたんだ。
 そして、「マツケンサンバ」や「AKB48」「ゴールデンボンバー」「きゃりーぱみゅぱみゅ」と、仮装とダンスにこだわってやるようになった。

◆演じている人は
 青年部の「立青会」を中心にやっている。 

◆見どころ・楽しみ方
 派手なパフォーマンス、最新のダンシング、自我を忘れるメイキングだな。特に女装にはずいぶん力入れったっけね。お客さんが手拍子したりして盛り上げてくれると、演じるほうも益々調子に乗れるようだ。それからダンスは、見ている人もその場で一緒に踊れるようなものを選んでいるので、だんだん踊り手は増えてくる。参加型になっているので、ぜひ一緒に踊って欲しいね。

◆エピソード
 やっぱり、平成元年に初めて屋台を出した時の「バカ殿」だな。当時テレビで爆発的な視聴率だったから大ウケしたんだ。トラックの屋台に白塗りした二人のバカ殿を乗せて、演じる場所では、志村けんのステップみたいなのを軽く踊っていたっけ。パンダやウサギの着ぐるみも借りてきて一緒に歩いたから、子供たちの人気の的だった。流行ものをすることやメイクは、あの時から始まっていたんだな。
 演じたあとに、小さなお菓子をあげる「じゃんけん大会」は、毎回子供がいっぱい押し寄せて大変盛り上がったね。時間なくなって「あと終わり」って断らんなねほどだったな。
参考動画

第2区 田中 区長 白田 孝さん

◆テーマ
 初めは田楽提灯をトラックにたくさん載せて何年かまわっていたけど、峯壇あたりが趣向こらしはじめたので、田中もなにかさんなねべとなった。
 一番最初は「極道の妻たち」をして、山形新聞にも載ったけど、子供達によくないかも知れない(笑)ということで、テレビでしていた日本昔話がいいんねがとなった。それから「桃太郎」「浦島太郎」「孫悟空」「花咲か爺さん」等を20数年やっている。

◆演じている人は
 「二和会」の若い人達でやっている。

◆見どころ・楽しみ方
 内容が原作とは少し違う展開になっている。自分達も見ている人も面白くなることを心がけているので楽しみに見て欲しい。
 衣装も大道具も凝っている。衣装は、ももひきを染めたりして、それぞれ自分たちで作ってくる。花咲か爺さんが花咲かせる時は、クリスマスの電飾が一瞬で点くようなしくみを作った。本番は、1回目の旧田中屋さん前はまだ緊張していて演技が硬いから、2回目の松谷屋前あたりの公演からが一番面白いと思う。

◆エピソード
 脚本は書かないけれど、練習しているうちに、最後の3日間位でストーリーがだんだんエスカレートして、原作とは違うアレンジになっていくんだ。
 初めの頃に孫悟空の猪八戒をした時、恥ずかしいので、誰だがわかんねように、顔じゅう色を塗ったら子供に泣かれた。
 青年部の「二和会」は、二区の「二」と、当時暴力団抗争で有名だった「一和会」をもじって付けた。ちょうどその頃に屋台出すことになって「極道の妻」をしたんだな。
 去年は大雨降って、早いうちにアンプがショートして音が出なくなって、酷かったね。

参考動画


第3区 高木 区長 志藤 彰さん

◆テーマ
 「こども神楽」と「風神太鼓」で、台風などの風水害を追い払い、五穀豊穣と家内安全を祈願し、大谷の風神祭に多くの見物客が来てもらえるようにと頑張っている。

◆演じている人は
 どちらも、小学4〜6年生が中心になるが、子供が少ない年は小学3年生や中学生まで応援してもらうこともある。

◆見どころ・楽しみ〕
 子ども神楽は、大人顔負けの暴れ神楽。見物客や店に突っ込んで行ったりして、時々、神楽の耳が落ちたり顎が外れたりすることもあって「終わるまで怪我がなければいいな…」と心配になる。
 風神太鼓は、少し化粧して色気を見せながら叩くんだけど、本番になると練習の時とは別人のように、風神祭にふさわしい台風を追い払う、迫力満点のばちさばきになるんだ。

◆エピソード
 今から30年ほど前に、大人が代々神楽を練習していた時、それを見ていた小学3年生の子供が、段ボールで神楽の頭を作って、唐草模様の風呂敷をかぶって真似して踊っていた。風祭りの反省会で「来年子供神楽やってみんべ、風祭り盛り上がるぜ」と話がまとまり、翌年から始まった。一時、子供が少なくなった時は大人が演じたことがあった。当番で回ってきた代々神楽と「親子神楽」を演じたこともあったね。
 また、当時、女の子も多かったので「お祭りには太鼓が似合うべ」ということになり、2年ほど遅れて「風神太鼓」がはじまった。最初は「大沼の浮島太鼓」の楽譜の一部を借りて叩いていたんだけれど、その後、風神太鼓にふさわしい楽譜を作ってもらい、それを若い人に覚えてもらった。当時、一生懸命習った白田和敏さんが、現在は、太鼓の先生として本番1ヶ月前から毎晩子供達を指導している。


第4区 浦小路 区長 鈴木 清さん

◆テーマ
 角田流大谷獅子踊り。200年前に宮城県の角田より大谷に伝承されたもので、戦後途絶えていたものを昭和47年に復活させてから毎年風祭りで踊っている。

◆演じている人は
 大谷獅子踊り保存会。浦小路出身者も帰って来て参加している。

◆見どころ・楽しみ方
 「喧嘩獅子」な所を見て欲しい。他の地区の獅子踊りと違って動きが機敏なんだ。
 雄獅子と友獅子が喧嘩して雌獅子を取り合う物語になっている。獅子の頭に山鳥の長い尾羽が2本付いているのが雄獅子、1本が友獅子、付けていないのが雌獅子。それを見てもらうと物語もなんとなく分かると思う。
 獅子の頭は鳥の羽でできているんだけど、よく取れてしまうので自分達で直している。今年は、助の巻の布施さんの飼っているチャボの黒い羽もらって付けた。車用の毛ばたきの羽を使ったりしたこともあるね。太鼓の頭の上には、日天、月天、星、風の風車がのっていて、踊る配列は、先頭に星、日天、月天、風と決まっているんだ。
 行列では、天狗、お神楽、神輿と続いて、その次が獅子踊りと決まっている。踊るのは村内五ヵ所。最初に元田中屋前十字路、元堀薬屋前十字路、白田米屋前、白田電気店前、最後は鈴木石屋前で踊っている。

◆エピソード
 昭和54年(1979)の風祭りの時は、リヤカーで屋台を作って引っ張った。村中下水道工事して掘っていたので、トラックの屋台を出せなかったんだ。
 去年の雨は驚いたね。松谷屋さん過ぎて本部あたりでもの凄く降ってきて区長達でどうするか相談したんだ。子供の提灯行列は帰したけど、ほかはみんな最後までがんばった。今までは、どんなに雨が降っていても出発する7時前には上がるもんだった。あだなこと初めてだったね。獅子頭の羽が痛むんねがと思って心配だった。


第5区 峯壇 区長 長岡 藤夫さん

◆テーマ
 毎年、時代物だね。これまで「遠山の金さん」や「銭形平次」「番場の忠太郎」「宮本武蔵」「桃太郎侍」とか20種類以上、28回やった。特に水戸黄門は一番なじみで7回したな。見て下さる皆さんの祭り気分を盛り上げられるようにがんばっている。

◆演じている人は
 壮年部の「峯友会」を中心に演じている。小林重敏さんが脚本書いて、白田健志さんや渡邉恵美ちゃんが演技指導しているね。役者も様々そろっているし、喋るのが得意な人にはナレーターみたいにして喋ってもらっている。

◆見どころ・楽しみ方
 時代劇だけど、話の内容はその年の話題や事件を題材にして脚本を書いている。笑いもとれるような内容にしているから、楽しみに見て欲しいね。
 かつらや衣装などは毎年しているから、大体そろっている。カツラは何するかによっても違うんだ。殿様用とか足軽用とかある。
 当日は、昼の部は3時頃から、明鏡荘や粧坂、それから地区内で4ヵ所公演している。夜の部は村内六ヵ所でするから、合わせて十二回は公演しているな。

◆エピソード
 昭和61年に、「水戸黄門」を出した頃から屋台が見直されて本格的に各区でも出すようになったようだ。
 5〜6分で寸劇するにはちょっと手間の掛かるものもあって、他の区の屋台に順番を抜かれた時もあったね。どうしてもチャンバラが遅くなるんだよね。
 宮本武蔵をした頃は、昼間に粧坂や真中も回っていたんだけど、安藤建設あたりで、車を舟に細工していたのが壊れそうになって冷や汗かいて帰って来たことがあった。
 水戸黄門がオウム心理教の麻原彰晃を裁く話をした時は大うけしたね。麻原を演じた渡邉勳さんがそっくりだったんだ。
 NHKのドラマ「利家とまつ」の時とかに、若い娘たちが出てくれた時があった。その時は華やかで素晴らしがったね。


第6区 東 区長 小野 隆弘さん

◆テーマ
 お神楽が部落まわりになってからは、「仮面ライダー」とか「安来節」とか、いろんな屋台を出したね。 でも、毎回別の物をするのは大変だとなって「花笠音頭」を踊るようになった。平成元年頃、駐在所の奥さんが尾花沢の花笠踊りの保存会の人だったから、熱心に教えてもらったんだ。
 ところが、若い人が少なくなり継続が大変になり、4年前頃から、練習が少なくずーっとできるものをと考え「風神神輿」を作り練り歩くことを公民館の役員会で決めた。

◆演じている人は
 壮青年会で若い人が中心となって担いでいる。寒河江の神輿会のみなさんに「担がせて欲しい」とお願いされ、毎年ひと区間分を応援として担いでもらっている。

◆見どころ・楽しみ方
 神輿は、少人数でも担げるように軽い発砲スチロールで作ってある。毎年手直しして、だんだん改良されているね。屋根のてっぺんには、カラス除けの鷹の飾りをホームセンターから買ってきてくっ付けている。
 寒河江の神輿会の皆さんは本格的に担ぐね。掛け声だけでなく、踊り方に迫力があり、ノーエ節みたいな即興の歌で東を応援するように歌ってもくれる。去年はお神楽当番だったから神輿はしないつもりだったけれど、来てくれて東部落内だけ担いでくれたんだ。

◆エピソード
 花笠踊りをしていた頃、子供達に駄賃として5,000円あげていたら、他の部落から「けすぎ」と言われた。 でも、大変な練習は毎日毎日続くし、なにより、子供達に山形の伝統芸能としての花笠踊りを身体で覚えさせて、社会に出てから、忘年会とかなにかの時に役たたせて欲しいという思いがあったんだ。 傘をくるくる回す本場の踊りで迫力あるし、一生の宝になるものだからね。

(取材/平成26年3月)

大谷の風神祭
小径第15集『大谷風神祭』

お話/志藤富男さん

 風神祭の御供え物は、縁側に小机置いて、赤飯と季節の物を上げる。たとえばスイカとか夕顔とかブドウとかのあるものだね。それからローソクも立てて、上には提灯を下げる。そして、神輿の神様が来てけるように、その御供えの前まで道路からの盛り砂をつなげるんだ。
 御供え物は、どの家でもしていると思ったら、今はそうでもないなだね。
 (取材/平成26年3月)

大谷の風神祭
小径第15集『大谷風神祭』


大谷風神祭の歴史について

掘 敬太郎さんのお話(風和会 会長)

■250年以上続く風神祭
 風祭りはどこでもやっていた行事。栗木沢でも庵寺から心経様まで行列してやっている。それ位、台風被害は深刻だったといえる。その中で前夜祭として長く続けているのは大谷だけ。250年以上も続いているというのはそんなにないな。
 昔は風が吹くと、風除けのまじないとして竹竿に鎌を付けて立てたものだった。風を切って弱める意味がある。菊地和博さんの祭りの本に、奈良の法隆寺の五重の塔の屋根に二本あると書かれていた。やはり風切鎌というそうだ。特に昔は草屋根だったから、1ヵ所抜かれるとみんな抜かれてしまうからどこの家でも高い所に立てた。戦後まもなくまでしていたな。普通の草刈り鎌だった。
 また、子供の頃、大風が吹くと、年寄り達が風を追い払うため、大きな声で「ホゥー、ホゥー」と叫んでいたっけな。
 江戸時代の『大谷村議定書』によれば、「酒は何義によらず禁酒いたすべき事」とあるけれど、二百十日の風神祭だけは、特令として許されていた。それだけにこの風祭りは、村にとって豊作を祈願する最も重要な行事であることを示しているね。

■風神祭は天神宮の祭りだった
 天満宮のことが書いてあるものが残っている。本殿と拝殿と山門と神楽殿、そして周囲には九つの末社があった。
 しかし文久3年(1863)に、本殿が焼けてしまった。その時に残った一つの社が大江町柳川の熊野神社に譲ったということが分かっている。現在は、末社のうち稲荷社、風神社、雷神社を一緒にして白山神社境内の別の社に祀ってある。風祭りは、この三つの神様と関係あるから、境内に建てたのではないかと思っている。他の神々は、おそらく白山神社に合祀したのではないか。それについては、はっきり書かれたものがない。
 白田八十二(やそじ)さんの書いた『私たちのふる里 大谷の歴史』(昭和62年7月発刊)には、焼跡から焼けこげた天満宮のご神体だろうというものが見つかって、ガラス貼りの箱を作って収めたと書いてある。
 氏子役員の方に、毎年本殿に掃除のため入るが御神体のようなものがたくさんあったと聞いた。大谷には、徳川将軍から御朱印をもらった由緒ある十寺社があった。ところが明治になってから、そんなにいらないということになって、そのうち七つが半強制的に白山神社に合祀させられた。明治新政府の方針としてどこの村でもやったこと。これは朝日町史にも載っている。
 江戸時代の村の『明細書上帳』がある。それによると天満宮の敷地は一町歩あった。参道を中心として右が白田内記家、左が外記家の屋敷だったといわれている。
 内記家の本宅があった所は、渡邉祐一さんの家のあたり、外記家の本宅は立小路のつきあたり亀屋さんの小屋があるあたり。これを基準として、碁盤の目のような町割りをやったといわれている。
 お墓も永林寺本堂に向かって左に外記家、右に内記家となっている。左大臣のほうが上なのに左側に外記家の墓があるのが不思議だったが、当時は、本堂から見て右、左なのだそうだ。

■大谷の菅原道真にまつわる伝承 
 白田家は菅原道真の子孫といわれている。
 そもそも大谷の伝承は、西暦901年、右大臣の菅原道真が左遷させられた年に、姫君が落ちのびたとされている。二十何人いた一人の姫君が、最上川をさかのぼり、大谷川を上って大谷に落ち着いたと伝承されている。西暦901年というと大沼浮島も白山神社もすでにあった。
 歴史的に話せるのは、菅原道真の五代孝標(たかすえ)の五男孝安(たかやす)が、白田家の初代といわれている。孝標の娘が更級日記の作者だから兄弟にあたる。そして、南北朝時代だった16代安重の時に、最上家の先祖斯波兼頼(しばかねより)に背き、大谷の庄白田に蟄居(ちっきょ)を命じられ、これより氏を白田とし姓を藤原に改め、慎みの意を表している。
 内記家、外記家に分かれたのは、19代安植が内記家として、代々大谷の名主を継ぎ、その弟道貞が外記家を継承し、代々白田家の祖先神である天満宮の神官を務めた。(参考『乩補出羽国風土略記』)
 姫君の伝承については、あくまでも「そう言われています」というほかないな。
 大谷の道は、丁字路も多い。それから食い違い路が多い。それも白田家の先祖が京都風に、碁盤の目のようにし、さらに、立小路、浦小路、横小路などの名称も京都風にしたんだと云われている

■白山神社の風神祭に
 風祭りが天神様から白山様のお祭りとなったのは、天満宮が焼けてからということになる。白装束を着るのもまだ社務所がなかったから、南蔵院で着て準備して白山神社まで歩いて行っていた。白い装束は神に仕える最低の位。色のついたものが、位が上になるそうだ。
 白山神社の別当であり、神主を代々務めた南蔵院小野家は、元は羽黒山花蔵院の修験で、先達であったが、10代賢心から吉野修験に変えている。これは賢心が、慶安2年(1649)白山権現ご朱印社領受領のため江戸に上った際、世儀寺法印と吉野大峯同行を約束。以後、五人が吉野で修業。大先達、大法印を補任している。
 白山神社は、承和7年(840)加賀の白山権現より勧請したと伝えられ、江戸時代には、社領十九石四斗余のご朱印神社として、崇敬されてきた。その別当で神官を代々務めた南蔵院22代小野健之助は、村の収入役を兼ねていた。しかし、小野家では継承者がなく、船渡日月社の田原さんが引き継ぎ、その後豊龍神社の豊嶋さんが受け継ぎ現在に至っている。

■御神輿について
 昔は、御神輿は四人で担いだ。約二時間、村中を静々と巡行したものであるが、実に重かったね。行列が止まると、急ぎ杖(つえ)に載せ休むものだった。
 ところが、各区から人足が出て担ぐので、背の高低差があって、私は小さいほうだから、特に押しつけられて大変だった。でも神様だからと我慢して文句も言わずにいたけど、その後「とにかく重くてだめだ」ということになり、リヤカーに載せることになったんだ。
(取材/平成24年7月)

堀 敬太郎(ほり けいたろう)氏
昭和3年(1928)大谷生まれ。平成元年より、郷土史セミナー(町立北部公民館事業)世話人代表。平成8年、大谷郷土史学習会「風和会」設立。同会長を務める。朝日町エコミュージアム案内人の会前会長。

大谷の風神祭
小径第15集『大谷風神祭』

代々神楽(獅子神楽)と天狗について

志藤 富男さんのお話

■お神楽の始まり 

 お神楽は、昭和3年頃、東(第6区)の青年会で初めてやった。宮宿の豊龍祭りのお神楽を教えてもらったんだそうだ。獅子頭は浦小路の原信敏さんの家からの借り物で、原さんの神棚さ飾っておくものだった。
 練習は、今みたいに1週間も10日もすねがったな。31日の午前に枠を組んで、一発勝負だった。太鼓と笛だけは一週間前から田んぼの真ん中の稲干場で練習していた。
 お神楽(獅子頭)は、目としわ三本と歯を金紙で貼りかえて墨で塗った。目は少し恐ろしそうに書いた。今みたいにしっかり塗られていながったからそうしたんだべな。桐だったから軽かった。踊りお神楽は、飾りお神楽と作りが違うんだ。鼻が長くてたがくのに、ちょうど良くできていた。耳も動いた。
 昔は、幕が蚊帳みたいな麻で出来きていたから少し見えたんだ。今の幕は真っ黒でいくら明かりがあっても見えなくて、胴に入っている人は、どこ歩いているのか分からねなよ。
 出る時には、お神酒を少しだけ飲むだけ。今みたいに酒飲みお神楽ではなかったな。
 20人は必要だった。天狗1人、提灯2人、頭2人、首や胴に6人、太鼓は1人で背負った。笛は最低6人。3人ずつ交代して吹いた。鐘1人。尻幕かつぎ1人、後ろにも小さい提灯2人いた。お神楽を踊れるのは25歳位までの若い人だ。歳とってからでは、怪我してしまう。
 お囃子は、東の時は今でも生笛だけど、他の区の時はテープに録音したものを使っている。東の笛を吹く人達が録音したんだ。太鼓を入れると笛が聞こえなくなるから、笛だけで録音した。一ヵ所ちょっと止まる感じの少し違うなと思う所があるのは、テープを繋いだ所だ。太鼓も鐘もそれさ合わせて叩いている。
 太鼓は真ん中を叩かないといい音出ない。歩きながら叩くからうまくいかないことがあるようだ。

■お神楽の役割
 
 昔は、照明なんてなかったから、前を歩いている天狗の両脇の大きな田楽提灯の灯りだけが頼りで、天狗と離れられなかった。「天狗ば、ぶっ飛ばしてやるなよ」とよく言った。今は、天狗ばっかり早く歩いて来て、お神楽が来なくなっていることがあるな。
 案内役の天狗と、神輿の前を悪魔払いする役割のお神楽は一緒に歩くのが本当だ。天狗の提灯には、一つには「代々神楽」、そしてもう一つに「悪魔払い」と書いてある。
 東では、昔のように白い足袋にわらじを履かせるから、冬の間に作らせておく。寒のうちに作るのがいいって言うな。昭和10年頃までに生まれた人でないと作れないべな。
 枠の幕は、細長い一反の布を横に10枚合わせて作った。大谷十次郎郵便局長が寄付してくれた。これまで3回位換えたな。今は舗装道路だからいいけど、砂利道だと水たまりで幕が汚れて干したりした。雨が降ると幕に水が染み込んで重たくなって大変だった。特に頭と首の間は重たかったね。

■大切な尻幕

 お神楽の頭と首までが2間、胴が2間、尻は2間以上あって尾っぽになっていた。今のは少し短いみたいだな。尾っぽの尻幕はブレーキ役で、身体に巻き付けて、その人がぎゅっとすると止まるんだっけ。そうすると胴体がそっちゃ行ったり、ほっちゃ行ったりしないんだ。
 2回目に作った幕は、尾っぽがなかったから止まらなかった。「そーれ」と言ってどこまでも走って行く。だだだーっと、まっすぐ突っ込んで、ずるずるずるとバックしたりしていたけれど、お神楽にバックはないな。尻幕する人がしっかりしているとそんな事はなかったんだ。邪魔だと思って尾っぽを切ったけのかもしれないな。
 俺もしていたけど、道路を右往左往に踊りながら進むんだっけ。今の踊りはまっすぐ行くから、幕につっかえてぶち転んだりしてしまう。横に上げて身体ごと行くと幕につっかえたりしないし、人にお神楽をぶつけたりもしない。

■暴れお神楽

 昔は、暴れお神楽ではなかったな。今と違って道は暗いし、狭いし、今みたいに暴れたくても暴れられなかったね。
 俺は昭和18年からかぶった。今だったら高校1、2年。昭和20年は終戦だったからおそらく出なかったと思う。昭和19年は、出る時に空襲警報が鳴ったから、提灯もつけないで村社に行って来て終わった。かが(妻)もらうまではしていたから、12〜3年はしていたな。
 ほかに出られなかったことがあったのは、当番制にした年に大雨になった時と、村中集団赤痢になった昭和30年。風祭りをしなかった。
 当番というのは、東だけで大変だということで、各地区でまわすようになったんだ。初めの年(昭和46年)は立小路と田中が担当した。ところが大雨降ってお神楽出せなくて、悔しくて次の日に、神社まで行って来たって言っていたな。
 次の年は、高木だったが、誰かが暴れ獅子を教えたんだ。練習の時に弥次右衛門の塀さぶつけてお神楽割ったりしていた。高木は3年続けてしたな。
 次に峯壇が担当だったけど、やっぱり走ってばかりいるっていうので区長から頼まれて教えに行ったことあった。でも、本番になるとやっぱり暴れたな。踊る人が4人も5人もいるから、1人あたり少ししかできなくて面白がって暴れてしまうなだ。前は2人だけで交代して踊っていた。消防本部さ突っ込んだりするようになったのもそれからだべな。
 お神楽は静かに恐ろしくみせる人が上手。たがき方は、あごを見せずに下向き加減にするとおっかなく見える。右に行っても左に行っても、常に道路の真ん中を見るようにする。あさって(見当違い)の方を向いては魅力ない。

■天狗

 天狗も大変だった。先頭を両脇の提灯の灯りで、面の鼻の穴から足下を覗いて歩かんなねがった。おらだの時は2本下駄だったが、前は1本だったな。天狗が早く歩けば行列も早く終わるものだった。
 天狗の装束は白かったから目立ずっけな。天狗のひげと髪は青苧で作るっけ。金紙で目と口を貼りかえた。
 天狗の手ひかえは子供1人。人のいない所は高下駄をせったに履き替えたので、それを持ってもらったりした。高下駄で足くじいたなんてあったからね。
 昔は甲種合格すれば兵隊に行がんなねがったから、その人を天狗にさせた。天狗すると、死なないで帰って来れるとよく言ったものだった。
(取材/平成24年7月)

志藤 富男(しとう とみお)氏
昭和3年(1928)大谷生まれ。昭和18年〜30年頃までお神楽の頭役を務める。東在住

大谷の風神祭
小径第15集『大谷風神祭』

■白田辰雄さん(峯壇)

 昭和十年頃に「肉弾三勇士」の屋台が出たっけな。これは、昭和7年の満州事変で、敵陣の鉄条網を破るために、3人の兵隊が細長い爆弾を抱えて自爆するという実際にあった美談だ。
 峯壇の白田綱右エ門さんと、長岡重雄さんは、満州事変に実際に兵隊で行って来た。その2人が帰って来て、長岡五郎八さんもまざって、その武勇伝を屋台にしたんだ。生きていたらみんな百歳くらいだな。
 車がなかった頃だから、五郎八さんの仕事で使っていた馬車車に乗って人が引っぱったんだ。新聞かなんかで、7尺くらいの爆弾を作って、その馬車車の上で突っ込むのを寸劇にして演じていた。綱右エ門さんは、親子で金鳩勲章もらったんだ。
 それから、「天野屋利兵衛」も覚えている。赤穂浪士を武器で応援していた商人利兵衛が奉行の取り調べで拷問を受けて、しまいに「子供を火あぶりにするぞ」と脅されるけれど屈しなかったという武勇伝だ。長岡寛治さんが小学校1年生位の時に、その利兵衛の子役で屋台さ乗ったんだ。寛ちゃんは今77、8歳だから、70年位前になるね。


■榊寿太さん(立小路)

 戦前の私が子供の頃は、もの凄い大きな祭りだと感じていた。
 おしろいや紅をつけて衣装も着せてもらって踊らんなねがった。それは、選ばれて出るので、出られた子供はとても誇らしかった。
 屋台は飾りをつけた馬車車を子供達が引っ張った。子供はいっぱいいたからね。「わっしょい、わっしょい」と声かけ合ったり、「うさぎ うさぎ 何見てはねる 十五夜お月さん 見てはねる」なんて、歌ったりしてみんなで引っ張って歩いた。
 「養老の滝」の屋台なんかは記憶あるね。親孝行の息子が父親のために滝を流れる酒をヒョウタンにくんでくるという昔話だけど、その物語風景を杉皮なんかを使って屋台に作るんだ。滝は下に洗濯するたらいを置いて、行列している間、上から水がちょろちょろと流れるような細工がしてあった。人形も作って置いた。田中にはそういうのを得意な人達がいてよく作るんだっけ。金をかけないで作るんだ。田中が今も昔話をいろいろ演出して上手にしているのはそういう立身的な背景があるからだと思うね。


■堀敬太郎さん(立小路)

 この辺では昔から「屋台」と言っている。普通一般的にはお店という意味になるべな。でも、「山車」と呼ぶと何だか大げさで「屋台」と言ったほうが庶民的でいいなよ。おらだはずーっと使っているから、そのほうがいいな。
 白田八十二さんの本には、大正時代から屋台を出していたとあるけれど、おらだは戦争頃からのことしか分からないな。きっと、屋台はしていた時もあり、途切れた時もあり、また復活したというようなことを繰り返してきたのではないか。
 戦後は、子供達が引っぱった荷馬車を舞台にして、各区それぞれの持ち唄や踊りを披露した。立小路は「おいとこ」、峯壇は「徳利踊り」、浦小路は「村は土から」、東は「消防踊り」などだった。特に「村は土から」は新しい発想の踊りで大好評だったことを覚えている。しかし、この手踊り屋台も長続きはしなかったね。
 立小路(第1区)では、平成元年にテレビで流行っていた志村けんの「バカ殿」したのが始まりだった。町報の表紙に載ったんだけど、その記事見ると、屋台が峯壇と立小路と田中と高木の風神太鼓と4台出はったと書いてある。風神太鼓は、学校の先生に作曲してもらって、高木の子供たちが教わって、ずーっと今まで続けているんだ。
 各区の練習や準備は、盆すぎあたりからだね。夜公民館でやっている。みんな勤めているから夜の7時半とか八時頃からする。その頃は、どこの公民館も賑やかなんだ。屋台の組み立ては、盆過ぎの最初の日曜日あたりの昼にする。
 各区とも、準備も練習も色々なアイデア出して面白おかしくするんだけど、みんなまとまるんだ。区民の融和が、風祭りの果たす役割ってこともあるね。
 この屋台が出るようになったのは、各区に公民館ができたのもあるのでないか。昔は、お神楽出すのでも、大きい小屋を借りらんなねがった。練習したり、枠作ったり拠点となる場所が必要だからね。花火屋の小屋を借りて提灯書きした覚えもある。
 昔は、風祭りを見学する親類縁者がどこの家でも泊まりがけで来たなよね。だから女の人は、ごちそう作ったり接待さんなねくて、風祭りの行事一切は男だけがしてきたんじゃないかと思う。男が女役しているんだよね。化粧とか、着付けとかは、若妻や婦人会の人がしてくれる。でも、だんだん人手不足でやって行けなくなるので、決まりはないのだから若い女の人も出てくれるといいんだげどね。

(取材/平成26年3月)

大谷の風神祭
小径第15集『大谷風神祭』
大谷風神祭バネルディスカッション
「大谷風神祭のこれからを考える」

バネラー
菊池和博氏(東北文教短期大学教授)
白井淑浩氏(大谷風まつり実行委員会)
堀敬太郎氏(風和会)
白田敏男氏(大谷角田流獅子踊り保存会)
コーディネーター
長岡信悦(NPO法人朝日町エコミュージアム協会

■長岡 ただいまからパネルディスカッションを始めさせていただきます。パネリストの方からご意見いただきますが、ぜひ地域のみなさんからもお考えなどを聞ければと思っております。

■白井
 今年の大谷風神祭も、地区のみなさんから大変なご奉仕をいただき例年通り行うことができました。心から御礼を申し上げます。
 ただ、長い間、祭礼の時だけは雨に降られたことがなかったのでありますが、今年は、どういうことか大変強い雨が降ってしまいました。途中で区長が集まり相談をしたところ、子供の田楽提灯以外はとにかく続行するべ、となりました。花火も四十一発打ちそびれましたので、来年の風祭りに多く上げるようにいたします。
 さて、私が実行委員長になって七年目になりますが、今年も実行委員会は七月の中旬に一回しただけです。安全協会さん、消防団さん、商工会さん、そして氏子会の皆さんなどで、今年は三十八名に集まっていただきました。その後は、それぞれの皆さんが分担通りにしてくださり風祭りは行われます。そして、祭りの後にもう一度集まって決算報告をご承認いただいて、一杯飲んで終わりとなります。これは長い歴史と伝統の中での大谷地区の連帯感や責任感などの賜物でないかなと思っています。

■堀
 風神祭に関しては、明治二十二年に北部地区が合併し大谷村になった折りに発行した『大谷村史』に載っています。
 神輿巡行ですが、順路は今まで大きく三回変わっています。もともと神輿は、現在の白山神社あたりにあった「天満宮」に保管していたものでした。この天満宮はおよそ二千五百坪の境内を有し、素晴らしい格式と歴史のある神社だったのです。そこから高木地区の若衆が担いで、永林寺、立小路を下って、横小路に行って、小学校跡にあった白山神社で宮司の小野さんが出迎え、行列が整い、そこから出発するという具合になっていたようです。
 その天満宮が、明治維新五年前の文久三年三月三十日に全焼した時からは、白山神社にその御神体や御神輿を収め、そこから出発したと書かれてあります。
 終戦後、白山神社に対してGHQ(進駐軍)から「学校の側に神社があるとはとんでもない。早く移転しろ」という命令がありました。私は、これは反対だと思うんですね。千何百年、白山神社はそこにあったわけで、あとから明治になって小学校がその隣にきたので、小学校を移転すろと言いたいところでした。
 昭和二十一年の五月に、今でいう村民大会を開き移転先を話し合いましたが、まとまらず、とりあえず解体だけし、昭和二十五年十月に現在地に移転しました。そして、翌年からは現在のような巡行順路になったようです。
 行列については「白山神社の別当が先導して天満神社の神官白田外記以下、神官保利内匠、同白田惣吉郎他、村役一同これに従って、前後左右を各戸から出た高張提灯で囲み巡行する」と書いてあります。ただ、各戸で高張提灯(たかはりちょうちん)というのは間違いだと思います。風祭りは農民の祭りであるということから言っても、高張提灯を各戸で持つ余裕があったのかなと思うのです。実際は、庶民的な、自分で作り、書くこともできる田楽提灯だったと思われます。
 それから、神楽獅子については「前に加わり(後(のち)のことなり)」と書かれてありますが、代々神楽は昭和三年頃に東地区の青壮年の方たちが、宮宿の豊龍神社の大獅子を習いに行って、それを大谷の風祭り、夜祭りに合うようにアレンジして作ったんだと、以前に白田常松さんから聞いております。ですからこの文書はいつ書いたのか少し疑問は残りますが、大体間違いないんじゃないかと思っています。
 そしてとにかく、昔から近郷近在より参詣人がすこぶる多く、露店もすこぶる繁盛したというふうに書いてあります。昔から露店が来ていますが、やはり儲かるから来ていたのではないでしょうか。花火を打ち上げて祭りをよりいっそう彩るということも書いてあります。

■白田
 昭和四十七年に、師匠の先輩方から教えてもらって四十年になります。始まりは、第四区の若者たち「チョンガー会」の芋煮会の時のこと。獅子踊りの道具が北部公民館の押し入れに入っていると聞き、「我々で復活させよう」と盛り上がったのでした。そして、その勢いで連合区長だった鈴木幸次郎さん宅を訪ねてお願いしたのですが、「飲んだ勢いで出た話では引き受けられない。出直して来い」と断られました。そして、もう一度集まってみんなの気持ちを確かめてから、改めてお願いに行きました。「ほんとにいいのか」と何回も電話ももらい、やっと「分かった」と言ってもらいました。二十四歳くらいの若者達のこと、連合区ではきっと大きな問題になっていたのだと思います。
 師匠は、白田芳美さん、亡くなられた大谷武助さん、石井好男さん親子、そして鈴木正一さんにお願いしました。元は四十五分の踊りだったのですが、師匠さんたちのアドバイスでいい所をとって十五分につめて踊ることになりました。口でピーローピーとか、ドンドコとか言いながら練習しました。
 生の笛に合わせて踊るのは難しくいろいろ苦労しました。踊るのが大変だから笛をしてみるかとやってみると、音なんか出るものではなく、頭がふらふらしてしまうようなものでした。(笑)
 始めた頃は二十年続けることを考えていましたが、その後、町の無形文化財、県の無形民俗文化財となり、なかなかやめられなくなりました。(笑)
 毎年、風祭りの他に、白山神社のお祭りとか、永林寺の十五日の送り盆の供養として踊っています。練習後はビールを飲んで、これからの部落や大谷のことを話しながら、いいコミュニケーションとなっています。会員は二十七人。親子でやっている人もいます。
 昨年から衣装も立派に交換していただき、これからも頑張らなければいけないなと思っています。

■菊地
 実行委員会一回だけで済むというお話は、やはり、かなり基盤が確立していらっしゃるんだなと思いました。これはよその地区では、必ずしもこういうわけにはいかないのです。協議も意思確認もままならず、共通理解にいたるまでなかなか大変で、結果的に住民参加型に形だけはなっても、実態は一部の人間だけが、というのが多くなってきているんですね。祭り・行事・芸能と、住民の方々の「絆」はそれだけ薄れてきているんです。
 だけど、東日本大震災が起った後、沿岸の方々が仮設住宅に住むことを余儀なくされて、やっぱり元に戻りたいと言ったときに祭りや芸能っていうのがものすごく故郷意識を呼び起こすものであり、気持ちを一つにするには、とても大事だっていうことが見直されてきていますよね。
 私達山形は今、少子化、高齢社会になり、絆の意識の希薄化っていうんでしょうか、だんだん合理的な考え方の浸透する中で、簡略化の傾向が強いです。みなさんには風神祭をずっと同じ形のままで維持していただきたいなと、いっそう強く思った次第です。
 それから、明治二十二年の『大谷村史』のお話が出てきましたけど、やはりそこでもすでに露店がたくさん出ているってことは、賑わいはそこからずっと連続しているということが分かります。儲かるっていうことは、それだけ人が集まって買ってくれるということ。それだけ集まる祭りなんだということがよく分かります。
 全戸から高張り提灯が出ると書いてあるのは疑問だっておっしゃっていましたが、やっぱり疑問ですね。高張提灯は、卵型のたたみ伸ばせるいわゆる提灯のこと。そこに書いてあることは、「高く掲げる提灯」という意味に理解したほうがいいのかなと思います。あくまでも形は角形の田楽ですよね。やっぱりこの田楽提灯はかなり以前からあったんだろうと思います。
 私の東根市の田楽提灯の行列は、始まりは明治以降だっていうのがもっぱらです。ひょっとしたらこちらのほうが古いかもしれませんね。東根が習ったのかもしれません。大谷に誰か見学に来て、俺たちも七夕でやりたいとなったのかもしれないです。その辺のことは分かりませんが、いずれにしても伝統あるということだろうと思います。
 あと、大谷の獅子踊りを、親子でやっている方があるというは羨ましいですよね。なかなかこれが他の獅子踊りの団体さんは継承に苦労しています。財政問題もそうですけど、芸能が今一番直面している課題です。
 私は、こういう芸能の団体さんの集まりで、どうしたら後継者が作れるでしょうかって、よく質問されると、うまくいっている事例を挙げるんですが、これからは大谷のこともいい参考事例に加えさせていただきます。

■白田進さん(質問)
 菊地先生にお尋ねします。永林寺の三浦蔵人のお墓見てきたと聞きましたが、大谷はもともと官軍の地なんです。それで庄内藩がある時点において賊軍だったもんだから、白田外記は庄内藩につかまって首を討たれたっていうことです。私の父がよく言っていたことがありました。一緒に打ち首になった東根の若宮八幡の宮司の息子さんが三浦蔵人さんなので、東根と大谷は繋がりがあったんじゃないかと。

■菊地 
 おっしゃるとおりです。三浦家は若宮八幡神社の代々の宮司で、蔵人も幕末の神主です。白田外記も天満宮の宮司。同じ官軍側の新しい時代を開こうとして、気持ちが一緒だったんでしょうかね。庄内軍に捕まえられて、寒河江川の臥龍橋近くの川原で首討たれたという、これは歴史的事実ですね。永林寺に二つ碑が並んで眠っているということで、私と皆様はそういう意味でも繋がっているのですよね。田楽提灯の行列が双方の神社で行われているというのもその縁かも知れません。東根と大谷、歴史を遡るとこんな因縁というか、縁があるということだと思います。

■白田進さん(質問)
 花火のことですが、昔、白田藤三郎さんが、自分のところで花火を作って自分のところで寄付金を集め風祭りのときに花火を上げたということをお聞きしましたが、何かそれに関する資料とかあるんでしょうか。

■堀
 昭和三十六年の町報あさひに、花火に関する詳細が出ています。
 大谷地区では江戸時代から花火を打ち上げておったといわれておりますが、本当かどうかの確証はありません。しかし、この記事には、江戸時代には火薬の取り扱いは医者が扱っており、白田内記家が白田医者を製造元として「旭連」という連を作ったと。そして白田外記家は、ちょうど今の鈴木床屋近辺にあったといわれる浜田医者を製造元として「松本連」をつくって、お互い競い合って花火を打ち上げておったと書いてあるんです。それが明治になり、警察がほとんど火薬を取り扱うようになって、勝手に花火を作ることができなくなり、さあ困ったということで、東の白田藤三郎さん(昭和三十九年に亡くなって、ちょうど今年が五十回忌)を福島に花火師として養成するためにやったと。そこで勉強して大谷に戻り、松本連、旭連を解消しまして「旭連金玉屋煙火製造販売業」という会社を興して、大正十四年まで製造販売もしたと。ちょうど愛宕様に火薬庫があったと昔の人から聞いておりますし、実際製造したことは間違いないと思います。私たち小さい頃はよく花火屋、玉屋って呼んでいいました。今も屋号は花火屋ですね。白田八郎さんの小屋に行ってよく花火の殻なんかも見たことがあるので、製造したことは間違いないと思うのです。それが大正十四年まで続いたというふうに書いてあります。
 そして明治四十三年に東北の花火大会に白田藤三郎さんが出場して、第三位になったんだそうです。その時の賞品が柱時計なんだけど、残念ながらこれはないそうです。今は孫さんが打ち上げを現在も継続してやっています。

■長岡
 では、風神祭のこれから、もっとこんなところもということをお話下さい。

■白井
 私はさっき申し上げましたように、風祭りは長い歴史と伝統の中から続いているわけであります。この前、風和会で堀さんから新庄に連れて行っていただいて、新庄祭りの歴史の説明があったんです。新庄祭りとおそらく大谷の風祭り同じ頃始まったのでないかなと、その時思ってきたんですけども、新庄祭りは宝暦六年から始まったんです。そうしますと、大谷の風祭りも今年は二百五十七回目となるのではと、ちらっと思ったところでありました。
 そういうふうな意味合いからいきまして、私は八月三十一日というこの記念すべき日でもありますので、日曜日にずらすとかしないで、この日の開催を長く続けていきたいなと思っております。私は連合区長あと二年任期がありますので、来年と再来年はがんばってさせていただきますが、雨だけは降らないようにだけはしたいというふうに思っています。(笑)どうぞよろしくお願いいたします。

■堀
 やっぱり、なんといっても大谷の風祭りの一大特徴は田楽提灯です。これをもっと多くしたいですね。戦前は一戸から一人必ず出なければならなかったので、最低二百人は出ているはずなんですね。多く出るような方法を色々策がないものかなと考えています。この田楽提灯だけはどうしても長く継続してもらいたいです。
 それからもう一つ、盛り砂ですね。村の中を見ますと最近どうも途切れ途切れになってるような感じがします。大変だけども今までどおり長く続けていきたいものだなと考えております。
 それから御神輿ですが、最近は「ワッショイ ワッショイ」っていうのが流行っていますが、大谷の場合は厳粛に粛々と練り歩きます。ということは、中に御神体が入っていますから、各戸でお参りしてお賽銭をあげるのです。豊島宮司の話では、このような神輿は、昔は結構あったそうですけど、今はあんまり無いのだそうですね。これもすばらしい伝統の一つではないかと思っております。

■白田
 私も獅子踊りしてから四十年風祭りに参加しています。最初に屋台を出したのは私達で、その次が峯壇だったと思います。
 先ほど菊池先生がおっしゃったように、自分達でやるということが一番賑わいのもとになっていると思います。立小路は現代もの、田中は子供に向けたもの、高木は風神太鼓とお神楽、浦小路は獅子踊り、峯壇は時代もの、東は風神神輿と、各地区でやるのは素晴らしいことだと思います。
 西川町海味の愛宕神社氏子会の皆さんが、去年に引き続きタクシーで見にきてお祝いをいただきました。「こんな小さな集落で、なんでこんなに大きなお祭りできるのか」と感心していました。
 これからも各区でがんばって風神祭を続けてもらいたいと思います。

■長岡
 お集りいただいたフロアの皆様方からも、風神祭のこれからについてご意見などをいただきたいです。

■遠藤貞悦さん(感想)
 栗木沢の遠藤です。詩の同人誌で阿部宗一郎さんが、祭りが例祭日ではなく日曜日に開催されることが多くなったことについて「現代のお祭りは神様に合わせずに人に合わせている」と書いていらっしゃいました。大谷は二百十日の前日の祭りということもあるが八月三十一日を守っていらっしゃる。
 「籠に乗る人、担ぐ人、そのまたわらじを作る人」という言葉がありますが、本日はそれぞれの立場で努力なさっている皆さんの話を聞き、お祭りはみんなで盛り上げるものなんだなと大変感動しました。みんなで努力して脈々と続けていく。そのことに尽きるのだなと思います。大変勉強になりました。ありがとうございました。

■白田慎一さん(質問)
 盛り砂の件ですが、小さな頃に「その砂にお前だ上がって悪いなだ。御神輿様がはじめに歩くなだ」と言われた覚えがあります。汚れた道を、塩の代わりに山の新しい砂を持ってきて清めておいて、自分のうちのところまで来てもらうとのことでした。
 それと遠藤さんから話のあった風神祭の期日の件ですが、やはり私が連合区長していた時に、その問題が出たことがあります。若い人たちから、おらだも出られるように、前後の日曜日とか土曜日に変更したらどうだと、喧々諤々そうとう問題になりました。けれども、二百十日にしなければ、風の神様の本当のお祭りにならねんねがとのことになりました。

■菊地
 この大谷の風神祭の特徴的なことは、やっぱり手作りの祭りだろうと思います。地元の人たちが自ら手間隙をかけて、作業の忙しい合間を縫ったり、お仕事の疲れた体に鞭打って公民館に集まって、一生懸命練習あるいは準備をする。そういうことを通して、地域の方々がみんな仲良く楽しくという、大事な原点を忘れずに続けてらっしゃる。今、祭りはインスタント的で、簡略化・省略化して済まそうという傾向が非常に強いのは残念なことです。開催日を土日に変更するというのもその一つかもしれない。でも、それでうまくいってるかというと、そうでないのがたくさんあります。要は、そこに住む方々が祭りというものを、いかに暮らしの中で身近に感じて、人との繋がり・絆をつくるのがきっかけだっていう意識を持っていただくかだと思うのです。そういうことが大谷ではうまくいっているということで大変感動しました。
 それから最後にもう一つ、先ほど六十代でも獅子踊りはこれからというような力強い白田さんのお言葉を聞きました。今日ここにお集まりになっている皆さんは、簡単に祭り・芸能行事から引退しないで下さいね。もう六十、七十代隠居、現役引退だとか言っている時代はもう前の時代です。あと十年、二十年と現役意識でこの祭りをひっぱっていただきたい。私も六十四歳です。私もがんばりたいなと思います。「五十、六十代は鼻たれ小僧、七十代から働き盛り」というような言葉をうたい文句に、七十、八十代の方々はそのくらいの気持ちでやっていただきたいです。今日はほんとにありがとうございました。

■白井
 本日は大変長時間にわたりご参加いただきましてありがとうございました。今、先生から引退しないでくださいってお話がありましたが、たしかに大谷の風神祭は、体が不調な方以外はあらゆる方が参加しています。行列には出なくとも、各区の公民館に設けた本部で、接待係をするなど、いろんな形で参加していただいております。末永くお元気でそういうふうにがんばっていただきたいと思います。
 それから、やっぱり今のお祭りっていうのは人に合わせているんだと思います。豊島宮司さんも資料でおっしゃっていますが、現在、例大祭は七月の十七日に一番近い日曜日にしていますが、これも人に合わせてしているから流行らないのです。私は氏子会のみなさんに、どうせこんなに流行らないなら七月十七日に戻したらいいんねがと提案しています。
 風神祭の日程についても、先日の反省会で一人の方から私に話しがありました。「来年はまた日曜日にあたるので問題ないにしても、いずれそういうようなこと考えないんでしょうか」と。私は考えませんと申し上げました。というのはお勤めの方々が大分おられるわけですが、確かに後片付けとか準備とか当日の行事とかってなると前後併せてひまだれしなければならないことは分かります。でも、どうかお勤めの方は正月明けて年始のご挨拶を社長からいただくときに、各上司に「私のところ八月三十一日にお祭りなので是非、年次有給休暇をお願いします」と言っておけば駄目だっていう会社はないです。それを三日前位に言うから駄目だって言われるのです。
 どうかひとつ二百十日の縁起というふうなことを考えていただいて、そのようにしていただければとお願いしたところです。今後ともみなさんひとつよろしくお願い申し上げます。本日は大変ありがとうございました。

■白井 淑浩さん
(大谷風まつり実行委員会委員長)
昭和17年(1942)東京都生まれ。疎開により父方の大谷に移り住む。平成16年朝日町助役退職。平成19年より大谷連合区長。大谷風神祭シンポジウム実行委員長

■堀 敬太郎さん
(風和会会長)
昭和3年(1928)大谷生まれ。平成元年より、郷土史セミナー(町立北部公民館事業)世話人代表。平成8年、大谷郷土史学習会「風和会」設立。同会長を務める。

■白田 敏男さん
(大谷獅子踊り保存会副会長)
昭和22年(1947)大谷生まれ。昭和47年大谷浦小路の若者有志らと大谷獅子踊り保存会を発足。獅子踊りは昭和57年に朝日町無形文化財指定、平成3年には山形県無形民俗文化財に指定される。白田電気工事店代表。

■菊地 和博さん
(東北文教大学短期大学部総合文化学科長)
昭和24年(1949)生まれ。法政大学文学部哲学科卒業。文学博士。 県立高校教員、県立博物館学芸員などを経て現職。 専門分野は民俗学・民俗芸能論。

■長岡 信悦
(NPO法人朝日町エコミュージアム協会理事長)
昭和25年(1950)常盤生まれ。昭和47年山形大学教育学部卒。その後、山形県公立学校教員として西村山管内の小中学校に勤務し、平成22年宮宿小学校長で退職。現在は朝日町町史編さん専門員・文化財保護委員。

(大谷風神祭シンポジウム 平成25年(2013)9月29日 峯壇公民館)


大谷風神祭
小径第15集『大谷風神祭』


大谷風神祭シンポジウム基調講演
大谷風神祭の特異性 〜あの賑わいはどこからくるのか〜

菊地 和博氏(東北文教大学短期大学部総合文化学科長・教授)

■はじめに

 子供が小学五、六年生の頃、夏休みの社会科の自由研究で白山神社と永林寺にお邪魔したことがありました。そこで何を一緒に調べたかといいますと、私の住んでいる東根市の若宮八幡神社神主三浦蔵人(みうらくらんど)と大谷の白山神社宮司の白田外記(しらたげき)が、永林寺に一緒に眠っていることでした。幕末にこの二人は組んで、薩長、薩摩・長州の官軍に対抗しようとして兵を上げたのですが、途中の寒河江川臥龍(がりゅう)橋あたりの川原で首切られるんですよね。
 それから、私はシシ踊りを全国的に調査しており、大谷の獅子踊りのみなさんにも大変お世話になっております。シシ踊りは、静岡県の真ん中あたりの掛川市にわずか一団体あるだけで、だいたいは神奈川県以北の東日本にしかない民俗芸能なんです。
 こちらでは、十五日の送り盆の時に境内で踊られますが、今となっては珍しいことです。東北地方では、ほとんどそういう風習はなくなってしまいました。現在は神社のお祭りなどで踊られていますが、本来は東北地方のシシ踊りは亡くなった方に対するお盆の鎮魂供養の踊りなんです。
 さて、大谷の風神祭は十数年前にはじめて訪れて素晴らしいなと思ってから、二、三度友人たちと来ています。ここに『山形県の祭り・行事調査報告書』というものがありますが、私は村山地域を担当しました。調査執筆委員が、これは特に取り上げたほうがいい祭りだな、と思うものを掲載する方針だったのですが、その一つに大谷の風神祭を選ばせていただきました。
 このようなことで、私は大谷にずっと親しみを感じています。今日はこのようなかたちでお招きいただくとは夢にも思っていなかったので、とても嬉しいです。


■風神祭のはじまり

 大谷の風神祭の由来・伝承を改めて確認しますと、白山神社の行事と
して宝暦年間(一七五一〜一七六四)に始まっていることが一つ大きなポイントです。宝暦五年は「宝五(ほうご)の飢饉」と言って、特に東北地方に大飢饉が起こった年です。この風神祭は、豊作祈願を祈る切実な気持ちで始められたということが見えてきます。神社とその集落の人々の暮らしと一緒になって作られてきた祭りなのだというふうに思います。
 さて、打ち上げ花火が明治以降加わっているということですが、どういう理由で始まったのかをご存知の方はあとで教えていただきたいんです。
 実は、全国の先がけでもある隅田川の花火は、江戸時代に飢饉で食べ物が無くて死んだ餓死者と、さらに、餓死する前に栄養失調になって体が弱り、疫病が蔓延して死ぬ疫死者の供養として花火を打ち上げられているのです。新潟県の長岡の花火大会は、戦死者を供養するねらいで始まりました。二年前の東日本大震災の夏もやはり供養の花火という意味で沿岸沿いで打ち上げられました。「三陸海の盆」と称して、花火を打ち上げて、弔いの芸能のシシ踊りや鬼剣舞などを踊りました。
 風神祭で田楽ちょうちんを持ち歩いていることや、供養の踊りである大谷獅子踊りが加わっているということなどは、やはり宝暦の餓死者などの供養という意味で加わった可能性もあると思います。

■盛り砂

 神輿が通る道筋に、大きな道路から細い路地、そして家の前まで点々と二、三十cmぐらいの間隔で「盛り砂」がまかれています。これは神の通る通り道を示しているんだろうと思います。これほど丁寧にやっている所というのはなかなかないです。祭りのとても素敵な風景ですね。
 この盛り砂というのは、古い時代に儀式や貴人、尊い人を出迎えるとき、車寄せの左右に高く盛る砂のことを言います。また、御所車みたいな牛車に位の高い人が乗って到着した家、その前の左右にも三角型に砂を盛るんですね。場合によっては、盛り砂の一番上に神社にある御幣を立てます。それから、お祭りで御神輿が一泊する場所の御旅所(おたびしょ)にも、ここに神がいらっしゃるということを示すために盛り砂をします。
 ですから、大谷の盛り砂はそれぐらい神様を尊くお迎えする神祭りだということを示しているのだと思うのです。私は、今まで見たことがなかったものですから最初に見た時はびっくりしました。これはとてもいい習慣だと思いますのでぜひ続けてください。


■参加型の祭り

 さて、資料の「大谷風神祭の特異性」というタイトルに「あの賑わいはどこからくるのか」と、あえてサブタイトルに付けさせていただきました。小規模な集落なのに、あれぐらい多くの、しかも若い小・中・高生たちが集まるっていうのが、私にとっては疑問だったのです。そこに何かカラクリがあるんだろうかと思うほどでした。
 ひとつはっきり言えることは、地区民参加型ということ。地区民が主役である参加型の祭りって意外とないんですよ。どうしても集客力アップのために、よそから歌手や漫才師などの有名人や演技者を招いて主役として組み立てることが多くなっていますが、こちらはまさに地元の人を資源として大事にし、それを基本として企画立案されています。ここがなんといっても素晴らしいことであり、祭りが盛り上がる要因になっていると思います。


■屋台(山車)

 具体的に言いますと、一つに屋台の寸劇・出し物が見事です。舞台から解き放たれた、路上でパフォーマンスをやっておられます。区によって出し物がかち合わないように、またバラエティーに富むよう棲み分けをしておられる。
 ここに飾っていらっしゃる大きな絵は、今年の屋台で使った人気ドラマ「水戸黄門」のバックに使った図柄ですよね。「西遊記」もやっていました。以前はNHK大河ドラマの「利家とまつ」や昔話の「花咲か爺」や「桃太郎」をおやりになっていた記憶もあります。民話・昔話などの題材はとてもいいですよね。日本人の心みたいなものを、このお祭りの賑わいの中で、それとなく、あまり説教調でなく伝えている。芝居って非常にいいですよね。
 そうかと思えば、いきなりの現代もの「ぱみゅぱみゅ」とか、昨年はダンスチームもあって、今流行の踊りや芸能を取り入れてやっておられる。古いものだけでなく、新しいのも一緒にやることによって若者も参加しやすい。そういう意味で大変成功している例ですね。路上でやるっていうのが、見る者・演じる者が一体化しやすくいいですよね。


■田楽提灯(でんがくちょうちん)

 子供たちの参加ということで、各自が持って行列する田楽提灯。祭りの中に、参加の時間と空間がちゃんと保障されているのですよね。みんなで祭りを盛り上げるんだという思いを、子供の頃から体験させている。提灯も出来合いのものを買ってくるわけじゃなくて、手づくりということがまたいい。そして、近代的な灯りではないロウソクが中でボーっと灯って、まだ真っ暗ではない夜の帳(とばり)が降りる頃に、たくさんの提灯がスタートする。中々いい光景が見られます。
 この田楽提灯のパレードというのは、実は私の東根市でも「動く七夕提灯行列」ということで毎年八月十日の夜にやっています。戦前からあり、以前は子供の集団の先頭に音楽隊が付いていました。私も小さい時に参加したんです。音楽隊のうち小太鼓をさせていただいたり、それから田楽提灯に自分の好きな絵を描いて、友達と持って歩きました。
最初にこちらにお邪魔した時、同じものがあるということでびっくりしました。向こうが七夕提灯行列、こちらは風神祭の提灯行列なんですよね。
 これと同じのは秋田に割りと多いんですよ。秋田県上小阿仁村の「ネブ流し」。やっぱり七夕の提灯行列です。それと、岩城町の「刻(とき)参り」は、主に将棋の駒みたいな形ですね。でもこれらがどこで繋がっているのかどうか、その背景や理由を明らかにするのはちょっと難しいですね。
 近年、なかなか子供が少なくなり大変な側面があるかと思いますが、ぜひ続けていただければなと思います。


■角田流獅子踊り

 大谷獅子踊りが風神祭に加わっているというのも特徴の一つですね。
 ここの獅子踊りの伝来は宮城県の角田市から伝承されたとされますが、角田市には今現在獅子踊りはないんですよね。かつてあったことも、もちろん考えられるんですが、角田流っていう名前が、どこからそうなったのかがいま一つ分からないのです。
 今後の手がかりとしてシシの頭数があります。大谷の獅子踊りは三頭のシシ踊りですよね。あと、八ツ沼獅子踊りもそうです。でも、三頭というのは山形県では置賜だけなんです。村山・最上・庄内は、最低でも五頭です。それからあと七、八、というふうに多くなっていきます。東北のシシ踊りは頭数が多いです。関東のシシ踊りが三頭なんです。不思議なことに、この三と五と七とかっていうシシの頭数は、同じ市町村内や地区内でごちゃごちゃあるっていうことは絶対にないんですね。不思議なほど一定のエリアで棲み分けが出来ているんです。これは、東日本全域見てもそうなんです。この頭数からシシ踊りの根拠というか伝播されたかっていうことがある程度分かってくるんです。このことから、大谷獅子踊りは、村山地方南部でありながら置賜圏域に属するものだということがわかります。
 これを考えるのにもう一つヒントがあるのが暴れ獅子です。

■獅子神楽

 あばれ獅子は、村山地域と置賜地域との文化的融合性を感じさせるものです。あばれ獅子のあの姿ですが、何人か中と外に複数で幕を支えています。そして時折元気につっこみますね。そして地面を這うように頭(かしら)を動かす。なかなか見事で凄い芸だと思います。あの踊り方は、やはり置賜なんです。置賜は“黒獅子”とか“ムカデ獅子”というのですが、黒獅子と呼ぶのはカシラが黒いからなんです。 大谷のは赤いカシラですよね。これは見慣れた「唐獅子系」なんです。ところが置賜の黒は「蛇頭(じゃがしら)系」と言って、蛇とか龍とかを意味しカシラが平べったい。大谷のは少しカシラが立ってる。置賜はムカデ獅子であり幕の中に二十人くらい入るんです。南陽の熊野大社のシシ(「獅子冠」といいます)は、大谷みたいに脇からひっぱってますね。中にも入ってる人いますけど、さらに外にも出ている。
 以上、シシが三頭であることやムカデ系獅子舞ということから、大谷は村山地域と置賜地域の境界にあたっていることもあって、双方の文化的要素が溶け合ったということが考えられる。


■望まれる参加型の祭り

 私が住んでいる東根市の若宮八幡神社にも「風祭り」があるんです。今は八月最後の日曜日にやっているんですけど、私が小さいころは盛大な祭りだったんです。この祭りでは「若宮八幡神社太々神楽」という神楽が、毎年境内の舞台で演じられています。江戸時代から続く素晴らしい芸能です。そのほかに子供の相撲大会、これも少なくなったけれど今もやっています。それから剣道大会、柔道大会には、近隣から境内が溢れるほど大人や子供がやってきたんです。そして出店もこちらと同じくらい並びました。大谷が四十店近く出るというのは凄いことです。八幡神社では今ではもう少なくなって三つか四つくらい、まったく寂しくなりました。
 私はその神社の四軒下った場所にある家に育ったので、小さい頃の賑わいをはっきり覚えています。境内で相撲してみたり野球してみたり、神社とともに育ったみたいです。そのお祭りは楽しくて心待ちにしていました。学校は半分休みで、相撲大会に出るため授業は午後から終わり。昔の学校って地域と一体で、お祭りがあるとお休みだったんですけどね。今は、そういうのがないのは残念です。
 大谷ではずっと江戸期以来の賑わいを保ち、参加型が続けられていますが、これとは正反対に東根の若宮八幡神社の風祭りでは地元参加型がほんとに少ないんですよ。
 こちらの風神祭は子供や大人ともに七区あげて参加する。屋台、出し物それぞれ工夫を凝らしてやる。その練習も辛いだろうけども楽しい。参加するための練習を公民館で一生懸命やって、そこで人間関係が作られる。祭りの時の披露だけでなくて、子供も大人も準備の段階がとっても大事なわけですよ。私は、まざまざとその比較ができますので、こちらの賑わいが羨ましくてしょうがない。やっぱり若宮八幡神社の風祭りが賑わいを取り戻すためには、地域住民が参加してみずから楽しむ企画内容を工夫しなきゃ駄目だと思いますね。ただ来て下さいだけではなく、その祭りを見る人も一緒に楽しむという、そういう空間・場をつくらないといけないだろうと思います。


■神なき祭りと神々の祭り

 最後になりますが、現代の祭りは、あんまり祈り・願いなんて考えない「神なき祭り」が増えている。つまり、祈りを捧げる神様などはあまり意識しない「よさこいソーラン」なんてやっていらっしゃる場合が多い。それに対してこちらの祭りは、伝統の祭り、神々の祭りなんです。白山神社の神に対する、あるいは風の神に対する切実な祈りと願いですね。それらが中心として成り立っている祭りなのです。
 そういう意味で、私たちは自然に対する畏れや祈りを取り戻す必要があると思いますね。あの大震災を経験して自然の威力を感じ、やっぱり私たち人間のやれる範囲っていうのは限られていることが分かりました。科学技術も大事だけれども、やっぱり風の神、山の神、田の神、川の神、海の神とか、そういう自然の神々への祈り・願い、畏れ敬う気持ち、つまり信仰心を持ち続ける。傲慢な気持ちを排除して敬虔な気持ちになって、自然と折れ合いながらささやかな幸せを求めていかなければならないと思います。 
 風神祭というのは、風の神に対して五穀豊穣、悪疫退散、身体堅固、地域社会の平穏な生活の保証を切実に祈り、願いを託する。近代社会になって合理的な世の中になっても、こういう心を大事にすることによってそこに暮らす人々の絆が深まり、集落にまとまりが出来ていく。それが、小さくてもキラリと光る大谷をつくりあげているんだと思っています。ぜひ住民参加型を大事にしてこの祭りを続けていってください。


菊地 和博(きくち かずひろ)氏
昭和24年(1949)生まれ。法政大学文学部哲学科卒業。文学博士(東北大学)。県立高校教員、県立博物館学芸員などを経て現職(東北文教大学短期大学部総合文化学科長・教授)。専門分野は民俗学・民俗芸能論。主な著書は『シシ踊り 鎮魂供養の民俗』(岩田書院)『庶民信仰と伝承芸能』(岩田書院) 『やまがた民俗文化伝承誌』(東北出版企画)『山形民俗文化論集1 やまがたと最上川文化』(東北出版企画)『手漉き和紙の里やまがた』(東方出版企画)など。」

大谷風神祭
小径第15集『大谷風神祭』

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(記事 / 町報あさひ 昭和36年(1961)8月5日号より抜粋)

堀敬太郎さんのお話

 昭和三十六年の町報あさひに、花火に関する詳細が出ています。
 大谷地区では江戸時代から花火を打ち上げておったといわれておりますが、本当かどうかの確証はありません。しかし、この記事には、江戸時代には火薬の取り扱いは医者が扱っており、白田内記家が白田医者を製造元として「旭連」という連を作ったと。そして白田外記家は、ちょうど今の鈴木床屋辺にあったといわれる浜田医者を製造元として「松本連」をつくって、お互い競い合って花火を打ち上げておったと書いてあるんです。それが明治になり、警察がほとんど火薬を取り扱うようになって、勝手に花火を作ることができなくなり、さあ困ったということで、東の白田藤三郎さん(昭和三十九年に亡くなって、ちょうど今年が五十回忌)を福島に花火師として養成するためにやったと。
 そこで勉強して大谷に戻り、松本連、旭連を解消しまして「旭連金玉屋煙火製造販売業」という会社を興して、大正14年まで製造販売もしたと。ちょうど愛宕様に火薬庫があったと昔の人から聞いておりますし、実際製造したことは間違いないと思います。私たち小さい頃はよく花火屋、玉屋って呼んでいました。今も屋号は花火屋ですね。白田八郎さんの小屋に行ってよく花火の殻なんかも見たことがあるので、製造したことは間違いないと思うのです。それが大正十四年まで続いたというふうに書いてあります。
 そして明治四十三年に東北の花火大会に白田藤三郎さんが出場して、第三位になったんだそうです。その時の賞品が柱時計なんだけど、残念ながらこれはないそうです。今は孫さんが打ち上げを現在も継続してやっています。
(大谷風神祭シンポジウム・パネルディスカッション 2013.9.25)
エコミュージアムの小径第15集『大谷風神祭』より抜粋

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大谷の花火打ち上げ
大谷の風神祭
空から人形!?人形傘花火
小径第15集『大谷風神祭』