朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

 八ツ沼地区には、中世に五百川城(八ツ沼城)がありましたが、永禄8年(1565)原美濃守が城主の時、最上義光に攻められ落城しました。城趾や空堀・大堀跡、原家が城下の護りに建立した春日神社、城の前方を守る出城があった前森には現在旧三中分校舎が建ち、三階の丸窓からは城下の西船渡地区や最上川、宮宿方面を望むことができます。

コース/春日神社〜五百川城跡〜五本樋〜若宮寺〜旧三中分校(半日)
案内/宮本建一
■視察・研修の受入れについて
 職員や理事が仕事を休んでの対応になりますので、下記負担金をいただいております。(一部はエコミュージアム活動費にも充てさせていただいております。)
 負担金 / 2時間程10,000円 一日20,000円

※当日の対応はできませんので予めお申し込み下さい。
※朝日町見学は、エコミュージアムガイドをご利用下さい。
(エコミュージアム案内人の会利用料金/1時間2000円、半日4000円)
※「エコミュージアム案内人の会」について、直接案内人の会役員の話を聞きたい場合は
 協力金 / 1時間程 5,000円
※朝日町の行政視察は、直接担当課にお申し込み下さい。
 朝日町政策推進課 Tel 0237-67-2112

■卒論等の視察目的の学生対応について
 業務に差し支えない時に限り「2,000円(資料代)」のみで2時間対応しております。但し、大学が関わっての取材・調査は一般視察扱いとさせていただきます。詳しくはエコミュージアムルームにご相談下さい。

■取材について
 一般マスコミによるエコミュージアムの調査事業や普及事業など、事業そのものについての取材はお受けいたしております。
 研究誌等の協会内部の運営などに関わる取材については、理事対応となりますので上記視察扱い(有料)とさせていただいております。

■調査について
 朝日町エコミュージアムについての調査を行いたい場合はご相談下さい。

■資料の送付について
 協会内部資料等の送付は、一律、送料+協力金2000円をいただいております。

■賛助会員特典について
 賛助会員に入会なさると、各負担金が10%割引きになります。

(申し込み方法)
視察内容について、エコミュージアムルームへ電話・FAX・メールでお申し込み下さい。
Tel・Fax 0237-67-2128
メールは左下のお問い合わせフォームより受けております。
 
 市神石は、宮宿の「市」の繁栄や安泰を願い市神をまつったものです。豊龍神社参道入口にあたる宮宿本町五叉路から宮宿商店街を長年見守ってきました。造立年不詳。
※参考文献『朝日町の石佛』朝日町長寿クラブ連合会
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 子供の頃沼に行ったのは、大きな鯉がいるから鯉を見にと、それから、当時は沼参詣というのが毎日来ておったね。沼の観光客だね。その当時、白田仁吉という人とおたかさんという人が茶屋を経営しておった。今の湖畔の家から沼の方に行くと広場があるが、そこに北向きに茶屋があった。そこで貧乏人の子供である我々は、浮島に来る観光客に「何がけろ」と言って、食べたこともないものを貰って食べるとか、そういう興味で沼に行ったな。
 それから、もう一つは遊び道具を拾うために行ったね。缶詰めの空き缶を拾ってきて、そいつのまん中に火箸で穴を開けて、紐を通して木っ端に結んで、今の竹馬のようにして、パカパカと歩く、そういうおもちゃだな。それを作ったり、釣りに行く時の‘びく’の代わり、大きな缶詰缶を拾ったりして遊んだ覚えがあるな。
 それからその当時は、御行様というのが白装束で何十人と来ることがあった。するとよく茶屋で食べたりするから、沼にも寄って神社にお参りをして、ここから出羽三山の方に行ったんじゃないかな。その当時の子供達は、御行様が何十人と来ると、どういうことを言ったかというと「お〜ぎょうさ〜ま、じぇにけろ」と言うた。行者が供養というか信仰上から、たまに金をくれる人がいた。んだど、一銭とか五厘とか一つぐらいもらったりしたことがある。食物がなくて困っている人を助けるという意味もあったんだろうね。実際にもらったことは一ぺんぐらいだな。たいがいの人はくれない。そういうことがあったな。御行様は年に二回くらい来るがったがな。
お話:小林富蔵さん(元朝日町長)
 朝日町にも義経伝説は残っています。
 義経は弁慶らを連れて平泉に逃れる途中、朝日町を通りました。八ッ沼のあたりで北の方が産気づき、弁慶は大いに困りましたが、ふと見ると、道のかたわらの松の大木の下からきれいな水が流れているのを見つけました。北の方はここで子を成した(産んだ)のです〜
 ちなみに大沼地区の大沼浮島稲荷神社には、弁慶がおいて行ったと伝わる笈が残されています。

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 ここで取水された水は,9.1kmのトンネルを通り山形市、山辺町、上山市、天童市など山形盆地の農地で使用されています。全体で使用する水のおよそ半分の量を五百川峡谷に頼っているそうです。工事にあたり18人の尊い命が犠牲になりましたが、昭和58年江戸時代からの悲願が成し遂げられました。(国営最上川中流農業水利事業 )

仁藤輝夫さんのお話
山形盆地を潤す五百川峡谷の水
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ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
エコミュージアム活動を資金面で支えて下さる賛助会員も募集しております。
町外の皆様のご入会も大歓迎です!
■会員特典 
・報告ノート、催事案内、総会資料などの送付
・頒布物および催事参加料の割引(5%)
・視察・研究者の対応料の割引(10%)
・事業報告交流会の参加   等                 
■年会費 
・個人一口 2000円 ・団体一口 5000円

■お申し込み
直接お持ち下さるか、下記郵便振替でご入金下さい。
郵便振替口座番号 / 02250-2-84729 
名義 / NPO法人朝日町エコミュージアム協会
 木のうろなどから、収穫してきた山蜂(ニホンミツバチ)の巣は、手でしぼったんだ。布で袋を作ってハチミツの入った巣を粉々にぶっかいで入れて、ぎゅーっとしぼんなよ。これが一番しぼりでいい蜜だ。そして二番絞りは、袋さ残ったのを鍋に少し水をいれて煮るんだ。巣の蜜ろうを溶かして浮き上がらせるんだ。冷めると固まったら取り除くのだけど、それは水が入った薄いハチミツだから、早く飲まんなねがった。料理に使ったりもした。今でもハチミツしぼりなんて採蜜のことを呼ぶのはそのなごりだべな。

お話 : 安藤チヨミさん
取材 : 平成6年(1994)
 館山山頂へは新宿の東永寺裏手に続く山道を車で10分ほど。(舗装はされているが道は狭い)山頂の鳥屋ヶ森城跡には、通称“テレビ塔”と呼ばれる放送局の中継施設が設置され、朝日町の中部・西部地区(一部北部地区にも)電波を送っています。
 山頂の城跡からは朝日岳や月山・葉山、朝日町西〜中〜北部の町並みを一望することができます。城主の岸美作守も眺めていたであろう景色に、身近に歴史を感じさせてくれる場所です。山頂は遊歩道が整備され、鐘楼堂跡を訪ねることもできます。

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※登り口は東永寺と郷倉の間の細道です。舗装はされていますが狭いです。
〈事業のあらまし〉
 国営最上川中流農業水利事業は、朝日町四ノ沢からトンネルで最上川の水を取り、山形市と山辺町・上山市と天童市の一部を加えた三市一町にまたがる農地で不足する水を補っている。
 山形盆地の東側の馬見ケ崎川から一秒間に2t、西側の畑谷大沼、荒沼、玉虫沼などの西部湖沼群から3tまでとれるようになっていて、それで足りない分を最上川から最大8t(現在は4t)まで取水できる。馬見ケ崎川からは、現在1tしかとれない状況なので、ほぼ半分は最上川の水に頼っていることになる。主に須川より西側の西部地域の1500haの農地に使われている。国から委託され、私たち土地改良区が管理運営を行っている。

〈尊い命が犠牲になった大工事〉
 西部幹線トンネルは、山辺町の根際まで9.1kmの長さがある。その間の高低差が3.6mしかない。2500分の1のゆるやかな勾配を二時間以上かけてゆっくり流れてくる。工事費65億円をかけ、昭和48年の着工から10年後の昭和58年に完成。山形盆地の水田を潤し、江戸時代からの悲願が成し遂げられた。
 しかし、昭和51年と53年に、二度のメタンガス爆発で18人の尊い命が奪われた。掘削が1パーティ9人で、朝日町側と山辺側でそれぞれ9人ずつ犠牲になった。出口の山辺町に慰霊塔が建てられ、年に一度遺族の方も参加して慰霊塔の参拝を行っている。トンネルに入る時は、四ノ沢の入口の大きな扇風機で空気を動かし、必ずガス検知器を携帯している。


〈遠隔操作で用水管理〉
 ここは中央管理局といって、頭首工の様子や、揚水機(ポンプ)の運転状態を把握し、遠隔操作できるようになっている。大きなモニターには、四の沢頭首工(取水口)の現在の流れる様子も映し出されている。除塵作業は朝日町の鈴木さんに毎日行ってもらっているが、特に多い日は、再度連絡をし、除塵機を使って取り除いてもらっている。また、取水量の調整などがここでできるようになっていて、雨で増水した時は、たくさん流れ込まないようにゲートを下げ、水かさが減るとゲートを上げて、取水量を調整している。
 西部地域の水の流し方は、自然流下と、高い所までポンプアップして流し直す方法をとっている。六割が管路(パイプライン)になっている。ポンプが故障すると、黄色に表示されブザーもなる。管路の中が空にならないように三つのポンプはいつも稼働できる状態にしている。万一空になると、充水に一週間はかかってしまう。管が壊れるのでいきなり圧力をかけられない。壊れるとお金もかかるし、補修に時間がかかる。水が出ないとお金を出してくれている組合員の皆さんに申し訳ない。なので、取水し続けるため、ポンプの管理をし続けなければならない。そのような管理を夜中も泊まってここで行っている。
※写真は山辺町側の出口

お話 : 仁藤輝夫さん(最上川中流土地改良区管理課長)
取材 : 平成20年7月

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
 空気神社参道「水のモニュメント」近くに、太いご神木のある山ノ神のがひっそりと祀られています。空気神社参道は、かつての朝日岳山岳信仰の修験者道であり、戦後まではこの少し先に「滝の風(たきのふ)」という集落もありました。

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※ブナ林の中の太い杉の木(ご神木)が目印
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ひとつひとつ描かれた木々
力強い山の稜線
"シン"という音がみえる空気と空

長岡さんの絵を初めてみせていただいた時、
「あ、山だ。これは朝日町の山だ。」
という言葉が私の口から流れ出ました。

長岡昴司さんは、長沼で生まれ
現在は太郎に居を構えています。
鳥原山の山小屋で働き、朝日連峰を
日々みつめて暮らされています。

絵には人がそれぞれ生活で培ってきた
視点がでます。

ある春の日、栃の木を観察されている
長岡さんにお会いしました。
陽の傾きと共に在りようを変えていく
葉の様子を、刻々と観察し、その変化に
感嘆の声をあげながら紙に描きとめて
いらっしゃいました。

長岡さんの描かれる絵に、描いているモチー
フにプラスされた、静謐とした
静かな時間の流れを感じるのは、
こういった視点をお持ちの方が描いたから
ではないでしょうか。

「山にいるといろんな人との関わりがあって
楽しい。町にいる時は声を かけない。
山では会話がある。それが楽しい。」
「山は川より体に”くる”ものがある。」
という、それそのままの視点が、描いているも
のひとつひとつをなぞる
活き活きとした視点となって観ている人に
伝わってくるのです。

報告/田中敦子 あとりえマサト代表
東北芸術工科大学日本画コース副手
平成20年(2008)


長岡昂司(ながおか・こうじ)氏
プロフィール
1959年朝日町長沼版画家阿部功雲の分家に生まれる。
大工歴33年。
年間、鳥原山に約30回、大朝日岳に5〜6回登る。
朝日山岳会理事。朝日町山岳遭難救助隊員。
朝日町太郎在住。

※写真の絵は建築業の端材に描いた木川ダムの風景です。
※上記ダウンロードボタンで印刷用のpdfファイルを開けます。
 旧西五百川小学校三中分校は、明治十五年に建てられたものであり、非常に古い校舎です。
 全国的に見て、学校としてはもちろんのこと、明治初期の時代に建設された三階建ての建物で現在まで残っているものでは、大変珍しいものとなりました。山形県内でも同時代の三階建ての建物は、おそらく三中分校しか現存していないと思われます。
 創建当初の姿については、設計図などがないために詳しいことは分かりませんが、現状から見えるこん跡や申請図として提出された『三中村学校新築建図』(図2参照)を参考にすると、二階の窓は現在よりずっと少なく、縦長の細い窓が相互に離れて配置されていた可能性があります。部屋の間取りや外観についても、時代とともに改修を重ねたようです。
 現在の建物の概要(図1参照)を説明すると、木造三階建てで、総二階建ての建物の上に、面積を縮小した三階が載った形となります。基礎は自然石を切り出したものに直接柱が建つ石場建てです。窓の開口部は片引きや引き分け障子戸を用いています。壁の部分は和風の土蔵造りで、壁に空けられた丸窓が大きな特徴となっています。
 本来丸窓は、西欧のレンガや石を積み重ねる組積造りでできるもので、当時の日本にその技術はありませんでした。三中分校の丸窓は、土蔵造りの白壁に丸い型枠をはめ込む「擬洋風的建築手法」で造ることにより、洋風に見せる努力をしたと考えられます。このようなことから、創建に際しては、まったく西欧指向がなかったとはいえないと思います。
 要するに三中分校は、明治初期の時代において、和風様式を基にした、堂々たる白亜(白壁)の三階建ての建物で、学校建築としては、非常にざん新でユニークな存在であります。大工の棟梁の名も明らかであり、在来の伝統的技法に従いつつも、意欲的な西欧建築への指向も見える、地元大工棟梁の苦心の作といえます。
 一部に改修の跡も見えますが、保存状態は良好です。明治初期の地方における学校として、また当時の新しい建築に対処した地元棟梁の技量の知られる作例として貴重であり、建築史上、文化財的価値は高いものと考えます。現在、破損が進んでいる所もあることから、今後の利用方法も考え、その保存修復には、十分の考慮を期待しています。

講演 東北大学名誉教授 佐藤 巧 氏
(旧三中分校シンポジウム基調講演(平成10年)より)