朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
戦国時代、大谷集落の南西方向の真木山に真木山城(写真左)があり、秋葉山(写真中央)は森山と呼ばれ、猿田楯(写真右)と共に敵からの攻撃に備える出城(楯)となっていました。弓の矢に使ったといわれる矢竹は今も自生しています。真木山城大谷家は血縁関係にあった大江家が天正12年(1584)に最上家に滅ぼされた時、最上家に仕えるのではなく農民として土着する道を選びました。
※写真は用山山頂から見た秋葉山 ※『大谷郷』より抜粋 →アクセスマップはこちら →秋葉山エリア(大谷) |
大谷集落の南西方向に標高247.5mの真木山があります。大江、伊達、最上の三勢力が争う戦国時代、ここは真木山城とよばれた城であり、東方にある秋葉山楯、北東の位置にある猿田楯とともに敵からの攻撃に備えました。
天正12年(1584)血縁関係にあった大江高基が最上義光により滅ぼされた時、城主大谷彦次郎元秀は平塩池之坊に婿養子として亡命します。家臣達は農民となり大谷党を組織し時勢の訪れを待ち続けました。 ※『大谷郷』より抜粋 ※登山不可。秋葉山交遊館から見て西の山です。 →真木山と大谷の周辺風景 →アクセスマップはこちら →秋葉山エリア(大谷) |
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甲斐の武将武田家を先祖とする雲沢寺は、慶長5年(1600)送橋に一寺を建立したのが草創とされます。
寺伝によると、宝徳元年(1449)武田信玄の祖父の弟にあたる武田信安が出羽に下向し、最上氏により山辺町高楯城主となります。信安17歳の時、水利の便が悪いことを知り玉虫沼を築堤しますが、水源地となる周辺一帯は鳥屋ヶ森城主岸氏(朝日町新宿)の所領であったため自領だった末吉良村(朝日町宮宿元町一帯)と交換しました。 文明3年(1471)最上義春の命により葦名戦争に参加しますが大敗します。信安は人生の無常を感じ仏門に帰依し、鬼の目山谷に草庵を建立し戦没武士の菩提を弔いました。これが山辺町の了広寺です。 そして慶長5年(1600)、了広寺四世西心法師が住職を長男宋賢にゆずり、三男宋察を連れて送橋村に来て雲沢寺の草創の一寺を建立したのです。その後、宮宿に再建しましたが宝暦7年(1757)と明治10年(1877)に大火に見舞われ全焼しました。送橋の経塚に仮堂を建てて8年ののち、宮宿森林(旧宮宿中学校跡 緑ヶ丘)に移り、その後現在地に再々建となりました。 浄土真宗大谷派。ご本尊は阿弥陀如来。総高60センチ肩幅22センチの立像は寛永16年(1639)の作と伝わります。 ※抜粋 / ふるさと朝日町散歩(長岡幸助・朝日町広報委員会) ※本堂見学は直接お問い合わせ下さい。 →アクセスマップはこちら |
薬師如来を祀る東善寺 瑠璃殿(堂)は、宝永5年(1708)の棟札から、羽黒山修験の末寺で豊龍神社(宮宿)を祀るもと東守寺の配下寺だったことが分かりました。木造薬師如来立像は平成5年に山形県有形文化財に指定されました。。毎月8日が“おようが”と呼ばれるお参りの日とされ、例祭は5月8日だったが、現在は第2日曜日に新宿区民をあげて賑やかに行われています。
熊谷與志雄さん、熊谷小三郎さんのお話 →お薬師様の管理 →紅葉の城下町“新宿”を訪ねる(PC) →アクセスマップはこちら ※案内看板はありませんので分かりづらいです。事前にエコミュージアムルームでご確認いただくか、地元の方におたずね下さい。 |
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「新宿」という名前ではありますが、鳥屋ヶ森城の城下町だった新宿地区は、中心地の宮宿よりも古い歴史を持ちます。
新宿地区には、かつて今井治郎三郎家の生糸製造工場があり、特に養蚕(ようさん)が盛んな地区でした。屋根構えの大きな家が多く残っているのは、屋根裏を蚕室に使っていたからです。特に大きな建物は(現今井優一さん宅 / 見学不可)は、蚕の種屋を営んでいたそうです。 →熊谷與志雄さんのお話 蚕の種屋「旧高田家」の住宅について →アクセスマップはこちら ※山沿いの通りに特に古い家が多く残ります。 |
真中昌城院を開山した心鏡上人は文禄3年(1594)にこの地から昇天しましたが、同じ真言宗の八ッ沼若宮寺13世法印盛永が徳を慕ってこの石碑を造立しました。
心鏡上人は法力のみならず学識高く近隣村人の崇敬を集め、その逸話は数々の伝説として残り、今なおその徳をたたえ毎年4月29日には盛大なお祭りが開かれています。 ※『大谷郷』より抜粋 →アクセスマップはこちら |
心なごむ明鏡橋を見つめて
橋の写真家 平野暉雄氏 (株式会社景観技術センター代表取締役) 〈文化が消えてしまうものづくり〉 私は土木設計会社で10年間設計を学んだ。はじめは手計算だったが、次第にコンピュータの時代になり、「早く・安く・丈夫なもの」を主目的に設計する時代になった。しかし、それだけで作ってはその町の文化が消えてしまうのではないかと思った。34歳の時(1977)に独立し“写真の中に完成する橋のイメージを作る”景観設計の会社を興した。見え方を重視することが美しさになるのではと考えた。 橋の写真を撮り始めたのは、講義する母校の立命館大学の学生達にきれいな写真で橋を見せたかったから。すると、古い橋が素晴らしいと思った。現代の橋は、大きい橋、新しい橋、化粧した橋など、絵にならない違ったイメージを感じ、味気ない橋が多い。 〈日本一心なごむデザインの明鏡橋〉 便利よりも、心なごむ観点から物作りしないと世の中全体が味気ないものになってしまう。土地の人が心なごむ橋がいい。 『日本の近代土木遺産』という文献があるが、この中に橋が1000橋位、写真掲載のほとんどない一覧表で紹介されている。私は大体8〜9割は見てきた。明鏡橋みたいな素晴らしい橋に出会えるのは10橋に一つあったら良いほう。明鏡橋は何度でも来て写真を撮りたくなる橋の一つ。リピートしたくなる橋こそ心なごむ橋といえる。明鏡橋は開腹型アーチ橋では日本一の心なごむ橋だと思っている。 〈明鏡橋の素晴らしさの理由〉 山形県内では、明鏡橋、大江町の最上橋、寒河江市の臥竜橋の三つが一番素晴らしい。2002年4月に朝日のあたる明鏡橋を撮らせていただいた。明鏡橋がなぜ素晴らしいかというと、アーチの曲線(円弧の両下端を結んだ線と円弧の頂部との高さ)が非常に大きく、並列に3本のアーチ(3主構)のきれいな円弧になっている。また、桁と支柱の接合部も円弧で繋がれている。高欄も円弧でデザインが統一されている。最上橋のようにアーチが3径間連続になると高さが低くなる。明鏡橋のほうがアーチの曲線がゆったりしている。 ぺらぺらの定規をアーチに曲げると、両端に力がかかり非常に硬くなる。明鏡橋も臥竜橋も、両岸とも岩でできているからアーチができる。岩場のある所が川の流れは早くなるので、芭蕉の「五月雨を集めて早し最上川」の句は、庄内ではないと思う。アーチにすると大きく架けることができるから、流れの早いところに橋脚を立てる難工事をしなくていい。非常に力学や自然にあった作りになっている。一つの円弧でこれ以上きれいなコンクリートアーチ橋は日本にはほとんどない。 〈思い入れのあるものを守り継ぐ町づくりを〉 昨日、佐竹さんの家(佐竹家住宅)の外観を見せてもらった。他にもあると思うが、この地方の特徴を現した家である。あのような作りの家は他のも残してあげるとこの町の誇りになるのではないか。 現在は安くて丈夫な材料がいっぱい出回っているが、修理される時は、町の景観保全のため(できるだけ元の材料と同じもので」)修理費を出してあげて残して欲しい。 日本の文化を次の世代に残すのは大変な苦労がいること。私は京都生まれだが約1200年間の歴史があって守り継がれてきた。守るのは新しいのを作るより大変な努力がいる。特に今の時代はどちらかというと新しいほうが好まれているが、そうではない。そこに思い入れがあることによって日本の文化が守られるのではないか。特に、土地の「言葉」「食べ物」「見るもの」を大切にできたら心なごむ町が出来上がっていくと思う。 お話 : 平野輝雄(ひらの・てるお)氏 プロフィール 1943年京都市に生まれる。1968年立命館大学理工学部卒業。会社勤務を経て,1977年〜株式会社景観技術センター代表取締役社長、1992年〜2006年立命館大学非常勤講師、1988年明石工業高等専門学校非常勤講師、日本写真協会会員、土木学会フェロー会員、キャノンクラブ会員。著書に写真集『日本の名景 橋』『橋を見に行こう〜伝えたい日本の橋〜』がある。 ※写真は『橋を見に行こう〜伝えたい日本の橋〜』より抜粋しました。 景観技術センター公式サイト(PC) →伝えたい日本の橋 →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
常陸宮殿下は、妃殿下と共に平成10年10月に「世界のりんご園」をご視察になられました。常陸宮殿下はこの思い出を新春恒例の宮中行事「歌会始の儀(平成11年1月)で詠み下さいました。「山形の青一色の空の下 赤きりんごをわれは手折りぬ」
→アクセスマップはこちら ※世界のりんご園内東屋付近にあります。 |
胸高幹周り9.27m。林野庁「森の巨人たち」で日本の巨木100選に選ばれました。上倉山の頂上を越えたあたりの登山道から少し入った所にあります。近くには幹周り8mや6mのクロベもあります。
→アクセスマップはこちら ※朝日鉱泉より2時間登山 ※登山の際は、事前に登山情報をお確かめ下さい。 朝日鉱泉ナチュラリストの家(PC) |
平成10年(1998)に発掘調査が行われ、大きなものでは直径40センチの木の柱が24本発掘されました。約3000年前の縄文時代晩期と考えられ、縄文遺跡において柱根の発見は県内ではじめてとなりました。現在は埋め戻されてあります。
※写真は用橋と記念碑 →アクセスマップはこちら |
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お話:小林富蔵さん(元朝日町長)取材 : 平成6年