朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
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木川ダムは、昭和33年に朝日川第一発電所の取水用として朝日川の深い渓谷を利用して造られた越流型直線重力式コンクリートダムです。最大出力9000kw。
→朝日川第一発電所(水力.com) →木川ダムの水鳥(朝日川十景) →アクセスマップはこちら ※狭い道ですのでお気をつけて走行下さい。 |
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三万年ほど前の最上川は、栗木沢から大谷地区を大きく迂回し、粧坂へと流れていたそうです。やがて明神断崖付近を直線的に流れるようになり、大谷地区は沼地や芦のしげる湿地となりました。秋葉山は川の浸食をうけず小山として残ったと考えられています。
※『大谷郷』より抜粋 →秋葉山エリア(大谷) |
水面より170mの高さを誇る最上川最大の絶壁が明神断崖(通称:用のはげ)です。江戸時代の舟人も圧倒したと伝えられ、その姿は大朝日岳山頂からも確認できます。黄金の橋や竜神伝説が残り、周辺地域には、ヤマガタダイカイギュウ化石発掘地、上川原山ノ神縄文遺跡などもあり、遥かな歴史を想像できる場所となっています。断崖は最上川を境にした大江町にありますが、朝日町側からその全容を見ることができます。
※朝日町真中地区から眺められます。川岸からの見学地は分かりづらくなっています。エコミュージアムルームにお問い合わせ下さい。 →用のはげと周辺めぐり(2008) →辰年!竜神信仰の明神断崖を訪ねる(2013) →フォトギャラリー(PC) →アクセスマップはこちら →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
水面より170mの高さを誇る最上川最大の絶壁が明神断崖(通称:用のはげ)です。江戸時代の舟人も圧倒したと伝えられ、その姿は大朝日岳山頂からも確認できます。黄金の橋や竜神伝説が残り、周辺地域には、ヤマガタダイカイギュウ化石発掘地、上川原山ノ神縄文遺跡などもあり、遥かな歴史を想像できる場所となっています。断崖は最上川を境にした大江町にありますが、朝日町側からその全容を見ることができます。
※朝日町真中地区から眺められます。川岸からの見学地は分かりづらくなっています。エコミュージアムルームにお問い合わせ下さい。 →用のはげと周辺めぐり(2008) →辰年!竜神信仰の明神断崖を訪ねる(2013) →フォトギャラリー(PC) →アクセスマップはこちら |
〜祖父の初仕事〜
私の祖父は、中学を卒業して初めて働いたところが明鏡橋の架け替え工事だったと話します。一番記憶に残っているのは橋脚の土台となる土を玄播山から運んだことと言います。当然ですが工事用のダンプなどは無いため、すべて手作業で運んで大変だったということを昔の思い出話として話してくれました。 〜父の水遊び〜 祖父が橋の工事に携わったとすれば、父はその下で遊んだ少年時代の思い出話をしてくれました。明鏡橋付近、最上川の左岸は栗木沢、右岸は大隅、それぞれの子供たちにとって絶好の遊び場でした。栗木沢が橋よりも少々上流、大隅が橋よりも少々下流に泳ぎ場があったといいます。泳ぎに疲れたり、体が冷え切ったときは、水の浅いところで温かくなった水に浸かり体をあぶったということです。最上川を泳いで横断できれば一人前と認められたり、対岸に向かって石を投げたり、栗木沢と大隅それぞれ川の両岸のお隣同士で同じような遊び(ときにはケンカも)をしていたようです。 〜私の少年時代〜 私の年代になると、もう川で泳ぐものはいませんでしたが、ちょうど二見屋さんの現在の主である遠藤憲一氏の長男が私の弟と同級生で仲がよかったので、私も小学生の頃はよく河岸に遊びに行きました。 雪解けによる増水が引いた春先ごろは、岸にいろいろなものが落ちていました。釣りに使う浮きや軟式ボール、ゴムボール、靴類からその他の生活雑貨、使えるものから役に立たないものなどあらゆるものがあって、それらを拾って帰るのがうれしかった思い出があります。 また、梅雨が明けて夏になると、父に連れられて明鏡橋の真下で釣りをしました。以前は近くの沼で浮き釣りしかしたことがなかったので、初めて最上川に行った時はリール竿と吸い込み針を使ういわゆる「ブッコミ釣り」にとてもわくわくした覚えがあります。明鏡橋の下には今でも昔の橋の支柱を立てたと思われる直径50cm、深さ30cmほどの丸い穴が数箇所あり、そこに釣った魚や、稚魚程度の小さな魚を捕まえて放しては楽しんでいました。河岸にはその他にも、明鏡橋の少し上流・中州の手前辺りにちょうどお風呂くらいの四角の穴があったり(昔の岩採り場の跡らしい)して、子供心ながらも何の跡か疑問に思っていました。釣りをしない日でも、中州に行ったり、上流下流両方の河岸をどこまで歩いていけるか散策してみたりと、特に目的がなくとも何気なく遊びに行っていたものです。 お話 : 佐久間 淳さん あさひまち宝さがし2002(平成14年) →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
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お話/ 菅井一夫氏 〈古い明鏡橋のこと〉 小さい頃、母親に手を引かれて二見屋の鉱泉によく入りにいったな。旧明鏡橋の前に架かっていた橋は木の橋で、川が板のすき間から見える作りで渡るのがとても怖かった。 〈光玉堂について〉 父が始めたお菓子屋「光玉堂」は、昭和一九年に沼向から今の明鏡橋のたもとに移転したんだ。終戦後は小さな店だった。物資や原料があまりない時代で、最初は最中を作っていた。 私は、若い頃に川崎の軍需工場に就職して、上陸舟艇や特攻機用のエンジンを作っていた。東京空襲は川を挟んで目の前で見た。終戦前に体を壊してしまい、帰って来て光玉堂を継いだ。お菓子作りは、父も世話 になった宮宿の永勝堂さんで修行させてもらった。 明鏡橋にちなんだお菓子「明鏡の月」というお菓子も作っていた。黄身あんをカステラまんじゅうで包んで、型に入れて形を整えてから電気釜で焼いた。法事などで頼まれると忙しくて、三日も寝ないで作ったことがあったな。昭和四八年(一九七三)の全国菓子博覧会に朝日町の菓子組合のみんなで出品したことがあったけど、うちではこの「明鏡の月」を代表作として出した。でも、十数年前に妻が体を壊してから菓子作りは辞めてしまった。 〈明鏡橋付近の様子(大隅側)〉 移転した当時、近くにはお茶屋さんやタガ屋(桶屋)さん、魚屋さんもあった。うちもバスの停留所だったから、祖母が待っている人にお茶を出したりしていたな。 明鏡橋は男女の出会いの場で、夏の夕方になると若い男女が「ヤーヤー」と集まって来て、橋が落ちるほ ど賑わっていた。うちでは左沢の柏屋から氷を買ってきてかき氷を出していた。けっこう繁盛した。橋のすぐそばには簡易な小屋を建てて天然 氷で商売した人もいた。今なら許可出ないだろう。大隅の堤に張った氷を冬のうちに切り出して、大竹国治さんの屋敷にあった穴蔵を借りて夏まで保管していたんだ。国治さんは蚕の種屋をしていたから大きな穴蔵があったんだ。 橋の欄干の両脇には、皇紀二六〇〇年(一九四〇)を記念して植えられた大きな松の木があった。今は枯れてしまった。今考えるともったいながったな。 〈人助けの杉の木〉 事故は毎年のようにあった。十五年くらい前の雪の朝、トレーラーが橋の入口で横倒しになって通行止めになったことがある。幸い運転手は川に落ちなかったが、橋の欄干を川に落としてしまった。その時は、冷蔵庫の電気や電話線も切れて大変だった。 いつだったかは、乗用車が橋と公民館の間から落ちそうになったが、橋のそばの杉の木に引っかかって川に落ちなかった。その杉の木を「人助けの杉の木」と言っている。今もその杉の木は健在だ。 〈増えている見学者〉 最近、旧明鏡橋を見に来る人が少しずつ増えているようだ。夏には、熊本の学生さんが来た。大学の先生から「明鏡橋を見てくるように」と言われたと言っていた。しばらく前には、ダニエル・カールさんが取材で歩いて来てトイレを借りていったことがあった。 古い明鏡橋を壊さないで、そのままにしていただいてありがたいと思っている。私は明鏡橋の恩恵をもらって生活してきた。とてもありがたい橋なんだ。 菅井一夫(すがい・かずお)氏 / 昭和4年生まれ。光玉堂代表。 (2011年1月 取材/小野重信) ※上記、ダウンロードボタンより印刷用pdfファイルを開けます |
無量庵の開山は、応永年間(1394〜1428)と伝えられています。江戸時代は真中昌城院の末寺であったとされ、その後、大谷の永林寺の末寺となりました。ご本尊の阿弥陀如来座像は、江戸時代の寛文から元禄期の製作といわれ、目鼻立ちが整い、衣紋も繊細に描かれ気品あふれる作品です。朝日町指定文化財。
※『大谷郷』より抜粋 →アクセスマップはこちら |
朝日連峰の朝日川流域には蜜源樹の“トチノキ”が多く自生し、養蜂業が盛んに営まれています。
昭和63年(1988)日本ではじめての蜜ろうそく工房「ハチ蜜の森キャンドル」が朝日町に誕生しました。蜜ろうそくは養蜂で収穫される不用なミツバチの巣だけで作られます。 工房では購入はもちろん、製作体験(予約制)もできます。また、季節事のワークショップも人気です。工房では蜜ろうや養蜂についての展示も見学することができ、6〜9月は観察巣箱も設置されます。予約すればスライド映写による説明もして下さいます。営業日/土・日・祭日 お問い合わせ/電話0237-67-3260※見学は営業日のみ。 →蜜ろうの利用について →養蜂について →アクセスマップはこちら →ホームページ(PC) |
ミツバチは花が咲いて蜜が採れ出すと、新しい巣を巣板の下や、巣箱内のすきまにどんどん作ってしまうのです。それを整理するために取り除いたものや、採蜜の時に切り取った蜜ぶた(巣穴のふた)などを精製して蜜ろうのかたまりにします。一箱あたり年間で500g位しか採れないので、同業者からも買い入れています。
この蜜ろうはさまざまな用途に使われています。薬や化粧品、鋳造の型材、お菓子、靴墨、各種ワックス、クレヨン、ろうけつ染めの材料など。あげればきりがありません。私は、ろうそくを作ってはんばいしてますが、油煙は出ず、いやな匂いもなく、落ち着いた優しい光が特長です。 お話 : 安藤竜二さん(立木、蜜ろうそく製造業) となりの佐藤さんのばあちゃんは、蜜ろうとなにか混ぜてやけどの薬作るんだっけ。二週間もかけて作る。昔、大谷の板垣医者で看護婦していた人だから。できあがると、部落のみんなさ配るんだ。切り傷にもいいし、みんなで喜んで使っている。 お話 : 菅井弘吉さん(和合平) 蜜ろうを使って接ぎ木する。接ぎ木する穂木の先さ塗るんだ。穂木の先の切り口から水分が抜けて乾燥すねようにすんなだ。普通のろうだとお天とう様の熱で溶けてなくなってしまうけども、蜜ろうだと、溶ける温度が高いから、大丈夫だもね。最近は、ビニール袋をかけるようになったけど、焼けないように管理しなければならないのでやっかいなんだ。 お話 : 遠藤 理さん(栗木沢) 蜜ろうは戦中、弾薬の密閉に使ったんだ。砂糖不足の時だけれども、ミツバチ用に配給があって、その代わりに蜜ろう何キロ出荷しろなどと要請があったんだ。普通のろうみたいにカンカンに硬くなく、柔らかいからね。ひびが入って火薬が湿気らないようにしたんだべ。 今は、登山客の人が靴に塗るんだと言って買いに来るね。 お話 : 多田光義さん(太郎、養蜂業) 取材 : 平成7年 |
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