朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
8月11日(木)〜9月4日(日)まで、道の駅あさひまち「りんごの森」2Fギャラリーにて「大谷風神祭」の展示を開催中です。
エコミュージアムパネルやワークショップで作成した田楽提灯のほか、広報あさひまちの表紙を飾った風神祭の写真などを展示しております。今年度の風神祭を楽しむためのリーフレットも出来しだい配布予定です。お近くにお越しの際は是非お立ち寄りください。 |
心鏡(しんけい)上人は、断崖頂上の明神と稲荷明神の間に黄金の橋が架かり明神が仲良く遊んでいる神秘的光景を見て、「この地こそとどまるべき」と決めたと伝わります。境内に江戸大火の火を消すために水をかけたと伝わる“男石・女石”もあります。心鏡上人は、大井沢大日寺中興の祖と謳われた道智上人の弟。
文禄三年(1594)開創。本尊/地蔵菩薩 真言宗智山派 ※『大谷郷』より抜粋 →アクセスマップはこちら |
水口地区に伝わる「弥十�田植え踊り」をまとめた映像が、東京ビデオフェスティバル2015において見事に佳作を受賞しました。制作にあたったNPO法人朝日町エコミュージアム協会理事の花山護氏が授賞式に参加し、審査員の高畑勳監督や大林宣彦監督から激励を受けました。映像は下記アドレスより見ることができます。
→弥十�田植え踊り |
東永寺には布で作られた乳房がいくつも奉納されてあります。本尊の地蔵菩薩は通称“乳地蔵”と呼ばれ、母乳が出なくて困っている人が祈願していました。念願が叶い母乳が出ると、感謝をこめて布で新しい乳房を作り奉納しました。残念ながら粉ミルクの普及とともに祈願する人も少なくなりました。
|
東永寺は、開創時には鳥屋が森城のあった館山の中腹にあった。元々檀家の持たない祈願寺だった。それに対して同じ館山の左側にあった福昌寺は檀徒寺だった。
本尊の延命地蔵菩薩様は乳地蔵とも呼ばれている。乳が出なくて困っている人はここで祈願した。乳が出たら、乳の形にしたものを布で作って奉納した。本尊は秘仏になっているから見られない。前に立っている地蔵様は、前仏といって本尊を守っている。左右には観音様。右側には五人だけの位牌壇がある。 東永寺の寺子屋の歴史はとても古く、裕福な子供だけでなく区別なしに使用人の子供なども学ぶことができたそうだ。だから100人をこえる大人数だったと言われている。ここにある「児翫」の石碑はその証拠のようなものだな。 (お話 : 熊谷與志雄さん 取材 : 平成17年11月) |
愛宕山東永寺は、天文年間(1532〜1553)に宥白上人により開山されました。はじめは館山の陰の倉沢にありましたが、寛永年間(1624〜1643)に真言宗の祈祷寺として現在地に移りました。往古はご朱印寺でもあり、信仰を集めひろく寄進された板札が見られます。ご本尊は秘仏の延命地蔵菩薩。脇侍に千手観音、三十三観音、弘法大師像。最上48ヵ所地蔵尊札所第24番札所。五百川三十三観音第25番札所。朝日町新宿245
熊谷與志雄さんのお話 →東永寺について →五百川三十三観音縁起 →五百川三十三観音霊場一覧 地図はこちら |
大沼の湖面の色は昔から変わらず土色だった。泥が厚く堆積している。泥がガスとともに真っ黒になって出てきてそこさ植物の種が落ちて浮島ができたという話もある。また、いくつものちっちゃい島が大きな島に押されて、陸に上げられたりすることもあるから、常に管理する必要がある。昔は手入れする人がいた。島が動かなくなる所まで何べんも押して適当な場所を探す必要があるがだいたいそのポイントがわかって来た。雨の降りそうな時は、水の湧く所さ集まる。その状況を見て天気を予測することもできた。
浮島を守る会は、浮島の環境を守るために、私一人だけでなく、年配者から若者まで、みんなして一生懸命になって活動できないものかと、ボランティアで始めた。そして、結成してから毎年島切りを実施している。以前、浮島の手入れをしない時代には、浮島の数が減ってしまったこともある。根っこが水底にくっついてしまうから、それを切り離さんなねがった。会のメンバーが一生懸命手入れしたさげ、今のような状態になった。 さらに、景観が悪いところの枝を切ったり、林の中を伐り払ったりして、観光と結び付けたいけれど、先生たちが考えている「手を全く加えない自然を目玉にした観光」との考え方の違いに私達も戸惑っっている。 浮島の復元をしてから二十年近くなるが、島切りをする所が1メートル位空洞になっている。これは鯉がつついて根っこを食うからだと思われる。んださげ、島切りをすると、片方には根っこが深くいっぱい付いているが、もう片方には根っこが少ない状況になっている。このため、浮島を切り離して出すと、グラッとひっくり返るみたいになる。これで非常に苦労した。 お話:白田隆さん(浮島を守る会会長) 取材 : 平成6年 |
昔は今よりもっと手入れをしたから、島はもう少し多かったかもしれない。しょっちゅう‘島出し’をした。白田仁吉という人が茶屋を経営しておったころは、毎日あそこにおったわけだから、毎日島出しをしない日はなかった。誘客のためにもしたんだろうと思う。ところが戦後、茶屋がなくなってからはめったにしない。現在浮島を守る会のメンバーがするが、これも昔ほどではないかもしれないな。
お話:小林富蔵さん(元朝日町長) |
近頃は、東京でも人気を得ている冬の伝統菓子“凍み餅”について見学会を開きます。ご飯を干している様子を見るほかに、今回は朝日北の原食品のお母さん方を講師に、凍み餅ができるまでのお話や、おいしい揚げ方のコツなどを実演で伝授していただきます。参加者限定のお得情報もございます!!是非、皆様のご参加をお待ちしております。
日 時 2月4日(日) 9:30〜お昼頃まで 集 合 朝日町エコミュージアムコアセンター「創遊館」エコルーム前 ※水本地区までバスでご案内いたします。 参加費 1,200円(保険、体験料) 定 員 20人(先着順) 講 師 朝日北の原食品のお母さん方 主 催 朝日町エコミュージアム案内人の会 お申し込みは ←左側のカテゴリー/お問い合わせ・お申し込みからメール、 もしくは電話0237-67-2128エコルームまでお願いいたします。 |
冬越しは寒くないように、箱の回りに、わらをぐるっと囲んで、その上からむしろを被せてやっている。(遠藤理さん/栗木沢)
25年程前から千葉県の南房総へ行っている。11月頃に出かけて,秋に減った蜂数を一箱で3万とか3万5、6千匹にして帰ってくるんだ。(多田光義さん/太郎) 取材/平成6年(1994) |
|
大谷盆地中央の広い平坦な所は、水利に恵まれず、昔から荒地と湿地がほとんどでありました。水田といえば、山田や谷田で小さな溜池や沢水、わずかな清水(涌水)と、天気まかせの天水を利用して細々と耕作していたのです。その田んぼも、日照りになると、田は割れ、稲は枯れてしまい、毎年のように水不足に悩まされてきたのです。そんな時代が何百年と続いてきたのでした。
江戸時代になって、初めて大型のため池が二か所つくられました。それは山形藩主鳥井忠政預り支配のとき御普請所(幕府の公費)により、郡中の幕府領内の村々から大勢の人足が出て築かれたものです。内林のため池は寛永三年(1626)、西堤は翌年の寛永四年に完成したのです。 それから二十年後、慶安元年(1648)に村人だけの力(自普請)で中丸と猿田のため池二か所を構築したのです。これらの本格的な溜池四か所の完成により、盆地周辺の山裾一帯が新田開発され、耕地面積も倍増しました。しかし、平地を開田するだけの水量はなく荒地のままだったのです。 『水とくらしの探検隊〜大谷大堰編〜』より抜粋 編集 : 平成14年(2002) |
〈小学校三年から石器拾い〉
田原眞稔が石器や土器に興味を持ったのは、小学校三年くらいからだったと聞いている。その頃だと、この大隅あたりを歩いては、石器や土器を拾いに出かけたらしい。今も残っているが、ボロリュックと巻き尺なんか持って歩いていた。菅井進さんなんかと一緒に歩いたこともある。石器のでる所は、裏に丘陵があって、下は開けているという所だと話していた。そして、こういうところが昔の人が住まいするのだと話してくれた。 〈結婚した頃〉 眞稔さんは、大正十四年生まれで、私は大正十五年生まれです。私は大井沢(西川町)生まれで、父は学校の先生で姉は医者(志田周子)だった。私は、兄が出征して帰るまでの約束で家に帰った。そんな私をみて、叔父が田原との縁談を進めてくれた。どうせ百姓するなら良い場所がいいと思っていたので、家の周辺が畑なのは、働きよいと思った。 〈田原家のこと〉 眞稔さんもこの土地が好きだった。田原家は、五町歩の御朱印地を持っている神社だった。大谷には、白田外記、内記など御朱印地が多かった。この田原家は、本業は神職で、医業が副業だった。三代前頃は、寺子屋をしていて近隣の子弟を教えていた。兄が医者になる予定だったが、若くして死んだので後を継いだらしい。 〈『縄紋』を出していた頃〉 考古学が好きだったので、入門書から専門書、までずいぶん多く読んでいたようだ。山形師範では、長井政太郎先生の弟子で、三面部落の調査の時の原稿も自分が書かせてもらった。昭和二十年に師範を卒業すると和合小学校に勤務した。この頃菅井進さんや大竹家と知り合った。私が結婚したのは、昭和二十六年だから、もう『縄紋』も終わりの方だった。今でも多くの人達から来た手紙が残っているが日本中の研究者と連絡していたようだ。後々までいろいろな連絡が来ていた。学校から帰って夜中になると原稿を書いていた。あまり遅くまで起きているので朝はつらかったようだ。学校に遅れて行ったりしていた。あの頃はそれでも勤まったが、今だったら勤められたか分からない。昭和二十二年に『縄紋』第一集出しているけど、あの時は紙の少ない時代で、教員になってからの給料は、ほとんど『縄紋』に使ったと思う。私は、一度も主人の給料を見たことがない。 〈東京大学で講演したことも〉 日本中で『縄紋』読んでいたみたいで縄紋文化研究会には、日本中に会員がいたようだ。文部省から研究費をもらっていたこともあったが、経済的には大変だった。この研究には、会費とか会議とかいろいろなお金がかかったようだ。学術会議の会員にもなっていて人文学部の選挙権もあった。昭和三十年頃だったと思う。「縄文学の提唱」という題で、東京大学で論文発表してきた頃が、主人としては一番良い気分の時だったと思う。 それ以降、病弱な子がいて、母が病気になったりで、生活に重点を置かざるを得なくなり、学校を辞めたのだと思う。農業で生きられる人ではないと思ったので、私も、私の姉たちも学校を辞めないようすすめたが、言い出したら聞かない人だった。 〈縄文の博物館を作ろうとした〉 学校を辞めたのが昭和三十二年です。私が畑、主人が給料と二つあるのが良いと思っていたが、りんごを始めていたので、それを本格的にするというので辞めた。学校辞めてりんご作ろうとしたのは「縄文博物館」を作るのが夢だったと話していた。にんごで生活を安定させて夢を実現しようとしたが、現実には思うようには行かなかった。 〈日本のシュリーマンに〉 体こわしてからも菅井さんなんかが、改めて発掘しようとか誘いに来たけどあまり熱心ではなくなった。シュリーマンの様に大きなことをやりたかった。そのためにはお金が必要で、それで農業で生活の基礎を築きたいと思った。その頃、給料は安いし戦後の食糧不足の時代だったが、和合の方はりんごで景気が良かった。りんごで稼いで本格的に縄文の研究したかったのじゃないかな。大学の非常勤講師もしていたが、農作業が忙しくてそれどころではなくなった 〈何にでも研究熱心だった〉 学校を辞めてりんごづくりと鳥飼もした。鳥飼したときも『養鶏の日本』なんて本を読んでいた。りんご箱でゲージ(鳥かご)を作って五百羽も飼ったことある。その卵を仙台のお菓子屋に売りに行ったり、塩釜から魚のアラをトラック一杯買ってきたりした。何でも大規模にしたい人だった。研究熱心で鳥のくちばし切ったり、羽根切ったりしてどうしたら効率良く育てられるか研究したりもした。 りんごも作り始めると青森の渋谷雄三さんの剪定の本を取り寄せて勉強していた。剪定は、教えに行ったこともあるし賞ももらったし、本人も剪定が一番面白いと言っていた。でも、若いときから労働した人ではないから、労働の連続はできなかったのじゃないかと思う。 大竹の叔父は、大分主人を気に入ったらしく、和合小から送橋に転任になるときなど教育委員会に異議申し立てをしたハガキもある。だから、石器も預ける気になったのだと思う。旧石器のことが次第に知られるようになってくると、山形大学生や石器に興味を持つ人が訪ねてくることが多くなり、仕事に影響するようになっていたし、柏倉先生や加藤稔先生等も見にいらっしゃったのを覚えている。その頃だったと思う。「山形大学に貸してやることにした」と言っていたのを覚えている。どなたと、どんな約束をしたのかは分かりませんが、貸してやったと言っていました。 この家には、集めてきたいろいろな石器や土器が町から貰った収納箱に残っている。いつかどこかで展示できたら良い。 〈この土地が好きだから〉 千年近くも続いている家なので、できるだけこの土地を残したいと思っていたのだと思う。ずいぶん苦労もさせられたが、夢のある楽しい人だったと思っている。個人でスプレヤー(消毒などの散布機)を採り入れたのも早かったし、自家用の車を入れたのも早かった。中古で買った牽引車を今も使っている。この土地を残してもらったおかげで、今も働けて何とか生きてこられたのだと思う。 眞稔さんもこの土地が好きだったから、ここでりんごづくりをしたのだろう。小さい時から自分が大きくなったら、この土地に住んでこの土地を守ると話していたらしい。 本当にこの土地が好きだったのだろう。手相を見る人に、五十代で命に係わる病気をすると言われたと言っていた。四十代半ばで大病をし、五十五までの人生は短すぎたと思う。 お話 : 田原倫子さん 平成8年 |
All Rights Reserved by asahimachi ecomuseum
現在の潅漑面積は、7,1ヘクタールで内林水利組合が管理運営をしています 堰堤(えんてい)からは、大谷盆地全域を一望でき、春夏秋冬、季節ごとに変わる大谷の美田を楽しむことができます。
大谷の周辺には、昔あったものを含め、大小40以上のため池がありました。学校にプールができ、落ちると危ないからと親から注意され、溜池に寄りつかなくなりましたが、昔は溜池がレクリエーションの場でありました。特に、この内林の堤は、大谷地区のプールがわりに、毎日水泳や釣りを楽しんだものです。このように、溜池に関わった人、親しんだ人が大勢いたのです。
『水とくらしの探検隊〜大谷大堰編〜』より抜粋
編集 : 平成14年(2002)
→アクセスマップはこちら