朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

 文化3年(1806)の浮島絵図面には、「七夕の夜、牽牛星と織女星が年に一度の逢瀬をかささぎが翼をならべて天の川を渡したという故事によって名づけられた。神秘的で霊験あらたかな浮島にふさわしいところからこの名がある。また、相愛の男女がこの橋を渡ると縁が結ばれると伝えられている」とあるそうです。昭和55年(1980)に閼伽沼と共に復元されました。
※鵲橋説明板より

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 宗古録によると、寛文年間(1661〜72)に宝日上人が現在地に開山したとされますが、天文年間(1532〜54)には根合田山麓の寺屋敷という所にあったとも伝えられています。火災により記録は失われましたが今も古井戸などの屋敷跡が残っています。ご本尊は弘法大師の自作といわれる安産子育て地蔵です。最上48所地蔵尊の第23番。五百川三十三観音第22番札所。朝日町和合1029
※参考文献/『ふるさと朝日町散歩』町広報委員会 
五百川三十三観音縁起
五百川三十三観音霊場一覧
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※本堂の拝観希望の方は宗覚院に直接お伺い下さい。
 大暮山萬福寺の境内には「あきごぜ」の墓が建てられています。 
 萬福寺の中興第二世和田宥啓住職の資料によると、天保12年(1841)は天候不順で水稲不作、蚕腐れの年でした。
 越後からやってきた瞽女(三味線をひいて歌いながら門付けする盲目の女性)たちは、四、五人で組をつくり、目が見えないので、前の人の腰からのばした手ぬぐいを後ろの者が握り、大きな荷物を背負いながら、暗くなった大暮山の山道を歩いていました。ところが連日の大雨で土砂崩れにあい、最後尾を歩いていた「あきごぜ」だけが生き埋めになってしまったのです。村人たちは、あまりにもかわいそうに思い、みんなで和尚に頼み葬式をあげたと伝えられています。
※『大谷郷』より抜粋
棚田百選に選ばれた「椹平の棚田」を、早苗の緑に覆われる風景を散策し、ヒメサユリ咲く一本松公園でお弁当を広げます。
日時 / 平成22年6月12日(土)午前10時〜12時半位
参加費/500円
定員/15人
案内人/宮本建一
申込み /4日前まで
エコルーム Tel 0237-67-2128 まで(月・木休み)
もしくはお申込みフォームより。
 一本松農村公園のヒメサユリが咲き始める頃、棚田百選に選ばれた「椹平(くぬぎだいら)の棚田」は早苗の緑に覆われます。一緒に訪ねてみませんか!朝日町ふるさとミニ紀行Vol.1(朝日町エコミュージアム案内人の会)

日時 / 5月23日(日)午前10時〜12時半
参加費 / 500円(資料・保険代)
集合 / 能中公民館
定員 / 15人
案内 / 宮本建一
※弁当、飲み物ご持参下さい
申込み / 
エコルーム Tel 0237-67-2128 まで(月・木休み)
もしくは左下お申込みフォームより。〆切5/20

棚田百選に選ばれた「椹平(くぬぎだいら)の棚田」の田植えが終わる頃、一本松農村公園には町の花「ヒメサユリ」が満開の季節を迎えます。棚田の歴史や見どころを案内いたします。四季折々の棚田の風景も案内致しております。
案内人/宮本建一
 椹平の棚田は、平成11年(1999)農林水産大臣が、棚田の持つ多面性を評価しその維持保全を図ることをことを目的として全国から募集した「日本の棚田100選」の認定を受けました。
 面積はおよそ14ha。およそ190枚の水田を有します。東側には最上川の悠々とした流れが、眼下100mに見られ、北川にはひめさゆりの群生地で知られる一本松公園があります。また、最上川の五百川橋や周辺の山々、能中集落との調和のとれた風景は日本の農村の原風景そのものです。
 水は、八ッ沼の西側奥を流れる油子沢から取水し、トンネル2本と水路により、いったん春日沼に水をため、そこから椹平まで隧道で水を通し水田にしました。現在は水量の安定を図るため、最上川からも取水しております。
 椹平は戦後までは田畑でした。当時の日本は食糧難で、国は食料増産を国策としておりました。そんな中、昭和16年椹平と元能中の畑地を開墾する計画が起こり、三中地区土地改良区をつくり開田工事に入りました。現在のような建設機械はないため工事は大変でした。また、当時の国策で大変なことなので、小学生も工事を手伝いました。
                          (記/宮本建一)

棚田の玄米菓子
棚田とヒメサユリ見学会(PC)
夏草三中堰と棚田見学会(PC)

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 上郷地区は、詩人「海野秋芳」(うんの・しゅうほう)が生まれ育った村です。
 大正16年(1917)上郷宇津野に生まれた秋芳は、16歳で上京し、薬局店員として働きながら詩作を始めます。二十歳の時、泉与史郎に師事し詩誌『モラル』の同人となり、それから数多くの詩を発表しました。詩人の高村光太郎、草野心平らとも親交を深め、昭和16年(1942)25歳の時、高村光太郎に序文を贈られて詩集『北の村落』を刊行します。しかし、二年後の昭和18年(1943)秋芳は腎臓結核を患い27歳の若さで亡くなってしまいます。
 詩集『北の村落』には、戦争、農民、工場労働者など弱者の悲哀や叫びが綴られてあり、高村光太郎の「序」は、戦時下の世に刊行するこの詩集を、弁護するように表現されてあることがとても興味深いものとなっています。

高村光太郎の序文
詩集『北の村落』より詩7編
詩人松永伍一氏の寄稿文(山形新聞)
海野秋芳略年譜
遺品
シンポジウム 報告(PC)2004.12
上郷地区見学会 報告(PC)2004.12
朗読CD 詩集『北の村落』(平成21年)
〈大竹國治さんのこと〉
 國治じいさんは、明治十三年生まれ、大地主の息子で昔は福島の蚕業学校なんか行ってたし、和合の信用組合なんかも作ったり、大正六年からずっと村会議員や町会議員もしていた。昭和十八年前後には宮宿町長なんかもしていたから普通の百姓の人ではなかったらしい。昔は、養蚕の種屋をしていた。この家も総二階で蚕を二階なんかに飼っていたのだろう。種屋は良い種を見つけるのが仕事で、この家の造りもこの土間も広いのは売り買いしていたからだな。

〈國治さんと考古学〉
 國治さん自身は、考古学的なものは何も残していないが、書については興味があったえらしい。歌お膳や何かにも詳しくて近さん(國治さんの息子)が結婚する時は、お膳とか何か輪島の名人に注文していろいろなお花とか鳥とか描いてあって、一枚ずつ違う文様のを取り寄せたりしたこともあった。
東京に行ったときも、三越からお土産を買ってくるような人だった。良いものを見る目はあったのだろう。私は詳しく分からないが、いろいろなものに興味を持った人だったらしい。昭和十二年に明鏡橋の工事があって、その時に自分の畑から出た石を見つけて二階の部屋にとっておいた。二階は、滅多に人の行かないところだから置いておくには良かった。これが大隅の旧石器だった。

〈田原眞稔さんとの関係〉
 國治さんの妹が大井沢に嫁いでいて、その旦那さんは校長先生なんかした人で、その子供が倫子さんで田原さんの奥さんだ。だから、仲人なんかもしたと聞いた。倫子さんの実家は大井沢で、あの当時だと冬は行くのが大変で正月なんかこの家によく遊びに来ていた。それで田原さんが考古学に興味があるからというので見せたのだろう。だからきっと、國治さんは大隅で見つけた石が、石器と分かっていて二階にとっておいたのじゃないか。

〈潤次郎さんも発見した〉
 潤次郎さんは昭和六十二年五十四歳で亡くなったが、区長もしたし森林組合なんかの仕事もしたし、教育委員も務めたんだ。昭和五十四年にまた道路の改修工事があって国道二八七号線の工事をした。この時に潤次郎さんも畑に毎日のように見に行って、自分の畑が削られるときに掘ってまた石器を一個発見したのだな。この石器発見で、はじめて大隅遺跡が発掘された。調査は、この時が初めてらしい。三個くらい見つかったと聞いている。

〈國治さんは偉かった〉
 國治じいさんが偉いと思うのは、戦争に負けてこれからは今までと違って生きなくてはいけないというので、大きな屋敷のこの家のお坪を少し壊してりんごを植えたり柿を植えたりした。この気構えはなかなかできないな。自分が大事にしてきたお坪壊すのだから。その変化は偉かった。雑木林もりんごに換えた。今もそのままりんごを作っている

〈この土地の良さ〉
 ここの大隅の場所のことだけど、この間全国を地質調査に回っているという人が来て、ここは風景も良いし三メートル下は岩盤で地震に強い。排水も良いし井戸水も枯れない良いところだ。ご先祖さんは、良い所を探したなと誉めていた。こんな良い所だから大昔から人も住んでいたのだろう。最上川の段丘には遺跡が多いということらしい。そこは住むにも良いところだ。

〈大隅の旧石器のこと〉
 大隅の旧石器が見つかって、田原さん達が研究したのだけど、長い間放っておかれた。これだけ価値のあるものだと思う人が少なかったのだろう。國治じいさんは、石器は貴重なものであれば私有化してはならない。社会へ提供するべきだといって、全部あげたと聞いている。だから町でこういうものを大切にしてもらえたら、國治じいさんも喜ぶだろう。

お話 : 大竹敦さん

 大谷裏小路の和田新五郎さんは、現在も「青苧」を栽培し、糸をとっています。
 古来からの衣料原料だった青苧の栽培は、江戸時代から明治時代にかけての朝日町の代表的な産業でした。
 和田さんの栽培している青苧は、昭和10年(1935)、15歳のときに祖父の元治さんと植えたものを残しておいたものだそうです。糸をとる「青苧はぎ」は、母ふみえさんの仕事で、収穫したものは馬具用の縄をなったりするのに使っていたそうです。
 八月、刈り取りや青苧はぎを見せていただきました。和田さんは背丈ほども伸びた枝を一本一本刈り取ると、手のひらで茎をぎゅっと掴み、手前に引き、葉っぱを見事に扱き落としました。私も真似をしてみましたが、柔らかな手のひらではとても痛くてできませんでした。また、糸をとるために、一晩水に浸けた茎に鉄製のへらを押しあてて引っ張り、青い表皮をはぎとる作業は弱くするととれず、強すぎると糸が切れそうになったりしました。大変でしたが楽しく体験させていただきました。
 手のひらに付いた茶色い染みは四、五日消えませんでしたが、昔の青苧職人と同じと思うとうれしくなりました。
 報告 宮森友香(エコミュージアムルーム職員 2004)

和田新五郎さんのお話
栽培から糸とりまでの作業
DVD『和田新五郎さんの青苧』

志藤富雄さん、白田千代志さん、堀敬太郎さんのお話
青苧の栽培と製品化
青苧の使われ方
報告
青苧糸とり体験記

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア

思いのいっぱい詰まった豆菓子
 この寺で学校が開かれたのは明治八年。今から123年前の事です。そして、今の旧三中分校、三餘学校となったのが明治十五年のことです。
 さて、三餘学校の頃から三中分校になってもずっと伝えられてきたものがあります。なんだと思いますか。そう、まめです。今日受付でもらった煎ったまめに砂糖がまぶしてあるものです。白い砂糖です。私の大爺ちゃんも私のお父さんも、そして私も三中分校に入学するときには必ず持たせられました。重箱一杯の豆をもって入学式に行って、入学式が終わるとそれを広げてみんなで食べたんですね。白い砂糖なんかはホントに高価だった頃、その高価なお菓子を持って入学式に臨んだんですね。重箱一杯たがって、みんなでがばがば食ったわけです。
 でも、この豆の中には一つの願いが込められています。入学したときからおっきくなるまでずっとまめで暮らせますように、角のある人間でなく丸く優しい人間になってくれますように。母ちゃんだの願いがこの豆には込められているんです。お母さんたちの愛情がいっぱい詰まった豆なんです。

寺子屋を開いた盛恬和尚
 さて、この三中分校、学校として始まったのは明治八年でした。しかし、私がこれからお話しするのは学校が開かれる前の、寺子屋の時代の話です。
 寺子屋を開いた人はどんな人かというと、名前を盛恬というお坊さんなんです。りっぱな顔しったね。この盛恬和尚さん、偉いお坊さんだったんです。しわくちゃで、口をぎゅっと曲げているような、けっこう性格がごうじょっぱり。気むずかしいお坊さんでした。どこで生まれたかというと、山形の船町一乗院というお寺に生まれました。名前は、「一」と書いてはじめと呼びました。寛政二年今から208年前に生まれた人です。五歳の時に山形宮町の両所の宮、成就院という寺がありました。この成就院という寺に盛諄というりっぱなお坊さんがいました。そのお坊さんについて得度式を受け、元浄という僧名をいただきました。その後、盛諄和尚さんから盛恬という名前を改めてもらったのがはじまりです。盛恬という名前をもらって何をしたかというと、羽黒山の山岳仏教、または船町の貴船神社社斉、真言の開祖である大日経、または事相、教相、漢詩等々、あらゆる勉強を三十八年間積みました。

盛恬和尚八ツ沼へ
 三十八歳の年、山形の成就院にいたこの盛恬和尚は、初めてこの若宮寺に住職として入ることになったのです。山形からここまで住職としてやってくるんですね。何できたと思う?歩いて。その通り。山形から歩いてきたんですが、一人で来たわけないですよ。家財道具みなもってきたんです。長持〜、日常生活品、経典や様々な書物、様々な法具、そういった物をみんな詰め込んでやってくるわけです。この八ツ沼という土地から百二十人が出向いて迎えたんです。ずっと来る様子はさながら大名行列のようでした。そういうふうに古文書には記載なっています。んだらどの道ば来たんだべ。山形から山辺、山辺から大蕨、大蕨から送橋、前田沢、宮宿、助ノ巻、船で渡てこの八ツ沼にずっとのぼて来たんだね。
 文政十年の年、初めてここの若宮寺の住職になったとき、最初におこなったのは、境内地の整備と伽藍の整備でした。一番最初に手がけたのは、皆さんが座っているこの上、ごう天井の絵。これは皆川義川定信という狩野派の絵描きさんを呼んで、八十八枚描かせたのです。貝殻、珊瑚など様々な顔料で描いたのがこの狩野派の絵です。わざわざついてきたんです。その人は、盛恬和尚が好きだからついてきたんです。そして、一生懸命描いてくれたのがこの絵です。
 同じようについてきた人がいます。山形は長谷堂出身、名工とうたわれた、粟野音松という人がいます。その人は何をしたかというと、欄間を彫っていったのです。阿吽の龍、これみな彫っていったんですね。丹念に丹念に一木を彫っていったんです。こっちの欄間は二十四孝、親孝行を題材にした欄間が非常に多くあります。この若宮寺には、二十四考の郭巨の鍬堀りや太公望の覆水盆に返らず等をあらわしたものがあります。一度やっとことはもとに戻らないんだ最後まで責任を持ってやりなさいよということなど色々なことを教えてくれています。正面の阿吽の龍を見てください。二匹の龍が荒波の中にいます。上に行くに従って波は穏やかになっています。これは人生を表していて、アーと生まれてから人生の荒波にもまれて、ンと亡くなるまでを描いています。そしてその御霊を後ろの観音様がふねに乗せて、須彌山の世界まで導いていく様子を考えてつくているんですね。
 盛恬和尚は一生懸命堂内の整備を行いました。今は本堂ですが、その当時は講堂、学びの場所でした。一生懸命勉強する人を集めて経典などの勉強を教えたのです。それが寺子屋の始まりだったのです。そうして十一年間を過ごしました。

盛恬和尚再び八ツ沼へ
 そうしていると、山形の成就院の盛諄和尚が亡くなったんです。これはいけないということで十一年間務めたこの若宮寺をやめていきます。そして成就院で六年間を過ごしますが、八ツ沼が恋しくなって、天保十三年の年、成就院を隠居することを宣言したんです。八ツ沼衆が「盛恬和尚、まだ来てけねが、まだ、勉強おしぇでけねが」といい、その八ツ沼の意気込み、勉学にかける努力、人の心、ここに残った自然が盛恬和尚を呼び戻したのです。みんなは、名声をとどろかしている盛恬和尚をまたここの住職に迎え入れることができるというので大変喜びました。今度は二百三名で迎えに行ったんです。久しぶりに戻ってきた盛恬和尚は八ツ沼はやっぱりいい所だなと思い、また一つ事業を興すことを考え、始めたのが鐘楼堂の再建でした。

鐘楼堂の再建と開田事業
 今の鐘楼堂はだいたい150年前に建てられた物です。この鐘楼堂を建てるに当たっては左沢の菅野辰吉という人が、弟子たちも引き連れてきて建てました。なんと七年間かかって建てたものです。七年間の歳月、しかも設計図などはなく、棟梁の頭の中にしかなく、弟子たちは棟梁の言うとおり切ったり削ったりしてやっと作ったのです。高田の大庄屋長岡権四郎家文書には、そのときの様子が書かれています。七年間もかかったんだからよっぽどお金かかったんだべなとおもうべっす。お金であげなかったんでなかったんですね。文書の中には、米何斗、みそ、べべこ何枚、おしめ何枚などという記述があります。おしめなどとあるところを見ると、ついてきた弟子夫婦の間に子どもが生まれたということがわかります。七年間の間村衆もがんばって協力したんだね。
 弘化二年には盛恬和尚は江戸の寛永寺まで行っています。江戸上野の寛永寺で大日経を講義してくださいといわれていったんですね。江戸まで名声が響いていたこの盛恬和尚、数年の間大日経の経典の講義をしてきました。江戸まで歩いていったんですよ。三週間も四週間もかかったことでしょう。江戸で講義を終わってからすぐ戻ってきたかというとそうではなく、大阪までまた歩いて、釣鐘を注文しにいったんです。大阪河内屋五郎左右衛門という人にこの鐘作ってけねがと頼んできました。そしてできあがったのが嘉永三年の時でした。
 ようやくこの鐘が完成して間もない頃、盛恬和尚は、こんどは村のために開田事業をおこしました。天保年間には果沼の薬師堂の周りにあった沼を埋め立てて開田しました。そのほかに慶応元年には五百刈り、または壇の越、お墓だった所を拝んで、整地し開田し、水田を開きました。

多くの人材を育てた寺小屋
 そんな事業をいっぱい重ねて、天保年間に寺子屋を開きました。県内だけかと思ったら大間違い、福島、いわき、郡山あたりからもいっぱいお弟子さんたちがやってきて、三百人以上の生徒さんがここで書道や漢詩を学んだという伝えがあります。一生懸命学んでいってその精神を全国に広げていったわけです。
 巣立っていった人はたくさんいるのですが、夏草に佐竹恒雄さんというお宅がありますが、そこの先祖様で佐竹正詮というお弟子さんは衆議院議員まで立身出世なさいました。盛恬和尚の教えの中から心の精神とか、そういうことを学んでいったんだと思います。
 
素晴らしい景色と伝承
 さて、盛恬和尚さん二回目に八ツ沼に来る時、何で八ツ沼はいい所だって言ったんだべ。それは八ツ沼衆がみんな気持ちのいい人だということ。一生懸命学ぼうとする努力がすこしずつ報われているということ。むかしからあるものを大切にしているということ。そういったことがすべて盛恬和尚にとってすばらしいことだったのだと考えています。
 また、この若宮寺の後ろに春日沼というところがありますが、沼の景色、鴻の森に囲まれた熊野神社、鈴ヶ森に囲まれた春日神社、向かって左手奥に見える若狭山、緑が湖面に映える春、夏、秋、冬。ほんとにきれいなんです。湖面の中には夫婦岩と言われる大小の岩が渇水すると見えてきます。夏、秋、朝早くこの沼の所に出てみると、朝もやがパーッと、まるで天女が羽衣で湖面を掃除しているようです。それから自分たちが一生懸命努力して作った果沼、秋になると黄金色に実った穂が一面に見える景色。ここの鐘楼堂からまちを一望する景色。もう一つ、400年程前にはこの館山にはお城、山城があり、このあたりは戦場と化していました。その一角に七つ井戸というところがあります。その七つ井戸というところから望む景色はまさに壮観です。今言ったことはすべて八ツ沼の七名所と言われるようになりました。そんな自然をもっている八ツ沼を盛恬和尚は大変愛したんだと思います。
 この八ツ沼周辺いろんな事が伝承として残っています。鈴ヶ森の鳥の声、提灯岩、化け石、阿吽の水、沼の変水、また周りには、活地蔵、小関壇の異変、いろんな伝承が残っています。そんな伝承もここに住んでいる人たちみんな孫たちにつたえてきたものです。
 自然にここは街道となって栄えていきます。八日町、七日町、袋町、上町、中宿、寺宿いろんな町があって約百軒が軒を連ねる街になりました。大谷の方には猿田越えの街道、高田には山伏の道、石須部の方におりていく道、石須部からずっと朝日、黒鴨に抜けていく道、ここは、要衝の場所だったんです。

西五百川を潤す水と人の心
 また八ツ沼は水のうまいところで、五本桶とか庵の井戸とかふだに水が出てくるところです。うまい水だぞ。その水が、滑田の方までいってそこででるセリ、これは絶品。これほどうまいセリは日本中探してもどこにもない。香りといい、歯ごたえといい、ほんとにいいセリが出るんだな。
 八ツ沼で暮らすうえでは唯一水も大切でした。穀物も大切でした。しかし、もっともっと水が欲しいということで、源次兵衛堰ということを考えたこともありました。しかし、これは幻に終わりました。でも水をもってこようとして努力した地区がこの西五百川地区にはいっぱいあります。水口堰もそうです。三中堰も松程堰もそうです。みんなその地区でそれぞれ一生懸命努力して生きてきました。その生きてきた証がいま我々が住んでいる西五百川という地区です。
様々な文化・遺産がいっぱい詰まっているこの西五百川という地区、八つ沼という地区をもっともっと知って、よりよい所を一生懸命勉強し、活かしていこうではありませんか。今日の和尚さんの話は初めて寺子屋を開いた人、盛恬和尚の話でした。
登坂 高典さん(若宮寺副住職)
平成10年 
 寺の過去帳によると、寛文元年(1661)に法明寺の僧、日延上人が江戸雑司ガ谷に蓮成寺を開いたとあり、300年後の明治28年(1895)に現在地の西船渡に移転しました。日蓮宗。
※『ふるさと朝日町散歩』より抜粋

※元は若宮寺があったが、慶長5年(1600)の出羽合戦の折に上杉家により焼き討ちされた。

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※本堂内見学は事前にお申し込み下さい。
 鈴木酒造は、朝日銀山の歴史とともに創業した300年の歴史を誇る県内一小さな酒蔵です。松嶺藩の令官小笠原左衛門佐源経政を先祖とし、四代鈴木和泉経元は四の沢堰開削に尽力しました。屋号は「以津美屋」通称「マルシメ」。機械化も最低限で、もろみの温度管理や仕込み時期は、もろみの音を聞いて判断する昔ながらの製造法を続けていらっしゃいます。
 昭和47年に共同ビン詰めによる合理化と品質向上のため(株)設楽酒造店(西川町)(株)八幡屋酒造店とともに、月山酒造株式会社(寒河江市)を設立しました。代表銘柄に「銀嶺月山」や「豊龍」があります。

※見学は年に一度開催される見学会へどうぞ。詳しくはエコルームまで。
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おらほの地酒!朝日町の酒蔵を訪ねる (見学会H16)
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