さがえ九条の会

 黒河省孫呉義勇隊訓練所に移行して九ケ月が過ぎた、昭和16年九月3日に思いがけない事件が起きました。
 私たちの第四中隊から約15キロ離れた山林に、四十名が小屋に泊まりこみで孫呉の部隊に納入する炭焼きをしていた。夜9時30分頃、不寝番に付いていた2人の隊員が小屋の前の道路に人が通る気配にきずき、しかも一人のようで、こんな時間に一人で通るなんて怪しいと、この不審な現地人を取り調べようと、現地人の前に立ちふさがり、小屋に連れてきて取り調べようと、両脇から挟むようにして小屋に向かった。

 身の危険を感じた現地人は、一瞬の隙を突いて隠し持っていた拳銃を至近距離から発射し、一人は腹部貫通銃創で即死、もう一人は胸部盲貫銃創で数時間後息絶える。
 銃声を聞いた小屋の隊員は銃を持つて捜索するも夜間である事と、もし現地人が一人でなく、その仲間が山林の藪に隠れている可能性もるので、現地人を追って追撃するににも躊躇いがあり、その現地人を取り逃がしてしまうのです。
 小屋の前の道路は、関東軍が多く駐屯している孫呉を迂回して、北へ行けば満ソ国境に、南に行けば森林地帯を通って孫呉の手前の清渓に抜け北安まで行く事ができるので、ソ連と繋がっている現地人の情報員や、反満の坑日ゲリラの偵察員、日本の特務機関が情報収集に雇っている現地人が頻繁に利用している、道路ですから、ここは国境地帯なので、現地人は、武器を持っていないが、こちらは武器をもっている事からくる過信と言うか、大胆になり、最新の注意がおろそかになったのではないかと思います。この二人の方は、身体が大きく一メートル六十五センチを越えて、口数が少なく真面目で模範的な青年でした。

 まだ16歳です。二人は、北東村山郡の方でした。二人の故郷の近くの方が二人の遺骨を持って二人の家を訪問しました。二人の家を訪問した方は、気が重く、どのような慰めの言葉してあげればよいのかで頭が一杯だったようです。
 訪問した家のお母さんは、差し出された遺骨を前に「何でこんな姿になって帰ってきたのか」と溢れる涙を押さえきれず、泣き崩れてしまいました。
遺骨を届けた方は、畳に土下座して、じっと聞き入り、慰めの言葉どころか、何も話す事が出来なかったと言っていました。


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