さがえ九条の会

            東海林正志

 私の戦争体験について書きます。
私は1940年3月小学校を卒業して間もなく、14歳で満蒙開拓青少年義勇軍に志願し、内原義勇軍訓練所の三ケ月の訓練を受けて渡満しました。
私の身長は、1メートル30数センチで、日本軍の三八式歩兵銃とほとんど同じでした。
 渡満して、勃利義勇隊訓練所に入所する途中、日本軍のトラックに乗せられて現地人の集落を通過しました。その時ショックを受けた情景が現在でも鮮明に甦ってきます。
 集落の人々の服装は継ぎ接ぎだらけて、袖口から胸のあたり、ズボンの両脇などどこでも手ぬぐい代わりに使うと見えて、垢と汗が染み付いて、黒光りし、顔や喉首、手なども、元の肌が見えず黒ずんた汚い肌で、老若男女ともに、顔も手も洗わないのではないかと思いました。
 集落内には豚や鶏、家鴨などが野放しにされ、鼻を突き刺すような悪臭で、こんなところで生活できるものかと感じました。
私たちの訓練所での生活は、井戸があっても日本のように、いくら汲んでも出てくる井戸ではないの で、1個小隊で60名おる隊員に四トウ樽一つですから、まごまごしていると顔を洗えないのです。.
勿論風呂も勃利訓練所に九ケ月程おりましたが其の間風呂に入ったのは一回だけでした。
 ですから虱に悩まされるだけでなく、顔や手足だけでなく、身体も垢だらけで、現地人よりいくらかましぐらいだったと思います。
それに、飯も元海軍の食器に豆が多く入った飯が7分目ぐらいで、副食も一汁1菜もない、赤丸大根の三切れぐらいが浮いた岩塩の太平洋汁の時もありました。
娯楽も皆無で、時たま関東軍の映画巡回班が来て勃利訓練所では二回映画を見ております。
 ホームシックにかかり、仮病を使って、宿舎で布団を被りゴロゴロしている隊員もおり、その隊員がゴロゴロしているのが嫌になり、起き上がるのを待つだけでした。
 厳寒の最も厳しい12月から1月、二月に関東軍から、少尉と下士官兵など5、6名が来て,軍事教練で徹底的に扱かれました。私のように、背が低く体力もないものなどお構い無く、重い三八式歩兵銃を持たされ、訓練開始の集合が遅いと、後ろから二十番まで、もう一回宿舎に帰って出てこと、帰され、次は十番まで、5番までと三回も早駆けで走らされ、ヘトヘトでした。
気合を入れた下士官は、ニヤニヤ笑っているだけでした。

1回目としては、義勇軍で渡満して訓練所での生活についてありのままを書きました。
二回目からは、孫呉義勇隊訓練所で、日本軍の陣地構築のため強制的に農村から駆り出されて来た、労工との出会いと、其のことに関連したことを書きたいと思っています。
                           2月1日         



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