さがえ九条の会

26歳で戦争未亡人になった母親        宇野 峰子

私は新宿の知人宅のかまぼこ型をしたコンクリートの防空壕で終戦を迎えたらしい。2歳と6ヶ月だった。「4月9日の空襲で焼け出された。自分の誕生日だから、決して忘れられない」と母は言う。その後、知人や親戚宅を転々とした。私の記憶は戦後の混乱の時からである。瓦礫の中で摘んだアカザを食べたこと。買出しに行き混んだ汽車の窓から乗ったこと。配給の順番取りをしたこと。農家から食料を貰うため子守りをしたこと。虱がいるとDDTを吹き付けられて真っ白にさせられたこと。上野の地下道にはたくさんの浮浪児がいた。
 父の戦死の知らせが来たのは、終戦真近であった。遺骨の箱の中に入っていたのは、父の名前と階級が書いてある紙が1枚だったそうだ。それでも母は横須賀の海軍基地に父の消息を確かめに行った。父は震洋隊に所属しており、震洋隊はハッチを閉めると中からは開けることの出来ない人間魚雷の部隊だった。父はフイリピンのコレヒドールで海の藻屑となったのである。
 母は26歳で戦争未亡人になり、それから姑と2人の子どもを育てるために必死で働く人生が始まった。昭和23年11月、古河鉱業の独身寮の寮母の職を得、私たち家族は一緒に住み込んだ。母はそれから70歳になるまでその仕事を続け生きてきた。
 一方私は父がいないことをあたりまえのこととし、のほほんと生きていたような気がする。ただ母が、女が一人で生きて行かなければならない時、頼りになるのは資格を生かした職業だと言う口癖に触発されたのか、私は教師を目指すようになった。母の苦労を思うと、「負けるわけには行かない」と言う気持ちが私を支えつづけてくれた。そして多くのことを学んで分ってきた。
 あの太平洋戦争がどんな戦争だったのか。誰のための戦争だったか。「父はそのために殺されたのだ。そして父も人を殺したかもしれない。」と強く思った。
退職した秋、母と夫と3人で戦没者追悼式に参加するため沖縄にいった。追悼式後、はるかコレヒドールの海に向かって手を合わせた時、どんな気持ちで死んでいったかを思うと胸が詰まり涙があふれました。そして、捨石にされた沖縄戦で死んだ20万人もの犠牲者を思うと、のどを抑えられたように呼吸をするのも苦しく感じられた。沖縄の摩文仁の丘にある「平和の礎」は沖縄戦で犠牲になった人々を国籍や軍人・民間人を問わず刻名してある平和記念碑である。ここは本当に平和を祈念出来る場所だと思う。
今日は12月8日、太平洋戦争がはじまった日、平和を守る母親行動に参加し、今帰ってきた。平和は世界中の人々が主義主張を超えて願えるものと思っていた。しかし再び戦争が出来る国にしようとするたくらみが急速にすすんでいる。同じ過ちを繰り返しては、心ならずも戦死していった、犠牲になって死んでいったたくさんの人々に申しわけないと思う。広島の原爆慰霊碑の『安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから』この深い祈りを、9条を守るために私は死物狂いで頑張らなくてはならないと思う。


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