吉野農園|吉野敏充

吉野農園|吉野敏充
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久しぶりの投稿です。

前回は以前勤めていたの会社の話で、
ずっと会社に昼も夜も居て、ずっとデザインをしまくってたという話でした。

まあ、そんな仕事が5年ぐらい続き、僕のいたデザイン部が図体が大きくなったので、
独立をするという話が出て来てきました。僕は当時25歳だったかな?
当時デザイン部の部長をしていました。

ある日、会社にある自販機でジュースを買っていたら、
グループのオーナー(高橋が○り)が僕に話しかました。
高橋が○り:会社独立させるからさぁ、取締役やってみるか?
吉野:はい、やってみます〜。
と、役員たる物が何なのか全くわからないまま、取締役になっていました。。
(後から聞いた話だと、部単位だと赤字なので独立採算を目指させ、だめだったら部まるごと廃部にする予定だったとか、、)

その後2,3年は、独立する前の会社からの独り立ちをする為に、
他社に営業しまくる日が続きました。
もちろん営業マンを雇う資金は無いので、日中は営業し、帰って来たら営業した案件の制作。
こんな日が続きました。(そんな中でも結婚はしましたが。。)

そしてまたある日、その日はやってきました。
独立から会社を支えていた当時の社長がいろいろあり、突然解任。
そして僕が会社の社長になってしまうのでした。。
もちろん
高橋が○り:○○(当時の社長)辞めるからさぁ、社長やってみるか?
吉野:はい、やってみます〜。
という会話があったとか、なかったとか。。

そんな感じで社長になり、社長としてやったのは、
中長期ヴィジョンの策定を中心に、営業部の立ち上げ、新規事業部(デザインでの新しいジャンルへの挑戦)の立ち上げなどを行い、徐々に更なる拡大路線へ向かうのでした。
独立当時の売上げは3億ぐらいが、僕が去る時は10億を越える企業にまで成長しました。

僕が会社や経営を通して、学んだ事は、全て実戦を通して学びました。
経営を勉強してから、実戦する分けでもなく、実際の資金を活用した経営の実戦でした。
そのきっかけが産まれたのは、やってみるか?と言われれば、面白そうな事は全て
「YES」という事により、いろんなチャンスが学べたと思います。
もちろんやりたく無い事もありますが、やりたくない事も全てやってみるというのは
単純に無駄なので、やりたく無い事でも将来的に有益な物に変わりそうと思う事だけやっていました。

そして、30歳を迎え社長を辞める転機が訪れました。
父、祖父、そして僕の3者同時入院という危機が訪れたのです。

続く。。

簡単に自己紹介を

1979年12月12日生まれ
新庄市の鳥越という所の出身です。
鳥越という所は、宮沢賢治の弟子、松田甚次郎という方が「農村塾」という物を作り、
そこで自給自足と芸術の両方で暮らして行こうという場所があった村です。

そこで18歳まで暮らし、志望であったデザインの仕事をする為に、上京しました。
20歳で専門学校を卒業し、その後、男性の方はほとんど知ってると思うんですが、、
当時は無名だったSOFT ON DEMAND(以下、SOD)という企業に就職しデザインの仕事に付きました。

何故、その会社に勤めたかというと、僕は「あまのじゃく」な性格で、
デザイン業界に多い師匠に何年かついたり、事務所で何年も下積みをするのが嫌だったから
という理由が一番です。運も良く、デザインのセクションは有った物の、外注作業を主に行うセクションだったので、少し立てばデザインの仕事をやらせてもらえるようになりました。

ずっと寝ないで働く生活をできるぐらいデザインにのめり込みました。

大学生と専門学生の初任給は違うんですが、当時入社した新入社員で専門学生は、
経理の方と、僕だけでした。でも僕の働きを見ていた当時の社長「高橋がなり」が
翌年から、僕の給料を大卒と並べてもらいました。
僕は好きでやってただけなので、それが評価してもらえるなんてビックリでした。

真っ直ぐに、目の前にある物を夢中になっておいかけ、
外注メインだったセクションも社内制作にほとんど切り替わり、
デザインのディレクションから、グラフィックデザインまでを社内でやる体制に変えて行きました。
昼も夜も関係なく、着替え、風呂は会社で澄まし、家に変えるのは月に2,3回。
そんな生活が5年ぐらい続きました。

そして、会社、社会というものに出会って転機が訪れました。

次回に続く…



blogを始めるのはコレで3回目…3度目の正直で何とか続けようと思います!

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