最上義光歴史館


霞城公園の梅の花、早くもこんな具合です。

 やはり今年の冬は暖かく、当館に隣接する霞城公園では、早くも梅の花が開花しました。例年3月上旬に開花する「早咲きの梅」として知られている梅なのですが、これが今年は2月14日に開花したとニュースがありました。
 梅というと、「東風吹かば にほひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」という百人一首にもある菅原道真公(菅公)の歌が有名ですが、その菅公を祀っているのが京都の北野天満宮です。その境内神域には、菅公ゆかりの梅が約50種、約1,500本あり、梅苑「花の庭」が3月下旬まで公開されています。入苑料は1,200円で茶菓子付、週末は時間を延長しライトアップしています。
 北野天満宮は全国約1万2千社ある天満宮・天神社の総本社で、入試合格・学業成就・文化芸能・災難厄除祈願のお社です。山形市内にもいくつかの天満と名のつく神社がありますが、梅とともに受験期の今が、やはり稼ぎ時でしょうか。もっとも、神だのみの受験というのも、良いのか悪いのか難しいところですが。
 さて、千年以上の歴史がある北野天満宮には、数多くの宝物が奉納されており、刀剣だけでも約100振、そのうち最上家にも伝来した「鬼切丸 髭切」など5振が重要文化財です。
 北野天満宮では、菅公の亡後25年ごとに「半萬燈祭」を行い、文化財の「再調査・研究・修繕・保存」がなされるそうです。令和9年(2027)は「菅公御神忌千百二十五年」にあたり、「太刀 銘 安綱〈鬼切丸 髭切〉」の失われた「拵え」(こしらえ)を制作、奉納することとしました。拵えとは、鞘(さや)、柄(つか)、鍔(つば)などの刀身の外装のことですが、〈鬼切丸 髭切〉には、この「拵え」が伝わっていません。
 製作にあっては実行委員会を組織し、この「拵え」の製作費をクラウドファンディングで募り、今年の1月25日に締め切りましたが、2,262人の支援により、15,000,000円の目標に対し、57,841,643円の資金を集めました。当館からも関係職員・ボランティアからの寄附を募り贈りました。
 今回の「拵え」の製作には、携帯電話やPCで使われていた金や銀をリサイクルして使用するとのことです。ちなみに、〈鬼切丸 髭切〉の「鎺」(はばき)、これは刀身と鍔の接する部分にはめる筒状の金具ですが、現在2種類あり、新しいものは純金製とのこと。「拵え」の作成費の予算は当初、10,000,000円(その他は諸経費)としており、これが5倍前後の予算規模となったわけで、純金製「鎺」などは何個でもつくれてしまいそうです。なんとなれば、純金製の鍔や柄や鞘さえも、いや、失礼しました。
 さて、「梅」と最上義光という話題に移すと、現存する義光の連歌の最初が「梅」を詠んだもので、しかも発句です。「梅咲きて匂ひ外なる四方もなし」。文禄2年(1593)2月、義光は朝鮮出兵に従い九州名護屋の陣営にいたのですが、里村紹巴の一門が京都で春の連歌会を催すにあたり、発句を義光から届けてもらったものです。詳しくは当館ホームページの片桐繁雄著「最上家をめぐる人々♯30 【里村紹巴】」をご覧願います。
 さてここで、例により伊達・上杉両家の梅に関わる話でも。
伊達政宗が文禄2年(1593)に朝鮮から持ち帰った朝鮮ウメの臥龍梅(がりゅうばい)が現存しており、国の天然記念物となっています。仙台城に植えた後,晩年の居城である若林城内に移植しました。ここは現在、宮城刑務所の敷地になっており、一般公開されていませんが、以前、ブラタモリで中を訪ねていました。
 上杉謙信は酒豪で有名ですが、一人で縁側に座り梅干しを肴に酒を飲み、親しい家臣らと飲むときも肴は梅干しだけだった、との記録があるそうです。ただ、こんな飲み方が原因したのか、重臣たちとの酒宴の席で脳出血を起こし、49歳で死去しました。なぜか梅がお気に入りだったようで、市立米沢図書館にある「上杉謙信朱印状」の朱印は、鼎(かなえ)の中に「梅」の字が記されています。また、某酒造会社では、酒豪「上杉謙信」にあやかり、純米梅酒「梅杉謙信」というのを販売しています。ウメエースギ・ケンシン、駄洒落好きの親父にはたまらんネーミングです。

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 今年は雪が少なくていいねぇ、などと言っていたら、多少は雪が降りまして。そんな日はさすがに来館者も少ないのですが、それでも連日、数名の外国の方が来館しています。雪の降らない地域の方が雪景色を求め蔵王などに行ったついでに、当館にも寄られているようです。山形駅から歩ける距離にあり、近くには山形市郷土館という絶好のフォトスポットもあるためですが、山形駅で若干お時間がある際には、是非お立ち寄りください。
 さて、駅から当館まで、少し回り道にはなりますが霞城公園を経由すればちょうどいい散歩道となり、今の季節はまさに「冬の散歩道」であります。さてこれで「ああ、あの曲ね」と浮かんでくる方は、きっと昭和フォーク世代の方かと。当時、ちょっと人が集まるような場所や部屋には(部室とかにも)フォークギターが置いてあり、テレビ番組では白いフォークギターがプレゼントされていた時代でしたが、私自身、ここでフォークについて語るには、あまりにも貧弱なフォーク体験しかなく、例えば「フォークの神様」岡林信康のこととか、「フォークの女王」ジョーン・バエズのことなどを語れと言われても、全くお手上げです。ちなみに「和製フォークの元祖」は高石友也だったんですね。♪ぼ〜くは、悲しい受験生ぃ〜、というあれです。まさしく今の季節にぴったりです。それにしても、ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞し、井上陽水が50周年記念ライブツアーで山形にも訪れるなど、当時、誰が想像したでしょうか。ということで、フォークについての蘊蓄は、この程度で許してください。
 さて、「冬の散歩道」ですが、これはサイモンとガーファンクルの4枚目のシングルで、原題は「A Hazy Shade of Winter」。直訳すれば「冬の霞んだ影」とでもなるのでしょうか(この曲のシングルCD(!!)の対訳には「どんよりとした冬の影にかすんでいる」とあります)。なんとなく山形城の別名「霞城」につながるような曲名でもあります。
 その歌詞は、人生の冬と希望を歌っている(ちょっと難解な歌詞)のですが、曲名にも歌詞の中にも「散歩道」という語はありません。まあ、原題にはない言葉を邦題に用いることはよくあるのですが。そう言えば、かつてビートルズブームの時、日本語のカヴァーがいくつか出されましたが、中でも名訳というか迷訳というか、「オブラディ・オブラダ」の歌詞にでてくる「Desmond」と「Molly」という人名を、「太郎」と「花子」と訳して歌っているのがありました(The Carnabeats)。かなり深い意訳です。
 ちなみに山形城を「霞城」と言うのは、北の「関ヶ原の戦い」とも言われる「長谷堂合戦」で、山形城の城郭が霞で隠れて見えなかったため「霞ケ城」とよばれたことに由来します。「霞ケ城」と呼ばれる城は全国にもあり、二本松城や丸亀城が有名です。二本松城は、春は桜が咲き乱れ城全体が霞に包まれたような景色になることから。一方、丸亀城は、合戦時の不利な状態になると大蛇が現れて霞を吹き城を隠した、という伝説に基づくそうです。これらに比べ山形城は単に、霞んで見えたから、ということですが、それで攻められずに済んだということで、「戦わずして勝つ」ことができた最強の城かと。
 ということで今回は、実際の霞城公園とその周辺の「冬の散歩道」の写真も何枚か掲載します。機会があれば、是非お散歩を。


(→ 裏館長日記へ)


山形駅から最上義光館までの道筋を簡単にご案内します。

↑ まずは「冬の散歩道」というと、こんな感じでしょうか。


↑ 山形駅西口を出て、霞城公園の南口に行くとこんな案内看板があります。
山形駅から当館までは、駅東口から線路沿いに行くのが最短ですが、
霞城公園(山形城跡)を経由していくといろいろ見ることができます。


霞城公園に隣接して山形新幹線「つばさ」が走ります。
時折、こんな銀色の旧型「つばさ」も走ります。


霞城公園の中に入ると山形城の本丸が見えます。
普段は空堀ですが、雪が降ると水を張ったようにも見えます。


霞城公園内には元は病院だった洋館(山形市郷土館)があります。
山形市内有数の写真スポットで、特に外国の方に人気です。


霞城公園の大手門の場所に最上義光の騎馬像があります。
雪が積もると、吹雪に向かっているような像に見えます。


霞城公園の大手門を抜けると、山形美術館の前にでます。
時価総額ん百億円の印象派の絵画が常設展示されています。


山形美術館の東側に隣接して最上義光歴史館があります。
山形城の御城印や百名城のスタンプもあります。
以上、山形駅から当館までの「冬の散歩道」でした。