最上義光歴史館

 最上義光歴史館の活動の一翼を担っていただいているのが、無償ボランティアで活動している「最上義光歴史館サポータークラブ義光会」の皆様です。先日、その義光会の総会がありました。現在登録いただいている方は43人。主な活動として展示ガイドを毎日2〜5名が交代で行っており、個人・団体を問わず小学生からインバウンドの来館者まで対応いただいています。その他、小学校の学習事業や観桜会などのイベントへの協力のほか、さまざまな研修活動も行っています。

 ある日、その会員の方から、時々、三の丸の堀跡の一部をウォーキングするイベントを行っているとのお話を伺いました。ちなみに三の丸の堀跡は一周約6.5kmあります。私自身、霞城公園の土手、すなわち二ノ丸の土手の上は、幾度か周回していますが、三の丸の堀跡の周回となると一度もありません。

 最上義光歴史館には、かつての城跡と現在の市街地とを重ねて表示している地図が展示されています(有料ですがパンフレットもあります)。それを見ると、三の丸の形跡をとどめている場所がいくつもあることがわかります。

 三の丸の遺構というと、まずは十日町の歌懸稲荷神社境内にある「三の丸土塁跡」があげられます。実は三の丸の土塁が現存しているのはここだけです。三の丸には11の門がありましたが、例えば済生館敷地の東側は「七日町口」で、確かに敷地に道路がどん突きになっていて、ここが門であったことが理解できます。「十日町口」「稲荷口」「下條口」などは現在も交差点として残り、その他の出入口もほとんどが道路になっており、三の丸の内外を通り抜けています。また、山形テルサ近くの「双葉公園」や七小北側の「みつばち公園」は三の丸の堀跡で、公園敷地形状が細長いのはこのためです。何気に三の丸の形状を活かしながら都市整備がなされていることがわかります。

 その他にもいろいろ痕跡があり、そうしたものを辿りながらの三の丸探訪が楽しめます。いよい黄金週間がはじまりますが、三の丸堀跡ウォーキングはどうでしょうか。ラーメン店、そば屋、甘味処なども所々にありますし。

 ちなみに当館には、三の丸跡の発掘調査に携わった職員がおり、「堀跡からは屋根瓦とか実にいろいろと出てくる。みつばち公園あたりは2mも掘れば、土師器・須恵器の類も出てくるかも。」とのこと。もちろん、公園管理者の許可が得られればですが。

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※ここで、三の丸豆知識
三の丸の堀と土塁が建造されたのは16世紀の最末期。その大きさは東西十四町五十間二尺(約1617m)、南北十四町十五間(約1553m)にわたります。
三の丸には、七日町大手口・横町口・十日町口・八日町吹張口・飯塚口・小田口・下条口・肴町口・小橋口・鯨口の11の出入り口がありました。なお、山形保健センター敷地内に「横町口」付近の石垣の一部が残されています。また、城西町には外堀沿いの小道が残されています(舗装されてはいますが)。
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歌懸稲荷神社側から見る三の丸土塁跡


双葉公園というとこの遊具で有名ですが、


三の丸の形跡もしっかり残っています。


長く伸びる「みつばち公園」 


城西町にある「外堀沿いの小道」

三十八間総覆輪筋兜


被弾した鉄砲玉の疵


通常、兜を展示しているケース


破調の美となる(!?)黒織部沓茶碗


銃弾が貫通したようにも見えますが・・・

当館の最重要展示品である「三十八間総覆輪筋兜」は現在、米沢市上杉博物館の特別展「上杉景勝と関ケ原合戦」(前期4月22日〜5月21日)に出展されています。この兜には直江兼続との合戦で被弾した鉄砲玉の疵が残っており、非常に貴重なものです。
その間、兜を展示していたケースには、三の丸跡の双葉町遺跡から発掘された「黒織部沓茶碗」を展示しています。茶碗の一部が破損しており、これもなんと鉄砲玉の被弾により破損したもの、ではなく割れた状態で出土したものです。
これが無傷であったなら、美術館に収蔵されてもいいくらい、織部らしい沓形の茶碗です。窓ぬき部分に市松模様が絵付されていますが、黒織部であるため、より斬新な印象になっています。
織部焼というと通常は、緑色の銅釉をかけた青織部を思い浮かべますが、黒織部は鉄釉を急冷させて黒く発色させます。急冷とは焼成後すぐ水につけることで、この手法を引出黒(ひきだしぐろ)といいますが、作りが悪いと割れたり破れたりします。形が複雑な沓茶碗ではなおさらです。

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※ここで、黒茶碗(!?)の豆知識
織部焼には黒織部の他に織部黒というのもあります。その違いは、窓絵といわれる文様があるものが黒織部、黒釉が器の全体を包んで文様のないものが織部黒といわれます。瀬戸黒も手法的には同じです。
ちなみに楽焼における黒楽も鉄釉を用いますが、これは釉薬をかけて陰干しすることを10回程度繰り返した後、焼成、急冷することで、あの漆黒のふっくらとした肌合となります。
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※もうひとつ、古田重然(織部)の豆知識
古田重然(1543〜1615)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康それぞれに仕えた武士で、40歳ころまでは茶の湯への関心はなかったらしいのですが、千利休の弟子となり、利休亡き後は「天下一」と称された武将茶人です。最上義光(1546〜1614)とはまさしく同時代の人です。
織部(織部好み)は、慶長年間(1596〜1615)に爆発的な流行をみせ、利休の静謐さと対照的な動的な「破調の美」の道具組を行いました。この「破調の美」の表現法に、器をわざと壊して継ぎ合わせ、そこに生じる美を楽しむという方法があるといいます。もしかしたら当館の黒織部茶碗も、この方法で新しい美をもたらすことができるかと。
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最上義光立像と記念植樹「ベニシダレ」


桜花で埋め尽くされたお堀(4/11撮影)


「風流花見流し」の筏が着岸している北門

今回ご紹介するのは、当館の正面の公園敷地にある「最上義光」立像です。これは、山形西ロータリークラブが創立60周年を記念し建立したものです。その右手奥に写っているのが、最上義光公没後四百年を記念し最上義光歴史館サポータークラブ「義光会」が植樹したベニシダレです。
今週末(4月15日、16日)も霞城観桜会の行事が開催されます。お堀に筏を浮かべて演奏・演舞を行う「風流花見流し」や、野点で抹茶がいただける「大茶会」、やまがた舞子の花見園遊、美術館前では大骨董市が予定されています。
桜花はそろそろ見納めですが、場所によってはまだまだ楽しめそうです。また、桜と電車の撮影に終日カメラを構えられる方を何人もお見かけします。特に今週末のお堀では、花吹雪に花筏といった風景がみられるかと思います。例えとしては何なのですが、落花の中を進む花見流しの筏は、流氷をつき進む「ガリンコ号」を思わせる姿となるのではと。