最上義光歴史館

■名称 
「鐵[kurogane]の美2019」 〜武士[mononofu]と日本刀〜  

■会期 
4月3日(水)〜7月17日(水)

■内容
当館収蔵品(寄託資料も含む)の中から武士との係りがわかる刀剣資料10振を公開しています。
このたびは、最上家ゆかりの刀剣のほかに、福岡藩黒田家伝来の短刀や兼松吉政と平野長泰がそれぞれ所持した太刀を展示!!そして幕末の志士・坂本龍馬ゆかりの刀(!?)等、附属の拵と来歴が記された白鞘も同時に公開しています!!

■展示刀剣
短刀  銘  則国(黒田家伝来/重要美術品)
短刀  銘  備前長船住景光/元徳三年五月日(重要美術品)
太刀  銘  一 備前国吉(以下切)/嘉暦二(以下切)
太刀  銘  藤光/元和元□□月十日給之兼松又四郎源吉政
刀  朱銘  来国次(山野辺光茂所持)
刀  無銘  元重(備前長船/坂本龍馬所持か)
太刀  銘  備□長船盛重(平野長泰所持/号吉野川)
太刀  銘  月山定吉作二月十一日
太刀  銘  出羽国酒田住兼高作/八幡宮奉納源家親
脇指  銘  池田一秀入道龍軒/文化十一年二月日 袁茂政所佩
1.企画展示

名称 「鐵の美2008 〜刀の裏側をみる〜」 
会期 4月15日(火)から7月13日(日)
内容 収蔵刀剣14振を用いて、ふだんは学芸員など限られた人しかみることのできない刀剣の裏側(展示する場合裏側になってしまう面)を公開します。



2.山形県指定有形文化財「坂紀伊守像」の特別公開

最上義光の重臣で長谷堂城主・坂紀伊守の肖像画(山形市・清源寺寄託)を特別公開します。本資料は東北地方に現存する数少ない戦国武将の肖像画です。
期間  4月15日(火)から5月11日(日)
企画展示「武士[mononofu]の晴れ姿 〜最上屏風と合戦図〜」

武士の晴れの舞台である戦の様子を合戦図をとおして紹介する。

平成28年4月6日(水)〜平成28年7月13日(水) 

○木曽義仲最期図・屋島合戦図  六曲一双  当館所蔵
○長谷堂合戦図(複製)  六曲一双  当館所蔵
○大坂夏の陣図(最上屏風写し)  一幅  光禅寺所蔵
○大坂夏の陣図(最上屏風写し)  松坂菜圃作  一面  当館所蔵

 
企画展示と特別公開の会期が延長されることになりました!!

■名称
(1)企画展示
「最上義光〜乾坤一擲の戦い 〜最上義光と長谷堂合戦図屏風〜」
(2)開館30周年記念「復元!! 最上義光所用鉄製指揮棒」

■会期
〜令和2年5月17日(日) 

■内容
(1)企画展示
「最上義光〜乾坤一擲の戦い 〜最上義光と長谷堂合戦図屏風〜」
最上義光公が57万石の大大名となるきっかけとなった長谷堂合戦の様子を描いた長谷堂合戦図屏風(複製)とゆかりの品々を展示紹介しています。

(2)開館30周年記念「復元!! 最上義光所用鉄製指揮棒」
最上家宗家に伝来した義光愛用の鉄製指揮棒は、三十八間総覆輪筋兜とともに義光が所持したことがわかる数少ない貴重な品です。このたび、開館30周年を記念して、その指揮棒の復元を山形県指定無形文化財保持者の上林恒平刀匠(山形市在住)に依頼しました。当時と同じ技法で復元し、現在失われている十六文字の金象嵌「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光」も再現しました。義光が所持した当時の鉄製指揮棒の姿をぜひご覧ください。
義光と「源氏物語」
- 慶長三年卯月十九日興行の連歌から -

はじめに
 一昨年の一月に歴史館主催の「最上義光についてのシンポジウム」が行われた。その折、義光の文事について一面を述べることが出来た。さらに、昨年には一月中旬から四週にわたって、義光の慶長三年卯月十九日に卷かれた連歌を講ずる催しが歴史館によって行なわれた。ここで、やや本格的に義光の古典文学についての教養を論ずることが出来たように思われた。
 そこで、紙幅とのかかわりもあり、すべてを論ずることは不可能であるので、その折に明らかになった義光の連歌と「源氏物語」との関連を中心としで、義光の古典文学理解を解明してみたい。

本連歌成立の背景
 その前に、この連歌の成立の背景を述べておきたい。この連歌のメンバーの多くはプロの連歌師であるが、その総帥とも言うべき人物が里村紹巴(じょうは)であった。義光と紹巴の交流がいつ始ったかは不明である。ただ、三年前の文禄四年(一五九五)に、両者は秀吉による秀次の追放・自害の影響を多大に蒙った。義光が愛娘駒姫を死なせたことは著名だが、紹巴も秀次にも近侍していたため、近江国三井寺に追放されてしまう。
 紹巴は、慶長二年(一五九七)秋に許されて帰洛する。それを歓迎して行なわれた連歌の一つに義光は出席している。二人の縁の深さを思うべきであろう。
(ちなみにこの連歌懐紙の新出の写本が、このたび歴史館に収蔵されることになったのは、喜ばしいことである。)

発句と脇句に見る「源氏」の面影   
 その二人によって発句(ほっく)と脇句(わきく)が詠まれる。

 1 折る花のあとや月見る
    夏木立        義光
 2 ※御篇のみとりに
    明やすき山      紹巴

 この連歌は旧暦四月十九日に行われたこと、また発句は、目前の景を詠むとの約束から、義光の発句の後半部の大意は、「夏の夜、青葉の木々を眺め遅い月の出を迎えた」などとなろう。ただ「折る花の」が何を指しているのか、問題は残る。「夏木立」となる前の春の光景とも解せるのだが、やや想像をたくましくすれば、約ーケ月前に行なわれた秀吉晩年の最大の風雅の行事、醍醐の花見を追想しての表現と考えたいのである。すなわち、義光の発句の大意は、「醍醐の花見の華やかさを味わった後、ここに夏の青葉の木立の中、夏の月を眺める席を設けることができた」となろうか。
 これに紹巴は脇句を付ける。その大意は「(花の季節の後夏木立に囲まれた家で一夜月を眺めて夜を明かし)御簾の内から観察すると、夏の短夜はすでに東の山のはの空の色が変っている」となる。初夏、風雅の思いに身をまかせて夜明しをした貴人(貴女)の姿が描かれている。「夏木立」の語から考えると、「源氏物語・花散里」の世界を面影にした(古歌・物語を典拠とする時、はっきりとではなく、かすかに示すこと)ものと考えたい。
 弘徽殿(こきでん)女御からの圧迫に耐えかねて源氏は須磨への退去を決意する。そのような、心あわただしい中、間奏曲のように、一夜の光源氏の夜歩きが行なわれる。「ささやかなる家の木立などよしばめるに、よく鳴る琴を」弾いていた門前に源氏はたたずむ。しかし案内を乞うても応答はなく、仕方なく源氏は愛人の一人花散里の許へむかうこととなる。その邸の風情は、

 二十日の月さし出るほどに、いと
 ど木高き影ども木暗く見えわたりて

との状況であった。
 直接的に「夏木立」の語はないが、「初夏、木影から月を眺める」との義光の句を、紹巴は「源氏」の世界にとりなして、その貴婦人たちの夜明しの様としたのであった。言い換えれば、紹巴の解釈を導く「源氏物語」との共通性が義光の発句に、顕らかな形ではないが、内在していたことになろうか。

義光の「源氏物語」への傾倒 
義光の「源氏」への傾倒は、他にも見られる。以下の如き付け合いがある。

 20 おなじはちすとなを
     ちざらばや     紹由
 21 あひおもふこころはさらに
     あさからず     喜吽
 22 ひめおきつつも 
     ゆるす法の師    紹巴
 23 つねにしもかよひ
     なれたる古寺に   義光
 
 20は、仏教の教理に立って、「共に極楽往生を求める」ことが大意である。それを21で喜吽は、恋にとりなして、「相思う男女の契りの言葉」としている。※喜吽(きうん)は義光の家臣で、この連歌で山形側の人物として、義光の外に確認できる唯一の人物。
 22は、それを受けている。「法の師」とあって、一見すると仏教の立場からの句と思われるが、おそらく、以下の「源氏物語・椎本(しいのもと)」の一部分を面影としているのであろぅ。
 「宇治十帖」の男主人公薫は、自己の出生に疑念を抱く内省的な人物として描かれる。薫は、源氏に圧倒された不遇な生涯を送った宇治の八官と、仏道への関心を通じて知り合つた。八宮は、自分の死の近きを悟り、仏道専念のほだしとなっていた二人の愛娘を、(妻は次女「中君」を生んですぐに没)自分を「法の師」として慕っていた薫に委ねることにする。具体的には、薫が、その中の一人を妻としてくれることを望むこ
ととなる.。ー(1)
 八宮は、その後、常々通って心を澄ませていた山寺に登り、死を迎えるのである。―(2)
 紹巴は、21の喜吽の句から、「八宮・薫」・「薫・大宮」の「あひおもふこころ」を感じとり、「源氏・椎本」の巻に拠った句(具体的には(1)までの部分を拠り所とする)を付けたことになる。
 義光の句は、さらに(2)までの部分に立っていることは改めて説くまでもなかろう。すなわち、義光は、紹巴が「源氏・椎本」に拠って作句したことを即座に理会して同じく「源氏」に立脚した23を創造したのであった。

古典世界への通曉のあかし
 このような例は、この部分に留まらない。以下の付け合いにも、「源氏」は影響を与えていると考える。

 83 さき立つを道のしるべの
    雪の暮        景敏
 84 すみかのかたは  
    駒いばふなり     玄彷
 85 程もなく賀茂のまつりや
    過ぎぬらん      義光
 86 いまもみそぎに
    思ふそのかみ     昌叱

 84は、「83の『雪の夕暮の中、先立った旅人の足跡を道しるべ』として進む辛い旅を一行の中の馬も、故郷の方をむいて、つい辛さのためにいななく」ほどの大意だが、「文選・古詩」の「胡馬(こば)は寒風に嘶(いなな)き越鳥(えっちょう)は南枝に巣くふ」に依っている。遠く離れた故郷への思いを述べた羇旅(きりょ)の句である。
 85は、「おそらく都の中で邸内に世俗を離れて生きる人物(貴女)が、かつての家の近くの通りを人々が馬を乗って通るのをかすかに聞いた体」ととらえて、「馬が多くパレードを行なう、賀茂祭ももうじき終ってしまうか」と嘆じた体の作句となっている。
 86は、さらにその方向性にピントが合って、その貴女(皇族)が、自分がかつて、賀茂神社に朝廷より遣される斎院(さいいん)であったことを賀茂祭の御禊(おんはらえ)の日に当つて回想する体の句となっている。
 84をかつての住いの紫野の斎院の近くの馬の嘶(いなな)きととらえた85の義光の句の世界を、86が会得して作句したこととなる。
 源氏物語に特定しなくとも良いのかもしれないが(例えば、大斎院選子内親王や、「狭衣物語」の源氏宮のことが面影と考えるのも許されよう。しかし、いずれにせよ、義光の古典世界への通暁のあかしとなろう)「朝顔」の女主人公たる朝顔の斎院を思い起こさせるものがある。
 朝顔は、斎院を退いた後葵上没後の源氏の正妻の候補となる。源氏も文を送るが朝顔は結婚せずに生きて行く。こんな人物の面影による付け合いであろう。
 以上、様々に関わりのあり方は異なるが、いずれも「源氏」が関与した句作・付け合いである。

錐承された好文の性質
 やや、検討を急いだが、こうして見ると、義光の「源氏」理解の並々ならぬことがわかって来よう。紹巴と深い交流を結びえた天正十八年(一五九〇)以前の山形の地を離れえなかった時の師は、誰か、不明なのが残念である。
 なお、このような義光の好文の姿は後継者の家親にも継承されている。最上義光歴史館蔵の「三部抄」奥書からは、慶長元年(一五九六)に紹巴筆写の定家著「詠歌大概」を送られている。その奥書に「最上之本所義光御三男家親、頃風雅御執心之由及承」とある。義光の好文の性質は継承されていたのであった。

(注)※の句「山形市史」は「古簾」であるが、「古」は「御」の誤写として考察を進めた。

■執筆:名子喜久雄(山形大学教育学部助教授)「歴史館だより��5」より
◆◇◆義光と寒河江肥前守の辞世◆◇◆                   

 最上義光が亡くなったのは、旧暦一月十八日。太陽暦では二月二十六日、余寒なお厳しい時節である。晴れた夜なら満月に近い月は、冷たい光を地上に投げかけるだろう。
 さて、石川県金沢市の研究家から歴史館に手紙が届いた。金沢の研究家皆様がテキストとしている『政隣記』の一節をコピーして下さったものだ。

「一 最上駿河辞世并詠哥

 一生居敬全 
 今日命帰天 
 六十余霜事 
 対花拍手眠

 有といひ無しと教へて久堅の
  月白妙の雪清きかな 」

 先様の疑問は、これが確かに「最上駿河守家親」の作だろうかということのようであったが、こちら側としては、瞬間的に「これは大変。ひょっとしたら義光の?」という受け取り方になっていた。
 「最上駿河守家親」なら、元和三年没。年齢三十六歳であるから、「六十余霜」とは合わない。亡くなったのは三月六日(太陽暦四月十一日)とされているから、春欄漫ではあっても、「久方の月の光、白妙の雪」といった景物からは程遠い。さらに亡くなる前、二晩ほど苦しんだとする記録もあるのだから、悠々と雪・花・月を愛でつつ、咲いた花にまで感謝しながら命終を迎えるという達観した境地には、これまたほど遠過ぎる。
 義光晩年に至りついた澄み通った心境が、この辞世に脈々と通っていると見るのははたして僻目だろうか。ということで、この漢詩(五言絶句〉と、和歌一首は、まず義光の作と見て誤りあるまい。
 葬儀は義光がみずからの菩提寺として建立していた「慶長寺」で執り行われた。二月六日(三月十六日)、春分近いころで日没は寅の刻、午後五時半ごろになる。その夕刻に、義光公の黄泉(よみ)路の旅にお供しようと、みずから生命を絶った四人の家臣がいた。
 長岡但馬、山家河内、寒河江十兵衛、それにもう一人。辞世の句を残した寒河江肥前守である。肥前守は義光の地域統一戦のなかで敗北した寒河江氏の一族だったと思われ、戦後は義光に帰参して幕下に入った人物と思われる。「最上義光分限帳」では最上一族以外ではトップの酒田の志付九郎兵衛三万石についで、第二番目に寒河江肥前守二万七千石が挙げられている。秋元本・伊藤本山形城内図、守春本城下図、どの絵図でも廓内に広大な屋敷を与えられている「寒河江新二郎」は、「肥前守」の子なのではあるまいか。
 彼の辞世は、『最上中興事略』という最上家伝来の古記録に採録されている。この本は、全体が漢文風。平仮名で書くべき部分まで万葉仮名風に漢字を当て、ひどく読みにくいが、ここでは読みやすい通常の文字使いになおして掲げてみる。

神去りまします悲しみに堪えず、従いまつらんと、今日死出の山形を立ち別るれば、三途(みつせ)は最上川なれや。うち渡らんと思いつめ、

霧となり霞と消ゆる夕べかな

 葬儀が終えたこの時は、早春の山形盆地もやや暖かに、ほのかなタ霞が消えてゆこうとする季節に変わりつつあったのだろう。

■執筆:片桐繁雄「歴史館だより��28/研究余滴20」より