最上義光歴史館
|
■ 卒業の歌の話
まずは「人気卒業ソングランキング」というのをGoogleAIさんに教えていただきました。結果はつぎのとおりです。 1位 3月9日 / レミオロメン 2位 旅立ちの日に 3位 正解 / RADWIMPS 4位 友 〜旅立ちの時〜 / ゆず 5位 YELL / いきものがかり 6位 道 / EXILE 7位 春愁 / Mrs. GREEN APPLE 8位 さくら / 森山直太朗 9位 手紙 〜拝啓 十五の君へ〜 / アンジェラ・アキ 10位 遥か / GReeeeN う〜む。つっこみを入れようにも、ほとんど知らない曲ばかりで、なんともお手上げです。思うに学校の先生というのも、こんなヒットチャートを追いかけていないと、「好きな先生のランキング」などには入れないのかと、なんとも大変な話ではあります。 ちなみに「3月9日」という曲ですが、メンバー共通の友人が「サンキュー(3月9日)」の日に結婚したことを祝福するために制作された結婚式ソングということです。つまり卒業の曲ではないのですが、この曲のミュージックビデオは、とある女子の卒業式が3月9日で、そのまま同日の姉の結婚式に行くというもので、新たなステージに立つという意味では卒業も結婚も似たようなものなのでしょう。参考までに、山形県の公立高校入試は、数年前まで3月10日と決まっていて、山形県内の大半の中学三年生にとって3月9日は、レミオロメンの曲など歌っている場合ではなかったのですが、今年は3月9日の前に入試が終わっており、いくらでも歌っちゃってください。 さて、尾崎豊さんの他に「卒業」で思い出す歌となると、世代的には荒井由実さんの「卒業写真」でしょうか。ちなみに歌詞(作詞 荒井由実)の冒頭部分を引用しますと、 「悲しいことがあると 開く皮の表紙 卒業写真のあの人は やさしい目をしてる 町でみかけた何も言えなかった 卒業写真の面影が そのままだったから」 というものですが、還暦をすぎてこれは違うなぁと思うのは、「卒業写真の面影が そのままだったから」という部分でして。この歳になると「卒業写真の面影」は「そのまま」ではなくなるのです。髪の毛の色や量ぐらいなら、あるいは肌のつやとか皴ぐらいならまだしも、歯がなかったり目がやさしくなかったりすると、別の意味で、町でみかけても何も言えなくなり、ひどいときには「あの人」であることも認知できず、これ自体が「悲しいこと」かと。もっとも、こちらもそうなっているので、お互い様ではあります。 その卒業写真で問題なのが、なんらかの事件がおきると、この写真が世間にさらされることがあることです。容疑者や被害者の写真探しというのは、マスコミなどの新人記者さんが担当する大変な仕事のひとつだそうで、SNSや防犯カメラなどをあたっても何もない場合、やむを得ず出されるのがこの卒業写真のようです。なので、事件発生時が30歳過ぎぐらいであっても、学生服やセーラー服の姿で報道されたりするのです。 ワイドショーなどでは、卒業文集まで辿られることもあり、「将来の夢」などが引き合いにされたりします。卒業当時は、よもやそんなものが世間にさらされることなど考えもせず、書きたいように、あるいは渋々書いていたりするわけです。そんな「将来の夢」と「現在の状況」との答え合わせまでされた日にはたまらんわけです。 「将来の夢」というと、「スポーツ選手になりたい」とか「イラストレーターになりたい」とか、あるいは医者だったりユーチューバーだったりするわけで、なかには地方公務員というのもあるらしいのですが、それは夢でもなんでもなく、ただ、悪夢のような仕事はあり、最近では教員や警官もそんな感じのようで、なり手不足ではあります。労働には頭脳労働と肉体労働の他に感情労働というのがあり、この感情労働ではメンタル疾患が多いらしく。まあ、それでも夢は夢として、いろいろ選択肢があってもいいのですが、あるときTVを見ていたら、某男性アイドルが「海賊になりたい」と真顔で言っていて、それだけは考え直したらとは思いましたが。 いっそのこと「将来の夢」としては、「SNSで大儲け」とか、「カジノで大儲け」とでも書いておけばと。なにかあったとき「ああ、やっぱり」と納得してもらえるし、そんな夢なら失敗しても「ああ、やっぱり」となるわけで。もちろん学校では、そんな指導はしないとは思いますが。でも近頃は、経済教育とかもしていることですし。 ■ 戦国武将の格言の話 「座右の銘」に関係して、戦国武将の名言というのを調べてみたのですが、ネットから拾ったものなので、出典が史料なのか歴史小説なのかわからないのですが、とりあえずご紹介します。まずはホトトギスの鳴かせ方で例えられる三英傑の方々から。 織田信長 「必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ」 豊臣秀吉 「財産を貯め込むのは、良い人材を牢に押し込むようなものだ」 徳川家康 「人の一生は、重き荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず」 この中でも織田信長はキレッキレの名言が多く、例えばこんな感じです。 「器用というのは他人の思惑の逆をする者だ。」 「臆病者の目には、敵は常に大軍に見える。」 「仕事は探してやるものだ。与えられた仕事だけをやるのは雑兵だ。」 「人を用ふるの者は、能否を択ぶべし、何ぞ新故を論ぜん。」 「人城を頼らば、城人を捨てん。」 「恃(たの)むところにある者は、恃むもののために滅びる。」 「絶対は、絶対にない。」 ここで「恃むところにある者は〜」は、補助金だのみの業界への警句として、また、「絶対は、絶対にない。」は、原発業界への警句として、今に通じるものでもあります。 一方、豊臣秀吉には、名言として残されているものは少なく、有名なものとしては「負けると思えば負ける、勝つと思えば勝つ。逆になろうと、人には勝つと言い聞かすべし。」というものがあります。しかしこれは、座右の銘としてはちょっと長いかなと。 かたや他の武将を評した言葉はなかなかで、 「信長公は勇将なり 良将にあらず」 「家康は愚か者だ。が、油断のならない愚か者だ。」 「いくら謙信や信玄が名将でも、俺には敵わない。 彼らは早く死んでよかったのだ。」 と、どこぞの大統領にも劣らない発言もあるようです。 そして、徳川家康ですが、幼い時からの苦労人であり、こんな言葉が残されています。 「不自由を常と思えば不足なし」 「勝つことばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。」 大体において、豊臣秀吉とは逆です。 さて、戦国武将の中でとりわけ名言が多いのが武田信玄でして、特に有名なのが 「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」でしょうか。そして「風林火山」ですね。色紙に書いても納まりがいいですし。他にもいろいろあります。 「一生懸命だと知恵が出る、中途半端だと愚痴が出る、いい加減だと言い訳が出る」 「百人のうち九十九人に褒められるは、善き者にあらず」とか「渋柿は渋柿として使え」などは、さすがカリスマ大将ではあります。 同じカリスマ武将である上杉謙信にも、やはり名言は少なくありません。 「運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり」 「死なむと戦へば生き、生きむと戦へば必ず死するものなり」 「義とは、人が人としてあることの美しさよ」 う〜む、哲学的ですらあります。 そして、伊達政宗ですが、これが驚くほど名言が多い。まず伊達政宗の「五常訓」から。「仁に過ぐれば弱くなる。義に過ぐれば固くなる。禮に過ぐれば諂(へつらい)となる。智に過ぐれば嘘を吐く。信に過ぐれば損をする。氣長く心穏かにして、萬(よろず)に儉約を用いて金銭を備ふべし。儉約の仕方は不自由を忍ぶにあり。此の世に客に來たと思へば何の苦もなし。朝夕の食事うまからずともほめて食ふべし。元來客の身なれば好き嫌いは申されまじ。今日の行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶をして、娑婆の御暇(いとま)申すがよし」以上、儒教の徳目「仁・義・礼・智・信」の行き過ぎを戒めたものでありますが、部分的に切り取って座右の銘とすることもでき、例えば「朝夕の食事うまからずともほめて食ふべし。」なども立派な格言になると。他にも、 「大事の義は、人に談合せず、心に究めたるがよし。」 「物事、小事より大事は発するものなり。油断すべからず。」 「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である。」 「まともでない人間の相手をまともにすることはない。」 「茶器を割ったのではない。自分の器量の小ささを割ったのだ。」 「言葉は心の鏡なり。心に偽りなければ、言葉にも偽りなし。」 「人生は短い。だからこそ、美しく生きなければならない。」 特に最後の3つは美学ですらあります。 また政宗の言葉として、「成功は努力の産物である。天は自ら助くる者を助く。」というのもネット上にはありましたが、「Heaven helps those who help themselves」という早口言葉のようなものもありまして、はて、どちらが先なのか。 ■ 座右の銘 座右の銘というわけではないのですが、修学旅行客向けの土産物などで、「友情」とか「感謝」などの文字が入ったカップや置物が売られていますが、ちょっと謎なのが「人生」と書いてあるものでして、それはペン立てだったりTシャツだったりするのですが、さて、これはつまりどう理解すればいいのかと。 「人が生きる」と書いて「人生」となるわけですが、それが「人間」という言葉となると「人の間」ということで、わかるような、わからないような言葉になってまうわけで、とある辞書によると、「ニンゲン」と読めばヒトのことで、「ジンカン」と読めば世間のことで、「人間至る所青山あり」は「ジンカン」と読み、「人間万事塞翁が馬」は、「ニンゲン」と「ジンカン」、どちらで読んでもいいそうです。 また別の言葉に「人事」というのがあり、特に春先などで気にする人も少なくないかと思いますが、以前務めていた職場で、これでメンタル不調になった職員がいまして、「あれはヒトゴトだから」と、自分を納得させるように言っていました。座右の銘が「人事(=ヒトゴト)」。意外に深い人生訓かもしれません。 これも以前の職場での話ですが、管理職層の研修で、座右の銘を語るという課題がでまして、まさか市長がそれに目を通しコメントするなどとはつゆ知らず、出したのが「明日には明日の風が吹く」と「喫茶去」というスカした言葉でした。案の定、これはどういう意味なのか説明しろ、と言われたわけでして。やはりこういうときには、山本五十六とか相田みつをなどの言葉でやり過ごすのが無難だったわけですが、どうもその時の気分がこんな言葉だったわけでして。とにかく「敬天愛人」とかでは気が引けますし。 さてさて、「喫茶去」とは、そのままの意味であれば「茶を喫して去れ」つまり、「お茶を飲んで去りなさい」ということで、まあ、そう言いたくなるお客さんもたまにはいるのですが、今では「まずはお茶でもどうぞ」という意味で使われています。 この由来は、「趙州禅師という人のところに修行僧が訪ねてきた際、趙州は「ここへ来たことがあるか?」と問い、「ない」と答えた僧に「喫茶去(お茶を飲んでいけ)」と告げました。別の日、同じ質問に「ある」と答えた僧にも、同様に「喫茶去」と告げました。不思議に思った院主(寺の管理者)が尋ねると、趙州は「院主、お茶を飲んでいけ」と返しました。」という「趙州録」にある故事で、相手が誰であれ分け隔てなくもてなし、また、お茶でも飲んで雑念を取り払って戻れ、という意味とのことです。つまりは「いつでも・どこでも・誰にでも、同じ心でお茶を点てる」ということで、これは公共機関の基本でもありまして、以前に紹介した「エルメス暗黙のルール」とは真逆の部分であります。 20世紀末までは、来客に対しては、お茶を出してから要件を伺ったりしていました。つまり、役所のようなところは来たくて来ている人などまずおらず、大抵はやむを得ず時間を割いて来ているわけで、そこでお茶の一杯でもあれば話も多少滑らかになろうか、ということではあります。以前は、接遇の研修などで、お茶の出し方の実習やらビデオ学習やらがあったのですが、合理化ということなのでしょう、昨今はお茶を出すこともなく、その出し方もわからず、コスパとかタイパとかを求める人にとってはむしろ余計なことかも知れず、難しくはあります。 ■ 「茶の本」の話 この「喫茶去」という言葉が浮かんだのは、実は当時、茶や茶道具や茶室関係の本に興味関心をもっていて、そのような本の端々で目にした言葉でした。また、岡倉覚三(天心)の「茶の本」について、もっと若い時にしっかり読んでいたらなぁとか、でも、若い時は内容を理解できてなかったかもなぁとか、いろいろ思ったときでした。 例えば、この本にはつぎのような文言があります。 「茶には酒のような傲慢なところがない。コーヒーのような自覚もなければ、またココアのような気取った無邪気もない。」 「茶道は美を見いださんがために美を隠す術であり、現わすことをはばかるようなものをほのめかす術である。」 易しいような、でも、それなりの感性や経験も求められるような内容です。 「茶の本」で、特に心にささる語句が、「beautiful foolishness of things」という語句で、この「茶の本(The Book of Tea)」というのはもともと英語で書かれており、特にこの語句をどう訳すか、センスが問われるのですが、直訳すれば「物事の美しき愚かさ」。物事の魅力というのは美しくも愚かなことにあるということで、確かに「バカだねぇ」というのが最高の誉め言葉だったりします。 この語句が含まれる第1章「人情の椀(The Cup of Humanity)」の有名な終末部分を引用します。 Meanwhile, let us have a sip of tea. The afternoon glow is brightening the bamboos, the fountains are bubbling with delight, the soughing of the pines is heard in our kettle. Let us dream of evanescence, and linger in the beautiful foolishness of things. この村岡博訳はこうです。 「まあ、茶でも一口すすろうではないか。明るい午後の日は竹林にはえ、泉水はうれしげな音をたて、松籟はわが茶釜に聞こえている。はかないことを夢に見て、美しい取りとめのないことをあれやこれやと考えようではないか。」 常々このような境地でいたいものだなぁ、と思うわけです。 ちなみにこの前段には、つぎのような文章があります。 「現代の人道の天空は、富と権力を得んと争う莫大な努力によって全く粉砕せられている。世は利己、俗悪の闇やみに迷っている。知識は心にやましいことをして得られ、仁は実利のために行なわれている。東西両洋は、立ち騒ぐ海に投げ入れられた二竜のごとく、人生の宝玉を得ようとすれど、そのかいもない。この大荒廃を繕うために再び女媧(じょか:Niuka)を必要とする。われわれは大権化(ごんげ:Avatar)の出現を待つ。」 ここで、女媧とは中国神話に登場する創造母神で、権化とは「神の化身」ですが、それはさておき、状況的には現在とよく似ている感じです。いわゆる「ドンロー主義」により某政権は、西半球の支配と権益確保を最優先するとしており、一方、東半球は中国による覇権もやぶさかではない感じで、両者はまさしく「立ち騒ぐ海に投げ入れられた二竜」のような状態です。 それにしても、東半球とか西半球とかはあまり聞き慣れない言い方ですが、とりあえずイギリスのグリニッジを通る本初子午線(経度0度)を境界とするとのこと。ここで問題なのは日本の位置づけで、現在、政治的には西ですが、地理的には東であり、アメリカにとって日本列島は「万里の長城」のようなものですが、この先どうなることやら。西や東とともに、ついでに右とか左とか中とかも。 確かに日本の位置関係を表すときは、極東という言われ方をしていまして、日本駐留米軍の放送もかつてはFEN(Far East Network:極東放送網)と称していました(現在はAFN(American Forces Network))。でも、アメリカから見れば日本は西の方向のような気もするのですが。どっちかの西は東というか、どっちかの夜は昼間というか、それはやはり「U.S.A」というわけでして。 |
|
■ 知識ゼロからの最上家の話
では、知識ゼロからの最上家初代の話でも。 斯波氏は、鎌倉時代に足利家氏が陸奥国斯波郡(岩手県付近)を所領とし、宗家から分かれたことに始まります。後醍醐天皇の倒幕運動に宗家の足利尊氏が関わると、足利尾張家当主の高経やその弟の家兼らもこれに従って活躍しました。この際、「宗家」とは何なのかとか、「後醍醐天皇」や「足利尊氏」がどういう人なのか、についてはすっ飛ばします。家兼は奥州管領として陸奥国をまとめ上げ、南朝勢力を駆逐。出羽国にも子を送り込み、奥羽両国での子孫繁栄の礎(大崎氏、最上氏、黒川氏など)を築きました。 家兼の次男、斯波兼頼は1356年に出羽国へ送り込まれ、地名である最上氏を名乗り羽州探題となります(最上氏を名乗る時期については諸説あり)。斯波兼頼は最上家の祖となり、その11代目が最上義光です。蛇足ながら、名前の義光の「義」は第13代将軍・足利義輝から偏諱(1字)を拝領したもの、家紋は足利家と同じ「丸に二引き紋」、花押は足利様という具合に、足利家とは密接に関係します。さてさて、ここまで興味関心をひっぱってくるためには、語る側の技巧と聴く側の忍耐力が必要となります。 また、最上義光に関わる有名なエピソードである、娘の「駒姫」の悲劇を語るためには、いわゆる「秀次事件」について説明しなければなりません。つまりは豊臣秀吉の跡取り問題について言及が必要になります。1593年に豊臣秀吉と淀殿の間に秀頼が誕生したわけですが、これがどういう事態になるのか。秀次は「謀反の罪」に問われ、1595年高野山へ追放。秀次は切腹しました。その後、駒姫を含む妻子ら約40名が、京都三条河原で公開処刑されました。切腹や公開処刑に至った理由には諸説あり、また、秀次が駒姫をどう見初めたかということにも諸説ありという中で、こうした話をとにかく説明することとになります。 そして、最上義光で欠かせない話として「長谷堂城合戦」とも言われる「慶長出羽合戦」があります。上杉景勝(西軍)と最上義光(東軍)の戦いで、「北の関ヶ原」ともいわれます。これも知識ゼロからの説明となるとちょいと込み入った話になります。まずは約6時間の戦闘で決着がついた9月15日の「関ケ原の戦い」とは何なのか。そしてなぜに上杉景勝が西軍で、最上義光が東軍なのか。という説明などが必要でしょう。 この理由としては、上杉景勝の領地である会津を徳川家康が征伐しようとしたこと、また直江兼続が家康の横暴を非難する書状(直江状)を送ったこと、直江兼続と石田三成は共に豊臣秀吉の側近であったことなどがあげられます。一方の最上義光は、豊臣秀吉に駒姫を処刑され、自身も京都伏見に幽閉され恨めしく思っていたこと、徳川家康とは朝鮮出兵(文禄の役)に際し名護屋城に集結したときにすでに親交が厚かったことなどが理由となります。つまりは直江状や名護屋城の話まで及ぶことになります。 この時、長谷堂城は最上義光の重臣である志村光安以下1,000名(人数については諸説あり)が守備し、直江兼続が指揮を執る上杉軍1万8000人(人数については諸説あり)が攻め込みます。この圧倒的に不利な状態で最上勢は、「関ケ原の戦い」の結果もわからないまま、辛うじて持ちこたえていました。伊達政宗は、最上義光の要請をうけ援軍を送るも、山形城の手前で様子を伺うばかり。9月29日にようやく西軍大敗の情報が直江兼続のもとにもたらされ、翌9月30日には最上勢も関ヶ原の結果を知ることとなり、攻守が逆転しました。このあたりは日本全図をひっぱりだしての説明となるような内容であります。 しかもここで欲張って直江兼続の撤退話などもしてしまうと、インバウンドさんなど聞かされている方は何が何だかということになってしまうわけでして。この戦いの主役はつまり直江兼続なのかと。正直、ドラマ性ということからすれば否定できませんが。しかも、相手の兜は「愛」、対する当館所蔵の最上義光の兜は、この戦で受けた銃弾の跡が残るもので、戦闘のリアルさでは負けませんが、映えからしても、やはりそれはねぇ。 ■ 大河ドラマ化の話 先日、山形県知事はNHK放送センターまで出向き最上義光の大河ドラマ化の要望書を提出しました。「最上義光を大河ドラマにする会」(代表・松尾剛次山形大学名誉教授)との連名で提出したもので、同会は昨年11月に山形市長とともにNHKに要望書を提出しています。 また今月、NHKは2028年の大河ドラマがジョン万次郎こと中濱万次郎を主人公とした「ジョン万」に決定したと発表しました。地元では08年の大河「篤姫」にジョン万次郎(勝地涼)が登場したことを機に「ジョン万次郎を大河ドラマに」と署名運動がスタート。高知をはじめ、東京や沖縄でも展開し、計約30万件の署名を集め、そこから約18年間の誘致活動が実ったとのこと。この吉報に対し、地元のジョン万次郎資料館の土居京一館長は「ニュースで知り、ビックリしました。ウソでしょ、と信じられない気持ち。うれしくて跳び上がりました。」と興奮気味に語ったそうです。そうなんです。こうした施設の館長といえども、この手の情報は蚊帳の外なのであります。 それにしても、この大河ドラマ化にという情熱は、どういう理由によるものなのでしょう。山形県知事は「県内外の多くの人に山形県の歴史や文化を理解してもらう絶好の機会となる。地域の盛り上がりが期待される。」と述べていて、つまりは山形県のアピールというか売り込みになるという、知事として直球の要望ではあります。ただ、山形県内には大河ドラマ化を望まれている人物が他にも複数いまして、その時代が同じなら話をひとつにまとめて、例えば「フォレスト・ガンプ/一期一会」のような作り方もあるかもしれませんが、時代も離れすぎているので、なかなかに大変かと。 ところで下世話な話ではありますが、大河ドラマは、放送される地域に100億円以上の経済効果をもたらすと言われています。例えば日経によると「どうする家康」(2023年)318億円(浜松市独自試算)、「鎌倉殿の13人」(2022年):約307億円(神奈川県内)、「西郷どん」(2018年):258億円(鹿児島県など、1次・2次波及含む)、「真田丸」(2016年):200億円(長野県上田市など周辺地域)という具合です。 数年前、上田市内のタクシーに乗った時のことですが、運転手さんが「いや〜、番組名がついているものの儲けは、全部NHKがもっていきますからねぇ。」と言っていました。版権ビジネスの管理は徹底しているようです。もちろんゆかりの地を巡る観光などで確実に交流人口は増加します。観光消費額が農業産出額に匹敵する地域も当然あり、その経済の発展に欠かすことのできない産業にまでなっているのもまた事実で、山形県におかれましても、将来的に農業県と観光県のどちらに立脚すべきか予断を許さない感じではあります。 ただ、大河ドラマを単なる金づるとしか見ないのでは、やはり性根が疑われるわけでして、大河ドラマ化を熱望するのには、やはり別の理由があるかと。例えばそれは「推し活」、つまり「義光推し」とか。う〜ん、そういう人もいないわけではないのでしょうが、「推し活」というのは基本的に個人的なものなので、しかしながらそれゆえ、とんでもない消費活動の可能性も見え隠れするわけで。いや、いけない、また金の話になってしまった。 とにかく「大河ドラマ化」したいという情動は一体なんなのか。こんな疑問を当館学芸員に問うたところ「ただ、ドラマとして見てみたい、ということなのでは。」という答えがかえってきました。あぁ〜、資本主義にまみれた自分を反省することしきりなわけでして、そうそう、地元に関係する人物のドラマがみたい、自分が知っている場所のドラマが見たいという、まあ、そういうことなんですなぁ。 ただこれにも、すぐに面倒なことがおきてくるわけで、それはキャスティングのことです。当然これは、NHK様が決めることではありまして、誰がいいなどと不用意に言ってしまうと、決まる話も決まらなくなるのですが、実際、こうしたことでボシャった話もあるとかないとか。しかしながら、やはり勝手なことを言いたくなるわけで、例えるなら、WBCの先発オーダーを俺ならこうする、といったような類のどうにもならない話ではあります。 以下、あくまで何気ない会話の中での話ですが、曰く、豊臣兄弟として柄本兄弟はどうかとか、曰く、伊達政宗は横浜流星さんで安田顕さんにも大役をとか、曰く、松田龍平さんとか佐藤二朗さんとかが出る作品は絶対に面白いとか、曰く、ムロツヨシさんやオダギリジョーさんも是非にとか、曰く、山田孝之さんや大泉洋さんはどうでしょうとか、まわりを固める俳優さんの名はいろいろ出てくるのですが、肝心の最上義光役についてはどうも名前が上がらず、その条件としては、180cm以上の長身で色白、怪力の持ち主となります。それ以上に難しいのが、義光の妹の義姫で、この人中心でドラマを動かしてもいいというくらいキャラがたって、ハードなエピソードをもつ人物でありまして、その条件としては、長身の美人で、しかも伊達政宗の母役もつとまる人ということになります。 さて、この義姫が嫁いだ伊達輝宗、つまり伊達政宗の父は、戦国時代では数少ない側室を持たない武将でした。その理由をAIさんに尋ねたところ、「伊達輝宗に側室がいなかった理由は、公式な記録としては明確にされていません。しかし義姫を深く愛していたため、あるいは義姫の気丈な性格や、実家である最上氏との強固な関係を維持する必要性から、あえて側室を持たなかったのではないかと推測されています。」との回答でした。 その背景として「夫婦関係の良好さ、跡継ぎとなる伊達政宗(梵天丸)を早々に産んでいる。最上義光との抗争や対立が激しくなる中で、家庭内での義姫の立場を尊重した」ことなどもあげています。義姫が嫉妬深かったという逸話もあり、また、非常に賢く、伊達家内でも強い影響力を持っていて、彼女の存在が、輝宗が他の女性を娶ることを躊躇させた可能性はあるともいいます。ちなみに、側室を持たなかった主な戦国武将は、山内一豊、前田利長、石田三成、明智光秀などで、いずれもそれなりの理由があるようですが、伊達輝宗の場合は憶測しかないようです。 ということで、このキャラを表現できる俳優さんはやはり難しいのですが、かなり注目される役どころではあります。 ■ 下世話ながら製作費の話 下世話な話をもう一つ。NHK大河ドラマの制作費は、1年分(全48本)で約30〜35億円規模、1話あたり約6,000万円〜8,000万円前後とのことです。しかも戦国時代ものとなると、単なる時代劇とも違い、撮影所のセットや道具がそのまま使えるとも限らず、例えば屋外のシーンでも田畑などは1年がかりで作り上げたりします。 とりわけ金がかかるのが騎馬戦とのことで、実は昨今の戦国ドラマにおいては、騎馬戦のシーンはかなり減っているとのこと。古い話で恐縮ですが1990年に公開された角川春樹事務所の映画「天と地と」は川中島の合戦を描いたもので、上杉軍を黒一色、武田軍を赤一色に統一し、「この夏、赤と黒のエクスタシー」というキャッチコピーのもと、CMがやたら流れていたことを記憶されている方も多いかと。その合戦シーンですが、実際の川中島が狭すぎるとして、カナダ・カルガリーで大規模ロケを実施。500頭馬と3,000人のエキストラを集め、1日8,000万円、総額25億円をかけたといいます。製作費は50億円なので、実にその半分がこの合戦ロケに費やされたました。ギリギリ、バブルの時代の話です。 今ではAIを活用しフルCG(コンピュータグラフィックス)で製作すれば、騎馬戦の様子を俯瞰でもあおりでも自在に描けるとは思いますが、実は合戦シーンのような、多数のキャラクターを一度に描写する「モブシーン」というのは、CGでは技術的・表現的に非常に困難とされています。人物の動きや質感が実際とわずかに異なると不気味に感じることを「不気味の谷現象」と言いますが、モブシーンではこの現象が数百、数千のキャラクター分だけ増幅されてしまうのです。また、これを丁寧に解決しようとすると、これはこれで相当な費用がかかってしまいます。 さて、最上勢と上杉勢が戦う「慶長出羽合戦」でありますが、地形的に騎馬戦となるのはわずかで、歩兵戦が主になるかと。また、平場で戦う兵のほとんどは普段、農民として生活する農兵で、その装備は、陣傘を被り、簡素なつくりの胴鎧、籠手、臑当などを装着するだけです。ということで、騎馬は少なく兵の装備も簡素であるとなれば、下手にフルCGなどとするよりも、地元エキストラを大量動員して撮影したほうが、それこそリアルで安上がりなものになるかも、と当館の学芸員は語っていました。そうなんです。まだまだこの地は、AIなどではなく労働集約型なのです。 |
|
■ 指揮棒と家系の話
家系図の話というのは、個人的には正直、お経よりもつらいものがあるのですが、歴史好きの方にはたまらないらしく、最上家の家系図だけで30分以上話ができる、という方が少なからずいらっしゃいます。これが斯波家や足利家の話やその前の源氏の話まで拡がるとなると、もう何か何やらとなるわけでして。それでも歴史好きの方は滔々とお話をされるわけであります。 当館展示品に、最上義光が使用した指揮棒というのがあります。日本刀と同じ技法で鍛錬した鉄製のもので、刀2本分の重量(1.75kg)があります。同じ重量の模造品が体験用にありますが、片手で振り回すには結構な腕力が必要です。指揮棒には「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光」と陰刻があり、清和源氏であること、山形出羽守であること、剃髪していないが仏に仕える身であることが示されています。まず、「有髪僧」とあるのは、念仏三昧の斯波兼頼の血筋であったから、というわけではなく、戦国武将となれば殺生は常であり、仏教のもと殺生をすれば地獄にしか行きようがなく、しかしながら強い武将ほど殺生を重ねることとなるわけで、それ故に、戦の加護を祈祷し、娘や妻、親兄弟を供養し、来世の安寧を祈り、寺社を保護・建立するなどして、信心を厚くしていることを表すものです。そして、最上義光の血脈を語るには「清和源氏」まで辿るとあるわけです。 まずは、「源氏」とは何なのか、ということから。いつものようにGoogleAIさんにきいたところ「平安時代、子供が増えすぎた天皇が、その子供たちに「源」の姓(源氏)を授けて臣下にする「臣籍降下」が一般化しました。特に清和源氏が有名で、源頼朝ら鎌倉幕府を開いた武士団として歴史に名を残しています。」とのこと。この説明には関連語として「げんじ(ファッションYouTuber): ファッション関連の動画を投稿し、自身のアパレルブランド「LIDNM(リドム)」も手がけるクリエイター。」というのもありました。ここがAIさんのすごいところで、子供が増えすぎた天皇家とファッションクリエイターとが同列に語られるのです。 ちなみに先日も、天童と山寺を結ぶ旧国道111号線を調べたところ、AIさんから「なお、インドにはNH 111(国道111号線)が存在しますが、日本の国道とは無関係です。」という丁寧な説明をいただきました。最近のことですが、AIさんに義光の妹の義姫のことをきいてみたら「生まれ1548年 山形県山形市ホテルキャッスル」と出てきました。もしかしたら、そんな名前のお店でもあったのかしらん。 さて、「源氏」についてさらに具体的には、源氏とは814年、第52代嵯峨天皇が多くの皇子・皇女の生活費(皇室財政)を支えきれず、臣籍降下(皇族が皇籍を離脱し、臣下(一般国民)の身分になること)させて「源」の姓を与えたのが始まりとのこと。ここで、天皇が臣下や功績のある者に新たな姓や氏を下賜する(与える)ことを賜姓(しせい)といいます。また、「源」には天皇を同じくする(源流が同じ)という意味が込められています。 源氏には、祖とする天皇別に21の流派(源氏二十一流)があり、清和源氏はそのうちの一つで、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族です。源氏の家系図もこのあたりにくると膨大な枝分かれが生じます。そして清和天皇の皇子のうち4人、孫の王のうち12人が臣籍降下して源氏を称しました。とりわけ第六皇子貞純親王の子・経基王(源経基)の子孫が著しく繁栄します。 経基の子・源満仲は、摂津国川辺郡多田に居館を構えました。満仲の長男が酒呑童子退治で有名な源頼光で、摂津源氏と呼ばれる武士団を形成しました。弟の頼親や頼信らとともに藤原摂関家に仕えて勢力を拡大。後に頼信を祖とする河内源氏が東国の武士団を支配下に置いて台頭し、頼義、義家の三代が前九年・後三年の役などで武名を馳せます。義家の子である義親が鎌倉将軍家へ、義國が室町将軍家へとつながっていきます。 ここまでの話を整理すると、清和天皇→貞純親王→経基王→満仲→頼信→頼義→義家→義親・義國、ここで義親→為義(諸説あり)→義朝→頼朝(鎌倉将軍家)、また義國→義康(足利氏)→義兼→義氏→泰氏→頼氏・家氏となります。ここで頼氏→家時→貞氏→尊氏(室町将軍家)、また家氏→宗家(斯波家)→宗氏→高経・家兼となり、家兼→直持(奥州大崎氏)・兼頼(出羽最上氏)となります。ということで、清和天皇から斯波兼頼までこれだけの家系をたどることになりますが、斯波家ひいては最上家は、鎌倉将軍家や足利将軍家とそれなりの縁戚関係にあることがわかります。 ■ 鬼を斬った刀の話 この家系図と時を同じくするのが、鬼を斬ったと伝わる「鬼切」(重要文化財・指定名称「太刀 銘安綱(鬼切)」)と「鬼丸国綱」(御物)という刀です。以前に書いた話と重複しますが、再整理ということで再掲します。いやはや還暦も過ぎると、以前話したことを忘れて繰り返してしまうこともままあり、認知症の兆候なのでしょうか。もっとも家人からは、あんたは何度言ってもわからないとも言われますが、これは認知症とはまた別でして、すみません。 さて、まずは「鬼切」ですが、源満仲は筑前国から刀鍛冶を呼び寄せ2振の太刀を作らせました。1振は死体の試し斬りで髭まで斬ったことから「髭切」と名付けられ、もう1振は同じく試し斬りで両膝を斬り落としたことから「膝丸」と名付けられます。それぞれ「鬼切」とか[薄緑]とか、その他にも色々な名を持ちます。この2振は、源満仲の子・源頼光に伝えられ、そのあとも勝利をもたらす宝刀として代々の源氏に受け継がれました。現在、京都国立博物館では特別展「北野天神」が開催され、この「鬼切丸・ 髭切」(北野天満宮所蔵)と「薄緑・膝丸」(大覚寺所蔵)が展示されています(6月14日まで)。 この「髭切」が「鬼切」とも言われるのは、源頼光の時代に、京の都で人が消える事件が起き、それは鬼の仕業と噂されていました。ある晩、源頼光が配下の渡辺綱に一条大宮へ行く用事を頼み、渡辺綱に「髭切」を持たせます。用事を済ませた帰り、渡辺綱は一条戻り橋の真ん中で、ひとりの美しい女性に「家まで送って欲しい」と声をかけられました。家まで送る途中、女性は恐ろしい鬼へと姿を変え、渡辺綱を掴み上空へと連れ去りました。北野天満宮の上空に差し掛かったときに、渡辺綱は髭切で鬼の腕を斬り落し、北野天満宮へ落下、逃げることができた、という話に由来します。 一方の「鬼丸国綱」は、鎌倉時代の刀工・粟田口国綱作の太刀で、天下五剣の一つとされます。北条時政が夢に現れた小鬼を退治したという逸話から名付けられました。北条時頼が毎夜、夢の中に現れる小鬼にうなされていました。ある夜、夢の中に老翁が現れ、「自分は粟田口国綱の太刀の化身である。ところが汚れた人の手に握られたために錆びてしまい鞘から抜け出せない。」と言って消え去りました。時頼はこの太刀を手入れして、抜き身のまま寝床の側に立てかけておいたところ、太刀が倒れかかり、火鉢の台に施された鬼の形をした細工を斬りました。それ以来、時頼の夢に小鬼は現れなくなり、この太刀を「鬼丸」と命名しました。 さて、新田義貞は、北条高時を滅ぼして鎌倉幕府を終焉させた際に、北条家の宝刀であった「鬼丸国綱」とともに、源氏の重宝である「鬼切」も入手したと伝えられています。しかし、藤島の戦いで斯波高経に討たれた際、これらの刀が義貞から高経の手に渡りました。これらの刀を高経が入手したことを知った足利尊氏は、これを所望します。太平記には、「将軍使者を以つて、『これは末の源氏なんど持つべき物に非ず、急ぎこれを渡され候へ。当家の重宝として嫡流相伝すべし』と度々仰せられけるを、高経堅く惜をしみて、『この二振りの太刀をば長崎の道場に預あづけ置きて候ひしを、かの道場炎上の時焼けて候ふ』とて、同じ寸の太刀を二振り取り替へて、焼き損じてぞ出だされける。」とあります。 つまりこの2刀は源氏嫡流の自分が持つべきとする足利尊氏に対し、斯波高経は太刀は焼けてしまったと嘘をつき、別の焼けた刀を差し出したのです。しかし、この嘘が発覚、尊氏は激怒し、それまで尊氏の信頼が厚かった高経は、後に越前・若狭の守護を解任されるなど、幕府内での立場が悪化しました。「鬼丸国綱」のみが足利尊氏に渡され、将軍家から信長、秀吉、家康へと伝来しました。 一方、「鬼切」は大崎斯波家に伝わります。正平11年(1356年)に斯波兼頼が山形に入部した際帯同し、その後は最上家にて代々家宝として所蔵されました。元和8年(1622)に最上家は国替えとなり、近江大森藩五千石となりましたが、その際も「鬼切」は秘蔵されました。しかし、明治期になると最上家が衰退し「鬼切」が同家の手を離れた際、当時の滋賀県令の呼びかけにより、官幣中社北野神社へ奉納されました。一説には、最上家の宝刀と知らずに入手した持ち主が、夜な夜な現れる「最上に帰ろう」と叫ぶ刀の夢に恐れをなし、崇敬する北野天満宮への奉納を決めたともいいます。 参考までに、鬼を斬った有名な刀としては「童子切安綱」もあります。平安時代の伯耆国(現在の鳥取県)の刀工、安綱が鍛えた太刀です。天下五剣の筆頭の名刀とされ、国宝として東京国立博物館が所蔵しています。「童子切」という銘は、源頼光が大江山に棲む鬼「酒呑童子」に「神変鬼毒酒」を飲ませ、眠っている間に手足を縛り、この刀で首をはねたという伝説に由来します。「童子切安綱」は足利将軍家、豊臣秀吉、徳川家康・秀忠へと受け継がれました。特に室町幕府第13代将軍・足利義輝が愛用し、永禄の変で佩刀していたと伝わります。義輝は剣術に秀でた「剣豪将軍」として知られており、先述のとおり最上義光がその名に「義」を一字拝領した人物でもあります。 ■ 家系図をつくるはなし ところで、新たに個人の家系図を作成しようとすると、江戸時代よりも前に遡るのは公家や武家でもないかぎり、なかなか困難です。まずは戸籍を頼りにするわけですが、遡れるのは戸籍制度ができる明治まで。それ以前となると、菩提寺にあたることとなります。寺院では、「過去帳」という檀家の死亡記録や墓石に刻まれた戒名や没年を手がかりに先祖を特定できます。また、武士であれば「分限帳」によることもできます。 江戸幕府はキリシタンを禁じる目的で寺請制度を設け、1630〜40年代から導入し1670年頃に全国的に確立しました。全ての人を特定の寺院(檀那寺)の檀家とし、「寺請証文」という証明書を寺院から受け取ることを義務付けました。寺院は「宗門人別改帳」を作成し、これが戸籍のような役割を果たしました。また、この檀家制度の定着により、寺院の経済基盤が安定しました。さらに幕府は本末制度を設け、宗派ごとに本山を定めその下に末寺を組織し、本山を通じて各宗派を効率的に統制しました。これらの制度は明治4年(1871)に廃止され、同年、「戸籍法」が定められますが、実施されたのが明治5年で、その干支が壬申だったので「壬申戸籍」ともいわれています。 この戸籍の編成単位は「戸」で、本籍は住所地とされ住民票の役割もありました。「皇族、華族、士族、平民」といった身分事項があり、一般庶民は「農工商雑」といった業種も記載され、中には「穢多、非人」といった差別にかかわる記載もあったことから、昭和43年以降は各地方法務局に厳重保管され閲覧や謄本の交付が禁止されています。 明治31年(1898)の戸籍法改正で「家」が基本単位とされました。家族の続柄が記載されるのもこの戸籍ですが、家長制度によるため、多数の家族がひとつの戸籍にまとまっている場合があります。昭和22年に戸籍法が改正され、身分事項や家長制度などがなくなり、現行の戸籍制度となりますが、戦争などの影響で実際に戸籍の改製が行われたのは昭和32年頃とのことです。 平成6年(1994年)の戸籍法改正によりコンピューター化が法的に可能となり、現在はほとんどの自治体で移行し、2024年から本籍地以外の役場でも戸籍証明書が取れるようになりました。ここで問題となったのが、いわゆる外字問題で、手書きの戸籍にはコード化されていない字があって、全国統一が困難であったわけです。以前に勤めていた部署でも、システム上、氏名を電子データでもたなければならず、外字については職員自らドットでデザインしていました。異字体や俗字などいろいろあり、特に変態仮名などはデザインセンスの良し悪しもでてしまうのですが、それに独自のコードを付与してシステムに登録するわけで、自治体毎にこのような外字が作られていたわけです。それを細かな差異について整理し、できるだけ標準的なコード文字に対応させて解決しています。 また、戸籍の保存期間は150年で、死亡、婚姻、転籍などで閉鎖された「除籍簿」や「改製原戸籍」などが対象ですが、保存期間を過ぎると廃棄される可能性があります。なお、東京大空襲(1945年3月)により、東京都内の多くの区役所で戸籍簿・除籍簿が焼失しました。これで家系をたどれない事もままあります。 以前勤めていた不動産関係の部署では、相続未登記などの調査のため家系図をつくることが何度かあったのですが、戦後の戸籍はまだいいとして、旧戸籍法つまり家長制度時代の戸籍となると、ちょっとした経験が必要になります。いくつかの家族がひとつの戸籍に入っていて、出たり入ったり、亡くなった人と同じ名前があったりと、戸籍の中で整理が必要な場合があります。また、戸籍を請求するとしても、同じ役所内とは言え正式な申請が必要であり、場合によっては4、5代前に遡ることもあり、改製原戸籍とか戸籍の附票とかをやみくもに請求すると重複したりして、当然そうなると、戸籍担当者から苦情を言われたりします。 相続登記などで、司法書士さんに遺産分割協議書とともに家系図の作成を頼んだりしますが、これがなかなかなお値段で数十万円単位となりますが、家系図だけならそれを専門とする行政書士さんなどがいらっしゃいます。お値段は、どの年代まで遡るのか、いくつの家系を調べるかによって変わってくるそうですが、明治時代以降で、本籍も同じ役場であれば、数万円程度で作成してくれるところもあるようです。戸籍の記録以前のものは、寺院の「過去帳」などから調べることになるのですが、これも個人情報なので、勝手にみせてもらうことはできず、寺に頼んで関係する部分のみを写し書きしてもらいます。これもタダというのでは何なので、お布施を添えるのが普通です。 ■ 菩提寺の話 我が家の寺の本堂には、年忌法要にあたる人の名が貼り出されるのですが、数年前、苗字からしてなんとなくご先祖らしき人の名前の札が貼られていて、それには99年目つまり百回忌とありまして、おおっ、寺の過去帳というのはここまでたどるのかと、多少驚いたことがあります。 年忌法要の区切りつまり「弔い上げ」は、三十三回忌でするのが一般的で、あるいは五十回忌で行ったりするそうです。百回忌の案内というのはつまり、それまでに「弔い上げ」をしていないということで。どうやら私が「弔い上げ」をしなければならない立場のようではありましたが、よくわからなかったので、なんとなくやり過ごしてしまいました。百回忌の後は50年ごとの年忌法要となるそうですが、申し訳ないのですが、その頃にはこちらも墓に入っていることかと。 その寺は、創建が応永20年(1413)、山形城の城主で最上家3代・満直により開かれたのが始まりとされるのですが、自分の家系をたどるとしても実は、山形市にきたのが曽祖母の時代で、それから寺に墓を設けたので、つまり、この寺の歴史は古くても、自分の先祖はそこまでしかたどれません。 ちなみに戦国武将らが寺社の整備に熱心であったのは、信仰心だけではなく、いざというときの軍事拠点とするためという例も少なくありません。例えば斯波兼頼によって延文元年(1356年)に開基された山辺町の「安国寺」も、南朝勢力を押えることを目的に寺院城郭として整備し、北朝の重要な軍事拠点としました。そもそもは足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈り、戦乱で没した人々の霊を慰めるため、全国66か国に建立した「一国一寺」のひとつです。その山門は県指定文化財で、左右には阿吽の仁王像が安置され仁王門とも呼ばれています。ただ小高い場所にあり、墓地も裏山の斜面沿いにあって、山城的な地形にあります。 実はこの寺がかみさんの実家の菩提寺でして、義理の母が亡くなるまで行ったことがなかったのですが、その本家とか分家とか、とにかく同じ姓の墓がこれでもかと並んでいます。お盆には山門から本堂にかけて仏花、焼きそば、かき氷などの屋台が並ぶという盛況ぶりで、なんかこういうところでも、かみさんに負けている感じがします。 ところで、山形界隈の博物館関係者の間でも話題となっているのが、東京国立博物館で開催中の特別展「百万石!加賀前田家」でして、武具や茶道具はもちろんのこと、ルノワールの絵やバッハの自筆譜も展示されているとのことで、展覧会のタイトルで百万石にビックリマーク!がつくだけのことはあります。それに合わせてこの展覧会の主催者に名を連ねているNHK様におかれましては、加賀前田家を特集する歴史番組が立て続けに放送されていまして、その中で前田家ゆかりの「忍者寺」こと妙立寺が紹介されていました。加賀百万石の三代藩主・前田利常が江戸幕府からの不意の攻撃に備え、金沢城の出城・軍事拠点として1643年に建立したもので、隠し階段や隠し部屋などの「からくり」が多数あります。 そう言えば大河ドラマに「利家とまつ」というのがあったなと、改めてネットをみてみると2002年放送ということでしたが、若い頃の唐沢寿明さんと松嶋菜々子さんが並ぶ写真がなんともキラキラしていまして。その他の出演者も超豪華な方々ばかりで、5シーズン分ぐらいできそうな顔ぶれです。目を凝らすと前田慶次役が及川光博さんで、前田慶次というのは長谷堂城の戦いで上杉軍の直江兼続に従軍し、その撤退時に殿(しんがり)を務めてもいるのですが、最上義光がドラマ化されても、前田慶次訳はこのままいけるかもと。そして酒井法子さんの名もあり、のりピー、と思わず言ってしまうのですが。おっと、それ以上は・・・、あれは周りが悪すぎです。それにしても漢字の「法子」も、カタカナの「ピー」もこのワープロソフトは一発変換でした。どれだけの情報量をもつ単語辞書なのかと。ちなみに「やまぴー」を変換したら、「山P」ではなく「山ピー」でした。 ■ 有名な家系の話 世界一有名な家系といえば、マタイによる福音書の第一章でしょうか、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」という書き出しで始まります。 「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、」とあり、以降この調子でイエス・キリストまでたどっていきます。聖書で、最初にまず面喰う部分ではあります。 さて、ここで「ウリヤの妻によってソロモンを」とありますが、これはダビデは家臣ウリヤの妻バト・シェバとの不義の関係ということで、しかも夫ウリヤを死に追いやっています。マタイの福音書では「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」とあり、かなり過激ですが、はたしてダビデはどうだったのでしょう。 以下、Wikiさんによると、この2人の間の最初の子は神の怒りに触れて死に、次に生まれたのがソロモンです。彼は父の死後、腹違いの兄など他の王位継承を狙う者たちを打倒して王となります。また、エジプトに臣下の礼をとり、ファラオの娘を降嫁されることで安全保障を確立し、古代イスラエルの最盛期を築いたとされます。エチオピアのシバの女王もソロモンの知恵と王都エルサレムの繁栄を見て驚いたとのこと。通商を振興して経済を発展させ、エルサレムに神殿や宮殿を建設し、いわゆる「ソロモンの栄華」を現出させましたが、国民は重税に苦しみ、死後、国土は分裂しました。彼の野心的な事業は重税と賦役を民衆に課したとも。なお、一説には大天使ミカエルから授かった指輪で悪魔を使役し、獣や鳥、魚の言葉を理解できた、とか、ユダヤ教の秘儀カバラが記された「ラジエルの書」を託され、多くの悪魔を使役したとされます。 さて、マタイによる福音書にはまた、ソロモンを引き合いにした有名な一節があります。第6章28節「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」これはさしずめ、現代ならば「スティーブ・ジョブズを見よ」ということでしょうか。ただ、野の花と比べるには、タートルネックは三宅一生ですし、なによりも、よく働いていたわけで。 さて、筒井康隆による実験的な短編小説に、「バブリング創世記」というのがあります。聖書の「創世記」を模した形式で、「ドンドンはドンドコの父なり。ドンドンの子ドンドコ、ドンドコドンを生み……」と言った具合に続く小説です。ジャズにおける「バブリング(bubbling)」とは、主にボーカル(歌)やスキャットにおいて、バブやビバップの要素を取り入れた、リズミカルで軽快な擬音的な歌唱法とのことです。 ちなみに、この「バブリング創世記」を山下洋輔さんのグループが演奏しています。山下洋輔(ピアノ、オルガン他)坂田明(アルト・サックス、声)、小山彰太(ドラム)、ラリー寿永(パーカッション)他というメンバーでして、Youtubeで聴けます。かなり以前、自分も「バブリング創世記」を音読したことがあります。パロディ的なフレーズも混じっていて面白くもあり、途中なんとなくノッてもくるのですが、そのうち口が回らなくなり、最後はやはり疲れました。 また、童謡に「アブラハムの子」というのがあります。「アブラハムには7人の子、一人はのっぽで〽」というあの曲ですが、アメリカの童謡「Father Abraham」(作詞作曲は不明)が元なのですが、なぜ子が7人で、のっぽとは誰なのか、これも不明なのだそうです。日本語の歌詞が付けられて流行し、幼稚園のお遊戯等では振付とともに歌われています。 とある宴席でこれを踊ったことがありまして、同じフレーズを繰り返すなかで、右手、左手と順に振付が加わっていきますが、右足や左足ぐらいから酒がききはじめ、最後の「回って、おしまい」というところでは、結構、酔いも回っているという、なかなかに危険な童謡ではあります。 |
|
■ 呪術概説
まずはじめに、呪術についていつものごとくGoogle AIさんにもきいてみると、「呪術とは、超自然的な力を用いて特定の願いや効果を引き出そうとする儀式や技術の総称です。歴史的・文化的に多種多様な方法が存在しますが、いかなる形であっても他者を傷つける行為や呪詛は法的なトラブルに発展する可能性があるため推奨されません。」とのことです。そうなんです。「孫末代まで呪ってやる」などと言おうものなら、孫末代からまで訴えられてしまうのです。「人を呪わば穴二つ」というものではありますが、「呪術という言葉には他者を害する目的のものだけでなく、本来は「祈り」や「願掛け」によって自身の運気を引き寄せたり、心願を成就させたりするためのポジティブな古来の秘儀も多く含まれています。」とのことです。つまり、「丑の刻参り」などの「呪詛」だけではなく、「おまじない」とか「ラッキーカラー」なども呪術の一種との説明がなされています。 また、密教や陰陽道における秘術については、「日本の歴史においては、真言宗などの密教における祈祷(息災法や調伏法)や、陰陽道に基づく「式神」の使役、または社寺での「写経」や「読経」によって神仏の加護を得る方法などが体系化されてきました。これらは専門的な修行や知識を必要とする秘儀とされています。」とのことです。 そして、「戦国時代の呪詛や呪術」についてAIさんは、つぎのように紹介してくれました。 1 敵を滅ぼす「調伏(ちょうぶく)」 名を籠める:室町幕府の管領・細川政元は、政敵の氏名や罪状を書いた経文を大声で唱えて呪詛し、相手を恐れさせたことで知られています。これに対抗するため、呪詛を受けた武将が名前を変えるケースもありました。 護摩祈祷:高野山や比叡山などの寺社に依頼し、護摩木を焚いて大掛かりな調伏を行いました。 2 占いや験担ぎ:軍配占いや辻占 重要な合戦の前には、陰陽師や山伏、忍者などが占いや神おろしを行い、吉凶や進軍の日時を決定しました。 3 城や陣地の「結界・まじない」 転用石: 石垣や建物の基礎に、五輪塔や仏像を逆さにして埋め込むことで、敵の呪い(呪詛)をはね返す結界として利用しました。 縄張りの風水: 城の設計(縄張)に風水や陰陽道を採り入れ、鬼門(北東)や裏鬼門(南西)を厳重に警戒しました。 4 自身を守る信仰:神仏の化身となる 毘沙門天や摩利支天など特定の軍神を深く信仰し、自らが神仏の化身となって戦うことで、邪悪なものを祓おうとしました。 また、「戦国時代の具体的な呪術」としては 〇 調伏(ちょうぶく)と呪術合戦 敵の将兵を呪い殺すために、密教の最高級の秘法である「五壇の法」などが熾烈に行われました。室町幕府の管領・細川勝元が西軍を倒すために行ったほか、毛利元就が尼子氏との戦いで呪術合戦を展開した記録が残っています。 〇 九字護身法と忍術 「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」の印を結び唱える九字は、密教の宇宙観がベースになっています。忍び(忍者)たちは、精神を統一し、敵の恐怖心を煽る心理的戦略(妖術の演出)として活用しました。 〇 軍配者と祈祷師 ほとんどの大名には、戦の吉凶を占う「軍配者」や祈りを捧げる「祈祷師」が付き従い、合戦のタイミングから城の建築方針に至るまで超自然的な力を借りて決定していました。 以上、AIによるまとめであります。 ■ 調伏と調略の話 戦国時代は武力だけでなく、神仏の力を借りた目に見えない「呪術合戦」が勝敗を左右すると信じられていました。勝利祈願の「加持祈祷」だけでなく、敵を呪い殺す「調伏(ちょうぶく)」や「妖術」などが実戦で深く信じられていたとも言います。 まず、戦国時代の「調伏」とは、敵の悪意や怨敵を仏教や陰陽道の力で打ち砕く呪術のことです。武将たちは、寺社に祈祷を依頼したり、陣中で自ら呪術を行ったりしていました。護摩木を焚きあげたり、敵陣に向かって「調伏の矢(魔除けの矢)」を射込んだりしました。また、調伏という行為は、単に敵を呪い殺すだけでなく、自軍の士気を高め、心理的な優位性を保つための戦略的なものでもありました。 また、式神を使って敵の呪詛を防ぐ「身固め」や、悪霊を退けるための歩行法(禹歩や反閇)が戦国武将たちの間で重要視されました。当時の軍師(軍配者)は陰陽五行を取り入れ、出陣の吉凶や方角、天候を占う際に式神の概念を活用しました。彼らは陣中で「式占(しきせん)」を行い、敵の動きを封じる呪法を唱えたとされています。 一方、「調伏」と似た言葉に「調略」という言葉があります。戦国時代の「調略」とは、武力衝突を避けて敵を内側から崩す謀略のことです。情報工作や金銭、領土の約束で敵将を寝返らせること(内応)で、最小限の犠牲で城や領地を乗っ取るための極めて実戦的な戦略でした。戦国大名たちは無用な消耗を避けるため、正面から城を攻める前に必ずこの調略を駆使しました。その主な手法としては、敵の家臣を金品などで寝返りを促す内応工作、「あの武将が裏切るらしい」などの流言飛語、兵糧攻めなど敵を孤立させる戦法などです。 なお、軍師については小和田哲男(静岡大学名誉教授)が著した記事(「歴史街道」2014年1月号)に、つぎのような説明がありました。 「実は作戦の立案は軍師の役割の1つにすぎません。むしろ、作戦参謀を務めた軍師は戦国時代中頃に登場し始めた人たちで、それまでの軍師というのは、占いや祈祷といった呪術的な仕事で武将に仕える存在でした。 例えば、出陣に際して吉凶を占い、日時や方角などをアドバイスしたり、何か縁起の悪いことが起これば、御祓いをしたりといった具合で、「戦術」ではなく「占術」が元々の軍師の仕事です。これを担ったのは主に陰陽道に通じた僧などで、吉凶を占う際に軍配を用いたので彼らは「軍配者」と呼ばれました。 そもそも軍師とは、江戸時代に軍記物などで描かれて生まれたもので、戦国時代には軍師という役職はありません。しかしあえてその定義をするならば、専門知識や智略をもって軍事や政略などを担い、主君に仕えたスタッフといえるでしょう。広い意味では参謀役の智将もこれに該当します。 さらに戦国時代の中頃から、軍配者以外に作戦立案を担う参謀型の軍師が登場します。まだ将兵の数が数百や数千の範囲であれば軍配者のマインドコントロールが有効で、士気が戦いの勝敗を大きく左右しましたが、各地で有力な戦国大名が生まれ、大きな規模の戦いが行なわれるようになると、兵力の数とその運用がものを言うようになります。そのため、占術を行なう軍配者型の軍師よりも、陣立や戦術を練るような、一般的によく知られている参謀型の軍師が求められ、主流になっていきました。」 戦国時代の軍師の大きな仕事の一つに、敵方との交渉がありました。戦いになれば犠牲が出ますし、出費も大きく、できれば、戦わずに丸く収めたいと考えるのは戦国大名にとって当然のことです。そこで、外交に長けた軍師が活躍することになりました。 ■ 荼枳尼天(だきにてん)の話 先に、武田信玄や上杉謙信が信仰していた「飯綱権現」を紹介しましたが、彼らを始め多くの戦国武将が信仰していた神仏に「荼枳尼天」がいます。あらゆる願いを即座に叶える強力な神通力を持つとされ、戦国時代は「怨敵退散」や「戦勝祈願」の軍神として深く信仰されました。元々は人間の死期を予知し、死者の心臓を食べる恐ろしいインドの夜叉ダーキニーでした。それが大日如来(大黒天)に調伏されて仏教の守護神となり、願いを叶えてくれる善神へと変化しました。 日本では狐を操る神として「お稲荷さん」と習合し、城の守護神として城内に稲荷社を建立し、また、天守閣の最上階にはお稲荷さんが祀られていたりします。「荼枳尼天」の真言はいくつかありますが、お稲荷さん(稲荷大神)の真言である「オン キリカク ソワカ」も唱えられるようです。お供え物としては、白狐に乗っていることから、油揚げのほか、柑橘類を好むとされています。 さて、この荼枳尼天で有名なのが愛知県にある「豊川稲荷」で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など、多くの戦国武将からも深く崇敬されてきました。稲荷とはいうものの実は曹洞宗の寺院で、正式名称は「妙厳寺」。本尊は千手観音菩薩で、鎮守として祀られているのが「豊川吒枳尼眞天」。稲穂を背負い白い狐に跨っている姿から「豊川稲荷」として親しまれています。なお、豊川稲荷には鳥居があり狐が祀られているのですが、やはり「寺院」とのことです。 ■ 「桶狭間の戦い」の話 「豊川稲荷」の荼枳尼天を深く信仰し、同寺を保護し、山門を寄進した戦国武将に、今川義元がいます。今川義元は「桶狭間の戦い」(1560年)で織田信長に討たれるのですが、信長も豊川稲荷の鎮守である「豊川吒枳尼眞天」に戦勝祈願や武運長久を求めて深く帰依してしました。ただし信長は「桶狭間の戦い」の直前に「熱田神宮」に参拝し戦勝を祈願しました。その際、神社の社殿から二羽の白鷺が飛び立ち織田軍を勝利へ導いたという伝説があり、境内にはその記念碑が残されています。熱田神宮の主祭神は熱田大神で、草薙神剣を御霊代とする天照大神ですが、「桶狭間の戦い」は実に、豊川稲荷と熱田神宮の戦いというより、二股をかけた織田信長の勝ちということのようです。 さて、織田信長は自身を「第六天魔王」とも名乗っています。第六天魔王とは、仏教において、欲望の世界である「欲界」の最上部(他化自在天)に君臨する魔王のことで、悟りを開こうとする者を妨げるとされています。なぜにこのような魔王を名乗ったかというと、比叡山延暦寺の焼き討ちなどを非難してきた武田信玄が信長に、天台宗のトップである「天台座主沙門信玄」と署名した書状を送ってきたことに対し、信長は怒り、自分を「仏敵・魔王」になぞらえる形で「第六天魔王信長」と署名して返書を送ったことからとのことです。 織田信長は、戦国時代の陰陽道や軍配者(易者)を軍略や権力基盤の強化に巧みに活用していました。合戦の時期や方位の吉凶を占う陰陽師的な役割を持つ軍配者を側近として抱えており、代表的な人物として「伊束法師(意足法師)」が知られています。 しかしながらGoogleAIさんによると織田信長は、戦国時代の「呪術」や「占い」といった非合理な慣習を徹底的に排除した超・合理主義者として知られており、それでも彼は自らを「神」として演出する政治的パフォーマンスに長け、合理性と呪術を巧妙に使い分けた人物、とのことです。 ■ 首実検の話 「桶狭間の戦い」後、信長は長福寺(名古屋市緑区)で今川義元の首実検をしました。その後、義元の首は清須の須ヶ口に晒されていましたが、それでも抵抗を続ける今川軍の鳴海城の岡部元信に対し、信長は開城を求めていました。元信は「太守様の首と引き換えに城を明け渡そう」と返し、信長はその忠義に深く感じ入り、首を棺に丁重に納めさせ、わざわざ同朋にもたせて駿府に送り届けました。また信長は、熱田に通じる街道の脇、清須城の南入口に義元の供養塔である「今川塚」を建て、千部経を読経させました(現在は清須市の正覚寺に)。その他義元に関わる塚は、豊川市の大聖寺に胴塚が、西尾市の東向寺に首塚があるそうです。また、義元が所持していた名刀「義元左文字(宗三左文字)」は信長の手に渡り、愛刀となりました。 しかし、負けるはずのない戦いに敗れた今川義元の遺恨は強烈なものだったらしく、義元の軍で多くの戦死者が出た愛知県周辺の地域では、かつて怪異や鬼哭(亡霊が泣き叫ぶ現象)が多発したという伝承があります。これを鎮めるため明治21年、愛知県豊明市に一草庵が建てられ、怪異現象はなくなったとのことです。 こうした首実検にまつわる怪異話は、前出の伊藤清郎先生の論文にもあるので、ここに引用します。 「「羽陽軍記」の「首実検之事」には、長谷堂合戦後における首実験の様子が描かれている。上山を守備していた里見兄弟は、攻めてきた上杉勢の上泉主水正の首を取ったのであるが、「今朝まで主水正の首がしおれず、黒目もみえず、口を開き時々目を開き、動くように見える」ので最上義光に報告したところ、義光は「実験次第様々有り、大将の首ヲハ対面と云、盃杯指事あり、其外ヲ実験と云トモ、天眼と云ハ眼玉天ヲみる様なり、眼玉左をミルハ左眼、此ニツハ味方不吉也、眼玉地ヲ見るハ地眼、右ヲ見るハ右眼、是ハ味方吉事也、眼中二付ハ、和平之首と云、舌を出し口をあきたるヲ遺恨の首と云、煮させ見るへし」といつたので、里見兄弟は大釜で煮てみたところ、首はしおれることもなく、時々目を開き動くように見えたので、雑人たちは皆立ち騒ぎ逃げてしまった。 そこで義光は、修験の行蔵院に命じて檀上に首を据え、七日間護摩を修法させたところ、七日目ににっこり笑い、目をふさぎしおれた。それで「柴の観音堂」の下に深く埋めたと、記されている。 大将の首とそれ以外の首、眼の方向によって天眼・地眼・左眼・右眼・眼中、和平の首・遺恨の首等とよばれ、区別されていたことが知られる。特に遺恨の首の場合は、大釜で煮ることもなされた。それでも死者の遺恨が治まらないようなときには、修験者による柴燈護摩が焚かれたのである。首実験の作法については、笹間良彦氏の詳細な考察があるが、怨恨にたちうちできるのは、呪術しかなかったのである。怨霊に対する中世人のおびえが、近世初頭の人々にも続いていることがわかる。」 そうなのか、どうもやばい首はひとまず大釜で煮て、それでもしおれない場合は護摩をたくのか。そうそう役に立つ知識でもなさそうですが、義光の時代には必須のことであったようです。 ■ 起請文と最上義光の話 さて、最上義光は呪術の他、立願(りゅうがん)や起請文(きしょうもん)により神仏に誓いや祈りをたてており、その文書も残されています。ちなみに立願とは、神仏に対して、願い事の成就を祈り誓うことで、特定の目的を達成するためのものです(例:病気平癒、戦勝祈願など)。一方、起請文とは、神仏に対して自分の言葉や約束に偽りがないことを誓う文書(誓約書)で、破ると神仏の罰(ばち)を受けるそうです。前出の伊藤清郎先生の論文には、「もし約束を破ると神仏の冥罰・仏罰を毛穴毎に蒙り、業病に罹患し(特に皮膚病)、属する共同体や生活空間から排除され、周縁にある宿などに追いやられて長吏の下で物乞いなどして生活をせざるを得なくなり、遠からず死を向かえることになる。」とまであります。また、「起請文の文書様式は前書と神文からなり、前書には約束の内容が記され、神文には誓いを立てる神仏の名称が記されている。」とのことです。 また、「立願からは、最上領国内でも有力寺院である立石寺や慈恩寺、それに出羽三山の一つ湯殿権現への強い信仰がみられる。湯殿山との関係でいえば、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの際に、誓願時(山形市)の上人が徳川家康の戦勝を祈って湯殿山に48日山籠を行い、さらに八日町の町人 108人が最上軍の勝利を祈って湯殿山へ参拝している。そこで最上義光は勝利の後、八日町に三山参詣宿の特権を与えたので、その後八日町は大いに繁盛し」とあります。 一方、義光の起請文においては「「密教的仏神」→「日本全国」→「出羽国」→「最上郡」→「殊に天満自在天神」という大系が、義光の頭の中にできていたことが理解されよう。それに触穢思想が染みこんでいる。「月山・葉山・羽黒それに両所の宮」が神文に登場しているのは、在地的・山形的である。」とのことです。 比較対象として伊達政宗の起請文は「「梵天・帝釈・四大天王・堅牢地神」「日本国大小神祇」「熊野三所権現・春日大明神・愛宕山・八幡大菩薩・摩利支尊天」が見えても、出羽固有の神の名前は出てこない。祖父晴宗の代には、天文の乱後、米沢に拠点を移し、輝宗・政宗と三代にわたって出羽国に居住しながらも、相変わらず伊達家・政宗の帰属意識はいまだに陸奧側にあることが読みとれる。」と指摘しています。つまりは、信じる神仏にはローカル色も現われてくるというわけです。 論文では「起請文は極めて中世的な文書様式であり、十二世紀頃に成立して十六世紀末・十七世紀初頭には歴史的終焉を向える。それ以降はあっても形骸化していくのである。」としながらも、「起請文が、形骸化の兆候を示しながらも、戦国最末期から近世初頭(豊臣期・江戸初期)においてもまだ機能をしている様相が見てとれよう。さらに最上義光の精神構造の中には、顕密大系に基づいた神々の体系が存在していることも理解されよう。」としています。 ■ G2等に対抗する呪術の話 さてさて、今回なぜに呪術の話になったかというと、G2体制となれば日本のプレゼンスは危うくなるという話から始まったわけですが。 そこでまずは、日本古来の呪術について簡単に述べますと、仏の力を用いる「調伏」、鬼神怨霊や生霊などの「物の怪」、陰陽師が使役する「式神」、「蠱毒」を使うものなどがあります。アニメ好きの外国の方の中には、きっと日本には式神を召喚できる人がいると、半ば本気で思いこんでいる人がいるかもしれませんが、式神自体、目に見えるものでないとされており、なにがどうなっているのかはみえません。まあ、「いるかもしれないし、いないかもしれないし」という思わせぶりで威嚇するのも手かと。 一方、中国の呪術の代表的なものとしては、護符や呪文を用いる「符呪術」、毒虫を使った「蠱毒(こどく)」などがあり、こうした呪術や、まじないによって他人に害を加えることを「巫蠱(ふこ)」というそうです。また、星の力と歩行術を組み合わせた「禹歩(うほ)」やと中国の道教における大規模な祈祷・祭祀儀礼「齋醮(さいしょう)」もあります。そのほとんどは、日本の陰陽道や修験道などにとりいれられてもいます。 少々具体的に説明すると、「符呪術」は神仏の文字や図形を特殊な紙に朱墨で書き込んだ「符(お札)」と、言葉の力である「呪(神呪)」を組み合わせた術です。呪文の最後には通常、「急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)」とあり、これは「律令のごとく速やかに」という意味で、メールでいう「ASAP」とか「なる早」とかと同じようなものです。 また、「蠱毒」とは壺の中に複数の毒虫(ムカデや蛇など)を入れ、共食いさせて最後に生き残った最強の毒を抽出するもので、他者を呪い殺したり、富を奪ったりする黒魔術として恐れられました。 「禹歩」は、北斗七星の配列に合わせて歩くと、大地の呪力を身にまとったり、邪気を払ったりする歩行術。日本では「反閇(へんばい)」という修験道や陰陽道の歩き方として受け継がれているそうです。このように中国の呪術は、いずれも日本の先輩格にあたりかなり手ごわいと思われるものですが、陰陽道の式神とかでなんとか対抗を。 以上の呪術は、AIさんに教えてもらったものですが、これにAIさんは、どさくさに紛れて「房中術」も呪術として拾ってくれました。「男女の交合を通じて陰陽の気を調和させ、健康維持や不老長生(仙人になること)を目指す術。」とのことですが、ほっとくとこのままインド方面の話まで飛びそうなので、まあ、これも呪術なのかと。 続いて、アメリカ先住民の呪術ですが、自然界のあらゆるものに精霊や霊力が宿るという「アニミズム」に基づいています。彼らは呪術的な儀礼を通じて、自然との調和を保ち、病の治療や豊猟・豊作を祈願してきました。なので、相手を呪うようなものではなく、シャーマンによる癒し(メディスンマン)や薬草の煙などによる浄化(スマッジング)、タバコや薬草をパイプに詰めて煙とともに祈りを天へ届ける「聖なるパイプ」などで、いずれも攻撃的なものではありません。「新自由主義」の方がよほど攻撃的か。 そして、ロシアの場合はというと、呪術というか魔術でして、スラヴの民間伝承に根差す自然崇拝・呪術と、正教会の神秘主義が融合したものです。ロシア魔術を構成する主な要素としては、バーバ・ヤーガ(Baba Yaga)という薬草や呪術に長け善悪両面の顔を持つ魔女と、ヴェダ(Veda)という自然の力(薬草や水、四大元素)を利用した民間信仰や治療術とのことです。ただ、これらの呪術は現在でも広く庶民に信じられているとのことで、そうか魔女が相手か、しかも現役、これは難敵だなぁ。 ところで、かの戦争の末期には、本土決戦にむけて竹鎗の訓練がなされていたそうですが、もしかして小型ドローンとかは竹鎗で突くことができるのでは。呪術合戦でダメなとき、最終手段は竹鎗かと。 |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum




節句とは、季節の変わり目などに祝い事などの行事を行なう日をいいます。古く中国から伝来したもので、年中行事を行う節目として大切に扱われてきました。江戸時代に幕府が特に重要な節句を「五節句」として制定しました。「五節句」は奈良時代頃に中国から伝えられた「陰陽五行説」に由来しています。陰陽では「1・3・5・7・9」のような奇数が陽であり、月と日に同じ奇数で重なればさらに吉で、また、五行とは「木・火・土・金・水」で、それを割り当てると5つだけなので、11月まではないのです。ちなみに五節句の名称と五行の割り当てはつぎのとおりで、
1月7日…人日の節句(七草の節句) …木
3月3日…上巳の節句(桃の節句) …火
5月5日…端午の節句(菖蒲の節句) …土
7月7日…七夕の節句(笹の節句) …金
9月9日…重陽の節句(菊の節句・栗の節句) …水
ちなみに「七夕」は「しちせき」と読みます。また、それぞれに行事食というものがあります。1月7日は七草かゆ、3月3日ははまぐりやちらしずし、5月5日はちまきや柏餅ということで、ここまではおなじみですが、7月7日はというと、実はそうめん、とのことです。そして9月9日は栗ご飯・食用菊・秋茄子とまさに旬の食ばかり。食用菊というと、山形では黄色のものより薄紫色の「もって菊」が好まれますが、大きな観賞用の菊、コンテストなどに出品されるあの大輪の菊花ですが、かつて祖父が趣味で数十鉢と育てていて、それを食べたところ、甘みがあって大変美味しく、やはり手入れと栄養が行き渡っているからでしょうか。
さて、1月1日は特別ということ、節句は1月7日となっているのですが、それなら1月ではなくて11月11日をあててもよかったのではと勝手に思ったわけですが、するとこの日の行事食は、あの某社の某菓子となってしまうのかと。ちなみ日本記念日協会によると、11月11日は10月10日と並び「最も記念日の多い日」とのこと。例えば11月11日は、その字面から「チンアナゴの日」など。ここでAIさんが、日本記念日協会に登録されていない「くつしたの日(ペアーズデイ)」というのを紹介してくれました。「11」がペアで並ぶ形からとのことで、なんとなく「チンアナゴの日」と理由が似ているようです。日本靴下協会が1993年に制定したもので、大切な人に靴下を贈り合う日とのことですが、やはり私は、一度ももらったことはありません。
■ 雛飾りと五月飾りの話
雛飾りと五月飾りの由来については、AIさんによる説明がもっとも手っ取り早いので、そこからさらにつまみ食いでも。
まずは「雛祭飾り」ですが、平安時代、上流階級の女子の間で「ひいな遊び」という、紙で作った人形と家財道具に似せて作ったおもちゃを使った「ままごと遊び」が盛んに行われていたようです。当時の随筆や物語にもそのような場面が登場します。室町時代ころになると3月3日に祭りの日が定まってきたようです。
江戸時代になると、宮中行事として雛祭りが取り入れられ、幕府の大奥でも取り入れられました。このころ庶民にも雛祭りが広まり、女の子の初節句を人形を飾ってお祝いするようになりました。江戸時代初期は内裏雛一対だったものが、江戸中期には段飾りも登場し、三人官女をはじめとした雛人形や雛道具の数が増えていきました。明治以降になると雛祭りは農村部まで広くいきわたることとなり現在にいたります。
雛人形も時代とともに変化してきました。古代から、日本人は人形を作り、その人形に祈りを込めていました。平安時代になると、3月の上巳の節句に形代(かたしろ)や人形(ひとがた)を作り、それで身体をなでたり、息を吹きかけ、身の穢れや災いを移し、川や海に流し捨てることをしていました。形代は、身代わり信仰の一つで、人の身代わりとして身のけがれや災いを人形に移し、川や海に流し、子どもの無事成長を祈るものでした。これが現在も行われる「流し雛」の由来であり、雛人形の起源の一つです。
この形代や人形とは別に、平安時代に天児(あまがつ)と這子(ほうこ)と呼ばれる人形が登場します。後に天児の姿は立雛の男雛(お内裏様)へ、這子の姿は立雛の女雛(お雛様)へと変化し、雛人形の起源の一つとなりました。一方、立雛は形代(かたしろ)から変化したもので、座り雛とは基本的に流れが異なるとのことです。
3月3日のひな祭りが、女の子のための節句として定着すると、5月5日の端午の節句は、男の子のための節句として定着していきました。
江戸時代に「菖蒲(しょうぶ)」と武を重んじる「尚武(しょうぶ)」との発音が同じであることから、「端午の節句」は、「尚武」の節句として、武家の間で盛んに祝われるようになりました。ちなみに端午の「端」は「はじめ」という意味で、「端午」は5月最初の午(うま)の日のことを指します。午(ご)の発音が五に通じること等から、奈良時代以降に5月5日が端午の節句として定着していったそうです。
端午の節句に鎧や兜を飾ることは、武家社会から生まれた風習と言われています。身の安全を願って神社にお参りするときに、鎧や兜を奉納するしきたりに由来しています。武者人形は、江戸時代前期(17世紀)に誕生しました。端午の節句に、男の子の健やかな成長と災厄除けを願い、より親しみやすい形(人型)として作られたものです。
武家社会にあった鎧や兜を飾る風習が、江戸時代前期には、庶民の間にも普及し、家の前や庭に、槍、幟(のぼり)と共に大型の人形を飾っていました。このような「外飾り」は、神が降臨する際の目印である「依り代」(よりしろ)の役割を担っていたと考えられています。当初江戸時代中期には、家の縁側や店先など、行き来する人々から見える場所に飾られ(見せ飾り)、男子の誕生を知らせるとともに、家の威厳を示す役割も持ちました。江戸時代後期に、人形が小型化し、室内に飾る形式(内飾り)が主流となったそうです。
勇ましく立派に成長してほしいという願いとともに、現代では鎧や兜が“身体を守る”ものという意味から交通事故や病気から大切な子どもを守ってくれるようにという願いも込めて飾ります。
ちなみに名古屋刀剣博物館によるオススメ武者人形5選としては、「牛若丸&武蔵坊弁慶」、「那須与一」、「金太郎(坂田金時)」、「鍾馗」」、「神功皇后&武内宿禰」とのこと。同博物館のHPには、それぞれの詳しい説明があります。山形的には熊対策ということで「金太郎」押しとかでしょうか。
■ 仏壇の処分の話
さて、人形の処分はなにかと苦慮しますが、それと似たようなものとして仏壇の処分というのがあります。仏壇となるとさすがに博物館に寄贈とはいきません。しかも仏壇は、昨今の住宅事情で、縮小・廃止の傾向にあります。数年前、かつての上司が自宅を建て替えたとのことで、そこに伺ったのですが、代々大地主の農家で、建て替え後の家屋にも仏間があり、そこにはやはり代々受け継がれている幅一間(1.8m)はあろうかという金仏壇がありまして、長押には代々の写真がずらりと飾られていました。とにかく代々引き継いでいくということ、これはこれで大変なことではありますが、やはり住宅の新築・改築を前にすると、なにかと扱いに困るのが仏壇です。今どき仏壇のための和室を設けるなどいうのはなかなか贅沢な話でして、解決策としては洋室にあう仏壇に買い替えるという方法もあります。その場合は椅子式となりますが、高齢者にとっても和室より椅子の方が好ましいこともあり、まあ理にかなった選択とも言えます。実は最近、親類の仏壇を調達するにあたり、仏壇屋さんを一緒に見てまわったのですが、コンパクトで本当に素敵なデザインの仏壇が多く、用もないのにこちらまで欲しくなってしまうものがいくつもありました。また、それに合う椅子なども販売していました。
そこで、でてくるのがこれまでの仏壇の処分でして、壊して分別して過程ごみとするのがもっとも安上がりではありますが、特に山形では金仏壇が一般的で地元の伝統工芸品ともなっていますが、この金仏壇の分別はなかなかに手間がかかります。解体せずにそのまま、粗大ごみとして出す方法もありますが、なんとなく気が引けます。業者さんに依頼する方法もあります。ただ、「ただの家具」とは違うので、専門業者さんに頼む必要がある場合かと。
また、処分にあっては仏壇を供養することが望ましく、本来であればお坊さんを呼んでお経をあげてもらうところですが、お坊さんを呼べない場合は、自分で供養する方法があります。仏壇の前で手を合わせ、お線香やロウソクを灯して、お清めの塩をふり感謝すれば、心が少し軽くなるという、ネット記事がありました。なによりも誠実さが重要とのこと。業者さんによっては供養サービス付きで処分してくれるところもあるそうです。また、廃棄するのではなく、サイズダウンで作り替えをしてくれる仏壇屋さんが山形にもあります。山形には単なる販売だけでなく、作って売る店も街中に何件もあって、仏壇以外の工芸品などの修繕なども手掛けていたりします。
また、仏壇に付随する仏具、おりんや燭台などは雑貨として処分できるものの、問題となるのが仏像と位牌でして、こればかりはお寺に相談するのがよいと。相談できるお寺がない場合、位牌であれば郵送で依頼できるサービスもあるようです。一方、仏像であれば、廃棄物としての処分の他、知人・団体等への譲渡、買取業者への売却などの方法がありますが、いずれも供養するのが望ましいとのこと。
海外では中古の仏壇が、アクセサリーやフィギュアの飾り棚として利用されていて、仏像もインテリアとして人気のようです。山形の伝統工芸品のひとつという金仏壇ですが、インバウンド向けにいけるかも。金仏壇にみゃくみゃく様を飾るなんていうのは、なかなかな組み合わせと思うのですが。
■ AI利用の話
節句も雛飾りも仏壇の処分の話も、今回は、底なしのコピペ記事ばかりで失礼いたします。しかもAIに頼ると、とにかく要領よくまとめた記事がほんの2、3秒ででてきます。こうなるともはやAI依存症レベルかもしれません。もちろんその根拠やら著作権やらの心配あるのですが、基本的に出典も示されるので、それも確認できればひとまず安心かと。特に若年層ではカウンセリングとか人生相談などにも利用されているらしいですが、さすがにまだ自分はそこまでの利用はしてはいません、
でも例えば、AIさんにこんな人生相談をしてみたいとは思います。「孔子の言葉に、吾十有五にして学に志し(志学)、三十にして立ち(而立)、四十にして惑わず(不惑)、五十にして天命を知る(知命)、六十にして耳順い(耳順)、七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず(従心)とあるが、60歳を超えても惑わされるとか、60歳を超えても天命を知ることができないとか、そんな場合はどうすればいいのか」と。これに対しAIさんからは「それは人間ができていないからだ」と、スパっと切り捨てられるような気もします。
AIさんにはいろいろな種類があり、親切なAIさんだったら「できた人間になる方法」についてもアドバイスしてくれるわけで。例えばそれは「もっと論語を深く読めみましょう」とか。こうなるとだんだん禅問答のようになってしまうわけで。あるいは別のAIさんなら、「みんなちがって、みんないい」とか、「人間だもの」とか、どこかで聞き覚えのある優しい言葉をかけてくれるかもしれません。実際、AIさんに相談し続けると、このようなループとなるか、相談内容の肯定になるらしいです。例えば「60歳となっても、惑わされていても、天命を知らなくてもいい」と言う具合に肯定してくるらしいです。こうしたことを警戒しつつも、孔子さんは60歳になったら、それに反発せず素直に聞くことができ、真意を自然に理解できる、と言っておられるわけです。