最上義光歴史館
|
■ 大阪万博の話 (今回は「語れば長い話」バージョンです)
開幕前の予想に反し大阪・関西万博はSNSでも盛り上がっているそうです。その理由は、いわゆる攻略法が多種多様で、みんなそれを発信し、入手したがるからとのことで、つまりはそれだけ苦労している人がいるということでもあります。 チケットの登録からはじまり、パスワードをどうするとか、予約が必要なパビリオンはどことか、行く前から突破すべき壁がいくつもあります。来場してからも、暑さ対策とか、イベントのポイントとか、食事処とか、おすすめグッズとか、言わば一挙手一投足すべてにわたり攻略法の情報が行き交っているのです。 まずはチケット登録とパビリオン予約ですが、チケット購入後に行う最初の個人情報の紐づけだけで、もう行く気が削がれます。しかもパビリオン等の予約は1日につき一か所のみで、2カ月前と7日前の抽選機会でハズれると、先着順の3日前予約となるのですが、本当にこれで取れる人がいるのかと思うくらいこれが難しい。まずアクセスまで1時間以上待たせるのに、接続後は制限時間10分で切れてしまい、それ以降はまた初めからアクセス待ちという、なかなかの根性のサーバーを相手にしなければなりません。入場後の当日予約も入場早々、ひたすらスマホをいじらなければならなく、しかもほとんど空きがありません。ここで〈攻略法その1〉。予約優先のパビリオンでも、朝一番に並べば入れる可能性が高いので、スマホの予約に頼るよりとにかくそこをめざしてみましょう。 つぎに暑さ対策ですが、朝とは思えぬ強烈な日差しのもとゲートインまでに1時間以上並び、入ってもまたすぐにどこかのパビリオンの日陰もままならない行列に並び続けることとなります。ドリンク類の自動販売機やトイレは要所々にあり意外に苦労はないのですが、無料給水機については水量が少なくどこも20人以上が並んでおり時間がかかります。30か所あるとのことなので、どこか穴場というか攻略法があるのかもしれません。さてここで〈攻略法その2〉ですが、給水所利用には水筒持参を。また、あらかじめ氷を入れておけばかなり違います。凍らせたペットボトルならネッククーラーがわりにもなります。まあ、時間のない方や暑さで弱っている方には迷わず自動販売機をおすすめしますが、ちなみに現金は使えません。団体できていた中学生は、二次元コードが印刷されている紙をもたされていて、飲み物は会場内のコンビニなどで購入していました。多分、スマホ決済が禁止され、上限額も決められているのかなとは思いますが、学校で行くのも何かと対応が大変のようです。 実はこんな灼熱地獄から逃れるため、早々にパビリオンに並ぶのをやめ、逃れた先が大屋根リング下の「ミャクミャクくじ」(一回2200円、現金不可)の行列でして、おかげで1時間近く日陰で涼むことにはなったのですが、とにかくここでも並んでミャクミャクぬいぐるみを入手しました。そのぬいぐるみには大中小の3サイズがあり、くじ引きで大きさが決まるのですが、こういうことに滅法弱い私は、やはり「小」しか当たりません。それでも「大」が当たれば一日中これを連れまわすことになると思うと、「小」でよかったとも思うわけです。そこで〈攻略法その3〉ですが、「ミャクミャクくじ」で「大」が当たったときは、そのまま宅配便で送るのがよいかと。会場内にはロッカーがないのです。もっとも、当たればという話ではありますが。 この「ミャクミャクくじ」に並ぶ前に、並ぶことをお勧めしたいのが、各国のパビリオンのレストランです。本格的な料理が期待できるところも多々あり、ただ大半は、11時をすぎるとほぼ満席で、空席待ちどころか入場制限がかかることも多いようです。ここで〈攻略法その4〉。昼食には早い時間かなと思っても、空いていればすぐに並ぶことをおすすめします。一方、各国グルメは無用という方には、場内のコンビニエンスストアがおすすめ。ほぼ市中価格でおにぎりやサンドイッチが買えます。気を付けたいのがパピリオンにあるカフェ。およそ市中価格の3倍です。300円くらいのアイスが1000円、ジュースも250円くらいのが800円という具合です。なんか妙に安い感じなのが飲食店のビールでして、500円と張り紙がしてある店をいくつか見かけました。 さてさて、会場はさすがに広く、方向感覚すらなくなり、地図なしでは行きたいところに行けないのですが、すばらしいライフハックを見かけました。場内マップをうちわに張り付けるというものです。一石二鳥とはまさにこのことで、いちいちバッグから取り出す必要もなく、暑さ対策もなるわけです。とにかくスマホだけで位置確認をしでいてはバッテリーがもちません。 公式マップはインフォメーションで有料(200円)で買えますが、正直それほど役立つものでもなく、お土産用かと思います。まして公式ガイドは重いだけ重くて全く役に立ちません。インデックスすらないのです。ちなみに「ぴあ」の「完全攻略編」は、すみからすみまで大事な情報ばかりで必携です。付録のマップも秀逸です。 当初、この万博ではデジタル化を前面に押し出していましたが、デジタルの弱点も次々に露呈しています。バッテリーやアクセスのトラブルのため、万博協会ではチケットと地図はあらかじめプリントしたものを用意することを勧めています。コンセプトとしては、デジタルで並ばずに、としていましたが、予約のアクセスもままならず受付終了となります。整理券の方がまだましかと。予約できた場所ではチケットを読み取りするのですが、とある会場では、システム不調のため読み取りできず、とりあえずこれに名前を書いて並んでくれと回覧板を渡されたこともありました。 いずれにせよこの「うちわマップ」というアナログ技術は、明らかにデジタル技術をしのぐものがあるようです。ここでふと、思い出したのですが、山形駅の真ん前にある某ラーメン店ですが、入口のガラス戸に「会計は現金のみ」と張り紙がしてありました。10種類前後はあるであろう決済方法やポイント利用の面倒さ、通信回線や手数料などを考えると、店側としては現金のみとしたいのはよくわかります。ただ、インバウンド対応や現金管理となると悩ましいところではあります。 あ、すみません、こんな情報ばかりで。しかし記憶に残っているのはこんなことばかりでして。とりあえず話題の人間洗濯機もみましたし、空飛ぶクルマ(これは車なのか?)の記念撮影もできたのですが、何がおすすめと言えるほどの数が見れたわけもなく、それは通期パスポートでも持っている方にでも伺うしかないのですが。ただ、日本館はいかがなものかと。リサイクルをテーマに費用もかなりのものとは思われましたが、この展示は恐らくわからない人には意図がわからず、わかる人にはわざわざこんな展示をしなくてもわかるだろうというもので、あまりメディアに取り上げられない理由がわかるというものではあります。正直これならミャクミャクハウスの方がありがたいというか訴求力はあるのでは。 実のところ大阪・関西万博は、山形からすると距離的にも心理的にも遠いイベントで、特に平日は仕事がらみで行くようなもので、同級生でもある某人道団体の事務局長や某IT会社の社長も仕事がらみで行ってきたと言うので、それぞれ体験話をきいたのですが、仕事がらみで行かなければならないパビリオンの他はあと一か所程度しか見られないとのことでした。それはイタリア館に5時間並んだ後、よしもと館で涼んだとか、日本館をみた以外はコモンズ館で暑さを凌いだとかで、仕事でもなければ行かないとのことでした。しかしながら、6月末に来場者が1000万人に達した時、その1000万人目は山形市からきた家族ということで、山形から行くのは仕事がらみばかりだ、などと勝手に決めつけてもいけない感じでもあります。ここで〈攻略法その5〉。5時間待ちのイタリア館ではありますが、午後8時頃に並ぶと1時間待ちで入れたりします。フランス館やアメリカ館も同様です。ただし、並んでいる人が多い場合は、午後8時前に締め切られてしまうこともありえるのでご注意を。 意外に面白いのは、アフリカや南太平洋、中南米などのブースが並ぶコモンズ館です。初めてみる国名もあり、中には、自国の首相の写真パネルや特産品を並べるだけという展示ブースもみうけられます。そんな中でジャマイカの展示ブースには、ボブ・マーリーやウサイン・ボルトのマネキンがあって、一緒に記念撮影ができ、マネキンと同じポーズで楽しんでいる方も多く、国威高揚というよりもサービス精神あふれる潔い展示に、座布団をさしあげたくなります。 コモンズ館では、「NOT FOR SALE」を掲げるウクライナとか、値切り体験ができるイエメンの売店が話題ですが、各ブースやパビリオンにはスタンプが置いてあり、イベント価格の公式スタンプ帳もありますが、普通のノートにバンバン押している方もよく見かけました。コモンズ館では一気に30前後のスタンプを得ることができ、私の同伴者も展示見学はそこそこに、ここでの効率のいいスタンプ集めにはまっていました。 とにかく、これらのスタンプをコンプリートできれば、かなりの思い出になるかとは思います。コンプリートまでにはかなりの労力というか修行のようなものとはなりますが。ただ、これを思い出としてではなく、お宝として売りに出す方も、もしかしたらいるかもしれません。ところでこのスタンプは、うっかりすると上下さかさまに押してしまうこともあり、実際、自分もやらかしました。そういうのは「訳あり品」ということにでもなるのでしょうか。ちなみに来場者1000万人記念スタンプというのも置いてありました。 また、花火やドローンショーは、その時間が近づくと「どこからでも観られます」との会場アナウンスがありますが、場所によっては手前のパビリオンが明るすぎたり、大屋根リングの上は座り込み禁止だったりしていて、ちょっと見物場所には難しい場合があります。そのベストポジションというのは、実はレジオネラ菌で中止となっているあの噴水ショーの観客席だったりします。また、ビッグハットというパビリオンにはプロジェクションマッピングが投影されるのですが、それが見やすい場所というと、それこそSNSでと言いたいところですが、これがまたいろいろな正解があるようです。 最後にお土産の話ですが、ショップは夜10時近くまでやっており、パビリオン終了後も買いまくることができます。とにかく種類は豊富なのですが、なぜかミャクミャクのぬいぐるみだけはバリエーションに乏しく、サイズによっては「ミャクミャクくじ」でしか入手できません。しかも、全てがイベント価格でして、レジ袋までもそれなりの値段がします。まあ、かく言う私も、疲れて思考停止していたこともあり、普段ならありえない散財をいたしました。例えば、ミャクミャクの肉とも言われる赤色と青色に着色された「さきいか」を10袋とか、しゃべって歩く「電動ミャクミャク」などもエイヤッとばかり買ってしまいました。個人的には、金太郎飴のような「ミャクミャク消しゴム」や、透明なボールに像が入っている「ミャクミャクスーパーボール」などがおすすめですが、小学生か。 なんだかんだと興味深いものが数多くある万博ではありますが、暑さとあいまって行列ばかりで体力的にきつく、コスパ的にもタイパ的にも遠方からは考えものでして、評価としては某ミシュランガイドでいうところの、「近くに訪れたら行く価値のある優れた」もの以上ではあるとは思いますが、「そのために旅行する価値のある卓越した」ものかというと人によります。もちろん何度でも行ける近郊の方には、大変よろしいのではと思います。あとは、国税負担が生じないことを祈るばかりです。 以上、語れば長い話でした。 ![]() ↑ミャクミャクのある風景� .泪鵐曄璽覲� ![]() ↑ミャクミャクのある風景�◆’惴紊縫�ンダム |
|
■ 江戸の飢饉の話
江戸の三大飢饉として、1732年(享保17年)の「享保の大飢饉」、1782年〜1788年(天明2年〜7年)の「天明の大飢饉」、そして1833年〜1839年(天保4年〜9年)の「天保の大飢饉」があります。蔦屋重三郎(1750〜1797)が存命していた時に起きた「天明の大飢饉」は、天明3年の浅間山大噴火とその後続く悪天候により7年間も大凶作が続いたもので、特に東北地方の被害は壊滅的でした。弘前藩10万人、南部藩5万人、全国で餓死・疫病死とりまぜて30万とも50万とも言われる日本史上最大の飢饉でした。それまで米価は下がり続けていていたのですが、天明の大飢饉により急騰、江戸、大坂、京都、広島など全国的に打ち壊しが起こりました。これらの打ち壊しは幕府の政治を混乱させ、後の「寛政の改革」につながる原因となりました。 人口の3割以上が餓死したとも言われる八戸領では、この天明の大飢饉の様子を記録した「天明卯辰簗(てんめいうたてやな)」に次のような記述があるそうです。 天明4年にある宿屋に1人の女性が訪ねてきて、次のように言いました。「こちらの家で爺さんが亡くなられたと聞いてやってまいりました。どうか片身とも片股なりともお貸しくださいませんでしょうか?うちの爺さんもせいぜいあと2〜3日かと思われますので、その節にはすぐにお返しに上がりますので」 なんか律儀な話でもありますが、杉田玄白が書いた「後見草(のみちぐさ)」には、天明の飢饉では、犬の肉と偽って人肉が売られた、とも記されています。ちなみにこの文書で杉田玄白は、領内から1人の餓死者も出さぬよう指導力を発揮した米沢藩主上杉治憲(鷹山)を「賢君」と称えています。天明の飢饉は鷹山が藩主になって15年後のことですが、その間、飢饉への備えとして藩内各所に備蓄用の米蔵を建造し備蓄を増やしていました。また、米以外の栽培促進と殖産興業を図り、藍の栽培、焼物、錦鯉の養殖、植林などにより農家と藩の収入増を図りました。 しかしこれは稀有な例でして、諸藩は、飢饉の復興と財政難解消のため殖産政策により商品作物の生産等を奨励し、結果的には領民の負担が増えさらなる被害を生んだともいいます。米よりも金になる商品作物として「天下三草(てんかさんそう=紅花、藍、麻)」がありますが、これを作付けしため米が不足していた、との指摘もあります。紅花は山形の特産品です。また、東北地方の諸藩は、財政を維持するために大坂や江戸に米をどんどん廻していました。その結果、備蓄米がほとんどなくなってしまい、飢饉が起きた時に対応ができなくなってしまったともいいます。東北地方で多くの餓死者を出したのは、天災だけが理由ではなかったようです。 ■ 昭和の飢饉の話 時代は昭和の話になりますが、日本各地で自然災害がおこった1934年(昭和9年)に、農作物も大きな被害を受けました。九州・四国の干害、北陸・山陰の冷雪害、関西・中国の室戸台風による風水害と続き、冷害に見舞われた東北の被害は甚大でした。飢饉により、欠食児童が急増し、間引きや母子心中が相次いだそうです。とくに大きな問題となったのは娘の身売りでした。東北六県で、芸・娼妓、女給、女子工員などとして人身売買された娘の数は、昭和9年10月までの一年間で5万人余にのぼったそうです。以前、この館長日誌で紹介した「賣られる最上娘」でも触れた話です。 1929年におきた世界恐慌によりアメリカ国民が窮乏し、生糸の対米輸出が激減。生糸価格の暴落から他の農産物も次々と価格が崩落しました。さらに、1930年(昭和5年)の豊作による米価下落により(「豊作飢饉」)、農業恐慌は本格化しました。以降、農民は稗や粟などの雑穀、楢や栃の実を常食とせざるを得ない生活を強いられたとのことです。昭和9年の凶作は、それら雑穀や木の実はおろか、草の根、木の皮、藁など口に入るものはすべて食糧にして飢えをしのがねばならなかったそうです。そして当時の記事を借りれば「床のない家、床があつても畳のない家々から、娘がポツリポツリ芸者に、娼妓に、ある日は酌婦に売られて姿を消してゆく」という「人身売買」がなされていきます。 ■ 戦争になった話 1929年の大恐慌を背景に1930年代は欧米列強が帝国主義のもと、アジアやアフリカで植民地政策を進めました。不況を乗り越えるため植民地を拡大し、他国を排除して本国と植民地を一体とした経済圏を作り、その中だけで貿易を行うこととしたのです。 日本陸軍は日清戦争後、およそ5,800人の支那駐屯軍を置いており、1931年の満州事変を経て満州の支配権を拡大、1932年に満州国を建国しました。資源確保と植民地拡大のため中国への進出を続ける一方、国際連盟がリットン調査団の報告をもとに満州国の不承認と日本の撤兵を求める勧告したことに反発し1933年に国際連盟を脱退。1937年の盧溝橋事件をきっかけに中国との全面戦争に突入しました。 1936年には二・二六事件が起きます。陸軍の青年将校に率いられた1,500人ほどの部隊が、天皇の側近や大臣を殺害し、首相官邸などを占拠したものです。部隊の中には、貧しい農家から徴兵された兵士が大勢いました。 当時の農村では貧困が深刻化し、女性が身売りするような事態でした。国外に目を向ければ、中国のみならずイギリスなどとも対立が深まっていました。こうした危機をよそに、国民を犠牲にして私利私欲に走り、天皇と国民のつながりを阻害している天皇の側近、政治家、財閥などを取り除こうとしたのです。天皇を太陽に、国民を作物になぞらえ、太陽の光を遮る側近や財閥を取り除かなければいけないと、部隊を率いたひとり、安藤輝三大尉は部下に語ったそうです。 二・二六事件は、武力を背景にした軍隊勢力によるものでしたが、それを抑え込んだのもまた軍隊だったことから、軍部の発言力は増大してしまいました。 関東軍は二・二六事件後、直ちに満洲移民の大規模送出計画の作成に取りかかり、1936年5月11日に満洲農業移民百万戸移住計画を作成。同じ年8月25日には、ほとんどそのまま国策として「二十カ年百万戸送出計画」の骨子としました。これは農林省が進めていた疲弊農村の「経済更生運動」と連動し、1938年から、「分村移民」として結実。各町村別に、「黒字農家」=「適正規模農家」の平均耕地面積で町村の耕地総面積を割って「適正農家」数を算出し、この戸数を超える農家を「過剰農家」として満洲に送り出しました。一方軍部は、満洲国の人口の一割を日本人で占めれば、満洲国が「大和民族」が指導的中核とする日本的秩序を打ち立てることができると考えていたと言います。表向きは飢饉対策ですが、実質的には植民地政策に駆り出されたわけです。 1941年(昭和16年)の真珠湾攻撃を発端としたアジア・太平洋戦争の勃発以降、国内農業者の大量兵員化と軍需工場労働者化のために、満洲移民として確保すべき人員が極度に不足し、日本人移民送出数は急減しました。1945年(昭和20年)の敗戦を迎える前に日本人移民事業は崩壊しました。 1945年8月9日にはソ連軍が満洲侵攻、関東軍は移民達を置き去りにして逃走したと言います。この時点における在満洲国移民団員の数は約22万人でしたが、そのうち現地死亡4万6,000人、行方不明者3万6,000人、ソ連抑留者3万4,000人であり、どうにか日本にたどり着いた人は、22万人の半数に過ぎませんでした。 先月の日本経済新聞には幼少期に満州から引き揚げてきた、漫画家の千葉哲也さんと映画監督の山田洋次さんの証言が掲載されていました。朝鮮から引き揚げてきた作家の五木寛之さんの証言もありました。戦後80年となる中、貴重な生の声です。 ■ 米米CLUBの話 米がらみのニュースとなるとそのBGMで「KOME KOME WAR」が使われていることがあります。バレンタインデー関係のニュースになると「チョコレイト・ディスコ」が流れてくるのと似たようなことなのですが、先月、テレビ番組に、その米米CLUBとPerfumeが一緒に出演していて、米米CLUBは結成40周年、Perfumeは結成20周年(演歌歌手なみ!!)とのことでした。 番組では結成40周年ということで40曲メドレーをやりますなどと言ってましたが、実際はコンサートの始めにうたう曲と最後に歌う曲の2曲メドレーではありました。米米CLUBのメンバーは、還暦を優に過ぎていて、石井さん(65)も歌い終わった後、心なしか肩で息をしている感じでした。踊り子さんのシュークリームシュも還暦を超えていらっしゃるはずですが、淡々と無理せず踊っていたのが好対照でした。そうそう、ジェームス小野田さんは「べらぼう」で狂歌師の元木網(もとのもくあみ)を演じられていて、ご同慶の至りではあります。 「米米CLUB」という名は、当時人気のバンド「トム・トム・クラブ」を小野田さんが「コメコメクラブ」と言い間違えたことからという説と、某情報誌の「バンドメンバー募集」欄に目立つよう「※※クラブ」としたという説、新聞のテレビ欄で「※※クラブ」を「米米クラブ」と誤表記されてしまったからという説、など現役なのになぜか諸説あるのですが、いずれにしても直接的には米とは関係ないようです。 それでも、そのファーストアルバムは「SHARI-SHARITHM(シャリシャリズム)」というタイトルで米とシャリをかけていて、解散前のアルバム「PUSHED RICE(プッシュト ライス)」は日本語に訳すと「押し米」つまり「おしまい」となっています。「KOME KOME WAR」が収録されているアルバム「GO FUNK(ゴー・ファンク)」は「ご飯食う」にかけているものです。 しかし最近は、本当に米にも関係しているようで、オリジナル米の「米米米 KOME KOME MAI」というコシヒカリ5kgを5,000個限定で販売したり、この5月も茨城県行方市宇崎の体験型農業テーマパーク「らぽっぽ なめがたファーマーズヴィレッジ」で、バンドメンバーと県内外から参加した親子ら約90人が田植えなどで交流を深めたとのことです。 個人的には一度だけ米米CLUBのコンサートに行ったことがあり、その会場は仙台市体育館でガッチャマンの主題歌とかうたっていましたが、舞台がセンターステージで、それが廻って上下するというべらぼうに金のかかったものでした。いつもステージに金を掛け過ぎて、満席にもかかわらず赤字だったらしいです。ついでに言うならば、彼らのライブのキモは、そのアンコールにありまして、どうかしているような力の入ったパロディソングをアンコールのためにいろいろとコンサート毎に用意していました。 「米米CLUB大全集」という映像集があり、LD(レーザーディスク)で12枚ほど出されていますが、それにもアンコールの一部が収録されています。当時、なけなしの稼ぎからコツコツとこれらのLDを集めてはいましたが、しばらくしてDVDがセット販売されたので、それも購入しました。そろそろ終活を考えなければならない世代にさしかかっているにもかかわらず、こういうものばかりを買ってしまいます。今時、中古のLDであればほとんどが1,000円以下で入手できるので、ちょっと気になるLDがあれば買ってしまったり、そうそうPerfumeの中古DVDなども結構お安かったりします。 それにしても、こういうもの特に中古のLDは買っただけでほとんど見たりはしないわけで、絵にかいたような無駄使いと言いますか、こんなことが家人にバレれば、それらの粛清を求められること必至なので、とにかく家の奥に隠しています。 ■ ブランド米の話 ここで少々、ブランド米の話でも。 山形の隣接県には、新潟の「コシヒカリ」、宮城の「ササニシキ」、秋田の「あきたこまち」と強力ブランド米が肩を並べ、例えるなら上杉、伊達、佐竹に囲まれているような状況が続いているわけです。かつて山形では、ササニシキ系統の「キヨニシキ」という米が主流でしたが、宮城では1981年に「ひとめぼれ」がデビューし、たちまちその勢力を拡大しました。「あきたこまち」は1984年に開発されたものです。 ここで山形でもなんとかメジャーなブランド米を、ということで、1993年に開発されたのが、「はえぬき」と「どまんなか」です。「はえぬき」が平野部での栽培を、「どまんなか」は中山間地域の主力品種に位置づけられました。ただ「はえぬき」の方が作りやすく良食味であることから、「どまんなか」の作付けは激減しています。 それでもこの「どまんなか」は、冷めても固くならず美味しさを保ち、お弁当には最適で、山形新幹線開業に合わせて開発されたあの駅弁「牛肉どまんなか」は、使われているこの米の名に由来するものです。「どまんなか」とは、庄内平野のどまんなかにある山形県農業試験場庄内支場で生まれたことから名づけられました。一方、「はえぬき」の知名度は県外ではいまひとつかもしれませんが、セブンイレブンのおにぎりに使用されています。いずれも物はいいのですが、その「どまんなか」と「はえぬき」というネーミングは、食材としてはあまりに攻めすぎたのかもしれません。発表時には異論が続出していました。 そして1998年に「つや姫」がデビュー。酒米で有名な「亀の尾」をルーツとし、耐倒伏性を持ち、栽培しやすい品種で、炊飯米の光沢や外観、味に優れ、なによりも冷めてもおいしいため、特に高級な弁当にはよく使われています。実は炊き立てであれば、およその米は区別なく美味しいのですが、冷めるとその違いがよくわかります。ちなみに鶴岡駅のコンビニで売っているおにぎりは全て「つや姫」です。2018年には「雪若丸」もデビュー。しっかりとした粒感と適度な粘りがあり、寿司、丼、カレーに好適米というものです。 さて、米の収量、つまりは「米どころ」のランキングですが、やはり新潟が1位。コシヒカリ、特に魚沼産となればもう他のブランド米の倍ぐらいの値段で売られていることがあります。新潟の温泉旅館の売店では土産物として、まずはこの魚沼産コシヒカリがどぉーんと置いてあったりします。 また、東京などのデパ地下でよく見かけるのが、2017年に一般発売が開始された「新之助」でして、その血筋は祖父母が「どまんなか」と「どんとこい」ということで、これだけでもかなり足腰の強い(!?)品種であることが伺えます。かつて台湾のデパ地下で販売されている農産物の視察をしたことがあり、台北、台中、台南のデパ地下を巡ったところ、やはり「新之助」ばかりがどぉーんと置かれていました。 米どころ第2位は、実は北海道です。かつて「鳥またぎ」とまで揶揄された食味の北海道米でしたが、「きらら397」の登場以降、一新されました。ちなみに吉野家の規格米は「きらら397」を中心にしたブレンド米とのこと。現在の北海道産米の銘柄は豊富でしかもどれも本当においしい。しかもコスパもいいのです。千歳空港に行くと、そこではカニやメロンをはじめとした生鮮食品が、ここが空港であることを忘れるくらい並んでいるのですが、米も「ゆめぴりか」や「ななつぼし」など5、6種類の銘柄がおしゃれなパッケージで売られていて、詰め合わせならいろいろと食べ比べもできます。生鮮食品をお土産にできない場合はぜひおすすめします。 3位は秋田。2022年に本格デビューした秋田県の新品種「サキホコレ」は、「コシヒカリを超える極良食味品種」をコンセプトに「あきたこまち」誕生から37年ぶりに開発された品種とのこと。冷めてもおいしく、カレーでもチャーハンでもいけるという万能ぶりです。ちなみに「あきたこまち」は牛丼チェーンの松屋でも使用されています。 ここまではここ数年、不動の順位でして、それに続くのが山形、宮城、福島の3県で、ほぼ同じ収量です。他に東北では、青森の「青天の霹靂」や岩手の「銀河のしずく」と「金色の風」などがキャッチ―な銘柄で、とりわけ「岩手県産あきたこまち」というのはなかなか悩ましいかなとも思います。 ■ 白米の食べ方の話 銘柄米と言えば学生の時、「実家から送られたコシヒカリをオカズにササニシキを食べている。」と言っていた同級生がいましたが、まあ、これはネタかと。一方で、米を研ぐということがわからず、米を洗えばいいということで洗剤で洗ったという後輩がいました。水を入れずに米だけを炊飯器にいれて炊いた、という話もよくある話で、インターネットもないバブル前夜の話でして、いずれも実話です。一方、現代では、ミネラルウォーターで研いで、氷を入れて炊く、これがおいしい炊き方だ、などと当時の人に言ったら、冗談かと思われるでしょう。もっとも、「そんなことせんでも、研いだらザルにあげ、炊けたらおひつに移せば、十分においしいんです。ここでね、大事なのはおこげなんですよ。」などと、土井善晴先生とかには言われそうですが。 さて、江戸時代には白米を5合食べ、その他のものは漬物程度という話でありますが、私が子供の頃、親戚のおじさんがご飯に醤油をかけて食べているのをみて、他の親戚が引いていたのを覚えています。というか、なぜそれが引くような行為なのか当時はわからなかったのですが、子どもの頃は自分も時々やったりしていたわけで、社会に出てからなんとなく引く理由がわかってくるのですが。ちなみに日本にいらしている欧米の方々も結構な量の醤油をかけてライスを召しあがっていまして、欧米でライスは野菜扱いとのことで、なにかソースなどが必要と思われているらしく、醤油をドバドバとご飯に。なんとなれば、牛丼に醤油をかけて食べていらしゃる方もいます。つゆだくというオーダーはやはり難しいわけで。 しかし、もし異国の地で、クスクスとかキャッサバとかを食ってみろと言われた場合、まずは塩・胡椒とか、あるいはケチャップやマヨネーズをドバドバとかけるかもしれません。醤油があれば醤油をかけて食べるかも。恐らくバターなどで食すのが正解のような気もするのですが、クスクスとかキャッサバは単品たけでは食べないようでもあり、正直よくわかりません。 ここで思い出したのですが、昭和の海外旅行の裏技として、とりあえず醤油をもっていくというものがありました。梅干しもあればなお安心、とか。正直、初めての国際線の機内食で、塩と胡椒しかなかったことに戸惑いました。日本のお弁当のように醤油やソースはないのかと。それでも最近は、日常の食事でも塩・胡椒で味付けは間に合うようになり、あまり醤油は使わなくなりました、年齢のせいでしょうか。それでもさすがに塩・胡椒でご飯を食べることはありません。ゴマ塩だったら喜んでいけますが。食味というか食文化には中々に微妙なところがあります。 ■ 山形新幹線の話 先日(9月4日)、山形新幹線とクマが衝突しましたが、とにかく今年は山形新幹線はトラブル続きで、6月17日に新型車両「E8系」が相次いで故障し、1カ月以上にわたる大規模運休となりました。その影響で県内の宿泊予約3万5000人減少し、4億円余りの損失ということが県の調べでわかりました。その間、福島駅での乗り換えとなったのですが、これがもうボヤっとしていると座席がなくなる場合があり、福島駅ホームは空席を目がけ駆け足で移動せざるを得ませんでした。 山形新幹線が運休したときには迂廻路として、山形〜仙台を結ぶ仙山線という鉄路の利用もあるのですが、これもクマが衝突(8月11日)しています。「山形新幹線が使えなければ、山形空港を使えばいい」と言われるかもしれませんが、これは「パンがなければケーキを食べればいい」と同じようなことでありまして、しかも山形空港にもクマが侵入(6月26日)したりしています。なかなか難儀なことではあります。 あとはバスということになるのでしょうか、今のところ山形ではバスとクマは衝突していません(福島では衝突しています)。山形〜仙台間のバスは10分間隔で運行される時間帯もあり、仙山線より早くも到着します。これが山形〜福島間となると、東京行の夜行バスで途中下車するしかなく、その時刻も深夜1時頃になるという、なんともワイルドなものとなります。 山形市は仙台市と隣接しているので、ここはアクセスが確保されているのですが、その他の隣県に行くとなると、秋田行の電車も新潟行のバスもあるのですが、これかまた東京に行くより大変でして。 そういえば、あの東日本大震災のときは仙台駅も被災し、当然、東北新幹線は運休となり、長距離バスも道路状況がわからず運休となり、震災時にたまたま山形にいた東京方面の方々はそのまま山形に留まるしかありませんでした。 県外への公共交通機関は2日目も不通で、その日は私もたまたま山形駅に近い避難所の運営にあたっていたのですが、その日はそのままそこに泊まり込みでして、とは言え、夜間はただただテレビを見て情報をとるくらいしかやれることはなく、時の総理大臣が自らわざわざ「福島原発で放射能が漏れているという噂は事実ではない」と不自然な発表をしている映像などを見ていたわけですが、夜明けに鶴岡行き(日本海方面)のバスが出るとの情報が流れたので、それを掲示板となっているホワイトボードに書き写しました。すると、避難所に滞在していた東京方面の方々が次々と、そのバス乗り場に向かっていったのです。 何が不思議と言っても、地元感覚では山形市から鶴岡市を経由して東京に向かうというルートは発想にないわけでして、それでも庄内(日本海側)の人からすれば東京へは上越新幹線を使っているわけで不思議でもなんでもないのですが。とにかくその日から数日間は、鶴岡行きのバス乗り場には行列ができていたとのことです。非常時の中、バスの機動性と有難さを思うばかりでした。 そうそう、仙台空港も被災したため、山形空港がその代替となりました。こちらではしばらく、自衛隊機も含めあり得ないほどの飛行機が離着陸していました。とにかく迂廻路とか代替機関というのは大事です。 |
|
■ 「天童原の馬揃え」の話
「天童原の馬揃え」の話のようなことは現在でもよくあることで、特に皇族が行啓する催しなどでは、施設などの改修がなされたりします。一番わかりやすい例が国民スポーツ大会、かつて国体といわれていたものですが、山形で開催された時は、体育施設には特別な応接室が設けられ、幹線道路も新しくなり花まで植えられるといった具合でして、あわせて立ち寄る建物もトイレまで新しくなるという具合です。皇族も用を足すわけでして。とにかく国の補助金などが得やすくなるとのことでした。 山寺芭蕉記念館にも立ち寄られるということで、控室ともなる会議室は立派なものとなり、例えば壁紙などは布製のもので仕上げられました。その会議室には現在も来館時の写真が飾ってあります。そう言えば、山寺には明治41年9月18日、当時東宮(皇太子)であった大正天皇が、山寺に行啓(参詣)された時に御休憩なされた「行啓記念殿」という建物があります。この建物は腕利きの大工さん156人で、わずか26日間で建てたそうです。そのときの自ら植えられた松やその後建立された記念碑とともに当時のまま保存されています。特別な時期に内部が一般公開されることもあります。皇族の行啓はかくも効果絶大です。 実は当館でも皇族の来県を機に国体の年に、普段ならまず借りられない北野天満宮所蔵の名刀「鬼切」を貸していただき展示できました。こうして、おこぼれにもあずかれることがあるのです。 ところでこの「天童原」とはどこか、という話ですが、これを郷土史研究家の矢野光夫さんが、史料の他、地図や市史なども調べ現地調査まで行った研究成果が当館のホームぺージに「奥羽永慶軍記の「最上義光、騎馬揃の事」の地、天童の野はどこか」というタイトルで掲載しています。 その調査過程は具体的で面白く、古地図、土地の歴史、市史、現地調査など、調べるにつけていくつかの候補地が浮上してはまた消えるのですが、結論として「最上郡天童の野」は現天童市糠塚から東方、天童市立第二中学校及び山形県立天童高等学校周辺、地籍名は大字久野本、老野森などを、「天童原」と考えるのが妥当と思われる。と推察するに至っています。歴史ロマンとはこういうことなのか、その一端をみることができます。 ■ 頼みごとにも馬という話 最上義光がかなりの謀略家であると印象付けることになったのが、白鳥十郎長久を討った話で、ここでは織田信長公に馬を贈る話がでてきます。1584年6月のことですが、義光公が重病と偽って白鳥十郎を山形城中に呼び寄せ、床の下に隠していた小太刀で切り倒した話で、「最上記」の「城取十郎討捕給事(白鳥十郎を討ち取り給うこと)」にはつぎのようにあります(一部略)。 出羽の国、谷地というところに白鳥十郎という大名があった。十郎は義光公を退治して自分が出羽の支配者になろうとし、まず中央権力者の力を頼りにしようと思った。そこで織田信長公へ大鷹一羽と御馬一頭を差し上げ、「私は、出羽の国最上の主でございます」と、偽りを申し上げたところが、信長公も遠国のことで少しも存知なかったため、十郎の言葉を信用していねいな御返状を下された。 義光公はこのことを聞き、使者に最上家の系図とともに、白羽の大鷹一羽、御馬一頭、槍十挺を揃えて進上した。信長公は使者の説明を聞き、最上家代々の系図をご覧になって、すぐに「最上出羽守殿」として御返状を出された。 義光公は、最上家の地位を奪おうとした白取十郎を何としても討ち取らねばならぬと考え家臣と相談、使者により十郎に申し入れた。「近隣の問題が起きないように、十郎殿のご息女を義光の嫡男義康にめあわせてはいかがか」。これに対し十郎も「了解いたした。義光公と和睦いたしましよう」と返事に及んだが、用心深くして山形の城にくることはなかった。 そこで義光公はまた家臣と相談して、使者に伝えさせた。「近頃わが身の病が、もってのほか重くなった。なんとか十郎殿に対面し、国の政治をお頼みしたい。また、跡継ぎが幼少の間は、家の系図もお預けしておきたい。」 十郎は、これこそ願うところの幸いと喜び、時日を移さずに山形へ来ると、義光公病臥の次の間には御一門衆が詰めていた。医師・陰陽師が大勢出入りし、まことに容態が重大であると見えた。 十郎は義光公の枕元近く寄り、「これほどに重いご病状とは存じず遅参し申し訳ございませぬ。」と申された。義光公は起き直り、「最後の対面、まことにもって喜ばしいこと。」と言って代々の系図を出した。十郎はそれ受け取って三たび頭上におしいただき、「こうなれば出羽の主は我なり」と口には出さねど、その顔色にありありと見えた。 すると義光公は居直るように見せかけて、床の下に置かれた太刀を取り、抜き打ちに斬り付けた。この不意打にさすがの白取十郎も、二つに断ち切られて倒れた。十郎の供者は御馳走のため広間に置かれていたが、奥で打つ合図の太鼓で、討手を命じられていた若侍たちが三方から取り卷き、一人も残らず討ち取ってしまった。 絵にかいたような騙し討ちではありますが、しかしながら、最小限の死傷者をもって成敗したという評価にもなっています。 ところで贈り物の話に戻りますが、ここにもあるように献上品としては馬や鷹ですが、下賜品となると刀剣や茶器、着物などになるようです。どちらにも使える贈り物はやはり金銀です。ちなみに天皇からのものは恩賜ともいいますが、近年まではタバコでしたが、現在は菊花紋章入りボンボニエール(菓子容器)に入れた金平糖です。やはり下賜(菓子)だけに、いや、失礼しました。 ■ 長男暗殺事件の話 白鳥十郎討捕事件とともに、最上義光が冷徹・非情で残忍とされたエピソードに、長男を暗殺したという話があります。また、伊達政宗の母つまり義光の妹である義姫が政宗を毒殺しようとしたという話もあり、兄も妹もそれぞれの長男暗殺を謀った「戦国一のワル」と称されることがあります。ただ、最近の研究ではいずれも否定的な論証がなされています。 まずは最上家の話から。「最上記」にある「修理太夫殿生害之事」という話です。ここで「修理太夫」というのは義光の嫡男で長男の義康です。 義康は武勇知謀ともにすぐれ、家督相続は確かだろうと思われていた。ところが、義光の側近と義康の家臣が威勢を争い、さまざまな思惑が取り沙汰されるようになった。 「大殿(=義光)もご老齢なのに、いつまでも隠居なさらないのは、家督は家親様にとお考えだからだろう。」、そう噂が広がれば義康も「あるいは、さもありなん」と思うようになる。一方、義光の近臣からは、「殿ご健康なるに、隠居を望まれるとは、いかが」ということになる。 ある日、義康が光明寺で遊宴を催したときに、脇差が抜けて左の股を少し怪我をした。これを聞いた義光側近は、「義康様は家督を譲ってもらえないのを恨んで、自害を図られた」と偽り告げた。それ以後、親子の仲はひどく不和になってしまった。一門はもちろん、家老・寺社方までみな和解をと申し上げたが、ついに和解にいたらなかった。 江戸に上った義光は、この状態について家康に相談した。家康は、「修理大夫は総領であろうとも、親の言い付けに背くは親不孝、国の乱れのもとともなろう。可愛い子供でも、国には替えられまい。帰国のうえ生害させるが良かろう。とはいっても、それは親が自分で考えるべきこと」と、示唆したという。 「仰せの趣、恐れ入ります。帰国次第切腹いたさせます」と申し上げたところ、 「そうしたなら、子供のうちでは、誰に家督を譲られる存念かな」と尋ねられた。 義光は謹んで「誰と申すまでもございませぬ。次男ですから、駿河守に家督を仰せ付けますなら、有り難く存じ奉ります」と申し上げた。家康公も、駿河守は十三歳のときからお側に召し置かれ、たいそう贔屓にしておられたので、お喜びなされ、「なるほど、駿河守は穏やかで才もある者。その方から家督を譲られでも差し支えない器量である。まことに義光は武勇のみならず、子供の目利きさえしっかりしておる」と甚だ機嫌がよかった。 ここで駿河守とは義光の次男、家親(いえちか)のことで、1582年(天正10年)生、1594年(文禄3年)から徳川家康の近侍として仕え13歳で元服する。1595年(文禄4年)からは家康の3男・秀忠の家臣として仕えた。初めは父より一字を与えられて義親と名乗っていたが、家康の名から一字をもらい受けて家親と改名、後に駿河守家親となった。 さて、義光公は翌年春に帰国、修理大夫殿へ使いをだし、「このたび、父子の仲が絶えたことが上聞に達し、家康公からお言葉があった。『一門不和なるは、他方より侮られるものである。たとえ義康によからざるところありとて、老体ゆえに耐え忍び、仲直り申すよう』と直々の上意であった。黙止することできず、お請け申し上げてきたところだ。であるから、直接会って語り合い、日頃胸にたまっていた不満を解消したいと思う。急ぎ登城されよ」と仰せられた。 修理大夫はもちろん異存なく、すぐさま御使者と連れ立って父君のおられる御殿へ出かけた。ところが対面もされず、「まず高野山へ入るように」との指示があった。出家して先祖の菩提を弔えと命じられた義康は、わずか十数名の家来とともに、まことに物哀れなる様子で山形を立ち去る。 1603年(慶長8年)8月16日、義康一行が月山を越え庄内櫛引の一里塚にさしかかったとき、松林の中から突如激しい銃激を浴びた。襲ったのは、戸井(土肥)半左衛門の一味だった。義康は下腹部を二つ弾に射抜かれて落馬した。家来たちも必死に戦ったが全員討ち死にした。 ここで悩ましいのは義光が、家康には「帰国次第切腹いたさせます。」と応えつつ、義康には「老体ゆえに耐え忍び、仲直り申すよう」と家康から言われたとしていて、これを謀略とみるか、高野山に逃がすことが真意だったのか、やはり謎ではあります。 この事件については、当館ホームページ「最上家をめぐる人々♯11」(片桐繁雄著)では次のような推察があります。 義光は、この事件の顛末をいたく悲しみ、山形の義光山常念寺を菩提寺とさだめて寺領百石を寄進、鶴岡の常念寺をも義康を弔う寺として、寺領138石を寄進した。義康暗殺が、果たして父親の意思によるものかどうか。最上家所蔵の「分限帳」には戸井半左衛門の名に「成敗」と添え書きがあるところから見ると、主君義光の意思に反した故に「成敗」されたのかもしれない。義康の死については、切腹と伝えるものがあり、また死に場所や年月日も異説がある。 ■ 長男毒殺事件の話 政宗毒殺未遂事件というのも有名な話ではありますが、最上義光の妹であり伊達政宗の母である義姫が政宗を食事に招き毒を盛ったという事件でして、「貞山公治家記録」によると1590年(天正18年)4月5日に起きました。 事件の前年、伊達政宗は会津地方を平定したが、惣無事令に反して領土拡大を続けた政宗の行動は豊臣秀吉の怒りを買った。最上義光は義姫に、政宗を殺して、小次郎を当主にすれば許されるだろうと助言。しかし、その魂胆は、政宗が死んだあと、小次郎をも殺害し、自分が伊達領を横取りしようというものであった。 義姫は小次郎を溺愛していたため、義光の言葉を鵜呑みにして政宗を食事に招き、毒を盛った。しかし政宗は腹痛を起こし嘔吐したものの、解毒剤を飲んだため、大事には至らなかった。 小次郎に家督を継がせるための母の犯行と知った政宗はたいそう怒って、4月7日に小次郎を手討ちにした。しかし、義姫については、実の母を殺すことはできないと、同日、山形の兄、最上義光のもとに出奔させた。 当時、伊達家の家臣は政宗派と小次郎派に分裂していた。この状況を打開するために政宗は、母に毒を盛られたと一芝居打ち、表向きは小次郎を手討ちにしたことにして、実は大悲願寺に匿ってもらった、という説が有力視されています。義姫と小次郎も伊達家を守るために、一枚かんでいたとも。大悲願寺の十五代住職秀雄が小次郎本人である可能性が高いという説が有力視されています。 さて、豊臣秀吉の小田原攻めが本格的に開始されたのは同年の3月29日です。政宗は3月25日に黒川城に重臣を集めて評定を行い、秀吉に味方することを決めます。そして翌日には秀吉に向けて使者を出し、出陣を4月6日と定めていました。 政宗は、留守の間に弟の小次郎が謀反を起こすことを警戒していたのですが、毒殺未遂により小次郎はなきものとなりました。4月15日に出立しますが、北条氏の領土を通れず帰還。政宗の家臣の中には秀吉に降ることに納得しないものも多かったのですが、ようやく5月9日に再出立。越後の上杉領を通過し6月5日に小田原に到着。小田原城の開城が7月5日なのでギリギリでした。当然、秀吉は立腹。切腹を命じられても仕方がない状況でしたが、政宗と義姫は遅れた理由とするため、この毒殺未遂事件を自作自演したとも考えられています。 当館の「歴史館だより��30」で佐藤憲一さん(伊達政宗研究家/元仙台市博物館館長)からの寄稿につぎのような説明があります。 何故このような事件を捏造したのだろうか。これを解く手掛かりとなる資料がある。事件直後に政宗が側近の鬼庭(もにわ/後に茂庭)石見守綱元に宛てた書状である。全文は「貞山公治家記録 付録」に収録さえている。その中で弟殺害の理由を将来内乱が起こることを未然に防ぐため、と述べている。つまり弟擁立の芽を摘んで伊達家の一本化を図るためであった。 しかし、弟を殺しては小田原で政宗に万が一のこと(豊臣秀吉の命による切腹、打首など)があった場合、伊達家の血統が途絶えかねないおそれがあった。当時政宗には実子がなく、長男の秀宗(後の宇和島藩主)が誕生するのは事件の翌年、天正十九年(1591年)のことである。血統を絶やしかねないたった一人の弟殺害は考え難い。 ということで、一芝居をうってわが子を殺すことなく寺に逃がした、という説のとおりとすれば、義姫にせよ、その兄の最上義光にせよ、「戦国一のワル」兄妹ではなく「戦国一の役者」兄妹と称されてもいいのでは。とにかく最小限の犠牲で、内部組織の統制と対外的な面目を保つことができたわけでして。これも歴史ロマンなのかしらん。 ■ お駒の話 もうひとつ、馬つながりということで「お駒」と名付けられた最上義光の娘「駒姫」の話も。この駒姫の悲劇というのは、義光にまつわる話では最も有名ではありますが、「最上記」では駒姫のことを全く触れておらず、駒姫の死を語る初見史料は、伊達氏の重臣である伊達成実の「成実記」であるとのことが、当館のホームぺージ「駒姫の死について」(著:胡偉権/歴史家)にあります。 通説では、1590年(天正十八年)の大崎葛西一揆に際して、豊臣秀次は駒姫の美しさを知り、山形に立ち寄り、義光に対して駒姫を強要した。義光は固辞したが、秀次の執拗な要請に負けて、可愛がる娘を渋々と差し出した、となっています。 しかし「成実記」によれば、秀次は家康とともに九戸一揆を鎮圧するため奥羽に下向。家康は岩出山に、秀次は山形に立ち寄った。その後、秀次事件に駒姫が巻き込まれたきっかけは、「義光の娘は奥州一揆の時、秀次が最上に御在陣の時、(義光から)献上された」ことにあったと。それが18世紀初頭に成立した「奥羽永慶軍記」でようやく、秀次が駒姫の美しさに魅了され執拗に強要する、という通説での内容が見られるそうです。義光が自ら娘を献上したのか、秀次が強要したのか、ああ、これも歴史ロマンかと。 義光と秀次との交流については、天正十九年と推定される五月三日付の書状によれば、義光は京都から尾張を経て山形に帰る際、秀次に厚意を受け、その後、山形に着いた義光は、山形の到着を報じると共に、秀吉と秀次に馬をそれぞれ献上したいと伝えています。胡偉権さんは、義光は秀次に急接近し、それを通じて秀吉との関係を緊密化する思惑は容易に読み取れる、と述べています。駒姫の死にともない最上家と豊臣政権のパイプは葬り去れたが、最愛の娘の横死を悔みながらも、新しいパイプ役を差し出すことも忘れてはならない。そこで嫡男の義康の登場が見られる。義康は慶長年間、秀頼の近習となったが、駒姫の死の直後に、豊臣政権に召し出され、人質とされた。最上家の安泰のために、義光は知恵を絞り、豊臣政権と必死に結び付こうとしていたが、その結果は悲惨だった。関ヶ原の戦いに義光は家康に絶対的な忠誠を誓った裏目には、豊臣政権への「恨みが深かった」からかもしれない、とも指摘しています。 義康を豊臣側に、家親を徳川側にと、言わば戦国時代のセオリーどおりに御家存続を図ったわけですが、これが家臣においてデリケートな問題に。しかも後を継いだ次男家親は36歳で急逝。その後継ぎとなる家信はまだ12歳で、やはり一族重臣の間でごたごたが起きてしまいます。これは歴史ロマンではなくて、歴史の悪戯とでも言うべきことかと。 さて、駒姫という名の由来ですが、陸奥国、大崎氏の娘は、栗駒山の麓を通って出羽国の最上義光に嫁ぎました。嫁ぐときに見た残雪を頂いた美しい山「御駒山(おこまやま)」に因んで、義光は愛娘に「お駒」という名を付けたとされます。 「奥羽永慶軍記」には、「駒姫が生まれた日、伊達政宗と最上義光が和歌の贈答を行った。義光の妻は、政宗からの和歌に因み「千年(ちとせ)」と名付けたいと言った。しかし義光は、安倍貞任の娘「千年」は、父母を滅ぼした悪い名前だと採らず、出羽の名山「御駒山」に因んで「お駒」と名付けたという」とあるそうです。その御駒山は、「国立花山青少年自然の家」(宮城県栗原市)から登ることができます。 |
|
■ 「午」の話
丙午(ひのえうま)にまつわる話は、いろいろ聞き及んでいられることとは思いますか、「ひのえ」に「うま」が重なることで、「情熱的」で「行動力あり」といった意味合いとなり、戦国武将にとっては、この上ない干支ではないかと思われます。ところでここで素朴な疑問をいくつか。 まず、十干十二支というのは60年で一回りとなっていますが、組み合わせを計算すると10×12=120通りとなるのではないかと。確かに、総当たりの組み合わせは120通りなのですが、十干の「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」と十二支の「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」を順に組み合わせていくと、あら不思議、61年目には元の「甲子」に戻り、そこから同じものが繰り返しとなります。逆に登場しない組み合わせも60通りあります。丁寧に組み合わせれば確認できるのですが、理屈としては10と12との公倍数が60のためということ。久々に目にしました「公倍数」。 もうひとつの疑問が「午」という字でして、「馬」と何が違うのか。「馬」はそのままの象形文字だということは見てのとおりですが、「午」とはもちをつく時に使う「きね」の象形とのことです。両人が交互に餅をつくことから、陰陽の交差する十二支の第七位の「うま」にあてられたとのことです。時刻で言えば「正午」であり、それより前が「午前」、それより後が「午後」です。のちに「午」が十二支を表す文字として定着したことから、十二支の「午」と「きね」を表す「午」の区別を明確にするため、「杵」という文字が作られたとのこと。ところがネット上では、「午」というのは「牛」に似ているため、という思い付きのような説明があったりして、要注意です。 さらにもうひとつ、「午」の部首は何かという問題です。ちなみに「牛」の部首は「牛」、「馬」の部首は「馬」ですので、「午」の部首はやはり「午」となりそうですが、正解は「十」。ところがネット上では「午」が部首とする説明もあり、要注意その2です。他に「十」を部首に持つ字としては廿、升、千、卅、卒、卓、南、博、半、卍など。廿(にじゅう)も千(せん)も十(じゅう)の仲間ということになるようです。また「午」は方位としては「南」を表しますが、この部首が同じというのは偶然でしょう。 ついでに、これも有名なのですが、「卍」の画数と書き順というのもよくわからないわけで。画数は6画なのですが、書き順はというと、特に2と3画目が難問かもしれません、ヒントは「十」の書き順かでしょうか。書初めなどでもめったに書かない字ですし、左右反転したりすると国によっては罰せられますし、マジ卍(←すでに死語らしいです)。 ■ 馬の格言の話 「馬」に係わる表現などは結構ありまして、まずは「馬が合う」という言い回しがありますが、相手と性格や考え方が合うことで、元々は、馬と乗り手の息がぴったり合う様子からきています。これが発展すると「人馬一体」となるのでしょうか。でも最近では、「馬が合わない」という言葉のほうをよく聞く感じですが。 そんな場合「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」という格言はいかがでしょう。AIさんによる解説では、「表面的な情報や先入観にとらわれず、自らの体験を通じて真実を見極めることの重要性を説いています。本来の用途として、結婚相手を紹介する際などに「結婚してみないと分からないでしょう」と、縁談を勧める文脈で使われました。注意点としては、結婚式などおめでたい席では良いですが、「とにかくやってみよう」と安易に使うと、結果が良くなかった場合に「だから言ったのに」と皮肉に聞こえることもあるので、使う場面には注意が必要です。」とのことです。これを皮肉にも使えるとは知りませんでした。 とにかく馬が関係する格言というのは、自分だけの想いや都合では成り立たないということに使われるようです。自分の都合どころか、その幸不幸すら予測できないとすることわざに「人間万事塞翁が馬」というのがあります。皆様ご存じかとは思いますが、その故事を忘れてしまっている方もいらっしゃるかと思いますので、ここでもAIさんによる説明を。 「中国の国境の砦に住む老人の馬が逃げたが、老人は気にせず、「良い馬を連れて帰ってくるかもしれない」と言う。数ヶ月後、逃げた馬が胡(異民族)の馬を連れて帰ってきたが、老人は「災いになるかもしれない」と言う。その息子がその馬から落ちて足を骨折したが、老人は「幸運かもしれない」と言う。その後、戦争が起こり多くの若者が戦死したが、息子は足が悪いおかげで戦場に行かずに済んだ」という話です。「目の前の出来事に囚われず、長い視点で物事を捉え、冷静に対応することの重要性を示唆しています。この言葉は、人生の浮き沈みを乗り越えるための、普遍的な知恵として、今も多くの人に大切にされています。」とのことです。山形の人でこれを「人間万事塞翁が左馬」と言っいた人がいましたが、なんかポジティブなのか、真意は謎のままであります。 さらに馬がらみの中国の格言に「先ず隗より始めよ」というのがあります。この故事も一度はきいたことがあるとは思いますが、ちょっと思い出してみましょう。 郭隗は王に対し、ある昔話をします。「千金で、千里走る名馬を買ってきてくれと国王が家臣たちに買いに行かせたところ、ある家臣が名馬が見つけました。しかし、その馬は既に死んおり、家臣はその馬の首を500金で買って帰りました。すると君主は、生きている名馬を買ってこいと言ったのに、死んだ馬を大金はたいて買ってくるとはと激怒しました。するとその家臣は「名馬の死体ですら大金で買ったのですから、生きている名馬ならどれほどの高値か。その話が広まれば探しに行かなくても名馬があちらから来ますよ」と。そうするとしばらくしないうちに名馬が3頭ももたらされたということです。それに続く話が「今、王必ず士を致さんと欲せば、先ず隗より始めよ。況んや隗より賢なる者、豈に千里を遠しとせんや」というものです。 さらに中国の故事に「無事之名馬」というのがあります。歳をとってくると、健康上の理由などからこの「無事」の有難さがわかってきます。一方、公務員を長くやっていると多かれ少なかれこうした構えになってくるのですが、逆に「太く短く」という公務員はちょっと魅力的かもしれませんが、なんかヤバい感じもします。 中国故事で個人的に好きな格言は「ひょうたんから駒」でして、もともとは駒でなくロバなのですが、SF的というかカプセル怪獣のような話で、通常は思いがけないいい話のたとえとして使われる格言です。 その他、有名な格言には「馬子にも衣装」とか「生き馬の目を抜く」とか、映画「ゴッドファーザー」に「ベッドに馬の首」というのもあったなぁと、余計な話ですが。 個人的には「ほいど(乞食)が馬を買う」というのが座右の銘となっています。身分不相応なものを手に入れてもてあます例えですが、私の場合、身分不相応というより不要不急のものを買ってしまうことへの自戒の言葉としています。それでもいつの間にか不要不急のもので溢れてしまっているのですが。さらに期せずして私の座右の銘というか日常習慣となってしまっているのが「馬耳東風」とか「馬の耳に念仏」とかでして。家人からは「無駄遣いなどせず、もっと貯金しろ」とか、医者からは「食事に気を付け、適度な運動を」とか言われ続け、わかっちゃいるのですが全く実行できていないということで「馬耳東風」状態になっています。 ■ 「桂馬」の話 将棋の駒に「桂馬」がありますが、考えてみるとなかなか特殊な動きをする駒で、真っ直ぐに進まないし、目の前の駒を飛び越えます。馬の特性というのはそういうものなのかと。チェスの「ナイト」も同じ動きでこちらは後にも動かせますが、実は将棋もチェスも古代インド(6世紀頃)で生まれたボードゲーム「チャトランガ」が起源とのことで、偶然の一致ではないようです。 では「桂馬」の「桂」とは何かというと、シナモンに似た香料の肉桂(にっけい)の木の皮のことです。ちなみに「香車」の「香」は、白檀などの高級香木のことで、平安時代に貴重品だった香料に由来しているとのこと。将棋の駒には王(玉)、金、銀とともに貴重品を表す言葉がつけられていますが、チェスの駒は主に階級を表す言葉であるのとは対照的です。 さて、蘭奢待(らんじゃたい)と称される貴重な香木があります。正倉院が保管する香木(正式名称「黄熟香」)で、足利義政や織田信長などが天皇の許しを得てその一部を切り取り、権威の象徴としたほど貴重な品です。蘭奢待の香りの元は樹脂なのですが、2024年度に宮内庁正倉院事務所でその成分分析がなされ、香りが再現されました。その様子は昨年、テレビの特集番組でも紹介され、上野の森美術館でその香りがする匂い袋が販売されました。それを入手した当館関係者Uさんが当館に持参してきました。職員皆で嗅がせていただいたのですが、それはシトラス系でもフローラル系でもなく、白檀のような甘い香りに肉桂のようなスパイシィな香りが混ざるような、つまりは桂馬と香車とを足したような香りでした。 ここでふと思ったのですが、将棋の駒に「蘭奢待」という駒があれば面白いのではないと。あるいは桂馬や香車が金に成るかわりに「蘭奢待」になるのはどうかと。「蘭奢待」という以上、その動きは、足利義政や織田信長すらも意のままにならないぐらいであるわけで、例えば、単に金に成るだけでなく、好きな所に跳べる、つまり「ワープ」ができる、まあ、金の持ち駒のような、まあ、勝手な思い付きですが。 桂馬に関することわざや格言には、その特徴的な動きから面白いものがあり、「桂馬の高跳び歩の餌食」(調子に乗って高く跳びすぎると、低い歩兵に取られてしまう)とか、「桂馬は控えて打て」(桂馬は他の駒と異なり、手詰まりになりやすいため、すぐに攻めずに手持ちにしておけ)というものがありました。駒が後退できればまた、違う格言になっていたかも。将棋については全くもって素人なのですが、初心者にとってこの「桂馬」や「香車」はどう使っていいのかわからないとも言われ、それでも持ち駒にあれば相手をかく乱するのに有効で、特に終盤で大駒(角・飛車)などと組み合わせれば手強いものとなるそうです。 ■ 馬肉の話 山形でも馬肉を名物としてあつかう所があります。それは「山形新幹線」の終着駅がある新庄市と「フラワー長井線」の中央にある長井市です。特に「フラワー長井線」は路線も沿線の駅舎もなかなかに味わい深いものがあり、山形の鉄道としてはイチオシなのですが、それはまた別の機会にでも。 新庄市が位置する最上地方は、古くから馬の産地でした。農家では農耕馬の飼育が行われ、雪の多い地域での農業や運搬に欠かせないものでした。年老いて農耕馬としての役目を終えた馬を食肉として利用したとされていますが、その起源は江戸時代、飢饉で疲弊した領民を励ますために藩主が馬肉食を奨励したことにあるそうです。すじ肉を煮込んだ「ガッキ」と呼ばれる郷土料理が名物です。かつて地元では、馬肉は馬鍋などで食されていましたが、現在はもっぱら馬刺しが有名です。しかしながら以前、新庄駅近辺で昼に馬刺しが食べられる店を探したのですが、これがほとんどなく、言わば山形駅近辺で昼に芋煮が食べられる店を探すに等しい感じではあります。 一方、長井市を含む置賜地方は平安時代末から馬の産地として知られ、軍馬・農耕馬・荷馬が育成されていました。特に江戸時代、最上川の舟運で栄えて物資運搬に多くの荷馬が利用され、また、年貢も馬で納めていたこともあり、やがて「ハレの日」のご馳走として親しまれるようになったとのことです。 ご当地グルメとしては「馬肉ラーメン」というのがあります。チャーシューとして馬肉が使われるのですが、その馬肉はまったくクセがなく、特に馬肉と表示されることなく馬肉がのってくる店もあるそうです。そういえば米沢市に「米沢牛ラーメン」というのを出す店があり、これは薄切りのバラ肉がのってくるのですが、たっぷりのサシが入った肉ゆえに、その牛脂とスープの油脂がミスマッチで、個人的にはおススメできない一品ではあります。 山形市には「ゲソ天ラーメン」というのがあるのですが、ゲソ天をよほどカラっと揚げてないと、油分のせいでまずくなります。ところがスープをそばつゆにするとこれはいけます。つまりは天ぷらそばの麺をラーメンに替えるようなものなので、これはありとなるわけです。天童市の某店発祥の「鳥中華」がまさしくそばつゆにラーメンなのですが、これに「ゲソ天」が合うのもこんなわけで。 ■ 60年前の話 60年前の丙午の年である1966年は、「いざなぎ景気」が本格化し、ビートルズが来日公演、中国では文化大革命が始まります。ジェミニで宇宙遊泳が行われ、ミニスカートが流行します。ベトナム戦争が泥沼化し、ウォルト・ディズニーが死去。日本でロケした映画「007は二度死ぬ」が公開され、「ウルトラQ」が放送開始しました。疾走感あふれるというか、イデオロギーとファッションとカウンターカルチャーが交差したサイケデリック時代の幕開けの年ではあります。 ただ風俗的には、サイケデリックというよりゴーゴーの時代だったような。実はサイケとゴーゴーは交わるようで交わらないものなのですが、当時の日本では、ゴーゴーガールとサイケファッションとが同居している感じで、それに、暗い所なのにサングラスをかけているアングラ的なものも根強かったような気もします。 ところでこのゴーゴーというのはどんな発祥だったのか、気になって調べてみました。 まず、ウイスキー・ア・ゴーゴー(Whisky a Go Go)という店がカリフォルニアにありまして、元々銀行であった建物を1964年にディスコにして、バンド演奏の合間にはミニスカートをはいた女性DJが、ステージ右側に吊り下げられた檻でレコードを回したのだそうです。ここでレコーディングしたアルバム「ライブ・アット・ザ・ウィスキー」がヒットし、1966年にはミラクルズが「ゴーイング・トゥー・ア・ゴーゴー」を発表しました。 一方、ニューヨークにはカフェ・オー・ゴー・ゴー(Cafe au Go Go)という店がありました。フォーク、ブルース、ロックなどのミュージシャンが集まるライブハウスです。「ニュー・アンディ・ウォーホル・ギャリック・シアター」の地下とのことで、あのウォーホルが自身の実験映画の多くを初公開した、その映画館の地下にあったわけです。ちなみに1964年8月と10月にここでライヴ録音した「ゲッツ・ア・ゴー・ゴー」(スタン・ゲッツとアストラッド・ジルベルト)というボサノバの名盤があります。私の愛聴盤でもありまして、思い出したついでにLPを引っ張り出して聴いてみたのですが、やっぱりいいです。サックスとボーカルが前面にでてくる録音で、お客さんもなんか上品な雰囲気でして。 いやいや、ここで何が言いたかったかというと、そもそもゴーゴーの発祥はどこかということだったのですが、ここでAIさんに尋ねてみたところ、「ゴーゴーダンスの発祥はウィスキー・ア・ゴーゴー。」であり、「ゴーゴーミュージックには、1960年代にアメリカで流行した激しいダンスミュージックと、1980年代半ばにワシントンD.C.で生まれたファンキーなブラックミュージックのジャンルの2つの意味があり、文脈によって指すものが異なるため、どちらの「ゴーゴーミュージック」を指しているか注意が必要です。」とのこと。 まず、1960年代のゴーゴーは「ロックやソウルミュージックに合わせて踊る、動きの激しいダンス全般(ツイスト、モンキーなど)を指します。フランス語の「à gogo(好きなだけ、非常に活発な)」に由来すると言われています。」ということで納得しました。ウイスキーやカフェの「ア・ゴーゴー」って、そういうことだったのですね。 一方、ワシントンD.C.生まれのゴーゴーは「チャック・ブラウンらが1970年代に創造したもの」というAIさんの別見解もあり、まあそれは、ゴーゴー(Go-Go)を市の公式リズム(Official Rhythm)に制定したワシントンD.C.さんに委ねるとして、とりあえずゴーゴーはファンクへとつながるようです。 一方、サイケデリックは時代の音楽に大きく影響していまして、そもそもサイケデリックとはドラッグによる幻覚で現れるようなものですが、LSDの強い影響化のもと制作されたというビートルズのアルバム「リボルバー」がリリースされたのが1966年で、いわゆるリバプール・サウンドがサイケデリック・サウンドになっていくわけです。その翌年以降は、ドアーズ、ジェファーソン・エアプレイン、ピンク・フロイド、ジミ・ヘンドリックスと続くわけでして、特にジミ・ヘンドリックスはドラッグをやりながらギターを弾き、アルコールと睡眠薬の大量摂取で1970年に27歳で亡くなりました。やがてサイケはトランスへと。 その、ファンクとトランスはやはり交わるようで交わらないわけで、AIさんによるとそれは主に「グルーヴvs.ドライブ」とか「アナログvs.デジタル」の違いとのことです。とは言え、山形のクラブでは、それらは同居しているようで、いや、踊れるような店には昭和の時代に行ったきりで、今世紀に行ったことはありませんが。 とにかく、ファンクやサイケ、ましてビートルズについて、私のような素人が語ってもろくなことにはならないので。「ソウル・トレイン」とか「ウゴウゴルーガ」とかのDVDを見るくらいがせいぜいで、もっとも1966年と全くの時代が違う番組なのですが。 ■ 馬印ブランドの話 その1 バブルと円高を経験している世代で馬といえば誰しもが思い浮かべるべきブランドがあります。それはエルメスとフェラーリですが、それをお前ごときに語られたくないと言われてしまうことは重々承知の上で少々お話を。 山形のような所でもフェラーリのオーナーという方はいまして、その代表格と言えば奥山清行さんというインダストリアルデザイナーです。イタリアのデザイン会社ピニンファリーナでチーフデザイナーに就任しフェラーリ・エンツォをデザインし、後に独立して「こまち」などの新幹線やクルーズ列車「四季島」のデザインも手掛けています。フェラーリ・エンツォは、F40、F50に続く限定生産車であったため「F60」と予想されていましたが、フェラーリの創始者エンツォの名を冠する車名となりました。 さて、そのフェラーリのエンブレムには通称「跳ね馬」(カヴァリーノ・ランパンテ=気負い馬)が描かれており、これはイタリア陸軍航空隊の撃墜王であったフランチェスコ・バラッカ少佐の戦闘機に描かれていたマーク(第2騎兵連隊ピエモンテの部隊章に由来するバラッカ少佐の個人マーク)からとられたものです。バラッカ少佐の両親からレーシングドライバーだったエンツォ・フェラーリに贈られたのだそうです。 ちなみに馬のマークで有名なメーカーがもう一社あります。シュトゥットガルトに本社を置く「ポルシェ」ですが、この市の紋章に小さな変更を加え、企業ロゴとして用いているそうです。つまりは、一方はイタリアの軍馬でこれは牡馬、もう一方は、ドイツの「シュトゥート・ガルテン=牝馬の園」なので牝馬、と例えるサイトがありました。ウーム、そうかと。 ブオブオという低音を響かせて走る山形ナンバーのフェラーリやポルシェをたまに見かけたことがありますが、もちろんそのオーナー様などの知り合いがいるわけもなく。ただ実際に、一般道路でフェラーリ・エンツォを見て驚くのはその横幅(2,035mm)でして、これで山形の山道を疾走するには相当な技術がいるんだろうなぁとか、余計な心配をしたりします。 ■ 馬印ブランドの話 その2 続いてエルメスの話でも。これも私が語れるようなブランドではないのですが、円高の時代は、多少頑張ればネクタイやらスカーフやらを買えたりもできたわけでして。バブル時代のパリのエルメスはどこも日本人ばかりで、とにかくパリで買うのが品揃えもあり一番安いということで。ただ、買ったものをそのまま持って地下鉄に乗ったりするのは危ないというので、店の軒先で、持参した大きなバッグに詰め替えて人を見かけましたが、店の紙袋などのパッケージもまた大切で、それらも損じないようにとさらに一苦労ありまして。特に当時の日本では、中身と同じくらい包みが大事で、ネクタイなんかも箱入りでして、お土産としてもかさばることこの上ないと言いますか。 バブル崩壊後、それでもまだ円高だった時代に、凱旋門近くの店に立ち寄ったことがあったのですが、あまり客もいなく、こじんまりとして入りやすい感じでしたが、最近は、特に本店などは入店することすら大変とのこと。とにかく入店希望が多く、事前予約も難しく、品物によっては抽選となるといいます。そんなときの裏技として、とりあえず小物を買ってその際、店員さんに本命の品について聞くという手があるそうで、また、ギャラリー・ラファイエット(百貨店)などでは、予約なしで購入できたりもするとのこと。ただ、本店で買うことに意味があることもあるわけで、同じ物でもパリの本店と空港の免税店で買うのとでは、その品物の物語が違ってくるというか。特に物が貧弱なほど物語が必要というか、逆に圧倒的な物であれば中古でもいいわけで。このあたりは博物館の展示品にも似たようなことがありますが。 さて、お店に入るとしかるべき場所にディスプレイしてあるのが馬具でして、軽自動車が買えるような値段の鞍とか、本当にこれを乗馬で使うのかと思うような乗馬ブーツとかが飾ってあり、なんか買えそうな金額のものを探すと、鞭が5万円程でありますが、ただ、買えたとしても使いようもなく、乗馬そのものが縁遠い者にとってはスルーせざるを得ない一角なのですが、ご承知のとおりこの馬具こそエルメスの原点であります。 エルメスは高級馬具工房として1837年に創業。創業当初は馬車が主要交通手段でしたが、自動車の時代を予見し、馬具を入れるバッグなどを開発。これが後のバーキンやケリーバッグの原型となり、皮革製品ブランドへと進化したとのことです。 エルメスのロゴは、御者が馬と馬車を引いているもので、馬車には乗客がいません。これには「最高の品質の馬車(製品)は提供するが、それを使うのは顧客自身である」という哲学が込められており、あえて主人が描かれていないのが特徴で「主役はあくまでユーザー(持ち主)である」というメッセージが隠されているとのこと。 このロゴがそのまま刻印されているスカーフリングがありまして、エルメスの製品としてはかなりお手頃な値段なのですが、これを使えばエルメス以外のスカーフでも、もしかしたらエルメスに見えるかもしれないというアイテムです。スカーフリングには、さらにすごい裏技があるようです。様々なデザインの品があるのですが、これを指にはめるリングとして使うというのです。かなりの存在感で男性でも入るサイズではあると言うのですが、ただ、そこまでしてはめるものなのかと。 実はエルメスには暗黙のルールというのがあるそうで、ブランドの価値を大切に保ち「本当にその製品を大切にしてくれる人に届けたい」として存在しているそうです。普段の購入実績や、スタッフとの信頼関係、転売しない姿勢などが重視されます。入店の際の服装や店舗スタッフへの礼儀や丁寧なコミュニケーション、ブランドへのリスペクトが求められるとのこと。 一方、最近は「エルパト」というのもあるそうでして、これは、エルメスの製品、特にバーキンやケリーなどの入手困難なアイテムを、正規店をパトロール(巡回)して手に入れる活動のことです。これらは欲しい時にすぐ買えるものではなく、運やタイミング、そして店舗スタッフとの信頼関係構築が重要視されるため、多くのファンが何度も店舗に通い、購入のチャンスを伺っているそうです、 やはり最後は信頼関係の構築にあるようですが、すみません、1万円以下のバッグしか持てない私のようなものが意見するような話ではありませんでした。 |
|
■ 「連歌新式」の話
連歌にはその約束事を定めた「連歌式目」というのがありますが、最上義光はさらに独自の連歌解説書として「連歌新式」というものを遺しています。様々な語句の説明もあり、中には雪に関わる語句もいくつかあります。「月の雪」、「花の雪」、「波の雪」など、その季節は順に「秋」、「春」、「冬」と異なりますが、具体的にみてみましょう。 「月の雪」とは、GoogleAIさんによると「月影(月の光)が地面に降り積もった雪のように白く見える様子を指す。季語としては秋。」とのことです。「連歌新式」には、「月の雪 夏の詞入りてハ 不可為降物 秋の詞入りてもふり物にもなし 付合にも雪を月にとりなすハ夏秋の詞入りて付る也 是習也 夏秋ハ雪ふらぬ故也 只月と雪とハかりハ冬なり」と記されています。要約すると「月の雪とは、夏や秋の言葉があれば降る雪ではない。付合(つけあい:前句に対して、続く句(付句)を合わせる技法)でも、雪を月影とするためには夏や秋の言葉が入る。これが普通。夏や秋に雪は降らないので。単に月と雪だけなら冬である。」とのことです。 次に「花の雪」とは、「白く咲く花、また、散る花を雪に見立てていう語」(小学館デジタル大辞泉)とあり、季語としては春です。これが「連歌新式」には「花の雪 似物也 雪に面也」とだけあります。「雪に顔を打たれるに似た(ほど降りしきる)もの」とでも解釈すればいいのでしょうか。 そして「波の雪」ですが、Google AIさんによると「冬の海岸で砕け散る荒波の白い泡が、雪のように舞ったり積もったりしている様子を指す」とのこと。「連歌新式」には「波の雪 冬也 波に雪のふりかゝりたるを云也 両方ニ嫌也」とあるのですが、「両方ニ嫌也」とは一体なんのことなのか。単に「どっちも不快だ」とか「どっちも避けたい」とか言っているだけなのか、それとも別の意味なのか、謎です。 当館発行の資料集「最上義光注 里村紹把加筆 連歌新式」には、他にも「花の雲」とか「心の月」など、500項目近くの語句や説明が記されています。定価1,000円で販売中です。残部僅少につきお求めはお早めに。 ■ ウインタースポーツの話 その1 さてさて、「山形市の冬の三大フォトスポット」と言いますと、恐らく蔵王、山寺、郷土資料館(旧済生館)あたりでしょうか。もちろんそれ以外でも絵になる場所は多いのですが、観光を兼ねての場所となるとこのあたりかと。ここで意外に知られていないのが、山寺の全景が撮れる場所で、それはズバリ「山寺芭蕉記念館」です。特に冬はお客さんも少ないとのことで穴場ではあります。 また、たまに聞かれるのが、雪国出身者なのでウインタースポーツは得意かということですが、雪遊びはしてもスポーツとなるとまた別でして。 かつて通っていた小学校は、山形城三の丸の内側にあるのですが、校庭の裏手に築山がありスキー遊びができました。山形城址・霞城公園でもスキーをしたり、といってもほとんど歩いてばかりのスキーでして。一方、スキー用具一式、つまり板や靴を、小学生の体力で持ち運びするというのが地獄で。自宅に持ち帰るときなど、道の途中で捨て置きしたい衝動にかられ、また、スキーを履いて帰ればいくらか楽かもと、途中でスキーを履いて帰った記憶もあります。雪中の学校で運動らしきものと言えば、雪合戦とか雪上サッカーとか。雪深い学校などではクロスカントリースキーをやっているようですが、体力に自信のない子にとっては、多分これもつらいだけかと。とにかく小学校でのスキーというと、つらいことの方が多い感じではあります。 山形城跡・霞城公園は、50年程前は大手門などもなく石垣の一部が残っている程度で、体育館や博物館の他、野球場やプールもありましたが、あとはただただ空き地のような場所でした。城の土塁も未整備な所が多く、雪が積もれば橇などで滑り降りたりするのですが、当時はスノーボートとかプラスチックのミニスキーなどがまだ目新しく、橇がわりのビニール袋や竹スキーという小学校近くの駄菓子屋などで売っている竹を割って先を曲げただけのもので遊んだりしました。どちらもスノーボートなんかよりも持ち運びが手軽でよかったのです。 そんなわけでウインタースポーツよりも身近なのは、雪だるま作りとかかまくら作りとかの、どちらかというと観光寄りの経験の方が多いわけで、それが、アイスバーのある2階建ての雪旅籠とか200基の雪灯篭と1,000個の雪洞が並ぶ祭とか、ラーメンの出前が届くかまくらとか、そっち方向に活かされるのではあります。 ■ ウインタースポーツの話 その2 山形のウインタースポーツの環境となるとお寒い状況でして、やはりウインタースポーツだけに。いやいや冗談でなく、実際そうでして。蔵王スキー場はレジャースキーの場としてはいいのですが、競技スキー施設としてはノーマルヒルのジャンプ台があるくらいで、スノーボードはほぼ全てで滑走可能ではありますが、ハーフパイプなどの専用コースなどはありません。クロスカントリーのコースは隣接するスキー場にはありますが、基本的にレジャースキーだけです。 なので蔵王は「競技スキー」系は少ないのですが、一方で「基礎スキー」系の方は多いようです。スキーに馴染みのない方は「基礎スキー」と言っても、ピンとこないかもしれませんが、日本独自のもので五輪競技にはなく、タイムは関係なくスキーの「うまさ」のようなものを競うものです。級別の検定制度(バッジテスト)があり、そのトップクラスでは、通称「デモ選」といわれる大会があります。スキー学校の講師は検定で一定レベル以上を条件としているようです。 以前の職場では、スキー指導員の有資格者が結構いまして、特に建設関係の部署では、ほぼ各課に1名以上はいるような状況で、そこに在籍していた時にいろいろ教えていただきました。お座敷スキーというものもあり、いわゆる畳の上の水泳のようなものですが、泊りがけのスキーの時などで飲みながら教えてもらうことも。検定をめざす若い職員も多く、シーズン前には新モデルの話とか、シーズン中は昨日のゲレンデコンデションの話とかをあいさつがわりとしているような状況でした。ただ、今の若い人は、スキーよりスノーボードでしょうし、情報交換はSNS利用ということで、スキーの話などはなくなっているようですが。 一方、競技スキーとなるとなにかと負担がかさむようです。練習場の確保や移動などにそれなりの資金が必要で、高校にもスキー部はあったのですが、活動の場が校外なので何をしているのか全くわからず、まして大学のスキー部というのはきっと活動資金の確保がまず大事で、オフシーズンは授業もそこそこにアルバイト、オンシーズンは授業も出ずにゲレンデ住み込みで練習、そして合宿やら遠征やら。機材もできるだけ最新のもの、という具合ではないかと。社会人でも、資金はなんとかなっても、冬は仕事を休まなければならず、家業がスキー場近くで民宿を経営しているとか冬場の作業がない農家だとか、それなりの環境でないと難しいわけです。今回のオリンピックで金メダルをとった木村葵来さんも、岡山の自宅から練習場の京都まで片道3時間、父が送迎してくれたそうで、インタビューでは、板を履ける環境につれていってくれることに感謝の言葉を述べていました。別の選手は、練習環境を求め、家族とともにノルウェーに移住したとか。本人の覚悟とともに家族の覚悟も必要です。 とにかく、スキーというのはそれなりに余裕のある人のスポーツだなぁと思ったのが、軽井沢のスキー場に行ったときのことです。ちょっとでも雪が降りだすと、たちまちゲレンデから人がいなくなり、レストハウスでのコーヒーブレイクとなります。多少の吹雪でも元を取るぞとガツガツ滑っていた私にとって、それは衝撃的なことでして、ただ一人、リフトに乗るような感じで、貸し切り状態で滑れました。 ■ ウインタースポーツの話 その3 あとスケートの話でも。山形のスケート環境はかなり乏しく、山形市近隣には市営の屋外リンクが1つあるのみで、フィギュアとかホッケーとかカーリングをやりたい場合は仙台に行くしかなくなります。 よってスケート人口は限られていて、学校の部活も現在はスピードスケートのみです。その屋外リンクも施設状態は恵まれたものではなく、それでも、オリンピック出場選手を何名も輩出させた山形中央高校のスケート部監督であった椿先生は比類なき名伯楽であります。私事ですが、かつて山形のスケート連盟に関係していたことがあり、椿先生がまだ現役選手であった頃から存じていたのですが、こんなスケート不毛の地に、わざわざ東京から山形に転居し、あれだけの成果をよくぞと、ただただ頭が下がるばかりです。 自分が小学校のときは、まだ屋外リンクはなく、山形市内には屋内リンクが2箇所ありました。別にスケート教室などに通うわけでもなく、日曜になると朝から晩までだらだらとリンクの上で遊んでいて、昼にカレーとかうどんとか食べて帰るのを楽しみにする程度でしたが、何かの拍子に基礎スケートの指導員やらスピードスケート審判員やらの資格をとり、競技経験もないままスケート連盟に関係していったのですが、やはり競技スケートの世界はなにかと大変です。 子供相手にスケートを教えていたことがありましたが、競技スケートは正直、そう簡単に勧められるものではありません。特にフィギュアの場合、かかる費用やかかる時間が半端ないのです。特に山形の場合、練習できるリンクまでの送迎だけでも一苦労となります。中には、子どものスケートに付き合う時間を確保するために、転職して自営業をはじめたという事例も目の当たりにしました。全国大会とかに出場したい、などと思えば、まずは練習リンクの確保とその往来という問題からはじまり、通常のリンクでは一般営業時間外となります。音楽に合わせての練習となると、やはり貸し切りとなり、その利用料金も大変でして、仙台にある専用リンクは24時間利用できますが、貸し切りで1時間あたり約2万円です。 とある雑誌に出ていた記事なのですが、トップ選手の場合、だいたい年間500万円くらい必要だとか。記憶がちょっとあいまいなのですが、コーチに200万円、1曲の振付に100万円、リンク代が100万円、遠征費や機材が100万円といった具合とのこと。トップクラスとなれば、ある程度の強化補助金があるとは思いますが、自己負担はやはりこれくらいになるかと。アメリカなどでは複数のリンクが近接している場所があり、そこにはコーチも何人かいて、わざわざ渡米するのもこのためで、逆にフィギュアの出場国が少ないのも、まずは設備環境の問題があるためです。 ただ趣味程度であっても、特に最初のうちは教わるほうが間違いありません。これはスキーも同じでして、まずは靴の履き方と最低15分程度のストレッチ。次に床面で歩いてみてから氷上へ。ここで歩くことに慣れたら転び方とストップのしかたを練習します。ここまでなんとも滑るという動作に入れていませんが、まあ、スキーも同じです。そして上達への第一歩はマイシューズを入手することです。スケート靴は、本格的な競技用でなければ意外に安く、ママチャリぐらいの値段で買えます。 あとは、ひとつひとつ技術的なことを習得することになるのですが、スケートは理屈で覚えることが少なくなく、理論武装ができたら、あとはひたすら滑ることで、ちょっと人に教えられるくらいにはなります。逆に、左右とか内外とかいう言葉がわからない幼児などに対しては、どうしようもないわけで。 さてここで自分の話ですが、体重が増えすぎて人に教えるどころではなく、スケートは体の重量バランスがよくないためターンなどでの体軸が定まらず、また、スキーも体の荷重に大腿部が耐えられず、何回かターンをするとエッジが流れてしまうということで、いずれも怪我のもとなので、まずは体重を落とさなければ。 先日、冬物のスーツがきつくなっていて、多少くたびれてもいたため、量販店にでも買いに行くかと思ったのですが、珍しいことに家人が「今後、スーツなんか買うこともないから、ひとつぐらいちゃんとしたのを買ったら。いつも体型に合ってないし。」と言ってきたので、久しぶりにイージーオーダーで新調することに。採寸すると店員さんに「お客様、多少立派になられていて、割増料金になります。」と言われてしまいました。やはり不経済な体型になっていたようで、こればかりは立派になってもいいことなどありません。 ■ 五輪冬季大会の話 第25回オリンピック冬季競技大会がミラノ・コルティナで開催されています。ミラノのドゥオーモ前あたりからも生中継したりしていますが、やはりあの大聖堂は圧巻でして、以前、ミラノであれを前にしたとき、キリストを信じろ、と言われたらやはり信じるちゃうなぁ、と思うほどでした。 あと、ナントカ2世ガレリア(説明が雑ですみません)の牛のモザイク画の上で、かかとをくるくる回すと「幸福になれる」とか「再びミラノに来れる」とか言われていますが、「幸福になれる」かどうかは気持ちの問題ですが、「再びミラノに来れる」は多分、本当です。自分も再訪してました。そもそも日本からのイタリア直行便というのは、かつてはミラノ空港発着が一般的でした。今はローマ便(レオナルド・ダ・ヴィンチ空港?!)が主要路線となっていますが、そんな事情で日本からの場合は、ミラノを再訪することは多いかと。じゃ、他の国の人はどうなのかというと、それはわからないのですが。 さて、イタリアでは、20年前にトリノ五輪というのが開催されていまして、そこで記憶に残るのはプッチーニ作曲の歌劇「トゥーランドット」のアリア「誰も寝てはならぬ」でしょうか。 当時、早朝から開会式の生中継を見ていましたが、なんとなく気持ちばかりが先走ったような開会式で、特にフェラーリがエンジン音全開でタイヤを空転させる演出には、正直、違和感がありました。実はトリノはフィアットの創業地であり、当時フェラーリの親会社がフィアットという関係にあったようです。それはさておき、最終聖火ランナーに続いてルチアーノ・パヴァロッティさんが生涯最後の公の舞台として登場し、「誰も寝てはならぬ」を歌い始めたのですが、その途中で朝のニュースの時間となり中断、その続きは観ることができず、再放送もなく、この怒りをどうぶつけていいのやら、と思った記憶があります。 当時、「トゥーランドット」はクラッシックファン以外にはなじみがなく、舞台も大がかりで上演が限られていましたが、この「誰も寝てはならぬ」だけは、テノールのアリア集によく入っていました。かく言う私も、専用劇場で観たオペラというのは同じプッチーニ作曲の「蝶々夫人」だけでして、浅利慶太さん演出の舞台をわざわざミラノのスカラ座で観るという、貴重と言えば貴重な体験でありますが。 トゥーランドットについての知識も、「誰も寝てはならぬ」のあとに、トゥーランドットに仕える大臣たちピン、ポン、パンによる歌がある、ぐらいしかなかったわけで。ちなみにあのTV番組「ピンポンパン」はここからとられているそうです。さらに追加情報ですが、「トゥーランドット」の初演は1926年4月25日、アルトゥーロ・トスカニーニの指揮でミラノ・スカラ座にてですが、なんと今年(2026年)は初演100周年です。 さて、パヴァロッティさんの熱唱は、途中で中継が打ち切られてしまったものの、その後、荒川静香さんがこの曲とイナバウアーとの組み合わせで金メダルをとったことは、皆様ご承知のとおりです。まさかイナバウアーで金メダルをとるとは。曲がピタリとはまったことも大きいのですが、開会式にパヴァロッティさんが歌った曲ということもあったかと。 今回の開会式でもこの「誰も寝てはならぬ」を、アンドレア・ボチェッリさんが歌っていました。しかも朝のニュースが始まる時間の前にはちゃんと歌い終え、まずはひと安心というところでした。このボチェッリさんはパヴァロッティさんが見出した人でして、彼の有名な曲に「君と旅立とう」(Con Te Partiro)というのがあります。後にこれは「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」という英語の曲にしてサラ・ブライトマンさんと共演、大ヒットしました。ちなみに今回、坂本花織さんの団体ショートで使った曲が「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」でして、やはり狙っていたのでしょうか。3回転アクセルなしでもメダルがとれるという、マジックのような曲で。もっともジャンプの回転数だけを争うよりはいい傾向とは思います。 そして、鍵山優真さんのフリーで使われたのも「誰も寝てはならぬ」でしたが、この個人決勝がまたマジックのような展開でした。また、おっ、と思ったのがショートの曲でして。ピアノアレンジだったので、最初はよくわからなかったのですが、途中、あっ、スティーヴィー・ワンダーの「I Wish」だと。歌入りの楽曲が10年くらい前から使用可能になったのですが、あえてインストで、しかもジャズ風。あの角野隼斗さんによるものとのことで、けっこう攻めていますね。 では、この「I Wish」の歌詞の内容はどんなものかと、手元にあったアルバム「Key of life」(なんとLP2枚+EP1枚組!!)の、今ではありえない立派な歌詞カードをみてみると、一言で言えば、「あの日に帰りたい」的な内容で、日本語タイトルの「回想」のとおりというか、演技内容には無関係のようです。「I Wish」はちょうど50年前の曲でして、ファンクなノリで当時、大ヒットしています。今回のようなファンクジャズ系でのアレンジも今後、流行るかも。ちなみに同じアルバムに「If Its Magic」という曲があるのですが、これはなんかスケートにおける「誰も寝てはならぬ」のアンサーソングのような感じです。どうでしょう。すばらしい曲です、一度ご試聴を。 また今回、気になったのは、金メダルのミハイル・シャイドロフさんのショート「砂の惑星デューン」でして、演出を含めデューン界隈(?)では大変な話題になっているようですが、アンビエント系というのもまた新しいかと。ただ、どちらにしても演技構成は難しい感じがします。あと「火の鳥」もありましたね。ゆくゆくは「春の祭典」でも。 さて、20年前の開会式ではクラッシックの名曲などが次々と流れていたのですが、開会式を中継していたアナウンサーは知ってか知らずか、曲の題名すら語らず、オヤオヤとは思っていたのですが、トゥーランドットのこのアリアについても説明がありませんでした。恐らくスポーツ中心で準備していたためとは思いますが、開会式だけは開催国の文化に明るいスタッフで対応すべきではと思っていたところ、今回はヤマザキマリさんがゲスト。さすがとの評判だったのですが、原稿そのままのような控えめな解説もあり、アレアレと思っていたら最後に「今回はしゃべりすぎないよう我慢しました。」と語っていて、ああ、どうりでと納得しました。この我慢していた分はSNSで補っているようです。いっそのこと、こういうものの生中継は、音声サブチャンネルでも用意して、増田明美さんレベルの情報量をもつ人に語ってもらってはと。例えば、「誰も寝てはならぬ」と歌ったボチェッリさんの睡眠時間はどのくらいとか。いや、失礼しました。 |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum





日本刀の理想は「折れず、曲がらず、よく切れる」こととよく言われます。日本刀は、心鉄(しんがね:やわらかい鉄)を皮鉄(かわがね:かたい鉄)で包むことで「折れず、曲がらず」を実現しています。また「よく切れる」ためには、とりあえず研げば切れるのですが、研ぎすぎると刀身が細くなり、しまいには地金がでてきます。「地金がでる」という言葉は、隠していた本性や癖が現れることをいいますが、もともとは日本刀からでた言葉です。ちなみに「なまくら刀」という言葉がありますが、これは焼きが甘いものを指します。これは「硬度が出ておらず、腰も弱くて、切れ味に欠ける」という「折れず、曲がらず、よく切れる」の全てを満たさない刀のことです。
博物館などで新たに刀剣を収蔵する場合は、まずはこの「研ぎ」の心配をしなければなりません。別に切れる状態にしたいわけではなく、主に錆落としのためです。赤錆などをしっかり落としつつ、一方では刀が痩せないよう最小限の研ぎとしなければなりません。一見状態が良さそうでも、白い曇りのような錆がある場合も少なくなく、地鉄の美しさを出すためにも、当然、専門の研師(とぎし)に研ぎに出すこととなるのですが、大変なのがその「研ぎ代」の予算化でして、変な比較にはなりますが、包丁の研ぎと比べると金額は2ケタ程度違います。
さて、「折れず、曲がらず」とは、材料力学的にはせん断耐力(強さ)と靭性能(粘り)と言い方になるのですが、鋼材の力学特性的には、弾性域から塑性域を経て破断点に至ります。つまりボョーンというものがグニャリとなってプチっといくわけです。このボョーンというのは弾性域つまり曲がっても元に戻る状態のことで、これが元に戻らなくなる状態つまり塑性域に入るところを「降伏点」と言い、降伏点に至るような力の状態を「降伏条件」と言っています。「刀折れ矢尽きる」と言う言葉がありますが、力学的には曲がった刀が元に戻らなくなれば降伏となります。ただこの降伏条件にはいろいろな組み合わせがあるわけで、まして日本刀のように複雑な組成や形状であると、恐らく実際に実物を用いて実験しないことにはわかりません。
さらに形状や素材的なことを申しますと、「折れず」とは「曲げ強度」のことで、「断面二次モーメント」を「中心軸から最外縁までの距離」で割ったもの(=「断面係数」といいます)で表されます。また、「曲がらず」とは「曲げ剛性」のことで、「断面二次モーメント」に「ヤング率」を掛けたもので表されます。補足説明をしますと、「断面二次モーメント」とは断面の形状の違いによる変形のしにくさのことで素材は関係ありません。一方、「ヤング率」とは力に対するひずみの量のことで素材によって異なります。以上については、実は工学系では必修でして、基礎式も意外にシンプルなのですが、いざ適用しようとするとなかなかに面倒なものではあります。
特に日本刀の場合は、部分により断面形状や組成も変り、しかもどの位置にどんな方向から力が加わるかという初期条件もいろいろ想定できるため、どうなると折れたり曲がったりしまうかは、やはり試してみないとわからないかと。まあ、こういう場合は、モデル化というやり方で整理し、シミュレーションするわけではありますが。
そもそも、こんな小難しいこと以前に、日本刀で注目されるのは「反り」とか「波紋」だったりするわけで、少なくても「断面二次モーメント」とか「ヤング率」とかを気にする人はいないわけです。そんなことより、どんな構えで、相手のどこをどう斬るといったところから、反りや長さ、刀身の幅や厚さを造り込んでいくことになります。これが江戸中期ともなると二本差しで邪魔にならない形状というのが求められたわけで、もはや切れるかとか強度や剛性とかは二の次で刀の形が決まっていきます。
ところで、日本刀には鎬(しのぎ)という刀身の側面で筋状に小高くなっている部分がありますが、この鎬により、刀の強度を保ちながら刃を薄く切れやすい形にすることができます。この鎬は「断面係数」に関係する部分でして、特に横方向からの強度に影響します。「鎬を削る」という言い方がありますが、刃と刃をぶつけ合うと刃こぼれしてしまうので、鎬や棟(むね:刃と反対側の部分)で受けたりしますが、刀の構造上、平地や棟に大きな衝撃を受けると折れる確率が高まります。
ちなみに日本刀の棟(峰:みねとも言います)の部分を使って相手を斬らずに殴打する技法に「峰打ち」というのがありますが、これは打つ瞬間に刃先を返す、すると反りが逆になり、我が身には刃が向く、というかなり高度で危険な技でして、しかも刀を曲げてしまう可能性も少なくなく、実際にはほとんど用いられなかったとのことです。ただ殴打するだけなら、刀を鞘ごと帯から抜き取ってその鞘で打つそうです。
なんか力が抜ける感じですが、そもそも峰打ちは、終戦後、GHQが映画やテレビでの殺人シーンを許可しなかったため、決闘シーンで殺人が起きないようにするために考え出されたもの、と「刀剣ワールド」の説明にありました。赤羽刀のみならず、こんなところにも日本刀にGHQが影響していたたようです。
■ 日本刀の機能的な謎について
鎬の機能は先に紹介したとおりですが、機能的によくわからないのが「樋(ひ)」という刀身に彫られる長い溝です。樋には「血流し」という俗称があるそうで、敵を斬ったときに血が樋の中を流れていく様子から名付けられたとも言われます。ただし、樋の役割を記した史料が見つかっておらず、定説となっているのは「刀身の強度を低下させずに刀身を軽くするため」、「見栄えを良くするため」、「風切り音を出やすくするため」の3つとのことです。ちなみに風切り音については、実際に刀を振ってその音を収録した動画がネットにあります。
さて、今回当館で展示している刀には、この樋がない刀が幾つかあり、ひとつは月山刀、あとは水心子とその弟子が打った刀で、偶然にいずれも山形に関係する刀ではあります。それらになぜ樋がないのかは知る由もありませんが、ひの打ち所がなかったからかもしれず、いや、ただの駄洒落でした、すみません。結果論的には、「血流し」や「見栄え」や「風切り音」は無用ということで。ちなみに水心子のものは、刀身が厚めで同じ長さの刀と比べると重量があり、つまりは「軽量化」も無用のようです。
また短刀を2振展示しているのですが、ひとつは一筋の立派な樋が彫られ、いかにも血が流れるような感じにはなっていますが、もうひとつは細い模様のような線が2本平行して刻まれ、しかも刀身の半分までしかなく、これは明らかに装飾と思われます。また、短刀であれば、少なくても「軽量化」とか「風切り音」は無用かと思われます。
↑2本の樋が刻まれた短刀
↑ 磨上げられた茎に残る樋と目釘穴
ついでに、「磨上げ」についても少々。磨上げとは使い勝手を良くするため太刀を短くしたものですが、それは切っ先を詰めるのではなく、茎(なかご) つまり刀身の 柄 (つか)に被われる部分を詰めていくのですが、当然、刃と茎の堺(区(まち))も動くので、新たに茎となった部分に樋の跡が残っている場合もよくあります。
茎には銘が刻んであり、これは刀の評価のひとつとはなるのですが、磨上げによって銘が途中で切れているものを「銘切れ」、もとの茎が全て切り詰められたものを「大磨上げ」と言います。また、柄を茎に固定するための目釘を通すための穴(目釘穴)も磨上げにより新たな位置に開けられ、複数の目釘穴やそれを塞いだ跡があるものもあります。逆にこうした磨上げや補修が加えられていないものは「生ぶ(うぶ)」と呼び、収集家などからは珍重されます。
ここで思い出したのが、以前の職場に車好きの若い職員がいて、中古車をいろいろイジっては、また別の車に乗り換えるということをしていたのですが、「この前、車を売ろうとしたんだけど、いろいろと金をかけていい車に仕上げているのに、なかなか高く買ってくれないんだよなぁ〜。」と、ぼやいていました。
いや、これはその、カーオーディオとかタイヤホイール程度ならわかりますが、サスペンションやマフラー、ましてエンジンまでイジっちゃった車は、それはいくら金をかけたものであっても、いや金をかけるほど、普通の人は遠慮するのではないかとは思うのですが。
似たような話として、武具や甲冑などに価値をあげるため後で勝手に家紋なんかを入れたものがあり、こうなると博物館での歴史資料としての評価はぐっと下がるというか、おいそれとは展示できないものになってしまいます。それでも所蔵せざるを得ない場合がありまして。
■ 右利きルールの話
太刀と刀との区別ですが、実は刀より短い太刀とか、その逆のパターンもあって、長さだけでは決められないことではあります。時代的には室町初期までは太刀が、それより後は刀が主力とはなりますが、江戸時代でも太刀は奉納や献上などのために作られます。なので、時代だけでも区別はできません。
博物館などで刀剣を展示する場合は、茎が左側になるよう展示します。その際、銘が刻んである側を向けるのですが、刃が下を向けば「太刀」、上を向けば「刀」としています。太刀は腰に佩(は)き(吊るし)ますが、そのとき刃は下に向いています。一方、刀は腰に差しますが、そのとき刃は上を向いています。つまり、その向きで展示してあるのです。この違いは騎馬戦と徒歩戦の違いによるもので、それは刀を振りかざして向かっていくのと、すぐに抜いて斬ってかかるという違いによるものです。ちなみに、太刀を磨上げした場合、銘が完全になくなったものは刀に分類されます。
太刀と刀との区別については、実は刀装具すなわち拵(こしらえ)があればすぐに区別できます。ただ、刀身だけで流通している場合が多いので、こんな悩みになってしまいます。
また、茎を左側に展示するのは、右利きの場合は刀は左腰に差すので、刀が見える側つまり身体の左側をみせるようにすると、柄はつまり茎は左側になるということです。左利きの場合は右腰に刀を差す方がよいのかもしれませんが、左腰に刀を差すとか、左側通行などの右利きルールというのは江戸幕府に定められた作法であり、武士としては左利きは隠しておかなければいけない悪癖とされていたそうです。
また、背中に太刀を背負う(かつぐ)方法もあり、自分の左肩に刀柄がくるように斜めに背負うのが正しいかつぎ方なのだそうで、ここでも右利きルールなのです。もともとは大太刀など長すぎて腰に佩けないものに用いられたそうです。鉄砲と一緒にしてかついだりすることもあるそうです。なんか刀をかついでいるのは忍者とかのイメージがありますが、確か「仮面の忍者赤影」とか。ただ、赤影の場合、右利きなのに右肩に刀柄がきています。これは、忍者刀の刀身は短い(通常の日本刀は70cmほどですが、忍者刀は40cmほど)ので可能となるようです。ただ、刃は上向きなので、刀を抜き差しするときは、後頭部をかすめていくので大変危険とのこと。
ちなみに、某アマゾンでは「刀剣ホルダー 剣帯2本背中用」という商品が売られていました。2本の刀をクロス掛けにして背負うためのものです。演劇用コスプレ道具とはありましたが、右に差すか左に差すか悩ましい方はこれでいかがでしょうか。
■ 水心子正秀の話
当館の今回の展示には、新々刀の祖水心子正秀の刀もありますので少々そのお話も。(以下、水心子正秀については、主に「市報なんよう」および「刀剣ワールド」を参照しています。)
慶長年間につくられた新刀は、身幅が広く、刀身は厚く、南北朝時代の太刀を短くしたような作りでした。江戸時代に入り武士は大小二本差が義務付けられたため、刀剣は腰に差して歩くのに適した長さで、反りの浅いものとなりました。
江戸中期ともなると天下泰平の世を反映して刀工の数が減少し、作刀が衰退しはじめました。一方、鞘は黒蝋色塗が正式でしたが、朱塗りや蒔絵などの変り塗鞘が発達し、鍔も色金や彫金鍔などが数多くつくられ、多くの名工を輩出しました。出掛ける先々に合せて拵(こしらえ)つまり鞘や柄や鍔などの刀装具を付け替えることなどもされていました。もはや刀剣は武器ではなく装飾品としての機能が求められていて、これを粋とみるか見栄とみるか、まあ、いろいろではあります。
そのような時代、水心子正秀(1750〜1825)は南陽市元中山に生まれました。幼名は三治郎。父を早くに失い、血縁の鈴木権治郎家や赤湯北町の外山家に身を寄せました。赤湯北町で野鍛冶をし、刀鍛冶をめざし、1771年に22歳で武蔵国八王子の宮川吉英に入門。宮川吉英は実戦本位の日本刀を作刀することで知られていました。
出羽国に帰国し1774年(安永3年)に、山形城主秋元但馬守永朝(あきもとつねとも)に刀工として召し抱えられます。ちなみにこの秋元家、最上家の次に長い78年間も山形を治めた武家です。特に永朝は、武器・武具の職人を保護し、山形城の修復なども行いました。
水心子正秀は1781年(天明元年)に出府し、日本橋江戸浜町屋敷秋元家鍛冶所で鍛錬に精進します。一方、刀鍛冶名人の子孫をたずねて学びました。1789年(寛政元年)名人正宗の子孫である山村綱広に入門、系図と秘伝書を授けられました。華美で反りの少ない日本刀に対して物足りなさを感じていた水心子正秀は、独自の刀剣理論である「刀剣復古論」を提唱します。後に「新々刀」と呼ばれる、反りが深く、実用本位の日本刀作りに邁進するとともに、「刀剣実用論」や「刀剣武用論」などの著作を刊行し、多くの門下生を育てました。つまりはマニュアルにまとめ、オープン化を推進したわけで、ここが新しい時代を築いたといわれる由縁でもあります。
水心子正秀が育った山形県南陽市赤湯にある、桜の名所ともなっている烏帽子山八幡宮には、水心子正秀の顕彰碑があり、その付近には「水心子正秀」と染め抜かれたのぼり旗が何十本も刺してあります。ここの八幡宮では、所蔵する水心子正秀の脇差の写真入りの御朱印(1000円)も売られています。通常の御朱印は500円でしたが、それにしてもかつて御朱印というものは300円が相場でしたが、ここ数年でどこでも500円になってしまいました。絵馬もかつては500円程度だったのですが、今は1,000円が相場のようで、なんか米価格並みの引き上げ幅となっています。人件費を含め諸物価値上がりの中、仕方のないこととはいえ、願掛けにもコスト意識が必要になってきていて。これで1,000円以上のリターンが見込めるだろうかとか。とにかく、絵馬の政府備蓄とかあるわけでもなく、まして「絵馬は500円で出せる」とか言う担当大臣がいるわけもないのではありますが。
↑そこかしこに立てられている「水心子正秀」のぼり旗