最上義光歴史館

〇 アイヌ語由来の地名の話 
 真室川町も鮭川村も、実は明治の大合併(明治22年)以後に現れた町村名です。合併時にそこを流れる川の名称をそのまま町村名としたようです。そこで川の名称の由来ですが、鮭が遡上してくる川を「鮭川」と言うのはわかりやすいのですが、「真室川」となると見当がつきません。一説では付近の「神室(カムロ)山」がなまって「マムロ」になったとにことですが、カ行がマ行になるというのはどうかと。
 もうひとつはアイヌ語源説です。特に東北の場合、由来がわからず当て字のような地名は、アイヌ語に因ってみよと。困った時のアイヌ語源説ということで、ちなみに「マムロ」というのはマ(泳ぐ→船着き場)とムロ(村)からなりたつとの説を見つけました。しかし、少々調べたのですが、ムロ(村)というアイヌ語は見当たらず、単語を見比べているうち、別の説が浮かびました。あくまでも素人考えなのですが、モム(流れる)という語とオロ(所)という語で、モムオロ(流れる所)ではないかと。ただ、川沿いの場所を「流れる所」と言うには、「鮭川」以上にそのままなので、どうしたものかなぁ、という感じではありますが。
 ついでにもうひとつ。鮭川が流れ込む最上川ですが、「最上川舟歌」という民謡業界では有名な民謡があります。その冒頭は「ヨーイサノマガショ エンヤコラマカセ」と、作業歌としてごく当たり前の掛け声で始まるのですが、続く「エーエンヤーエー、ヤーエー、エーエンヤーエー、 エード」という部分(なんか区切り方がおかしいのですが)が、イスラエルの神聖なる神の名前「ヤーエー」が繰り返し連呼されているという「最上川舟歌=ヘブライ語説」がネットで流されています。「私と神、我が神、永久の神」という意味なのだとか。
 ちなみにこの曲のカラオケは、結構な難易度です。このヘブライ語と言われる囃子詞(はやしことば)の後の歌い出し部分が、尺八だけとの絡みとなって、どう音をとっていいのかわからないのです。音が合せられないという点では、クィーンの「ウィ・ウィル・ロックユー」のカラオケに通じるものがあります。もちろん個人的な感想ですが。
 実は「最上川舟唄」には、日本語以外にも英語版、韓国語版、中国語版の他、フランス語版があり、最上川船下りの「最上峡芭蕉ライン観光」の船内では、海外のお客さんなどからのリクエストにあわせ披露しているそうです。
 フランス語版を作った時は、船頭全員が毎朝の発声練習の際に、フランス語で舟唄を歌っていたそうで、例えば歌詞中の「股(まっかん)大根の塩汁(しょっつる)煮」は、「ルポトフ、サレ、ドゥ、ラディ、デフォルメ」となっているそうです。そうか、二股大根はドゥ・ラディ・デフォルメと言うのかと。さて、パリ・オリンピックにお出かけされている皆様、現地でなにか一節という機会がありましたら、このフランス語版「最上川舟唄」でもいかがかしらん。それにしても、あの雨の中の開会式、本当にトレビアンだったけど、長かったですなぁ。

〇 鮭図の話
 東京芸大美術館にある高橋由一の「鮭」は明治10年頃に作成されたもので、30年に芸大が買い入れ、所蔵したものです。山形美術館が所蔵する「鮭」は、昭和39年に秋田県湯沢市で発見され、由一が滞在していた山形県北村山郡楯岡町(現・村山市)の旅館「伊勢屋」の帳場に掲げられていたことから「伊勢屋の鮭」と呼ばれていました。笠間日動美術館が所蔵する「鮭」は、ヤンマーディーゼル創業者が所有しているとされるも幻となっていたものが、平成12年に日動美術財団へ寄贈されたものです。
 製作年もこの順とみられているのですが、ちょっとミステリアス(?)なことに、年を経るごとに、鮭の身が削がれています。もし今後、新たな「鮭」が発見されることがあれば、裏側の身もなくなり骨が露わになっているかもしれません。なお、神奈川県立博物館には、頭ではなく尾から吊り下がる「鮭」図があります。
 また、「鮭」の類型作品として、山形県酒田市の画家で写真師である池田亀太郎が描いた「川鱒図」というのがあります。これも3点の絵が残されていて、うち2点は酒田市美術館に収蔵されています。高橋由一は明治17年10月5日から14日までの間、酒田に滞在しました。この時、亀太郎は22歳。由一は「絵描きになりたいなら、先ず写真術を習いなさい」と助言したそうです。
 亀太郎は東京に出て、写真術とクリーニングの技術を習得しました。洋画を学ぶために写真術を習得したのですが、それが本業となり、酒田港付近で池田写真館を開業しました。亀太郎は、撮影した写真を駆使して、主に酒田の名士の肖像画を描いたそうで、写真を商売敵とせず、むしろ相乗効果というか、うまく使いこなしていたようです。

〇 写実主義と印象派の話
 芸美の「鮭図」が描かれたのは1877年前後ですが、あのモネの「印象・日の出」は1873年に作成されています。日本では油彩による写実に傾倒している時に、かの地ではすでに印象派が勃興していたわけです。
 もともと武士であった高橋由一は、剣術修行のかたわら、狩野派の絵師に学んでおり、後に「蕃書調所」という江戸幕府によって設立された、西洋の書籍を解読し海外事情を調査する組織で学びました。その画学部門では西洋の文物を記録する人材が求められ、蒸気機関や近代的建築、武器などを分析し、戦争時には陣地、地形などをリアルにスケッチし製図していたとのこと。絵の得意な若者を集め西洋の遠近法に基づいた描写法などを学ばせたそうです。殖産興業のための近代化技術の一つとして、西洋絵画が学ばれていたのでした。
 一方、印象派は、フランスの王立絵画彫刻アカデミーが当時求めていた新古典主義的な技法やテーマ、出身や経歴というものに対抗したものです。印象派はまた、写実主義やバルビゾン派の延長でもあるのですが、由一の写実と決定的に違うのは、一瞬の色彩を描いていることです。時間の移り変り変りとともに色彩も変化するということを表現したわけです。モネに言わせると「すべては千変万化する、石でさえも」ということで、一方、由一は「画ハ物形ヲ写スノミナラズ併セテ物意ヲ写得スルガ故ニ、人ヲシテ感動セシメルニ足ル」と書き残していて、さて、ここで言う「物意」とは何か、という問題にはなりますが、これが「印象」と真逆のものなのか、はたまた同根のものなのか、難しいところです。
 ではなぜ「印象」と称するのか。「印象・日の出」という画題からきているのは間違いないのですが、最初の印象、見たままの新鮮さを大切にして描こうとしたのがこの印象派です。一瞬の間にあれこれの詳細まで見ることはできない。詳細を覚知するためには、経験や想像などが必要となり、脳が追いついたころには、最初の印象は消えてしまう。細部を丁寧に描写するよりも、色彩や光の印象をそのまま伝えようとしたのです。その瞬時性こそが印象派のキモなのです。
 そしてこの時代、画家は写真にも影響されました。写実派の画家は当時の写真技術では写しきれないものを描画し、印象派の画家は写真と競合しない表現を求めました。例えば当時、写真はモノクロのみで、色の表現ができませんでした。高橋由一は「油絵は写真に勝る」と言い切り、よりリアルな絵を描き、印象派の画家たちはこれまでにない色彩豊かな絵を描きました。まとめると印象派の画家たちは、アカデミーの伝統に対抗し、同時に写真にも対抗しながら、感性による絵を描こうとしたのです。
 写真界にもその後、「写実性」を追求する写真家と「瞬時性」を尊重する写真家が現れます。そうです、土門拳(1909〜1990)とアンリ・カルティエ=ブレッソン(1908〜2004)です。まさしく同時代の写真家で、土門拳―は山形県酒田の出身、ブレッソンはフランスの写真家です。正確には「絶対非演出の絶対スナップ」と「決定的瞬間」との日仏対決ということですが、ブレッソンの「決定的瞬間」について土門は、「本質を写し取ったものではない」と批判的に論じています。しかし「決定的瞬間」はまた「絶対非演出」でもあるわけで、すると「本質」とはなにかという「そもそも論」になってしまいます。先ほどの「物意」とは何かというのも同じです。
 そこで「そもそも」ですが、写真の場合は「写実性」も「瞬時性」も両方備えているわけで、つまりは写すまでは両方ともアリという、量子力学の重ね合わせの原理のような話になってしまうのではないかと。ついでに、返す刀で言及すれば、「写実性」と「瞬時性」、つまり「微細な観察」と「瞬間の印象」のどちらが「物意」を捉えることができるかというと、そうです、やはり量子力学で言う「位置」と「速度」の関係ではないかと。「位置」が決まれば「速度」が決まらず、「速度」が決まれば「位置」が決まらない、というあれです。まあ、わかるような、わからないような例え話ではありますが。
 とにかくその、「写実性」と「瞬時性」の論争というのは、同じリングの戦いではあっても猪木とアリの戦いというか(昭和の話ですみません)、いやその、ブレッソンにも土門にもそら恐ろしいくらいの論客がいて、モネにも高橋由一にも想像を絶するような論が交わされている中、にわか仕込みの私見を述べたかったわけではなく、ただ、パリ・オリンピックということで、「山形とフランス」つながりの話がしたかっただけです。まして、量子力学に首をつっこみたかったわけでもありません。

〇 写実技法の話
 さてさて、絵画の技法書の中で印象深いのが、松本キミ子著「三原色の絵の具箱」(ほるぷ出版)という3冊組の本です。絵が描けない子どもに接する中で考案した指導法で、三原色と白だけで色を作り、描きはじめの一点を決め、その部分からとなり、となりへと描きすすめていくものです。構図を決めてから輪郭を描き、色を塗るという描き方と、まったく逆で、画用紙が余れば切り、足りなければ貼り足して、最後に構図を決めます。例題も「もやし」とか「イカ」とか、かなり意表をつきます。
 実は三原色で色をつくろうとしても濁った色ばかりになり、下描きをせず、直接、絵の具で描くというのもかなり勇気がいるのですが、ここで注目すべきは、絵の大きさに画用紙を合わせていくということ。初心者が戸惑うのは、画用紙の大きさに絵を納めることなのだそうです。確かに画用紙の大きさに合せようとして、対象物のバランスがおかしくなったりします。例えば「はいだ画伯」こと、はいだしょうこさん。多分、これに悩んでいたのではないかと。いや、もしかして、枠などは全く意識していないのかもしれませんが。その画力というか破壊力は、皆が認めるところです。もし画伯の絵が出品されるのなら、個人的に購入を希望します。
 また、写実画であれば、実物大に描くことも有効です。写実の基本でもあるのではないかと。例えば鮭図は、実寸大に合せた縦長の140.0×46.5cm。モネにも「ラ・ジャポネーズ」という、ほぼ実物大で描いている人物画があります。モネの妻カミーユが日本の着物を着た姿を描いたもので、231.5x142cmの中に全身が描かれています。特に着物の柄などは、原寸大で描けば間違いないかと。
 さて、絵の評価というと、印象派以前では、「絵なのに実物のようだ」というのがその評価、少なくても写実画への評価でしたが、今や、そこに費やした時間や手間に驚嘆し、表現の仕方に感嘆するものとなっているわけで、絵がどれだけリアルかというのとは別の評価がなされている感じです。現代においては、単に立体を平面に写し取るだけであるなら、描画技術のみに頼る必要はなく、リアルを追求するのであれば、それはすなわち、どれだけ「描かれた絵」でなくなるかを求めることにもなり・・・おっ、なんか小面倒くさい美術評論のようになってしまっているぞ。
 とにかく、高橋由一の目指す写実は徹底していて、その絵にはサインも制作年もなく、それはすなわち、画面のサインなどは本物らしさを減殺してしまうからだそうです。写実画の究極型はやはり「描かれた絵」でなくすることのようですが、なんか絵画の存在価値と矛盾しているような。ちなみに、スーパーリアリズムで有名な上田薫さんの作品のサインは、ダイモテープに似せたもので、作品が世に知られた当時、かなりオシャレな表現でした。あのダイモテープには、一種の憧れ感すらあるのですが、これってやっぱり昭和の感覚なんですかね。
〇 狩野派四代の話
 狩野元信(1477?-1559)については、実は2017年にサントリー美術館六本木開館10周年記念展として大規模な展覧会が開催されており、以下、主にその図録からの受け売りなのですが、とにかくこの人のビジネスセンスというのがすごいのです。
 狩野派というのは、足利将軍家の御用絵師となった狩野正信(1434-1530)を始祖とし、親子血縁関係で代々続く絵師の集団で、幕府の仕事を受けてきた人たちです。この「家系で画業を継いでいく」ということと「幕府の仕事中心」ということが、同時代の琳派と異なる点です。
 狩野家始祖の正信は「筆様制作」という、中国の名家の絵画から図様を借用し組み合わせるなどの方法で描いていました。正信は馬遠、夏蛙、牧谿、玉潤などの中国画を模倣し、画題の前には「(中国画家名)様」とその「筆様」に拠ったことも入れていました。ただし、その原画に忠実であるがため、様式的には統一感のないものとなりました。
 二代目の狩野元信はこれを、真(馬遠、夏蛙)、行(牧谿)、草(玉潤)の「画体」として受注生産する仕組みを構築しました注文内容をカタログ化し、モチーフなどの図柄をパターン化、多くの絵師を抱え工房を構えて作成しました。作画をフォーマット化し、絵師も代替できる仕組みを整えたのです。主となるモチーフを大画様式で描き、それ以外は金箔や金雲で埋めることで、効率的な作成を狩野、いや、可能としました。
 また、正信は中国の名家の画を倣う「漢画」の人であったのに対し、元信は土佐派が主流を担っていた「やまと絵」も取り入れ、和漢両方を使いこなすようになりました。「漢画」系の明快で力強い構図や線描と「やまと絵」系の金泥や濃彩色の和漢融合がなされ、「狩野家は是れ漢にして倭を兼ねる者なり」とも評されました。しかも、元信は土佐光信の娘を妻としており、まるで戦国武将です。当然、土佐派との交流もあったそうです。
 戦国時代の武将が「切り取り勝手次第」で領土を広げ、築城していくのに伴い、障壁画や屏風画などの大画面の図画の需要も増加しました。これに狩野派は、シスマティックな態勢で臨み、四代目の永徳(1543-1590)のときに最盛期を迎えます。あの国宝「上杉本洛中洛外図屏風」のあの狩野永徳です。永徳は織田信長や豊臣秀吉に重用されましたが、47歳で亡くなります。過労死であったようです。当館学芸員はふと、「信長や秀吉の注文を断れば、首が飛ぶだろうし…」と漏らしていましたが、いずれにせよ命がけの状況ではなかったかと。
 さて、初代正信、二代元信、四代永徳ときて三代目は?という話になりますが、元信には3人の男子がいて、ただ、家督を継いだのが三男の松永(1519-1593)でして、父とともに活躍したとのことです。川柳に「売り家と唐様で書く三代目」というのがありますが、父の元信は唐様に加え倭様も取り込んでおり、すると松永も「唐様」だけでもなく、もちろん家を売ることもなく、三代目も家業を継ぎ続けた、それだけでも立派ではないかと。息子はあの狩野永徳ですし。ただ、息子の方が先に亡くなっています。
 ところで、ネットを見ていると、三代目は松永でなくその兄の宗信が三代目であり、四代松永、五代永徳としている例もありましたが、狩野家菩提寺の池上本門寺(東京)では、三代松永、四代永徳としてあり、それに従うのですが、驚くのがこのお寺のHPにある3Dでして、歴代の墓の配置がわかるよう墓苑が3DのCGで表され、また、墓のひとつひとつも3Dで観るためのQRコードが付いています。それにしても、墓の3Dマッピングって、なんという発想でしょうか。ちなみに京都にも、狩野派の菩提寺という妙覚寺があり、ちょっとややこしいです。

〇 唯一無比(オンリーワン)の話
 薄(すすき)の屏風で触れたのですが、唯一無比というかオンリーワンというか、とにかく他に類を見ないというものについての評価は、やはり悩ましいものがあります。出所も時代も不明となればなおさらです。専門家に鑑定を依頼するという方法もあるのですが、それはタダでもないわけで、鑑定費用を要求できる材料がないと、「これ、なんかいい感じなんだけど」ぐらいでは、やはり予算措置は無理です。
 実は、当館にもうひとつ、そういう物があって、それは以前、この館長日誌でも取り上げた黒織部の茶碗です。山形城跡の発掘調査で出土したもので、そういう意味では、出所も時代も特定できるのですが、箱もまして箱書きなどもなく、いつ、どこで作られ、だれが所有していたものなのか、全くわからない物なのです。
 この茶碗の見所として、シンプルモダンな市松模様柄というのを掲げているのですが、織部関係の展覧会図録やらネットの画像などをざっと見渡すと、この茶碗のような市松模様だけが描かれているものは見当たらず、通常は市松模様の白地部分になんらかの絵柄や模様が入っています。つまり、この図柄の類似例がないのです。また、織部焼は登り窯で焼くのですが、普通、登り窯は複数の作者が使う共同窯で、作者や注文主を区別するために、品物には彫りつけたり押捺したりする「窯印」(かまじるし)を付けます。必ず付けるとは限らないかもしれませんが、この茶碗には見当たらない。ついでに言えば、高台がルーズな印象で、地肌の色も微妙に違う感じ(クールグレイです)。これらの違いを全て「特別なオンリーワン」である、と評価してよいのやら、悩ましい所ではあります。形とか柄とか、なんかいい感じなんですけどねぇ。

〇 奥行きがない話
 狩野派にしろ、琳派にしろ、屏風画に奥行きがないというのは、どういうことで、それはなぜなのか、ということについて少々。
 まず、奥行きがない、とされるのは単に、西洋画でいう「遠近法」や「明暗法」が用いられていないことによるものです。南蛮貿易によってそのような技法の絵画や版画が持ち込まれるまで、日本にはそのような技法がなく(特殊な遠近法らしきものはあったそうですが)、写生を求めた円山応挙(1733-1795)あたりから遠近法がとりいれられることになったそうです。また、「明暗法」とは、簡単に言うとハイライトや影を入れる手法で、漫画でいう「劇画タッチ」のような感じでしょうか。
 また、なぜ立体的に描かれないのかということについて、とあるブログに、「芸術家が自分の主観のおもむくままに描く “アート” ではなく、建築物の一部を飾る “装飾” だったのである。(中略)要するに “家具” である。彼らは、その “家具” を造形するための「職人」としての自覚をもって制作に励んだ。」とありました。
 確かに屏風は家具でありまして、もともとは風避けよけだったり、間仕切りだったりするわけですが、狩野派の絵師に屏風を頼むのに、よもや風避けだの間仕切りだのに用いる人はおらず、求める役割としてはやはり、部屋を飾り、空間を変えることであろうことは言わずもがなです。
 その際、あまり立体的でリアルだと、関心が寄りすぎたり、画中に入りすぎたりしてしまい、また、作家性が強すぎると、好みが分かれたり、そのものの存在感がありすぎたりしてしまいます。家具は家具らしく、存在をアピールすることなく、しかし、空間を変える機能をもたせつつ、また、何かの自然風景をそのまま切り取ったようなものでもなく、ということに対しての家具職人としての答えが、あのグラフィカルな図柄だったのではないかと。漫画の例で言えば、「劇画タッチの図柄では、どうもなぁ」ということで、「アニメタッチのような、平たい感じがいいかも」ということでしょうか。
 さて、フランスの作曲家エリック・サティの作品に「家具の音楽」というのがあります。そこにあっても日常生活をじゃませず、意識的に聴かれないようにと作られた室内楽曲です。これが初めて演奏されたのは、1920年のとある演劇の幕間の休憩時間でした。ところが演奏が鳴り始めると、観客は自分の席に戻って聞き入ろうとし、結局、大失敗に終わってしまったそうです。BGMそしてアンビエントミュージックの先駆的な作品ではありますが、実際にこの曲を聞いてみると、聞き流すにはいろいろ引っかかりもある曲です。
 では、屏風をアンビエント的なものと捉えてもよいかというと、それもちょっと違うかと。「アンビエント」について調べると、「作曲家や演奏者の意図を主張したり、聴くことを強制したりせず、空気のように存在し、それを耳にした人の気持ちを開放的にすることを目的にした曲」とあり、これを「作家の意図を主張したり、観ることを強制したりせず、空気のように存在し、それを目にした人の気持ちを開放的にすることを目的にした作品」と読み替えると、意味は通じるのですが、そんな目的の屏風はやはり稀かと。そもそも、狩野派やら琳派やらの屏風を論ずるのに、アンビエントを持ち出すことに無理があるのではと。以上、奥行きがない話でした。すみません。
 ところで、まったくの余談ですが、最近のゲームセンターのクレーンゲームエリアに流れているあの、ビート抜きのトランス系BGMは、なんと言うのでしょうか。メロディーらしきものが特になく、ただただ周りの騒音が消えてしまい、ゲーム機だけに意識が向いてしまう、恐ろしいBGMです。ゲーセンに最適化したサウンドスケープとでも言うべきなのか、サティもシェーファーもびっくりです。
〇 ドクダミの話
 猫額のようなわが家の庭にも実は、アジサイとキョウチクトウがあり、セイヨウヤマゴボウもあちこちに生えています。図らずも、そこここに毒が仕掛けられている庭になっています。
 そんな庭で大量に生えてくるのがドクダミです。ドクダミという名には毒矯め (どくため) という意味があり,この「矯め」というのは「角を矯めて牛を殺す」の「矯」、矯正の「矯」ですが、毒庭にはちょうどいいかもしれません。ドクダミはとにかく繁殖力があり、初夏には白い花(正しくは花ではなく葉が変化したもの)もつき、グランドカバーとしてもなかなかなものです。雑草扱いとせず生えさせたままのほうがいいくらいのものだそうですが、独特の香りを気にする人も。しかし、ベトナムではハーブや野菜としても利用されるそうです。
 ドクダミの生薬名はジュウヤク (十薬) といい,利尿薬や消炎薬となります。十薬という生薬名の由来は,馬がかかる十種の病に効果があるという言い伝えによるそうです。またこれを煎じた「どくだみ茶」には、尿作用や老廃物を体外に排出する働きがあるとされ、そのデトックス作用により体内の代謝が高まり、体のすみずみまで栄養成分が届くのだそう。体のだるさやむくみ解消が期待できるのだそうです。
 自家利用のドクダミ茶ぐらいはいくらでも作れるぐらい生えてはいるのですが、何かの拍子に、アジサイの葉とかキョウチクトウとかセイヨウヤマゴボウなどが混ざる危険性もあり、慎重さに欠ける性格ゆえ遠慮しています。

〇 ジャガイモの毒の話
 「自然毒のリスクプロファイル」のリストにはジャガイモ(じゃが芋)も載っています。ジャガイモの芽には毒があるため取り除く、というのは皆様ご存じとは思いますが、小学校で実習用に校内で栽培したジャガイモを食べて中毒になった、という事件が何年かおきに報道されます。
 これはジャガイモの芽だけが原因ではなく、光に当たって皮がうすい黄緑や緑色になったイモの表面の部分にも有毒成分が含まれていることがあるからです。親芋で発芽しなかったイモにも有毒成分が含まれていることもあるそうで、これをもったいないからと食べてしまうと危ない。実際、家庭科の授業で、自分たちで炒めるなどし、皮付きのまま食べて中毒になった事例があります。
 掘り出した新鮮なイモでも、小さいものや地中の浅い所にあったイモには有毒成分が入っていることがあり、ある事例では、市販品の数倍〜 10 倍程度の有毒成分が含まれていたそうです。この有毒成分は水に溶けやすいので、蒸す料理ではなく、ゆでる、二度ゆでするなどの調理方法をとると、中毒する確率が減るそうですが、熱によって分離はされないとのこと。中毒症状としては、嘔吐、下痢、腹痛、目眩、動悸、耳鳴、意識障害,痙攣、呼吸困難となり、ひどい時は死に至るそうで、食後おおよそ30分から半日で症状が現れるそうです。
 そう言えば、かつて学校では校庭以外の敷地の片隅などに職員用の農作物を栽培していたこともありました。サツマイモや枝豆やとうもろこしなどですが、私が小学生の頃は、施設管理のための住み込みの職員がいて、またはそこに寝泊まりする当直の先生がいて、敷地を管理する傍らそういうものも作っていたようです。公民館などでも昔、敷地の片隅に枝豆などを栽培し、地元の暑気払いなどで供していたところもありました。
思い出してみると、施設の保安管理を委託することは珍しく、というか委託先がなく、住み込みも普通でした。職住近接というか、職住一体というか、昔はそこで生活もしていたのです。
 学校以外でも例えば、霞城公園(山形城)の中に、かつて児童文化を担う社会教育施設があり、私が小学生の頃、そこには同級生とその家族が住んでいて、時々そこに遊びに行っていました。中庭には噴水があり、図書室、工作室、ホールがあり、ホールではピアノや卓球台がいつでも使えるようになっていて、工作室にはアマチュア無線機があり、屋外にはバトミントンができるコートもあって、その同級生はそれが身近にあり、また上手だったわけで、当時はうらやましい限りでした。そこでご飯などをごちそうになったこともあります。今、考えると、その施設に住むとなれば、また、色々と大変なこともあったとは思いますが、今や市の施設においては、住み込みどころか当直もありません。
 私の父の職場も民間企業ではありましたが当直勤務があり、子どもの頃、休日にそこに連れていかれることがあったのですが、その宿直室はそのまま麻雀部屋と化してしまうわけで、煙草の煙や点棒などが行きかう中、漫画本などを見ながら過ごしたこともありました。残念ながらそういう社会勉強の機会は、今は少ないわけで、もっとも、そんな機会が必要かという話にもなりますが、まあ、セキュリティとかコンプライアンスとかそんな言葉もない時代の話ではあります。

〇 農林水産省からの注意喚起のお話
 農林水産省のHPでは「知らない野草、山菜は採らない、食べない!」という注意喚起がなされています。以下、その文面です。
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 「有毒な成分を含む植物による食中毒の危険は、山菜採りや野草摘みの際だけではありません。家庭菜園で、有毒な成分を含む観賞用植物を野菜と間違って採って食べてしまったことによる食中毒も起きています。
過去の事例として、スイセンの葉をニラやネギと、球根をニンニクと間違って食べたことによる食中毒、ヒガンバナの葉をニラと間違って食べたことによる食中毒が起きています。
・「ニラ」と間違えやすい有毒植物
 スイセン、スノーフレーク(スズランスイセン)、キツネノカミソリ、ゼフィランサス(タマスダレ)など
・「ギョウジャニンニク」と間違えやすい有毒植物
 コルチカム(イヌサフラン)、スズラン、バイケイソウなど
・「ふきのとう」と間違えやすい有毒植物
 ハシリドコロ、フクジュソウ(福寿草)など
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 我が家の庭に生える植物で食べられるものは、シソとミントぐらいなので、なにかと間違えて中毒になることはないとは思いますが、特にシソは一時期、これでもかというくらいに勝手に生えてきました。しかし今年はなぜかめっきり少なく、かわりにというわけでもないのですが、プランター栽培で「空心菜」を育てています。種から育てたのですが、これが短期間でどんどん育つ。ちなみにその種は、「空心菜」の名で売られていることはあまりなく「エンサイ」などの名で売られています。某中華街で食べれば、これの油炒めが一皿千円しますが、これに換算すれば、このプランターの分だけで優に1万円分以上の量が育ちました。ただこれを、元が取れたと言うべきかは、なんとも難しいところですが。 

〇 「新庄の花あじさい」の話
 山形新幹線の終着駅がある新庄、とりもつラーメン、くじら餅、馬刺し、かど焼のまち新庄ではありますが、「あじさいせんべい」という銘菓もあります。それは南仏プロヴァンスを彷彿とさせるチュイール風のお菓子です。チュイールとはフランス語で「瓦」や「タイル」を意味し、小麦粉や砂糖、バター、アーモンドなどをオーブンで薄く焼き上げた瓦の形をしています。「あじさいせんべい」という名前からすれば、瓦煎餅をイメージさせますが、それとは全くの別物で、新庄市の花「あじさい」をモチーフに、あじさいの花のように焼き上げた「チュイール」です。
 とりわけ菓匠たかはしの元祖あじさいせんべい「新庄の花あじさい」は、甘く香ばしいパリパリのアーモンドスライスがたっぷり乗っている全国菓子博栄誉賞も受賞した菓子です。しかし、菓匠たかはしは2021年2月末に閉店。後継者を探していたのですが製法が難しく、また新型コロナの感染拡大による観光客激減も影響したとのこと。閉店時にはこれを求めるお客さんが殺到したそうです。往時は新庄みやげの定番として新庄駅にも山積みされていて、新庄駅に寄るたびに自分への土産として買っていましたが、今の駅売店には、さまざまな地元菓子店の「あじさいせんべい」が並んでいます。中には「あじさいの葉」というリーフパイもあります。
 その「新庄の花あじさい」は、山形県内の銘菓としては五本の指に入るものではなかったかと思います。では、あとの四本は何か、と言うことですが、これがなかなか難しく、山形市内ならあそこのふうき豆とか、あそこのどら焼きとか、あそこのゆべしとか。一方、50年以上続く「ゴールドシャ〇ー」や「チル〇ー」もあげておきたいし、同じく50年以上続くお菓子としては「〇ップルパイ」というのが上山市にあって、上山市と言えば、江戸時代から続くあそこのまんじゅうとか、あそこのぬれやき煎とか黒こしょう煎とか、あと、もっぱらお土産用なのですが「○○ロマン」もたまに自分で食べるとおいしい。鶴岡にも「〇〇屋」とか、酒田にも「○○米菓」とか、米沢にも「〇〇菓子店」とか、銘菓の有名どころは数々あり、まあ、これはこれで別の機会にでも。
 ちなみに当館でしばしば手土産に用いるのが、山形市内で江戸時代から続くお菓子屋さんの「五十七万石」という最中です。差し上げる相手が六十二万石でも百二十万石でも「五十七万石」を持参しています。
〇 高札について推理の話
 この高札については何分にも当時、懸賞金をかけても見つからなかったぐらいなので、真相はわからないのですが、勝手に推察すればいくつかの説が考えられます。
 まずは義光と政宗は家康と親交があったことから、反家康勢力の仕業という線があげられます。この高札が徳川邸前に掲げられたということからすれば、まずは、家康を挑発することを狙ったものではという推測ができるかと。ということで、
・推理その1 この謀反の黒幕は家康だということを世間に広めたかった説
・推理その2 義光や政宗のために家康が何らか動くのではという陽動作戦説
・推理その3 家康と義光・政宗との仲をこじらせようとする説
 いずれもこれは、反家康派すなわち石田三成近辺が怪しいということになります。次に誰が得するかという点からすれば、
・推理その4 義光と政宗を失脚させたいという説
 義光と政宗が失脚すれば、地政学的にありがたいのは上杉であり、また、秀吉の思惑もあるので、誰が得なのか素直に考えれば上杉説となるのですが、上杉としてはわざわざ高札などを立てず秀吉と話をすればいいわけで、可能性としてはまずないかと。
・推理その5 世間がドン引きした秀次切腹と三条河原の処刑への言い訳として、秀吉側がとにかく誰かに罪をなすり付けようとした説。
 それにしては「義光・政宗が国を二分して治めようとした」という話を持ち出すのは無理がありすぎで、また、秀吉は「此両家をば世上にてにくむと見得たり」とは言ったものの、この高札事件でかえって疑惑がとけ、義光・政宗の幽閉も解除されました。
 この謎解きについて当館学芸員にもきいてみると、次の説がでてきました。
・推理その6 もしかしたら「愉快犯」かもという説
 京からすれば奥州などは人が住むことすら想像できない道の奥。そんな所の武将が関白秀次とつながり、秀吉に拘禁され取調べられているらしい。いっそ、国を二分して治めようとしていたとして、家康の屋敷前とかに高札を建てれば面白いんじゃない、としたものではないかと。しかしながら義光・政宗ペアというのは、京の都でそれほど耳目を集める人物であったのかというと、「はて?」としか言いようがなく、確かに「伊達者」は話題になっていたとは思いますが。
 そこで、サスペンスミステリー好きのもう一人の学芸員にきいてみたところ、
・推理その7 家康が全てを読み切って高札を立てた説
というのがでてきました。つまり、このくらいバカバカしい内容の高札を立てれば、秀吉もこれはバカバカしいとして、義光・政宗を釈放してくれるはずと読み切って、自邸前にこれを立てたと。おおっ〜、なんという結末。しかもこれは、振り上げた拳の行き場に困っていた秀吉も、話を収めることとなった家康も、当然、救われた義光や政宗も三方良しという結論となるわけですが、さすがです。

〇 鷹狩りの話
 「鷹狩りと言えば家康」というくらい、家康と鷹狩りは切っても切れない関係で、幼少期の人質時代には鷹狩りを心の癒しとし、生涯1000回以上鷹狩りをしたそうです。駿河城本丸跡にある家康像にも、その左腕には鷹が止まっています。
 家康の鷹狩り有名なエピソードとして、政宗の鷹場と家康の鷹場は隣接していましたが、誤ってそれぞれの猟場に入ってしまい、それぞれ互いの姿を見つけたものの、その場は気付かなかったふりをして戻り、後日それを互いに詫びたという話があります。
 また、「文禄・慶長の役」いわゆる朝鮮出兵のときに義光は、肥前名護屋城に家康とともにいて、その戦況を語る手紙で、「ふしぎに出羽も我等も此度の命をみつけ候。やがて国へくだり、たかをつかい候はん事、ゆめかうつつかとよろこび候」と家康から言われたと書いています。 
 武士たちにとって鷹狩りは、スポーツであると同時に社会的なステータスであり儀礼的な側面もあります。鷹狩りとゴルフとは似ているというのも、例えば政界や経済界の方同士がゴルフをやるのはそういうことでもあり、もちろん健全なレジャーや健康増進としてやられる方も多いとは思います。実際、「徳川実紀」には家康の言葉として「鷹狩は遊娯の為のみにあらず。(中略)筋骨労動し手足を軽捷ならしめ、風寒炎暑をもいとはず奔走するにより、をのずから病など起ることなし」と記されています。また、多くの人を使うため合戦の指揮に役立つことや、山野を駆け巡るため領内の視察になることも鷹狩の利点としてあげているそうです。織田信長は鷹狩あたっては、用意周到な準備をもって家臣にあたらせ、もって戦の練習ともしたとか、関東へ転封された後の家康は、民情視察のための鷹狩を繰り返し行ったそうです。
 さらに鷹狩りは一種のステータスであり特権的なものでもあり、鷹の飼育や狩場の管理などが必要でもあったのですが、足軽出身であった秀吉には鷹狩りを楽しむ余裕などなかったと思われます。よって秀吉には鷹狩に対しある種のコンプレックスもあったのではないかと。秀吉が鷹狩りに興味を持ちはじめたのは、天正15年(1587年)の九州平定後と言われます。鷹の産地として有名な日向国を島津氏は擁しており、島津氏は秀吉を、家格が武士ですらないことを理由に、関白としての権限を認めないと言っていたのですが、秀吉は九州平定により屈服させ、その島津氏を鷹巣奉行に任じています。その数年後、「大�睫遏�(高野とは鷹狩りのこと)という大規模な鷹狩りを開催します。大人になってから始めた趣味は恐ろしいとはしばしば耳にしますが、特に金と権力を持ってから始めた趣味というのはそんな感じがします。
 また秀吉は、秀次に対して天正19年(1591年)12月20日に「五ヶ条の訓戒状」というものを出しています。前4条は天下人としての一般的な心得を述べたものですが、最後の条では「茶の湯、鷹野の鷹、女狂いに好き候事、秀吉まねあるまじき事、ただし、茶の湯は慰みにて候条、さいさい茶の湯をいたし、人を呼び候事はくるしからず候、又鷹はとりたか、うつらたか、あいあいにしかるべく候、使い女の事は屋敷の内に置き、五人なりとも十人なりともくるしからず候、外にて猥れかましく女狂い、鷹野の鷹、茶の湯にて秀吉ごとくにいたらぬもののかた一切まかり出候儀、無用たるべき事」とあるそうです。秀吉はわが身を振り返りこう訓戒したのだとは思われますが、鷹狩りの他に茶の湯と女狂いですか。まあ、金と権力がなければ心配のしようもないことではありますが。

〇 現在の鷹狩の話
 鷹狩は幕末まで頻繁に行われることとなりますが、明治維新後は次第に衰えていきました。宮内庁には現在も「鷹師」「鷹匠」が存在しますが、戦後,宮内庁が公式な鷹狩を行わなくなって久しく、千葉県と埼玉県にある鴨場の管理や鴨猟を行なう鴨場の管理などを行っているそうです。なお、毎年1月2〜3日に浜離宮恩賜庭園にて「諏訪流放鷹術保存会」による「新春放鷹術実演」がなされています。
 江戸時代には沢山の鷹狩りの流派がありましたが、今も残っているのは「諏訪流」と「吉田流」の二つ。「諏訪流」宗家の初代小林家次は戦国時代に織田信長が諏訪から招き入れた鷹匠といわれ、信長の死後は徳川家康に召し抱えられました。現在、その第18代宗家大塚紀子さんがこの浜離宮恩賜庭園の新春放鷹術などを担っています。現在日本で鷹匠を名乗っている人は50人ほどで、実は「鷹匠」を名乗るのに必要な資格がなく、個人が鷹を飼えば誰でも名乗ることができるそうです。
 その第18代宗家のインタビュー記事によると、「人鷹(じんよう)一体」ということが大事とのことで、「人馬一体」というのは良く耳にしますが、やはりそういうことなんですね。そうそう、猿回しにも人猿一体芸というのがあるらしく、また、猿と客とが一体となる感動芸もあるといいます。ちょっと違うかもしれませんが。
 なお、現代の鷹狩りについては「天皇の鷹匠 花見薫著 2002年」とか「放鷹新装版 宮内省式部職編纂 2010年」とか「鷹書の研究 三保忠夫著 2016年」とか、とにかく宮内庁が中心となりますがいろいろな書籍があるようで、私としては実はどれも手にしたことはないのですが、興味のある方はいかがかと。
 また、公家や武家の鷹狩りとは全く異なる、狩猟のための鷹狩りについては、実は山形の天童市に最後の鷹匠という方が住んでいて、これは使う鷹も狙う獲物や場所も時期も違うもので、詳しくは「ほぼ日刊イトイ新聞」の「幡野広志、東北の鷹匠に会いに行く」(2019/2/1〜2/5)に記事がでていましたのでご覧願えればと思います。このインタビューの中で、鷹狩りはカラスの追い払いもできるとはありましたが、知らない土地だと、迷ったり怪我したりするリスクがあるため難しいらしく、実は山形市でも過去に数回実施したことがあるのですが、続けられませんでした。

〇 チャチャの話
 皆様ご存じのとおり、秀頼を生んだ淀殿の本名は「茶々」です。なぜに茶々と名付けられたのかはよく知らないのですが、当時としては珍しくない名のようです。
 さて、「チェリー・ピンク・チャチャ」と言う曲があります。実はペレスプラード楽団の名曲「セレソローサ」(Cerezo Rosa:ピンクの桜)の別名です。冒頭のあの引っ張るだけ引っ張るトランペットパートは、この楽器をされる方なら一度はやってみたいのでは。この曲には同じペレスプラード楽団のバージョン違いがいくつかあり、掛け声が入るものと入らないものがあります。特にライブ録音と思われる盤の掛け声はとてもよく、自分もこれに合せて「ウ〜ッ!」と声を出してしまうのですが、そのタイミングが意外に難しく、なかなかうまく合わせられません。
 「セレソローサ」は1955年、全米ヒットチャートで10週連続第1位を記録しましたが、その頃の日本ではとある「チャチャチャ」がヒットしていました。1955年に発表された「チャチャチャは素晴らしい」(Miragros Del Cha Cha Cha)という曲です。オリジナルはキューバのエンリケ・ホリン自作自演の曲なのですが、その年(昭和35年)11月には江利チエミさんが、同年12月には雪村いづみさんが、この日本語版を続けざまにリリースしたのです。どちらも日本語歌詞にスペイン語歌詞が挟まるもので、スペイン語どおりの訳もあるにはあるのですが、創作部分も結構ありまして、それがもうなんというか。「おまわりさんも踊り出す」という歌詞は原語どおりなのですが、江利チエミ版は「今にも死にそうなよぼよぼのおばあさんも、中風のおじいさんも、しまいにはチャチャチャ」と続き、それが「おーっとあぶない、そらこけた」となりまして、これが後発の雪村いづみ版ともなると「娘は甘茶で、チャッチャッチャ、年寄りゃ渋茶で、チャッチャッチャ」と、まさしくチャチャが茶々となり、「お寺じゃ坊さん、木魚を叩いて なんまいだ〜でチャッチャッチャ お釈迦様、踊り出す」となります。そこに若干こぶしのきいたスペイン語がはさまるわけで、ラテン音楽の好き嫌いにかかわらず、是非、皆様に一度は聴いていただきたい。当時、洋楽を日本語で歌うカヴァーはごく普通ではあったのですが、ここまでも意訳すらも超えてしまうと、ウーム、まあ、日本語の歌詞なんて、当時は問題にならなかったのかもしれませんが。
 ところでチャチャとは、キューバのトリプルマンボから発展したチャチャダンスというのが由来とのことで、それをもとにキューバ生まれでメキシコで名をあげたペレスプラードが、1950年代にアメリカに持ち込みチャチャチャとなったそうです。
 そのキューバで最も知られた歌に「グァンタナメラ」(Guantanamera)というのがあります。1929年の曲ですが、一度聴いたら忘れられない、馴染みやすい曲です。いろんな時代にいろんな方が演奏していて、手元にもさまざまな演奏家が演奏したこの曲を18曲収めたCDがあります。
 ネットでこの曲を検索すると、コロナ禍の中、小野リサさんが各楽器のパートとネット中継で結び、この曲を演奏している画像がありました。特にミュージシャンにとっては大変な時期ではありましたが、今は小野リサさんは、週一ぐらいのペースでライブ演奏を行っているようで、今年でデビュー35周年(!)、ボサノヴァ誕生65周年ということで、慶賀の至りではあります。
 そういえば、30年以上前に、東京のとあるライブハウスで小野リサさんの演奏を聴いたことがありまして、当時すでに大人気で、たまたま行った当日、最前列席にキャンセルがあり、間近で観ることができたのですが、失礼ながら彼女についてはボサノヴァを歌う人程度の認識しかなく、てっきりスタンダード曲を歌うものとばかり思っていたのですが、見事にオリジナル曲ばかりで、実はそれまで彼女のアルバムを聴いたことがなく、ノルにノレずに帰ってきたことがあります。すみませんでした。
■ 山形の立ち位置の話
 「山形県は、東京から300kmほどの距離にも関わらず、別世界のような静けさを保つ場所であり、日本の旅行者もまだ多くが訪れていない聖なる山々、静寂に包まれる寺社」云々とのことではありますが、要するに稀にみる寂れた場所ということで、まあ、それでいいんです。山形はまだまだ「奥の細道」状態ということで。
 「奥の細道」で芭蕉が「侘び・寂び」から「軽み」に達したように、山形の侘しく寂れた風情からの「軽み」を感じ取ると言いますか。まあ、意外に軽いところもありますよ、山形は。
 「2026年に行くべき世界の旅行先25選」が発表された翌日となる10月22日に、新たに就任された首相は、「世界の真ん中で咲き誇る日本外交を取り戻すために、信頼関係を作り、日本が何をやりたい国なのか、しっかり発信したい」と述べていましたが、これが山形ならば、世界の辺境あたりで咲き誇れれば、まずはよしと、何をやりたいかについては、まあ、なるようになる、と言いますか、いや、不易流行ということでどうでしょう。
 さて、「つるおか観光ナビ」(鶴岡ツーリズムビューロー)に載っていた「出羽三山の山伏が語る!知られざる山伏の秘密」というインタビュー記事には、「出羽三山は江戸時代、西の伊勢参り、東の奥参り」といわれるほど人気だった、とあります。
 「出羽三山が江戸のある武蔵を含む東国三十三カ国総鎮守とされたこともあったのでしょうが、月山のご祭神がツクヨミノミコトで、伊勢神宮のご祭神であるアマテラスオオミカミの弟にあたるため、太陽の神である伊勢を詣でるのなら、月の神様も詣でないと、一方しか参らいない片参りになると、当時のガイドブックに書かれたこともあり、大人気になったようです。」とあり、山形も時には日の当たることもあったということです。英語で言うなら「Every dog has its day(どんな犬にも最上の日がある)」ということかしらん。以上をまとめると「YAMAGATA=Best of the World 2026=Every dog has its day」ということで、う〜む、自虐が過ぎるでしょうか、すみません。

■ 神秘的なアウトドア体験の話
 続いて「通年で、古くからの伝統と神秘的なアウトドア体験ができる点」について。これは具体的には、出羽三山における山伏修行がその代表かと思われます。2泊3日の山伏修行体験塾(羽黒観光協会主催)や2泊3日×2回で行われる錬成修行道場(出羽三山神社主催)などの修行体験もあります。本格的に修行したい方は6泊7日で行われる「秋の峰入り」を。さらに「冬の峰」という9月24日から大晦日まで100日間に及ぶ籠り行もあるそうです。ただしこれは地元集落の山伏から二人だけ選ばれる行です。修行中の食事は精進料理となり、基本的には付近の山の幸とのこと。詳しくは羽黒観光協会のホームページを。
 また、前出の山伏の方へのインタビューで「観光客は、山伏に話かけてもいいのでしょうか。」という質問があり、これに対して「本来の修行中であればよろしくないのですが、本格的な修行を行っている時は観光客の方とお会いするような場所にはいません。また、人に説くことも修行のひとつですから、話しかけてください。ただ、口下手な人が多いですけどね。」とありました。やはり修行中の方をお見かけすることはまずないのですが、「山伏兼ガイド」という方がいて、普段は学校の先生をしているという方などは、いやいやどうして口達者でした。
 この修行体験者というのは、私の身近にも結構いまして、かつての職場の上司も修行経験者でしたし、役行者に関心を寄せている山寺芭蕉記念館のA学芸員もこの夏、修行に参加していました。
 修行できなくとも、出羽三山神社への石段を登るとき、「おしめ」をするだけでも身も引き締まり、良い参詣になるとのこと。いや、その失禁対策ではなく、参拝者が首から下げて身につける白い紙製の飾りを「お注連」(おしめ)と言っていまして、これは結界を創り、山中の魔が入らないようにした裃を簡略化したものです。石段登口の羽黒随神門の社務所あるいは合祀神社の社務所で入手できます。お注連は1本1,000円。加えて、願い事によって色を選ぶ「縁紐(えにしひも)」が1本200円です。お注連は出羽三山独特のもので、記念として持ち帰っていただいている、とのことです。

■ 法螺貝の話
 以前、自宅を建てる時、その地鎮祭を山伏にお願いしたことがあります。建築を請け負った工務店からの紹介で、祭壇には大根などの根菜やスルメなどを捧げ、呪文を唱えながら包丁を振り回すというものでしたが、祈祷の前後に法螺貝を鳴らすのですが、何事もない住宅地の真ん中で法螺貝が鳴り響くというのは、なんともシュールではありました。
 前出の山伏インタビューでは法螺貝について「法螺貝はもともと、合図として使われていました。山伏たちは山の中でバラバラに生活していますから、集まるとき、危険が迫っているときなど、連絡手段として使っていました。それが時代を経て、お祓いであったり、魔よけに使われたりするようになっている。」とのこと。
 ちなみに「法螺貝を吹くのは難しいですか。」という問いには、「簡単には吹けませんね。管楽器を吹ける人は上達も早いですが、吹き方は全然違っています。楽器は頬を膨らせず、唇の正面からに吹きますが、法螺貝は頬を膨らませて横から吹きます。私は管楽器をやっていたので2、3か月で吹けるようになりましたが、半年、1年かかる人もいますよ。」ということでした。
 確かに、法螺貝には上手い下手があって、上手いものは「プォォォ〜、ブゥゥゥ〜」とヌケのよい響きとなるのですが、下手だと「ブブブ、ビビビ」というブーイングのようなものになります。かつて、あの忌野清志郎さんもどういうわけかことあるごとに法螺貝を吹いていた時期がありましたが、やはり難しく、出羽三山で鳴り響く音色のようにはなりませんでした。
 この法螺貝や角笛を先祖とする楽器がホルンです。現在のホルンはバルブで音程を変えますが、古典派以前、つまりベートーヴェンの時代以前はナチュナルホルンと呼ばれるバルブなしの単管でした。曲の調性によって管の長さを変え、それにはクルークと呼ばれる替え管を用います。楽譜のホルンのパートには、どの調性の管を使うか書いてあるそうです。
 また、ナチュナルホルンの音階は各調の自然倍音に限られ、つまりはド・ミ・ソだけで、その間の音程は吹き出し部分のベルに手をつっこんで調整します。しかし、その音はくぐもってしまうため、モーツァルトやハイドンはド・ミ・ソ以外の音はあまり使用しない曲を作っていたそうです。一方、ベートーヴェンはホルンに詳しく、交響曲を始めとしかなり効果的にホルンを用いています。これはまず交響曲第5番や第6番での独奏パートを思い浮かべることができると思いますが、第3番では同一楽章内の転調部分で管を替える小節があり、奏者によっては管を替えるかわりに、あらかじめ調性の違う2台のホルンを用意することもあります。
 山形交響楽団では古典時代の楽曲に積極的にナチュナルホルンを用いていたことがあり、年間通してベートーヴェンの全交響曲を演奏したときでは、実際、ステージに2台ずつホルンを用意していたこともありました。とにかくナチュナルホルンの音程は不安定で、聴く方もスリリングというか相当の緊張感をもって聴くこととなり、シーズンシートで全ての演奏を聞いたのですが、どうしてもどこかでやばい音が出てしまうのですが、それは指揮者も聴衆も納得済みでして、そのチャレンジ精神に惜しみない拍手を送るわけではあります。
 ちなみに「ホラを吹く」という言葉がありますが、元々は仏教用語で「仏の説法(教え)」を指し、法螺貝の大きな音から転じて、偉そうに立派なことを言う、またはその裏に実行が伴わない様子を表すようになりました。それが嘘をつく、大げさなことを言うといった意味で使われています。
 まあ、法螺貝にせよホラ吹きにせよ、上手く吹くには、それなりの技量が必要かと。

■ 鍋奉行の話
 出羽三山神社の五重塔改修工事に、その奉行として志村と下の2名が任じられますが、奉行とは、「上の命を奉じて物事を行うことで、特に武家時代に、上の命を受けて事務を担任した一部局の長官」とのことです。
 奉行と言うと、今の季節は「鍋奉行」というのが登場するわけですが、大抵は疎んじられるのですが、逆に誰かに担ってほしいのがすき焼きでして、最初の入りも難しければ、途中の具材投入のタイミングとか、終盤は煮詰まらないよう見張るとか、なかなか気の抜けないのがすき焼きでして、その一連の状況を仕切ってくれる人ならばありがたいわけです。
 以前は、職場などですき焼きに行く機会があり、それは立派な店ではなく、肉屋の2階にある広間などで、すき焼き以外の料理はなく、せいぜいミカン1個が出てくるくらいなのですが、肉のおかわりなどしながらもリーズナブルな料金でいただけるものではありました。しかしそのうち、食欲も満たされ酔いも回ると、うっかり煮詰まってしまうこともしばしばで。
 さて、その作り方ですが、まずは鍋に牛脂を引き、牛肉を投入するのですが、さっと火を通し、割り下をかけ、溶き卵でいただく、これがこのあたりでは一般的かと思いますが、関西風となると牛肉を先に焼いてから砂糖と醤油を直接振りかけて肉の旨味と香ばしさを引き出すということで、まずここで齟齬が生じるわけです。
 お店でいただくときに、店員さんが最初、焼いてくれることがあるのですが、一度だけこれとは全く違う焼き方のことがありました。それは牛脂をひいたあとまずネギを焼き始めるのです。ネギを時々返しながら香ばしくなってきたところで牛肉を焼き、割り下を入れる、というもので、以来この香ばしさがよくて、自宅ではこの順ですき焼きをしています。
 あとは白菜、しいたけ、春菊、しらたき、焼豆腐、その他をどの順に投入し、どう並べ、その火の通り具合はどうするか、自宅ならいざ知らす、職場とかあるいはおもてなしとかなると何かと難しく、そんなときにすき焼き奉行がいてくれたらと思う次第ではあります。すき焼きにおける忖度というかコンプライアンスはどうあるべきかとか、すき焼きというゼロサム条件下での各人のウィンウィンをいかに形成していくかとか、すき焼きの「正義」とはなにかとか、考えればきりがなく、それは度が過ぎるとまた、モラハラというか鍋ハラということにもなってしまうわけで。ただ、コロナ以降は職場で鍋を囲むようなことは少なくなり、一方では、一人用の鍋が普通になり、あらかじめ具材全てが鍋に入っているすき煮になりつつありますが、こうなるともう鍋奉行のレゾンデートルはなくなってしまうわけです。しかしながら、AIさんに「すき焼きの正義」について尋ねたところ、「グルメサイトで探すことができる」との結論で、まだまだ鍋奉行の領域というか場の力学というレベルには達していないようです。
 ところで、山形でのすき焼きと言えば、山形牛や米沢牛が一般的と思われるかもしれませんが、いくら地元でもそうそうはいただけるものではなく、実際、すき焼き店で食べれば、同じすき焼きでも米沢牛は倍の値段ぐらいになります。ただ、山形牛や米沢牛を扱っている肉屋さんには300gで1,000円ぐらい国産牛肉も並んでいて、家庭でのすき煮程度であればこれで十分かと。ただ不思議なもので、高い肉ほど量を食べることはできず、つまりは霜降り肉のように脂がたっぷりと入った肉は、沢山は食べられないのです。歳をとるとなおさらで、山形牛なら100gで1,000円も出せば結構いい肉が買え、同じ1,000円ならこちらで十分かと。最近は霜降りより赤身とかが好まれているようですが、すき焼きに限っていえば、あれは脂の旨味ではないかと。
 あ〜、思わず「すき焼き談義」となってしまいましたが、ここで最後に、五重塔改修の担当奉行となった下次右衛門と志村伊豆守光安の話のご紹介でも。以下、片桐繁雄さんが執筆された「歴史館だより」2010年の記事にある「最上家をめぐる人々♯27〈下次右衛門/しもじうえもん〉」 からの抜粋です。

 人間を人間として大切にする……。最上義光は、その点において驚くべき思想の持ち主であった。そもそも、罪なき民衆が命を失う戦いを好まなかった。戦っても相手を殲滅するやりかたを彼はしなかった。上杉の降将、下次右衛門も義光によって見出され、力量を発揮した人物だ。そして、この人物を語るには、志村伊豆守光安との友情をも語らねばなるまい。
 慶長5年(1600)9月、関ヶ原を主戦場とする「天下分け目の戦い」が起こった。義光は奥羽諸大名を率いての上杉攻撃を命じられ、準備態勢をととのえているところへ、上杉は先制攻撃をかけてきた。総大将は米沢城主直江山城守兼続である。上杉方は庄内から進出し最上方の主な出城ほとんどを占領した。このとき、谷地城を占拠したのは下次右衛門であった。下はここで兵を休めつつ、総大将兼続から山形城攻撃の命令が出るのを待っていた。ところが、兼続が山形城にかかる前に片付けようとした長谷堂城は、志村光安らの激しい抗戦で落城せず、半月近くも日が過ぎていた。
 9月末、関ヶ原で石田方敗軍の報せが着くと、兼続は撤退を開始し、最上軍の猛追撃を振りきって米沢へ帰還した。だが、谷地城で待っていた下のところへは何の連絡もしなかった。できなかったというほうが正確かもしれない。下の軍勢は、状況を知らされずに、最上領内に置き去りにされたのである。谷地城は、最上軍に幾重にも包囲された。
 下は「城を出て戦い、討ち死にするこそ武人の大義」と覚悟を決める。
 一方、義光は志村伊豆守を呼んで命じた。 
「次右衛門は、小身ながら武勇の誉れ高き者、説得して降参させよ。味方にして、庄内攻めの案内者にせよ」
 伊豆守は単身、谷地城に入って、次右衛門を説得する。
「直江殿はすでに会津へ帰国なされた。義をつらぬきこの城で戦って死すことと、妻子ある幾百の兵の命と、いずれか重き。城を開いて降伏し、義光公に仕えられよ」
 熱誠こめた勧告に心を動かし、次右衛門は義光の軍門に下った。おそらく武人同士の厳しい応酬がなされたはずだ。この経過で強い信頼が芽生えたのであろう。下軍はほどなく庄内攻めの先鋒となって尾浦城を落とし、翌年四月、酒田城の戦いにも功名をあらわす。 
 戦いが終わってから、義光は次右衛門に田川郡尾浦(大山)城1万2千石を与え、対馬守を称させた。上杉家ではわずか400石だったのが一城の主となり、80石だった一門の者たちもみな千石の領地を拝領したという。異例の加増であった。これ以後、下対馬と志村伊豆は、たずさえあって庄内発展に力を尽くすことになる。
 庄内も由利も新たな領地である。戦いに倦み疲れた民心を安定させ、生産を高めねばならぬ。製塩、漁業など山形では今までなかった新しい産業もある。港を整備して海上の通運や交易も考えねばならぬ。さまざまな課題を解決し、領国の安定と発展を図らねばならなかった。その実務者として、川北・酒田と遊佐には志村伊豆、川南の田川には下対馬が登用されたのである。
 神仏に関わる事業も義光の意を受けてなし、それらのうち最大の事業は羽黒山五重塔改修工事だったろう。義光はこの工事の奉行として、志村・下を任じた。今、鬱蒼たる杉林の中に立つ五重塔を見上げる善男善女のうち、どれほどの人が戦いで相対した2人の武人に思いを馳せるだろうか。

↑担当学芸員(山寺芭蕉記念館所属)による渾身のチラシです。


〇 髭切と膝丸と鬼切と鬼丸の話
 「平家物語」の「剣巻」には、「髭切」と「膝丸」の話がでてきます。「髭切」と「膝丸」は源満仲(=源頼光の父)が筑前国三笠郡出山に住む唐国の鉄細工に揃いで作らせた二尺七寸の太刀で、満仲が有罪の者を切らせたところ、髭まで切ったことから「髭切」と名付け、もう一振りは、膝まで切ったことから「膝丸」と名付けたとあります。
 「髭切」で鬼を斬ったとする話としては、その鬼とは、余りに嫉妬深い公卿の娘が鬼になりたいとして貴船神社の詣でて成り果てた姿である。源頼光が渡辺綱に「髭切」を持たせ使いに出し、綱が一条堀川の戻橋を渡った時、女に声を掛けられ、夜なので送ってほしいと頼まれたので、女を馬に乗せて連れていくと、恐ろしげな鬼となり、綱を掴み飛ぼうとしたが、綱は少しも騒がず「鬚切」で鬼の手をふつと切った、とあります。その切り落とした場所が北野天満宮の上空であり、鬼の手を切り落した後、「髭切」は「鬼丸」と名を改められたとあります。ここで留意したいのは、「鬼丸」とあるのは「太平記」にある北条四郎時政の「鬼丸」と混同しがちですが別物ということです。「鬼丸(髭切)」は後に、「獅子ノ子」、「友切」と名を変え源頼朝に渡りましたが敗戦が続き、八幡大菩薩のお告げにより刀の名を「髭切」に戻すと源平合戦で見事勝利しました。後に、北条貞時の手に渡り、鎌倉幕府滅亡後、新田義貞が所持することとなりました。
 一方、「太平記」の「直冬上洛事付鬼丸鬼切事」には、源平累代の重宝である「鬼切」と「鬼丸」という二振りの太刀を発端とする事件が記してあります。越前足羽の合戦の時、斯波高経が新田義貞を討って、源平累代の重宝である「鬼切」・「鬼丸」という二振りの太刀を手にしたところから話が始まります。そこで、それぞれの刀の由来が語られます。
 まずは「鬼切」ですが、大和国宇陀郡(現奈良県宇陀市)の大きな森に妖者(ばけもの)がいて、人を捕り食らい牛馬を引き裂くというので、源頼光は渡辺綱に討って参れと、秘蔵の太刀を与えた。渡辺綱が女装して森を通ると妖者が現われたのでその腕を切り落としたところ、逃げた鬼がその腕を奪い返しに来た。その刀は源頼光から多田満仲(=源満仲)の手に渡り、信濃国戸隠山(現長野県長野市)でまた鬼を切ったことにより「鬼切」という名で呼ばれるようになった、とあります。この刀は、伯耆国会見郡(現鳥取県)の大原安綱という鍜冶が鍛えた剣であると「太平記」にあることから「鬼切安綱」とも呼ばれます。ちなみに、大江山で酒呑童子を斬ったとされる刀とされる「童子切安綱」は現在、天下五剣として有名ですが、これを作刀したのも大原安綱です。ただ、この刀と酒呑童子との関係については、豊臣秀吉が名刀を蒐集していた時代の鑑定家である本阿弥家しかわからない話のようです。
 一方、「鬼丸」も天下五剣のひとつと称されていますが、「太平記」によると、この刀を所有していた北条時政が、夜な夜な小鬼が夢枕に現れ苦しんでいると、この刀が老翁に姿をかえて夢に現れ「清浄の人に我が身の錆を拭われよ」と告げたので、錆を拭い抜き身で立てかけておいたところ、火鉢台に造られた小鬼に倒れ懸かり、切り落とした。こうして「鬼丸」と名付けられ、代々北条家の重宝とされた、とあります。「太平記」には「奥州宮城郡の府(現宮城県仙台市)三真国という鍜冶が鍛えた剣である」とあるのですが、史実としては北条時頼(=時政から5代目)が山城国(京都)の粟田口国綱につくらせたものとされ、刀の銘にも「国綱」と刻んであります。なので「鬼丸国綱」と呼ばれることがあります。
 最上家の始祖である斯波家と源頼光とは、ともに清和天皇につながる家系です。源氏累代の重宝である「鬼切」と「鬼丸」は、新田義貞の自害後、斯波尾張守高経(たかつね)に渡り、「鬼切」は最上家初代の斯波兼頼のものとなり、以降、最上家重代の家宝として守り伝えられ、現在は北野天満宮所蔵となっています。一方、「鬼丸国綱」は、足利家に差し出され、豊臣秀吉などを経て、現在は御物として宮内庁所蔵となっています。
 実はここで面倒な問題が現われます。「鬼切安綱」は、この最上家では「鬼切丸」として伝来しており、「鬼切安綱」の銘の「安」が「国」と直されています。「童子切安綱」の登場により同じ安綱では比べられてしまうためそのような直しがなされたのではという推察があり、詳しくは「歴史館だより」(第13号)で元山形市文化振興課長の布施幸一さんが「最上家伝来の宝刀鬼切丸の謎」と題し考察を寄せています。
 「平家物語」は13世紀前半、「太平記」は14世紀後半に成立しているとされているので、「髭切」の話が先にはなります。また、腕を斬られたという鬼は、酒呑童子が召し使う「茨木童子」であるとするのは「御伽草子」ではじめてその名がでてきます。
 ここで皆様お分かりのとおり、「太平記」と「平家物語」では、源頼光が刀を持たせて渡辺綱を使わし、綱は鬼の腕を落としたということまでは同じなのですが、鬼については、その現れた場所も姿格好も違い、綱が用いた刀の刀工も違います。
 実は「太平記」では、頼光の武勇を示すためにその刀の由来を述べているにすぎないので、「髭切」の物語と「鬼切」の物語とは合致しないのです。そもそも鬼が出てきた段階で、それを史実と扱ってよいものなのか。鬼とは女が化けたものなのか、童子が化けたものなのか、実在する民なのか、しかしながら現物の刀である「鬼切安綱」は存在するのです。逆に、筑前国三笠郡出山に住む唐国の鉄細工に作らせたという「髭切」は「平家物語」の中だけに留まります。一方、「髭切」と揃いでつくられた「膝丸」は、源頼光が自身を熱病に苦しめた山蜘蛛を斬ったことから「蜘蛛切」という名で呼ばれるようになります。後に紀州の熊野権現に奉納され、源義経の手に渡ったとき、刀身に映った熊野の新緑に感嘆して「薄緑」と名付けられたとあります。現在、この刀は大覚寺に伝わります。いずれにせよ伝奇と史実とが入り混じっていて、「君子怪力乱神を語らず」とは、実はこうした面倒事に首をつっこむな、ということを言っているのかもしれません。
 今春、東京国立博物館で開催された「大覚寺展」では、大覚寺蔵の「膝丸」と北野天満宮蔵の「髭切」の兄弟刀が同一ケースで展示されていました。2振を左右に並べ、なおかつ表裏両方から見られる展示としてはいましたが、表側は立ち止まらないようにと促され、裏側では制限はないものの刃の部分がよく見えませんでした。

〇 童子が鬼になる話
 鬼というのは、なにかと京都方面に出没していたようですが、茨木童子の腕が切り落とされたのは、「平家物語」では一条戻橋となっており、その後の観世小次郎の謡曲「羅生門」では一条戻橋から羅城門に舞台が変わります。ただし、鬼は鬼女のままです。やがて御伽草子の「羅生門」で鬼は茨木童子となり、さらに芥川龍之介が小説「羅生門」を書き、黒沢明監督が映画「羅生門」を作り、それぞれ全く違う話にもかかわらず、ごっちゃになってしまいます。
 「御伽草子」では、酒呑童子は自身を越後国の者と言っており、一説によると、酒呑童子も茨木童子も若い時、新潟の弥彦神社に預けられていたそうです。弥彦観光協会によると酒呑童子は、「童子が生まれたのは天暦2年(948)、名を外道丸といい、両親は貴族の血筋を引く上方の人のようでした。幼少のころから大変な暴れん坊で、10歳ころになると、生まれつきの美男ぶりはますます光を増し、体つきもたくましくなり、知恵も腕力もすぐれていましたが、乱暴ぶりにも輪がかかりました。両親はひどく心配し、霊場で名高い国上寺(弥彦神社の本地)に稚児として差し出されました。
 童子は寺へ上がると、乱暴をピタリとやめ、熱心に仏の道と学問に励むようになりましたが、何分にもまれにみる美男子とあって、その稚児ぶりは越後中に広まりました。振り袖姿の童子のたもとには、たくさんの娘たちから恋文が投げ入れられ、一目見たいと国上寺へ日参する娘たちの数は増えるばかりであったそうです。
 その童子が16歳に達したころから奇妙な風聞がたちました。近郷の若い娘たちが原因不明の病気で次々死に、いつしかそれは、童子に恋い焦がれた娘たちがかなわぬ思いに悩んだあげくの狂い死にではないかというのです。娘心の執念の恐ろしさを聞いた童子は、ある日密かに、これまで開封せずに行李に投げ込んだまま、一杯になっていた恋文を焼き捨ててしまおうと、行李のふたをあけました。その瞬間、モウモウと噴き出した異様な煙とともに、美しい童子の顔は見るも無惨な鬼の形相と化し、飛鳥のごとく、信州・戸隠の方向へ飛び去ったということです。」とのことです。
 また茨城童子については、「茨木童子は酒呑童子同様、美男子で多くの女性に言い寄られ、将来を案じた母親に弥彦神社に送られることになります。ところがある日、弥彦神社から実家に戻ると母が隠した「血塗の恋文」が見つかります。その血を指で一舐めすると、茨木童子はたちまち鬼に変貌を遂げてしまいます。鬼になったのち、茨木童子は酒呑童子と出会い、京へ向かいます。」と鬼をテーマに活動する酒井望奈未さんが述べています。美女が鬼女になるという話はありがちですが、モテ男が鬼になる話は珍しいのではと思います。もっとも現代では、ホストが実は鬼のようだったという話が後を絶ちませんが。ちなみに新潟県長岡市軽井沢には「茨木童子の里」という場所があります。一方、酒呑童子は、鬼面をつけたまま酔いつぶれたら面がとれなくなって、伊吹山の岩穴で暮らすようになったとする説(伊吹山説)もあります。
 また、討ち取られた酒呑童子の首は都に持ち帰られ、帝、摂政、関白らの叡覧の後、平等院の宝蔵に納められ、これによって源頼光は東夷大将軍に、藤原保昌は西夷大将軍に任ぜられたとされます。一方、都に持ち帰る途中、丹波、山城の国境にある老の坂で急に重くなって持ち上がらなくなり、そこで葬られたという説もあります。ここでも諸説あるわけですが、となると、東夷大将軍や西夷大将軍の話はどうなるのかしらん。

〇 鬼の念仏の話
 あまり聞きなれない言葉ですが「鬼の空念仏」という言葉があります。衣装・小道具だけを僧侶にしても、知らぬは本人ばかりなのか顔かたちは鬼のままであり無駄だということです。つまり、鬼が僧の身なりで勧進を行うというのは、形だけの善行の例えであり「偽善をなす人」を風刺したものです。当時の拝金主義的な仏教界への皮肉や、人間の内面性の怖さを表しているとのことです。
 「鬼の念仏」は大津絵でよくみられる図柄です。大津絵は江戸時代初期に、東海道の大津宿で旅人向けに販売されたのが始まりとのこと。旅人のお土産や護符として売られていました。当初は仏画が中心でしたが、次第に世俗画や戯画が増え、風刺や教訓の意味を持つものが多く描かれましたが、江戸後期には絵柄を十種に絞り大津絵十種として売られていました。とりわけ「鬼の念仏」は、大津絵ができた江戸時代当時から、大津絵店の店頭を飾る看板にも描かれる代表的なものです。
 ちなみに大津絵十種の図柄と御利益を紹介しますと、「鬼の念仏」は子供の夜泣きを止め悪魔を払うもの、「藤娘」は良縁、「瓢箪鯰」は水難除け、「雷公の太鼓釣り」は雷除け、「鷹匠」利益を収め失物が手に入る、「槍持奴」は旅の道中安全、「釣鐘弁慶」は身体剛健にして大金を持つ、「矢の根」は目的貫徹で思い事叶う、「寿老人」は無病長寿・長命を保ち百事如意、「座頭」は倒れぬ符となっているそうです。
 今回の展示では河鍋暁斎が描いた大津絵「鬼の空念仏」も展示します。なぜ暁斎が大津絵を模したのかは不明ですが、暁斎は仏画から春画まで、山水画でも絵巻物でもなんでも巧みに描ける人で、「その手に描けぬものなし」とまで言われたそうです。昨今でも人気で、毎年のようにどこかの美術館などで暁斎展が開催されています。近年の開催数は、もしかしたら横山大観展をしのいでいるかもしれません。暁斎は妖怪図も幽霊図も数多く残されており、妖怪展では必須の絵師ではあります。

〇 鬼の住処(すみか)界隈の話
 「酒呑童子物語」の舞台である京都府福知山市大江山には、鬼に特化した「日本の鬼の交流博物館」(略称・鬼博)があります。かつての鬼ブームの際には、さぞや笑いが止まらなかったかとは思いますが、2023年には鬼博30周年「大江山酒呑童子展」を開催したそうです。
 さて、その大江山のすぐ北には、日本三景のひとつである天橋立があります。そのさらに北には伊根湾というこれもまたすばらしい景色の湾岸があります。伊根湾の沿岸には舟屋と呼ばれる建物が約200程度、軒を連ねています。舟屋は、海から船をそのまま引き入れる車で言えばガレージで、漁師の仕事小屋でもあります。それが湾を取り囲むように並ぶ景観は、山に囲まれた盆地に住まう私のような者にとっては、本当に想像を超えるものでして、正直、日本三景以上に魅力的な場所です。
 かつては、天橋立を自転車で渡ったり伊根湾を漁船のような海上タクシーで巡ったりしましたが、今はなんと、天橋立から伊根湾をめぐる大型観光遊覧船が30分間隔ででているとのことで、記憶情報のアップデートをせねばと思うのですが、さらに、ご当地のお土産と言えば、丹後の黒豆やちりめんかな、などと思っていたのですが、この付近はイワシがよく獲れるそうで、天橋立の名物土産はオイルサーディン、伊根の名物土産はイワシのバーニャカウダだそうです。やはり記憶情報のアップデートをせねばと思うのです。人に古い話ばかりしてもしょうがないので。

○ 鬼ヶ島の話
 あとひとつ、鬼がらみの話にお付き合いを。鬼退治の話として、最も知られているのは桃太郎。その話の原型は、古代吉備王国(備前、備中、備後地域)がヤマト国家に服属していく過程の温羅(うら)伝説とされています。この温羅は、製鉄集団を連想させる伝説ともいわれているそうです。百済の王子である温羅という鬼を、ヤマト国家から派遣された吉備津彦が討ったという話ですが、岡山では吉備津彦が桃太郎であるとして、桃太郎の里としてきびだんごを名物にしています。桃太郎がきびだんごを与えたという話は、吉備津彦命が温羅と戦う際に老漁夫からきびだんごを献上されたという伝説や、岡山が黍(きび)の産地であったためとのことです。
 実際、岡山駅でのお土産といえば「きびだんご」しかない感じですが、ちょっと目先を変えれば、もっともらってうれしいものがあります。そうです、マスカット・オブ・アレキサンドリア、全国の95%が岡山県産とのことです。その季節ともなると、全国各地のデパートの地下にある某高級菓子店では、これをまるごと求肥で包んだお菓子をみかけますが、1個が牛丼と同じくらいの値段なので、これが6個入りともなると牛丼6杯分のお値段となるわけでして、そう安々と買ったりはできません。参考までに、山形市内の菓子店では、この7掛程度の値段でシャイン・マスカットを求肥で包んだお菓子が売られてはいますが、そういう問題でもないとは十分承知してはおります。
 さて、桃太郎と言えば鬼ヶ島ではありますが、瀬戸内海に女木島(めぎじま)というところがあります。女木島の中央部にある鷲ヶ峰山頂には巨大な洞窟があり、その昔、鬼が住んでいたと伝えられていることから、別名「鬼ヶ島」とも呼ばれています。
 昔、瀬戸内の某芸術祭に家人とともに行ったときのことです。高松市の北約4km、フェリーで高松港から約20分のこの女木島に、山形からこの島になんかの勢いで上陸してしまったなぁと、それが嬉しくも面白くて家人とともに笑っていたら、現地で迎えてくれたガイド役の若い夫婦から、「この人たち笑っている。」と珍しがられてしまいました。鬼ヶ島で笑っているというのが珍しいのか、島では笑うことがないのか、とにかく珍しかったらしいです。
 港から軽ジープで島の中央にある「鬼ヶ島大洞窟」まで送ってもらいました。大正3年に香川県鬼無町の郷土史家が発見したもので、洞窟が造られたのは紀元前100年頃とのことです。その洞窟の中をしばらく行くと、人を捕らえる監禁室などがあり、その奥には絵にかいたような鬼の人形が置いてありました。当然、金銀サンゴなどはなく、あとはただ帰りの船の時間にあわせて港に戻るだけですが、対向車がくればそのままではぶつかってしまいそうな狭くて信号もない道をワイルドな運転で山を下っていくわけで、案の定、不意に対向車が現れ、間一髪のところで回避したものの、こっちの運転手も動揺していて、ここでも家人とともに笑うしかありませんでした。
 
■ 想像物の話
 約5年ほど前、国立民族博物館で「驚異と怪異」という想像上の生き物を集めたものすごい展覧会がありました。その図録の序文には「人間の脳には限界があり、直接感知できない存在の姿を想像するためには、既知のイメージの部品をなんとか駆使して心像を描くしかありません。その表象のプロセスには、文化人類学者レヴィ=ストロースのいう「ブリコラージュ」(寄せ集め)の思考が見てとれます。」とあり、また、「想像のつかないものは、想像できない」という映画監督スタンリー・キューブリックの言葉も紹介されています。
 今回展示する「山海経」に描かれる生き物がまさしくそうで、数多くのさまざまな生物が登場していますが、それは動物に人の頭、魚に羽や足、首や手足が複数あったりなかったりといったパターンがほとんどです。そう言えば、エジプトの神々などもそんな感じでしょうか。
 一方、日本の妖怪の場合、単なる寄せ集めではなく、想像の幅が相当に広くなります。例えば「百鬼夜行」では付喪神(つくもがみ)という、百年もたつ器物に聖霊が人をたぶらかすものが記述されます。あるいは、何か音がするとそれは妖怪の仕業として、それぞれに対応する妖怪が名付けられたりします。例えば「小豆洗い」や「べとべとさん」など柳田国男の「妖怪談義」にも数多く掲載されています。
 「和楽」のweb記事に「妖怪とは、人知を超えた怪奇現象やそれを起こす不思議な力、非日常的な事象をモチーフにした化物のこと。「妖(あやかし)」「物の怪(もののけ)」などとも呼ばれています。古代では、生物・無生物にかかわらず、自然物にはすべて精霊が宿っていると信じられてきました。妖怪と神の役割は同じく、誰のせいにもできない災禍(さいか)は、人間を超越した存在のせいにすると納得できたのかもしれません。」とありました。
 以上からすると、山海経の時代と日本の妖怪との差というのは、「ブリコラージュ」と「精霊」との差であるようです。この「ブリコラージュ」で思い出すのは、個人的には昭和のヒーローものでして、当時、「快傑ライオン丸」というTVドラマがありまして、これは頭がライオンの剣士が活躍する時代劇で、原初的な「ブリコラージュ」であります。そのドラマの一つに、敵を倒した際に金砂地の太刀が折れ、兄弟弟子の徳心居士がそれを繋ぎ直すため腹に突き刺すというのがあり、幼心に衝撃をうけた話でありました。実はあの「鬼切」にも似たような話がありまして、腕を取り戻しにきた鬼の首を切り落としたところ、頭は太刀の切っ先の五寸を喰い切ったのですが、僧都覚蓮が七日加持すると、天井から折れた刃が下りてきて、覚蓮が切っ先を口に含むと、たちまちに元通りになったそうです。ライオン丸の太刀も、口に含むだけで直せたならねぇ。
 仮面ライダーでも特にV3では付喪神的な怪人がでてきます。デストロンという悪の組織がつくる怪人は、道具と生き物とを合体させる機械合成怪人というもので、「マシンガンスネーク」とか「ドリルモグラ」とかはいかにもという感じですが、「テレビバエ」とか「ガマボイラー」とかになるとナゼこの組み合わせというか、あの「ミシンと傘の偶然の出会い」以上の組み合わせのような気がします。
 一方、「ゴジラ」や「ガメラ」は「精霊」寄りのようで、災禍を基礎とする意味では「ゴジラ」も、あるいはガメラにでてくる「ヘドラ」などはブリコラージュでは創りえないような造形ではと思います。よく調べてみると「ヘドラ」のデザインには女性器や海坊主から引用しているといい、そう言えば妖怪絵図にも男女問わず性器を模った妖怪が描かれたりしたものもあります。それにしてもそれは、大らかなのか恐怖からなのか、どんな仕業をする妖怪なのかしらん。
 また、名付けで気になるのはウルトラマンです。それに出てくる怪獣には、ブルトンとかダダといった名が散見されるわけで、そうです、当時の美術スタッフの皆さんが当時の美術界隈の作家や運動を紛れ込ませていたと思われ、もしかしたらデュシャンとかマンレイなどという怪獣も用意されていたかもしれません。一方、ウルトラセブンには、聖書に出てくる人や地名がそれとなく使われています。ペテロとかカナンとか。きっとアンデレとかゴルゴダなんていうのも候補名になっていたのではないかと。ついでに、あのタローマンが映画になってこの8月に公開されるとのこと。昭和100年ということで、恐らく関連グッズは完売必至かと。余計な話でした、すみません。

〇 付喪神の話
 「百鬼夜行図」は、もとは「今昔物語集」や「宇治拾遺物語」にあるとおり100体の鬼の集団を描いた絵図です。また、「付喪神(つくもがみ)絵巻」というのも同じ室町時代に描かれ、江戸時代には、河童、天狗、猫又、ぬらりひょんなどが登場する図絵が登場します。
 百鬼夜行に出あうと大病を患ったり死んでしまうと信じられていたため、百鬼夜行が出現する「百鬼夜行日」には、貴族などは夜の外出を控えたといわれています。京都の一条戻り橋はその中心の一つとされていました。一条戻り橋は渡辺綱が腕を切り落としたとする場所でもあります。陰陽師の安倍晴明がこの橋の下に式神を隠していたという話もあるそうです。
 さて、有名な伝土佐光信の「百鬼夜行図」は、描かれた妖怪のうち半分が「付喪神」です。付喪神は、長い年月を経て器物に魂が宿り、しかも化ける能力さえ獲得するとされる存在です。「九十九神」という表記も使われ、九十九年、つまり100年近く使い古されたものに宿ると考えられていました。
 100年経つと妖怪になるとすると、今年は昭和100年にあたり、大正期以前の器物はすべて付喪神になるわけで、博物館はまさに付喪神だらけということになります。特に今年注目すべきはラジオでして、日本でのラジオ放送は、1925年3月22日に東京放送局(現在のNHK)が試験放送を、7月12日に本放送を開始しました。つまり当時の放送を受信したラジオはもはや付喪神となる年月を経ています。もしかしたらそれらは、夜な夜な、怪しい声とかを発しているかもしれません。
 室町時代は器物の妖怪のことを「つくも神」と呼んでいて、それは「つくも髪」であり「九十九(つくも)」のことであったといいます。「九十九」は「百」の字に一画たりない「白」の字の代用で、白髪を「つくも髪」とも言っていました。また、水中の岩などに藻がつくほどの歳月が経っていることから「つくも」と言ったという説もあります。なぜ九十九を「つくも」と読むのかというと、つくもの「も」は百(もも)のことで、古典の「次百」(つぐもも)に由来し、「常に百を目指して挑戦する」という意味が込められているそうです。
 山形市には「九十九鶏弁当」というのがあり、その名の由来はわからないのですが恐らく100を目指していたのかと。とにかくこの弁当は、それこそ山形市民の高級ソウルフードというか、この弁当さえ出しておけば、どんな場面でもどんな弁当よりありがたがられる神のような弁当ではあります。

〇 地獄観光の話
 皆様ご承知のとおり、国内には地獄と銘打った有名観光地もいろいろありまして、ざっと思いつくだけでも登別温泉、箱根、別府温泉など、いずれも有名な温泉地でもあります。
 まずは「登別地獄谷」。岩肌の裂け目から白煙が立ち上り、まさに絵に描いたような地獄の風景が眼前に広がります。温泉町から歩いてすぐの場所でアクセスも容易。国際的にも有名らしく、ほぼインバウンドさんばかりで、日本語での会話が全く聞かれない場所でもあります。地獄谷の入口から鉄泉池へと続く遊歩道が、毎日夜間にライトでほのかに灯され「鬼火の路」と名付けられています。
 つぎに「箱根大涌谷」。その昔は「地獄谷」と呼ばれた場所で、ここも白煙が立ち上る地獄のような景色の上空をロープウェイで行くのですが、ロープウェイで地獄に連れられて行く感じです。1分間隔(!)で運行されていて、途中下車できます。その中央にある大涌谷駅で有名なのが真っ黒いゆでたまご。硫化水素で殻が黒くなっているのですが、たいへん美味しく「一つ食べると寿命が7年延びる」と言われています。確かその時、私は2個食べたので、14年くらい寿命が延びているはずです。とにかくアクセスがよく小田原から御殿場、芦ノ湖、三島まで使える「箱根フリーパス」というのが信じられないくらい便利で、ロープウェイの他、バス、電車、箱根海賊船まで乗れてしまいします。
 そして、「別府地獄めぐり」。7つの地獄と名付けられた場所があり、赤、青、白の池であったり間欠泉であったり鰐がいたりする地獄をめぐるものです。「血の池地獄」以外はいずれも100度に近い熱泉で、その共通観覧券は、別府地獄組合というところで販売しています。1日で全てを巡ることもできるので、お手軽な観光ではあります。なので私は2巡程しています。また、別府八湯という八つの温泉郷(浜脇温泉、別府温泉、観海寺温泉、堀田温泉、明礬温泉、鉄輪温泉、柴石温泉、亀川温泉)があり、これをめぐるスタンプラリー「別府八湯温泉道」というのもあるのですが、入湯修行をうたっているだけに、一日でめぐるのは大変かと。さすがにこれは行けていません。
 そうそう、温泉スタンプラリーで思い出したのですが、長野県の渋温泉に「九湯めぐり」というのがあります。温泉地内の地元の人だけが入る共同浴場(外湯)を巡り、「祈願手ぬぐい」にスタンプを押印するというもので、宿泊者限定で外湯の鍵を預かり巡るというものです。急げは半日程度で廻れます。というのも、いずれも結構熱くて長湯ができないからです。ささやかな自慢話をすれば、ここでは金具屋に宿泊することができました。四万温泉の積善館とともに例の某ジブリ映画のモデルとも言われる旅館です。
 さて、渋温泉は温泉街としてとても風情のある素敵な場所なのですが、この近くに有名な地獄があります。地獄谷野猿公苑という、あの温泉に入るサルで有名な場所です。ここにはライブカメラが据え付けられ、「サルたち出勤予報」というのもネットで見ることができます。この温泉地にある「湯田中駅」までは長野電鉄が通っています。特に「スノーモンキー」号と名付けられた車両は、成田エクスプレスの旧型車両が用いられていて、「ハットラック荷棚」という旅客機のような扉付き荷棚など、当時、成田空港にこれで往復した方にはたまらないです。長野電鉄はこうした車両をいくつか走らせていることで鉄道ファンには有名で、鉄オタでもない私もかつて、あの旧小田急ロマンスカーの先頭車両に図らずして乗れた時には感激ものではありました。
以上、地獄観光というよりも、個人的な旅の思い出話ではあります。

〇 地獄八景の噺ではなく話
 落語に「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」という大ネタがあります。1時間以上の噺で、これを高座にかけるときには「〜に挑戦」とまで書かれたりもします。この落語は聴いてる最中は面白いのですがあまり記憶に残らず、なぜか微かな感動のみが残る感じです。地獄そのものはあまり出されず、閻魔や鬼たちとのやり取りが中心となるのですが、駄洒落などのオンパレードで、地獄でのショッピングは「メイドイン冥途」、ナイトライフは「骸骨のストリップ」、映画館もありまして、親鸞、法然、道元、日蓮、出演のSFXの超大作「スター・ボーズ」とか、アニメ「ドザエモン」とか、流れる歌謡曲は「三途川の流れのように」など、寄席も亡くなった名人ばかりのそうそうたる顔ぶれとなるのですが、とある高座で、「桂枝雀 近日来演」と噺に入れたところ、間もなく本当に亡くなってしまい(うつで自死)、その時は洒落にならなくなったという話があります。
 さて、地獄八景とは申しますが、地獄は一般的には8階層(等活地獄、黒縄地獄、衆合地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、焦熱地獄、大焦熱地獄、無間地獄)あるとされていて、またそれぞれに16の小地獄が付いていて、都合8+16×8=136の地獄があるそうです。それぞれの地獄へは生きていた時の罪状(1殺生、2偸盗(ちゅうとう=盗み)、3邪淫、4飲酒、5妄語、6邪見、7犯持戒人(=尼僧などを犯すこと)、8父母と阿羅漢の殺害)で決まります。殺生だけなら等活地獄、それに偸盗が加われば黒縄地獄、それに邪淫が加われば衆合地獄へとなり、全てを犯せば無間地獄となります。
 一番軽いのが殺生というのは意外かもしれませんが、蚊を殺しても殺生ということで、大抵の人がこの地獄に落ちることとなります。もはやムリゲーのような世界なのですが、殺生と当然かかわる戦国武将などはこれ故に、仏道に熱心であったという説もあります。また、妄語というのは嘘のことで、嘘をついたことがないという人もほとんどいないと思われますが、やっかいなのは、殺生と妄語だけで大叫喚地獄に行ってしまうのかということです。また微妙なのは、略奪愛は偸盗なのか邪淫なのか、それに酔った勢いが加われば飲酒なのか。そもそもなぜに飲酒は叫喚地獄まで行かなければいけないのかと。まあ、いろんな疑問やら想定やらあるとは思いますが、たいていの場合、まずは大叫喚地獄行きです。
 さて、それぞれの地獄では寿命というか刑期があり、例えば一番軽い等活地獄は500年です。ただし、人間界の50年を一日とした場合の500年がこの地獄の一日としてそれが500年と計算するので人間界では1兆6653億1250万年です。無限地獄となると人間界の6400年を一日とした場合の6万4000年を一日として6万4000年で349京2413兆4400億年にあたるとのこと。ただ、この計算方法には諸説あり、この期間を一中劫(こう)という単位で表すこともあり、それは計算すると3億1996万年ほどになるといいます。この劫とはヒンドゥー教では1劫 は 43億2000万年です。ただ、「一中」というのがややこしい計算になります。
 そしてその場所なのですが、最下層の無間地獄は地上から4万由旬(ゆじゅん)の深さで縦・横・高さ各2万由旬の大きさがあり、その上つまり深さ2万由旬から一番浅い深さ1千由旬の等活地獄までの1万9千由旬の中に、その他の7つの地獄が重層しているそうです。
 由旬とは長さの単位で、牛に車をつけて1日引かせる行程のことなのだそうですが、人間の背丈の8,000倍という説もあるのでそれであれば約13km、地球の直径は約13,000kmなのでちょうど深さ1千由旬のところにある等活地獄あたりが地球の反対側となり、日本からみればブラジルあたりが等活地獄ということでして。その以降は宇宙へ突き抜けてしまいますが、そこは異空間というかマルチバース宇宙というか。ちなみに、三途の川の幅は40由旬とのことです。東京〜大阪間程度でしょうか。なお、「地獄八景亡者戯」には、三途の川の渡し銭の話もあって、それは死因によって料金が違うとのことです。
 さてここで「血の池地獄」の話でも。これは血でできた池に入れられて、その血を飲まされるという地獄ですが、実は仏説にでなく、偽経である「血盆経」に由来して鎌倉時代頃からのものと考えられています。女性は血の穢れのために血の池地獄に堕ちるとされもので、今どきであればジェンダーに関わる差別的な事象ではあります。ただ、そこには救済者である如意輪観音がいて、この「血盆経」が書かれた紙を渡してくれるそうです。また、子どもを産まない女性は石女(うまずめ)地獄へ堕ちるということになっていて、この時代の女性観が地獄にも表れています。
 実は男性専用の地獄もあります。「刀葉林(とうようりん)」という衆合地獄にある小地獄ですが、刀葉樹という刀の葉が繁る木の上から美女が招き、そこへ登ると木の下にその美女が現れ、登り降りして身体がずたずたに裂かれるのを永遠くり返すというものです。
 また、男女ともに地獄というのが「両婦(りょうぶ)地獄」でして、1人の男性が蛇体となった2人の女性に巻き付かれるのですが、つまりは正妻と妾との嫉妬などで苦しめられる地獄でして、絞める方も絞められる方も地獄ではあります。いわゆる修羅場とも言われるものですが。
 さて、別府にある「血の池地獄」は、日本最古の天然地獄で、1300年以上の歴史を持つそうです。この池の脇にレトロな売店がありまして、この池から湧き出る粘土から作った皮膚病に効く「血の池軟膏」を明治時代から販売しています。このパッケージがまたレトロで、買わずにはいられない、というか私は買ってしまいましたが、魅惑的な品です。この他「血の池地獄温泉水」とか「血の池地獄 蚊取り線香」とかこれからの季節にピッタリです。
 ちなみに「地獄の一丁目」という言葉がありますが、名古屋には極楽一丁目から五丁目まであるようです。そこへは行ったことはないのですが、味噌カツ食べ放題とか、ひつまぶしおかわり自由とか、きっとそんな場所なのかと。

〇 地獄文学の話
 「地獄変」というと、同名の芥川龍之介の作品を思いだされる方も少なくないとは思います。あれはなんとも救いのないような話で、地獄も鬼も描かれている話です。芥川龍之介の作品には、「蜘蛛の糸」とか「羅生門」とか、地獄の中の人間の業のようなものをえぐり出すものがいくつかあります。
 芥川龍之介に「孤独地獄」という作品もあります。そこには「仏説によると、地獄にもさまざまあるが、凡およそ先づ、根本地獄、近辺地獄、孤独地獄の三つに分つ事が出来るらしい。それも南瞻部洲下過五百踰繕那乃有地獄(なんせんぶしうのしもごひやくゆぜんなをすぎてすなはちぢごく)ありと云ふ句があるから、大抵は昔から地下にあるものとなつてゐたのであらう。唯、その中で孤独地獄だけは、山間曠野樹下空中(さんかんくわうやじゆかくうちゆう)、何処へでも忽然として現れる。云はば目前の境界が、すぐそのまま、地獄の苦艱を現前するのである。自分は二三年前から、この地獄へ堕ちた。」とあります。芥川龍之介の中の地獄です。
 また、「侏儒の言葉」には、当然のように「地獄」という項目があります。「人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与へる苦しみは一定の法則を破つたことはない。たとへば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食はうとすれば飯の上に火の燃えるたぐひである。しかし人生の与へる苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食はうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外楽楽と食ひ得ることもあるのである。のみならず楽楽と食ひ得た後さへ、腸加太児(ちやうカタル)の起ることもあると同時に、又存外楽楽と消化し得ることもあるのである。かう云ふ無法則の世界に順応するのは何びとにも容易に出来るものではない。もし地獄に堕ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟の間に餓鬼道の飯も掠かすめ得るであらう。況や針の山や血の池などは二三年其処に住み慣れさへすれば、格別跋渉の苦しみを感じないやうになつてしまひさうである。」芥川龍之介の人生に比べれば、地獄など単純すぎるようです。
 それでは最後に、山形に所縁のある地獄文学でも。芥川龍之介も注目したという斎藤茂吉の代表的な歌集「赤光」には、「地獄極楽図」連作11首というのがあります。これらの地獄の情景は、茂吉の郷里である山形県金瓶村宝泉寺で毎年展示する掛図の記憶に拠るものだそうです。
   浄玻璃にあらはれにけり脇差を差して女をいぢめるところ
   飯の中ゆとろとろと上る炎見てほそき炎口のおどろくところ
   赤き池にひとりぼつちの真裸のをんな亡者の泣きゐるところ
   いろいろの色の鬼ども集りて蓮の華にゆびさすところ
   人の世に嘘をつきけるもろもろの亡者の舌を抜き居るところ
   罪計に涙ながしてゐる亡者つみを計れば巌より重き
   にんげんは牛馬となり岩負ひて牛頭馬頭どもの追ひ行くところ
   をさな児の積みし小石を打くづし紺いろの鬼見てゐるところ
   もろもろは裸になれと衣剥ぐひとりの婆の口赤きところ
   白き華しろくかがやき赤き華あかき光を放ちゐるところ
   ゐるものは皆ありがたき顔をして雲ゆらゆらと下り来るところ
茂吉の見た地獄というのは、こういうトコロテンということで、あっ、いやその、某ドラマで言ってるじゃないですか、「ありがた山」とか「おまち丼」とか。