最上義光歴史館
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■白い花の話
ツツジと言うと、かつて某市立病院を建て替えたときに、病院の周囲を白いツツジの植栽で囲んだところ、人を弔うような感じがするとの市民からの声があり、色のついたツツジに植え替えたことがありました。確かに盛大な葬祭などでは、壇上を白い菊のとかで飾ることはありますが、あとはユリや白いカーネーションなども飾られるでしょうか。四十九日までは白い花という仏事もあるそうです。 ところが近年、人を弔う時の色は、白ばかりに限るものでもないようです。最近、義母が亡くなったのですが、その棺の中には色とりどりの花を添え、その棺もオプションでしたが桜色のものでした。以前、「花びらの白い色は、恋人の色ぉ〜」とベッツィー&クリスという人たちは歌っていましたが、ああ、それでか。実は病院が恋人の色になることも問題だったのかと。 ■植木市の屋台の話 今年の「薬師祭植木市」には350店が出店予定とのことですが、植木を扱う露店は少なくなり、多くは飲食物を扱う屋台です。その屋台もだいぶ様変わりをしていて、近年目立っているのが「10円パン」という500円のパンです。御承知の方も多いかとは思いますが、10円を模ったベビーカステラのような生地の中にとろりとしたチーズが入っているもので、カスタード味やあずき味もあるのですが、もとは韓国の「10ウォンパン」が発祥です。ちなみに10ウォンというのは、大雑把に言えば1円程度です。 近年の屋台では、なぜか韓国メニューが増えてきており、トッポギとかチーズハットグとかキンバとかチヂミとかも見かけます。こうなるとそのうち、植木市でも「チンチャ マシッソヨ!」(超うまい)とか言いながら食べ歩くことになるのでしょうか。 ちなみに、かしこまった表現をする場合は、「マシッスムニダ」、友達や年下の人に対して使う場合は「マシッソ」と言い、独り言として「おいしい」と言いたい場合は「マシッソヨ」の原型である「マシッタ」となるのだそうです。これだけ覚えれば、韓国屋台のグルメ通を名乗れるかも。 ■どんどん焼きの話 山形の屋台グルメと言えば、なんといっても「どんどん焼」でしょう。山形のソウルフードであり、芋煮以上に愛され、ましてラーメンなどは最近の話です。「どんどん焼」とは、関西以西で言うところの「はしまき」で、割りばしに巻いたお好み焼きですが、仙台では「くるくるお好み焼き」とも言うらしく、これが一番わかりやすいかもしれません。 昔、この山形城というか霞城公園の北門付近では、自転車で屋台をひいたおばちゃんがこの「どんどん焼」を作っていたのですが、やがてバイクで屋台をひいたおじちゃんが作るようになり、場所も北門から大手門付近に移っていった記憶があり、そのうち、お祭り以外には見かけなりました。 通常のどんどん焼は濃いソース味ですが、頼めばしょうゆ味にもしてくれ、かつては卵入りというオプションもあって、これはしょうゆ味の方が合うような気がしたのですが、この卵入りはこどもにとっては高級品で、そうそう頼めるものでもなく、たしか卵を持参すると普通料金で焼いてくれたような記憶があります。 「どんどん焼」については、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」がアツくて驚きますが、とりわけ山形の「どんどん焼」の説明が詳しく、ここに熱いソウルを感じます。欲を言えば、現在の状況についてアップデートがほしいところです。 ■ハッカの話 お祭りの屋台というと、小さい頃は「ハッカパイプ」がお気に入りでした。ビニール製のパイプとか小さな人形のような容器にハッカ砂糖が詰めてあり、それを吸うもので、ホイッスルになる容器もあり、首掛け用のヒモも付いていたりします。 これとは別にハッカ糖というのもあり、これをくだいても、似たようなものができそうですが、最近は大人用のハッカパイプというものもあり、これはパイプやキセル状のものにメントールの結晶を仕込んで吸うというものです。さらには、これを炙って吸うという方法もあり、もしかしたら、粉末を鼻から吸うという方法もあるかもしれません。なんかアヤしい感じにはなるのですが。 さて、ハッカは、北海道産が有名ですが、実は、山形県天童市高擶出身の屯田兵が北海道にハッカを持ち込んでその礎を築いたそうです。いまも天童市高擶ではハッカを栽培しており、在来種の「山形赤円(あかまる)」はやさしくて爽やかとのこと。実は天ぷらもおすすめだそうです。ハッカというのは虫よけにもなり、知り合いの大工さんは、虫よけとしてハッカ油をつけると言っていました。ハッカ油の使い方としては、風呂に数滴入れるのもよく、スースーとポカポカが同時にきて夏でも冬でもいいのですが、量が多すぎるとむせったりヒリヒリしたりします。 ハッカに似たものにミントがありますが、酒飲みとしてはこれからは「モヒート」の季節、そう、あのヘミングウェイの愛したカクテルのひとつです。山形ではつと知られた老舗のバーで、説教好きの老女バーテンダーが一人でやってる店があり、ある日ここでモヒートを頼んだところ、「今、ミントを切らしていて、店の外にミントが生えているかもしれないから摘んできて。」と言われ、店の外に出ると、確かに入口の一角に何やらごそごそと草木が生えていて、酔っ払いが何かをまき散らしてもわからないような感じなのですが、やはりミントも生えていて、それで作ってもらうことができました。 ちなみにこのバーの看板カクテルは「ジントニック」で、大ぶりなグラスにたっぷりと作る、他所には類をみない絶品です。山形に来るいろんな有名人がこれを飲みにくるという話で、ここは間違いなく本格的なカクテルバーなのですが、店名はなぜかワイン産地の名であり、しかもその老女バーテンダーは、瓶ビールを飲みながら接客(説教も)します。 |
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■カリヨンの選曲の話
当地にあるカリヨンは昭和62年 (1987年)に設置されたもので、演奏はコンピュータ制御(今となってはレトロな語句ですが)によるものです。 ------------------------------------------------------------------------- 鳴動時間 ��10時 ��12時 ��13時 ��15時 ��18時 〈春季〉3月1日〜5月31日 �.蹈競爛鵐粘崛婉�(シューベルト)、�⊇佞�来た(岡野貞一)、��春(ビバルディ)、 �ぅ團▲離愁淵紳�11番(モーツアルト)、�チ畚嬋�(中田章) 〈夏季〉6月1日〜8月31日 �〔遒个�(シューベルト)、��茶摘み(文部省唱歌)、�2討詫茲�(小山作之助)、 �じ魘繕並�6番(ベートーベン)、�ド誉蘢�(弘田龍太郎) 〈秋季〉9月1日〜11月30日 �,佞襪気�(岡野貞一)、��展覧会の絵(ムソグルスキー)、 ��小さい秋見つけた(中田喜直)、�のい僚�(貝沼実)、�ネ湿討云�焼け(草川信) 〈冬季〉12月1日〜2月末日 �.哀蝓璽鵝Ε好蝓璽屮�(イギリス民謡)、��楽興の時(シューベルト)、 ��主よ人の望みの喜びよ(バッハ)、�せ匱蕷�(シューベルト)、�ヅ澆寮浦�(ヘイズ) -------------------------------------------------------------------------- 「展覧会の絵」からは第5曲「卵の殻をつけたひよこの踊り」とか、「四季」からは夏の第3楽章とか、ちょっとしたひねりがあってもよさそうなものですが、カリヨンでこれをやられると、やはり忙しいというかうるさくってたまらないわけで、節度というかその辺もあっての選曲なのでしょう。 ■ホロヴィッツの話 ベートーヴェンのピアノソナタは32番までありますが、そのピアノソナタ全集のCDがいつの間にか手元にも何セットか溜まっていて、全てを丁寧に聴いているわけでもないのですが、仲道さんの他、ゼルキンさんとかポリーニさん、グルダさん、ブレンデルさん、最近はイゴール・レヴィットさんという人のものを入手しました。今は安価で入手できる全集も多く、中古品などは3千円程度で買えるものもあります。 この全曲演奏ということについては、かつてあのホロヴィッツさんが来日したときに、インタビューで次のように答えていました。(以下、「音楽の友 1986年8月号」〜ひとりの作曲家のピアノソナタ全集をレコーディングしない理由〜を引用) ----------------------------------------------------------------------- 〇インタビュアー:さまざまなピアニストが、たとえばベートーヴェンのピアノソナタ全集とか、モーツァルトのピアノソナタ全集といったかたちでレコーディングしますが、ホロヴィッツさんには、そのような、いわゆる「全集」がありません。これといったお考えがあってのことでしょうか? ●ホロヴィッツ:そのような「全集」を録音することに対しては、とても反対です。というのは、いかに素晴らしい作曲家が作曲したとはいえ、なかにはそれほどよくない作品もあるからです。わたしは、やはり、いい作品だけを弾きたいと思います。わたしの家内の父(ホロヴィッツ夫人は、往年の名指揮者アルトゥーロ・トスカニーニのお嬢さんである)の名文句ですが、いくら天才といったって、24 時間、ずっと天才でいられるというわけではない、という言葉があります。ベートーヴェンを例にとっておはなしすれば、初期のソナタは気にいっています。しかし、晩年の、耳が聞こえなくなってからのベートーヴェンのソナタは、それほど気にいっていません。それに、こういうこともいえます。ベートー ヴェンは、32 曲のソナタを作曲するのに、ほぼ 30 年もかけました。ベートーヴェンが 30 年もかけて作曲したものを、ピアニストが、わずか 2 週間ほどで録音してしまうというのは、もともと無理だと思いますね(笑)。 〇インタビュアー:おっしゃることはとてもよくわかるのですが、ききての側から申しますと、いろいろな作品をホロヴィッツさんの演奏できいてみたい、という気持があります。 ●ホロヴィッツ: それにしても、ベートーヴェンのソナタの 32 曲すべて、というのは無理ですね。ただ、モーツァルトのソナタは、どれも好きですから、「全集」の録音も考えられなくはありませんが、そんなことは 必要ないとも思います。ある、モーツァルトをとても得意にしている、したがってモーツァルトのソナタの「全集」を録音しているピアニストの演奏を、ある時、コンサートで聴きました。素晴らしい演奏だったので、後で、その人の「全集」のレコードを聴いてみました。そうしたら、なかには、これはと思うような演奏もありました。だからといって、そのピアニストがいいとか悪いとかいうことではなくて、やはり全部をひとりでこなすことに無理があったんです。 --------------------------------------------------------------------------- ということで、それはそのとおりとも思いますが、リスナーとしては、曲の良し悪しや演奏のアタリハズレを云々するという楽しみ方もあるので。また、後期のソナタ、特に30番から32番というのは人気があり、先日亡くなったポリーニさんの2012年来日時の最終日プログラムがこの3曲でした。この来日ではなんと第21番から32番までを日替わりで4回にわけ演奏しました。しかしながら、全曲録音には39年の歳月を費やしています。 仲道郁代さんの場合、ソナタ全集のCDがベートーヴェン生誕250年記念特別企画として出されています。また、2027年が仲道さんの演奏活動40周年とベートーヴェンの没後200年とが重なる年ということで、2018年から全20回シリーズでリサイタルに挑んでいるそうです。なんかポリーニさんより戦略的です。 個人的にはグールドさんが弾いた第30番がとても好きです。ショパンのピアノソナタのような感じで、曲自体もショパンのソナタ第2番「葬送」の最終楽章よりはずっとショパンぽいです。それにしてもその楽章はなんともつかみどころがなく、ショパン自身は「行進曲のあと左手が右手とユニゾンでおしゃべりをするのだ。」と書き残しているそうですが、サティやケージがやりそうなことをすでにショパンがやってた感じです。 ■神童の話 ベートーヴェンの話のついでにモーツァルトの話も少々。 有名人には何かしらの呼称がつけられることがあります。ベートーヴェンは「楽聖」、バッハは「音楽の父」、ヘンデルは「音楽の母」。ということで、父がいて母もいるということは、タロウもいることになりますが、音楽のタロウというと、タキレンタロウかピコタロウぐらいしか思い浮かばず、かわりに「神童」というのがおりまして。そうです、モーツァルトです。ということで、彼が神童といわれる逸話をひとつ。 ローマのシスティーナ礼拝堂の「暗闇の朝課」という特別な礼拝では、アレグリ作曲の「ミゼレーレ」という曲が用いられます。この作品は、霊性を保つ目的で採譜を禁じられ、この特別な礼拝でのみ演奏されることを許されていました。システィーナ礼拝堂以外の場所で記譜または演奏する行為は、破門によって処罰されました。 モーツァルトは幼い時から音楽の才能があり、父はそれをもって欧州各国をまわり商売にしていました。当時14歳であった彼がローマを訪れていた際、この楽曲を水曜礼拝で初めて耳にしました。その記憶を頼りに採譜し、金曜日に再び礼拝堂へ赴き曲を聞いて修正し、完コピしたそうです。9声で構成され、4声と5声の二重合唱の曲ですが、9声部を聞き分け譜面におこすという、やはり「神童」です。 アレグリ作曲の「ミゼレーレ」は大変美しい曲で、今は門外不出でもなく、まして、モーツァルトのような神童による採譜も必要なく、ネットでお手軽に聴くことができます。 ■山寺の焼き打ちの新説の話 ここで突然ですが、前回、鬼門特集の日誌をアップした翌日に、当館ボランティアの方から、山寺が焼き討ちに合い不滅の法灯が消滅したのは大永元年(1521)ではなく大永4年(1524)であると、最近の郷土史研修会で聴いた、という話がありました。 世間一般には大永元年(1521)であると知られていて、先出の当館「歴史館だより��10」に寄稿いただいた伊藤清郎(山形大学教育学部教授・文学博士)の論説にも、天童市成生地区地域づくり委員会の天童頼直公の資料にも「1521年 天童頼長、成生十郎伊達郡に協力した山寺立石寺を攻め一山を焼き打ちする。」とあります。しかし先の研修会では、「干戈(かんか)」すなわち戦(いくさ)の記録があるのは大永4年(1524)であり、また伊達氏に加担したことが理由ではなく、周辺の領地争いによるもので、「大永の兵乱」と称するとの説明がなされたとのことです。 ネット情報のコピペばかりで物を書いている私としては、一次資料として何を求めればいいのかなどわかるわけもないのですが、郷土史においても、というか、郷土史こそ年々新たな発見がなされるのだなぁと、畏敬の念をもって傍観するばかりです。 |
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■一遍伝説の話
一遍上人の有名な言葉に「花のことは花に問え、紫雲のことは紫雲に問え」というものがあります。弘安5年(1282年)3月、一遍と時衆の一行は鎌倉に入ろうとしたのですが武士団に制止され、「鎌倉の外ならおとがめはない」と言われ、やってきたのが片瀬の地蔵堂です。武士、庶民、高僧らが続々と片瀬に集まり、多くの人々が歌い踊ったとき、周囲に紫の雲がたなびき、天から花が舞い落ちてきました。一人が不思議に思い一遍上人に尋ねたところ、「花のことは花に問え、紫雲のことは紫雲に問え、一遍知らず」と応えます。花も紫雲も自分が何かしたものではないと。続けて「花がいろ月がひかりとながむれば こころはものをおもわざりけり」と詠んだそうです。ただただ、目の前の事象を受け止めればよいと。 地蔵堂には4カ月も滞在し、踊り念仏をしています。この時一遍は44歳。「南無阿弥陀佛」と踊りまくったのです。一遍は平安時代の高僧「空也上人」に倣い、人々が集まる場所に簡易の舞台を設け、同行者とともに輪になって歌い踊りました。踊念仏に参加すれば極楽往生できると説いたため、周囲の人々が大挙して熱狂的に踊り、舞台の床板が抜けたという記録もあるといいます。 弘安7年(1284)に京都に入ります。「紙本著色遊行上人絵」巻第三には、四条大橋を渡り念仏札を配り、市場京極の釈迦堂に入り説法をする場面が描かれています。一遍の行くところでは必ず「御賦算」、つまりお札くばりをしました。お札には「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と刷り込まれ、一枚ずつ手ずから配ったそうです。60万人にお札を配ることを願ったものですが、25万1千余人配られました。 京都では「勢至菩薩」の生まれ変わりと噂され、藤原基長は夢に一遍が現れたことを喜び手紙を送ります。しかし一遍は、「それで仏を信じる心が生まれれば良いことだ」と言っただけでした。踊りは熱いのに、応対はクールです。 正応2年(1289)8月に兵庫観音堂で遊行を終えます。死を覚悟した一遍は、「我が化導は一期ばかり(私が指導を行うのは私が生きている間だけ)」と言い、持っていた少しの経を書写山圓教寺の僧に送った以外は焼き捨て、亡くなりました。最後に「我門弟におきては葬礼の儀式をとゝのふべからず。野に捨ててけだものにほどこすべし」と言い残したそうです。終活の手本のようでもあります。 ■狩野派について 狩野派とは、室町から江戸にかけて続いた流派です。血縁関係でつながった絵師の集団で、幕府の仕事を担ってきました。足利将軍家の御用絵師となった狩野正信を始祖とし、その嫡男・狩野元信、元信の孫・狩野永徳、さらにその孫の狩野探幽らが有名です。特に桃山から江戸初期の時代に建築ブームが始まると、集団による分業制によって障壁画など大きな作品を手掛けました。襖障子や屏風など大きく貴重なものも多く、博物館スタッフの間では、狩野派ものの展示となると「ここに狩野は、可能かのぅ」といった駄洒落が飛び交うらしいです。 狩野永徳は、織田信長、豊臣秀吉といった権力者の画用を務め、安土城や大坂城の障壁画を多く描きましたが、これらは建物とともに消滅しています。現存するものとしては、国宝「唐獅子図屏風」(宮内庁) 、国宝「檜図屏風」(東京国立博物館)、国宝「洛中洛外図屏風」(上杉博物館)などがあります。信長や秀吉の生前には、他の戦国武将が狩野永徳やその後継者・長男の光信に製作を依頼することができなかったため、最上義光は永徳の弟である狩野宗秀に「紙本著色遊行上人絵」の模写を依頼したと思われます。 狩野宗秀の現存する作品は少なく、国宝もありませんが、教科書やテレビでおなじみのあの「織田信長像」(重要文化財、長興寺)があります。また、「柳図屏風」(相国寺)という六曲一隻の屏風があります。これが兄・永徳の堂々とした四曲一双の「檜図屏風」とあまりにも対照的で、柳の枝は風に流される一方、その幹は風上に向かっていくような、まるでディズニーアニメにでてきそうな感じの、そして琳派をも思わせるようなシンプルな絵柄です。織田信長像もそうですが、宗秀の絵図はなんか動かしてみたくなる、そんな作風です。 ■源五郎の話 源五郎とは、最上義光の孫で第三代山形藩主である「最上家信」こと「最上源五郎義俊」のことです。 元和3年(1617)3月6日、初代山形藩主の最上義光の跡を継いだ最上家親が急逝(享年35歳)しました。義光没後わずか3年、このとき源五郎は12歳でした。その2日後の3月8日、山形城下が大火に見舞われました。光明寺の記録には「山形寺社多く焼失、当山も残らず類焼」とあります。重なる凶事に最上領内は不安に覆われ、12歳の源五郎でよいかどうか、幕府内部でも検討されましたが、家督相続は源五郎がすることを5月3日に承認しました。源五郎が、父が家康からもらい引き継いだ「家」字による「家信」を名乗るようになったのはこの頃です。 家信は程なく江戸に出て、江戸城和田倉門付近の最上邸に滞在したようです。広島藩主福島正則の改易において、福島邸を接収するなど成果をあげる一方、元和6年9月12日の「徳川実記」には、「十二日、最上源五郎義俊(=家信)は、少年放逸にて、常に淫行をほしいままにし、家臣の諫めを用いず、今日浅草川に船遊して妓女あまたのせ、みずから艪をとりて漕ぎめぐらすとて、船手方の水主(かこ/船頭)と争論し、かろうじて逃げ帰る、水主等追いかけてその邸宅に至り、ありしさまを告げて帰りしかば、この事都下紛々の説おだやかならず」とあります。 このような主君ということで家臣は離反しはじめます。重臣たちは相互に不信感をつのらせ仲間割れします。家来の多くは、義俊を藩主の座から退かせ、叔父にあたる山野辺右衛門義忠を藩主とし最上家を継がせようとしました。 ところが、家老の一人、松根備前守光広は承知しませんでした。のみならず、彼は家親の死について「毒殺の疑いあり」と幕府に訴え出ました。家親が鷹狩りの帰途の宴席でにわかに病を発し絶命したことについて、「山野辺を主にしようと考えて家親を毒殺し、また若年の義俊をすすめて酒色にふけり、国政を乱すように仕向けたのだ」と。しかし、幕府が取り調べをしたところ、松根の言い分には根拠がないことが判明。 義俊は若年無力、家老は不仲、そのような最上家に一国を預けることはできぬ。幕府は、元和8年(1622)8月18日、ついに断を下しました。「最上領、25城、57万石は収公する。代わって、近江・三河に合わせて1万石を与える。」 こうして義光が築き上げた藩体制は崩壊しました。これほど大きな大名が改易処分となった例はほかになく、全国諸大名にとって衝撃的な事件でした。しかも最上家は、徳川家康、秀忠の二代にわたって親密な関係にあったにもかかわらずです。 この年、家信は17歳。江戸の最上邸は返還させられ、元和9年8月以後「家信」の名も返し、「源五郎義俊」が呼び名となります。その栄枯盛衰について詳しくは、当館ホームページ「源五郎」で検索を。 |
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■「おくの細道」出羽三山の話
以下、「おくの細道」の月山の鍛冶小屋の記述部分です。山形県には旧暦5月17日(新暦7月3日)に尾花沢に入り、6月27日(新暦8月12日)に温海を出ます。なので、文頭の「八日」は6月8日(新暦7月24日)のことです。また文中に「彼竜泉に剣を淬(にら)ぐとかや。干将・莫耶の昔をしたふ。」とありますがこれは、「かの中国の龍泉では(その霊水で)剣を鍛えた。(刀工夫婦の)干将・莫耶の苦労をしのぶ」というものです。 ------------------------------------------------------------------------- 八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こごえて頂上に臻れば、日没て月顕る。笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば、湯殿に下る。 谷の傍に鍛冶小屋と云有。此国の鍛冶、霊水を撰て、爰に潔斎して剣を打、終「月山」と銘を切て世に賞せらる。彼竜泉に剣を淬とかや。干将・莫耶の昔をしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。 岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし。 行尊僧正の歌の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。惣て、此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとヾめて記さず。坊に帰れば、阿闍梨の需に依て、三山順礼の句々短冊に書。 涼しさや ほの三か月の 羽黒山 雲の峰 いくつ崩れて 月の山 語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな ------------------------------------------------------------------------- 芭蕉は出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山) の三山を巡礼した後、その順に句を書き留めています。それら句の芭蕉の真筆の短冊は山形美術館に所蔵されていますが、山寺芭蕉記念館ではその複製を展示しています。 羽黒山は現世の幸せを祈る山(現在)、月山は死後の安楽と往生を祈る山(過去)、湯殿山は生まれかわりを祈る山(未来)とされ、出羽三山への参拝は、江戸時代に現在・過去・未来を巡る「生まれかわりの旅」として広がりました。 この三山を合祀する出羽三山神社の御朱印は、見開き2頁にいただく迫力あるもので、神社まで2,446段の石段を上るだけのありがたみがあります。とは言うものの、実は神社まで直接、路線バスで行けます。逆に神社からスタートして石段を下ることもできますが、体力的には楽でも、膝にきます。 ■湯殿山の話 この芭蕉の詠んだ出羽三山の句に続き、弟子の曾良も並べてられています。 「湯殿山 銭ふむ道の 泪かな」〜湯殿山の山道には、賽銭がいっぱい落ちていて、それを踏んで参拝することに涙が流れるほど感銘を受けた〜というもので、湯殿山では、地に落ちたものは拾うことを法で禁じていることによるものです。 また、中腹にある湯殿山神社は「語るなかれ」「聞くなかれ」といわれ、今も本宮は撮影禁止です。「おくの細道」にも「惣て、此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとヾめて記さず。」とあります。しかしながら、今やもうネット上には、御神体の写真までアップされています。 湯殿山という名のとおり、お湯があふれ出る山が御神体で、参拝場内はそのあふれるお湯の「源泉かけ流し」状態で、夏はお湯が熱いくらいのところを、御神体まで裸足で歩きです。参拝場の出口には立派な足湯施設があるのですが、温泉マニアの方には、手前の大鳥居近くにある湯殿山参籠所の「御神湯」というものが知られています。6畳ほどの部屋に青森ヒバの浴槽があり、正面の壁に神棚があります。天照大神の妹神と言われる丹生都日女神(にぶつひめのかみ) が祀られ、神棚に手を合わせ一礼してから入湯します。 余談ですが、お湯の神様と言えば、月山の登拝道に「今神(いまがみ)温泉」という湯治場があります。1000年以上前から難病で苦しむ人々が湯治のため長期間滞在した温泉ですが、現在は休業中です。山形県戸沢村の山奥の秘湯で、生活道から4キロほど山道を進んだ場所にあり、6月から9月末までの営業に合わせて仮設の橋を架け、かつては片道3時間近くかけて歩いてきたそうです。それでも効能、いや効験あらたかで、訪れる人の後が断たなかったようです。 浴場には祭壇が備えられており、混浴で各自が白装束をまとい、念仏を唱え祝詞をあげながら入浴します。浴室の壁面にはびっしりと祈願の書付が懸垂してあり、ビジュアルだけでも圧倒されます。ぬる湯で、1回の入浴は3時間ほど、最初は1日5時間ほど入浴。3度の食事や休憩をはさみながら入浴し、だんだんと8〜10時間も湯につかり、合わせて150時間ほどになるまで滞在するとのことで、日帰り入浴はおろか1週間でもお断りしたそうです。飲泉の効果もあり、特に胃腸病や皮膚病、リウマチなどに効くとされました。このまま「伝説の湯」とならないことを祈るばかりです。 ■アブラゼミの話 「蝉の声論争」、つまり、アブラゼミとする歌人斎藤茂吉とニイニイゼミとするドイツ文学者小宮豊隆との論争については、芭蕉が訪れた時期はアブラゼミでは早い、という理由でニイニイゼミに軍配があげられたようです。しかしながら学芸員Aさんは、この時期ヒグラシの声も聞こえた年があるとして、アブラゼミの可能性はあると指摘しています。一般的に蝉の鳴き始める順は、ニイニイゼミ→アブラゼミ→ミンミンゼミ→ヒグラシ→クマゼミ→ツクツクボウシ→エゾゼミらしいです。 蝉の声論争にあえて参戦するなら、「岩にしみ入る」のは個人的に、ビジュアル的には透明な羽をもつミンミンゼミ、サウンド的にはカナカナゼミことヒグラシであればいいなとは思っています。しかしながら、山形の皮膚感覚ではアブラゼミで、とにかく身近な蝉はアブラゼミで、茂吉の感性は地元ならではとも思います。 ところで、ミンミンとかツクツクボウシとか、他の蝉は音声(羽音)なのに、なぜこれは「アブラ」なのか。もしかしてそれを食べたら、なんか油ぽかったからなのでしょうか。なんとあの「クック・パッ〇」でも蝉料理が紹介されてはいるのですが、これがまたすごい料理バリエーションとなっています。 実はその鳴き声が、油を熱した時の「ジリジリ」という音に似ていることでアブラゼミと名づけられたとのこと。ならば「ジリジリゼミ」でもよかったのではと。でもジリジリゼミでないのはきっと、この蝉が鳴く時期の油を熱したような暑さと、このアブラゼミが重なってしまったのでしょう。ちなみに山形の夏は意外に暑く、暑すぎると蝉は鳴き止み、木から落ちることもあります。 もっとも、山寺はそれなりに涼しくもあり、よろしければこの夏、蝉の声を聴きに出かけられてみてはいかがでしょうか。山形駅から山寺駅まで、電車で20分程度です。山寺芭蕉記念館の「妖怪」展もあわせていかがでしょうか。もしかしたら、学芸員Aさんとも遭遇できるかもしれません。 ■ことわざ・名言の話 学芸員Aさんは、「月山刀」でも「キヨシロー」でも、どうも「食わず嫌い」というか、「馬を水辺につれていけても、水を飲ませることはできない」という感じというか。結構なペースで居酒屋などに出没するのに、日本酒は「山形政宗」という天童の酒しか飲まず、鶏肉以外の獣肉は食べないという、どこの宗教にもないようなルールで身を律しています。まあ、お互い還暦を過ぎているため無理強いはしないのですが、たまには「清濁併せ呑む」ようなことも期待したいわけで。 さて、「好きこそものの上手なれ」と言うことわざがあります。いまや山寺芭蕉記念館の看板企画となっている妖怪展などは、まさしくこれで成し遂げられたのですが、歴史でも文学でも刀剣でも妖怪でも、好きな人にはかないません。好きなことには熱心になり、自然に工夫し勉強するようになるので、上達も非常に早くなるわけで、これがさらに論語では、「子曰、知之者不如好之者、好之者不如楽之者」(子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず)とあります。「好き」の上には「楽しい」がくるんですね。やはり大谷さんとか藤井さんとか、そんな感じがします。確か、昨年の夏の高校野球大会で優勝した某高校野球部の合言葉も「Enjoy Baseball」でした。 |
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■山寺と延暦寺の話
伊達稙宗(伊達政宗の曽祖父)が永正17年(1520)に天童を攻めてきたときに、山寺の衆徒らが伊達方に加担したことを恨んで、大永元年(1521)天童頼長・成生十郎両氏が山寺に攻撃をして灰燼に帰してしまいます。この時不滅の法燈が焼失してしまったため、天文12年(1543)立石寺の一相坊圓海は、4月に比叡山に登拝し、6月に根本中堂の燈火を分火してもらい、海上を輸送した後に立石寺に納火しました。この燈火は天正13年(1585)、信長の焼き討ちにあって焼失した比叡山根本中堂の再建時に、今度は立石寺側が登拝し逆に分燈しました。ゆえに、山形から比叡山に詣でると丁重に扱われるそうですが、もしかしたら山寺の御朱印帳がプライオリティパスのようになるかもしれません。どんなプライオリティかはよくわかりませんが。ちなみに、山寺を麓から奥の院まで巡ると、実に12か所の御朱印を頂くことができます。 焼き討ちにより山寺は「寺中家無一十余年、其間堂社破」の状況にありましたが、天文3年(1544)の立石寺日枝神社の修造などに、最上宗家だけでなく一族の総力を挙げて再興していきます。最上義光は慶長4年(1599)に、立石寺納経堂を修造しています。義光の時代の分限帳によれば、寺領1,300石が与えられています。このように最上家が山寺を崇敬し、保護するという関係は、最上家が国替えされるまで続きました。 ■鬼門の起源の話 鬼門の起源は、古代中国の説話や歴史上の情勢など諸説あります。紀元前5世紀頃、古代中国では度重なる東北地方からの異民族による侵略や殺戮に苦しめられたため、異民族を「鬼」と呼び、それらが来る方向を「鬼門」と称したという説や、「東海の度索山という地に、大なる桃の三千里に渡って曲がりくねる樹があり、その低い枝が東北に向かうを鬼門という。」と「山海経」という博物書にあるとする説などです。 ただし、この鬼門に関する記述は現存する「山海経」には含まれておらず、後漢の王允「論衝」訂鬼篇の中で引用した「山海経」にのみ存在しているとのこと。この「山海経」は、古代中国の戦国時代(紀元前403年)頃から前漢時代(紀元前206年〜8年)に徐々に加筆されて完成したもので、中国を取り巻く全方位の山河大海に住む人々や生物、その風俗や生態、そしてその地に伝わる神威や妖怪などを記録した博物書です。現在、平凡社ライブラリー(解説は水木しげる)のものが手軽に入手でき、とにかく妖怪などの図版がやたら面白い本です。 ■一般住宅の鬼門対策の話 一般住宅の家相では「三所に三備を設けず」と言われます。三所とは「鬼門、裏鬼門、宅心(家の中心部)」のことで、三備とは「玄関、台所、トイレ」のことです。つまり「鬼門・裏鬼門・宅心には、玄関・台所・トイレを設けてはいけない」ということです。 あるネット情報によると、「鬼門・裏鬼門の方角は時間帯によっては気温が上がり、冷房のないトイレは不快な空間になるでしょう。 裏鬼門の方角に台所があると、日が差し込んで食べ物が傷みやすくなります。 また、冷え込みが厳しい冬場にはトイレ・浴室などは他の部屋との温度差が大きく、いわゆる「ヒートショック現象」が起きやすくなります。」とのことです。 また、別のネット情報によると、「一般的に鬼門には正方形の部屋があるのが理想と言われています。この方角に門や玄関、窓がある場合は、東北・南西の方角からは日差しや冷たい風にさらされないよう注意しましょう。特に換気をするとき以外はすぐ閉めるのがベストです。窓には遮光カーテンがあると日差しや冷風対策になるでしょう。」ともあります。 それでは鬼門・裏鬼門に玄関・台所・トイレがある場合はどうすればよいのかと言うと、これもネット情報によると、「神社の護符を貼る。お祓いをしてもらう。盛り塩をする。トゲのある植物を置く。掃除・整理整頓も効果的と言われている。」のだそうです。 ■怪力乱神を語る話 「務民乃義、敬鬼神而遠之」は「民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく」と読み下します。これは弟子からの「知とは何か」との問いに孔子が答えたものです。ここで「民の義」とは何かということも難題で、民の正義と読んだり、臣民と読んだり、実はいろんな意訳がありますが、まずは「暮らしを善くする」というものではないかと。ちなみに「敬してこれを遠ざく」は「敬遠」という言葉の語源になっています。「知」を問うて、「敬遠」という故事成語が生まれるという、かなり斜め上な問答でもあります。 また、孔子は怪力乱神を語らなかったそうですが、これを商売にしている人もまた少なくありません。博物館業界もそうです。とりあえずは民俗学的な見地から取りあげるのですが、お客さんの大半は興味本位でやってきます。 山形県の北東(鬼門?)に位置する某県は、怪談奇談を含めた民話の宝庫で、河童だけでも商売が成り立つほどです。その県内にある某市立博物館では、昨年「呪術」をテーマとする企画展を開催し、その図録資料はたちまち売り切れ、あまりの人気に増刷までしました。また、同県の某歴史文化館の収蔵資料図録の第一号は、河童の絵巻「水虎之図」だけをまるごと収録した立派な冊子です。とにかく集客力があるのです。なんともうらやましい。 そして何を隠そう山寺にある某博物館でも、6月14日から「妖怪」展が開催されます。そもそもは修験道開祖の役行者(えんのぎょうじゃ)から辿る綱渡り的な企画展示から始まったものですが、回を重ね今や年間最大の来館者が見込める企画展となっています。 ちなみに、怪力乱神を語ると言えば稲川淳二さんですが、今年も元気に『怪談ナイト』で全国を巡るようです。予定では秋田、岩手、仙台(8月13日、怪談の日)、福島、新潟と山形県に近接するすべての県を訪れる予定ですが、なぜか山形だけが避けられています。山形も当然「怪力乱神を語らず」という孔子のような人ばかりではなく、むしろそれを飯のタネとしている人もそれなりにいるのですが。 ![]() 近日公開!! 企画展「妖怪 −“もののけ"の表現、江戸時代から現代まで−」 6月14日〜8月29日 山寺芭蕉記念館 |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum




基本的なミュージアムグッズに絵葉書があります。そのまま壁に貼って飾るのもよし、絵葉書スタンドがミュージアムグッズとして人気があった時代もありました。旅先から投函するのもオススメです。特に海外などの遠い旅先からは、いただくほうもありがたい。私は、絵葉書を自宅あてに出すこともあり、その土地の消印が記念にも、記録にもなります。
絵葉書の楽しみ方をもうひとつ。「絵葉書の旅」というのがあります。あの「水曜どうでしょう」の企画ですが、観光地等の絵葉書から適当に選び、現地に行って同じ構図で撮影してくるというものです。絵葉書が古かったりすると、街並みや樹木の様子が変わっていて大変だったりします。
酒田市にある土門拳写真美術館では、かなりレトロな絵葉書セットが販売されていますが、例えば「室生寺」セットを携え現地に入り、同じアングルをさがし、土門拳になりきって撮る、といった楽しみ方ができるかと。
もっとも当館の学芸員によると、以前、当館でも絵葉書を作成したものの、思うようには売れず、それがトラウマになって現在は発売していないとのことでした。
◇ミュージアム菓子の話
そのミュージアムの人気度がわかるという商品があります。それは施設オリジナルの食品や菓子、例えばクッキーやらチョコレートなどで、それなりの来館者がないと置けません。当館のようにいつ完売するかわからないような施設では、期限付きの品物は扱えないのです。
特に饅頭などは日持ち的に難しいかと思います。饅頭と言えば、国立科学博物館では以前、「毒」特別展でオリジナル「毒まんじゅう」を売っていました。福井県立恐竜博物館のオリジナル商品では、なんと羽二重餅の2色詰合が売られています。
ユニークなものでは、長谷川町子美術館の「マチコさんドライパパイア」。これは彼女の好物を商品化したそうです。興味をひかれるのがINAXライブミュージアムの「トイレの最中」。洋便器の形をしたもなか皮に別添の餡をつめて食べるというものですが、餡を絞る時に「トグロを巻かないように」と「正しいお召し上がり方」にあります。蛇足ですが、「最中」は「もなか」と読みます。「さいちゅう」と読んでしまうと、ちょっとリアルになってしまいます。
◇世界のミュージアムグッズの話
東京国立博物館のショップは、外国へのお土産はここで探すといいと言われていました。以前は本館の地下にあって、品揃えなども面白かったような気がします。逆に、海外のミュージアムグッズも、日本へのいいお土産となります。
世界三大ミュージアムグッズというのを勝手に決めていいのなら、大英博物館の「ロゼッタストーン」のペーパーウェイト、メトロポリタン美術館の「ウイリアム」という青いカバのフィギュア、そして東京国立博物館の埴輪「踊る人々」グッズとかでしょうか。特に売上ベスト3ということではないのですが、強いて言うならいずれも作者不詳の収蔵品です。
売上的にも知名度的にも多分、「モナリザ」グッズあたりがトップかとは思いますが、それではなんとなく面白くないわけで、それならいっそモナリザの絵葉書に髭を描いたデュシャンの「L.H.O.O.Q.」(エラショオキュ「彼女はお尻が熱い」)を現地(ポンピドゥーセンター)から投函してもらうほうがお土産としてはうれしいです。
デュシャンと言えば、究極のミュージアムグッズ(?)があります。それは自身の作品のミニュチュアをトランクに収めたもので、「トランクの箱」という美術作品ではあるのですが、署名入りの20部限定豪華版と、番号なしの300部未満の普通版が作られ、そのうちのいくつかは日本の美術館にも収蔵されています。あのレディメイドの小便器「泉」やガラス製アンプルの中に空気が入れた「パリの空気50�奸廚離潺縫絅船絅△修靴董嵌狃�の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(大ガラス)のレプリカや「階段を降りる裸体No.2」などの絵画作品の写真などが詰め込まれています。
思わず熱く語ってしまいましたが、ミュージアムグッズとしては「サモトラケのニケ像」のミニチュアとかダリの「柔らかい時計」とか「真珠の耳飾りの女」の耳飾りとか「モネの睡蓮」柄のスカーフとか北斎の「神奈川沖浪裏」とか「風神雷神図屏風」グッズとか色々あるのではありますが、まあ、収蔵品に関係なく売られていたりします。
当館に隣接している山形美術館では現在、とてもすばらしい現代美術の企画展「高橋龍太郎コレクション」が開催されているのですが、その出品作家の方がその場で1枚なんと300円で絵を描いてくれるというイベントがあり、これなども究極のミュージアムグッズではないかと思います。
◇世界のミュージアムショップの話
ミュージアムョップで特に有名なのは、やはりルーブル美術館の地下にある年中無休のショッピングモールでしょう。美術館グッズ以外にも各種土産物やフードコートなどもあります。また、オランダのスキポール空港にはオランダ国立美術館のショップ分館があり、あのヒエロニムス・ボスの絵にでてくる怪物のミニュチュア模型などがその空港分館に多数展示販売されています。
台北の故宮博物院の売店も充実していて、特にあの「翠玉白菜」が様々な形で商品展開がなされているのですが(耳かきとかもあります)、もっと驚くのが同敷地内にあるレストラン「故宮晶華」。その国宝宴コース料理では「翠玉白菜」が白菜のスープ煮込みとして、「肉形石」が形そっくりの豚肉角煮そのもので提供されます。超おススメです。一方、北京の故宮博物院は、20世紀末はかなり素気ない感じでしたが、現在はネットで観る限り、高級志向のグッズばかりが並んでいます。さらにネット情報ではありますが、新規開館した大エジプト博物館のショップは、ルーブル美術館レベルとのこと。とにかくエジプトグッズというのはミュージアムグッズの一大勢力です。
個人的に印象に残っているのは、イギリスのキューガーデンのミュージアムショップです。植物関係の書籍やガーデニンググッズが豊富にあり、様々なオリジナルグッズやらお菓子もあり、英国土産の購入にも最適です。屋外ではさまざまな植物までも販売されていて、ちょっとしたホームセンター状態となっていて、とにかくこうした施設で、ここまでものを売るんだと当時(四半世紀前ですが)驚いたことがあります。
今はミュージアムショップのネット通販が充実しており、持って帰る心配がいらず、特に重量物である図録などは重宝します。以前は、帰国便の重量超過対策として、重量物は手荷物に移し替えたりしたのですが、それでも追加料金をとられることもありました。
勝手に個人的に決めた世界三大ミュージアムグッズです。
異論反論は、恐らく山ほどあろうとは思いますが。
◇ミャクミャクグッズの話
切手と言えば、あの「ミャクミャク」(寄附金付)の切手が発売されていたので、いろんな意味で今のうち入手すべきかと思い、2シートほど購入いたしました。そこで思ったのですが、万が一のとき、寄附金というのはどうなるのでしょう。即座に、万にひとつもない、とは言われそうですが。
「EXPO2025大坂関西万博」はさすがに長期間のイベントだけのことはあって公式グッズも豊富です。オフィシャルページには既に500を超えるミャクミャクグッズがあり、およそ人の考えつく限りのアイテムが並んでいます。缶入りお菓子とか傘とか、アクリルスタンドとか絵馬(!)とか、開催前に売れきれている商品もありました。
変わり種としては、スポーツ用品メーカー製のミャクミャク型メディシンボールとかミャクミャク型ボルレッチ(ダンベル)とかもあり、その商品展開に驚くばかりです。ただし、その多くが外国製なのですが、法被(はっぴ)などはさすがに日本製です。アパレルではTシャツなどの他に、結構な種類の靴下がありました。それをみて思いついたのですが、当館でハイソックスを販売してはどうかと。臑のあたりに「最上義光」と印字したものを、「新しい戦国武将の・・・」という宣伝文句とともに出してみてはどうかと。恐らく、タダではすまない、やっぱり。