最上義光歴史館
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さてさて「作首」以外の生首の使い道としては、髑髏盃というのが、古今東西にあります。浅井久政・長政及び朝倉義景を討ち取った織田信長が、その髑髏を杯にしたという話は有名です。京都隣国との酒宴で、これで回し飲みをしたとも伝えられていますが、実際は箔濃(はくだみ)つまり漆と金粉を塗った髑髏を宴で披露しただけとのことです。
髑髏杯にちょっと似た感じのものに、毛ガニの甲羅酒というのが思い出され、そのミソがまた、脳みそではないのですがそんな感じで。もちろんその風味がなんともいいわけですが。そう言えばかつて、山形市内にネパール料理店がありまして、そこのメニューには「羊の脳みそ」というのがありました。ソテーで供され、くせがなく、ふわふわしていて、きくわたのような食感でした。すみません、話がだいぶ脱線してしまいました。 |
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旗に関する表現に「旗幟(きし)鮮明」という、立場を明らかにするという意味の四字熟語があります。英語には同じく「Show the flag」という表現があるのですが、かつてアメリカのアーミテージ国務副長官が、9.11同時多発テロ事件の直後、日本の駐米大使にこの言葉を発しました。これを素直に「立場を明らかにせよ」、つまりアメリカ側に立て、と捉えればよかったのですが、一部で「戦地で日の丸を見せよ」と前のめりに解釈したとか、しなかったとか、まあ、外交のことはよくわからないのですが。
さらに米側は「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」と、自衛隊の地上部隊の派遣を求めてきました。イラク戦争後の治安維持に当たるアメリカ軍への支援要請です。その際、「2000個のブーツ」という言い方で、1000人規模の派遣が求められました。これはもう解釈云々という話ではないわけで、まあ、軍事のことはよくわからないのですが。 結局、2001年にテロ対策特措法をつくってインド洋での米英軍艦艇などへ給油支援、2003年にはイラク復興支援特措法を成立させ、初めて陸海空3自衛隊を同時派遣ということで、まあ、政治のことはよくわからないのですが。 ところで、「旗色が悪い」と言い方ですが、これは陣容陣を表すものであるため、その語源からすると1対1の場合に用いる表現ではありません。例えば、家人を相手にした1対1の場合は、「旗色が悪い」ではなく「平伏」とか「退散」とかという表現になるかと、これは我が家の場合ですが。 |
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■光禅寺の所在地
ちょっとややこしい話ですが、光禅寺は最上義光が生前、当時の「三日町」(現在の七日町)に開創したのですが、没後、城主が最上家から代わったときに現在の場所(現在の鉄砲町)に移転しました。その際、その地名も「三日町」とし、もとあった場所は「元三日町」という地名になりました。つまり光禅寺がある地名は当時、「鉄砲町」ではなく「三日町」となるのですが、例の「山形風流松木枕」では、「今三日町」と記されています。「元三日町」と「今三日町」、当時、「三日町」の呼び分けには、やはり工夫が必要だったようで。 ■山形の立ち位置 戦国時代以降、全国各地で鉄砲が生産されましたが、以前は特定の地域で火縄銃が生産され、米沢や仙台は全国有数の生産地であったそうです。つまり上杉と伊達なのですが、最上はいつもその狭間にいる感じです。 山形市内の鮨屋での話ですが。山形は内陸の盆地で、川魚以外に地魚などあろうはずもないのですが、「山形は庄内と塩釜の間にあり、いろいろ仕入れることができるんですよ。」と言っていました。まあ、いろいろは入手できるようですが、新鮮なものは地元で、いいものは東京に行ってしまうわけでして。 鉄砲も似たような状況で、山形は米沢と仙台の間にあります。鉄砲は生ものではないので、鮮度とかは関係ないかもしれませんが、でも、最新式のものとかはどうなのでしょうか。まあ、いろいろは入ってはくるかも。 ちなみに、「米沢筒」は、長さ1メートル、重さ6キロの十匁筒が有名とのこと。重いので運用は難しいが威力に優れているそうです。一方の「仙台筒」は多口径多種類の銃を取り揃え、どちらかというとシンプルで口径の大きい銃が多く、また、騎兵が使用する馬上筒も多いそうです。上杉といい伊達といい、デカい口径が好きなようで。ちなみに、最上義光の兜に残る鉄砲玉の跡はやはり、十匁の玉によるものでは、とのことです。殿、よくぞ御無事で。 |
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今回は、「秋の読書特大号」ということで、字数でいくと通常の約4割増しです。とは言え、ただ引用文が多いだけですので、よろしくお付き合い願います。
○ 可笑記の話 ここで少々「可笑記」からいくつかを要約してご紹介します。 〈その1〉慈悲に大小のある事 「人間だれにでも慈悲の心があるが、慈悲には大小の二つあり、小を捨てて、大を取らなければならぬ。 たとえば、冬の寒いとき、船も橋もない川に行き当って、渡りかねている旅人をみつけて、その地の領主が、家来に令して、旅人を一人ずつ背負って渡したとしよう。慈悲深い行いとして、感謝されるに違いない。しかし、これは小の慈悲である。 なぜならば旅人たちはありがたいと思うであろうが、背負って渡した家来たちは、冷えて腹を立てるに違いない。その川には橋を掛ければよいのである。橋を掛けるのが困難ならば、渡し舟を設け、渡し守りに手当を与えるがよい。そのようにすれば、川を渡りかねて困る旅人もなく、冷え凍えて腹を立てる家来を出すこともない。これが大の慈悲である。 むかし、賢君と言われた某帝は、寒夜に衣を脱ぎ、民と寒さを共にされたとのこと。帝王として民を思われる御心のほどはありがたいことだが、万民に衣服食物が行きわたって、飢えず凍えぬような正しい政治が行われるのに比べたら、劣ると言わねばならない。これも小の慈悲である。」(卷二_35) という話ですが、慈悲があるくらいならまだいい方で、今の政(まつりごと)は成果すら出ない、言い訳程度とかやった感とか、そんなのが多いような気がします。 〈その2〉それもまたよし 「後漢の時代に、司馬徳操といぅ高徳の誉れを専らとする人があった。この人は、何を尋られても、ただ「それもまたよし」と返事するだけであった。 ある人が尋ねて、 「世間であなたのことを高徳の人として専ら評判しています」 「それもまたよし」 また、ある人が尋ねて、 「世間であなたのことを、馬鹿者と評判しています。悔しいじゃありませんか」 「それもまたよし」 というありさま。 あるとき、人がやって来て、 「私、最愛の独り息子に先立たれました」 と涙ながらに訴えると、それにも 「それもまたよし」 とだけ答えた。妻が見かねて、 「なんということですか。高徳という評判を信じて、悲しみを訴え、励ましのことばの一つも聞いて、寂しさを慰めようと、遠くから尋ねていらっしゃったというのに、お子さんが亡くなったと聞いて、それもまたよし、なんて言う人がありますか」 と、声を荒らげると、 「それもまたよし」 と答えた、とのことである。」(卷三-15) 実はこれ、周りが優秀の場合、もっとも理想的な主人のような気がします。そして、この対応はまさに、ブレていないと言うか、ブレようがないと言うか。 〈その3〉金剛の正体 この男、仏に具わる三つの徳を知りたいと高僧を訪れた。そこで先ず「金剛(こんごう)の正体というものを考え出してみよ」とその僧にいわれる。 とりあえず彼は「藁(わら)」と答える。金剛というはき物(金剛草履)が藁でできているから、という。 高僧はかすかな笑みを浮かべ、それを打ち消す。そして「金剛の正体というは、音ありて、なき物かと思えば、元来、その時にしたがって、あるもの也」と教える。 男は、難しい問答だと思いながら、ひとまず高僧のもとを辞すが、山門近くまで来て突然ひらめいた。高僧の所へ急ぎ立ち返り「ただいま教わった金剛の正体は、”へ”であるに違いない」という。高僧は片腹痛く可笑しさをこらえ、「その心は」と問う。 男は「”へ”と申す物ハ、音ありて、手にもとられず、目にもみえず、色にもそまず、火にもやけず、水にもぬれず、きってもきられず、かくては、元来なき物かと思えば、腹中のときにより、いくつもある物にて候」と答えた。」(卷四-11) 実はこれは、以前「歴史館だより」に紹介されていた話です。禅問答を揶揄しているものですが、これに似たような噺をつぎにもう一つ。 〈その4〉 熊野山伏と禅僧 昔、臨済宗の行脚僧が、熊野山の駆出山伏と道連れになって言った。 「山伏殿、そなたはどんな霊験をお持ちかな」 「役の行者を慕い金剛胎蔵両峰の峰入りをはたし、不動明王が左手に持つ索の縄の威力を体得したところ。この笈(おい)の内から不動の尊像を出して祈れば、たちまちわが身より火炎を吹き出してご覧に入れよう。さて、そなたの霊験は、いかなるものかな」 「そもそも禅宗は、ぬか漬ひときれ、一膳めしの粗食ゆえ、霊験などもってのほか。さりながら、ひとたび精神を集中すれば、たちまちわが身より水を吹き出し、いかなる猛火も消してご覧に入れよう」 それを聞いて山伏は烈火のごとく怒り 「さらば、わが火炎を消してみよ」 と、背中の笈を道ばたにおろし、不動の画像をぱらりと掛け、数珠を音高くすり上げすり下し祈ると、不思議や、絵像の不動が立ち上り、山伏の頭からつま先まで走りぬける。すると、頭巾や衣が煙をあげて燃え出した。山伏は勝ち誇って、 「これを見よ、禅坊主。消せるなら消してみよ」 と叫ぶ。すると僧は、少しもあわてず、 「しからば消してご覧に入れよう」 と、山伏の面前に立ってまたを広げ、衣のすそをかかげ、おもむろに下帯をはずし、山伏の頭肛、衣、数珠、不動明王の尊像をめがけて、小便をかけた。すると、さしもの猛火もたちまち消えうせる。これもまた不思議な霊験。」(卷五-50) 今度は禅僧を持ち上げた話、と言ってよいのやら。なんか下ネタが続いてしまいました。ならばここは、下ネタついでにもうひとつ。 〈その5〉 夜の洗濯 「昔、ある坊主が、若い女を寺においた。あるとき、壇家の一がやって来て言った。 「寺に若い女は似つかわしくありません。どんな御用があって召し置かれるのか、うけたまわりたいものです」 「さよう。昼間は参詣の女人のお相手をさせるため。夜には、洗濯を言いつけており まする」 と坊主は答えた。夜の洗濯とは、はて、何をもみ洗いするのであろう。」(卷五-10) そんな、何をもみ洗いするのであろう、と言われても、ねぇ。 ○ 土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)の話 「土芥寇讎記」は、なかなか辛口な人物評で知られています。しかし、松平直矩についてはベタ褒めで、「直矩、生得寛然トシテ、将之威自ラ備リ、殊文武ノ両道心ヲ掛、旧記麗ヲ好テ、古戦又雌雄・主将ノ智愚・謀略ノ是非ヲ論ズ。生得勇智発明ニ、仁義ヲ正シ、忠節ヲ尽ト欲セラル。人使ヒ能ク、家民ヲ憐ム叟厚シ。物毎立派ヲ好ル故、家士奇羅ニ弊アリト云リ。美小人ヲ愛セラルト云トモ、聊偏愛ノ気ナシ。当時誉ノ将卜、世以沙汰ス。」とあり、結びに「尤も誉ノ善将、褒美スルニ余り有ベク。」とあります。 ここで、美小人とは美少年のことで、この手の情報もこの「土芥寇讎記」にはよく記載されて、その影響も記載されているのですが、どうやって調べているのやら。 さて、「引越し大名」とも言われた松平直矩(1642〜95)は、徳川家康の男子直系の曽孫にあたります。つまり、父・直基(1604〜48)は、徳川家康の男子直系の孫にあたりますが、徳川家康の次男である結城秀康の五男です。 さて、この結城秀康(1574-1607)は不運の人とも言われています。まずその生い立ちでは母が妾として認められず、兄の信康が織田信長に切腹を命じられ(1579年)亡くなったのですが、小牧・長久手の戦い(1584年)により羽柴秀吉の養子として差し出されたため、徳川を継ぐことができませんでした。しかし、下総の大名・結城晴朝の孫娘との婚姻を機に結城家の家督を継ぎます。その後秀康は、関ヶ原の戦いの戦功を評価され、慶長6(1601)年、越前国へ転封、68万石(!!)を領したものの、34歳で亡くなります。跡を継いだ秀康の嫡男の忠直は松平姓を称します。 一方、松平直基は慶長十二(1607)年に結城家の家督を相続し、慶長十九(1614)年に結城晴朝が死去したため、その隠居料5千石を相続。元和元(1615)年、越前国勝山の1万石を与えられます。寛永3(1626)年に従四位下(大和守)となり、結城を改めて松平を名乗ります。直基は、4度の引っ越しがありました。 寛永元(1624)年 越前勝山藩3万石 寛永十二(1635)年 越前大野藩5万石 正保元(1644)年 山形藩15万石 慶安元(1648)年 姫路藩15万石 ここで直基は、姫路城に国入りする途中に急逝。子の直矩は、姫路城主としてはまだ幼すぎるとの理由で、翌年に越後村上15万石に所替え。寛文七(1667)年に播磨姫路の藩主にあらためて任せられます。しかし、越後高田藩で起きたお家騒動=越後騒動に巻き込まれ、天和二年(1682)に蟹居の命を受け減封されました。 天和二(1682)年 豊後日田藩 7万石 貞享三(1686)年 出羽山形藩 10万石 元禄五(1692)年 陸奥白河藩 15万石 結局、直矩は延べ5つの藩主を経験し、江戸時代の全大名の中で最多の地を経験した大名となるそうです。なお、この話を基に「引っ越し大名」という映画も作られています。(松竹映画2019年公開、監督:犬童一心、主演:星野源) ○ 松平大和守日記の話 松平直矩は17歳から54歳で亡くなるまで、「大和守日記」を書き続けています。原本は明歴二(1656)年から元禄八(1695)年までの39年分があったとされ、長い間保存されて昭和に入ってもこの家の当主である松平伯爵邸にありましたが、戦災で焼失してしまい存在しないそうです。活字化されたものとしては、朝倉治彦「松平大和守日記」(「日本庶民文化史料集成・第十二卷」所載)、と鈴木紳三の同名の本(村上古文書刊行会)があります。 では、その日記の内容を。まずは、萬治二(1659)年新年から 萬治二年 越後国村上ト云所ニテ 正月一日祝 書院ニテ鷹共見ル 数二十居也 礼之次第 (以下、来客および持参品を列挙) 同日 江戸より飛脚来ル 参勤之時分正月中仰御奉書来ル 同二日 桜ノ馬場ニテ馬之ノリ初スル 同日 鷹ツカイ初出ル 同三日晩 謡初次第 居間ニテ吸物相伴 (以下、来客を列挙) 於書院高砂謡初 書院酒過 於居間ニ酒モリ在之 同四日 能見物覚 高砂、実盛、あふみの上、三井寺、猩々 (それぞれに演者を列挙) 同六日 弓初之次第 (以下、参加者14名を列挙) 同晩 十烓香之次第 (以下、品目と参加者20名を列挙) 以上が、正月はじめ一週間の日記ですが、村上の城内であろうともまあ、忙しい。 一日には鷹を見て、多くの来客を迎え、江戸からは参勤交代の手紙がくる。二日には馬に乗り、鷹を飛ばす。三日には謡の宴会、四日に能の見物、六日に初射会と烓香(なんと20本)であります。続けて参勤交代の道中の記録を、 同月十二日 村上発足。 同十三日 あじろ新田 〜 にいかた 以下、寺泊、かしハ崎、春日新田 泊 同十七日 高田 中殿ニ懸御目 松嵜 是よりそり(橇)にのる 越後殿よりのこらす晩朝料理被下 同十八日 善光寺 以下、坂木、追分、くらかね、鴻巣 泊 同廿三日 本郷 (江戸の鳥越屋敷に到着) この道中には1月12日〜23日の12日間を要したことになります。冬の越後を抜けるのに日数がかかったようですが、それにしても参勤交代に橇(そり)も使っていたとは。通常はこれとは違うルートで村上〜江戸を10日以内で行けていたようです。日記には、道中、立ち寄った地名が、いずれの日についても20か所近く記録されています。地名を地図でたどるのも一興でしょう。 江戸に着くと早速、登城についての手紙を受け取り、その後2月上旬まであいさつ回りをしているようです。どこそこにふるまいに行くという記録はマメにあります。また、この頃の日記でよく目にするのは、食べ物と飼い鳥のことです。4月には、初かつを、初なすび、初白瓜などを見たとあり、鳥屋などから、小瑠璃、三光、ゑなか子、雲雀ノ子、こま鳥、白頭鳥などを取り寄せるとあります。一方、「裏の土手にて雀一匹吹き矢にあたる」という記録も残しています。 また江戸では、出羽殿という方との親交が深く、互いに行き来し、匂袋や遠眼鏡などをもらったという記載もあります。また、能や狂言などは舞台を見に行くほか、屋敷に演者を招くこともあり、例えば「晩 出羽殿へ行き狂言見物」とあり、「祝言、川原市、かさの下、つんほうざとう、ちねんこじ、くまの物語、羽衣、などの演目と演者が記録されている他、後藤左衛門が女装束で団扇で舞うとか出羽様の小坊主3人が三味線、鼓を奏で、しはかきを舞う、などとあります。 同年6月6日には「御本丸小屋へ絵書探幽、同図書来」とあります。つまりあの狩野探幽がきたと。「同十二日探幽・図書ニ申付候屏風出来」。一週間もしないうちに屏風が納品されたようです。28日には探幽に、富士山の横物絵を一幅、四季花鳥の絵を四幅一対を依頼し、7月9日には富士山の絵ができ上ってきます。 こうしたことの他に、地震や大風、火事などの発生や被災者数などの記録もあり、災害年表の記録としても価値のある資料となっています。そのような中、ちょっと珍しい事柄について詳しく書かれていることがあります。 寛文三年(1663年)5月21日の日記です。 信濃守の御噺として、雲州の桐橋伊兵衛小女に狐がつく、というものでしたが、小女に憑いた理由を問うと、この女にうらみはないのだけれど、われわれの杉の木を植え替えたためと云うので、杉を植え直ししたところ、元に戻った。とのこと。 これに続けて、別の狐憑きの話が記されます。原文を掲載しますと、「浅野因幡守殿にて小女二きつねつき有 其比因州庭に狐昼ねして居候を見つけられ 鉄胞にてうたれ候へハ ミおとりをとつてくるくるとまわり死 其刻かの女も如右にして死 このよしいなは殿きかれ それならハ気本復すへしとて 気つけなとのませられ候へハ 追付本ふくすよし」。つまり、憑いた狐を鉄砲で打ったら、女も死んでしまったのだが、これをきいた殿は、それなら元に戻ると、きつけ薬を飲ませたら、復活したということです。狐憑きを目の当たりにしていた時代だったようです。 ○ 秋と言えば、芭蕉の有名な句の話 「土芥寇讎記」が手掛けられる前年の元禄2年に、松尾芭蕉が山形を訪れています。もちろん「土芥寇讎記」と「おくの細道」との関連は不明ですが。 松尾芭蕉の有名な秋の句に、「秋深き 隣は何をするひとぞ」というのがあります。晩秋に自分の孤独感を重ねて、人恋しさを表現した句とのことで、予定していた俳席に体調不良で出られなかった際に、弟子に渡した発句です。元禄7年9月28日、芭蕉51歳のときの作で、寝込んだまま翌29日から亡くなる10月12日までついに起きることができなかったとのこと。10月8日深更に最後の句となる「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」を詠んでいます。 この「秋深き〜」は本来、なかなかな寂寥感漂う句ではありますが、現代の状況にあてはめると、また、違った意味を持つ句となります。例えば、パソコン相手に仕事をしている職場であれば、隣席の人にこんな思いを抱くことがしばしばあるかも。まして、リモートワークとなれば、隣が誰かもわからないわけでして。 また、パロディも多く派生している句でもあります。例えば、ネットでみかけた句で「秋深き あなたは何をするひとぞ」というのがありましたが、普通はそんな真っすぐな物言いはしないものですが、恐らくちょっと風流な職務質問とかでしょうか。 「秋深き 隣は何を買うひとぞ」 これはコスト○とかドン・キホー○の「あるある」です。 「秋深き 隣は何を着るひとぞ」 いわゆるコンフォートビズの様子を詠んでみました。「着る」と言えばこんな句も。 「秋深し ユニク○にユニク○ 重ね着る」 「秋深き」を具体的に表してみました。実は「ユニク○にユニク○ 重ねて 秋深し」とすれば落ち着くのですが、「秋深き」を用いてしかも字余りとすることにより、なんとなく新味な感じになるような。 そして、食欲の秋ということで三句。 「秋深き 大盛 つゆだく オム玉子」 某牛丼店にて詠めり 「秋深き ましまし もっと ましましに」 某ラーメン店にて詠めり 「秋深き 昼からワインを マグナムで 」 某イタリアン店にて詠めり お粗末様でした。 ○ 「積ん読ざんまい」の話 読書系のポッドキャストに「積ん読ざんまい」という番組があります。2人の女性読書家(?!)によるトーク番組で、ひとつの本を話題に1〜2時間、話をするものです。月1回のペースで既に40本以上アップされています。ある回で山形国際ドキュメンタリー映画祭のことを熱く語っているので、あれっと思ったのですが、バリバリに山形・宮城方面で活動されている方々からの発信でした。 「誰もが知っている名作から、あなたの知らないニッチ過ぎる本まで、ゆるいトークで紹介していく読書系Podcastです」との自己紹介がなされていますが、かなり振り幅の広い選本となっています。 特に興味深かった回が「スヌープ・ドッグのお料理教室」、あのパリオリンピック閉会式でロスからの生中継で歌っていたラッパーのスヌープ・ドッグが著した料理本です。日本語版は「スヌープ・ドッグのお料理教室 60のプラチナ極上レシピ」(晶文社、2022年)。彼はテレビの料理番組をもつほどの料理好きとのことで、この本でもかなり強めのビジュアルな料理が並び、そのレシピには日本、特に山形では見ることのできない調味料が次々とでてきて、再現が大変という話などが語られていました。なんとあの土井善晴先生もこの本のレシピを試していて、思うように再現できなかった、と書評をあげてました。 あと「月刊ドライブイン」の回も興味深いものです。昭和生まれの者にとってドライブインというのは、道中必ず立ち寄る場所でして、これが道しるべともなっていたわけですが、今や絶滅の危機に瀕しています。この月刊誌はいわゆる業界誌ではなく、全国各地に残るドライブインを訪ねながら毎号2軒を紹介。店主へのインタビューやお店の歴史、食事メニューなどをルポルタージュしている冊子ですがvol12で終刊となっています。これをまとめた「ドライブイン探訪」(筑摩書房、文庫版もあり)という本が出ているのですが、月刊も入手できたとか、山形〜宮城にあるドライブインの話とか、共感溢れ出る内容でした。 元書店員の「マト文庫」さんと犬と珈琲を愛する「カジワラ珈琲」さんによる番組ですが、どちらかというと聞き役のカジワラ珈琲さんという人は、実は山形では知る人ぞ知るコーヒーの焙煎士であり、店を持たないため、その豆は幻ともなっているのですが、映画館「フォーラム」に隣接する店で、常時このカジワラコーヒーが飲めます。 |
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◎ 見仏記のお話 その1
阿弥陀如来像で有名なのは、鎌倉の大仏や長野の善光寺などですが、一番インパクトがある像は六波羅蜜寺の「空也上人立像」ではないでしょうか。空也上人の開いた口から木造の小さな阿弥陀立像が六体現れ出るあの像で、これは空也上人が「南無阿弥陀仏」すなわち六字名号を唱えると、その声が阿弥陀如来の姿に変じたというものです。 この「空也上人立像」については、あの「見仏記」(いとうせいこう、みうらじゅん著、1993年刊)で、いとうせいこうさんが「踊りながら念仏を唱えてストリートに生きた上人は、私にとって尊敬すべきラッパーだ」と言い、ニューヨークの某ラッパーが自身のラップを、エデュケーションとエンターテインメントを合わせた「エデュテインメント」であると称したことに対し、「この言葉を聞いた時、私はまっさきに空也上人のことを思い出した」と著述しています。 その後、東北を取材し山寺「立石寺」を訪れます。山寺に登ると、仏像のことはそこそこに奥の院にある如法堂にたどり着きます。そこには結婚写真や素朴な絵が並び、それは生前、結婚できずに亡くなった人をあの世で結ばせるという、いわゆるムカサリ絵馬の類なのですが、みうらじゅんさんは「やばいよ、ここ」と言い「俺、さすがに手をあわせるよ」と合掌。いとうせいこうさんもその時、仏像の後ろにある十数段の棚に小さな花嫁人形がびっしり詰まっているのに気付き背筋が凍った、とあります。この如法堂、実は僧侶の修行として非常な労力を必要とする写経を行う場です。「法華経」を1 文字ずつ写し1文字写すごとにひれ伏して経の全文を3回暗唱します。このため、法華経8 巻全てを写すのに4年かかることも。写し終えた経は、うるう年の 11 月 28 日に円仁への捧げものとして、納経堂に納められるそうです。 この「見仏記」の取材から25年後、「新TV見仏記」(DVD「新TV見仏記(20) 〜みちのく山形編」としても発売)の取材で、再び山寺「立石寺」を訪れるとともに、癒し系の平安仏がある「吉祥院」も訪れています。この吉祥院は千手堂とも言われ、その奥之院の厨子には、平安時代初期の作とみられる一木造りの立像があり、中央に千手観音菩薩像、右に菩薩立像(伝薬師如来像)、左に菩薩立像(伝阿弥陀如来像)の三躰が祀られています(事前申し込みで拝観が可能とのこと)。また、このお寺の庭には小さなテーマパークというか等身大の双六のようなものがあります。千手観音などの石仏を百八個の踏み石が囲むように並べてあり、最後の「百八」と彫られた石の先にある「消除」と彫られた石まで行くと、百八個の煩悩や厄が消えるというものです。自身の百八個の煩悩や厄を思い出しながらその石を踏みしめると、結構キツイものがあります。 ◎ 見仏記のお話 その2 「見仏記」の末文に「三十三年後の約束」というのがあります。最後の取材となった宇治の平等院の阿弥陀仏を観た後、一番最初の見仏記で寄った京都駅構内の喫茶店に入り、一年以上にわたる取材を振り返ったいとうせいこうさんは、昔そこで、みうらじゅんさんと交わした「三十三年後三月三日三時三十三分三十三間堂で会いましょう」という約束を思い出しています。そして、その約束の2025年が迫るこのタイミングで、5年ぶりの「見仏記」連載を始めるそうです。 三十三間堂の正式名称は「蓮華王院本堂」というのですが、三十三間堂と呼ばれるのは建物の桁行、つまり柱と柱の間が33ある寺ということからです。ただ、この「間」(けん)は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の数を表す建築用語で、実際、三十三間堂の柱間寸法は一定ではないそうです。ここで重要なのは、その柱の数の多さとかではなく、仏教における33という数字の意味です。33という数字は、すべてを見通し、すべてに慈悲を示す観音菩薩が、33の異なる姿になって人々を救済するというもので、観音菩薩が三十三間堂の本尊であるのも偶然ではないとのことです。 ところで「三十三観音巡り」というのが全国各地にあるとは思いますが、山形県内には3つの三十三観音巡りのエリア(最上、庄内、置賜)があり、それを束ねて「やまがた出羽百観音」としています。3つの三十三観音を合わせて百観音としているのは他所にもありますが、1つの県の中で完結するのは「やまがた出羽百観音」だけとのこと。山形県では、「札所だけでもおよそ100、ランチや休憩できるカフェ、お土産どころや名所旧跡、立寄施設などを組み合わせると巡り方や旅の楽しみは、無限大に広がります。」と算盤を弾いています。一方、暗算の得意な方は「三十三観音×3で99観音では?」と思われるかもしれませんが、最上三十三観音には番外(世照観音)、庄内三十三観音には首番(荒澤寺)と番外(観音寺)があり、これらを加えた102観音をやまがた出羽百観音と称しているそうです。いずれにしても四捨五入ということで。 一方、四国八十八か所巡りにおいては、その遍路にあるうどん店を巡る「うどん遍路」というものもあるそうです。札所をめぐることを「打つ」と言いますが、すると「うどん遍路」では、うどん店を打って、打ったうどんをいただく、ということになるわけです。「ラーメン県そば王国やまがた」を標榜している本県においても、「やまがた出羽百ラーメン」を打つとか、「やまがた出羽百そば」を打つことができそうです。 これを例えば最上三十三観音エリアについて言うならば、最上エリアにはそば店もラーメン店もそれぞれ33店以上は確実にあり、もしかしたら、逆打ちで違う店を巡れるくらいあるかもしれません。店がなくても、山菜そばやゲソ天そば、鳥中華や冷たいラーメンなど、バリエーションを変えればいけるかと。山形県では2泊3日で巡るモデルコースを掲げていますが、「そば打ち」、「ラーメン打ち」となると普通の人は1日5、6食が限度で、つまり一週間程度が必要かと。しかもこればかり食べる日々続くという、これもひとつの難行苦行ではあります。 そう言えば「水曜どうでしょう」というTV番組(山形では今でもそのクラッシック版が毎週放送されています)ではかつて、四国八十八か所を巡っていましたが、大泉洋さん、どうでしょう、最上三十三観音。今年の春先、クルーズ船「飛鳥�供廚鯊澆契擇辰藤嫁顳各�の旅をしていたようですが、山形新幹線「つばさ」貸し切りで最上三十三観音巡りというのは。あるいは最上三十三麺巡りはどうでしょう。一日平均10食以上となれば、きっとすばらしい画が撮れると思います。 ◎ 最上三条十三観音のお話 最上三十三観音には順番がついているのですが、別にこの順で回る必要はないそうです。その第一番の札所は天童市にある「若松寺」。開山して1300年、「西の出雲・東の若松」と称されている縁結びのパワースポットです。一方、死後の婚礼の様子を描くムカサリ絵馬も数多く奉納されています。ムカサリという言葉は、山形の方言で婚礼を意味するもので、山形県の村山地方に集中しているそうです。この若松寺がムカサリ絵馬の風習の中心的役割を果たしているとのことですが、若松寺への参道には「四輪駆動車以外通行できません」との看板があり、冬期間は前輪駆動車での来訪はご遠慮いただいているような場所にあります。 最上三十三観音札所は、第1番「若松」(天台宗 鈴立山 若松寺)、第2番「山寺」(天台宗 宝珠山 千手院) 、第3番「千手堂」(天台宗 守国山 吉祥院)と続くのですが、それは山形城主最上家四代目満家の子・頼宗の美しい一人娘・光姫が、自身をめぐる争いで命を絶たれた武将を憂いて出家し、老人に姿を変えた観音様の導きにより三十三の霊場を巡った、という伝説に由来すると伝えられています。以下、最上三十三観音札所別当会のHPからの抄録です。 「そのはじまりは室町時代までさかのぼる。かつては、今の村山地域と最上地域を合わせた広いエリアを「最上」と呼んでいた。南は上山市から北は秋田県境に近い鮭川村まで、最上川沿いに点在する観音堂の佇まいは、私たちの暮らしを見守ってくれる。 輝くように美しい光の姫という名をもつ光姫は、七歳の春、母を失い、乳母・信夫の手に育てられた。信夫は仏門の出で、姉は成沢村安養寺の尼僧で、安養比丘尼と呼ばれていた。 光姫の天性の美形は、地方の大名たちの噂にのぼり結婚を望む者も多かったが、父の頼宗は、京都五条に住む右衛門佐頼氏を姫の婿養子とした。この時、頼氏は21歳で器量人、姫は18の秋、まさに好一対の夫婦雛であった、と当時の記録は伝えている。 その一方、姫への慕情を断ち切れず、悶々とする者もあった。殊に、最上鮭川の領主・横川大膳国景は、姫との婚礼を切望し、再三にわたって頼宗に申し込んだが拒否されていた。姫の結婚後も忘れることができず、秘かにその略奪の機会を狙っていた。 結婚翌年の春、頼氏夫妻が平清水の大日如来に参詣する日に、大膳の一味は茶店の者や大黒舞などに変装して紛れ込み、姫に接近しようとした。しかし、護衛の侍たちにより守られ、頼氏は負傷する。その後、頼氏の傷の養生に、夫婦が高湯に湯治に出た時である。大膳は高湯からの帰途を襲ったが、かえって逆襲されその一味はすべて逮捕されてしまう。大膳をはじめ一味の主な者三名は、馬見ヶ崎の河原で処刑となった。 姫の心には、その出来事が大きな影となってのしかかってきた。古文書によれば、「城中に大膳の亡霊が現れ、姫を悩ました」とある。姫は出家を決心した。相談を受けた乳母の信夫はこれをとどめようとするもかなわず、姉の安養比丘尼のもとに行くこととし、二人は男に変装すると城をぬけ出した。比丘尼も何とか止めようとしたが同意せざるを得ず、三人で旅の支度をした。 数多い観音霊場のどこからまわりはじめたのか、行方のあてもなく歩いているうち、三人は野宿を覚悟した。ふと山際に燈火がかすかに見え、それをたよりに行くと、八十余りになる翁と姥が住む小屋だった。老人は、昔は旅の見世物師で、あちらこちらの祭礼に出かけていたため、霊場のことなら知らぬところはないといい、一番から三十三番までの道筋を詳しく書いてくれた。 小屋でのもてなしで空腹も満たされ、三人は夢路に入ったが、朝、目を覚ましてみれば小屋はなく草の中であった。不思議なことに、霊地のことを記した書き物だけが残っていた。これこそ観音さまのお示しであると、三人は西方を礼拝し、巡礼に旅立つ。その巡礼は、ほぼ2ヵ月にわたったが、姫は妊娠していた。身を寄せた農家で、姫は無事、玉のような男児を産みおとした。これが「若松君」であり、観音霊場一番の名をとったものである。」 この物語の前後にもなかなか因縁深いドラマがあるのですが、詳しくはこちらのHPをご覧ください。なお、最上三十三観音限定ご朱印帳もあります。 それにしても、光姫も駒姫も最上家の美人はなぜか、その美貌があだになる話ばかりです。 ◎ 花笠音頭の謎 天童市報平成24年8月号の「市長の部屋」で、「花笠音頭」と「若松寺」について、つぎのように執筆されています。 花笠踊りの「花笠音頭」では、2番の歌詞に「花の山形 紅葉(もみじ)の天童 雪をチョイチョイ ながむる尾花沢 ハァ ヤッショマカショ」と、4番の歌詞に「めでためでたの 若松様よ 枝もチョイチョイ 栄えて葉も茂る ハァ ヤッショマカショ」とあり、「紅葉の天童」と「めでためでたの若松様」が山形県民謡である「花笠音頭」の中に謳われ、皆さまから広く親しまれて歌われていることを大変喜ばしく思っております。若松様とは、縁結びに御利益がある寺として有名な天童最古の名刹「鈴立山(れいりゅうざん)若松寺(じゃくしょうじ)」 さて、ここでちょっと面倒なことがあります。山形県花笠協議会の花笠音頭では「花の山形紅葉の天童」の歌詞は8番目にきています。一方「めでためでたの若松様」の歌詞は、第1回目の花笠音頭パレード(山形花笠まつり)に向けて新しい歌詞を一般公募したもので、県内外から100を超える歌詞が集まり、その中から13歌詞を選定し、従来からあった2歌詞を加えた15歌詞で構成したことによるものです。もともと花笠音頭の歌詞はその地域により違いがあり、一説によると150以上もの歌詞があるらしいです。 これが一般的な民謡集やカラオケでは、1番目の歌詞となっているのは「めでためでたの若松様」で、花笠まつり当日に生歌を披露する大塚文雄さんの場合も、1番目がこれで、2番目が「「花の山形 紅葉の天童」です。三橋美智也さんの場合も1番目がこれですが、2番目以降は全く違います。都はるみさんの場合は1番目が「そろたそろたよ 傘踊りそろた」と花笠協議会の歌詞に従い、4番目に「花の山形 紅葉の天童」がきます。 とにかくいろいろで、それはそれでいいのですが、ここで謎なのが、天童市長が述べられた、2番「花の山形 紅葉の天童」、4番「めでためでたの 若松様」というのは、一体どこのバージョンなのかということです。いや、それを知ってどうしようというものではないのですが。 なお、「ヤッショ、マカショ」という囃子ことばは、築堤工事の土突(どんつき)の際の調子をあわせる掛け声から出たといわれています。しかしながら一説によると、ヘブライ語で「ハァ ヤッショ、マカショ」は、「見よ、神の救いを!神の隠れ家である新天地を」という意味であり、日本を発見した時の喜びの声ということですが、もうええでしょう(byピエール瀧)。 |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum



■「山形ハワイドリームランド」裏日誌 その1
この「山形ハワイドリームランド」のホテル版と言うべき建築が、同じく黒川紀章設計の「六本木プリンスホテル」(1984年-2006年)ではないかと確信しています。開業当初は斬新なデザインの都市型ホテルとして注目されましたが、バブル崩壊後の不況で客足が遠退き、営業を終了とあります。20年余りでなくなってしまいました。
「山形ハワイドリームランド」と同じく建物で取り囲む中に透明なプールがあって、「なんとなくクリスタル」の残党のような人たちの中、山形からのおのぼりさんの私は浮きまくっていたわけですが、「六本木プリンスホテル」は、言葉で表現するとこんな感じでした。
「建物は中庭を取り囲んだ口の字型で、中庭の大部分は複雑な曲線を描く屋外温水プールになっていた。通りに面した外側はほぼ正方形で落ち着いた外観を呈しつつ、内側は建物の外壁が入り組んだプールの縁を沿うようにうねる独特な意匠になっていた。内側に面した各階の廊下は総ガラス張りでどこからもプールを見下ろすことができたほか、プール自体も側面の一部が透明アクリル板で作られており、ロビーやレストランからはまるで水族館で水槽の魚を見るようにプールで泳いでいる者を見ることができた。」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
■「山形ハワイドリームランド」裏日誌 その2
「山形ハワイドリームランド」の名残りとしては、現在、飯田温泉があるのみです。また、当時の国土地理院の航空写真を現在の地図と重ね合わせると、当時のあった場所がなんとなく特定できます。現在はすっかり住宅地として分譲され、道路も新たに設けられているのですが、その中にテーブルが2つだけの小さなフレンチレストランがあります。もとはラーメン店の建物だったのですが、そこを現在のオーナー夫婦が改装し、今や全国有数の注目店となっています。メニューには、ただただ食材のみが書いてあり、料理が出てくるまでは想像もつきません。パティシェでソムリエででもある夫人が作るデセールや勧めるワインもすばらしい。お値段もそれなりに全国区ではありますが、まずは「ゴ・エ・ミヨ 2023」で確認を。
■パビリオンについてのご提案
パビリオンというと、2年程前に「パビリオン・トウキョウ2021」という企画展がありました。これは新国立競技場を中心とする複数の場所に、建物やオブジェを設置し、自由で新しい都市のランドスケープを提案する世界初の試みというものです。
9人の建築家やアーティストたちがそれぞれパビリオンを製作したのですが、このメンバーがすごい。藤森照信、妹島和世、藤本壮介、平田晃久、石上純也、藤原徹平、会田誠、草間彌生、真鍋大度+Rhizomatiksという方々。
それで思ったのですが、もし、大阪・関西万博でパビリオンが間に合わないということであれば、ここは「東京城」を製作された会田誠先生だったら、何かきっと凄いものを提案いただけるのではないかと。ペーパークラフトとかで。まずは「関西城」あたりから。