最上義光歴史館

 当館では、来月から開催する企画展「シン・市民の宝モノ2025」にむけて、山形市民の方から「宝モノ」とする品々を募集しています。今回は陶磁器を対象とし、古今東西、文化的評価にかかわらず出品いただけます。ただ陶磁器限定ということで、最近、流行している土偶や埴輪などの土器は、対象外となるので、また別の機会にでも。
 この「市民の宝モノ」展は以前、10年間程毎年開催していたのですが、一時中断となり6年ぶりに再開するため、「シン」という言葉をつけました。流行に遅ればせながら乗ってみただけなのですがお許しください。
 さて、陶磁器といえば、壺や皿から人形や貯金箱までいろいろあろうかと思いますが、まずは茶碗あたりのお話から。茶碗と言えば「一楽、二萩、三唐津」などと言われており、まあ、その上には唐物とか高麗の茶碗があるのですが、まずは楽焼のことを少々。
 この「楽焼」という名称ですが、「楽しい焼物」とか「楽ちんな焼物」とかいうことではなくて、まあ、そんなところもあるかもしれませんが、千利休が瓦職人であった長次郎に作らせたのが始まりです。長次郎が聚楽第の瓦を製造したことで豊臣秀吉から楽の印判を賜り、聚楽焼と称したといいます。また、聚楽第建造時に掘り出された土(聚楽土)で茶碗をつくったからともいいます。千利休と聚楽第のいずれも豊臣秀吉とは切っても切れない関係であり、つまり楽焼の発生は、戦国時代の最中にあります。
 楽茶碗は、轆轤(ろくろ)を用いない手捏(づく)ね、つまりは手の中で茶碗の形をつくり、箆(へら)で形を削り上げます。掌にしっくりと納まり、やや肉厚であるため、熱の伝導を抑えられ飲み口の触感もいいのです。素焼きの後、釉薬(ゆうやく・うわぐすり)をつけ本焼きします。楽茶碗には主に「赤楽」と「黒楽」があり、赤楽茶碗は800℃程度、黒楽茶碗は1000℃程度で焼きます。
 伝統工芸などは通常、一子相伝などで代々その技法が伝えられていくものですが、楽家の場合そうした技術伝承はなく、むしろ先代と同じ作風を良しとしないという特徴があります。長次郎の時代からの「手捏ね」という技法こそ守られますが、その他は個人に委ねるもの、例えば、釉薬の調合については教えもせず、書き残しもしないそうで、試行錯誤で作るとのことです。結果、同じ楽家の楽茶碗と言っても、代々それぞれ違うものとなります。
 京都にある楽美術館は、展示室はこじんまりとしていますが、初代長次郎から当代(今は16代)吉左エ門まで代々の楽焼が展示されています。同じ場所に代々の作品が並ぶと、その違いがわかります。それは先代と当代とが新規と回帰とを振り子のように行き来している感じもします。一番分かりやすいのは14代吉左エ門(覚入)と15代吉左エ門(直入)と比べたときの違いです。14代の安定感のある作風に対し15代はそれまでの楽家にはない前衛的なものですが、15代に言わせると、自分は初代長次郎に立ち戻ったものであるとのこと。なるほど、今でこそ、長次郎の作品は茶道の王道のように思われているわけですが、当時、珍重されていた唐物などの茶碗からすれば、ざらざらとして真っ黒い茶碗などとんでもなく斬新なもので、それを考えれば納得できます。
 15代の茶碗には、焼成温度を1,200度まであげる「焼貫」という技法で仕上げたものがあり、それはまさに大気圏を突き抜けてきた隕石のような趣があり、その形も飲み口をどうするかわからないような険しいものです(本人は飲みやすいところを飲み口にすればいいと語っていましたが)。14代のオーソドックスな作風からアグレッシブな15代となったとき、正直、かなり面喰ったのですが、作品を見ていくうち、その技法や考え方に圧倒されることしきりで、現代の作陶そして伝統の継承とはこうあるべきだろうなと勝手に思うに至っています。
 さてここで、茶碗の良し悪しについて少々。以前、楽茶碗を作っている方からきいたことによると、まず見た目より軽いこと。つまりは無駄に分厚い茶碗になっていないことです。そして外側より内側が大きく見えること。物理的にはあり得ないのですが、確かに内側が大きく見える茶碗があります。また、高台がだらしのないものでないこと。気持ちが抜けている高台というものはなんとなくわかるものです。単にきれいな細工だからよしということでもありません。高台際の釉薬の具合が見所という茶碗もありますが、高台に釉薬がかかっていないものもあります。茶碗の見所は見込み(内側)と高台だとは言われていますが、見込みと高台の両方を見るとかは展示では困難で、お道具拝見などで手に取って重さなどもはじめてわかることではあります。もちろん、色合いや様子には、好みや偶然性もあるので、それぞれかと。
 思わず楽茶碗について云々してしまいましたが、今回の「シン・市民の宝モノ」展は、何もこういう品物ばかりを求めるものではなく、古今東西、エピソードに溢れた身近な品こそ大歓迎です。特に茶碗などは「伝」や「写」などが少なからず流通しているのですが、いっそ、楽吉左エ門ならぬ楽吉右衛門とか、加藤唐九郎ならぬ加藤唐十郎とか、北大路魯山人ならぬ北大路魯仙人とか、堂々とした珍品迷品があれば、それはそれで話題にもなるというものです。

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 さてさて、桃の節句とはいいますが、山形は梅の花もまだ咲かない状況であります。それでも山形城付近は、このところの好天で全く雪もなく、除雪機も早仕舞かなという感じです。一方、蔵王は近年まれにみる観光客で引きも切らず、山形駅前の蔵王温泉行バス停前には、インバウンド様が列をなしています。いずれもあまり目にすることのない光景で、そうなんです、蔵王だけ雪が豊富というのが一番ありがたいわけでして。
 さて、この時期、郷土系の博物館などでは、雛人形の企画展示でまさに祭り状態でして、山寺芭蕉記念館でも例年この時期に「おひなさま展」を開催(4月6日まで)しており、先日、当館学芸員もその展示準備を手伝ってきました。約200体の雛人形とともに山形県指定有形文化財「紅花屏風」も公開しています。
 山形には、江戸時代に最上川舟運や紅花交易により京都などからもたらされた雛人形が数多く残されており、○○家伝来の雛飾りといったものを中心に展示していることが多いです。ちなみに山形市に隣接している二市二町のいずれでも雛人形展を開催していて(天童市「天童の雛飾」、上山市「かみのやま城のひなまつり」、中山町「2026柏倉九左衛門家ひなまつり」、山辺町「やまのべひな人形展」等々)、付近の料理店などでも飾られていたり、菓子作りや着付けなどの関係イベントもあったりします。
 また、北前船で栄えた庄内地方でも、酒田市「旧阿部家ひなまつり」では、庄内一円から寄贈された約600体の雛人形が並べられ、鶴岡市「鶴岡雛物語 城下町のお雛さま」では、庄内藩主・酒井家などの享保雛、有職雛、古今雛、芥子雛などが飾られます。一方、上杉家所縁の米沢市や伊達家所縁の仙台市では、あまり大々的に雛人形を推すような展示がありません。恐らく紅花交易の多寡の他に、米沢は大正時代に大火に見舞われ、仙台は空襲による戦火があり、雛飾りが消失しているからなのでしょう。ただ5月にはそれぞれ、武家推しの大規模イベント(上杉まつり、青葉まつり)が催されます。
 雛飾りは、住宅事情とも相まって、年々コンパクトになってきているのに対し、五月飾りは年々立派になってきている感じがします。以前は鯉のぼりが主流で、室内飾りはそれほどでもなかった気がするのですが、やはり住宅事情でしょうか、鯉のぼりはすっかり見かけなくなりました。一方、河沿いに何百匹の鯉のぼりを並べるイベントがあったりします。市街地でも、山形市内では「ビルより高い鯉のぼり」として地上70mの高さの鉄塔(NTT東日本山形支店ビル屋上)から30匹の鯉のぼりを掲げていたりします
 こうした雛人形や鯉のぼりは、家庭などで使われなくなった寄贈品が主体となっています。文化伝承的にもSDG’s的にも大変よろしいことかとは思いますが、博物館の場合、なんでもかんでも寄贈をうけるわけにもいかず、こうした寄贈先等がない場合はなんらかの方法で処分せざるを得ません。
 特に人形の処分となると、複合材料なので仕分けにひと手間かかります。布地、金属。プラスチック、陶片 等々。物として割り切って廃棄できればいいのですが、人形となると単純に廃棄物扱いにできないことも多々あります。例えば、よく目が合う人形とか、表情が変わる人形だとか、声が聞こえる人形とか、そうしたものは特に簡単には扱えないかと。やはり気持ちが入っている人形などは、神社やお寺で供養(お焚き上げ)するのが一般的な方法ですが、一般社団法人日本人形協会というところでは、ゆうパックを利用した人形供養の代行サービスを行っているとのこと。なお、ゴミ回収に出す場合は、白い和紙や布に包んで塩で清めてから袋に入れると、気持ちの整理がつくそうです。また、フリマアプリで出品という方法も。リサイクルショップでも人気ブランドならそれなりの査定がつくといいます。特に五月人形とかはインバウンドさんに人気らしいです。
 今の時期は、新聞とともに五月人形の販売チラシが配達されてきますが、五月人形にもやはり流行があるようで、例えば一時期流行った「愛」の兜はチラシから姿を消し、代わりに伊達の三日月の兜が人気のようです。これを見た当館の物販担当は、「当館でもそんな兜をつくればいいんじゃない。前立を〈義〉とか〈光〉とかで。」と言っていました。おぉ〜、金脈、いや、可能性というのは、いろんな場所にあるなぁ。

( 裏館長日誌に続く→ )
本日から3日間(8月5日〜7日)、「山形花笠まつり」が開催されます。当館も午後6時(入館は午後5時30分)まで、開館時間を延長いたします。どうぞご来館ください。


当館の前には、約20軒ほどの露店が並んでいます。


館内ではミニ花笠を販売しております(税込500円)。
 2か月ぶりの館長日誌でありまして、季節はすっかり冬となっております。とにかく季節の移り変りが急過ぎ、巷では四季ではなく夏と冬だけの二季だけになったとも言われていますが、実際、当館の前の公園の木々も色が変わる間もなく落葉しています。日によっては雪も舞い、そそくさと当館の除雪機もスタンバイさせたところです。
 さて、去る10月21日に「Best of the World 2026(2026年に行くべき世界の旅行先25選)」のひとつに山形県が選出されました。「ナショナル ジオグラフィック」によるもので、個人的に「ナショナル ジオグラフィック」の日本版なら創刊以来、定期購読しているのですがただの積読になっていて、こんな旅行先の選定をしているとは知りませんでした。
 山形県が選ばれた理由ですが、「山形県は、東京から300kmほどの距離にも関わらず、別世界のような静けさを保つ場所であり、日本の旅行者もまだ多くが訪れていない聖なる山々、静寂に包まれる寺社、フォトジェニックな温泉、四季を通じて各地で開催される伝統的な祭りなど、混雑を避けて、通年で、古くからの伝統と神秘的なアウトドア体験ができる点が評価されました。」とあり、具体的には「蔵王山のスキー場と温泉、銀山温泉、山寺、出羽三山は、どれも忘れられない旅行先となる。2月には米沢市の上杉神社に1000を超える雪灯籠がともり、8月初旬には山形市で山形花笠まつりが開催される」とのことです。
 ただ、他に選定された地区、例えばリオデジャネイロ、マニラ、北京、マウイ島などからすれば、山形はあまりにも穴場感が強いといいますか、もちろん蔵王、山寺、花笠まつりなどはいずれも山形市のことで、ありがたいわけではありますが、どうも国内選手権を飛ばして国際舞台に立ってしまった感じです。
 とは言え最近、特に冬は台湾をはじめとする東南アジア圏のお客様が多く、当館の近くでも、雪が積もればしきりに写真を撮ったり、雪遊びをしたりしていて、当館職員はおもむろにその近くを除雪機で掃いたりしています。これが結構な運動でして、とにかく雪が積もる日というのは、汗をかくぐらいの運動を強いられる日でもあります。
 これが山寺ではまた違う体力が要求され、数か月程前ですが、山寺の奥の院近くにある最上家の廟が改修されたとのことで、1,000段以上ある階段をひたすら上ったのですが、廟に到着したときには汗びっしょりのヘロヘロで、還暦過ぎての体力の衰えを思い知らされました。さらに思い知らされたのはその下りでして、降り始めると急に膝が刺すように痛み、それからは手すりを伝いながら一段一段降りる羽目になりました。これは体力というより筋肉疲労と体重増が大きな原因とは思いますが。
 山寺は蝉の鳴く夏も、紅葉の秋もいいのですが、山寺の絶景と言えば冬。水墨画さながらの風景が目前に広がります。ただ注意いただきたいのが、とにかく滑らない靴の着用を。体力や膝の痛み以上に気を付けたいことかと。特に還暦を過ぎての転倒は、命に係わる場合もあるので。
 そして体力勝負となるのが出羽三山 (月山、羽黒山、湯殿山)の神々を祀る三神合祭殿へ登る石段で、2,446段あります。登りは約1時間半の行程ですが、これで「生まれかわりの旅」ができるとのことです。逆に三神合祭殿から下れば半分程度の時間で済みますが、「生まれかわりの旅」も半分になるかと。
 その石段の途中には五重塔があり、山形では数少ない国宝のひとつですが、平安時代中期の承平年間(931年-938年)に平将門が創建したらしいと伝えられています。現存する塔は応安5年(1372年)に再建され、慶長13年(1608年)に最上義光が修理を行いました。最上義光はこの工事の奉行として、志村と下(しも)の2名を任じました。塔の最上層の屋根に金属製の九輪が立ち、その基礎の露盤には義光とともに志村と下の名前が並んでいます。
 一方、米沢市で2月に開催される「上杉雪灯籠まつり」は、1,000を超える雪灯籠がともされますが、これだけの数の雪灯籠を準備しながら、たった2日間(2026年は2月14、15日)だけのまつりとなります。毎年5月連休には「米沢上杉まつり」が行われ、火縄銃の実演を交えた上杉軍と武田軍の合戦が演じられます。
 選考理由にある「古くからの伝統」には、こうした戦国武将も関係してくるようです。ところで「2026年に行くべき世界の旅行先25選」とはありますが、山形では特に2026年になにかあるとは聞き及んではいないのですが、とりあえずいつでも、まずは体力のあるうちにいらしていただければと思います。


(→館長裏日誌に続く)
 近年にない大雪となっています。青森では自衛隊の派遣要請もしているとのことで、「降り積もる雪、雪、雪、また雪よぉ〜、津軽には七つの雪が降るとかぁ〜」などと歌っている場合ではないことは重々承知しておりまして。それが「こな雪、つぶ雪、わた雪、ざらめ雪い〜」などではなく、単なるドカ雪であることも想像に難くなく、なんかこんなことを昨年も言っていたような。でも、雪が降ると、この歌が浮かんでくるんですよ。「こなぁ〜ゆきィ〜」とかは、あまり浮かんではきませんが。
 山形県内も海沿いや山沿いは記録的な降雪ですが、山形城のあるこの山形市街だけは不思議に、あまり降らずに済んでいます。当館ボランティアさんも、ここに城を構えた最上家は偉いものだなぁ、などと囁き合っています。
 さて、数多くの連歌を詠んだ最上義光ですが、やはり雪に関わる句もあります。
「入月のかけやとゝめし雪の庭」、文禄4年(1595年)12月16日に開催された歌会での発句でして、これはすなわち義光が主客の歌会であるということです。
 この句を解釈すると、まず「入月」ですが、これは月が地平線や水平線の下に沈むことです。国立天文台では「月の中心が視地平線と一致する時刻を月の入り」と定義しています。「日の出」や「日の入り」は太陽の「上辺」が地平線にかかった瞬間ですが、月には満ち欠けがあるため、月の「中心」が地平線にかかった瞬間になるそうです。
 次に「かけやとゝめし」ですが、これは連歌表記あるあるでして、濁点を補えば「影や留めし」となります。ここで「影」の意味ですが、これは「月影」つまり「月の光」です。古文における「かげ」というのは、この月あかりという「光」と月光に照らされる「姿」という2つの意味で主に用いられ、入試の重要古語とのこと。どうでしょう、この句を入試問題としては。
 また、「月の影(月影、つきかげ)」は、主に秋の夜空に輝く月を表す秋の季語です。この句では「雪の庭」という言葉があるので、単純に冬の句かと思ってしまいますが、月影が地面に降った雪のように白く見える様子を「月の雪」と表すことから、この句では、実際には雪がない秋の庭を詠んでいるとも考えられます。また、第二句に「松風寒き」とあり、第三句に「秋くれて」とあるので、この句も同じ晩秋の句であることが推察されます。
 まずは「入月」と「かげ」の意味がわかれば、雪の有無は別として、内容的に理解できる歌です。ちなみに義光の辞世の句とされているものでも月と雪を詠み込んでいます。「有といひ無しと教へて久堅の月白妙の雪清きかな」という句ですが、こちらはなかなか難解な内容ではあります。
 さて、この発句に続くのは次の句です。
 松風寒き釣簾のゝ山      弥阿 (=出羽国、光明寺僧侶)
 軒近き木葉あらハに秋くれて  昌叱(=里村 昌叱(さとむらしょうしつ))
 日かりかすかに雰はるゝ空   玄仍 (=里村玄仍(さとむらげんじょう))
 まず、第二句の「松風寒き釣簾のゝ山」について。
 脇句といわれる第二句は、発句と同じ季節の季語を用いる、と「連歌式目」にあり、一般的には体言止めになります。季語としての「松風」はやはり秋。しかも「寒き」とあるため晩秋です。一方、「釣簾」は夏の季語で、「野山」はこの句の場合、晩秋の野山でしょう。晩秋に夏の名残を対比させる、つまりは異なる季節の季語をぶつけるという、季語を重んじる脇句ならです。
 ちなみにこの脇句を詠む人は「亭主」と呼ばれ、通常その席の主催者(主人)が担当しますが、名前にある弥阿という人は山形の「光明寺」つまり最上氏の祖・斯波兼頼の菩提寺の僧侶です。もしかして山形で開催かとも思いましたが、その参加者をみると山形で催された会ではないようだとのことです。
 続いて、第三句の「軒近き木葉あらハに秋くれて」について。
 第三句は、その会での連歌の「行様(ゆきよう)」を決定付ける重要な句とされ、その多くが「て」止めで終わります。一見、何気ない句ではありますが、ルールどおり「て」で止めており、また、ちょっとした仕掛けもあるようです。
 さて、ここで問題です。「木葉あらハ」というのはどのような状態をさすのでしょうか。そのままでは「葉っぱが丸見え」となりますが、「木葉あらハ(露わ)」とは、実は木々の葉がすっかり落ちて枝があらわになっている様子のことです。これも入試問題にと。また、「秋くれて」は、「晩秋」と「秋の夕暮れ」の二つの意味を持つ季語で、この句では、発句や脇句からすれば「晩秋」ととるのが自然ですが、もしかしたらダブルミーニングになっているかもしれません。
 そして、第四句の「日かりかすかに雰はるゝ空」について。
 第四句は、「て」で終わることが多い第三句に続く自然な描写や動作で文脈を繋ぐこととされ、同じ季節や用語が連続しないようにともされています。
 この句は一見、難解な感じですが、「日かり」は「光」です。しかし「雰」とは「雰囲気」という語句以外にはあまり見かけず、読み方も「フン」だけですが、「霧(きり)」のことです。つまりは「光幽(かす)かに霧晴れる空」という情景描写そのままでして、あえて軽く展開する(平気、平句)、この何気なさが第四句には大切です。
 以上、発句から第四句までセオリーどおりでもあり、なんとなく読み解けるのですが、五句目以降となると、句の自由度が一気に増すため解釈が難しくなります。第五句は「すさましき雪に志かれや残すらん」というものですが、やはり難問でして、「すさましき雪に志かれや」とは、豪雪に埋まり動けない様のことですが、次の「残すらん」が何にかかっているのかわからず、さらに六句目がまた、いきなり飛躍した展開となっていて、しかも本歌取りのような、掛詞のようなものがありまして。ということで、今回はこれくらいで勘弁願います。
 何分にも、この連歌が巻かれた年(文禄4年)は、駒姫が斬首された年(8月2日)であり、背景にはそれも読み込まれている可能性があります。連歌の底は知れず、やはり私のような者が語るには百年早いかと。

(→裏館長日誌に続く)

 いつのまにやら卒業シーズンです。歌番組などでは、卒業とあわせ桜を歌い込んだ歌が流れたりするのですが、3月中旬の山形は、桜どころか梅すらまだという感じで、卒業と桜とは感覚的にどうも結びつかず、どちらかというと雪を気にしなければならない感じでして、実際、桃の節句にも雪が降りました。
 さて、「卒業」の歌というと、私の世代的には尾崎豊さんぐらいしか思い浮かばないわけでして、「夜の校舎 窓ガラス壊してまわった」というのは、かつて山形の中学校でも(それは私の母校でも。卒業して数年後でしたが。)発生していました。これが高校となると、進学やら就職やらのこともあり、窓ガラスを壊してまわるような余力もないようで、たまに聞くのが、自分の車で卒業式に現れた、という話くらいです。盗んだバイクで走り出すのは「15の夜」でして、高校卒業時は通常、自車や愛車であります。
 さて、坂道界隈などアイドルの方々は、独立するとき「卒業」と表現されるわけですが、尾崎豊さんの歌からすれば、「この支配からの卒業」とも、「戦いから卒業」ともしれず、いずれにせよ言い得て妙です。ちなみに、かつてアイドルであった斉藤由貴さんのヒット曲「卒業」はデビュー曲です。デビューで卒業、ということで、別に深い意味はないのですが、なんかすみません。
 ところで最近驚くのが、大学の卒業式に親も参観するという話で、場合によっては謝恩会にも同席するとのことで、親子で服装はどうしようなどと心配されるようなことも。自分と言えばその時期、山形の自動車学校に通うだけで忙しく、卒業式にも行かず、つまりどんなものかもわからず、まして謝恩会などは別次元の話で。当時、入学式もない大学だったので、そういうものがなくても、なるようになるというか、まあ、こんなふうになるわけです。
 あと、小中学校の卒業時には、卒業文集とか寄せ書きとかがありますが、そこに「座右の銘」のようなものを書くことがあります。ありそうなのは「為せば成る」(by上杉鷹山)とか、「努力は必ず報われる」(by王貞治)とかでしょうか。一方で「この世に客に來たと思へば何の苦もなし」(by伊達政宗)とか、「メークドラマ」(by長嶋茂雄)とか書く人はそんなにいないような気がします。まして「是非に及ばず」(by織田信長)などと書いたりすれば、何が言いたいのか訳が分からないわけで。
 ちなみに私の場合、中学生なりに「ことわざ辞典」などを懸命に読み、見つけたのが「お天道様と米の飯は、いつの世もついてまわる」という言葉でしたが、まさか猛暑で米不作になるとは思いもよらず、世の中はそんなに甘くなかったようで。
 そこで最上義光に格言や名言となるものはないかと探してみましたが、意外に少なく、例えば「大将と士卒は扇子にたとえたり、要は主人、ほねは物頭、地紙は惣勢也」というものがあり、続けて「何れか不足にて勝利有べき、夫故我士卒をおもふ事一子のごとく」と続きます。もののたとえとしては分かりやすいですが、中身が組織論ということで、どうも格言にはならないかと。格言ではなく連歌であれば結構な数があるのですが、連歌で格言的なものとなるとこれもやはり難しいわけで。ということで、せっかくではありますので、今時分の季節の句のご紹介でも。
「梅さきて匂い外なる四方もなし 義光 」
 ただし、この句は単に梅花香るのどかな情景を詠んだわけではなく、実は戦勝祈願の句とのことで、どこをどう読み取ればそうなるかは、当館ホームページに掲載の「新・最上義光連歌の世界� �(生田慶穂 山形大学准教授)をご覧願います。

(→ 裏館長日誌に続く)