最上義光歴史館
![]() 市民の皆様に出品いただいた「宝モノの馬」 1月15日から開催中の「シン・市民の宝モノ2026」には、幅広く様々な出品をいただいております。鋳物や木工細工、切手やジャンパー、馬券まで、ひとひねりを加えていただいた展示品も数多くあります。 さて、前回の館長日誌は、最上義光とは関係のない話題がほとんどでしたので(これは前回ばかりではありませんが)、今回は直接関係する話を中心に。まずは、義光という名前への返礼品が馬という話でも。 最上義光は丙午の年1546年(天文15年)正月生まれで、幼名は白寿丸と言い、1558年(永禄元年)に13歳にて元服。将軍足利義輝から「義」の字をもらい義光としました。その御礼として翌年、父の義守は将軍に馬を献上しました。将軍義輝は「出羽国最上山形孫三郎」が献上した馬が無事に通過するように、越後の長尾景虎へ往来の便を図るよう命じています。(六月二十六日、足利義輝御内書、上杉家文書)。 「偏諱(へんき)」、つまり目上の人の名前の一文字をもらい受けることですが、その御礼となると馬とかになるということで、しかも、その送達には、関係者への協力要請もなされるという、結構、大掛かりなことではあります。 さらに馬にかかわる話としては、「最上記」に「於天堂原馬揃之事」というのがあります。「最上記」は、1634年(寛永11年)に成立した最上義光公のいわゆる軍記物であり、それはまた「義光の伝説化の原点」となるものです。以下、その要約です。 1602年(慶長7年)1月15日に義光公は「来る四月、天童原に於いて馬揃えを催す。」として、「直参の家臣は申すまでもなく、家中の者までも日頃馬を嗜んでいる者は、残らず参加すべし。ただし、本荘豊前守をはじめ在番衆280騎は参加の必要はない。そのほか参加する者どもは前以て山形へ来て名簿に記帳のこと」とのお触れがだされた。御旗本はいうまでもなく家中の者までも馬を嗜んでいる者は、ここを晴れの場と用意し、当日は天童原へ虎の刻(午前4時頃)より参集した。この度、名簿に記帳した馬揃えの参加騎馬数は合計3,727騎であった。 催しには近国から来て集まった見物人が幾千人。義光公も卯の上刻(午前6時頃)に城を出発、御供としては近習衆や小姓並びに器量のよい若者30騎を選り抜き、みな同じ袖なし羽織を着せて召し連れた。 予定どおり城持の重臣たちから乗り始めようとしたところで、義光公が「今日は延引いたそう」と仰せられ、にわかに帰城してしまった。集まっていた者皆が不審に思い、「そもそもこの馬揃えは、数ケ月以前よりの御催しであるのに、にわかに御帰城なさるとは、なにか御気分でも悪いのでは」と心もとなく思い、我も我もと山形へ駆け付けた。 そこへ「今日の馬揃えが延期となったのは、みなの者が心配するような事情ではない。急いで帰られよ」と、家臣を通して仰せられたのでその言葉に従い私宅へ帰った。 後に若侍衆が大勢寄り集まったとき、「今度の馬揃えは、かねての日よりのお触れであるから、しっかり御目に入れようと思って、我こそはと準備いたしたのに、延期となったのは本意ないことよな」と、つぶやいた者があった。これに対して、ある者が申した。「つらつら義光公の御心底を想像してみるに、御遊覧のため馬揃えを命じられたのではあるまい。近年は天下が穏やかで、狂言綺語の戯ればかりが盛んであるから、自然、武具馬具の嗜みもおろそかになってはいまいかと思し召し、馬揃えにことよせて、武具馬具の古くなったのを改め申すようにとのお考えなのだろう。この企画はかねてからの催しであるから、近国の諸大将は、最上の騎馬数を知ろうとし目付け役を寄越したのは確かなこと。だからといって見物を禁止とするのも度量の狭い感じで、そんなことからにわかに帰城なさったのではないか。そのゆえに上下が混乱し、われ先にと山形へ馳せ着いたために、見物人も騒ぎ立てて収拾つかぬ状態だった。それがために他国から来た目付け役の方々も何も見所なく、空しく帰ったということだ。それなのに、大将の深い考えも知らず、口に任せて左様なことを語り給うな」と注意したので、聞く人は、なるほどもっともなことだ、と申したのであった。 この話は昨今にも通じる含蓄に富んだ話です。中国故事のような格言になってもよいくらいかと思うわけで。「天童原の馬揃え」ということで。これは、大規模なイベントを理由に、建物や物品をリニューアルする、という意味になろうかと、あるいは、本当の目的は別にある、という意味にも。使い方としては、「今度、本部からエライさんがくるけど、昼食はどうしようかね。」、「山形牛の焼肉弁当とかどうでしょう。せっかくなので皆の分も。」、「なんか天童原の馬揃えだなぁ。」という感じでしょうか。いや、ちょっと違うぞ。それは単なる便乗では。 (館長裏日誌へ続く →) |
![]() 桜花と最上義光騎馬像 ![]() 堀の花筏を進むステージ筏 今年の桜の開花は、山形でも例年になく早いものでした。4月11日、12日には、山形城を会場に観桜会が催されましたが、前日の雨で、満開と同時に桜吹雪となりました。まさしく「三日見ぬ間の桜」ということですが、これは江戸時代の俳人・大島蓼太の「世の中は三日見ぬ間に桜かな」という句からとられたもので、3日も見ないうちに桜が散ってしまうように、世の中の様子が激しく変わってしまうことをたとえているとのこと。まさしく今の世もこんな感じでして。 さて、当館では「鐵[kurogane]の美 2026」〜『出羽の三名人』と現代の匠 〜と題し、10振りの刀剣を展示しています(会期4月2日〜7月5日)。新々刀の名工、水心子正秀と大慶直胤、藤原清人、そして現代の匠上林恒平氏と弟子の�盒狭姥兄瓩虜酖瓩任后E畄�展示は毎年―好評で、毎度これを目的に来館される方がいる、つまり当館では数少ない、リピーターが望める有力企画ではあります。 またこの間、市当局からはインバウンド対応をぬかりなく、という指示がありまして、今年は刀剣解説の英文リーフレットも用意しました。ただ、刀の部位名等はそのままローマ字表記せざるを得ないことが多く、例えば鎬は「shinogi」、茎は「nakago」という具合です。とにかく名称(人名・地名・品名等)が多い場合は、それだけで翻訳は困難になります。また、英語圏ばかりともならないわけで、実際、山形市に多いのは台湾からのお客様で、すると中国語も「簡体字」だけではなく「繁体字」も用意する必要があります。山形にはタイからのお客様も多いらしいのですが、AIでタイ語に翻訳すると、文章がどこで区切れているのかわからず、恐る恐る出力されたまま掲示しています。タイは仏教国なので年号も、例えば「慶長5年」は「仏歴2143年」となりますが、まあ、そこまで丁寧にしなくても「A.D.1600」で表記すればいいのかと。 また、翻訳解説ではその基礎となる「やさしい日本語」による表記が必要となるのですが、これもなかなか手間どります。ところが当館学芸員がAI翻訳を使ううまい方法に気付きました。それは日本語の原稿を一度英文に訳して、それをまた日本語に訳すると、とても整理されてスマートな表現に変換されるので、これを基本文として多言語にAI翻訳するというものです。とにかく人名や地名等以外はかなり間違いのないものになります。 とは言え、当館で扱うものは、単なる翻訳だけでは理解困難なことも少なくありません。歴史的な背景がわからないと興味関心すら得られないも少なくないのです。例えば「戦国時代」、英訳ではそのまま「The Sengoku period」、意訳でも「The Warring States period」となるのですが、なぜそんな時代名なのか説明が求められるかと。「室町時代」とか「江戸時代」とかは、治世者がいる場所の名であると説明すればいいのですが、「戦国時代」というのは場所の名ではないわけです。ざっくりと言えば、応仁の乱により室町幕府の権威が失墜し、下剋上が全国に広がった乱世であった、つまり治世者がつぎつぎと変わったためです。これで普通は終る話なのですが、とにかく予備知識ゼロからの説明なので、次は「応仁の乱」についての説明になります。なお、「下剋上」は「the low overcomes the high」とか、あるいは簡単に「upset」とも言うようですがこれだと「ちゃぶ台返し」のようなニュアンスになってしまうような。ちなみに日本の解説では「実力主義」とも説明されていますが、これも微妙に違うような感じかと。 さて、この応仁の乱(1467-1477)の主な原因は、AIさんによれば、室町幕府8代将軍・足利義政の跡継ぎ問題と、有力守護大名の権力争い、そして畠山・斯波両家の家督争いが連鎖的に重なったことによるそうです。この斯波(しば)氏というのは足利将軍の一門で、細川氏・畠山氏と交替で管領に任ぜられる有力守護大名です。 さてさて、このあたりになると俄然、興味関心が続かなくなります。例えるなら、イギリスのテューダー朝(1485–1603)にいたるヘンリー6世やらヘンリー7世やらの話のようなもので、薔薇戦争がどうしたとかシェイクスピアがどうしたとか言われても、ご当地の方には常識でも、こちらとしては何のことやら、というのと同じでして。斯波家は最上家の祖はであり足利氏とも深く関係するのですが、その説明に行きつくまではそれなりの忍耐力が必要です。特に家系をたどる話は、見も知らぬ人物名ばかりが次々とでてくるわけで。 ということで、刀剣などの方が興味関心が得られやすいかと。今回は新々刀の名工、水心子正秀らの刀とともに、現代の匠として上林恒平氏と弟子の�盒狭姥兄瓩療瓩鯏玄┐靴討い泙垢�、その師匠と弟子の刀が何とも対照的で、ほぼ同じ時期、同じ重量にもかかわらず、師匠の刀はたっぷりとした趣があるのに対し、弟子の刀はシュッとした細身で清新さがあり、是非そうした所などもご覧いただければと思います。 (→裏館長日誌に続く) |
![]() 最上家関係文書 展示状況 ![]() 「親」の一字だけが書かれた「一字状」 当館では現在、徳島里見家旧蔵「最上家関係文書」を特別公開しています。徳島市に在住する旧東根城主里見家の御子孫から昨年9月に山形市に寄贈された資料のうち、最上家関係文書6通が令和8年3月19日付で山形市指定有形文化財に指定されたことをうけて展示しているものです(8月30日まで)。その見所としてまずは、最上義光の花押でしょうか。実はこれまでの当館の所蔵品に、最上義光の花押のある文書がなかったのですが、今回、義光名の文書の全てに花押があり見比べることもできます。通常、花押がある文書というのは相手宛なので、手元には残りません。 さて、里見家と最上家との関係ですが、最上家初代・斯波兼頼の孫・天童頼直の子が東根里見家初代・頼高です。また、東根里見家9代目・親宜(ちかよし)は、最上義光の四女・禧久姫(きくひめ)を娶っています。元和8年(1622)に最上家が国替えとなった際、親宜は徳島藩預かりになり、後に蜂須賀家の家臣となります。今回展示している文書の一つに、「親」の一字だけが書かれた文書の「一字状」があります。義光の子である最上家12代・家親が、自身の「親」の字を東根源右衛門尉に与えるとする文書です。これにより源右衛門尉は名を親宜と改めます。東根里見家9代目・親宜です。 このように主君が配下の武将や家臣に対して、自身の名前の一字を与えて名乗らせることを「一字拝領」または「偏諱(へんき)授与」と言います。ちなみに最上家親も、かつて徳川家康に仕えていたことから、元服の際、家康から「家」の一字を拝領し、義親から家親へと名を改めています。さらに言えば、その父・最上義光の「義」は室町幕府の第13代将軍・足利義輝から一字拝領したものです。 この足利家と最上家の関係ですが、最上家初代は斯波兼頼で、後に地名である最上を名乗りますが、斯波家と足利家と言うと、歴史に詳しい方ならピンとくるかと。斯波氏は、室町幕府において細川氏や畠山氏と並ぶ「三管領」の一つを務め、越前や尾張など複数の守護を兼任した家系です。斯波家の家格は将軍家に次ぐ高さで、足利の姓を公称し、足利尾張家とも号しました。 家系を遡ると、足利尊氏の曽祖父にあたる足利家4代・泰氏の子には頼氏と家氏がいて、頼氏が足利家を継ぎ、家氏が陸奥国斯波郡(現・岩手県盛岡市の一部および紫波郡)を所領、その子・宗家が斯波家を名乗ります。家氏の母は当初は泰氏の正室でしたが、諸事情により側室に退き、長男である家氏は嫡子から庶子になりました。代わって北条時氏の娘が泰氏の正室となり頼氏をもうけ、足利家を継承しました。この嫡流と庶流の逆転が後々面倒なこととなるようです。 そして斯波家初代・宗家の子が宗氏、その子が高経と家兼です。高経は、南北朝時代に足利尊氏に従い北朝軍の有力武将となり、北陸方面の司令官として活躍、延元3年(1338)に南朝軍の司令官である新田義貞を討ちました。ちなみに高経の「高」は北条高時からの偏諱です。 一方、高経の異母弟である家兼は、兄とともに尊氏を支えました。延元元年(1336年)若狭守護に任じられ北陸へ赴くと、兄と協力して新田義貞を滅ぼしました。家兼は(北朝)文和3年/(南朝)正平9年(1354年)に奥州管領に任命され、中新田城を拠点に奥羽における斯波氏の優位を固め、管領職の世襲を確立しました。家兼の子には直持と兼頼がおり、直持は延文元年(1356)に父が逝去すると奥州管領となり、大崎氏(現・宮城県大崎市)の祖となりました。弟の兼頼は最上家初代当主となります。 兼頼は延文元年(1356)、出羽国按察使として出羽国最上郡山形(現・山形市)に入部し、翌年には山形城を築城しました。また、多くの寺社を建立し、嫡男の直家に家督を譲って以降は、城内に草庵を結び、念仏三昧の日々を送りました。康暦元年(1379)に兼頼が死去すると草庵に葬られ、直家が寺院として整備し、光明寺と名付けました。その寺号は兼頼の戒名「光明寺殿成覚就公大居士」に因むものです。 最上義光が山形城を大改修した際、光明寺は山形城の二の丸大手門前に広大な境内を得て移されたのですが、最上家の国替え後、山形藩に入封した鳥居忠政が山形城の正面に最上家の菩提寺がある事を嫌い、現在地(山形市七日町)に移しました。当館と周辺の公園が、かつての光明寺の敷地であり、現在はその一角に「光明の庭」と称するエリアが設けられ、「光明寺跡」と彫られた石碑と石灯籠が置かれています。 (裏館長日誌に続く) |
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先日、徳島市在住の最上家ゆかりの方から、書簡や連歌などの資料および刀剣を山形に預けたいとのお話をいただき、連歌を専門的に研究されている山形大学の先生とともに当館学芸員が徳島のご自宅に伺いました。計100点近い資料で、先に文書類だけを山形に送り、詳細を調査しているところです。特に連歌関係の資料には貴重なものもありました。
そんな折、今年の山形県の高校入試の国語の試験では、連歌にかかわる出題がありました。しかも古文ではなく現代文で「AIと連歌を巻く」という題の評論です。歌人で細胞生物学者でもある永田和宏さんが「京都新聞」の日曜のコラム「天眼」に執筆されたもので、2023年11月5日に掲載されたものです。まずはこれを高校入試にした出題者のアンテナの高さに脱帽してしまうわけですが、話題がAIであることもさることながら、そのタイトルにある「連歌を巻く」という言葉にも受験生は面喰ったのではないかと思います。 以前この館長日誌でも、連歌とAIについて少々触れたことがあり、そこではAIとからむのは何年か先の話かな程度の認識でしたが、永田さんは「AI と連歌を卷いてみませんか、という魅力的なお誘いをいただき、先日東京でその会に参加してきた。」とのことです。ちなみにこの「巻く」というのは、連歌を行うことを言い、詠まれた歌をすべて懐紙に記録しそれを「一巻」と数えることに由来します。ついでに、連歌の途中のことを「まきかけ」といい、なかなか句を続けられないことを「まきあぐね」といいます。 さて、その出題文では、「AI生成文は、ある言葉が来た時に次にどんな言葉が続く確率がもっとも高いかを割り出してつくるので、既視感があるとか優等生的などと評される。しかし、短歌や詩では.そのような言葉の続き具合をもっとも嫌がる。そして、私たちが持つ言葉は、現実の世界に対応するには隙間だらけなのであり、あえて表現されなかったものにこそ思いを致す、実はそれこそが「読む」という行為なのである。隙間を読むことが大切なのである。その意味で、創作という行為、そして読みや鑑實という行為は、人にしかできないものと言ってよい。」としながらも、「その連歌であるが、当たり前の言葉の付け方にならないよう確率の低い語の選択を許すなど、いくつかのチャレンジをその場で模索しながら、会場と一体となって進行した。圧倒的なAIの進化の速度を考えると、一年後に対戦してみれば、結構、互角の応酬が期待できるのかもしれない。」と結びます。 連歌には、その決まり事をまとめた「式目」があり、これは言ってしまえば連歌をつまらなくしないためのルールなのですが、そこには使用回数が限られる言葉やら、月や花の句がくる位置とか、同じ字や同じ景事を続けないなどとあります。ただ、こうしたことに従うだけなら、むしろAIのほうが間違いないでしょう。しかし語句の選択にあっては、確率の低い語を選ぶだけではきっとだめで、これは芸人さんで言えば、そのままのオチばかりのギター侍ではなく、かと言ってコウメ太夫の次元ではどうなのかということなのです。 さらに連歌の展開にも課題があります。例えば発句(1句目)は季語を詠みこみ、脇句(2句目)は、発句の方向性を変えないように添えるように付け、第三(3句目)では、発句と脇句を転じ季節も変えて詠みます。また、連歌にも序破急があり、連歌を記録する懐紙は百韻の場合4枚用いるのですが、1つ目(初折)は序としてしとやかに、2つ目(二折)はさぬき句という賑やかな句を、残り(三折・名残折)は逸興ある句をとなっています。句と句の関係までならある程度プログラム化できそうですが、序破急となると全体の流れが見通せるものが必要となり、どのような句が「序」でどのような句が「急」なのか、これも単なる語句の出現確率の問題だけで対応できるものとは思えません。それでもそのうちAIは、「しとやかな句」とか「賑やかな句」などをなんとか形にしてしまうような気もします。 (→裏館長日誌に続く) |
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俳優の西田敏行さんが先日、お亡くなりになりました。西田さんというと、猪八戒だったりカメラマンだったり釣り人だったり、そうそう、タブチくんもやっていましたが、あの大河ドラマでは家康や秀忠、吉宗役などを務め、秀吉にも扮していました。
大河ドラマと言えば最近、最上義光が主役の大河ドラマをという活動をされている団体の方々がお見えになり、短い時間でしたがお話をしました。 主に「山形市史」にあることを話題としたのですが、そもそも最上家は、地方の豪族から発したものではなく、清和天皇や足利一族につながる血筋ゆえ、義光は良くも悪くも中央志向がありました。ゆえにその文化などに憧憬をもち、また京都などにいることも多かったことから、連歌師や僧などと連歌などを嗜むなどしていました。 また、領土安寧のために信長・秀吉・家康などへの接近をはかりました。当館の重要展示品である鉄砲痕のある兜は信長より賜ったものであり、秀吉には奥州仕置きの際にみずから妻子を人質として渡し、秀次には駒姫を側室として嫁がせ、家康には次男の家親が10歳のとき徳川家康の家臣として仕えさせます。当時の戦国武将としては特別なことでないかもしれませんが、東北の大名としては中央政権との接触が著しいのです。特に義光(1546-1614)と家康(1543-1616)とは全く同時代であり、義光は亡くなる3カ月前にも病を押して駿府城に家康を訪ね、家康から薬や見舞いを賜るなどしています。 ここからもわかるとおり、義光や山形だけをクローズアップするのではなく、信長・秀吉・家康との関わりや都での過ごし方、伊達や上杉といった大名との関係を描くことがドラマの鍵になるということです。 また、義光の生涯を物語るにあっては、2歳下の妹の義姫が不可欠な登場人物となります。伊達正宗の母でもあり、また戦などでも重要な役割を担う人物で、そのエピソードは義光以上に興味をそそられます。ドラマ化においては、むしろ彼女を中心にして物語を進めた方が面白く、そしてまた、狂言回し的な役やナレーション役も担えそうです。などという話となりました。また、さまざまな武家に出入りできる連歌師は情報屋でもあり、妙味のある役どころではという話も。 実はここだけの話ですが、館内展示の案内をするとき、義光だけの話では上の空でも、伊達や上杉(直江兼続も)の名前を出したとたん、話の食いつきが違います。また、地方を舞台にしたとき、お国自慢的なドラマになってしまうと、ほとんどの場合失敗します。話の流れが分断したり、鼻についたりするためです。地方が舞台のドラマ場合これが重要で、聖地だとかなんだとかは結果としてついてくるものです。 さて、大河ドラマで最高の視聴率を誇ったのが「独眼竜政宗」です。「独眼竜」というのは、唐の猛将で隻眼の李克用が「独眼竜」と言われていたことに由来する呼称です。一方、義光は「虎将」と呼ばれています。これは義光が慶長十六(1611)年3月に従四位上左近衛少将に叙任され、その中国の官称である「虎賁郎将」に由来します。 ここで勘のいい皆様はお気づきのこと思われますが、この二人を合わせると、なんと「タイガー&ドラゴン」となります。つまりはあのドラマか、ということで、なんとなく西田敏行さんにもつながります。とは言え、大河ドラマのタイトルとしてさすがに、このままこの「タイガー&ドラゴン」とするわけにもいかず、例えば「みちのくタイガー&ドラゴン」というのではどうでしょう。う〜む、やはりこれでは、一気に力が抜けてしまう感じですが、福島出身の西田さんはどう思われるでしょう。 ところで時代劇というと、最近はどうも下火とのことですが、そんな中、最近話題になっているのが「タイムスリッパ−侍」という映画です。幕末の会津藩の侍が、長州藩の侍と刃を交えたとき雷に打たれ、現代の時代劇撮影所にタイムスリップしてくるという話です。低予算でスタッフが出演者も兼ね、撮影所の場所も人もその面白さに商売抜きで協力した作品とのこと。 おっと、ここで閃きました。ならば、「タイムスリッパ− タイガー&ドラゴン」というのはどうでしょう。義光と政宗が雷に打たれて現代に。その、大河ドラマとしては絶対に無理とは思いますが。せめてテーマ曲でも一節。〽トンネル抜ければ〜ぁ、山が見えるから〜ぁ、そのままドン突きの〜ぉ、長谷堂城址で〜ぇ。ダメですよね、やっぱり、スミマセン。 (館長裏日誌) |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum








雪の帽子と襟巻をした最上義光像
寒中の最上義光騎馬像 (いずれも撮影1/6)
新年あけましておめでとうございます。当館では1月15日から企画展「シン・市民の宝モノ2026」として、「馬」をテーマに開催します。今回のテーマを馬としたのは、今年の干支が午であることはもちろん、最上義光が丙午生まれであることによるものです。市民の皆様から、ブロンズ像や武者絵、絵馬やハズレ馬券まで、馬にまつわる様々な出品をいただきました。是非ご覧いただければと思います。
さて、ここで馬に関する山形ローカル話でも少々。
当館のすぐ近くに初詣などでも賑わう豊烈神社というのがあり、幕末の山形藩主の水野家が祀られています。水野家祖先の忠元公の命日である10月6日には、神事として「打毬」が行われます。6騎の騎馬が紅白に分かれ、紅組は赤い毬を、白組は白い毬を馬上から網の付いた杖ですくい上げ、毬門の的穴に投げ入れます。ペルシャ発祥で平安時代に日本にも伝えられた競技で、英国の「ポロ」も起源は同じです。山形県指定無形民俗文化財で、他に宮内庁と八戸市の長者山新羅神社との3カ所だけに残っているものです。豊烈神社の打毬会場は狭い敷地ゆえ、馬を駆るにはなかなか大変なのですが、間近で観ることができ、親しみやすい実況中継もあります。
また、山形県最上地方には「ムカサリ絵馬」というものがあります。絵馬は、神様への感謝や祈願として生きた馬(神馬)を奉納していたものが、土馬、木馬、そして木の板に馬の絵を描いたもの(絵馬)へと簡略化されたものです。「ムカサリ絵馬」は、結婚せずに亡くなった子供のために、親などが子供の結婚式を絵馬にして奉納するもので、江戸時代から続くものです。古い絵馬には当人だけではなく媒酌人などの立会人も描かれていましたが、近年のものはツーショットが主流とのことです。ただし、生きている人を描いたり名前を書いたりすると、その人もあの世に連れていかれてしまうとのことで、これはタブーとなっています。
さらにローカルネタを続けますと、山形市の北方に隣接する天童市は、将棋駒の生産量日本一ですが、ここが発祥で「左馬(ひだりうま)」という縁起物があります。大きな駒に「馬」の字を左右反転して書いている縁起物で、「うま」を逆に読むと「まう(舞う)」ということで、めでたい、馬が人を引き寄せる(商売繁盛)、馬は左から乗ると倒れない(人生でつまづかない)などの意味があるそうです。新築祝いや開店祝いに贈られたりしているもので、大小さまざまですが、天童市内のラーメン屋、蕎麦屋などの飲食店には必ずと言っていいほど置いてあります。この「うま」を「まう」というのは、「ウゴウゴルーガ」と同じ言い回しといいますか、これは「ゴーゴーガール」のことですが、「おきらくごくらく」という意味があるとかないとか。
一方、山形市の南方に隣接する上山市にはかつて、上山競馬場という地方競馬場がありました。1935年から競馬が開催され、1958年に上山市が運営するようになりました。高度成長期は地元温泉とともに活況を呈し、バブル景気の1980年代最盛期を迎えました。上山市の財政はこれで、県内一といっていいほどに潤い、実際、市立小・中学校の校舎や設備などは、山形市などとは比較にならない立派なものでした。しかしバブル崩壊後、地元温泉などの観光不振による歳入減で財政的な危機に陥り、競馬場自体も存続困難となり2003年11月に終了しました。
上山城郷土資料館では1月12日(月・祝)まで「かみのやま競馬関係資料展」が開催されています。上山競馬の初開催から90周年を記念した企画展で、上山競馬場の往時の写真や騎手のウェア、思い出の品々など約100点が展示されています。好評につき会期が当初予定より1か月以上延長されました。
上山競馬場をロケ地にした映画・TVなどポスター類も展示してあり、そこに「喜劇競馬必勝法」という映画のポスターがあります。1967年に東映が送り出た作品で、ちょうど60年程前、世の中はギャンブルブームだったそうで、それに乗じてシリーズものとして企画されたそうです。主役は谷啓と伴淳三郎、その他もオールスターばかりで当然のようにヒット。その後のシリーズ作品では、谷啓と伴淳三郎は役柄を変えながら出演しました。そしてシリーズ三作目となるのが上山競馬場を舞台に製作された「喜劇競馬必勝法一発勝負」(1968年)です。谷啓が競馬場所長、伴淳三郎が嘱託獣医、大橋巨泉がペテン師を演じ、つまりは「ガチョーン」と「アジャパー」と「ウッシッシ」が上山競馬場で一堂に会する作品というわけです。出演する女性俳優も、橘ますみや杉本エマという知る人ぞ知る魅惑的なキャスティングであります。
上山競馬場で個人的に思い出すのは、私の祖父が亡くなったとき、束になった大量のハズレ馬券が茶箪笥の引出し一杯に見つかりました。遺産らしきものがなかったのはこれかと。見事な終活とも言えるのかもしれませんが。それにしても普通、ハズレ馬券というのはとっておくものなのでしょうか。
(→館長裏日誌へ続く)