最上義光歴史館

 さてさて、この山形にもインバウンドの波が訪れていまして、山形県は最近、インバウンドの伸び率が日本一とのことです。そもそもこれまでが少なかったこともありますが。山形市の蔵王もこの冬はインバウンド様ばかりで、いままでにない光景を目の当たりにします。蔵王は昔から外国のようなスキー場と言われていて、それは山形弁が県外の方に通じないからですが、今は本当に外国語ばかりが聞こえてくる感じです。スキーウエアなどを着用することもなく街歩きの恰好のまま、ましてスキーもスノーボードも持たずに、朝からロープウェイ駅の外に長い行列を作り並んでおられます。ネットのライブカメラでもこの様子は見ることができますが、乗車券は午前中に完売という日々が続いているようです。夜間は樹氷がライトアップされ(2/23まで)、ロープウェイから観ることができますが、最近人気なのは新型雪上車「ナイトクルーザー号」に乗車し夜の樹氷を間近で体験するという「樹氷幻想回廊ツアー」です。当日のネットのみの予約で、受付開始とともに回線がパンク状態と表示されることがほとんどです。
 やはりと言うか、この蔵王に関係する最上義光の逸話もありまして、温泉街から酢川温泉神社に続く参道には「最上義光の力石」というものがあります。そこには、「義光が16歳(永禄4(1561)年)の時、高湯(蔵王温泉)に湯治にきた際、十数人の盗賊に囲まれた。しかし義光は単騎で盗賊に切り込み、その頭領を殺傷し数人に重傷を負わせた。その武勇を聞いた父の最上義守は最上家家宝「笹切丸」を与えた。また、義光は家来達と力比べをし、誰一人として持ち上げられなかった重さ約50貫目(190キロ)の大石を軽々と持ち上げた、と伝えられているのがこの力石である。」とあります。実は、襲ってきた盗賊を追い返し、父から笹切丸を給されたことまでは、「最上記」や「奥羽永慶軍記」にはあるのですが、力石については文書的に定かではなく、ただ「奥羽永慶軍記」に「(義光は)十六(歳)にしては七、八人しても動かしがたき大石を、只一人にして安々と押転ばし給ふ程の人なれば、今永禄四年四月四日の夜、盗賊をば討給ふ。」とあります。


「最上義光の力石」
山形市観光協会HPより

 とにもかくにも、何か目立つ石があれば、それにかこつけて物語などを付け加えたくなるのが世の常でして、例えば芭蕉の「奥の細道」でも有名な「殺生石」などもそのような類ではないかと。「殺生石」は国指定名勝ともなっており、近年、この石が割れてしまい話題になりました。那須町HPによると、「平安の昔、帝(みかど)の愛する妃に『玉藻の前』という美人がいたが、これは天竺(インド)、唐(中国)から飛来してきた九尾の狐の化身であった。帝は日に日に衰弱し床に伏せるようになり、これを陰陽師の阿倍泰成が見破り、上総介広常と三浦介義純が狐を追いつめ退治したところ、狐は巨大な石に化身し毒気をふりまき、ここを通る人や家畜、鳥や獣に被害を及ぼした。これを源翁和尚が一喝すると、石は三つに割れて飛び散り、その一つがここに残り「殺生石」と伝えられている。」とのことです。
 殺生石のある付近一帯は、硫化水素などの有毒な火山ガスが絶えず噴出し、鳥獣が亡くなることもあるためこのような伝名称となっているとのことですが、芭蕉も「奥の細道」では「石の毒気いまだ滅びず、蜂蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほど重なり死す」と記しています。
その殺生石が2022年3月5日、ほぼ中央から刃物で切ったように真っ二つに割れた状態で見つかり、SNSでは「封印されていた九尾の狐が解放された」などの書き込みがあったそうです。地元では早速、しめ縄を交換したそうですが、以前に比べて大幅に観光客が増え、この割れた殺生石をモチーフにした様々なグッズまで販売されているそうです。地元の人にとっては、不吉どころか吉となったとのことでした。
 「奥の細道」とくれば山寺のお話も。山寺は正しくは宝珠山阿所川院立石寺(りっしゃくじ)といい、寺名には「石」の字があります。そこで「立石寺」という名の由来を山寺芭蕉記念館のA学芸員に尋ねたのですが、それはわからないと。その地形はまさに石が切り立っているような場所なので、見た目そのままに「立石寺」としたのではとの安直な推測はできるのですが。ちなみに立石というと東京では「のんべえの聖地」そして「せんべろの街」こと葛飾区立石(たていし)が有名ですが、その地名は立石様と呼ばれる石があることに由来しており、立石寺とは関係ないようです。
 とにかく「立石寺」の名称の由来は、とりあえずはわからないままですが、慈覚大師が山寺を開くにあたり、大石の上でこの地方を支配していた狩人磐司磐三郎と対面し、仏道を広める根拠地を求めたと伝えられていて、その石は「対面石」として現在も山寺駅から立石寺に行く途中にあります。その「対面石」に隣接して、同じ名の眺望のいい蕎麦屋さんがあり、ここは「せんべろ」とはいきませんが、蕎麦で一献などはいかがでしょうか。いや、屋外ならば冬の山寺を背景に、名物の「玉こん」をあてにカップ酒でなら「せんべろ」もいけるかもしれません。なかなかハードではありますが。


(→裏館長日誌に続く)
 山形城址である霞城公園で4月12、13日に観桜会が開催されました。満開まではあと少しでしたが、風情ある桜を観ることができました。
 ということで、開花宣言(4月8日)から観桜会までの霞城公園内外の様子を写真でご覧いただければと思います。よくよく思い返すとこの館長日誌も、もとは館長写真日誌となっていて、それがいつのまにか写真が乏しくなり単なる蘊蓄になってしまっていたのですが、ここは初心に返り、写真日誌をお届けします。



4月8日、霞城公園内の標本木による開花宣言の様子です。予定より一日遅れとなったのですが、各社マスコミが多く来ていて、市の担当者は想定外の多さに驚いていました。



この桜の開花宣言の日は、公園内の梅園が満開でした。白梅も紅梅もあります。



当館の付近の桜の様子です。当館前の通りは、霞城公園に先んじて満開となります。



山形城内はこのようなしだれ桜も見頃を迎えています。桜の隣では椿も咲き始め、梅の花とともに今春は同時に観られる状況となっています。春先の天候が不順だったことによるものとは思いますが、地球温暖化が原因という一言で説明されてしまうわけで。もっとも以前なら、エルニーニョ現象という一言で説明されてしまいそうな気もしますが。



観桜会当日(4月12、13日)は、当館のボランティア組織「義光会」も甲冑姿になり観桜会を盛り上げます。道行く人からはしきりに撮影を頼まれ、なかなかの人気です。



大手門前で来場者との記念撮影に応じる最上義光。やまがた舞子と唄方も来場。最上義光をしのぐ人気です。やまがた舞子は今年、県内出身の3人の新人が入りしました。



観桜会初日には「山めん寒ざらしそば」の献上式が行われました。「寒ざらしそば」は市内各所のそば店で供されますが、手間がかかっている分お値段もなかなかです。
今春ブラタモリが再開しましたが、昨年、同番組の撮影でここを訪れた森田一義さんが「正面からは馬の腹しか見えない」と言っていたのがこの騎馬像です。



標本木も観桜会当日は、ほぼ満開でした。近くに寄るとこんな感じです。



仮設ステージでは演劇「義光と駒姫」が催されていました。左手には語り手と演奏者が、右手に義光と駒姫がいます。豊臣秀次に嫁ぐこととなった義光の娘の駒姫が、秀次に会うこともなく豊臣秀吉に処刑されると聞き助命嘆願する場面です。それを町娘やくノ一、旅人や俳人などが観ていました。



山形城の本丸の堀と山形市郷土館の風景です。桜は今から見頃を迎えます。



山形城二ノ丸の土手の桜もこれからです。これに隣接し山形新幹線と在来線が通るのですが、標準軌と狭軌が単線で並行するというなかなか珍しい線路となっています。この土手の桜と新幹線との組み合わせは人気の撮影場所ですが、桜が散りはじめると堀の水面は花筏となりそれとの組み合わせで撮影できる場所も人気です。



◆ お知らせ ◆
◎その1
最近、大手門付近に最上義光騎馬像のマンホール蓋がかけられました。山形市ではこのマンホールカードを作成し、4月25日から当館で配布いたします。
◎その2
この春、「決定版日本の名城��29山形城」がディアゴスティーニ・ジャパンから刊行されました。当館所蔵の「長谷堂合戦図屏風(複製)」も詳しく載っています。販売税込799円。当館でもお求めになれます。

 最上義光歴史館では山寺芭蕉記念館との共同企画で「妖怪博覧会」を開催します。期間は最上義光歴史館が7月2日〜10月13日、山寺芭蕉記念館は7月18日〜9月2日です。山寺芭蕉記念館では近年、毎年夏に「妖怪展」を開催し、実際入館者も企画展では一番多いのですが、今年は当館との共同で開催します。
 さても「博覧会」とは銘打ってはいますが、当館のような零細博物館で展示できるものは相当に限られるわけで、とりあえずは�ゝ瓦班霈�、�⇒轍�の表現、�C蝋�めぐりの3テーマで展示します。論語には「君子怪力乱神を語らず」とありますが、別に君子でもないので、ざっと語ってみたいと思います。
 まず、「日本三大妖怪」をあげるならば「鬼・河童・天狗」であると妖怪研究家の多田克己さんが定義しています。これに狐と狸を加え「日本五大妖怪」とする説もあるそうです。これが「日本三大悪妖怪」となると、鬼の酒呑童子、九尾狐の玉藻前、天狗になった祟徳天皇、となるそうです。
 一方、学術的な資料としては、国際日本文化研究センターの「怪異・妖怪伝承データベース」があります。そこには民俗学や江戸時代の随筆類・各県史類に採録されている「怪異・妖怪」現象の書誌情報が集められています。そのデータはすべて文字資料であり、残念ながら絵画は扱っていません。
 妖怪などを記述している古文書には、「古事記」や「日本書紀」といった歴史書や「今昔物語集」などの説話にあり、中世になると絵巻や御伽草紙の登場により、妖怪たちの姿が描かれるようになりました。室町時代の「百鬼夜行絵巻」以降、時代の絵師により描かれていきます。
 さて、展示テーマに話を戻すと、まずは「鬼」ですが、数年前の鬼ブーム、妹が鬼となるあの話が流行ったときに、そもそも鬼とはなにか、とか、どこが発生の地か、とか様々な鬼特集がマスコミ・ネット等でとりあげられていました。あえて「鬼」をネットで調べると、いきなりオックスフォード大学出版局のOxford Languagesによる説明がでてきます。
・おに【鬼】
1.人の形をし、つの・きばがあり、裸体に虎の皮のふんどしを締めている怪物。怪力・勇猛・無慈悲で、恐ろしい。 2.鬼のような人。
・き〖鬼〗 キ・おに
1.見えないが、人間以上の力を持つおそろしい存在。人にわざわいをもたらすもの。おに。また、そのような人。「疑心暗鬼を生ず」 2.死んだ人のたましい。「鬼神・鬼籍・鬼哭(きこく)・幽鬼・餓鬼」
えっ、「おに」と「き」でこんな使い分けをするとは全く知らず、外国の辞書に教えられました。その他を調べると、鬼の語源は平安時代までさかのぼり、目に見えない存在を表す「隠(オヌ)」が元とのこと。これに中国から伝わった「鬼」という言葉が後からあてられたとのことですが、中国語の「鬼」は、死霊や幽霊、悪霊といった意味合いが強く、また、「鬼」は「神」の対義語であり、偉い人が死んだら神、普通の人や悪人が死んだら鬼になると考えられているそうです。
 日本の鬼で有名なのは、丹波国大江山の酒呑童子でして、日本の鬼の頭領とされます。それを源頼光たちが討伐しようと、「神変奇特酒」という毒酒を振る舞い、酔いつぶれたところを、源頼光の家臣である渡辺綱が首を落とすという物語があります。今回、当館では歌川国芳作「大江山福寿酒盛図」という錦絵を展示します。
 続いて「妖怪」の話ですが、再びOxford Languagesに頼ると、妖怪は「人知では不思議と考えられるような現象。特に、ばけもの。」とあります。「妖怪」という言葉の起源は4世紀に書かれた中国小説の祖と呼ばれる「捜神記」に遡ります。
 さらに遡ること紀元前4世紀の古代中国の書物に「山海経(せんがいきょう)」というものがあり、中国内外の地理、動物、植物、鉱物などの他、神話や伝説などによる鬼神、怪物、人間、動植物などのユニークなキャラが次々と登場します。今回の展示では、江戸時代のものとはなりますが、この「山海経」を展示します。
 妖怪は、江戸期に多くの種類が現れるようになり、実はそのことに松尾芭蕉が多分に関わっているようです。芭蕉は、轆轤首、のっぺらぼう、かまいたちなどの名付け親であるそうです。「奥のほそ道」には、九尾の狐伝説にかかわる「殺生石」や鬼の在住を知らせる「うやむやの関」などがでてきます。江戸期にみられる妖怪・怪異の広がりには、俳諧の流行とそのネットワークの存在が働いていると、昨年刊行された「妖怪を名づける 鬼魅の名は」という兵庫県立歴史博物館の香川雅信さんの著書にあります。
 そして「地獄」の話ですが、当館の展示では、河鍋暁斎の「暁斎画壇」の地獄の図や地元の寺院から借用した三幅対の地獄変相図などを展示します。地獄変相図とは、亡者が裁きの後、地獄で様々の苦しみを受ける光景を描いた図です。同じようなものに「六道絵」というものもあります。この六道とは、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天のことをいい、この輪廻転生を理解するためのものが六道絵です。一方、地獄変相図は、ただただ地獄の苦痛や恐怖を表したものです。
 地獄というと、現世でも「借金地獄」とか「介護地獄」とか、「通勤地獄」とか、かつては「受験地獄」とかいうのもありましたが、少子化の影響でしょうか、最近はあまり聞かれなくなりました。最近の職場では、鬼のような人は随分減ってはいますが、妖怪のような人はごくたまに見かけます。そして間違いなく地獄のような職場は増え続けている感じではあります。「氷河期」という地獄もしばらくの間、影響し続けるようです。

(→裏館長日誌へ続く)
 風薫る5月も終わり梅雨の季節に入ろうとしていますが、5月の入館者数は5月16日時点で目標人数を超え、月間では想定の1.5倍以上となりました。恐らく今年は11連休だのダブル4連休だの安・近・短だのが影響しているのでしょうが、ただ、団体さんとかインバウンドさんとかが目立つわけでもなく、入館者増の原因分析には悩んでいるところです。いずれの博物館などでも同じかと思われますが、この入館者数というのは施設運営の重要な評価指標となっており、目標よりも少なければ説明と対策が求められるのですが、多すぎても要因を分析しなければなりません。もっとも当館の目標人数については良くも悪くも無料施設のため採算ラインなどというものはなく、実はこれまでの実績などからエイッと勘を頼りに定めているものではありますが、まずは、ご来館いただきました皆様に感謝申し上げる次第です。
 ちなみに当館と同じ霞城公園の敷地内にある山形市郷土館の昨年度の入館者は、昭和46年の開館以来、過去最高とのことでした。特に海外からの旅行者の来館が多いようで、確かに記念撮影スポットとしてはもってこいの場所ではあります。海外からの来館者数は当館の4倍近くあったということですが、当館は同じ公園内の施設なのに、その方々がそのまま流れてくるわけでもないことが、なんとも難しいところではあります。



↑ 風薫る中の最上義光立像


↑現在開催中「鐵の美2025」展示風景

 さて、当館では現在、「鐵[kurogane]の美2025 〜武士と日本刀〜」と題して、鎌倉から江戸末期までの刀10振(太刀4、刀3、脇差1、短刀2)を6月29日までの期間、展示しています。
 ここで刀剣の時代分類についてざっくりと述べますと、平安初期以前を「上古刀」、平安中期から慶長年間(1596 -1615年)より前を「古刀」、以後のものを「新刀」と呼び、概ね安永年間(1772- 1781年)以降のものを「新々刀」と呼びます。
 上古刀の時代には直刀であったものが、平安時代に彎刀つまり反りのある刀となり、騎馬戦に適した太刀となります。ところが応仁の乱(1467年〜)以降からは徒歩(かち)戦となり接近戦に適した刀(打刀)となっていきます。当時、刀は作られた地域により特徴があり、主に「五箇伝」と総称される「大和伝」「山城伝」「備前伝」「相州伝」「美濃伝」の他、例えば山形には月山鍛冶などがありました。この時代から戦国時代までは当然、刀の需要が多く、全国各地で刀は作られ地産地消状態でもありましたが、特に備前と美濃は二大生産地として数多く出荷されていました。一方、既存の太刀を短くし、徒歩戦や自分の頭身にあわせた「磨上(すりあげ)」も使われていました。
 これが関ケ原の合戦(1600年)以降、政権が安定し物流が円滑になると、刀剣の材料の均一化が進み技術交流も活発となって、地域差が少なくなったそうです。やがて江戸時代の中期ともなると、天下泰平の世を反映して刀工の数が減少し、作刀が衰退しはじめました。
 そのような時代、山形で生まれ育った水心子正秀は、農具鍛冶から刀鍛冶に転身し、山形城城主の秋元永朝(あきもとつねとも)に仕えながら、古刀期の鍛刀技術を学びます。水心子正秀は、当時の華美で反りの少ない日本刀に対して、独自の刀剣理論である「刀剣復古論」を提唱し、後に「新々刀」と呼ばれる反りが深く実用本位の日本刀を作りました。
 さらに、以上の時代区分とは全く異なるのですが「赤羽刀」というものがあります。赤羽刀とは、第二次世界大戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって接収された日本刀のうち、元所有者が不明で返還できずに全国の公立博物館などに無償譲与されたものを言います。東京都北区赤羽にあった米軍の施設に保管されていたため「赤羽刀」と呼ばれました。ということで、ある意味、時代とか戦とかに関係すると言えなくもなく、ひとつの来歴と言えるかもしれません。
 現在、当館で展示している刀剣は10振ばかりですが、古刀も新刀も新新刀も赤羽刀も磨上された刀も全てご覧いただけます。展示期間は残すところあとひと月ですが、これを見逃すと、次はなんと山寺芭蕉記念館との共同開催「妖怪大博覧会」という展示になります。現在の展示の流れとしては、次は鬼や妖怪を斬ったとされる刀剣でも展示したいところですが、他所からそういう刀剣をお借りするには先立つものが必要でして、地獄の沙汰も金次第と言いますか。とにかく刀剣をご覧いただくのなら今です。


(→館長裏日誌へ続く)
 暑い日が続いております。山形も連日猛暑続きで、最高気温と体温とどちらが高いかを競うような日々なっています。雨も降らず、山形市の30日間雨量平年比は4%ということでした。全国的に水不足で、報道では米の生育を心配していましたが、付近では夏野菜への影響が、ナスやトマトなどが育たず、ゴーヤも枝豆も不作で、つまりは酒飲みにも厳しい夏になっています。皆様にはまずもって暑中お見舞い申し上げます。
 さて、この暑さにもかかわらず、夏休みは何処かへお出かけになられる方も少なくないかと。不肖私も早めの夏休みということで、配偶者に連れられ某万博に行ってまいりました。万博についてはこの館長日誌で、なにかとネタにさせていただいたわけですが、行ってみたらもう暑いのなんの。朝の8時前にゲートに並ぶも、入場できたのは9時30分過ぎ。日傘をさして、日焼け止めも塗ってはいるのですが、体力が奪われることおびただしく、周りを見渡せば、携帯ファンや折り畳み椅子を持参されている方も多く、なんかこの時点で負けてしまった気がしました。
 さて当館では、この暑さにもかかわらず、多くのご来館をいただき、特に7月は目標人数の2倍以上の来館者となっております。せっかくですので、さらに山形を満喫したいという方に挑戦いただきたいのが、山形「三都物語」というツアーです。この「三都物語」というのはそもそも関西三都市への観光客誘致を目的としたJR西日本のキャンペーンでありますが、それを山形市、天童市、上山市を巡るとしたもので、実はこの山形「三都物語」というのはどこかで主催しているものではなく、当館での与太話から勝手に出てきた企画ではあります。
 この山形、天童、上山の間を行き来するだけでしたら、JRの東京〜品川〜新宿ぐらいの所用時間で(ただし運行間隔は1時間に1本程度ですが) 、しかも京都、大阪、神戸と同じく、山形、天童、上山にも、それぞれ新幹線も停車します。なので、その行き来だけなら「挑戦」などという大げさな物言いはしないわけで、各所には温泉があって、なおかつ地酒もありまして、この温泉と地酒を続けざまに楽しもうとすると、それはやはりなかなかに困難なものとなりで、少なくても地元に住む人はやらないであろうというツアーではあります。
 その内容といたしましては、まずは天童温泉から。ここには世界的に評価の高い日本酒の酒蔵がありまして、一方では専門誌や地元の人から愛される酒蔵もあります(某芭蕉記念館のA学芸員はこれしか飲みません)。翌朝は、山形駅経由で蔵王温泉にむかい、大露天風呂に入った後、蔵王の地ビールを楽しみ、山形駅に戻ってかみのやま温泉へ。そこの共同浴場で一日の汗を流して地ワインを片手に帰路につく、という行程です。
 地元の人がなぜトライしないのかと言うと、飲んでしまうと自家用車では移動できなくなるからでして、かといってバスや電車での移動は不慣れで、しかも近場の温泉に泊まるのは忘年会のときぐらいだからです。さらに、温泉と酒という組み合わせは、順番を間違えると命にかかわるわけでして、飲んだら入るな、入るなら飲むな、という関係にあることは皆様ご承知のとおりです。
 さらに地元の状況といたしましては、天童温泉には飲み処やスナックは異常なほどあるのですが共同浴場はなく、逆に上山温泉にはお湯がきれいでコスパもいい共同浴場といくつもの良質なワイナリーはあるものの駅近辺にワインバーはなく、かみのやま温泉駅には試飲コーナーがあるのですが16時30分までなので、入浴後に立ち寄るのは時間的に厳しい。なので、ご当地ワインは帰路の電車に持ち込むことになるのですが、そのときは、コークスクリューとコップは忘れずに。まあ、買ったその場でコルクを抜いてもらい、あとはラッパ飲みという手もあり、これはこれで旅の風情かと。
 ちなみに「山形」と「かみのやま温泉」の間に「蔵王」という名の駅がありますが、ここから蔵王温泉まではバスもなく、もちろん歩いてもいけません。どこでどういう情報を得たのか、冬にスキー板を担いでこの駅に降り立つ人が稀にいるらしいのですが、ここはタクシーをつかまえるのすらままならない駅です。
 実のところ、山形市と天童市と上山市は観光客を取り合うような関係でもあり、がっちり手を結んでキャンペーンをしたという記憶はなく、せいぜい花笠まつりのときに、天童温泉と上山温泉の各旅館が場所取りしているのを見かけるぐらいです。そうです。8月5、6、7日は「山形花笠まつり」です。有料観覧席もありますが、実は観覧できる穴場はそこここにありまして、というか、特に平日の開始時は穴場だらけです。おどりのお供に、地酒でも地ビールでも地ワインでも。そうそう、ノンアルコールならパインサイダーという地サイダーもありますよ。


(→ 裏館長日誌に続く)
 9月に入り山形も本格的な稲刈りのシーズンとなりますが、やはり猛暑の影響が懸念されています。とある農家の方は、暑さでもみ殻ばかりが厚くなっているのではないかと言っていました。全国的な米不足の中、山形にいて県産米が手に入らないということは幸いにしてありませんでしたが、なんとか今年もそうあってほしいと願うばかりです。
 「パンがなければケーキを食べればいい」という有名な言葉がありますが、「米がなければラーメンを食べればいい」と山形では言われている、わけはなく、むしろ地元大学では最近、ラーメンを週3回以上食べると死亡率は約1・52倍になるという調査結果を発表しました。
 さて、某大河ドラマでは今、米騒動の話となっていますが、これがまた今の時代に不気味にシンクロしていて、政権混迷というあたりも似ていて、「令和の百姓一揆」という動きもあり、あとに続くのは打ち壊しということでしょか。ドラマの脚本は半年以上前にできあがっているはずで、けっして今の状況を織り込めるはずはないのに、そんな指摘がネット上にありました。
 ところで時代劇などを見て思うのは、そこで食べている米のことでして、「べらぼう」では長屋住まいでも白米を食べていて、しかしながら当時、地方では米すら口にできないという話もあります。これを調べてみると「江戸時代、白米を普通に食べていたのは江戸や大阪などの大都市の人だけです。日本全土にわたって白米が常食されるようになったのは戦後ですよ。」とネット上にありました。「戦後」というのはどうかとも思いますが、確かに戦前を時代背景とする小説などでは「銀シャリが食えるのはありがたい」などという話がよくでていますし、あの「おしん」では大根飯でした。他にネット上
には、農村部で白米を食べるのが当たり前になったのは明治になってから、ともありました。
 さて、八代将軍の徳川吉宗(1684〜1751)は「米将軍」とも呼ばれ、享保の改革(1716〜1746)により米の生産を拡大し、武士階級だけでなく時には農民も白米が口にできるようになりました。しかしながら、収穫米の相当部分は年貢として徴収され、農家に残るのは自家消費と種籾・翌年用の備え程度。そのため農村の日常の主食は粟・稗・麦などの雑穀が中心で、白米はハレの日のご馳走という位置づけでした。しかも1732年(享保17年)には冷夏と虫害による「享保の大飢饉」が、1782〜1788年(天明2〜8年)には悪天候と浅間山噴火による「天明の大飢饉」が起きています。
 大名の領地は「何万石」で表されますが、武士の給与も米で支給されました。目安として1石は成人男性の1年分の米(約150kg)で、家で消費する以上の分は売却して現金化し、生活物資の購入などに充てました。一方、各藩の年貢米は江戸・大坂・京の蔵屋敷へ集められ、市場に放出されました。それを精米したものが小売りされ、都市部の町人や職人が買い求めました。その食べ方は、とにかく多量の飯(1日5合とも)を食べて、おかずは漬物程度。豊かさを競うように白米ばかりを食べたので、米糠に含まれるビタミンB1が摂取できなくなり「脚気」になる人が増え、これは「江戸患い」とも呼ばれました。江戸に出てきた藩主がこれにかかり、地元に戻り食事も元通りになると治ったこともあったそうです。
 また江戸時代では、精米技術も向上しました。従来の杵を手にしての米搗きだけでなく、足踏み式の「唐臼」が中国から伝わりました。木臼が石臼になり作業効率が飛躍的に伸びたそうです。また、玄米のままでは火の通りが悪いため白米が求められました。
一方、地方では、玄米に近い分付き米に雑穀などを混ぜて食べていたそうです。
 実質100万石とも言われた仙台藩の事例ですが、「農民は年貢以外の貢租を納めるため米を換金せざるをえず、村には食料にするための米がわずかしか残らなかった。江戸の庶民が普段、仙台米を食べているときに、仙台藩の農民の主食は、麦・粟・稗・大根・大根の葉などをいれた「カテ飯」であった。白米だけのご飯は「いっそ飯」または「えっそ飯」と呼ばれ、正月などめでたいときに食べるごちそうであった。おかずは漬物と梅干、それにみそ汁が基本であり、みそ汁には具の野菜をたくさん入れておかずにした。」との記録があるそうです。
 1796年(寛政8年)に出された「昇平夜話」という武士の教訓書には「東照宮上意に、郷村の百姓共は死なぬ様に、生ぬ様にと合点致し」とあり、東照宮上意とは徳川家康が言ったことには、という意味ですが、家康云々は別として、この時代の統治のあり方、年貢の取り方がうかがい知れるものではあります。
 ということで、「べらぼう」で江戸に住む長屋の庶民が白米を食べるのは、時代考証的に合っているのですが、地方回りをしている水戸黄門では、武家以外で白米がでてきたらこれはどうかとなります。ちなみにある放送回で、黄門様御一行が貧しい村人の家に宿を求め、そこでの食事は囲炉裏にかけられた鍋にある雑炊のようなものだけだったのですが、これを食べた助さんだったか格さんだったかが思わず「ウッ、ウッ、これは」とその不味さに顔をしかめるシーンがあり、やはり間違いのない演出ではありました。


(→ 裏館長日誌に続く)