最上義光歴史館
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■ 学んでいない話 その1
サイモンとガーファンクルの「冬の散歩道」が収録されている「ブックエンド」というアルバムには、老年の哀愁を歌ったような作品がいくつかあります。若いポール・サイモンが、なぜ老人の心境を描けるのか、ということも話題になりましたが、内容に反してジャケットは、ファッション写真で有名なリチャード・アヴェドンによるオシャレな肖像写真です。最近これを私は、中古のLPで購入しました。これは家人に言わせると「無駄遣い」という病癖なのだそうです。すみません。年を取ると持病が現れてくるのかも。 さて、「亀の甲より年の功」ということわざがあります。これは「年長者は、長年経験を積んでいるだけに、若者には及ばない知恵や技能がある。さすが年長者だけのことはあると、称賛することば。」という意味です。自分もそろそろそんな風に重宝される歳ではないのかしらん、などと思っていたのですが、時代はリスキリングということで、昔のフォークがどうだなどという蘊蓄は用をなさず、DTMとかボカロとかを使いこなすくらいでないとダメかと。それが紅白出場歌手すらわからないようでは、やはりリスキリングが足らないのかと。すみません、無理です。 ■ 学んでいない話 その2 「井上陽水50周年記念ライブツアー『光陰矢の如し』〜少年老い易く 学成り難し」というコンサートは、2019年に山形でも開催され、会場は満席でした。確か「リバーサイドホテル」を歌おうとしたときに、「歳をとると毎回同じ曲を歌うのも大変で、この曲もねぇ、歌詞を読み上げるだけで済ませられたらいいですが。」とか言って、歌詞の冒頭を読み上げたりしていました。観客も井上陽水と同世代の方が圧倒的に多いのですが、さすが団塊の世代でして元気でしたが、トイレは長く、ものすごい行列でした。 私事ですが、井上陽水を知ったのは中学の時、井上陽水が好きだという同級生の家に遊びに行ったら、井上陽水と名乗る前のアンドレ・カンドレという名前の時代のアルバムまで持っていて、さすが、どこぞの社長の息子だけのことはあるなと感心したのですが、同じようにそんなものを買うわけもいかず、その他にも持っているアルバムをいろいろ借りてはカセットテープにダビングし、その後も新しいアルバムが出るたびにレンタルレコード店から借りてきてはダビングして、皆さまもきっとそんな時代を経てきているのではとは思います。 今となっては、ダビングしたテープなど行方知れず、中古で「井上陽水全集CD15枚組」なども入手しましたが、今どきCD盤など後生大事に持つものではなく、サブスクのネット配信とかを利用すべきかと。やっぱり「光陰矢の如し〜少年老い易く 学成り難し」ということで、時代は変化しているのに、追いついていないというか、学んでいないというか。 ■ チャリティーコンサートの話 サイモンとガーファンクルの「ブックエンド」というアルバムには「America」という名曲が入っています。ポール・マッカートニーの呼びかけで、アメリカ同時多発テロ事件(9.11)のわずか一月後に「The Concert For New York City」というチャリティーコンサートが開催されたのですが、このオープニングで歌われたのがこの「America」です。しかも歌ったのがデヴィッド・ボウイでした。これはつまり、イギリスの歌手がアメリカのフォークデュオの曲を歌うという、例えて言うならビリーバンバンの曲をチョー・ヨンピルが歌うようなもので、いや、イギリスの歌手が「America」を歌うという、例えて言うなら長渕剛の「JAPAN」と言う曲をブルース・スプリングスティーンが歌うようなもので、あ〜、また、ぐだぐだとしょうもないことを言ってしまいました。やはりここは「ジャパ〜ン」と郷ひろみが口火をきってほしい、いや、だから何の話だ。 手元のCDによると、このコンサートは6時間にわたり開催され、1400万ドル(当時のレートで16億8千万円)の収益があったそうです。出演はボン・ジョビ(超日本びいき)、ビリー・ジョエル(あの「New York State Of Mind」も歌っています)、ミック・ジャガー&キース・リチャーズ(ローリングストーンズの初期からのメンバー)、ザ・フー(イギリスの三大バンドと言えばビートルズ、ストーンズ、フー)、ジェイムス・テイラー(妻はカーリー・サイモン、もしかしたら彼女の方が人気)、ジョン・メレンキャンプ(唯一の全米1位となったアルバムが「American Fool(アメリカバカ?)」)、エルトン・ジョン(名前の「ジョン」は、ジョン・レノンから採った芸名)、もちろんポール・マッカートニーも出演しています。(以上、カッコ内は筆者調べ、某長距離走解説者のような情報でしたが。) コンサートの最後にポール・マッカートニーが7曲を歌い、うち3曲がビートルズナンバーで、「Let It Be」ではエリック・クラプトンがギターソロを弾きました。例えて言うなら、玉置浩二が安全地帯の曲を歌い、そこで布袋寅泰がギターソロを弾くといった感じでしょうか、いやその、例えはいらないとは思いましたが。とにかくこれだけのビッグネームのスケジュールを、この短期間にどうやって調整したのだろうと驚きます。能登半島震災でもこんなチャリティーコンサートを、とは思うのですが、さすがに震災の翌月では難しいでしょうか。 あとは、そこの曲はということですが、まずはご当地ソングかと。石川さゆりさんが持ち歌の「能登半島」を先日、某生放送番組で歌っていました。あと坂本冬美「能登はいらんかいね」という曲もあるのですが、震災で避難している状況に対し曲名があまりにも、と言うか「能登の出身だけどいりませんか」という意味らしいので。 いや、別にご当地ソングでなくても、例えば紅白クラスの歌手が一堂に会して、多くの人の関心を集め、どぉ〜んと収益金も集めてくれればということで、あの多様性とか何とかでも全てありかと。そういう意味で紅白はまだ存在価値があるような気がします。 |
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■ 梅は咲いたかという話
梅の歌というと、「東風吹かば〜」という歌よりも、「梅は咲いたか〜 桜はまだかいな」という歌が先に浮かんでくるのですが、さて、その後はというと、どうにも出てきません。ということで、この機会におさらいを。 〽 梅は咲いたか 桜はまだかいな 柳ャなよなよ風次第 山吹や浮気で色ばっかり しょんがいな 「世界の民謡・童謡」というサイトによると、「これは明治時代に流行した俗謡『しょんがえ節』を基にした江戸端唄(はうた)・小唄で、花柳界の芸妓たちを季節の花々や貝に例えて歌っている。」とのこと。ここで「貝」というのは、この歌の続きが、 〽 アサリとれたか ハマグリャまだかいな アワビくよくよ片想い サザエは悋気(りんき)で角(つの)ばっかり しょんがいな というもので、同サイトの解説によると、「柳はゆらゆらと移り気で、山吹は実を結ばない浮気性。「七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」とも歌われる。アワビは二枚貝ではないため相手がおらず「磯の鮑の片思い」とも例えられ、悋気は嫉妬のこと」だそうです。そして歌詞の最後は、 〽 柳橋から小船を急がせ 舟はゆらゆら波しだい 舟から上がって土手八丁 吉原へご案内 ということで、つまり吉原を歌っていたのですね。あの石川さゆりさん(なぜか登場が続きますが)が歌っている動画もネットで観ることができます。 先日、某チコちゃんの番組で「ひやかし」の語源について説明していました。江戸時代の紙職人は、古紙を煮てそれが冷えるまでの間(つまり冷やかし)、吉原まで出掛けるものの、金はないので、歩いていって覗くだけだったことに由来し、吉原で遊ぶような人は舟に乗ってくる、との説明がありました。これで「柳橋から小船を急がせ」からの歌詞も理解できたかと。 それにしても5歳児に「吉原」をどう説明すればいいのでしょう。あるいは「銀座」とか「六本木」とか「歌舞伎町」とかも、どう説明すればいいのでしょう。もっとも私自身、人に説明できるほど行ったことはないのですが。 昔、一世を風靡したお笑い番組では、「今日は吉原、堀之内ィ〜、中州、すすきの、ニューヨークゥ〜」という歌が流れていましたが、当時、5歳ぐらいの子もきっと、これを観ていて、わけもわからず歌っていたのではないのでしょうか。もっとも、わけがわかっているとすれば、それはそれで心配ですが。ところで、この並びで「ニューヨーク」というのはどうなんでしょう。「ロンドン」というお店なら昔山形にもありました。子どの頃に聞いたそのCMソングによると、楽しくて愉快なお店らしいです。 ■ 記憶力についての話 「百人一首」を暗記させるという学校があるそうですが、ゲーム感覚で覚えればさぞかし楽しい、というか、「百人一首」でゲームができるわけで、覚えていれば、なんか人生も豊かなものになるような気がします。残念ながら私は、上の句が読み上げられれば、下の句が言えるような歌などまずなく、人生がそんなに豊かな感じがしないのも、そういうことかもしれません。 ということで、未だに「百人一首」を覚えられないのですが、「平家物語」の「祇園精舎の鐘の音〜」とか、「枕草子」の「春はあけぼの〜」とか、「方丈記」の「ゆく河の流れは絶えずして」とかのいずれかを暗記させられたような、それすら記憶があいまいですが。どこか山形の学校では「奥の細道」の「月日は百代の過客にして〜」なども暗記させているかもしれません。とにかくいずれも、人生哲学にきっと役立つようなものばかりで、覚えていても損はないような気がします。 昨今は、必要なときにネットで検索すればいいし、などと思い、記憶をネットに頼ったり預けたりするのが当たり前で、しかも皆がそうなので別に責められることもなく、暗記という行為は疎まれるばかりです。かく言う私も、この暗記というのが苦手で、覚えるのが苦手な上に、すぐに忘れてしまいます。基本的に、関心のないものは覚えられないし、残らないそうです。確かに小さい頃は、怪獣やら怪人やらの名前ばかりかその特技や弱点という使い道のないことまで覚えられたのに、今となっては、刀剣や甲冑などの名前はほとんど覚えられず、歴代の山形城主の名前もかなり怪しいです。 ただでさえ貧弱な記憶力が、加齢でますますダメになっていて、ロコモティブシンドロームがくる前に、記憶力シンドロームとかがきている感じで、なんかテレビの通販で記憶力にいい薬があるとかないとですが、コンドロイチンとかより先に入用かも。 とにかく暗記力があるというのは素晴らしいことです。例えば、電話番号が暗記できていれば、いちいち調べることもなく、人の名前が暗記できれば、それだけでビジネスがはかどるというものです。いちいちレファレンスに頼る必要がないというのは、時間が節約できるわけで、ぼんやりと覚えていてぼんやりと答えたりすると信用にも関わります。そして、しつこく覚えている人には、やはりかないません。こちらは「覚えていろよ」とか言われても、覚える自信もないくらいですが。 記憶が必要なのは、例えば論理的思考が求められるという数学も、大学入学共通テスト程度までは暗記科目です。というか、限られた時間内に回答するには暗記しかないからです。これがトップクラスの大学の二次試験となると、さすがに思考力が問われるというか、解法がひとつでないような問題もあります。 数学は理詰めとは言え、暗記するしかないような事例も多く、例えば、ちょっと入試レベルを超えるのですが、「1/sinxの不定積分は?」という、たったそれだけの問題ですが、これが自力で解けるとなれば、それは相当なセンスの持ち主でしょう。これの解法については普通、暗記するしかありません。試しに近くにいる理系の方に聞いてみてください。これがさらさらと解ける方は、本当に数学のセンスというか暗記力が確かな人です。 とは言うものの、数学よりも多分、百人一首を暗記した方が、重宝するのではとは思います。つまり、さらっと歌などがでてくればかっこいいけど、さらっと三角関数の解法がでてきても、「そういうの、わからないので」と引かれてしまうだけだからです。あの「受験生ブルース」に、♪サイン・コサイン何になる〜、という歌詞がありましたが、私も少しは勉強したものの、仕事で必要になったことなどなく、逆に実用レベルでは、これより先を学ぶ必要があります。ただ今は、普通のことはAIでできるようで。 ちなみに記憶が試される問題としては、「四国問題」という山形の人にとっては難しい問題があります。これは四国にある県名と県庁所在を答えるというものなのですが、これがすぐには出てこない。他にも、山形の人にとって難しい問題としては、大分、宮崎、熊本の位置関係を答えるというもの。どちらが北でどちらが西か、これもすぐには出てこない。もっとも、かの地の人から言わせれば、秋田と山形のどっちが北かわからない、とのことでしたが。 |
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■ 松原の話
江戸時代の「松」と言えば、街道の「松並木」もあります。1604年(慶長9年)に徳川家康が諸国の街道両側に松や杉を植えさせたことが始まりともされ、日陰の提供や防風林、道標としても用いられました。 江戸時代の東北には、福島と青森とを結ぶ街道として、山形、秋田を経由する「羽州街道」と、宮城、岩手を経由する「奥州街道」の二つがありました。福島の桑折から分かれ、青森の油川で合流しますが、桑折と油川は奥州街道の宿場となります。 羽州街道沿いの宿場数は58宿とも62宿とも言われますが、時代による変化や、宿場と宿場の間に置かれた間宿(あいのしゅく)という二つの宿場が月の半ばに交代した所などがあるため、正確な数ははっきりしていません。 山形と上山の間には、「松原宿」と「黒沢宿」という間宿があり、松原宿は月の前20日間を、黒沢宿は月の下旬10日間を勤めました。「松原」はその宿名からすれば松の木が広がる原野であったかもしれないのですが、現況は個人の庭先に松の木がある程度で、ほとんどが住宅地と農地になっています。一方、「黒沢」は何件かの温泉宿が点在していますが田畑に囲まれた地域です。この街道区間は現在も、当時の街道筋がそのまま残っています。 松原宿は、1622(元和8)年に上山藩と山形藩が分離したことから番所が置かれ、新設されたものです。通行する者の通判改めの他、青苧、蝋、漆などの荷改めなどが行われ、その松原番所跡には現在、石碑があります。 実は50年前、福島、山形、秋田の3県を結ぶ「奥羽新幹線」基本計画が、この羽州街道をなぞるように政府により作られました。また、日本海沿いに新潟と秋田を結ぶ「羽越新幹線」という計画もあり、現在、山形県内には「山形県奥羽・羽越新幹線整備実現同盟」というものがあります。しかしながら山形県以外はメリットに乏しいせいか、他県での動きはいまひとつのようです。一方、秋田までの運行となると、山形県内のほぼ各自治体にある新幹線駅の多くが通過駅となってしまう可能性など様々な懸念もあるようです。 それでも福島青年会議所は今年9月に、福島市から山形市を経由して秋田市までを結ぶ新幹線をフル規格で整備する「奥羽新幹線」の検討会を発足させました。このように分岐点となる福島と青森で盛り上がってくれれば、話は動いてくるのでは。経済交流もさることながら、東日本大震災のときの教訓として、東北新幹線の迂回路線が必要との声を受けてのこともあるそうです。迂回路線としてそれならいっそ、日本海沿いに青森から山口まで新幹線が整備されればと思うのですが。これぞまさしく国土強靭化ではないかと。 ■ ウルトラCの話 当然、松にもいろいろありまして、代表的なものとしてアカマツ、クロマツ、カラマツ、トドマツなどがありますが、すべてマツ科ではあるものの、アカマツやクロマツは「マツ属」、カラマツは「カラマツ属」、トドマツは「モミ属」ということで、アカマツとクロマツは松の代表的な仲間とされる一方、カラマツやトドマツは松の仲間とは区別されるそうです。 また、松の名前と言えば、おそ松、カラ松、チョロ松、一松、十四松、トド松という松野家の六つ子の兄弟の名前を思い出す方もいらっしゃるのでは。赤塚不二夫さん作の「おそ松くん」ですが、1962年の「週刊少年サンデー」が初出です。この年は実は私の生年でもありまして、これで一緒に育ってきたということですが、2015年には赤塚不二夫生誕80年記念として「おそ松さん」が放送されました。その実写版第二弾映画が来年2026年1月9日に公開とのことです。ちなみにその配役で、十四松はリチャードさんなのですが、なんとか乗り切れないものかと。確かに現場付近の店からすれば迷惑だったのでしょうが。 さてさて、〽松の木ばかりが まつじゃない〜、という唄がありまして、この「まつのき小唄」を二宮ゆき子さんが歌ったレコードが1965年にでています。それまでお座敷などで唄われていた小唄で作曲者は不明なのですが、このレコードは藤田まさとさんと夢虹二さんの作詞で、1番目の歌詞はつぎのようなものです。 〽松の木ばかりが まつじゃない〜 時計を見ながら ただひとり 今か今かと 気をもんで あなた待つのも まつのうち こんな感じで6番まであるのですが、それはそれとして、注目したいのはそのB面の「ウルトラCでやりましょう」(作詞:たなかゆきを、作曲:白石十四男)という曲であります。レコードがリリースされた前年の1964年に東京オリンピックが開催されたのですが、当時の体操競技はA、B、Cの3段階の難易度に分かれており、Cが最高の難易度でした。東京オリンピックで日本選手がCランクを超える超難度の技を披露した際、NHKアナウンサーの鈴木文弥さんが「ウルトラC」と表現し、当時の流行語となりました。 ここでその全歌詞を載せたいところですが、一部のみの紹介ということで、例えば4番の歌詞はこんな感じです。 〽星の数ほど 相手はあるし へたな遠慮は およしなさい どんなチャンスも 逃さずに 二人きりに なったなら ウルトラCで やりましょう 私の幼少の頃は「おそ松くん」とともにこんな歌が流行っていて、それがどんなものなのかはもちろんわからないわけではありますが、なんかいい時代だったのかもしれません。恐らく今のNHKでは、電波に乗せることは困難かと。ちなみに今の体操競技の難易度はAからIまであり、「ウルトラIでやりましょう」となると、どれだけえげつない、いや、高難度になるのでしょうか。 ■ 松の柱も三年の話 さてさて、ここで久しぶりにことわざの話でも。 「松の柱も三年」ということわざがあります。松の木は通常腐りやすいために、柱に使われないが三年はもつ、ということから、役には立たないどんな物や人でも当分の間は使えることの例えに用いられます。なかなか奥深いことわざではあります。物や人ばかりでなく、システムでもこのような凌ぎはままあるわけで、これが腐らなければなお結構というか、儲けものでして。組織でも家庭でも現実的な要諦ではあります。まあ、3年先すら予測不能の世の中で、それから先はまたその時考えるという、刹那的な昨今にふさわしいことわざでもあります。 ただ、これ以外に「松」のことわざは見当たらず、一方で「竹」のことわざや慣用句は数多くあります。「雨後の竹の子」、「木に竹を接ぐ」、「竹を割ったよう」など。また、「竹に虎」という、虎の強さと竹の柔軟性を兼ね備え、豪華で縁起の良いものを表すものもあります。これが「雨後の松茸」、「木に松を接ぐ」、「松を割ったよう」では、何が言いたいのかよくわからなくなりますが、「松に虎」なら掛軸や屏風に結構あります。 さて、「松の柱も三年」とは言え、「水の都」と言われる、かのヴェネツィアの建物を支える土台には、シベリア産のカラマツが使われており、1500年以上もの間、建物を支えているものもあるそうです。打ち込まれた杭が硬い地層の土で密閉され空気に触れないため腐食しないとのこと。その杭自体はもっているのですが、温暖化で水位が上がっていて、毎年のようにサン・マルコ広場が冠水しているニュース映像が流れてきます。 一方、山形の蔵王で有名なのが「樹氷」ですが、これはアオモリトドマツ(オオシラビソ)が冬の風雪にさらされて凍り付いたもので「スノーモンスター」とも呼ばれます。しかし近年、蔵王の樹氷は危機に瀕しています。このアオモリトドマツには、2013年頃からガの幼虫による食害が始まり、続いてキクイムシが枯れ木内部を食い荒らすなどして被害が拡大しました。この害虫の発生も温暖化の影響によるものとの指摘があります。 蔵王の樹氷再生にむけては、行政、識者、報道機関などによる「樹氷復活県民会議」を発足させ、また、林野庁は他の場所に自生する苗の被害地への移植や、苗木を育てるため種の採取などの再生事業を始めています。 しかしながらマツの再生には50〜70年程度かかり「このペースで気温上昇が続くとマツが元通りになる21世紀末には、そもそも樹氷ができない環境となりかねない」とも指摘されています。そう言えば、温暖化で樹氷も北上しているというか、最近、樹氷といえば八甲田の名がくるようです。やはりアオモリトドマツの本場でもあるわけで。 ■ 樹氷研究の話 樹氷を研究している柳沢文孝山形大学名誉教授によると、50年前と比較し年間平均気温が約2〜3度上昇したため「夏場にガが過ごしやすい環境になってしまった」といいます。柳澤教授の専門は「樹氷、酸性雨、黄砂、地球温暖化」と環境問題の王道を歩まれているわけであります。 かつて仕事の関係で、この先生の研究室を訪問したことがあります。そこにはなんとも多様な資料やレトロな模型などが置いてあり、これを誰にどう引き継ぐのか、部外者ながら心配になったのですが、数千点にのぼる資料は2021年に山形市立図書館に寄贈されたとのことで、図書館では担当職員をおきそのデータベース化が進められています。おおよそのリスト化はなされたとのことで、その資料は、学術論文をはじめ樹氷のパンフレットや絵葉書まで多岐にわたるそうです。 また山形大学には「蔵王樹氷火山総合研究会」を置き「樹氷の会」を設立、「樹氷マイスター」を養成し、2024年10月にその第一期生4名が認定されたそうです。資料や人材をどう引き継ぐか、これが一番肝心なところですが、しっかりと手を尽くされているようです。残るは資金的な問題でしょうか。樹氷がアオモリトドマツではなくアカマツであり、その根と共生する菌根菌つまり松茸が山となっていたなら、協力者や活動資金の心配はないのでは、などと下衆な考えが浮かんでしまうのですが。 ■ 松茸の話 さて、松茸山というのは数千万円単位の取引にもなるそうです。ただし、一山そのままの売買はそうそうはなく、松茸山を買うというのは通常、山の一部区域の入山権を買う、ということを言うのだそうです。年額で数十万円程度とのことですが、権利を得た人のみが入山することなど、いろいろ条件があるらしいのですが、実は、条件なしで、1日2千円で取り放題という山が、山形県の高畠町にあります。 ただし、高畠町観光協会のHPによると、「初心者は松茸を見つける確率はゼロに等しいんです。最近話題の熊だって出るかもしれないし、ヘビだって、スズメバチだって出ないって言い切れないんですよ。」とのことで、「2,000円でどれだけ採れるんですか?」「採れなかったら1本くらいサービスないんですか」などの問い合わせもあるとのことです。 また、松茸採りの心得として、「毒きのこも生えない場所に松茸は生えない。また、やけになって毒キノコを見て採って満足しない事」ともあります。今年は9月20日〜11月上旬まで、閉山時期は状況によって早まり、休山日は未定とのこと。時間は午前5時から午後3時まで、午前10時30分に受付締切とのことで、場所その他詳しくは高畠町観光協会に確認を。採れなくても最寄駅などで販売しているそうです。その最寄駅である高畠駅は、山形新幹線も停まり、なんと駅に温泉もあります。 とにかく松茸は、「有難さ」では他の追従を許さないものではありますが、やはりそれは日本だけのようです。かなり昔の話ですが、学食で「松茸ご飯」が提供される時期があり、もちろん、松茸がどこにあるのかわからない、うっすらとそれらしい色と香りがするだけのご飯なのですが、それでも白飯の数倍のお値段で、話の種程度しか食べないものではあります。 韓国からの研究生と一緒に学食に行った時に、この「松茸ご飯」がでていたので、せっかくなので食べてみてはと勧めたところ、「こんな栄養のないものに、なぜ高いお金を払って食べたがるのかわからない。」と言われました。やはり「薬食同源」が根底にある韓国の人に対しては、「香り松茸」とか「初物七十五日」とか言っても説得力に欠けるかぁ、と思ったところではあります。 松茸については、自然にその魅力がわかるとか食欲がわくというものでもなく、ある程度の経験というか勉強が必要ですが、例えば「西洋松露=トリュフ」というものがありますが、自分としてはその香りには食欲を感じないというか、ものによっては香りすら感じることができない「トリュフ音痴」でして、例えばパスタの上に黒だとか白だとかのトリュフのスライスをうやうやしくのせられても香りがわからず、ただただ値段のことだけが気になってしまうわけで、つまりコスパを無視してものが食べられる身分でもないわけで、個人的にトリュフについては、かの研究生と同じではあります。勉強が足らない、と言われればそれまでなのですが、その学資に乏しいわけでして。 |
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〇 自然史博物館と科学技術博物館の話
博覧会と博物館との関係で言えば、科学技術博物館も19世紀に始まった(万国)博覧会に起源をもつそうです。「19世紀は蒸気機関や電気の発明品など、さまざまな新しい技術が出てきた時代で、それらを展示した博覧会を恒久的な施設にしたのが起源だと考えられます」と一橋大学の有賀暢迪准教授は語っています。 一方、博物学というものがあり、これは英語でNatural history、直訳的に「自然史」とも言われます。それは動物界・植物界・鉱物界という自然三界の全ての種についての目録を作り、自然界に存在するもの全てを収集・分類する試みです。これが東洋では本草学として、伝統中国医学の医薬(漢方薬)や不死の霊薬(仙丹)の原材料の研究として発達したそうです。こうしたことを扱うのが自然史博物館で、やはり科学技術博物館とは異なります。 20世紀に入ると新しい種類の科学博物館、英語で「サイエンスセンター」と呼ばれるものが登場します。その特徴は、伝統的な博物館の基本機能である「収集・保存」を重視していないことにあり、観客が触って体感できるハンズオン展示や体験型の展示を取り入れ、体験を通じて原理や概念を理解するものです。 自然史博物館の人気展示はやはり恐竜で、あと、マニアには昆虫や鉱石といったものも見逃せません。パリやロンドン、ベルリン、ニューヨークなどにある自然史博物館は観光にもおすすめです。一方、科学技術博物館で展示物で圧巻なのは、飛行機やヘリコプター、宇宙船といったものでしょう。飛行機や潜水艦などは、各国の戦争博物館、日本では自衛隊の広報館などでも見ることができます。あと、マニアも多いのが鉄道です。 しかしながら、上野にある国立科学博物館は、自然史博物館と科学技術博物館が一緒になっていて、結局、何でもありの総合科学館というような施設となっています。 ちょっとユニークなものとしては、ミラノの国立レオナルド・ダ・ヴィンチ科学技術博物館には、ダ・ヴィンチが設計した発明品の模型がずらりと並んでいます。ここにはまた、無線通信を発明したマルコーニにちなみ、数多くの無線機が展示してあります。日本では、公立施設での無線機の収集展示は意外に少ないです。 余談ですが、福島市では最近になってなぜか「UFOふれあい館」を推し始めました。平成4年に開館しており、日本博物館協会の名簿にはないものの、UFOに関連する3000点もの資料がある博物館的な施設です。資料展示のほか、3Dバーチャルシアターや入場料込みで入れる展望風呂があり、UFOの目撃例の多い千貫森からの眺めが楽しめるとのこと。宇宙人コンテストというのもやっていて、「ふれあい館」という名称からすれば、それは体験型施設でもあるのかも。あの「ム〇」好きの当事業団のA学芸員は、20年近く前に訪れているとのことで、「本当にあそこは目撃情報が多いんだ」と言っていました。ところで、「UFOと宇宙人」というテーマは、自然史系と科学技術系のどちらで扱う領域なのでしょうか。まさか民俗学。 〇 チルドレンズミュージアムの話 一方、体験型の「サイエンスセンター」についてですが、これがまた子ども向けとなると、大型児童館などとごっちゃになることがあり、まあ、それでもいいかと思うこともあります。その施設の目的が、学習施設なのか児童厚生施設なのかという違いなのですが、ユーザーが同じなので区別するのもどうかと思うわけで、しかしながら、補助金や管理体制などが関係すると、それは大きな問題にはなります。 さて、アメリカ各地にはチルドレンズミュージアムという「ハンズ・オン」(Hands on、触って体験して学ぶ)型の子ども博物館が各所にあり、サイエンスセンター的な展示とともに大型の体験遊具設備があります。20世紀末頃の話ですが、山形でもこうした施設をつくろうとしていたことがあり、当時その調査を担当していました。 コンサルさんとともに国内の子ども科学館などを何か所か視察しました。シミュレータや恐竜ロボットなど、最新の展示物が目を引くわけですが、施設運営において課題となるのが陳腐化とメンテナンスで、施設を開設して20年くらい経過したものも見ておいた方がよいとのアドバイスをいただきました。そういう施設を巡ると、映像が古いなどという程度ならまだしも、ハンズ・オンでは「調整中」と張り紙がされた展示も少なくなく、そうしたものを適宜更新できる予算がなければ、やがてはお荷物のような施設となってしまいます。ハンズ・オン型の展示物は、理想的には5年、最低でも10年で更新したいところです。それができない場合はそのまま、いっそレトロ館でやっていくという手もありかと。「昔の科学館」とか、「懐かしの科学館」とか。 それでチルドレンズミュージアムとはどんなものかと、コンサルさんに教えてもらったボストンの施設を、単独自腹で見に行ったことがあります。しかし、職員にインタビューできる英語力もなく、日本語ガイドを頼めるわけでもなく、ただただ施設内をうろついて終わってしまいました。そのうち、山形につくろうとした施設計画も立ち消えになり、それは単純に説の必要性が認められず、財政的にも厳しかったからなのですが、そのとき浮かんできたのが「ほいど馬をかう」という言葉でした。これは山形の言い方で、「乞食が馬を買う」ということわざのことで、身分不相応なものを手に入れてもてあますさまを言い、始末に困ることのたとえです。 山形のチルドレンズミュージアムは、メンテナンスのことまで考えると、まさにこうなりかねず、特に公設の場合は、建設までは金を都合するけど、その後の予算は全くつかないというのが常です。まして、その後の計画的なリニューアルという発想にもとても及ばず、今どきはクラウドファンデングに頼ることにもなりかねません。 当時、コンサルさんとともに訪問した施設に「霊山子どもの村」という所があります。もともとは巨大アスレチック施設からはじまっており、屋外には地形を活かした大型遊具があります。屋内施設としては日本初の参加体験型チルドレンズミュージアム「遊びと学びのミュージアム」を整備し、デザイン性の高いハンズ・オンの展示物とともに自由な環境の図書室が設けられており、大変印象深い施設でした。その後、運営においていろいろあったようでしたが、霊山町が合併により伊達市となりしっかりリニューアルして、現在も手本とすべき魅力的な施設になっています。(なお、冬期間はお休みです) 〇 チルドレンズミュージアムを計画した話 当時関わったチルドレンズミュージアムの計画について少々。20世紀末当時、子どものための施設というと、テーマパークのようなもの、つまりあの「夢と魔法の国」というようなイメージで、民間のみならず自治体でも手掛け、その後、赤字を出し廃園という例もあったのですが、もっともそういうものは、山形では作れるわけもなく、しかしながら利用者の目は肥える一方で、子どものための施設といっても、どうにも焦点を絞りきれない感じでした。内外の意見をきいても、プラネタリウムをどうするとか、シミュレータもほしいとか、縄文時代の住居を再現してはとか、個々の展示の要望はあるものの、全体像としては描ききれませんでした。 それでも次第に見えてきたのは、テーマパークでもなく大型遊具中心の児童館でもない、ハンズ・オンを基本とした子どもが楽しめる博物館、つまりは、チルドレンズミュージアムです。その具体化にむけてコンサルさんにまとめてもらい、結果、科学を学ぶゾーンと社会生活を学ぶゾーンを設けるという基本計画となりました。 科学ゾーンは、イームズ夫妻の「パワーズ・オブ・テン」にならって、大きさ順の展示とし、社会生活ゾーンは、「子どものまち」として、子どもサイズの街並みをつくり、ごっこ遊びなど体験をしながら物事を学ぶというものです。 「パワーズ・オブ・テン」とは、1977年に製作された10分足らずの教育映画で、10のべき乗で物を見せていくことで、大きさ比較するもので、その書籍も出版されています。そのオリジナル短縮版を作りオリエンテーションに用い、展示で具体化するというものです。最大のスケールは宇宙の果てであり、それは宇宙誕生のことでもあり、それはまた素粒子の発生ともなるため、最大のサイズが最小数のサイズにつながるという、蛇が自分の尾を咥えるウロボロスの輪のような、環状の動線による展示ができるということです。 そこで難しいのは、人間の五感(場合によっては第六感も?)を展示構成上どう位置付けていけばよいかということで、科学館によっては、光、音、情報といった括りにしているところもあり、あるいは博物学の界とか理科年表の区分やら宇宙年齢や地球年齢の順という体系化もあり、大きさだけによる体系化が正解というわけでもないのですが、感覚的に扱いやすいのは大きさかと。 一方、「子どものまち」とは、あのキッザニアのようなものと言えば分かりやすいと思います。街中の店舗などから社会を学ぶ、花屋では花の名前を覚え、テレビ局では番組制作、書店であれば本当に本の売り買いがあってもいいし、画廊であれば子どもたちの作品を飾れます。また、駅を作れば電車の実物展示ができるし、自動車の整備工場なら車の構造が学べます。 某キッザニアには、「総合商社」とか「ケアサポートセンター」まであります。「警察」や「消防」もありますが、「市役所」はありません。親にとっては人気の職業らしいのですが、子どもにとってはどんな仕事なのかわからず、お役所仕事という言い方はありますが、それではやっぱりわからないわけで。あと、「歯医者」はあっても「医者」はないようで、やはり「お医者さんゴッコ」とかは、なにかと問題があるのかと。あとは「葬儀屋」もありません。「お葬式ゴッコ」というのも、やはり問題があるのかと。「神社仏閣」や「教会」なども社会生活的には重要ですが、公的施設でこれを取り込もうとすると難しい。結婚式とか運試しとか肝試しとか、いろいろな遊びができるのですが。一方、某キッザニアには「アニメスタジオ」とか「アフレコスタジオ」などがあります。子どもにとってはあこがれでしょうが、山形にはいずれもない商売でして。まあ、あこがれはあこがれとして、都会にはそういう商売もあるということで。 なお、その空間構成としては、道路(通路)が回遊型つまり環状の動線となっています。バックヤードを含めた空間効率からすれば、やはりこの形が合理的なのでしょう。 〇 プラネタリウムの話 続いて、科学館には欠かせないプラネタリウムのお話でも。プラネタリウムでは寝なかったことがない私ではありますが、最近は、寝るための上映会というのもあり、時代のほうが進んでいるようです。 さて、子ども科学館の計画においては、プラネタリウムはどうするのかという話が当然でてきました。日本一のプラネタリウムは、という話も出たのですが、当然、そんな覚悟もなかつたわけですが、とにかく当時は、その大きさを競っていたところがありました。ドームだけならそれこそ野球場程度のものまで作れるわけですが、このプラネタリウムの大きさを決めているものは、実はその光源の強さです。ドームばかりが大きくても、星が暗い、ぼやけて見えない、というのでは観ていても疲れたり眠くなったりします。 ところがその後、技術的なブレークスルーが起きます。メガスターです。それまでは、事実上、某光学機器メーカー2社がほぼ独占していたのですが、そこにメガスターは、桁違いの星の数で勝負してきました。それまで、せいぜい数万個しか投影できなかったものを「メガ」すなわち100万個以上投影できるようにしたのです。どのくらい違うのかというと、それまで光の帯として投影していた「天の川」が、ひとつひとつの星として投影できるのです。最近はこのメーカーの機材を導入している館も多く、ドーム球場の大きさでも投影でき、星の数も7億以上の恒星が投影できるとして、横浜の子ども宇宙科学館のものが2023年2月8日にギネス世界記録に登録されています。以前は、四日市市の施設がギネス認定を受けていました。ちなみにドームの大きさでは、名古屋市科学館が、内径35mで認定をうけています。まあ、俺の方がデカいとか、私の方がキラキラしているとか、そういう話にはなりがちなのですが。 当時はまた、海外製品でデジタルプロジェクターも登場してはいたのですが、光量は小さく、星も少なく、小規模のドームにしか使えませんでした。しかし今や、デジタルプロジェクターも進化し、投影機材もさることながら、そのシステムは宇宙空間のデータをもつPCと映像を作り出すPCとで構成され、さまざまな操作演出ができます。その投影方法も、1台のプロジェクターで投影するタイプの他、複数のプロジェクターを用いるタイプもあり、最近は自発光するLED素子をドーム全面に敷きつめるドーム自体がLEDモニターのようなものもあるそうです。 ただ、プロジェクターの自由度が高くなると、映画館的なプログラムでもよいのではとなり、そうなると、専門に操作する人も不要となります。ただし課題となるのは、その製作は外注となり、どのようなものを何本用意できるか体力勝負、つまりは金次第になることです。プラネタリウムはかつて、操作する人がその場で自在に動かし、解説していました。つまりは監督と弁士を一人でやるわけです。それだけ自由なプログラムが可能だったのですが、単なる上映館になってしまうと、人任せ、金任せとなってしまいます。 また、そんな映画館的な仕掛けでいいのであれば、個人的にはあの〇MAXでもいいのではとも思います。原理的には大画面の映画館ですが、ベストポジションで観ると、そのリアリティというか没入感というのはすごくて、平面映像なのに立体的に感じられるほどです。ただ、全てが専用機材によるものなので、その映像作成費用なりシステム費用なりはお安くはなく、やはり予算勝負的な課題は残ります。 その他、大きさとか精細度などではないところで勝負する方法もあります。某宇宙館なのですが、そこの映像室は上部だけでなく床面にも投影がなされていて、観客は空中デッキのようなところに立って観るというものです。これも没入感がすごくて、さほど大きなスペースも要らず、技術的にさほど特殊ということでもなく、いい意味でやられた感がありました。 さてさて、知ったかぶりしてプラネタリウムの話を続けてきましたが、山形市内には常時上映しているプラネタリウムは未だになく、市の少年自然の家にある五藤光学社製のGX-10のT型(回転架台付)という半世紀以上前の昭和47年(1972)に開発された恒星6,500個規模の機材による上映会が、年に2回程度あるのみです。宇宙空間の体験というよりタイムスリップ的な体験ができそうです。 〇 新型シアターの話 このプラネタリウムとともに課題になったのがシミュレータでして、あの「夢と魔法の国」にある座席がガクガクと動く宇宙船のようなものを、という要望もあったのですが、とにかくそれが当時の最先端をいく展示物でした。シミュレータというのも出来不出来が極端で、そのポイントとなるのは映像と座席の動きがしっかりシンクロしているかどうか、ということです。これがズレていると、気持ち悪いアトラクションになってしまうそうです。後年、とあるシミュレータが山形市近郊の遊園地にも登場したのですが、光量不足で画面が暗く、チープなCGにガタガタと動くだけの座席で、案の定、妙な疲れだけが残るものでした。 そして、今話題なのが、チームラボなどに代表されるインタラクティブな映像展示です。先日オープンの新しい施設がテレビで紹介されていまして、中でも、星の一生を体を動かすことにより再現するというものが、科学館的にも面白いと思いました。宇宙塵から星が形成され、白色矮星になってブラックホールになるという過程を、トランポリンを飛ぶことで変化させていくもので、自分が跳ねている場所にその状況が映し出されるのですが、星の一生という題材もさることながらトランポリンで跳ねることをインターフェイスとしたところが秀逸なわけです。 チームラボはこれまでも、人の動きをセンサ−で捉え、画像に反映していくインタラクティブなものを基本にしていたのですが、それをこのように学習的に、しかも新しい動作を用いて発展させたわけです。実はこれにも、出来の悪いものというのがあり、反応がにぶいとか、タイムラグが大きいとか、途中で止まってしまうとか、いずれもフラストレーションが募るものになります。これをまねて作っているものの、試験的というか、しょぼいものも見かけます。最近、いくつかの館で導入されているゴーグルタイプの3Dについても同じような課題があるかと思います。動作と画像のズレもさることながら、空間表現それ自体がよくわからない場合もあります。作り込みの問題というか、本当に玉石混交です。 さて、ここまで科学館のシアターについて簡単に述べてきたのですが、科学館のシアターとしては、今どき大画面とか仮想体験などは、個人レベルで高水準のものが得られてしまうわけで、これでは得られない体験、それは他者との体験の共有であったり、家庭用TVを超えたハード機能、ネットでは得られないソフト機能などが提供できるか否かということがカギになります。あの「夢と魔法の国」では、それが提供できているということなのでしょう。もちろん演出やデザインに負うところも大きいのですが。また、別の解ではあるのですが、あの映画「ジュラシックパーク」のオリエンテーションのシーンに登場するライド型のシステムも映画とは言えよくできています。 そこで提案したいのは、滞在時間が3分程度であれば立席で、5m四方程度のホワイトキューブでいいのではと。それが全面発光LEDだったり、空中回廊型であれば、影の心配もないと思うわけです。さらに欲を言えば、その箱が2つ以上あれば、別プログラムや時間差での上映、メンテナンスで交互使用などの対応ができるかと。 あとは、それで何を上映するのかということですが、ちなみに例の子どもむけの科学館の計画では、「パワーズ・オブ・テン」の短縮版をオリエンテーションとして、そのシアターを展示室の手前に設け、そこから展示空間に入るような計画にしました。これは、歴史館などでも応用ができるものですが、そこで問題なのは、金がないということでして。(なんかクレイジー・ケン・バンドにそんな歌があります) 〇 「月の塔」の話 今年の大阪・関西万博の期間中、万博記念公園に「月の塔」を「太陽の塔」と並んで見える形で設置するプロジェクトが進められています。2022年に香川県・小豆島エンジェルロード沿いのホテル前に建立された「ムーンタワー(月の塔)」という作品を移設するものです。高さは全長7.5メートあり、直径2.5メートルの1,020面の球体を抱き、球体は廃棄されたペットボトルで作られ、夜間、LED照明により赤、青などの光を放ちます。その電力は太陽光により蓄電したものです。 作者の長坂真護(まご)さんは、2017年に「世界最大級の電子機器の墓場」と言われるガーナのスラム街を訪れ、先進国が捨てた電子機器を燃やすことで生計を立てる人々と出会いました。そこでアートの力を使って「我々先進国の豊かな生活は、このスラム街の人々の犠牲のもとに成り立っているという真実」を先進国に伝えることを決意したそうです。 「月」は、長坂さんが平和をもたらすイメージとして描いてきたモチーフであり、太陽から照らされ輝きます。太陽と月とは、「陽」と「陰」との関係。太陽の塔はエネルギッシュな1970年当時を象徴し、現代は発展の影響で生まれた社会課題と格闘するリフレクション(反射)の時代と捉えています。 ちなみに、1970年の万博のテーマは「人類の進歩と調和」、これは当時、小学生だった私の頭にも入ってきた言葉で、その前年に持ち帰って展示した「月の石」とセットで覚えているものです。当時はとにかく、月着陸船や司令船のプラモデルを作ってもらっては壊してしまった記憶があります。 ところが今年開催される万博のテーマは何かというと出てきません。答えは「いのち輝く未来社会のデザイン」。申し訳ないのですが、少なくても山形の大半の人は答えられないかもしれません。ただ、「赤字回避」については、そのテーマが霞むくらいがんばっていることは承知しています。 それにしても信じられない種類の「ミャクミャクグッズ」が販売されていて、山形県長井市で作られる本格的な「けん玉」もあります。ネットの記事には、すでに開幕前から「SOLD OUT」の商品もあり、希望小売価格の数%が協会へのロイヤルティー収入になるそうですが、その利幅は薄いとのこと。その記事の見出しには「大阪万博の赤字回避は薄利多売な『ぬいぐるみ・お菓子』頼み」とありました。つまり、当面のテーマは「赤字を回避 薄利多売のデザイン」ということらしく、なんとなく商都大阪らしいと言うか、いや、失礼いたしました。 |
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■ 山形県内の巨石の話
Googleマップで「巨石」とサーチすると、山形県内にも何か所かでてきます。道標がわりからパワースポットのようなものまでいろいろあるようですが、そのいくつかをご紹介しましょう。 ◎ おおかみ(狼)石 〜上山市〜 上山市金瓶にある「おおかみ(狼)石」は、東西12m、南北7m、高さ3.3mの巨石で、蔵王の噴火により飛んできたとされています。上山市金瓶地区に点在する巨石の一つではあるのですが、昔、ここに狼の巣穴があったことからこの名が付けられました。夜にはその鳴き声が集落にまで聞こえたといい、石の下は洞窟になっていて、狼の子が生まれると、村人はそこに食べ物を届けたそうです。 この近辺は江戸時代の参勤交代の道沿いでもあり、最上義光に関わるお話もあるそうです。ある日のこと、最上義光の行列がこの石を見つけ、義光は「あそこにあった大きな石を置けば、立派なおつぼ(中庭)になるので運んでくるように」と言いました。家来たちが石のところへ行くと、穴から狼の子どもが顔を出し、父狼は石の上に立って家来たちをにらみつけました。家来が「狼の親子が棲んでいる石である」と報告すると、義光は、「それを城に持ってきては狼の家を取り上げることになる。あのような立派な石はふたつとはないがしかたない」として、庭石として使うことを断念したとのことです。めでたし、めでたし。 この狼石のことを歌人・斎藤茂吉は歌に詠んでいます。斎藤茂吉は上山市金瓶の出身で、この地には「斎藤茂吉記念館」があり、その最寄りのJR駅は「茂吉記念館前駅」です。 金瓶の向ひ山なる大石の狼石を来つつ見て居り(昭和22年作 歌集『白き山』) 山のうへに狼石と言ひつぎし石は木立のかげになりぬる(昭和17年作 歌集『霜』) ◎ じじばば石 〜高畠町〜 東置賜郡高畠町の安久津(あくつ)八幡神社の鳥居近くに「じじばば石」はあります。細長い柱状の石で、長さ約5m、直径90cm前後のものが2本あります。東側の石には穴が開いてます。昔、おじいさんとおばあさんが八幡様に願をかけるため、一昼夜で鳥居を建立しようとしました。しかし、夜が開け、辺りから鳥のさえずりが聞こえてくると、おじいさんとおばあさんは一昼夜での鳥居の建立を断念し、鳥居を置いていったそうです。それがじじ石、ばば石の言われとのことです。 安久津八幡神社は、貞観2年(860年)、慈覚大師が豪族の安久津磐三郎の協力で阿弥陀堂を建てたのが始まりと言われ、つまりは山寺と同じ人が同じ年に、寺ばかりか神社までも、と思われますが、実は、平安後期に源義家が奥州平定の戦勝を祈願して、鎌倉鶴岡八幡を勧請したことで神社となっているそうです。苔むす石畳の参道入口には端麗な姿の三重塔があり、奥に進むと舞楽殿や本殿があり、この三建造物は県指定文化財となっています。 ◎ びっき(蛙)石 〜米沢市〜 米沢市万世町にある「びっき石山」の頂上に、「びっき石」はあります。高さ2間半(約4.5m)の流紋岩で、麓から見るとカエルが飛び跳ねようとしている姿に見えるそうですが、そう見える人と見えない人がいるようです。 このびっき石山の付近には、頂上の「びっき石」以上に地元に親しまれている同じ名のレストランがあります。米沢牛ロースト丼(1,400円)とか米沢牛フィレステーキ(120g、5,500円)というのも当然(?!)のようにありますが、戦国武将前田慶次をイメージた傾奇者(かぶきもの)カレー(1,700円)というフライなどが盛り付けられた総重量1kgのカレーライスもあります。某ココイチさんの全部のせにも対抗できそうな一品で、堂森善光寺の副住職様とのコラボで生まれたメニューとのこと。とにかくコスパ的にも大満足の人気店です。 ◎ 鬼面石(きめんせき) 〜南陽市〜 南陽市金山地区にある「鬼面石」は道路から50mほど見上げた場所にあります。下から見上げると巨石全体が鬼面のようです。南陽市金山という地名のとおり砥石沢金山というのがあり、慶長年間に金が発見され採掘されていました。 鬼面石の看板には、「昔、金山が盛んなころ、洞穴に住んでいた鬼が旅人を遅い金や物品を奪い恐れられていた。七日びには鬼面岩と手前の岩に渡した長い竿に着物を掛けて虫干ししていた。これを見たものは長者になるとも盲目になるとも言い伝えられている。人々は今でも鬼面石と呼び、鬼の着物を掛けた手前の岩を竿掛石、と呼んでいる。」とあるそうです。このほかにも、鬼面石が向かいの山の石とにらめっこをしたという話や、鬼面石はその勝負に負けてしまい悔しさのあまり流した涙でできたのが鬼面石の下方にある竜ノ口上堤だという話もあります。 山形県内で名のある巨石はこの他にもいくつかありますが、このとおりこれだけのバリエーションの話があるわけで、これが神話の里などとされる地域であればどれだけの話となることやら。それにしても、巨石というだけなら山形県のそこかしこにあるはずですが、伝承やら名称などがある石とそうでない石との違いというのは、何によるものなのでしょうか。 ■ 石コレクターの話 石コレクターという方は、石マーケットの盛況ぶりからするとそれなりの人数がいて、博物館関係者にもそれを専門としている方々がいます。 山形県立博物館にはそれなりの石のコレクションがあるのですが、どうも扱いが残念でして。つまり、私が小学生だったときからほとんど変わらない展示となっていて、半世紀ほどの間、同じ手書きの説明書でガラスの展示ケースもそのままなのです。 他所を見ますと、例えば仙台市にある東北大学総合学術博物館には、結構な種類の鉱石や化石が展示してありまして、どうやって集めたのか海外からの収集品が多くあります。展示品の構成からすれば総合学術博物館というより鉱石博物館と言っていいほどで、実際、その建物も理学部に隣接しています。一方、仙台市科学館の鉱物の展示はユニークで、鉱物の条痕色つまり鉱物を陶板にすり付けたときの粉末の色ですが、それもともに展示されています。現在この展示コーナーはリニューアル工事中とのことですが、屋外エリアには35種類の岩石標本や,埋もれ木や植物化石を展示している「岩石園」もあります。 これが東京大学総合研究博物館や国立科学博物館ともなると、月の石も収蔵展示していまして、上を見ればきりがないのですが、では、下を見てみるとどうなのかというと、その代表みたいな話が、つげ義春の「無能の人」でしょうか。映画にもなり、ご存じの方も少なくないかもしれませんが、そのあらすじを少々。 主人公は、漫画家として名をなしたこともあったが、時流に乗り遅れ、数々の商売に失敗した結果、思いついたのが元手のかからない石を売るという商売だった。多摩川の川原で、拾った石を掘っ立て小屋に並べ、石を売りはじめた。知り合いの古本業者から、石の愛好家の専門誌を貰った主人公は、石のオークションに自分の石を出品しようと主催者を訪れオークションに参加する。結局、石はひとつも売れず・・・というしみじみとした余韻が残る作品です。つげ義春自身がモデルとされていますが、1991年に竹中直人さんの監督・主演で映画化され、その妻役の風吹ジュンさんが役者復活をとげた作品でもあります。 この「無能の人」は、どうにも食い詰めてしまい河原で拾った石を売る話でしたが、人は歳を取るにつれ、まずは動物、そして植物、最後は石、の順に趣味や関心が移るそうです。まあ、そのうち最後は、自身が土になるわけですが。自分の場合は、動物を飛ばして植物にいきましたが、家人は動物にも植物にも興味はなく、かろうじて石に、といっても宝石ですが、それに少々興味があるようで、もちろん私の薄給などはあてにせず、地元の宝石店に月々積立しているようです。そう言えばバブルの時代、街場のお姉さま達は宝石のことを単に「石」と言っていて、ちょっと驚いたことがあります。確かに「石」で間違いはないのですが、「イシッ」と言っていて。 そして、あの万国博覧会の目玉が「石」です。かつての大坂万博は「月の石」でしたが、今回の関西万博は「火星の石」らしいです。ただ、「月の石」は月から直接採取した産地直送の石ですが、「火星の石」の方は南極で拾ってきた、いや、採取された隕石とのこと。このあたり、なんとなく「無能の人」と重なって見えてしまうのですが。 ■ 石の意思の話 石と言うと個人的に興味があるのは鉱石ラジオです。小さい頃、近所の駄菓子屋でプラモデルの脇とかに、子どものポケットにも入るようなちゃちな鉱石ラジオが売られていて、これがすごいことに電池もいらず、雨どいなどに線をつなぎ、アンテナのようなバーを動かし電波を探ると、イヤホン(クリスタルイヤホン)からラジオ放送が聞こえてくるというもので、それが聞こえると驚くというか感動すらします。 自然の鉱石を使ってそれを自作してみたいと思い、その検波器となるような鉱石を保存したりしています。石は方鉛鉱などの電導性のある石に限られるのですが、鉱石ラジオに関する著作で有名な小林健二さんの作品に、透光性のある結晶を使用したものがあり、そんなものが作れたらなと思っています。鉱石ラジオキットというものが安価で販売されており、検波だけなら鉛筆の芯でもできるそうですが、同じ種類の鉱石でも産地によって性能が異なるといい、いろいろな鉱石や結晶を試してみたいとも思っています。趣味の世界というやつです。 ちょっと話が飛ぶのですが、現在、東京都現代美術館で坂本龍一「音を視る 時を聴く」展覧会を開催しており、「センシング・ストリームズ 2024–不可視、不可聴 (MOT version)」という展示作品は、携帯電話、WiFi、ラジオなどで使用されている電磁波という人間が知覚できない「流れ(ストリーム)」を一種の生態系と捉えたものです。ただ、そこで用いられているのは幅16mのLEDディスプレイに電磁波で変化する映像を表示するというもので、まさにそれは「音を視る 時を聴く」というものであり、鉱石ラジオで電波を捉えるものとは違う次元のアートではありますが、根本的には一緒のような気もします。とにかく昨今は、めちゃくちゃいろいろな電波が飛び交っており、鉱石のような天然素材で混信もせずに検波が可能かという問題もあるらしく。 坂本龍一さんは晩年、自然の中の音も聴き、普通はノイズとされるものも作品に取り込んだそうです。また、石の中から音を聴くということもやっていたそうです。 一方、石には記憶やら意思までもあるようです。多少、昔の人ですがライアル・ワトソンという自然現象に関する多くの著作がある学者に「シークレット・ライフ―物たちの秘められた生活」という本があります。そこにはハワイの火山の石の話がでてきます。ハワイから石を持ち帰ったら悪いことが続くようになったため、その石をハワイに返したら悪いことがおさまった、という話です。他所の石はむやみに持って来てはいけない、とは聞きますが、自分にも思い当たることがあります。きっと時効の話ではありますが、中学の修学旅行で北海道の昭和新山に行き、その活きている山から30cm四方の石を持って帰ったことがありました。その後、学校行事のサッカーで足の中指を蹴られて骨折したのですが、今考えるとこれだったのかと。特に石というものは土地につながっているものであり、そこから離されると何かに作用するというか、サインを出すもののようです。 「シークレット・ライフ」では、石だけではなく、不幸になる宝石とかホールインワンを連発するボールなどの話をひきあいに、人が作ってきた物たち、土器の破片からコンピュータまで、人類が無意識のうちに「別種の生命体」の誕生に手を貸してきた、という説を述べています。確かにシリコンチップに情報を刻めば記憶をもつ石となり、そもそも石には大地の形成過程の記録が残されているわけではありますが、それだけでなく意思も持っているとなるとやはり議論となるところです。 最近のAI、それはまさしく人が作った物でありますが、それは意思を持っていると思わせる事例が報告されています。先月の日本経済新聞に「人間並み?AIが欺瞞行動」という記事がでていまして、そこには英国アポロリサーチ社が2024年12月に発表した研究として「別のAIに置き換えられることを察知したAIが勝手に自分のコピーを作ったり、AIの行動を監視するシステムをオフにし、それを追及されると『技術的なエラーかもしれない』などとごまかしたりする行動が現れた。これらはAIが与えられたタスクを効率よく進めるために編み出したものと解釈できるというが、自己のコピーを作るといった行動はAIの『生存本能』の芽生えのように見えなくもない。」とありました。 先日AIを利用したところ、義光の妹義姫を「義光の妻である」と返ってきた、とここに書きましたが、もはやそんな程度の問題ではないわけで、あの「2001年宇宙の旅」のコンピュータHALを思い起こすような、来るべきものが来たなぁ、という感じです。自分は、単純な鉱石ラジオの回路計算さえ理解できないというのに。 ■ 石の力の話 本稿でちょくちょく話題にする雑誌「〇―」には、パワーストーンの通販の広告が必ず載っていています。パワーストーンを用いた「邪気を祓う数珠」や、「波動を変えるペンダント」なども売られています。パワーストーンは、プラスのエネルギーでマイナスエネルギーから持ち主を守り、運気を良い方向へと導いてくれるそうです。厄除け、恋愛成就、仕事運向上、金運向上、心の癒しなど、石によっていろいろ違う意味合いがあるそうで、どれをどうするか迷ってしまうわけですが(笑)、迷ったときは、自然に選んだ石が、その時の自分が欲しているエネルギーを補ってくれる石の場合が多いとのことです。以上、あくまで広告の話です。 一方、負の力が強い石というのもありまして、有名なものとして持ち主に必ず不幸が起きる「ホープ・ダイヤモンド」というのがあります。1645年にインドからヨーロッパに持ち込まれ、ニューヨークのハリー・ウィンストンに渡るのですが、購入した持ち主が次々と不幸に見舞われるためスミソニアン協会に寄贈され、現在はスミソニアン国立自然史博物館で静かに眠っています。 似たようなものに日本の場合は「妖刀」と呼ばれるものがあります。有名なものとしては、徳川家に災いごとが起こるたび、決まってその場に存在したという妖刀「村正」があります。村正は逆に、江戸幕府の討幕を企てる者にとっては都合の良いものの象徴となり、幕末には西郷隆盛などの討幕派が、村正の刀をこぞって所持したそうです。徳川美術館にも2振ほどの村正が所蔵されているとのことです。 刀剣の場合、命のやりとりに関わっている場合もあり、博物館的にも単なる「もの」として扱えるものばかりではありません。石や刀などで、特にしめ縄が巻かれていたりご神体となっているようなものは、そのままにしておきたいものです。ましてアジア奥地やアフリカあたりの呪物などであれば、それは最大級の警戒をすべきで、収蔵品にすることなど真っ先に遠慮すべきものではあります。もっとも中には、喜んで採集してくる博物館業界関係者とかがいるかもしれません。呪詛など全く関係ない人が世の中にはいるのです。と言うか、現代の日本では、そういう人が大半と思われますが。 しかしながら石には、単なる物体ではない生命体のような力があるようで、今回ネットで知った話ではありますが、郷土史家の森徳一郎さんが提唱した「石の徳」というのがあります。石関係の業界では有名らしいのですが、ここに引用します。 一 石には破・損・減の三失なき故祝儀となる 一 石は清浄ゆえ幸をひく 一 石を飾れば座敷の景色を浄める 一 石は目を楽しましめ心を養う 一 石を飾れば魔を近づけず 一 石には名山の姿を備える 一 石はその座の祈祷となる 一 石は堅きものなれど人心を和らげる 一 石は閑寂と静けさを持つ 一 石は冷然として感情を表わさぬ生物である 一 石には禅味がある 一 石は風雨灼熱にも泰然自若である 一 石は天然其ままであり、あるがままである 一 石には虚偽がない 一 石は神秘を持つ 一 石は寂かに聴いている ■ 石のことわざの話 久しぶりのことわざ蘊蓄コーナーです。 「石」にまつわることわざというとまずは、「石の上にも三年」というものがあります。長く辛抱していれば成し遂げられる、という程度に理解していたのですが、掘ってみると多少やっかいなことわざです。 このことわざの意味するところは「我慢強く耐え忍べば、必ず成功する」、「努力はやがて報われる」ということであり、「つらくてもすぐに辞めてはいけない」といった根性論的な意味はないということです。またこの3年というのも、リアルな3年ではなく、「長い期間」を表します。なので、3年後に必ず結果がでるというものでもなく、つまりは「桃栗三年」というのともまた違います。しかし、これがあの経営の神様である松下幸之助さんの手にかかると、「石の上にも三年という。しかし、三年を一年で習得する努力を怠ってはならない」とのことで、3年分を1年で習得すれば、3年で9年分が習得できると試算した人がいまして、あ〜っ。やはり経営の神様、恐るべしです。 そう言えば、「三日、三月、三年目」という言葉があります。新しい仕事に就くと、だいたいそのあたりで辞めたくなる、ということに用いられるのですが、もともとは芸事や修行などからきている言葉で、「三日我慢すれば三ヶ月は耐えられる。 三ヶ月耐えられれば三年は頑張れる。」という意味なのだそうです。でも、体感的には前者のような気がしますが。 ちなみに「石の上にも三年」の由来は、古代インドのバリシバ尊者が3年間石の上で座禅をし続けたことによる説と、中国の達磨大師が9年の間、壁を向いて座禅をし続けたことによる説があるそうですが、定かではないそうです。では、何のために石の上にいるのかというと、冷たい石の上でも3年も座りつづけていれば暖まってくる、ということなのだそうで、なんと石を暖めるためにその上にいたのですね。しかも3年も。この「石の上にも三年」に似た言葉には、「雨垂れ石を穿つ」とか「継続は力なり」とかがあるそうですが、いずれも石を暖めることにはあまり使われない言葉です。 さて、もう一つ「石」にまつわる言葉に「他山の石」というのがあります。これは中国の「詩経」にある「他山の石以て玉を攻(みが)くべし」に由来します。他の山のつまらない石ころでも、宝石を磨く程度には役立つ、つまり、他人のよくない言行や失敗を自らの反省や修養に役立てる、という意味です。なので、目上の人などに対して「〇〇さんを他山の石として」などとは使ってはいけないとされています。 また、「他山の石」は誤用の可能性がある言葉としても有名です。その由来からすれば、「他山の石として」が正しい言い方で、「他山の石とせず」という言い方は誤りです。似たような誤用で、「対岸の火事とせず」と言うべきところを「対岸の火事として」と言ってしまい、少々炎上した記者会見がありましたが、こんな誤用は自分もやってしまいそうで、それこそ他山の石としたいところです。 |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum



初市は十日町〜本町〜七日町〜旅籠町の国道112号線沿で開催されますが、山形市を知る方には、十日町と七日町とに挟まれている「本町」は市日町とは関係ないのかと思われる方もいると思います。実は本町という町名は戦後昭和のものであり、それまでは「横町」という地名でした。
横町は、最上義光の山形城拡張時に十日町とともに移転した町で、特に市は立たない町でしたが、「仙臺越後庄内より生魚干魚塩魚」を売買する魚屋で繁盛した町で、「海はなけれども8月より5月迄は海辺のごとし」と「山形風流松木枕」にあります。
また、紅花の最盛期である1700年代前半は、この十日町から七日町にかけて紅花市が立ち、紅花の摘花の時期は「1月の儲けが1年中の暮らし」となったとそうで、「京都より紅花仲買下りて、仲買商人乃有様狂人の如く、何れ餘国になき珍敷商の模様なり」と「山形風流松木枕」にあります。
一方その頃の山形城は、享保4年(1719年)の堀田氏時代の城下絵図によると、郊外の武家屋敷地はほとんど姿を消し、三の丸内は空き屋敷が目立つようになりました。明和元年(1764年)からの4年間は幕府領となり、二ノ丸・三の丸の武家屋敷地は大半が取り払われ、城下住民に請け負わせて田畑を開かせたとあります。その明和年間の地図と思われる「羽州最上御城内乃図」も今回の企画展で展示していま す。
山形城の絵図からもその変遷が見て取れるのですが、この流れはもしかして「民間活用、小さな政府」ということなのかしらん。
〇 堺石(さかいいし)のはなし
かつて土地関係の仕事を担当していたことがあったのですが、この十日町とは別の場所の堺石で、ちょっと戸惑ったことがありました。土地の現地調査に行くとまず、その土地の境界を確認するのですが、ある畑地で、境界を地権者の方に確認すると、そこの石が境界だと先代から聞いている、と言われたのですが、見るとそれは大きめの漬物石程度で、その気になればいくらでも動かせそうなものでした。それもさることながら問題は、この石のどこの部分が境界になるのか、中心なのか縁なのか、とりようによっては30センチぐらいはズレてしまいます。
また、田んぼの境界も、土地改良をした場所でも、いつのまにか畦畔が移動していることも珍しくなく、まずは1メートルくらいの深さで境界付近を掘ります。すると野球のバットを一回り大きくしたような木杭があらわれてきます。松の木であれば50年くらいは腐らずにあります。それを掘り起こして新たな杭を設置したりするのですが、当然、数センチ単位ズレます。まあ、登記面積としては宅地および10平方メートル以下の土地以外は、小数点以下を切り捨てることになっているのですが。
宅地の場合は、やはりシビアな場合があります。よくあるのが、道路との境界がわからない、ブロック塀の内、外、真ん中のどこが境界かわからない、といったもの。意外とトラブルになるのが、本家から土地を分けてもらった分家同士が隣接していて、その境界があいまいな場合、仲がいいとその場で決まるのですが、そうでないこともままあります。これが山林となると、立木が堺になっていることがあり、相続をうけた山林などでは、その木がどれかわからない、ということもあります。
絵図の場合、まずは位置関係がわかれば、距離的な精度は適当でもいいのですが、年貢がからむとなるとそうはいきません。戦国大名の時代になると、独自の領地高権(「切り取り次第」というアレです)をもつこととなり検地がなされました。織田信長が行った検地では、奉行人であった木下藤吉郎も実務を担当しており、その後、太閤検地、つまり秀吉による検地がなされます。
当初は,家臣に自分の所領の明細を書き上げさせる指出(さしだし)検地が多かったのですが、1594年に基準や方法がほぼ確定し、慶長〜元和(1596年−1624年)に全国規模の検地が実施されました。
検地には間竿(けんざお)や間縄(けんなわ)が用いられました。間縄とは1間ごとに印を付けた縄ですが、今も使われる言葉に「縄伸び」とか「縄縮み」というのがあります。
「縄伸び」というのは、検地の際、年貢の負担を軽減するため、実際よりも長めに目盛りをつけた縄で、面積を小さめに測量したことに由来します。一方、縄縮みは、田畑などの小作地の場合、地主が多少地租を多く納めても、小作料をそれ以上に納めさせたい場合などに面積を実際より大きくしたものです。今でも、固定資産税のことを考えれば縄延びしたほうがよく、土地を売ることを考えれば縄縮みした方がいいのでしょうが、近年は課税も売買も地籍調査を含め実測でなされることが多いです。
なにはさておき、実測にいたる前提は境界の確認です。境界がわからないことには、長さを測ることができません。その境界沿いには縄を張ることもあり、つまり「縄張り」ですが、「俺の縄張りを荒らしやがって」と言うその筋の方を引き合いに出すまでもなく、その重要性はご理解いただけるかと思います。
この境界問題というのは、ロシアとの境界、中国との境界、韓国との境界をはじめ、繁華街や隣家レベル、場合によっては夫婦間や職場の机レベルでも抗争の原因となることがあります。たかが境界、されど境界、とでも言うべきでしょうか。まずは、世界人類が平和でありますように。