最上義光歴史館


最上義光公フレーム切手

 最近、地元の郵便局が「最上義光公フレーム切手」というのを企画し、84円切手10枚のシートを1,330円で限定500シートを販売したところ、市内関係郵便局では早々に売れ切れ、全国でのネット販売分も1ゕ月もたたずに売れ切れ売れたようで、当館取り扱い分もわずかとなりました。当館分は全て買い取り制で、100枚のうち8枚以上売れ残れば赤字になるため、当初は慎重姿勢ではあったのですが、赤字にならずに済みそうです。
 さて、博物館にとってこうした物販収入は、近年ますます重要になっているのですが、売れ残りなども考慮すると、そうそう好き放題にできるものでもありません。当館の場合、基本的には受託販売が主で、直売品は研究資料や図録程度です。
 山形県内のミュージアムショップで最大なのは、水族館を別にすれば、上杉博物館でしょうか。歴史博物館としてのグッズはあらかた網羅しており、米沢織物などもあります。伊達グッズを扱う仙台市博物館のショップもまた品揃え豊富で、お土産を買われる団体客で賑やかです。それらに比べるまでもない当館は、ささやかな展示ケースに物販品を並べるのみです。
 さて、こうしたグッズとしては、絵葉書や栞、ボールペンやキーホルダーなどが定番でしたが、最近はあまり多くをみかけません。今はクリアフォルダや一筆箋、マグネットなどが定番商品となっており、最近ではマスキングテープやアクリルスタンド、そしてカプセルトイいわゆるガチャなどが人気のようです。当館もガチャが設置できるほど収蔵品があればいいのですが、まあ、缶バッチ程度であれば種類をかせぐことができるかもしれません。特に「家紋」の缶バッチは手堅いです。最上義光の兜のオリジナルピンバッチなども、特に外国の方に人気です。
 戦国時代を扱う博物館のキラーアイテムには「刀グッズ」というのがあり、当館でもキーホルダーの刀などを置いています。以前、刀型の「ようかん和菓子ナイフ」というものを見つけたのですが、予算の都合で見送らざるをえませんでした。かわりに最近、物販担当者が仕入れたのは、伸び縮みする全長70cmのプスチック製の刀「漆黒刀」というものです。その名のとおり刃も柄も全て黒いので、柄にひし形で赤色を着色すれば、あの鬼を倒す刀剣のようになるらしいです。密かに売れています。
 さらに戦国時代を扱う博物館としては、「花押グッズ」というのも有力です。バッチやキーホルダー、スタンプ、一筆箋などの一連の商品展開ができそうです。あくまでも「例えば」なのですが、伊達政宗公の花押は鳥の形のようなことから「セキレイ」と呼ばれ人気がありますし、上杉謙信公の花押もかなりのインパクトがあります。最上義光の花押は、歴代の足利家との区別が難しい、いわゆる足利様式という極めてオーソドックスなもので特徴に乏しいのですが、印判はなかなかに面白いデザインで、現在、来館記念スタンプのデザインに用いています。
 こうしたグッズで個人的に好きなのはスノードームです。ガラスの玉の中に建物などの模型が入っていて、雪のような粉がちらちら舞うあれです。正しくはスノーグローブといい1889年パリ万博で登場したエッフェル塔のもので人気が広まったとのこと。そう言えば昔、東京タワーのスノードームが土産品によくありました。昨今は、水族館とクリスマスの時期ぐらいしかお目にかかれません。それでも、このスノードームには熱狂的なコレクターがいて、また、自作する方もいるようです。「最上義光の騎馬像」とか「最上義光歴史館」などのスノードームが欲しいところです。そうそう、山形城址内にある山形市郷土館「旧済生館本館」なら、スノードームがピッタリかもしれません。
 以前、雪の降る旧済生館本館を描いた絵が切手になったことがあります。こちらはあたりまえの記念切手で、「1982年近代洋風建築シリーズ第4集」として発売されたものです。ちなみに「旧済生館本館」は、あの漫☆画太郎先生の仕事場となって描かれてもいます(「漫故☆知新」第一話表紙)。是非、当館も先生の仕事場のひとつに加え描いていただけたらと。湾曲した建物、和洋折衷の石庭、モデルが同一人物の二体の裸婦像、どうでしょう。当館の学芸員も、何気に先生の愛読者です。


近代洋風建築シリーズ「旧済生館本館」

(→裏館長日記へ続く)
 山形市で5月8日〜10日、「薬師祭植木市」が開催されます。熊本市・大阪市の植木市と並び日本三大植木市の一つとされています。
 さて、植木市で売り買いされる庭木というと、かつてはツツジなどが人気でした。母の実家では、わずかな庭に3段くらいの鉢棚をこしらえ、ツツジの鉢植えを50鉢くらい並べていて、植木市のたびに手頃なものを1、2株程度買っていたのでしょう。枝ぶりや花の柄の違いでいろいろ買っていたのでしょうが、小さい頃の自分には、全て同じにしか見えませんでした。盆栽のような作りこみをするわけでもなく、育つのに任せている感じでしたが、それでも買い置きの植木鉢が縁側の下にいくつもあり、植え替えに使う砂も一坪程度の小山ぐらいあり、自分は何の砂かもわからず、きっと孫のために砂場を用意してくれたのかと、ありがたく遊んだりもしていたのですが、そのうち猫の糞などが混じったりもしました。
 最近の植木市では多肉植物の寄せ植えなどはよくみかけます。あと植木市ではまだあまりみかけませんが、人気なのはテラリウムでしょうか。密閉されたガラス容器の中で水分が循環し、しばらく水を与えなくとも植物を育てることができます。容器の中には多肉植物とか、最近はコケも人気です。テラリウムであれば湿度管理もしやすく、そこに鉱石とか鉄道模型の人物フィギュアとかを組み合わせて楽しむ方もいるようです。またコケは、植木市ではコケ玉などが売られています。
 コケの世界はなかなか奥深く、「全国博物館園職員録」をみますと、国立博物館のみならず県立博物館でもコケを専門とする学芸員さんがいます。コケの研究者や愛好者は全国にいて、またコケの名所というのもあり例えば京都の苔寺が有名ですが、以前、青森の奥入瀬を旅行したときに、コケを観察するツアーというのに参加しました。そのガイドさんは若い方で、コケが面白くて面白くてたまらない、という感じの方でした。奥入瀬渓流には300種類以上のコケ植物が生息し、日本蘚苔類学会の「日本の貴重なコケの森」に選定されており、コケ観察ツアーには90分のライトと180分のディープのコースがあります。ルーペ片手に見て歩くのですが、自分はコケよりもルーペに愛着がわき、お土産にしっかり買って帰りました。このルーペは顕微鏡や望遠鏡で有名なメーカー品で、単品の他に「コケ観察セット」もあり、ルーペとともにスプレーボトルやコケ観察ガイドブック、ポーチなどがセットされています。コケがなくても気分がでます。
 山形市内にはコケを専門的に扱う会社があり、コケによる壁面緑化などを手掛けています。この会社では「富士の樹海コケ手作りセット」という約25cm四方の箱の中に樹海の複雑な色合いを楽しめるキットなども販売しています。もっとも、これに人物フィギュアを組み合わせてしまうのは、いかがなものかと。
 また、山形市に隣接する町には世界的な緞通メーカーがあり、コケ柄の絨毯があります。緑のまだら色の模様の柄で、なんとなくコケのモソモソ感が醸し出されていて癒されます。これは某国立競技場も手掛けたあの世界的な建築家がデザインしたもので、お値段も世界的な感じではあります。
 それでは最後に、いつものようにことわざを。「転石、苔(コケ)をむさず」ということわざがあります。" A rolling stone gathers no moss."(転がる石は苔を集めない。)というイギリスの諺が由来とのことです。実はこれがなかなかの曲者でして、場面や文脈によって意味が真逆になります。伝統を重んじるかの英国では、「頻繁に住所や職業を変えたりする人は成功しない」という意味でしたが、これが新天地の国アメリカでは、苔は否定的なものとなり、「活発に活動している人は、いつまでも古くはならない、新鮮だ」という意味になります。ということで、あのローリングストーンズは、イギリスでは風来坊とか根無し草となるのですが、アメリカでは活発で新鮮という評価になるのかと、どっちも合っているような。とにかく結構長い間、転がっています。もう、私が生まれた年から転がっています。
 日本の国歌には「さざれ石のいわおとなりて こけのむすまで」とあり、「小石が成長して大きな岩となり、それに苔がはえるまで」続いてほしいと願うものですが、この歌からは昨今、なんとなく「持続可能性」という語が想起させられ、すると現状維持ではだめなわけで、それこそ"like a rolling stone"というか、"How does it feel? "というか、なぜかボブ・ディランに行き着いてしまうのですが、あ〜、グダグダですみません。

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木立に囲まれるような場所にあるカリヨン。35鐘で構成されています。

 当館と隣接する美術館との間の、あまり人気(ひとけ)がない場所に、結構立派なオランダ製のカリヨンがあります。カリヨンとは、音階の異なる鐘が鳴り響くもので、世界カリヨン連盟の規約では「調律された23個以上のブロンズ製の鐘で、バトン式キーボードで演奏する楽器」と定められ、自動演奏も含まれます。鐘にはベル型やチューブ型があり、鐘数が多いものはチューブ型が多いのようです。カリヨンは全国各地にありますが、23個以上の鐘があるものは少なく、ベル型で25鐘ある霞城公園のカリヨンは、実は全国有数の規模のものです。
 ここのカリヨンは春夏秋冬で曲がかわり、一日5回×年4回の20曲がプログラムされています。恐らく既製のものからの選曲なので、ご当地の曲、例えば花笠音頭とか県民歌とかはなく、クラッシック音楽と唱歌とが半数ずつ選ばれています。
 クラッシックは、なぜかシューベルトの曲だけ4曲もあって、それに唱歌の選曲などからも、ちゃんとした音楽環境にあった人が選曲したことが伺えます。特に音楽教育関係者は、シューベルトを必修とし、唱歌を次々と口ずさむことができるのです。特撮ものや深夜放送ばかりで育った私のような者にとっては、このシューベルトや唱歌などの素養は身に付かず、それでも、いい年になってから、あの曲のいわれはどうだとか誰の演奏はこうだとか、蘊蓄をはじめるわけです。
 ではここから、その蘊蓄を。
そのカリヨンで奏でられるクラッシックの楽曲としては、シューベルトの他にムソルグスキーの「展覧会の絵」とかビバルディの「四季」などがあり、それは「プロムナード」からだったり「春」からだったりと、ごく当たり前の部分が奏でられるのですが、モーツアルトのピアノソナタ第11番「ロンド・ア・ラ・タルッカ」いわゆるトルコ行進曲で有名な曲ですが、これはなぜか第1楽章、そう、ソナタだけど変奏曲というあの曲が奏でられます(もちろんカリヨンでは変奏部分までは流れませんが)。また、ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」もありますが、普通ならば素直に第1楽章からもってくるところですが、このカリヨンでは第5楽章「羊飼いの歌。嵐の後の喜ばしく感謝に満ちた気持ち」が前奏付きで奏でられます。この辺がやはり音楽の造詣が深い方のなせる業なのでしょう。
 ところで、ベートーヴェンには「田園」と呼ばれるピアノソナタもあります。ピアノソナタ第15番ニ長調 作品28です。先日、天皇陛下も鑑賞したという仲道郁代さんのリサイタルでは、ピアノソナタ第13番と第14番「月光」が演奏されましたが、これと同じ年に第15番も作曲されています。ちなみに仲道さんにとって第15番「田園」は、桐朋学園高校入試の課題曲とのことですが、ベートーヴェンのピアノソナタはピアノ曲集の新約聖書とも呼ばれていて、普通は卒業発表とか大学入試とかのレベルの曲です。同校の現在の入試課題曲は、バッハの平均律(これはピアノ曲集の旧約聖書と呼ばれています)とモシュコフスキーまたはショパンの練習曲となっています。というか、こちらも普通は大学入試レベルの曲ですが。もちろん「熱情」とか「革命」とかを力技でバリバリに弾く中学生もいるにはいるのでしょうけど。
 仲道さんの第15番「田園」のCDには「ピアノソナタを巡る対話〜諸井誠&仲道郁代レクチャー・コンサート」の様子が収めてあります。仲道さんの部分演奏も交えての大変興味深いもので、まず「この曲の出だしはショパンの「雨だれ」と同じ」というのはわかるのですが、「この曲はソナタ前期のしめくくりであり、ソナタ後期のはじまりとなる」という話には、なんかそうなんだろうなぁとなり、和音の調性や主題の展開の話に続き、「第1楽章の第2主題はどこから始まる」という話では、かなり具体的な説明にもかかわらず素人の私には見当もつかず、その話からの「知らないで弾くということは恐ろしいことで」という仲道さんの言葉は、そのまま「知らないで語るということは恐ろしいことで」と言われているようで、すみません、反省します。

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 「紙本著色遊行上人絵」という最上義光が光明寺に寄進した絵巻物があります。狩野永徳の弟・宗秀の手によるもので、最上義光が依頼したものです。光明寺に文禄3年(1594)7月7日に寄付したのですが、理由があって再度、義光の孫である家信により寛永8年(1631)7月15日に寄付されました。当館では、最上義光没後400年記念の年(2013)に全巻公開し、全10巻を掲載した図録も作成しました。
 本絵巻は、藤沢清浄光寺(通称:時宗総本山「遊行寺」)の絵巻を模写したものですが、元となった絵巻は焼失しています。本絵巻は現在、国の重要文化財として奈良国立博物館に寄託されており、修復にむけて検討がなされています。全10巻の総延長は約170mにもなり、まともに修復すれば数千万円以上を要するらしいのですが、予算にあわせて修復箇所や修復方法などを模索していくようです。
 ちなみに「遊行」(ゆぎょう)とは、僧が諸国をめぐり歩くことです。これを「ゆうこう」と読んでしまうと、遊び歩くこと、あてもなく歩くことになってしまいます。「上人」も「しょうにん」とも「じょうにん」とも読みますが、微妙に意味が違い、ここでは「しょうにん」と読みます。この巻物における上人とは、一遍上人とその後継者の他阿弥陀仏のことで、その伝記の巻物です。
 ここで、一遍上人の人となりを少々。
 一遍は、延応元年年(1239)に伊予国で生まれ、13歳のときに出家し大宰府で修業を開始。25歳で実家へ戻りますが、家庭内の問題に巻き込まれて殺されそうになり、文永7年(1270)に再び仏門に。文永10年(1273)に遊行の旅に出て、「南無阿弥陀佛」を唱え、日本中ほとんどを巡り歩きます。
 「紙本著色遊行上人絵」の中からいくつかの場面を紹介しますと、巻第一には、弘安元年(1278)冬、吉備津宮の神主の息子の妻が、夫の不在中に一遍に帰依し剃髪(!)、帰宅した神主の息子はその姿に驚き怒るも、一遍に接し感銘を受け、自身も帰依して出家する(!!)場面が、巻第二には、弘安元年12月、信濃国佐久郡伴野にて踊念仏を初めて行い、この時初めて紫雲が出現する場面が描かれていたりします。
 全国を遊行するうち一遍と同行する人は増え、常に20名ほどの信者と行動するようになります。彼らを「時衆」と呼びましたが、時宗(時衆)とは、念仏を中国から伝えた善導大師が、時間ごとに交代して念仏する弟子たちを「時衆」と呼んだことによるそうです。ただ、一遍には新たな宗派を立宗しようという意図はなく、「宗」の字を用いるようになったのは江戸時代からのことです。
 一遍が記した書物は一切残っていませんが、その事績は最後まで行動をともにした弟・聖戒が描かせた「一遍聖絵」全12巻や、一遍の弟子・宗俊が編纂した「一遍上人絵詞伝」全10巻、つまりこの「遊行上人絵」のことですが、これらによって今日まで伝えられています。
 続いて山形市にある光明寺のご紹介を。
 光明寺は時宗の寺で、初代山形城主の斯波兼頼(1316-1379)が、城内に草庵を設けたのが始まりとのこと。兼頼が死去するとこの草庵に葬られ、2代直家が寺院を整備し、兼頼の戒名「光明寺殿成覚就公大居士」に因み「光明寺」と名付けました。初代山形藩主の最上義光(1546-1614)が山形城を大改修した際、光明寺は山形城の二の丸大手門前に広大な境内を得て移されました。この敷地には現在、当館があります。元和8年(1622)に3代藩主最上義俊が御家騒動により国替になると、同年、新たに入封した鳥居忠政が山形城の正面に最上家の菩提寺がある事を嫌い現在地に移されました。
 「紙本著色遊行上人絵」が文禄3年(1594)に寄付されたのは、光明寺の本丸から東門前への移転新築という慶事によるものと思われます。(松尾剛次(山形大学人文学部教授)「歴史館だより��21」)。その後、37年後に再度、寄付されることになったのですが、その間にはつぎのような出来事がありました。
 最初、最上義光は京都伏見の最上屋敷にいて、当代一の学僧である一華堂乗阿から、源氏物語や和歌の教えを受けて深く尊敬し、ついには山形に学問を広めるべく乗阿を山形に招請し光明寺の住職へと迎え入れました。乗阿は慶長8年(1603)に第18代の住職として山形に入りましたが、慶長10年(1605)には京都へ戻りました。それ以後光明寺は、寛永3年(1626)まで無住となりました。その間、元和3年(1617)に山形の大火により光明寺が焼失し、元和8年(1622)に3代藩主の最上家信が御家騒動により国替となっています。
 改めて寄進した寛永8年(1631)7月15日は、最上義俊(家信)が亡くなる4ケ月前(享年26歳)でした。義俊の死因ははっきりしないものの、我が身に迫る死期を覚悟しつつ、切羽詰まっての仏心への帰依を願ってのことであったのかも知れません。(小野末三執筆「山形藩主・最上源五郎義俊の生涯」)
 さて、当館随一の豪華図録「遊行上人絵−最上義光没後四百周年全巻公開」 (平成25年9月14日発行)は税込2千円です。送料別で地方発送も承ります。まだ在庫があります。念仏踊りのお供としていかかでしょうか。


当館と同じ敷地にある光明寺跡

(→裏館長日誌)
 4月から6月の期間、月山刀を展示した「鐵の美」展は、想定を大きく超えた来館をいただき会期末を迎えることができました。月山刀は「綾杉肌」と呼ばれる地鉄が特徴で「月山肌」とも言われ、これを目当てに来館された方も少なくなかったようです。
 月山刀について実はその情報が少なく、担当学芸員も苦労していました。月山刀は大量生産の武具のため、伝来や肩書きまして伝説なども少ない。しかしながらその刀工を辿ると平安末期まで遡るといわれ、松尾芭蕉の「おくの細道」にも、月山の鍛冶小屋についての記述があります。「谷の傍に鍛冶小屋と云有。此国の鍛冶、霊水を撰て、ここに潔斎して剣を打、終「月山」と銘を切て世に賞せらる。」月山頂上のすぐ近くにその鍛冶小屋跡があり、現在は「鍛冶稲荷神社」として石組みの祠が組まれています。
 当館の指定管理者である山形市文化振興事業団は、「山寺芭蕉記念館」の指定管理者にもなっています。そこの学芸員Aさんが今年、ほぼ月一で地元紙の連載を持つことになりました。そこで当館の学芸員が月山刀について話題にとりあげてほしいと頼んだところ、「日本刀はわからないから」と言われてしまい、結局、先日の連載記事は「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」にまつわる話でした。まあ、立場上、月山ではなく、まずは山寺のことをとりあげたわけで。
 内容は、この句に詠まれた蝉とは、ニイニイゼミなのかアブラゼミなのか、という論争に関し、学芸員Aさんはほぼ毎年、芭蕉が山寺に訪れた新暦7月13日に蝉の声を確認している、というものです。そして単なる「蝉の声論争」だけではなく、この句のすばらしさについても独自の視点から論じています。普通は、蝉の声をもって閑さを表現したと評論するのですが、学芸員Aさんは、山寺の岩と蝉の声を融合させたことを評価していました。さすが30年以上、この句に寄り添ってきただけのことはあります。
 また、「おくの細道と月山」と言えば、思い出されるのが忌野清志郎さんの話です。
 山形県立川町(現在は庄内町)の東北電力月の沢発電所(廃止)の近くで、2000年12月26日に雪崩事故が発生しました。「月の沢」という場所は、羽黒山と月山との中間にある場所で、月山から最上川に流れる立谷沢川沿いあります。この川では砂金が採れることでも知られています。
 この雪崩で生き埋めになった息子(52)を救出するため、80歳になる父が仲間4人と激しい雪の中、約10キロの雪道を7時間かけて歩き、雪に埋もれていた息子を見つけ救出しました。吹雪で前がよく見えず、積雪も腰くらいまであり一列になって代わるがわる雪かきをしながら進んだそうです。
 このニュースを耳にした忌野清志郎さんは大いに衝撃を受け、息子がピンチのときに、80歳になっても助けに行ける体力をもたねばと、中学の時にロードレーサーに乗っていたことを思い出し、再び自転車に乗り始めました。そして2002年10月、約2,400kmある「おくの細道」のほぼ半分、深川から象潟までを自転車で、10日で走破しました。その時、忌野清志郎さん51歳。しかし2009年5月2日、癌のため58歳で亡くなりました。早いもので来年2025年は17回忌にあたります。
 何年か前に、学芸員Aさんに「キヨシローとおくの細道」展というのはどうかと持ち掛けたのですが、「キヨシローみたいなのは苦手なので」と、とりあってももらえませんでした。まあ、5年先ぐらいまで展示企画は決まっていて変更は難しいのですが。
 それでも学芸員Aさんがポップカルチャーの類には興味がないのかというと、サブカル的なものには大いに興味があり、かつて某美術館と組んで「怪獣と美術」展といういわゆるウルトラ怪獣の原画などの展覧会をやってみたり、とりわけ超常現象は大好きで、芭蕉の句以上にあの専門誌(ム〇)を読み込んでいるようです。彼が最も力を入れている山寺芭蕉歴史館「妖怪展」は夏の定番企画となり、施設最大の集客力がありリピーターもいるようで、今年は例年にも増して開催時期も早く、すでに開催中であります。


チラシ画像を

(館長裏日誌)
 松尾芭蕉「おくの細道」でも知られている山形市山寺の立石寺には、最上義光とその家臣10人の位牌を納めた厨子を安置する「御霊屋(おたまや)」があります。義光公の没後すぐに建立された県内最古級の御霊屋なのですが、何度か改修がなされているものの損傷が激しく、降雪時には倒壊の危険性も指摘されている状態です。この度、この御霊屋の修繕に向けた機運を高めたいと、郷土史研究会主催の研修会が開催されます。
 山寺と最上家とは代々深い関係があり、初代山形城主となる斯波兼頼が延文元年(正平11年、1356)に羽州管領として入部し、根本中堂を再建したことからはじまります。実はこれ、山寺が山形城の鬼門鎮護の位置にあることに起因するといいます。(伊藤清郎(山形大学教育学部教授・文学博士)/歴史館だより��10)後々、最上義俊公(最上義光の孫)が元和7年(1622)に、それまで城内にあった熊野神社を山形城の鬼門(北東方向)にあたる現在地(六日町)に遷座しました。
 鬼門というのは艮(うしとら)つまり北東の方角です。鬼が出入りし、災いがやってくる方角と考えられています。都や幕府の鬼門に当たる方角には、鬼門除けとして寺社が多く建てられました。古くは奈良時代の平城京において鬼門の方角に東大寺が建立され、都市を守る魔除けとされました。京の平安京においては比叡山延暦寺が、江戸においては東叡山寛永寺が鬼門除けの役割を果たしているそうです。山寺の創建は平安時代初期(9世紀)に遡ることから、山形城においては、すでにある寺社を鬼門除けとした形です。
 また、鬼門の反対側となる坤(ひつじさる)つまり南西の方角を裏鬼門といいます。裏鬼門は、複数ある鬼の通り道の中でも最後に鬼が出ていく場所とされ不吉な方角となります。京都の裏鬼門にあたる位置には、石清水八幡宮が配置されています。逆に、巽(たつみ)と乾(いぬい)つまり東南と西北は吉の方向で、天守や城主の住む館を建てました。
 城郭の鬼門除けは、桃山時代から見られるそうです。その方法は、寺社や祠を置いたり、不開門(あかずのもん)を築いたり、堀や石垣の一部を欠落させたりなどです。さらに角を欠落させる方法には二種類あり、角を斜めに欠き取ってしまう方法と、入隅とよばれる隅を内側に直角に入り込ませる方法があるそうです。
 この鬼門除けで有名なのが、京都御苑の御所の北東の「猿が辻」と名付けられている角塀です。京都御所の鬼門である北東方向には比叡山延暦寺があり、比叡山の滋賀県側の麓に、延暦寺の鎮守社である日吉大社があります。この日吉大社の召使が「猿」で、京都御所に遣わされた猿の像が、その角塀の軒下にあるため「猿が辻」というわけです。
 烏帽子をかぶり御幣を持つこの猿は、鬼門除けの役割であるにもかかわらず、夜な夜な辺りをうろついては通行人にいたずらをするため、金網で囲って封じ込めたといわれています。日吉大社の神の使いは「神猿(まさる)」といわれ、まさる=魔が去るに通じ、縁起が良いとされます。また、鬼門とは反対の方角が申(さる)であることから、猿の像を鬼門除けとしてまつるところが他所にもあります。
 さて、ご当地の山寺では、わざわざ猿の像を置くまでもなく本物の猿が少なからず生息しています。その猿による果樹や畑の被害も年々増えている状態です。電気柵などの対策も講じてはいるのですが、それを容易く乗り越える猿もおり、「作る端から被害にあい、もう農業をやめたい」という農家の方の声すら耳にします。猿を鬼門除けとして尊重すべきか悩ましいところではありますが、ここで孔子の言葉でも。「務民乃義、敬鬼神而遠之〜民としてやるべきことに努め、鬼神には敬意を払いながらも遠ざけよ」ということで、鬼門除けよりもまずは生活優先ということでしょうか。


山寺全景(山寺芭蕉記念館提供)


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