最上義光歴史館
![]() 雪の帽子と襟巻をした最上義光像 ![]() 寒中の最上義光騎馬像 (いずれも撮影1/6) 新年あけましておめでとうございます。当館では1月15日から企画展「シン・市民の宝モノ2026」として、「馬」をテーマに開催します。今回のテーマを馬としたのは、今年の干支が午であることはもちろん、最上義光が丙午生まれであることによるものです。市民の皆様から、ブロンズ像や武者絵、絵馬やハズレ馬券まで、馬にまつわる様々な出品をいただきました。是非ご覧いただければと思います。 さて、ここで馬に関する山形ローカル話でも少々。 当館のすぐ近くに初詣などでも賑わう豊烈神社というのがあり、幕末の山形藩主の水野家が祀られています。水野家祖先の忠元公の命日である10月6日には、神事として「打毬」が行われます。6騎の騎馬が紅白に分かれ、紅組は赤い毬を、白組は白い毬を馬上から網の付いた杖ですくい上げ、毬門の的穴に投げ入れます。ペルシャ発祥で平安時代に日本にも伝えられた競技で、英国の「ポロ」も起源は同じです。山形県指定無形民俗文化財で、他に宮内庁と八戸市の長者山新羅神社との3カ所だけに残っているものです。豊烈神社の打毬会場は狭い敷地ゆえ、馬を駆るにはなかなか大変なのですが、間近で観ることができ、親しみやすい実況中継もあります。 また、山形県最上地方には「ムカサリ絵馬」というものがあります。絵馬は、神様への感謝や祈願として生きた馬(神馬)を奉納していたものが、土馬、木馬、そして木の板に馬の絵を描いたもの(絵馬)へと簡略化されたものです。「ムカサリ絵馬」は、結婚せずに亡くなった子供のために、親などが子供の結婚式を絵馬にして奉納するもので、江戸時代から続くものです。古い絵馬には当人だけではなく媒酌人などの立会人も描かれていましたが、近年のものはツーショットが主流とのことです。ただし、生きている人を描いたり名前を書いたりすると、その人もあの世に連れていかれてしまうとのことで、これはタブーとなっています。 さらにローカルネタを続けますと、山形市の北方に隣接する天童市は、将棋駒の生産量日本一ですが、ここが発祥で「左馬(ひだりうま)」という縁起物があります。大きな駒に「馬」の字を左右反転して書いている縁起物で、「うま」を逆に読むと「まう(舞う)」ということで、めでたい、馬が人を引き寄せる(商売繁盛)、馬は左から乗ると倒れない(人生でつまづかない)などの意味があるそうです。新築祝いや開店祝いに贈られたりしているもので、大小さまざまですが、天童市内のラーメン屋、蕎麦屋などの飲食店には必ずと言っていいほど置いてあります。この「うま」を「まう」というのは、「ウゴウゴルーガ」と同じ言い回しといいますか、これは「ゴーゴーガール」のことですが、「おきらくごくらく」という意味があるとかないとか。 一方、山形市の南方に隣接する上山市にはかつて、上山競馬場という地方競馬場がありました。1935年から競馬が開催され、1958年に上山市が運営するようになりました。高度成長期は地元温泉とともに活況を呈し、バブル景気の1980年代最盛期を迎えました。上山市の財政はこれで、県内一といっていいほどに潤い、実際、市立小・中学校の校舎や設備などは、山形市などとは比較にならない立派なものでした。しかしバブル崩壊後、地元温泉などの観光不振による歳入減で財政的な危機に陥り、競馬場自体も存続困難となり2003年11月に終了しました。 上山城郷土資料館では1月12日(月・祝)まで「かみのやま競馬関係資料展」が開催されています。上山競馬の初開催から90周年を記念した企画展で、上山競馬場の往時の写真や騎手のウェア、思い出の品々など約100点が展示されています。好評につき会期が当初予定より1か月以上延長されました。 上山競馬場をロケ地にした映画・TVなどポスター類も展示してあり、そこに「喜劇競馬必勝法」という映画のポスターがあります。1967年に東映が送り出た作品で、ちょうど60年程前、世の中はギャンブルブームだったそうで、それに乗じてシリーズものとして企画されたそうです。主役は谷啓と伴淳三郎、その他もオールスターばかりで当然のようにヒット。その後のシリーズ作品では、谷啓と伴淳三郎は役柄を変えながら出演しました。そしてシリーズ三作目となるのが上山競馬場を舞台に製作された「喜劇競馬必勝法一発勝負」(1968年)です。谷啓が競馬場所長、伴淳三郎が嘱託獣医、大橋巨泉がペテン師を演じ、つまりは「ガチョーン」と「アジャパー」と「ウッシッシ」が上山競馬場で一堂に会する作品というわけです。出演する女性俳優も、橘ますみや杉本エマという知る人ぞ知る魅惑的なキャスティングであります。 上山競馬場で個人的に思い出すのは、私の祖父が亡くなったとき、束になった大量のハズレ馬券が茶箪笥の引出し一杯に見つかりました。遺産らしきものがなかったのはこれかと。見事な終活とも言えるのかもしれませんが。それにしても普通、ハズレ馬券というのはとっておくものなのでしょうか。 (→館長裏日誌へ続く) |
![]() 市民の皆様に出品いただいた「宝モノの馬」 1月15日から開催中の「シン・市民の宝モノ2026」には、幅広く様々な出品をいただいております。鋳物や木工細工、切手やジャンパー、馬券まで、ひとひねりを加えていただいた展示品も数多くあります。 さて、前回の館長日誌は、最上義光とは関係のない話題がほとんどでしたので(これは前回ばかりではありませんが)、今回は直接関係する話を中心に。まずは、義光という名前への返礼品が馬という話でも。 最上義光は丙午の年1546年(天文15年)正月生まれで、幼名は白寿丸と言い、1558年(永禄元年)に13歳にて元服。将軍足利義輝から「義」の字をもらい義光としました。その御礼として翌年、父の義守は将軍に馬を献上しました。将軍義輝は「出羽国最上山形孫三郎」が献上した馬が無事に通過するように、越後の長尾景虎へ往来の便を図るよう命じています。(六月二十六日、足利義輝御内書、上杉家文書)。 「偏諱(へんき)」、つまり目上の人の名前の一文字をもらい受けることですが、その御礼となると馬とかになるということで、しかも、その送達には、関係者への協力要請もなされるという、結構、大掛かりなことではあります。 さらに馬にかかわる話としては、「最上記」に「於天堂原馬揃之事」というのがあります。「最上記」は、1634年(寛永11年)に成立した最上義光公のいわゆる軍記物であり、それはまた「義光の伝説化の原点」となるものです。以下、その要約です。 1602年(慶長7年)1月15日に義光公は「来る四月、天童原に於いて馬揃えを催す。」として、「直参の家臣は申すまでもなく、家中の者までも日頃馬を嗜んでいる者は、残らず参加すべし。ただし、本荘豊前守をはじめ在番衆280騎は参加の必要はない。そのほか参加する者どもは前以て山形へ来て名簿に記帳のこと」とのお触れがだされた。御旗本はいうまでもなく家中の者までも馬を嗜んでいる者は、ここを晴れの場と用意し、当日は天童原へ虎の刻(午前4時頃)より参集した。この度、名簿に記帳した馬揃えの参加騎馬数は合計3,727騎であった。 催しには近国から来て集まった見物人が幾千人。義光公も卯の上刻(午前6時頃)に城を出発、御供としては近習衆や小姓並びに器量のよい若者30騎を選り抜き、みな同じ袖なし羽織を着せて召し連れた。 予定どおり城持の重臣たちから乗り始めようとしたところで、義光公が「今日は延引いたそう」と仰せられ、にわかに帰城してしまった。集まっていた者皆が不審に思い、「そもそもこの馬揃えは、数ケ月以前よりの御催しであるのに、にわかに御帰城なさるとは、なにか御気分でも悪いのでは」と心もとなく思い、我も我もと山形へ駆け付けた。 そこへ「今日の馬揃えが延期となったのは、みなの者が心配するような事情ではない。急いで帰られよ」と、家臣を通して仰せられたのでその言葉に従い私宅へ帰った。 後に若侍衆が大勢寄り集まったとき、「今度の馬揃えは、かねての日よりのお触れであるから、しっかり御目に入れようと思って、我こそはと準備いたしたのに、延期となったのは本意ないことよな」と、つぶやいた者があった。これに対して、ある者が申した。「つらつら義光公の御心底を想像してみるに、御遊覧のため馬揃えを命じられたのではあるまい。近年は天下が穏やかで、狂言綺語の戯ればかりが盛んであるから、自然、武具馬具の嗜みもおろそかになってはいまいかと思し召し、馬揃えにことよせて、武具馬具の古くなったのを改め申すようにとのお考えなのだろう。この企画はかねてからの催しであるから、近国の諸大将は、最上の騎馬数を知ろうとし目付け役を寄越したのは確かなこと。だからといって見物を禁止とするのも度量の狭い感じで、そんなことからにわかに帰城なさったのではないか。そのゆえに上下が混乱し、われ先にと山形へ馳せ着いたために、見物人も騒ぎ立てて収拾つかぬ状態だった。それがために他国から来た目付け役の方々も何も見所なく、空しく帰ったということだ。それなのに、大将の深い考えも知らず、口に任せて左様なことを語り給うな」と注意したので、聞く人は、なるほどもっともなことだ、と申したのであった。 この話は昨今にも通じる含蓄に富んだ話です。中国故事のような格言になってもよいくらいかと思うわけで。「天童原の馬揃え」ということで。これは、大規模なイベントを理由に、建物や物品をリニューアルする、という意味になろうかと、あるいは、本当の目的は別にある、という意味にも。使い方としては、「今度、本部からエライさんがくるけど、昼食はどうしようかね。」、「山形牛の焼肉弁当とかどうでしょう。せっかくなので皆の分も。」、「なんか天童原の馬揃えだなぁ。」という感じでしょうか。いや、ちょっと違うぞ。それは単なる便乗では。 (館長裏日誌へ続く →) |
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先日、徳島市在住の最上家ゆかりの方から、書簡や連歌などの資料および刀剣を山形に預けたいとのお話をいただき、連歌を専門的に研究されている山形大学の先生とともに当館学芸員が徳島のご自宅に伺いました。計100点近い資料で、先に文書類だけを山形に送り、詳細を調査しているところです。特に連歌関係の資料には貴重なものもありました。
そんな折、今年の山形県の高校入試の国語の試験では、連歌にかかわる出題がありました。しかも古文ではなく現代文で「AIと連歌を巻く」という題の評論です。歌人で細胞生物学者でもある永田和宏さんが「京都新聞」の日曜のコラム「天眼」に執筆されたもので、2023年11月5日に掲載されたものです。まずはこれを高校入試にした出題者のアンテナの高さに脱帽してしまうわけですが、話題がAIであることもさることながら、そのタイトルにある「連歌を巻く」という言葉にも受験生は面喰ったのではないかと思います。 以前この館長日誌でも、連歌とAIについて少々触れたことがあり、そこではAIとからむのは何年か先の話かな程度の認識でしたが、永田さんは「AI と連歌を卷いてみませんか、という魅力的なお誘いをいただき、先日東京でその会に参加してきた。」とのことです。ちなみにこの「巻く」というのは、連歌を行うことを言い、詠まれた歌をすべて懐紙に記録しそれを「一巻」と数えることに由来します。ついでに、連歌の途中のことを「まきかけ」といい、なかなか句を続けられないことを「まきあぐね」といいます。 さて、その出題文では、「AI生成文は、ある言葉が来た時に次にどんな言葉が続く確率がもっとも高いかを割り出してつくるので、既視感があるとか優等生的などと評される。しかし、短歌や詩では.そのような言葉の続き具合をもっとも嫌がる。そして、私たちが持つ言葉は、現実の世界に対応するには隙間だらけなのであり、あえて表現されなかったものにこそ思いを致す、実はそれこそが「読む」という行為なのである。隙間を読むことが大切なのである。その意味で、創作という行為、そして読みや鑑實という行為は、人にしかできないものと言ってよい。」としながらも、「その連歌であるが、当たり前の言葉の付け方にならないよう確率の低い語の選択を許すなど、いくつかのチャレンジをその場で模索しながら、会場と一体となって進行した。圧倒的なAIの進化の速度を考えると、一年後に対戦してみれば、結構、互角の応酬が期待できるのかもしれない。」と結びます。 連歌には、その決まり事をまとめた「式目」があり、これは言ってしまえば連歌をつまらなくしないためのルールなのですが、そこには使用回数が限られる言葉やら、月や花の句がくる位置とか、同じ字や同じ景事を続けないなどとあります。ただ、こうしたことに従うだけなら、むしろAIのほうが間違いないでしょう。しかし語句の選択にあっては、確率の低い語を選ぶだけではきっとだめで、これは芸人さんで言えば、そのままのオチばかりのギター侍ではなく、かと言ってコウメ太夫の次元ではどうなのかということなのです。 さらに連歌の展開にも課題があります。例えば発句(1句目)は季語を詠みこみ、脇句(2句目)は、発句の方向性を変えないように添えるように付け、第三(3句目)では、発句と脇句を転じ季節も変えて詠みます。また、連歌にも序破急があり、連歌を記録する懐紙は百韻の場合4枚用いるのですが、1つ目(初折)は序としてしとやかに、2つ目(二折)はさぬき句という賑やかな句を、残り(三折・名残折)は逸興ある句をとなっています。句と句の関係までならある程度プログラム化できそうですが、序破急となると全体の流れが見通せるものが必要となり、どのような句が「序」でどのような句が「急」なのか、これも単なる語句の出現確率の問題だけで対応できるものとは思えません。それでもそのうちAIは、「しとやかな句」とか「賑やかな句」などをなんとか形にしてしまうような気もします。 (→裏館長日誌に続く) |
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俳優の西田敏行さんが先日、お亡くなりになりました。西田さんというと、猪八戒だったりカメラマンだったり釣り人だったり、そうそう、タブチくんもやっていましたが、あの大河ドラマでは家康や秀忠、吉宗役などを務め、秀吉にも扮していました。
大河ドラマと言えば最近、最上義光が主役の大河ドラマをという活動をされている団体の方々がお見えになり、短い時間でしたがお話をしました。 主に「山形市史」にあることを話題としたのですが、そもそも最上家は、地方の豪族から発したものではなく、清和天皇や足利一族につながる血筋ゆえ、義光は良くも悪くも中央志向がありました。ゆえにその文化などに憧憬をもち、また京都などにいることも多かったことから、連歌師や僧などと連歌などを嗜むなどしていました。 また、領土安寧のために信長・秀吉・家康などへの接近をはかりました。当館の重要展示品である鉄砲痕のある兜は信長より賜ったものであり、秀吉には奥州仕置きの際にみずから妻子を人質として渡し、秀次には駒姫を側室として嫁がせ、家康には次男の家親が10歳のとき徳川家康の家臣として仕えさせます。当時の戦国武将としては特別なことでないかもしれませんが、東北の大名としては中央政権との接触が著しいのです。特に義光(1546-1614)と家康(1543-1616)とは全く同時代であり、義光は亡くなる3カ月前にも病を押して駿府城に家康を訪ね、家康から薬や見舞いを賜るなどしています。 ここからもわかるとおり、義光や山形だけをクローズアップするのではなく、信長・秀吉・家康との関わりや都での過ごし方、伊達や上杉といった大名との関係を描くことがドラマの鍵になるということです。 また、義光の生涯を物語るにあっては、2歳下の妹の義姫が不可欠な登場人物となります。伊達正宗の母でもあり、また戦などでも重要な役割を担う人物で、そのエピソードは義光以上に興味をそそられます。ドラマ化においては、むしろ彼女を中心にして物語を進めた方が面白く、そしてまた、狂言回し的な役やナレーション役も担えそうです。などという話となりました。また、さまざまな武家に出入りできる連歌師は情報屋でもあり、妙味のある役どころではという話も。 実はここだけの話ですが、館内展示の案内をするとき、義光だけの話では上の空でも、伊達や上杉(直江兼続も)の名前を出したとたん、話の食いつきが違います。また、地方を舞台にしたとき、お国自慢的なドラマになってしまうと、ほとんどの場合失敗します。話の流れが分断したり、鼻についたりするためです。地方が舞台のドラマ場合これが重要で、聖地だとかなんだとかは結果としてついてくるものです。 さて、大河ドラマで最高の視聴率を誇ったのが「独眼竜政宗」です。「独眼竜」というのは、唐の猛将で隻眼の李克用が「独眼竜」と言われていたことに由来する呼称です。一方、義光は「虎将」と呼ばれています。これは義光が慶長十六(1611)年3月に従四位上左近衛少将に叙任され、その中国の官称である「虎賁郎将」に由来します。 ここで勘のいい皆様はお気づきのこと思われますが、この二人を合わせると、なんと「タイガー&ドラゴン」となります。つまりはあのドラマか、ということで、なんとなく西田敏行さんにもつながります。とは言え、大河ドラマのタイトルとしてさすがに、このままこの「タイガー&ドラゴン」とするわけにもいかず、例えば「みちのくタイガー&ドラゴン」というのではどうでしょう。う〜む、やはりこれでは、一気に力が抜けてしまう感じですが、福島出身の西田さんはどう思われるでしょう。 ところで時代劇というと、最近はどうも下火とのことですが、そんな中、最近話題になっているのが「タイムスリッパ−侍」という映画です。幕末の会津藩の侍が、長州藩の侍と刃を交えたとき雷に打たれ、現代の時代劇撮影所にタイムスリップしてくるという話です。低予算でスタッフが出演者も兼ね、撮影所の場所も人もその面白さに商売抜きで協力した作品とのこと。 おっと、ここで閃きました。ならば、「タイムスリッパ− タイガー&ドラゴン」というのはどうでしょう。義光と政宗が雷に打たれて現代に。その、大河ドラマとしては絶対に無理とは思いますが。せめてテーマ曲でも一節。〽トンネル抜ければ〜ぁ、山が見えるから〜ぁ、そのままドン突きの〜ぉ、長谷堂城址で〜ぇ。ダメですよね、やっぱり、スミマセン。 (館長裏日誌) |
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当館では、来月から開催する企画展「シン・市民の宝モノ2025」にむけて、山形市民の方から「宝モノ」とする品々を募集しています。今回は陶磁器を対象とし、古今東西、文化的評価にかかわらず出品いただけます。ただ陶磁器限定ということで、最近、流行している土偶や埴輪などの土器は、対象外となるので、また別の機会にでも。
この「市民の宝モノ」展は以前、10年間程毎年開催していたのですが、一時中断となり6年ぶりに再開するため、「シン」という言葉をつけました。流行に遅ればせながら乗ってみただけなのですがお許しください。 さて、陶磁器といえば、壺や皿から人形や貯金箱までいろいろあろうかと思いますが、まずは茶碗あたりのお話から。茶碗と言えば「一楽、二萩、三唐津」などと言われており、まあ、その上には唐物とか高麗の茶碗があるのですが、まずは楽焼のことを少々。 この「楽焼」という名称ですが、「楽しい焼物」とか「楽ちんな焼物」とかいうことではなくて、まあ、そんなところもあるかもしれませんが、千利休が瓦職人であった長次郎に作らせたのが始まりです。長次郎が聚楽第の瓦を製造したことで豊臣秀吉から楽の印判を賜り、聚楽焼と称したといいます。また、聚楽第建造時に掘り出された土(聚楽土)で茶碗をつくったからともいいます。千利休と聚楽第のいずれも豊臣秀吉とは切っても切れない関係であり、つまり楽焼の発生は、戦国時代の最中にあります。 楽茶碗は、轆轤(ろくろ)を用いない手捏(づく)ね、つまりは手の中で茶碗の形をつくり、箆(へら)で形を削り上げます。掌にしっくりと納まり、やや肉厚であるため、熱の伝導を抑えられ飲み口の触感もいいのです。素焼きの後、釉薬(ゆうやく・うわぐすり)をつけ本焼きします。楽茶碗には主に「赤楽」と「黒楽」があり、赤楽茶碗は800℃程度、黒楽茶碗は1000℃程度で焼きます。 伝統工芸などは通常、一子相伝などで代々その技法が伝えられていくものですが、楽家の場合そうした技術伝承はなく、むしろ先代と同じ作風を良しとしないという特徴があります。長次郎の時代からの「手捏ね」という技法こそ守られますが、その他は個人に委ねるもの、例えば、釉薬の調合については教えもせず、書き残しもしないそうで、試行錯誤で作るとのことです。結果、同じ楽家の楽茶碗と言っても、代々それぞれ違うものとなります。 京都にある楽美術館は、展示室はこじんまりとしていますが、初代長次郎から当代(今は16代)吉左エ門まで代々の楽焼が展示されています。同じ場所に代々の作品が並ぶと、その違いがわかります。それは先代と当代とが新規と回帰とを振り子のように行き来している感じもします。一番分かりやすいのは14代吉左エ門(覚入)と15代吉左エ門(直入)と比べたときの違いです。14代の安定感のある作風に対し15代はそれまでの楽家にはない前衛的なものですが、15代に言わせると、自分は初代長次郎に立ち戻ったものであるとのこと。なるほど、今でこそ、長次郎の作品は茶道の王道のように思われているわけですが、当時、珍重されていた唐物などの茶碗からすれば、ざらざらとして真っ黒い茶碗などとんでもなく斬新なもので、それを考えれば納得できます。 15代の茶碗には、焼成温度を1,200度まであげる「焼貫」という技法で仕上げたものがあり、それはまさに大気圏を突き抜けてきた隕石のような趣があり、その形も飲み口をどうするかわからないような険しいものです(本人は飲みやすいところを飲み口にすればいいと語っていましたが)。14代のオーソドックスな作風からアグレッシブな15代となったとき、正直、かなり面喰ったのですが、作品を見ていくうち、その技法や考え方に圧倒されることしきりで、現代の作陶そして伝統の継承とはこうあるべきだろうなと勝手に思うに至っています。 さてここで、茶碗の良し悪しについて少々。以前、楽茶碗を作っている方からきいたことによると、まず見た目より軽いこと。つまりは無駄に分厚い茶碗になっていないことです。そして外側より内側が大きく見えること。物理的にはあり得ないのですが、確かに内側が大きく見える茶碗があります。また、高台がだらしのないものでないこと。気持ちが抜けている高台というものはなんとなくわかるものです。単にきれいな細工だからよしということでもありません。高台際の釉薬の具合が見所という茶碗もありますが、高台に釉薬がかかっていないものもあります。茶碗の見所は見込み(内側)と高台だとは言われていますが、見込みと高台の両方を見るとかは展示では困難で、お道具拝見などで手に取って重さなどもはじめてわかることではあります。もちろん、色合いや様子には、好みや偶然性もあるので、それぞれかと。 思わず楽茶碗について云々してしまいましたが、今回の「シン・市民の宝モノ」展は、何もこういう品物ばかりを求めるものではなく、古今東西、エピソードに溢れた身近な品こそ大歓迎です。特に茶碗などは「伝」や「写」などが少なからず流通しているのですが、いっそ、楽吉左エ門ならぬ楽吉右衛門とか、加藤唐九郎ならぬ加藤唐十郎とか、北大路魯山人ならぬ北大路魯仙人とか、堂々とした珍品迷品があれば、それはそれで話題にもなるというものです。 (→館長裏日誌へ) |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum






「パンがなければケーキを食べればいい」という有名な言葉がありますが、「米がなければラーメンを食べればいい」と山形では言われている、わけはなく、むしろ地元大学では最近、ラーメンを週3回以上食べると死亡率は約1・52倍になるという調査結果を発表しました。
さて、某大河ドラマでは今、米騒動の話となっていますが、これがまた今の時代に不気味にシンクロしていて、政権混迷というあたりも似ていて、「令和の百姓一揆」という動きもあり、あとに続くのは打ち壊しということでしょか。ドラマの脚本は半年以上前にできあがっているはずで、けっして今の状況を織り込めるはずはないのに、そんな指摘がネット上にありました。
ところで時代劇などを見て思うのは、そこで食べている米のことでして、「べらぼう」では長屋住まいでも白米を食べていて、しかしながら当時、地方では米すら口にできないという話もあります。これを調べてみると「江戸時代、白米を普通に食べていたのは江戸や大阪などの大都市の人だけです。日本全土にわたって白米が常食されるようになったのは戦後ですよ。」とネット上にありました。「戦後」というのはどうかとも思いますが、確かに戦前を時代背景とする小説などでは「銀シャリが食えるのはありがたい」などという話がよくでていますし、あの「おしん」では大根飯でした。他にネット上
には、農村部で白米を食べるのが当たり前になったのは明治になってから、ともありました。
さて、八代将軍の徳川吉宗(1684〜1751)は「米将軍」とも呼ばれ、享保の改革(1716〜1746)により米の生産を拡大し、武士階級だけでなく時には農民も白米が口にできるようになりました。しかしながら、収穫米の相当部分は年貢として徴収され、農家に残るのは自家消費と種籾・翌年用の備え程度。そのため農村の日常の主食は粟・稗・麦などの雑穀が中心で、白米はハレの日のご馳走という位置づけでした。しかも1732年(享保17年)には冷夏と虫害による「享保の大飢饉」が、1782〜1788年(天明2〜8年)には悪天候と浅間山噴火による「天明の大飢饉」が起きています。
大名の領地は「何万石」で表されますが、武士の給与も米で支給されました。目安として1石は成人男性の1年分の米(約150kg)で、家で消費する以上の分は売却して現金化し、生活物資の購入などに充てました。一方、各藩の年貢米は江戸・大坂・京の蔵屋敷へ集められ、市場に放出されました。それを精米したものが小売りされ、都市部の町人や職人が買い求めました。その食べ方は、とにかく多量の飯(1日5合とも)を食べて、おかずは漬物程度。豊かさを競うように白米ばかりを食べたので、米糠に含まれるビタミンB1が摂取できなくなり「脚気」になる人が増え、これは「江戸患い」とも呼ばれました。江戸に出てきた藩主がこれにかかり、地元に戻り食事も元通りになると治ったこともあったそうです。
また江戸時代では、精米技術も向上しました。従来の杵を手にしての米搗きだけでなく、足踏み式の「唐臼」が中国から伝わりました。木臼が石臼になり作業効率が飛躍的に伸びたそうです。また、玄米のままでは火の通りが悪いため白米が求められました。
一方、地方では、玄米に近い分付き米に雑穀などを混ぜて食べていたそうです。
実質100万石とも言われた仙台藩の事例ですが、「農民は年貢以外の貢租を納めるため米を換金せざるをえず、村には食料にするための米がわずかしか残らなかった。江戸の庶民が普段、仙台米を食べているときに、仙台藩の農民の主食は、麦・粟・稗・大根・大根の葉などをいれた「カテ飯」であった。白米だけのご飯は「いっそ飯」または「えっそ飯」と呼ばれ、正月などめでたいときに食べるごちそうであった。おかずは漬物と梅干、それにみそ汁が基本であり、みそ汁には具の野菜をたくさん入れておかずにした。」との記録があるそうです。
1796年(寛政8年)に出された「昇平夜話」という武士の教訓書には「東照宮上意に、郷村の百姓共は死なぬ様に、生ぬ様にと合点致し」とあり、東照宮上意とは徳川家康が言ったことには、という意味ですが、家康云々は別として、この時代の統治のあり方、年貢の取り方がうかがい知れるものではあります。
ということで、「べらぼう」で江戸に住む長屋の庶民が白米を食べるのは、時代考証的に合っているのですが、地方回りをしている水戸黄門では、武家以外で白米がでてきたらこれはどうかとなります。ちなみにある放送回で、黄門様御一行が貧しい村人の家に宿を求め、そこでの食事は囲炉裏にかけられた鍋にある雑炊のようなものだけだったのですが、これを食べた助さんだったか格さんだったかが思わず「ウッ、ウッ、これは」とその不味さに顔をしかめるシーンがあり、やはり間違いのない演出ではありました。
(→ 裏館長日誌に続く)