最上義光歴史館

 前回、前々回と他館の展覧会の紹介が続いてしまいましたが、ここで当館の企画展示の紹介も。10月2日から来年1月5日の期間、「最上義光と連歌 〜文化人たちの集い〜」と題して連歌資料を展示しています。最上義光は連歌を得意としており、義光および連歌会で一座した文化人たちも紹介しています。
 とは言え、連歌を読み下し、その背景までを理解するのは、なかなか大変でありまして、当館学芸員も、どう展示解説したらいいのか苦労していました。先日、「歴史探偵」という番組で最上義光をとりあげていただき、そこで、ある連歌にある「変わらじとのみ 契りつる仲」という句が紹介されていました。この句に続けて義光が詠んでいるですが、現在その原書を展示しています。それを見ると「可ハらしと乃ミち起り津る中」と書きつけてありまして、変体仮名などが暗号のように並び意味を読み取るだけでもなかなか難儀です。そこから、この元歌はもしかして、源氏物語の松風あたりのあの句かしらん、などと推測していくわけです。資料研究の醍醐味ではありますが、これを一巻につき100句、まさしく100本ノックという感じで、それなりの気力と体力が求められます。


何路連歌百韻「変わらじと〜」部分


連歌巻、連歌写本、連歌新式 等を展示

 ということで今回は、本来ならば連歌をネタに引っ張りたいところではありますが、まずは読書の秋ということで、江戸時代の本のご紹介でも。とりあげるのは「可笑記」、「土芥寇讎記」、「松平大和守日記」の3冊で、いずれも江戸時代の史料としてはよく知られた本ではあります。正直、私自身としては斜め読み程度での紹介で、しかも内容的には最上義光とあまり関係ないのですが、多少、山形と関係のある本であります。
 まずは、「可笑記」。ちょっと変わった表題ですが、その由来は序文に「浮世という川の波に漂うひょうたんの、浮きに浮いた心にまかせ、よしあしの分別なしに、難波入江の藻塩草をかき集めたような冊子」、「読者の笑い、手を拍つことは必至。ゆえに名づけて『可笑記』と呼ぶ次第」とあります。自分の著作を卑下するとともに、時の権力者への批判の言説をくらまそうとしたのでは、とのことです。
 著者は如儡子(にょらいし)とありますが、本名は斎藤清三郎親盛といい、父の盛広は最上義光に仕え、親盛自身は義光の子・家親の近習衆となります。親盛という名は、元服のとき家親から一字を与えられたものでしたが、最上家の国替により、父子とも浪人となってしまいました。その生活は安定せず、本作では、「浪人払い」という新たな法度に対し批判的に書かれるなどしており、浪人の苦労が偲ばれるものともなっています。
 この「可笑記」は全5巻280段からなり、「徒然草」の近世版ともいわれ評価されています。武士のみならず一般市民にまで多くの人に読まれ、その後、多くの追随作品を生み、井原西鶴も本書に倣い「新可笑記」というものを発刊しています。この活字本は、「仮名草子集成」第十四巻(1993年東京堂出版)に所収されています。また、140段程度を選抜し「可笑記」の解説も付いている本も1979年に教育社から出版されており、中古で千円程度で入手できます。
 続いて「土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)」ですが、この書名は「孟子」卷之八にある「君の昆を視ること土芥の如ければ、則ち臣の君を視ること寇糧の如し(殿が家来をゴミのように扱えば、家来は殿を親の仇(かたき)のようにみる)」からとられています。ただその内容は、元禄3(1690)年頃の諸大名242人について書かれた紳士録のようなもので、単なるプロフィールにとどまらず、文武の素養、近親・世間の評判、性癖、領土の産品まで記されています。全国諸藩を同時期に調査し、その町中の噂すら採取されていることから、複数の著者によるものらしいですが、それが時の幕府や徳川綱吉の命によるものなのかは定かではなく、前書きも奥付も全くない史料のため、目的などいまだ不明の史料とのことです。
 「土芥寇讎記」の記載項目は、その出生、官歴、家族縁者、家臣、居城、領土、特産物、行状(才知、文学、武道・武芸、人遣い、仕置、性傾向、智愚、逸話、世評)などです。内容的にはなんとなく「ミシュランガイド」と「地球の歩き方」を足したような感じでしょうか。この活字本も出ていて、新人物往来社刊で定価6,500円です。古書店ではこの定価以上の値で販売されているようです。
 山形城主としてこの「土芥寇讎記」に載っているのは松平直矩(なおのり、1642〜95)で、徳川家康の男子直系の曾孫です。父の直基(なおもと、1604〜48)も山形城主(1644〜48)になったことがあるのですが、直基からそのまま直矩に引き継がれたものではなく、直矩は直基の長男ではありますが、山形城主(1686〜92)となるまでに、別の城主が3代も交代しています。直矩は父の代から7度もの転封があり「引越し大名」とまで言われるほどですが、その親子がそれぞれ山形に着任しているわけで、そこは脈絡もなく次々と城主が変わる山形城たる由縁というか、面目躍如というべきか、よくわかりませんが。
 また、直矩は17歳から54歳で亡くなるまで、とにかく日記をマメにつけていた人で、その「松平和守日記」は、江戸の武家文化を知る上では、知る人ぞ知る貴重な史料とされます。特に能や狂言などの観劇記録は、近世演劇の第一級資料とのこと。日記のうち越後長岡にいる時分の日記が活字化されていて、上中下の3冊組で各巻定価5千円ですが、中古で3冊1万円でこれを入手しました。
 日記の内容ですが、日々の来訪者や贈答品、観劇、参勤交代の経由地などが事細かに記録されていますが、その良し悪しなどの評価は一切なく、また、領地や藩政、治世などの内容についてもありません。当館学芸員によると、政(まつりごと)について記録しなかったということは、賢い人であったな、とのことです。参勤交代で江戸にいる期間が長く、転居も多い人だったため、このようなものになっているのかもしれません。人の往来や物の行き来、舞台演目などがたんたんと書いてあるだけなのですが、見れば見る程、じわっと面白みがわいてくる本で、その沼に入っていきます。
 さあ皆様も、古書の沼に立ち寄ってみませんか。


( → 館長裏日誌に続く)
 前回、上杉博物館の催しをご紹介しましたが、同じ9月10日から、仙台市博物館では特別展「親鸞と東北の念仏」が開催されています(11月4日まで期間中展示替えあり)。「2023年に浄土真宗の開祖・親鸞(1173〜1262)の生誕から850年を迎え、また、2024年は親鸞が主著『教行信証』を著してから、ちょうど800年となります。〜この展覧会は、浄土真宗各派の本山や東北各県の寺院などに伝わった文化財を通じ、東北における浄土真宗の展開について紹介するものです。」とのことです。
 国内の仏教宗派においては、浄土真宗がもっとも多いのですが、最上家の菩提寺は初代、2代を除き曹洞宗であり、また、伊達政宗の菩提寺の瑞巌寺は臨済宗で、両方とも禅宗ではあります。ただ、最上義光は、その菩提寺こそ曹洞宗の光禅寺ですが、父義守との相克のあった時期に、家督相続という本懐を遂げたあかつきには「他宗住居」を認めないとする願文を献じたのが山寺の立石寺(天台宗)で、その後も納経堂を修造したりしています。
 さらに義光の親族の菩提寺は、義光とは違う宗派であることが多く、暗殺された長男の家親は、義光によって常念寺(浄土宗)で菩提を弔らわれ、義光の妹の義姫は、伊達政宗が母(義姫のち保春院)の供養のために建立した保春院(臨済宗)を菩提寺としています。そして、秀次事件に連座した義光の二女の駒姫と、それを悲しみ後を追った義光の妻の大崎夫人の菩提寺は浄土真宗の専称寺です。専称寺は、文明15(1483)年に蓮如上人の高弟である願正が、現在の天童市高擶(たかだま)に草庵を建てたことに始まり、大崎夫人が浄土真宗に帰依していたことから、駒姫を供養するため義光が、高擶にあったこの寺を山形に移しました。慶長3(1598)年に現在地に移転し、13ヶ寺の塔頭を持つ寺町となりました。
 義光自身は信仰心に厚く、その愛用した指揮棒には「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光(清和源氏で山形出羽守である義光は、剃髪していないが仏に仕える身である)」と彫られています。さまざまな宗派に分け隔てなく関わるのもいいのですが、宗派が違うとちょっと面倒なこともあります。まあ、焼香するときに1回拝むのか、2回拝むのかぐらいは見逃してもらうとして、浄土真宗と他の宗派との決定的な違いの一つは、「般若心経」を唱えるかどうかです。浄土真宗が他力本願を教えとしているのに対し、「般若心経」は自力で仏に近づくものとするからです。一方、浄土宗は、他力本願を考えた親鸞以前からの宗派のため「般若心経」はありです。
 つまり、駒姫の菩提寺である専称寺では「ギャーティー、ギャーティー」などとは唱えず、「南無阿弥陀仏」と唱えることとなります。それが、秀次事件で親族等と共に処刑された駒姫の菩提を弔う京都の瑞泉寺は浄土宗なので、「般若心経」でも「南無阿弥陀仏」でもいけるということです。
 浄土仏教は、「阿弥陀仏(阿弥陀如来)」の本願により、観仏や念仏によって極楽浄土に往生することを説く宗旨です。阿弥陀如来は西方極楽浄土の教主で、この如来を念ずる人を極楽浄土に往生させてくれるそうです。また、「南無阿弥陀仏」の六文字は六字名号とも言われます。
 では、この「南無阿弥陀」の意味ですが、「南無」はサンスクリット語の「ナモ」に由来し「感謝」の意味で、ヒンドゥー語の挨拶「ナマステ」も語源は同じなのだそうです。「阿弥陀」はサンスクリット語の「アミターバ」(無限の光明:無量光如来)や「アミターユス」(無限の命:無量寿如来)からきた言葉です。いずれにしても音写の宛字です。阿弥陀如来というのはアミターバとアミターユスという2つの仏が合わさって生まれた如来であるという説と無量如来(アミタ)という仏がいたという説があるそうです。
 とは言え、「あみだ」というと私のような俗人はつい、「あみだくじ」とか「アミダばばぁ」(知っとるケ)とかを思い浮かべてしまうのですが、これをなぜ「あみだくじ」と言うかというと、もともとはあのハシゴ状のものではなく、真ん中から外に向かって放射線状に線を書いたもので、それが阿弥陀如来の後光に似ていたことから「あみだくじ」と言われるようになったそうです。
 そこで思うのですが、パリオリンピックの柔道競技男女混合団体戦の代表戦の決定方法がデジタルルーレットだったことに、なんとなく疑念を抱いた人も少なくなかったようで、ここはあみだくじで決めればよかったのではと思うわけです。そうすれば、あみだくじをしている最中に、日本応援席からはあの唄が歌い出され、きっと相手チームはひるんだのではないかと。もっとも欧米では「あみだくじ」にはなじみがないそうで、ネットでフランス語に翻訳しても「Amidakuji」としかでてきませんでした。フランス語で発音すると、ちょっと早口で鼻母音、つまり鼻から音を抜く感じで「アンミンダァクジッ」とか言うのかしらん。


( → 裏館長日誌に続く)
 ここしばらく展覧会の企画をネタに、脇道ばかりに逸れていて、まあ、いつもそうではありますが、今回は普通に歴史的事件の話題でも。さっそくですが、中学レベルの日本史の問題です。朝鮮出兵に関するものですが、家庭教師で有名な某社の穴埋め問題から。(出典「Try iT」)
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 朝鮮出兵…最終的には(   )の征服が目的
  1592年(   )の役 … 首都・漢城を占拠するも、朝鮮水軍に苦戦
  1597年(   )の役 … 秀吉の死によって、翌年に兵を引きあげる
 豊臣氏に仕える大名の多くが兵を失い、力がおとろえる
  → 朝鮮出兵に参加しなかった(    )が力をつけていく
  → 朝鮮から連行された陶工(陶磁器職人)により(   )焼などがつくられる
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 それでは解答と解説を。まず、征服しようとした場所ですが、「朝鮮出兵」というからには最終的には「平壌」あたりか、というとそうではなく答えは「明」。まあ、でかい話ではあります。つまり朝鮮は明への経由地という位置づけです。
 続いて「(   )の役」ですが、個人的なことですが、高校入試に社会科がなかったためこれは難問でして、答えは「文禄」と「慶長」で、まとめて「文禄・慶長の役」とも言うそうです。そして、力をつけたのは誰か。「最上義光」も朝鮮には渡っていないのですが、力をつけていくのは「徳川家康」とのこと。この「力」というのは、「兵力」ではなく「政治力」のことをいうのでしょう。
 最後は「有田」を正解としていますが、「波佐見」が好きな人とか、「伊万里」でもいいんじゃないとか、いろいろとご意見もあろうかと。まあ、中学生でそんな面倒なことを言う人も少ないとは思うので、まずは「有田」ということで。
 次はオリジナルの問題を。
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 豊臣秀吉が朝鮮出兵を行った理由は次のどれですか。
ア 急成長を遂げてきた豊臣家が、諸将の俸禄とするために、次々と新たな領地の獲得を必要としていたため(領土拡張説)
イ 国内統一や権力集中を図るため、国内の動乱を外に向けさせようとしたため(動乱外転説)
ウ 朝鮮は対馬に従属していると秀吉が誤解し、国内統一の延長として朝鮮を征伐しようとしたため(領土誤解説)
エ 明との勘合貿易や通商貿易の拡大を目指したが、朝鮮が明との仲介要請を拒否したため(勘合貿易説)
オ 天下統一による平和を、海上においても実現するため(統一による平和推進説)
カ スペインの侵攻やキリスト教宣教師の進出をくいとめるため(侵略阻止説)
キ 明征服後に後陽成天皇を北京に移し、日本の天皇には良仁親王か智仁親王をいただき、豊臣秀次は中国の関白に、朝鮮は羽柴秀勝か宇喜多秀家に与えるため(大陸経略構想説)
ク 秀吉自らは「日輪の子」であるという感生帝説を主張し、明を征服して日本の風俗や文化を未来永劫に植え付けるため(妄想征服欲説)
ケ 妹の朝日姫、弟の秀長、息子の鶴松、千利休、母の北政所の死が続き、精神を病んだあるいは認知症を発症したため(精神疾患説)
コ 息子の鶴松を幼くして失い、悲嘆のあまり自暴自棄に陥ったため(鬱憤説)
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 以上、さまざまな学説等があるのですが、正解は不明です。従前はコの(鬱憤説)が有力だったのですが、秀吉が唐入(明国征服)の構想を描いていたのは、天正十五(1587)年の九州遠征の頃からであり、鶴松が亡くなる(1591)以前のことです。近年ではエやカを背景とした「東アジア交易の独占支配」説が有力のようです。
 実は明国侵攻を最初に発案したのは織田信長であり、彼は海外事情に精通し、貿易の重要性を認識していたため、朝鮮に対明貿易の仲介を求めていました。秀吉はその「信長の野望」を果たそうとした、という説もあります。この他にも諸説あり、自己顕示欲説とか、複数の理由が重なっているという説ももちろんあります。
 朝鮮出兵は、日本国内50万人と言われる兵力のうち20万人が駆り出されていますが、その理由がアやイとか、ましてケやコでは従う気にもなれないわけで、せめてオやカぐらいの大義名分がほしいところでしたが、とにかく実際は、呆れつつもこの老天下人の決定に従うほかはなかったようです。
 さて、この朝鮮出兵に最上義光はどう関係しているのか、それは裏館長日記で。

(→裏館長日誌)
 年末恒例となった「今年の漢字」は「金」でした。一般からの応募数で決まるそうで、これまで行った30回のうち「金」は5回目とのことです。オリンピック・パラリンピックの日本メダルラッシュや大谷翔平選手の値千「金」の活躍、世界文化遺産に登録された「佐渡島の金山」、裏金問題などによる話題性からとのことです。ちなみに昨年度は「税」でして、合わせると「税金」という並びになります。
 当館は入館料無料ということで、つまりは税金で賄われている施設でして、それを念頭に置き館運営に臨んではおりまして、来館者数も目標を上回り、まずは皆様のご来館、ご利用に感謝申し上げる次第ではあります。
 ところで、戦国時代の漢字一文字というと、まず有名なのが、上杉謙信の旗印の「毘」です。自らを生まれ変わりと信じ、厚く信仰していた毘沙門天からとったもので、読み方も「ビ」です。また謙信には、本営に掲げられる「龍」の旗印もあります。「毘」が楷書体なのに対し「龍」はくずし字で書かれており、「懸り乱れ龍の旗」と言われています。謙信は達筆でもあったそうです。
 また、漢字一文字の旗印には、「十」というものもあります。これは十の字であれば何でもよいわけではなく、薩摩鹿児島藩島津氏が鎌倉時代より使用していた家紋で、「島津十文字」と呼ばれています。この十の意味には諸説あるそうで、二匹の竜だとか、箸だとか、十字架だとか、十字をきる呪符だなどと言われています。後におなじみの「丸に十」となるのですが、ちなみに鹿児島市の市章は、「十」を「市」に変形させ「丸に十」型にするというなかなかなデザインとなっています。
 一方、合戦図屏風などでは「五」や「伍」という旗印も見受けられますが、これは単に十の半分という意味ではなく、列伍とか落伍とかの言葉にある「伍」で、仲間という意味であり、「互」に通じるとのことです。これは徳川家康の命を受けそれを伝える使番(つかいばん)という役割の旗印です。
 また、「大」というのもあり、武田信玄の子の勝頼の旗印なのですが、震源の遺言によるものとのことです。信玄の旗印は、「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山」ですが、もしかしてこれでは、文字数が多すぎて大変だったからかしらん。信玄は「南無諏方南宮法性上下大明神」という旗印も使っていたようですが、これもそこそこ長いわけで、例えば、謙信の「毘」にならい「南」とする手もあったかもしれませんが、でもこれではなんか紛らわしいかも。
 一方、一文字ではないのですが、「大」の字を含む暗号のような有名な旗印があります。そうです、石田三成の「大一大万大吉」のことです。「だいいち だいまん だいきち」と読み、その意味は「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は吉になれる」というものです。文字の並びは独特のデザイン処理がなされ、今で言う「ロゴ」のようなものとなっています。
 徳川家康にも有名な旗印があります。「厭離穢土欣求浄土」、難読なのですが「おんりえどごんぐじょうど」と読み、なんとなく仏像を前に唱えるマントラ(ご真言)のようでもあります。「穢(けが)れた国土を嫌い、浄土の世界を心から願い求める」といった意味で、実は仏教用語です。桶狭間の戦いに際し、窮地に立った徳川家康に、大樹寺一三世登誉天室がこれを教えたとされます。
 と、ここまで述べてきたものの、旗印に漢字を充てているものは意外に少なく、やはり家紋を用いたものが多いようで、最上義光の旗印も「丸に二つ引き」であったようです。その他、何も描かれない無地の旗印も少なからず用いられており、家康は白地という源平合戦に立ち返ったかのようなシンプルな旗印も用い、秀吉は「総金」という無地の金、赤でも白でもないその上をいくような旗印を用いています。これが伊達となると、日の丸だったりするのですが、白地に赤の日の丸の他、紺地に金の丸というかなりオシャレなものもあって、さすが伊達は伊達です。

(→館長裏日誌へ続く)
 旧暦の1月18日(太陽暦の2月26日)は最上義光公の命日です。慶長19年(1614年)に69歳でなくなりました。当館では太陽暦の1月18日に義光公を偲ぶとともに来館者の皆様に記念品を差し上げております。
 義光は慶長16年3月23日に従四位上近衛少将に叙任されましたが、その年あたりから体調がすぐれず、「徳川実記」には「少将背任の後、久しく病に臥しける」とあります。しかしながら、亡くなる前年には世話になった徳川家康を訪ねて駿府に行き、家康からは薬や夜着を授かり、将軍秀忠からも見舞いの言葉や土産物をもらいました。
 さて、命日とともに話題となるのが辞世の句です。連歌を得意とする義光公にもちろんあります、と言いたいところですが、これがちょっとわけありです。
 「政隣記」という加賀藩政を天文7年(1538年)から文化11年(1814年)まで編年体でまとめた史書の中に、「最上駿河辞世并詠歌」としてつぎのようにあります。
 「一生居敬全 今日命帰天 六十余霜事 対花拍手眠
   有といひ無しと教へて久堅の月白妙の雪清きかな」
 まず、最上駿河というのは義光の次男である駿河守家親のことです。漢文部分は「一生居するに 敬を全うし 今日 命 天に帰る 六十余霜の事 花に対(むか)い 拍手して眠らん」と訳せます。ここで家親は36歳で没したので「六十余霜」とは合いません。また和歌部分に「久堅の月白妙の雪」とありますが、家親は3月6日(太陽暦4月11日)に亡くなっているので、歌の景色からほど遠い。よってこの句は、義光の作と見て誤りあるまい(片桐繁雄「歴史館だより��28」)とのことです。どうも隔靴掻痒な感じもしますが、義光の辞世の句に関わる文書はこれのみです。
 ここでいくつか有名人の辞世の句のご紹介でも。
 辞世の句で真っ先に思い浮かべるのは、松尾芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」ですが、これは亡くなる4日前に詠まれたもので、辞世の句であるかどうかは諸説あります。あと有名なのが、織田信長の「是非に及ばず」。これを辞世の句と言うか、ただの返事と言うか、難しいところではありますが、少なくてもその命日は、戦国武将の中ではもっとも有名ではと思われます。
 続けて、秀吉公、家康公の辞世の句を。
豊臣秀吉「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」
徳川家康「先に行く あとに残るも 同じこと 連れてゆけぬを 別れぞと思ふ」
 秀吉は自分の思い出を詠んだのに対し、家康は将来にむけて持続可能な組織を願った句となっています。当時は、亡くなった主君のあとを追い、その家族や家臣が自刃するという習わしがありましたが、「連れてゆけぬを 別れぞと思ふ」には、家康が家臣達にこの風習に習わないように伝えている、という説があります。ちなみに家康の2年前に最上義光は亡くなっているのですが、義光の葬儀(2月6日)が終わった時に、4人の家臣と2人の家来が殉死をとげています。
 また、辞世の句で「人気が高い」というのもなんですが、そういう評価の句としては、細川ガラシャの「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」というのがありますあー、なんとも美しくかっこいい、惚れ惚れします。
 これと対照的なのが、小野小町で、「あはれなり わが身の果てや 浅緑 つひには野辺の 霞と思へば」。意訳すれば、荼毘にふされて浅緑の煙となり、野辺の霞となるわが身を想う歌で、自然の理そのものというか素直な句ではありますが、在りし日の自分への執着を歌ったと解すれば、美人とはこういうものかとも思える歌です。
 そして、いつものようにあの御両家のご紹介を。
上杉謙信「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし」
伊達政宗「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」
もうどちらも、戦国武将のお手本のような句ですが、なぜか「月」つながりです。もっとも謙信については「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一杯の酒」というが有名ですが。
 では再度、最上義光の辞世の句とされるものについて。
 「有といひ 無しと教へて 久堅の月 白妙の雪 清きかな」
 なんとここでも「月」がでてきます。しかし、この句は戦国武将らしいというより、哲学的な句です。
 まずは「有といひ 無しと教へて」ですが、片桐繁雄著「戦国の明星最上義光」では「自分の生涯に意味があるのか、ないのか。どちらでもよかろう。すべては「空」だ。そう教えて」とありますが、このように深く読むべきか、それとも「是々非々を説いた」、平たく言えば「いろいろ言ってはきたけれど」程度に解してもよいのか。
 続く「久堅の月 白妙の雪 清きかな」は、前出の著作には「月は白々と冴え渡り、その光を受けて雪はひたすらに清らかだ」とあります。ここで「久堅」は、「ひさかた」という天・空・光などにかかる枕詞ですが、実は意味がわからない言葉です。そして「白妙」は白い布のことで、その色から、雲、雪、波などにかかる枕詞です。なので、ここは素直に「光る月や白い雪の、なんと清いこと」と読んでもいいのではとは思うのですが、いずれにせよこれは冬の情景描写であるとともに、義光の心象風景でもあります。
 これを月の光や雪の白さの清らかさを詠んだとすれば、この句のテーマはずばり「光」となります。さらに言えば、月の光も雪の白さも反射光です。まあ、反射光ということまで意味を求めるものではないにせよ、古今東西、旧約聖書から宇宙物理学まで、世の中は光が有ることから始まります。それを辞世の句にもってきたのは、さすが義「光」公と申せましょう。


義光公の「顔出し」を設置しました。義光転生を体験!?

(館長裏日誌→ に続く)


 昨年、山形市は2月8日を「ラーメンの日」に制定し、今年の2月1〜11日に「『山ラー』フェア」を開催しスタンプラリーやトークイベントなど行います。このフェアとあわせ、当館にもお立ち寄りいただければ幸いです。「食べてから観るか、観てから食べるか」、昔、そんな宣伝文句があり、いや、あれは「食べる」じゃなくて「読む」でしたか、失礼しました。
 さて、この「ラーメンの日」というのは、総務省の家計調査においてラーメンの世帯当たりの消費額が県庁所在地で日本一となり、山形市が「聖地宣言」を行ったことによるものです。2月8日というのは、その家計調査の発表時期にちなむものです。
 山形市にはその他にも日本一があり、まず「さといも」と「こんにゃく」。これは「芋煮」の材料であるためですが、なぜか「炭酸飲料」の消費量も日本一です。これが本当によくわからず、炭酸飲料が芋煮会のマストアイテムというわけでもなく、コーラの早飲み競争が山形で流行しているわけでもなく、どう消費されるのかナゾなのです。あと日本一としては「たけのこ」があるのですが、これもよくわからず、「孟宗汁」とか「土佐煮」とかを頻繁に食べるわけでもなく、ちょいと牛肉とともに煮物にしたりはしますが、それでも重量ベースで2位の新潟市の2倍以上、金額ベースで2位の京都市の1.5倍というのはどうしたことなのでしょうか。
 とにかくこういうことからすれば山形市は、「こんにゃくの聖地」でも「炭酸飲料の聖地」でも「たけのこの聖地」でもでもよかったとは思うのですが、さてはともあれ「ラーメンの聖地」を宣言したのです。
 さて、ここで問題は、「おすすめの店はどこ」ということですが、その前にそもそも「山形ラーメンとはどんなもの」ということが問題です。これを山形市民に問うても、きっと某局のチコちゃんに質問された人のようになるかもしれません。まず、スープは牛骨、豚骨、鶏ガラ、魚粉、貝だしとなんでもありで、麺も細いちぢれ麺から太いストレート麺まで、チャーシューは牛、豚そして鶏もありで、つまりなんでもありというのが山形ラーメンの特徴です。関係者はこれを「多様性」と言っていまして、なんか先端を行っている感じはします。これを横文字で言えば「ダイバーシティ・ラーメンシティ」とでもなるのかしらん。
 そのうえで、どこがおススメかと問われれば、ここは「ソバリエ」の教えが役に立ちます。この「ソバリエ」というのは、かつて山形は、ラーメン推しの前にソバ推しだった経過があり、そのときにソバの案内役として、ソムリエをもじって「ソバリエ」というのを養成しました。その山形のソバというのも、そば粉は晒し粉からひきぐるみ粉まで、辛いツユから甘いツユまで、切り方も太麺から細麺まで、店によってまちまちで、ラーメンと同様に「山形そば」の定義ができないのですが、「ソバリエ」はうまいまずいということは言わず、どんなそばが食べたいのかを聞いて、それに合ったそば店を紹介するのを役割とします。例えば、更科系の上品なそばであればあそこ、そばの風味豊かな田舎そばであればここ、とお薦めするのです。これをラーメンにも適用してはどうかと。実際、ラーメンソムリエというのがあるそうですが。
 さて、本職のソムリエは、その品種や産地などの知識とともに「ワインの言葉」というものを持っています。アロマはとか、ポディはとか、アタックがとか余韻がとか、いくつかのポイントとともに、例えば、「ブラックチェリーの色彩にコーヒーの香ばしさ」とか、さらには熟成した赤ワインには「濡れた子犬のような匂い」とか、石油臭がするリースリングワインには「キューピー人形の香り」とか表現するそうです。まあ、客の方はせっかくの説明をきいても、そのうち酔っぱらって赤や白さえもごっちゃになってしまうのですが。
 では、ラーメンをそんな言葉で表現したらどうでしょうか。「蔵王山系の伏流水がきらめく黄金色のスープに、のびやかに育った肉牛のアロマと、恵まれた大地の小麦の香りが漂う、山形のテロワールが生み出した一杯。アタックは優しく、しかしながらボディはコクがあり、もう一杯食べたくなる余韻がある。」という感じでしょうか。どんなラーメンなのかよくわかりませんが。



↑ 「山ラー」フェアとあわせ、当館にもお立ち寄りを。今年は雪が少ないのですが、先日の大寒波のときはご覧のとおりでした。雪景色の中でラーメンが楽しめるかも。

(→館長裏日記へ進む)