最上義光歴史館

 現在、上杉博物館で開催している「上杉景勝と関ヶ原合戦」後期展示に「長谷堂合戦図屏風(複製)」が貸し出されています。合戦図屏風というと、関ケ原合戦図とか川中島合戦図とか様々ありますが、東北の合戦を描いた屏風は希少とのことです。
 そもそも屏風は「風を屏(ふさ)ぐ」という風よけのための道具です。これになぜ合戦を描くのかというと、宮島新一山形大学教授(日本絵画史)から寄稿いただいた「歴史館だより��16」によれば、「近世に入ると合戦図は、時間の経過を追って場面が展開してゆく絵巻から、戦場の地形や展開する部隊を描くのに適した大画面、すなわち、屏風へと形式が変わってゆく」とあります(以下、「 」内はこの引用)。しかも屏風は折り畳みができ、紙蝶番により連続的な描画ができることも一因でしょう。
 合戦図の目的には二つあり、「一つは家祖の軍功を図化して世間に明らかにすること」。もう一つは、「合戦の状況を可能な限り調べて記録しようとする」こと。「それが文章で表現されれば「軍記」となり、絵画化されれば「合戦図」となる」。「長谷堂合戦図屏風」を描いたと伝えられる戸部正直は、実に、奥羽地方の永禄年間から慶長年間までの軍記物語「奥羽永慶軍記」40巻を著した人でもあります。
 ただ、記録性という点では、「(合戦図の)多くは時がたってから回顧的な視点によって描かれたものばかりである。」とのことで、例えば「長谷堂合戦図屏風」も、戸部正直が生まれたのは、最上義光の没後であり、「援軍として参陣した伊達勢はまったく無視されている。登場する武士の数は少なく」、「地形も無視されている」そうです。記録の精度とは別のところに意味があるようです。
 一方、実際の様子を残そうとした人もいて、徳川家康は関ヶ原の戦いに土佐派の絵師を同行させており、出来上がった関ヶ原合戦図屏風は、八曲二双の四隻三十二扇の大屏風だったそうです。通常の屏風は六曲一双、長谷堂合戦図もこの規格ですが、これを比較すると、テレビで言えば120インチと45インチぐらいの違いになります。
 また、絵巻などの日本の絵画は、文字と同じ方向、つまり右から左に向けて鑑賞しますが、これが時間軸にもなります。そして屏風にも時間軸を入れることができます。まず、扇(パネル)ごとに時節を変えていく方法。屏風の扇の順番は、向かって右から第一扇、第二扇と数えますが、この順に時間も流れていきます。花鳥画などは、春夏秋冬の順や12ヶ月順で描かれます。あとは金雲を使う方法。典型的なのが洛中洛外屏風で、金雲をさしこむことにより、時期が異なる祭りや風俗を描き、空間的にも建物などの位置を自在に伸縮させています。実は金雲は、場面転換のお約束ともなるものです。
 屏風の鑑賞にあっては、まずは俯瞰で全体像を目にするわけですが、先ほどの日本画鑑賞の方法に基づき、端から近付いて順に鑑賞すると、屏風の折り目の陰から不意に新たな図像が現れます。絵巻でも不意に新たな図像が現れることでは同じなのですが、屏風の場合は山折り谷折りにより図像が立体的に見えることがあります。大画面で、しかも立体的、これこそが屏風図特有のもので、実物を見に行かなければ体験できないことなのです。
 最後に屏風に係ることわざを一つ。「人と屏風は直には立たず」。これは、屏風は折らなければ立たないように、人も道理に縛られず、適当に妥協しないと、世間を渡って行けないということの意です。なんか夏目漱石の小説「草枕」の書き出しを思い出します。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る」。屏風画もそんな悟りから出来るものなのかしらん。

〇 ここで屏風豆知識
 屏風の数え方ですが、パネルを扇、つながっている扇の数を曲、つながったものの数を隻(せき)といい、隻が二つで双といいます。つまり、八曲二双の四隻三十二扇というのは、二双=四隻なので、八曲×四隻、つまり八枚仕立ての屏風が四つで三十二扇からなっているということをあらわしています。双になっているものについては、向かって右側の屏風を右隻、左側の屏風を左隻(かつては左右逆)といいます。六曲一双というのが定番ですが、二曲一双でも結構なパノラマ感が得られます。

〇 ここで鑑賞豆知識
 日本画、とりわけ障壁、屏風、掛軸などの室内装飾的なものは、手前で畳に座って観るのが基本です。というのも、その作品が想定している視座になるからです。また、照明も重要です。作品が置かれる環境を再現するという点から、家屋に入り込む自然光というのが理想となります。特に金箔屏風などは、薄暗い屋内の中で金箔が輝くことでその効果が発揮されると言います。鑑賞位置も照明も展示側の課題となるわけですが、先進的な博物館や企画展示では、それに対する取り組みがなされています。例えば、観賞用に茶室を拵えたり、明かりが朝昼晩と移りゆくよう再現したところもあります。

〇 ここで雑ネタ
 右から左に向けて読むということは、マンガも同じです。マンガを横文字に翻訳するときは、左から読めるように、版を反転させたり左右のページを入れ替えたりしています。最近では、漫画の電子書籍化にともない、スマホで縦にスクロールして読めるようにコマ割りまで直したりしています。韓国では、最初からこのスマホ縦スクロール向けだけの作品を作る作家もいるそうです。まあ、四コマ漫画なら、最初から縦スクロールですが。


写真 長谷堂合戦図屏風(複製)
 最上義光歴史館における最重要展示物のひとつが、最上義光が所用した兜です。正しくは「三十八間総覆輪筋兜」。義光が長谷堂合戦で着用し、鉄砲玉を被弾したという兜です。兜といえば最近は、オータニ選手が被るものとなっていますが、私の世代で兜といえば、兜甲児でしょうか。

 さて、この兜は米沢市上杉博物館の展覧会 「上杉景勝と関ヶ原合戦」前期展示(4月22日〜5月21日)に、軍旗(伝直江軍部隊旗)とともに貸し出されていたのですが、先日、前期展示期間の終了早々に戻ってきました。この期間、上杉博物館では1万人を超える来館者があったとのことで、この兜もそれだけ多くの方にご覧いただいたことになります。かつて最上と上杉とは敵対関係ではありましたが、400年経った今、兜を貸し借りする仲になったということで、まずはありがたいことです。
 ところで、この兜の鍬形台には、「竹に雀」の図柄の家紋が据えられています。家紋に興味のある方は、アレ?と思われたかもしれません。最上家の家紋は「丸に二つ引き(丸二両筋)」ではなかったか、「竹に雀」というのは上杉家そして仙台藩の家紋ではなかったかと。当館の学芸員にきいたところ、この時代、いくつもの家紋を持つのはよくあるとのことです。縁戚を結んだ際などに、引き出物のように家紋のやり取りがなされたそうです。ちなみに伊達家には八つの家紋があるそうで、最上家においても、主な家紋として「丸に二つ引き」、「丸竹に雀」、「五七桐」、「十六葉八重菊」を持つそうです。
 まずは、「丸に二つ引き」。室町幕府を開いた足利氏の家紋であり、将軍家の象徴ともなっています。その形は、丸の中に二本線というシンプルなものですが、紋の丸の中に引かれる線は竜をあらわし、二匹の竜が天に昇る様子とのことです。
 山形城を築いた斯波兼頼は、足利家の一門であり、続く最上家ではこの家紋を代々使用しました。また、義光は、足利家から「義」の字をもらっており、このことからも大切にした家紋だそうです。一方、「五七桐」や「菊紋」は天皇の紋であり、後醍醐天皇から足利尊氏が授けられた紋が由来と思われます。
 そして「竹に雀」。この家紋の元来の出所は、藤原氏北家から分かれた公家の勧修寺家と言われ、上杉家の始祖はその流れとのこと。一方、伊達家の家紋は、伊達政宗の大叔父の伊達実元が、越後の上杉定実の養子になる時にこの家紋を受けたものです。しかし今では、この「竹に雀」紋は商標登録されており、類似デザインであっても使用許可が必要とのことです。
 もっとも、最上家、上杉家、伊達家、それぞれの「竹に雀」紋のデザインはだいぶ異なります。二羽の雀が竹笹で丸く縁どられているのは共通していますが、最上家家紋は竹の内側の三か所から三枚ずつ葉がでるもの、上杉の家紋は笹が図案化されたもの、伊達家の家紋は竹の外側に笹が国連紋章のように取り巻いています。それぞれ別名で、最上笹、上杉笹、仙台笹とも言われています。
 家紋の中の二羽の向かい合う雀のくちばしは、阿と吽の形となっています。ところが、その元となっている勧修寺家の家紋の雀は三羽で、左右一羽ずつ、もう一羽は上から見た姿になっています。そのくちばしは隠れているのですが多分、阿吽、ア・ウ・ンの中間ではないかということで、素直にとれば「ウ」の形でしょうか。ウッ、と言えばマンボですが、いやいや、そんなはずは。もう一度、かの家紋をよく見ると、そのくちばしは阿も吽なく、雀はただ、上下左右に軽やかに舞っているだけでした。


最上家家紋 「丸に二つ引き」、「丸竹に雀」


勧修寺笹  上杉笹  仙台笹 (いずれもwikipediaより引用)


三十八間総覆輪筋兜とその鍬形台部分の拡大
織田信長より拝領したと伝えられる最上義光愛用の兜です。


「最上笹」ピンバッチ400円(左)、缶バッチ200円(右)で好評販売中


「最上笹」ピンバッチには、豊富なカラーバリエーションもあります。

 現在、市民会館付近の道路沿いで山形城跡の発掘調査が行われています。過去の発掘調査では、本丸や二ノ丸からは貨幣や瓦などが、三の丸からは皿や茶碗などの生活雑器なども出土しています。それら出土品の一部を、当館において展示しています。
 展示物でまず目に付くのが、鯱鉾(しゃちほこ)瓦です。ここで、鯱鉾瓦についておさらいを。「鯱(しゃち)」は想像上の生き物で、頭は龍虎、胴体は魚、「鉾(ほこ)」は、この尾が鉾のように上にそそりたっていることを表し、つまり鉾のように立っている鯱を意味しています。鯱鉾は、建物が火事になると口から水を吐きだし消してくれることから、屋根の上に乗せるそうです。鯱鉾は、瓦とともに中国から入ってきたといわれ、寺院などで用いられていましたが、それを城に取り入れたのが織田信長の安土城、金の鯱鉾としたのが豊臣秀吉の大坂城で、次第に全国に普及したそうです。
 鯱鉾は通常、二体の対で飾られ、雄と雌であったり、同一であったりします。当館では、それぞれ模様の異なる二体を並べて展示していますが、どちらがどうなのかは判断できていません。これとは別に、金箔のあとが残る鯱鉾の一部も展示していますが、鯱鉾全体が金色というものではなく、目や牙、尾ひれのみが金色、ボディは黒色という、そっち系の高級車のようなカラーリングだそうです。
 同展示コーナーには、金箔が張られた軒丸瓦もあります。これは軒先に据える瓦で、「山」の字の文様部分に金箔が張られています。当時は、天下人以外に金箔瓦の使用を許される人は限られていました。
 金箔瓦は、豊臣秀吉が京都に住まうために建てた「聚楽第」に用いられ、屋敷を巡らす白壁と相まって、大層「映える」邸宅であったそうです。周囲には堀が築かれ、外郭の外側には街路が縦横に設けられ、そこには秀吉配下の大名屋敷を配置。最上家の屋敷と伊達家の屋敷が隣接してあったそうです。それらの屋敷もまた金箔瓦であり、聚楽第と御所の間は金箔瓦を葺いた大名屋敷で埋め尽くされ、その様子は屏風絵(尼崎本洛中洛外図)にも残されています。
 ところがこの聚楽第、竣工してわずか8年弱で取り壊されます。聚楽第の完成は天正15年(1587)9月(旧暦、以下同)。まずは秀吉が住み、天正19年(1591)12月に秀次に家督や関白職が譲られると、秀次の邸宅になりました。ところが文禄4年(1595)6月末に突然、秀次に「鷹狩りと号して〜御謀反談合」との謀反の疑いがかけられ、7月15日には秀次切腹事件(享年28)が、そして8月2日には三条河原に秀次の首を据えての妻子の集団処刑が、そう、あの駒姫の悲劇がおきます。
 しかも秀吉は、秀次の痕跡まで消し去ろうと、聚楽第や近江八幡山城の破却を命じました。聚楽第の堀は埋め戻されて基礎に至るまで破壊され、周囲の大名邸宅も同時に取り壊されたとのことです。ちなみに、最上家屋敷跡地からは、山の字に金箔が施された軒丸瓦が見つかっており、山形城の軒丸瓦もこの影響と考えられています。
 金箔瓦だけでもこんな因縁が浮かんできます。当館で展示している軒丸瓦の金箔は大分剥げ落ちていますが、残っている金箔部分は、光のあたり具合で意外なほど輝くことがあります。
 それにしても、親分が金の屋根瓦にすれば、子分も金の屋根瓦にする、というのは、親分の屋敷への憧憬からなのか、子分同士の見栄なのか、親分への忖度なのか、子分同士の同調圧力なのか。もっとも、聚楽第と同時に周囲の屋敷も取り壊された、ということはやはり、あれがこうなので、ということなのでしょう。いずれにしても「亭主の好きな赤烏帽子」どころの話ではなさそうです。


〇 ここだけの話
 先日、某有料放送局のロケがあり、当館の金箔瓦を貸し出しました。大物タレントの冠番組とのことで、当館の宣伝にでもなればありがたいと。取材はすぐに終わり瓦が戻ってきたので、もしかしてサイン色紙ぐらいはとは思ったのですが、それはなく、それどころかこの金箔瓦が番組に登場するのかさえも定かではなく、結局、その大物タレントにあやかることはむずかしいようです。もっとも、あやかるとしても、「TVで紹介!!大物タレントも興味津々!!」などという張り紙を、金箔瓦の脇に張るわけにもいかないのですが。


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 8月5、6、7日の3日間、「山形花笠まつり」が開催されます。今年は通常開催に戻るということで、コロナ禍前は当館の前の道路に露店が並び、夜中、地元の若者が集う場所ともなっていましたが、それも今年は復活かと。なお期間中は、当館の開館時間も1時間ばかり延長いたします。
 さて、「山形花笠まつり」は、蔵王開山1,250年にあたる昭和38年に、記念イベントの一つとして誕生しました。よって、蔵王大権現を祭神としたそうです。花笠音頭の元唄は村山地方の「土突き唄」とされ、花笠音頭は、従来からの2歌詞に公募した13歌詞を加えた15歌詞でできています。ここで花笠音頭クイズです。1番目の歌詞は「そろたそろたよ、笠おどりそろた、秋の出穂よりまだ揃た」、続く2番は「蔵王権現さんも、」から始まりますが、さて、これに続く歌詞は何でしょう。答えは「お盆の夜は笠のおどりに浮かれでる」です。実はこれ山形市職員にとっても難問です。
 さてさて、祭りと言えばまずは「祇園祭」でしょうか。その起源は疫神怨霊を鎮める御霊会(ごりょうえ)で、貞観11(869)年に全国に疫病が流行した時、その退散を祈願して、日本66カ国の数にちなみ66本の矛(ほこ)を立て,祇園精舎を守護する牛頭天王(ごずてんのう)を祀ったのが始まりといいます。
 祇園祭は7月1日から31日にかけて、様々な祭礼が執り行われますが、観光客でにぎわうのは山鉾巡行の前後の約10日間です。山鉾の「山」というのは曳山(ひきやま)や山車(だし)などの言葉からもわかるとおり、人形やお囃子が乗り、曳子が綱で引く屋台のことで、これに「鉾」を立てたものが山鉾です。鉾ではなく、松や杉を立てる「山」もあります。山鉾は神霊の依代(よりしろ)であり、神霊は尖ったものを好むのだそうです。山鉾や山は豪華な装飾品で飾られています。これは疫神怨霊を惹きつけるためですが、山鉾を擁する各地区が豪華さを競った結果でもあるそうです。山鉾は「動く美術館」とも言われ、国の重要文化財に指定されているものもあります。
 近年は、巡行前日の宵山(よいやま)が人気で、通りに出された山鉾には灯が燈され、観光客でも乗ることができるものもあります。中からは笛や太鼓、鉦(かね)の祇園囃子がコンチキチンと聞こえ、何とも風情があります。これに対し「山形花笠まつり」は、太鼓こそ生演奏ですが、カラオケに乗せて音頭が流れ、山車はトラックを飾り付ける言わば「動く電飾看板」といった体裁です。
 一方、踊りと言えば「阿波踊り」でしょうか。「手を挙げて、脚を運べば阿波踊り」なのだそうですが、実はこれ、かなりハードな踊りです。男踊りはどれだけ腰を下げ低い姿勢で踊れるか、女踊りはどれだけ鼻緒の痛さを我慢してつま先立ちができるか、を競うものでもあるからです。阿波踊りは基本的に団体戦であり、その団体を「連」と言いますが、連では年間を通して練習しています。徳島市役所職員の新人研修では、阿波踊りが必須となっているとか。とにかく鍛えられ方が違います。ちなみに観客が飛び入り参加するのを「にわか連」と言うそうです。
 また、阿波踊りの重要な要素となるのが鳴り物です。太鼓や笛、三味線などによる生演奏がなんとも魅力的で、こういうのはやはり生に限ります。これに囃子詞(はやしことば)がのります。「エライヤッチャ、エライヤッチャ、ヨイヨイヨイヨイ、踊る阿呆にみる阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」というのが有名ですが、実際は「ヤットサー、ア、ヤットヤット」という掛け声が基本で、これが「それゆけ〜、やれゆけ〜、まだまだだい、これからだい、それゆけヤットサー、やれゆけヤットサー、ヤットサー、ア、ヤットヤット」といった発展形になるそうです。また「一かけ二かけ三かけて、四(し)かけた踊りは止められぬ、五かけ六かけ七かけて、八(や)っぱり踊りは止められぬ」といった掛け声が女踊りから聞こえてきたりするとやはりグッときます。
 これに対し「山形花笠まつり」は、1分足らずのフレーズを繰り返し踊るもので、掛け声も「チョイ、チョイ」と「ヤッショ、マカショ、シャンシャンシャン」だけを覚えればよし、というもので、まあ、30分も練習すれば、それなりに踊れます。衣装の決まり事なども特にないような気がします。実際、団体によっては、Tシャツ、短パンにハッピ程度のところもあり、一方では、チアリーダーやストリート系、コスプレや甲冑、着ぐるみもいます。公序良俗に反しない限りなんでもありかと。
 いや、あの、だから、率直に申しますと、「山形花笠まつり」は、カラオケ音頭やトラック山車で盛り上げる、踊りも掛け声も衣装さえも、多分、日本で一番、敷居が低い祭りなのです。どうぞ皆さん、お気楽にご参観ください。飛び入りコーナーもありますよ。もちろん鍛え抜かれた踊りを行う団体(「四方山会」や「四面楚歌」、そして「自衛隊」の皆様など)もあり、これはまた別格で迫力が違います。
 さて、当館の物販コーナーではミニ花笠(500円)というのを販売しています。武将に被せるのにピッタリとのことで、意外にもありがたいことです。ただ残念なのは、市販品で最上義光のフィギュアというは見当たらず、かわりに伊達政宗や徳川家康あたりに花笠を合わせてみるのも一興かと。他にも、夢と魔法の国のネズミちゃんとか、リボンをつけたネコちゃんとか、猫型ロボットとかもいけそうですが、これには「どこでも花笠」というのがあれば、いや、失礼しました。ちなみに最近、おサルさん、じゃなくってモンチッチと花笠とがコラボした商品が開発されました。おひとついかがでしょうか。


花笠×モンチッチ 4,950円 (写真協力:尚美堂)

★祇園祭ミニ知識 その1 お神輿(みこし)について
 祇園祭は、7月1日からの各山鉾町で打合せを行う「吉符入」に始まり、7月31日の疫神社の鳥居に掲げられる茅の輪をくぐる「疫神社夏越祭」まで祭礼が続きます。
 祇園祭では、山鉾が取り上げられがちですが、祭りの主役は神輿です。7月17日の山鉾巡行後の夕刻に、八坂神社で神幸祭が行なわれます。中御座・東御座・西御座(素戔嗚尊 (スサノヲノミコト)とその妻と子)の3基のお神輿が鴨川を越え、氏子のいる町中へ行くもので、山鉾巡行で疫神怨霊を惹きつけお清めした後に、この御輿で出向くわけです。この後、町中の御旅所に7日間滞在し、また御輿に乗って帰ります。この御旅所に無言で7日間通うと願いがかなうそうです。
 17日の神幸祭では、八坂神社西楼門の祇園石段下の交差点で、3基の神輿が「ホイット、ホイット」の掛け声のもと高々と担ぎ上げられる「差し上げ」が行われます。これを見物しようと早くから交差点をはさんだ歩道側に待機していると、見回りをしている京都府警の警察官から「ここでは何もないよ」と言われたりします。しかしそれは、観光客に対する意図的な誤誘導らしく、そのまま居座るとそこがべスポジでした。
 一方、24日の還幸祭では御旅所から八坂神社へ向かいます。0時頃から行われる「御神霊遷し」は、境内の灯りが消された暗闇の中、本殿へと御神霊が遷され、神秘的なものとなるそうです。

★祇園祭ミニ知識 その2 粽(ちまき)について
 前祭宵山では、日が暮れると山鉾に吊られた駒形提灯に火が入り、笛や鉦の祇園囃子の音と共に祭りは盛り上がります。町会所には山鉾の御神体や懸装品(織物など)が飾られ、子どもたちがお守りや粽を販売する姿も見られます。粽を買うと鉾に乗れるものもあります。粽は祇園祭のときにだけ販売され、京都ではこれを一年間玄関先に飾ります。粽は販売する神社や山鋒の名が入っていますが、人気のある山鉾の粽は、早く売れきれます。今年はネットでの転売が問題になっていました。


 最上義光歴史館では現在、特別展示として、「鐵[kurogane]の美2023」〜戦国武将の刀、最上家ゆかりの刀〜を開催しています。初出品3振りを含む10振りの刀剣とともに、鍛造過程の実物標本も展示しています。
 刀剣については、人気関心も高く、歴史来歴から美術的な面までさまざまな見所があります。なので、いろいろな価値観や嗜好があって当然なのですが、博物館での刀の鑑賞ポイントというのもあります。歴史的資料としてではなく、実物主義つまり物として見た場合ですが、主な鑑賞ポイントは、姿、地肌、刃文などになります。当館の展示室にも解説を掲げています。
 まず姿ですが、これは時代とも関わる、つまり制作当時に理想とされた形とは、という問題ともなるのですが、まずは理屈より数多く観ることでわかってくるものかもしれません。鎌倉時代のように名乗りをあげて騎馬戦をしていた時代は、長い太刀が主流でしたが、戦国時代となると、より実戦的な刀として、太刀よりも短く軽い打刀(うちがたな)が主流となってきます。古い太刀を短くし(「磨上げ(すりあげ)」といいます)用いることもありました。ただ、単に短くすればよしというものでもなく、姿すなわち、反りや太さ、重量バランスなども大事で、「摺上げながらも腰反りがつき」などと評価したりするそうです。当館で今回展示している刀にも、磨上げの形跡がよくわかる刀があります。また、日本刀のコレクターでもあった伊達政宗は、刀が好きすぎて刷り上げすることはしぶったという逸話があります。ちなみに制作当時のままの刀を「生ぶ(うぶ)」といいます。
 反り具合についても時代性があり、刀のどこの位置からどう反るかが時代により違うそうです。一般的には、平安時代頃だと柄に近い部分から反る「腰反り」、鎌倉時代後期頃はより上方から反る「輪反り」、室町時代以降はもっと高い位置から反る「先反り」になるそうです。また、反りが大きければ「反りが高い」、反りが小さければ「反りが浅い」と言います。
 この反りというのはもともと、操作性や切れ味を求めた結果でもあるのですが、そのような性能面からの刀の評価はあまりなされないかもしれません。ただ、江戸時代には、どのくらい切れるかという尺度として、死罪となった者などの胴体を重ねて試し斬りをし、一度にいくつ斬り落とせるかで表しました。それが3体なら「三ツ胴」と言います。伝説の刀となると、五胴、六胴という話もあります。ここまでくると、それが発揮されるのはどういう場面なのか、とは思いますが。もっとも、日本刀の性能で特徴的なことは、「折れず、曲がらず」ということで、鍛刀の重要性もここにあります。
 続いて、地肌(地鉄(じがね)とも言います)や刃文についてですが、これは結構マニアックな鑑賞ポイントとなります。例えば、地鉄の模様がはっきりと観えるときは「肌立つ」、模様がきめ細かくなっているときは「肌詰む」、光の反射によって輝いて観えるときは「明るく冴える」と言うそうです。また、地鉄と刃文の境に「沸」(にえ)や「匂」(におい)という粒子が現れるのですが、これがまた、見えたり見えなかったりします。沸も匂も、刃文の中に必ず存在する粒子だそうで、これが現れることを「出来」(でき)と言い、主にどちらの文様がみえるかによって「沸出来」(にえでき)または「匂出来」(においでき)に分けられます。なお、沸には沸出来と匂出来の中間にあたる「小沸」(こにえ)や、粒子が砂を散らしたようにみえる「荒沸」(あらにえ)などがあり〜という感じで、どんどん深い沼が待ち受けています。波文にも似たような沼があります。
 一方、刀剣が鞘に収まる部分を茎(なかご)といいますが、ここに刻んである銘でその来歴や刀工の系統がわかり、その刀の価値を決するものともなっています。これは、歴史的な側面からの評価となり、文献資料と照らし合わせながらのものとなります。
 「鋒(切先)」から茎の「目釘穴」まで見るべきところは多々あるのですが、刀身以外も見るべきものは多く例えば、鍔(つば)や鎺(はばき)を集中的に懐集されている方もいます。特に江戸時代、天下泰平の世ともなると、刀は「使うより愛でろ」となり、刀身はもとより鍔や拵(こしらえ)などの美術色が一気に高まりました。(続く)


特別展示「鐵の美2023」 刀剣10振


茎(なかご)、金色の部分が鎺(はばき)


上林恒平刀匠による鍛刀の製作過程見本
 博物館の機能は、物を収集、調査研究、展示を行う中で、どう物について語っていくのかということにあるのですが、刀剣についてはその「物語り」に新たな軸が加わってきました。そうです。刀の擬人化です。刀剣鑑賞に新たな物語が加わり、昨今の刀剣ブームの一役を担うものともなっています。
 もとより刀剣には、「物語り」がついてまわるものが少なからずあります。鬼を斬ったという刀も一本や二本ではなく、鵺(ぬえ)を退治した恩賞に朝廷から与えられたとか、法師に化けた蜘蛛の妖怪を斬ったとか、幽霊を斬ったと思ったら石灯籠だったとか、とにかく、そういう話がついてまわり、いや、そのような話ばかりではないことがもちろん多いのですが。
 ちなみに刀にまつわる博物館の話としては、東京都墨田区にある刀剣博物館は、「刀令後本来の日本刀の役割を終え、更に第二次世界大戦後、日本刀は武器と見なされ駐留軍による没収の的となり壊滅の危機に瀕し」たことが契機となり、日本有数の刀剣博物館となっています。
 駐留軍により没収された刀剣類のうち、廃棄処理を免れて後世に伝わった一部を赤羽刀(名の由来は刀が集められた場所による)と呼びますが、当館で現在展示している中にも、この赤羽刀があります。この刀は米国まで渡ったのですが、茎の銘とともに刀剣彫刻があり、来歴が分かったため元の所有者に戻ったというものです。
 刀剣を主とする博物館は全国にいくつもあり、日本最大級の約500振の刀剣を所蔵する名古屋刀剣博物館では、新館を増設中。岐阜県関市には、刀工の他にも各職人が揃っていたため赤羽刀480本が譲渡され、その一部が関鍛冶伝承館で展示されています。
 一方、岡山県倉敷市には、「刀剣の郷」として開館し、日本刀の売買と鑑定書も出すという倉敷刀剣美術館があり、宮城県大崎市には、「日本刀の源流は東北だった」との展示テーマをもつ中鉢美術館があるなど、まさしく群雄割拠の状態にあります。その大崎市ではつい先月、新市庁舎の開庁記念として、庁舎1フロアに560振りの刀を展示し、ギネス世界記録に認定されました。
 一方、国宝の刀剣は現在、短刀、長刀、拵(こしらえ)を含み118本あり、うち19本を東京国立博物館が所蔵しています。その展示室「刀剣の間」は、多くの見学者が溜まっている場所です。県内には鶴岡市に国宝の刀が2振あります。
 このような状況のもと当館は、国宝もなく、ギネス級の数の刀もなく、はてさて、なにをどう話題にしたらよいものかと。なになに、聞くところによると、刀をキャラクター化・ビジュアル化してミュージカルもどうしたとかで、とにかく擬人化された刀剣が人気であるとな。
 ということで、最上家に所縁のある刀で擬人化されたものを探したところ、ありました。過去に当館でも展示したことのある京都・北野天満宮の「太刀 銘安綱(鬼切)」です。
 平安時代に、坂上田村麻呂が鬼女の鈴鹿御前を討伐し、伊勢神宮に奉納した刀です。夢のお告げにより源頼光がこの刀を受け取り、家臣の渡辺綱に貸し与えました。渡辺綱は、京の一条戻り橋で宇治の橋姫という鬼女に襲われ、その腕を切り落としたとのことです。のちに、斯波高経を経て最上家が家宝として所蔵、明治時代に北野天満宮に奉納されました。
 この由来により「鬼切丸」と称されてきましたが、北野天満宮は2017年より「髭切」とも称しています。その名の由来は、試し切りで罪人を切った際に、その髭まで切ったとの伝説によります。北野天満宮では2018年に「刀剣乱舞 とうらぶ髭切 北野天満宮宝刀展13」を開催。その際、この刀をキャラクター化し、御朱印などとともに販売しました。
 まずは見つけました。さあ、これで刀剣好きにも太刀打ちできるぞ、と武者震いしたのですが、当館学芸員によると、重要文化財でも重要すぎて、再び借りることは困難とのことでした。正直、私自身は刀剣について全くの門外漢で、まあ、戦国時代のあらゆることに門外漢なのですが、「持ち主に祟る刀」だとか、「人を操る妖刀」だとか、頭にあるのはその程度の話だけなので、刀剣にも歴史人物にも何やら詳しそうな方が見えた場合には、学芸員やボランティアさんを頼み、自分はそそくさと自席に引っ込みます。
 もっとも、重要文化財クラスの刀にも、鬼女やら酒呑童子やら祢祢(ねね)と呼ばれる妖怪やら、雷を斬ったと言われる刀まであり、こうなると刀のキャラクター化とどっこいどっこいな感じでもありますが。ちなみに、抜かれれば必ず血を見ると言われる「村正」は、「刀剣乱舞」での設定では、「恐ろしいほどの切れ味をもつ実践向きの打刀。何かにつけて脱ぎたがる癖がある」となっています。それにしても、なぜ脱ぎたがる。


「太刀 銘 安綱 号鬼切」(京都・北野天満宮 蔵)


「鬼切丸」ペーパークラフト 
当館ホームページから無料でダウンロードできます。