最上義光歴史館


「賦何墻連歌」冒頭部分

 連歌会においては、ただ目の前の情景を和歌で表現するだけではなく、古典を踏まえた場面選びや本歌取りがあり、一方、他人の句を受けて繋ぐことから、前句にある由来や意味を理解し、式目を踏まえながらも新たな展開への刺激となる句を付ければなりません。歌会に人が集い詠み合うという「座の文芸」ならではの気のきかせ方が求められます。古今和歌集には紀貫之が「猛き武人(もののふ)の心をも慰むるは、歌なり」と記していますが、時代が進んで、踏まえるべき古典や式目も多くなり、気付きの有無や歌の出来不出来が面子にもかかわるため、「心をも慰むる」どころか、かなりハードなものではなかったかと思われます。連歌会は夜を徹して行われることもあり、「賦何墻連歌」なんか、脇句の段階で「明(け)やすき山」、山の空が白み始めている、とか詠んでいるわけで、あ、違うか。とにかく、連歌会の挙句の果てには、身も心もボロボロになったのでは、と思ってしまいます。
 さて連歌には、「月」と「花」の句を詠み入れることとなっていますが、月と花は「中秋の名月」と「桜」を意味するのが慣例です。これでいくと、「おる花のあとや月見る夏木立」では、花は春、月は秋、でも季語は夏木立で、春、夏、秋をいっぺんに詠み込んだ、という句になります。ただ、「おる花」は回想であり、「月」はどの季節でもいいということにもなっているので、とりあえず季語がごっちゃになっているわけでもありません。
 さらに「花」については、挙句のひとつ前の句で取り上げることが通常なのだそうです。が、「賦何墻連歌」では、「別れた男は、今日は誰と」という句になっています。一方、テーマとなっている「墻」はどこにいってしまったのか、全ての句をざっと見渡しても見出せません。もう、主題も進行も関係ないフリージャズ状態です。
 ところで「賦何墻連歌」の挙句はつぎのようなものです。
(挙句) あたなる人に ちきるはかなさ  玄仲
漢字を当てはめると「徒(あだ)なる人に 契るはかなさ」、つまり「あてのない人と約束するむなしさ」とでも訳すのでしょうか。これを素直に遊女を詠んだ句とするのは易しいのですが、そうです、遊女を義光と置き換えれば、「徒なる人」とは秀吉ということに。あるいは、玄仲は里村紹巴の次男なのですが、遊女は紹巴とも置き換えられるのでは。以上、私の解釈にすぎませんが、どうでしょう、天国の名子先生。
 なおこの句は、「会はで止みにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち」という徒然草137段にある文言に出典を求めることができます。この137段と言えば、あの有名な「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」で始まる段で、ああ、ここで発句と同じく挙句にも、「花」と「月」とをぶっこんだのかと。こうなるともう、あらかじめ発句の段階で用意されていたとしか思えません。やはり連歌恐るべし。蛇足ですが、「徒なる」という言葉は、「徒然なる」という言葉とも関係します。
 さて、ここらでいつものことわざを、とは思ったのですが、今回は連歌に由来する慣用句を3つほど。
 まずは「花を持たせる」。花と月は定座 (句を詠む位置)が決められていました。しかし、連歌会で最年少もしくは特別な主客がいる場合には、歌を詠む順番を変えてでも、その人に「花」の定座の位置を譲る心配りをしていました。これが「花を持たせる」の由来です。次に「月並み」という言葉ですが、月を詠み込むときに、月の言葉が入る例えば「正月」や「神無月」などの言葉を用いても、それはただの「月並の月」(つきなみのつき)とされ、月の句とはならないことからきています。そして「挙句のはて」という言葉は、御存じのとおり、いろいろやっても好ましい結果にならないことで、私の日常においては「月並み」とともに身に染みる言葉ではあります。



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 当館では11月26日まで特設展示「武士の晴れ姿〜甲冑と戦の様相〜」を開催しています。さて今、甲冑業界の最大の関心事は、オータニさんが移籍する場合、兜パフォーマンスはどうするのか、いわゆる「どうするオータニ」問題かとは思いますが、あまりふざけたことばかり書くと、当館学芸員から相手にしてもらえなくなるので、甲冑についてちょっと勉強してみました。
 甲冑(鎧兜)は、時代により戦法も変わりそれにあわせ変化していきました。源平の時代は1対1で名乗り合って矢を打ち合う「騎射戦」であり矢の防御が目的でしたが、次第に「徒歩戦」(かちせん)のための軽快な動きができる甲冑が求められ、戦国時代後期には鉄砲戦を前提とした甲冑となってきます。甲冑はまた、実用性とともに威厳を示すことも必要で、戦闘以外でも首実検や儀式などで着用されました。
 甲冑の主な変遷は、大鎧、胴丸、腹巻、腹当、当世具足の順となるとのこと。
「大鎧」は、見た目が華やかで、馬上で矢を射るための機能と、矢からの防御に特化しています。「胴丸」は、胴を丸く包むような形で、肩と腰で重さを支え、動き易いものになっています。「腹巻」は胴丸を簡易にしたものですが、左右合わせの胴を胴丸と呼び、背引合わせの胴を腹巻と区別しているようです。さらに造りの違いで「仏胴」、「横矧胴」、「縦矧胴」、南蛮貿易でもたらされた西洋風の「南蛮胴」などがあります。
 鉄を多用すると重量が増したので,胴については横板が段状になった「最上胴」や「桶側胴」が現れました。「最上胴」は出羽の最上で多く作られたことから名付けられたもので、横に長い一枚板を五枚つないだ頑丈で簡易な構造が特徴です。今回の展示でもこの「最上胴」を展示しています。
 「腹当」はさらに簡易なもので、胴の前面(胸から腹、大腿部)とわずかに左右を防御している物です。「当世具足」は「今風の甲冑」という意味で、兜と胴に加え、籠手(こて)や佩楯(はいたて)、臑当(すねあて)などの小具足を含めた、全身を隙間なく覆うものです。当世具足は、戦国武将達が城下にお抱えの甲冑師を住まわせ、それぞれ特注の甲冑を制作させたことから多様なものがあります。技法を凝らした甲冑は、芸術品としても評価されており、戦功の褒美とされることもありました。徳川家康はイギリス国王やオーストリア皇帝にも、蒔絵などで装飾された豪華な具足を贈っています。
 さて、「北の関ヶ原」こと「慶長出羽合戦」では、最上義光とその援軍に駆け付けた伊達政宗、それに対する上杉景勝とその総大将の直江兼続が関係するわけですが、皆様、御承知のとおり、それぞれが着用した甲冑もまた有名です。
 まずは、伊達政宗の「鉄黒塗五枚胴具足」(てつくろぬりごまいどうぐそく:仙台市博物館蔵)。全身真っ黒のコーディネートで、5枚の鉄板を繫ぎ合わせて隙間なく包む五枚胴で防御力が高く、政宗はこれを気に入っており、仙台藩の歴代藩主やその家臣らも着用したことから「仙台胴」とも呼ばれるようになりました。また、筋状の繫ぎ目が62ある「六十二間筋兜」はあの大型の三日月の前立で有名です。当時の戦国武将の間には、月や星に仏の加護を願う信仰があったそうです。当館の今回の展示でも、伊達ゆかりの品ではありませんが「六十二間筋兜」を展示しています。
 上杉景勝が所用していた鉄黒漆塗紺糸縅異製最上胴具足(てつくろうるしぬりこんいとおどしいせいもがみどうぐそく:新潟県立歴史博物館蔵)は、あえて言及する必要はないのですが「最上胴」です。兜は「卍」の前立を猪が支えていて、この猪は戦勝を司る神「摩利支天」を表しています。摩利支天は陽炎を神格化した1柱で、陽炎が「焼けず、濡らせず、傷付かない」ことから、自在の通力を持つとされています。
 直江兼続の金小札浅葱糸縅二枚胴具足(きんこざねあさぎいとおどしにまいどうぐそく:上杉神社蔵)は、鎧に「愛」の文字をあしらったアレです。直江兼続が兜に「愛」を掲げた理由には諸説があり、軍神として崇められていた「愛染明王」や「愛宕権現」の頭文字を取ったとか、上杉家の施政方針であった「民を愛し、大切にする」の意味だとかと言われています。
 最上義光については、銃撃の跡が残っているという貴重な兜があるのですが、残念ながら、義光が戦場で着用した鎧というのは見当たりません。
 まずはこの4つの兜を揃えるだけでも、なかなかな企画展示となるわけですが、仙台や米沢の博物館では可能でも、施設事情により当館ではできません。代わりにペーパークラフトの兜であれば、全てをご自宅でしかも無料で揃えることができます。当館や各関係施設等のホームページからダウンロードできます。なお、最上や伊達などは甲冑のペーパークラフトもあり、当館売店でも販売しております。一領、いや1セット、最上は1,000円、伊達は1,300円です。秋の夜長にいかがでしょうか。

 
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 地球温暖化の影響なのかエルニーニョ現象なのかよくわかりませんが、山形も錦秋をスルーしていきなり冬に突入しました。市街地でも初雪が降り、当館も除雪機をスタンバイさせました。山形ではこの時期、タイヤ交換の話があいさつ代わりになり、「夏タイヤ」とか「冬タイヤ」とかいう言葉が行き交います。この「夏タイヤ」というのはノーマルタイヤのことですが、「あ〜、山形は夏の暑さハンパないですからね、やっぱり夏専用のタイヤが必要でねぇ。」とか言って、「昔はねぇ、冷やしタイヤと言って、井戸水に氷を浮かべて冷やしたんですよ。」とでも続ければ、もしかしたら信じる人が。
 さて、このタイヤ交換の時期は、某歌合戦の出場者が発表される時期でもあります。今年の話題はあのジャーニーさんのことかもしれませんが、還暦を過ぎた身からすれば、メンバー名どころかグループ名すらよくわからず、歌合戦と言えばせいぜい、石川さんが今年歌うのは「津軽」と「天城」のどっちだ程度です。
 あと、一部で物議を醸しているのが、大泉洋さんが「出場歌手」になったことです。以前、乳酸飲料のCMでカラオケランキングトップの有名曲をカバーしていたのですが、そのオリジナル歌手との対談で「もう少し練習しておけばよかった」とか言っていました。確かにそんな感じでしたが、歌合戦は「シェフ大泉」のような勝負になってしまうのではと危惧しています。
 さて、この大泉さんが還暦を過ぎたら、きっとこんな感じになるだろうなという人が、知り合いの不動産会社の社長にいます。その知識経験からなのか、お人柄からなのか、やたら面倒な案件の相談ばかりあると言います。ただ、そんな物件もうまくこなすため、噂ではかなりの豪邸に住まわれているとのこと。初めてお合いした40年近く前は、「どうでしょう」に出てくる大泉クンのような身なりだったのですが。
 以前、個人的な用件で、その社長さんの会社に行ったとき、「明日、旧家の蔵を買いに行く」という話をされました。そうです。蔵を買うというのは、中身も込みで買うということです。そういう物件をこれまで幾つか扱ってきたそうで、郷土作家の美術作品にも詳しくなってしまったとのこと。いわく、最上川を専門に描いているあの画家の作品がよく出てくるとか、今、手元に某美術館で生誕100年記念展をした女流画家の大きめの作品があるけど安くしておくから買わないかとか、まあ次から次へと話が出てきます。小一時間ほどこんな話になってしまい、肝心の用件は後で社員の方に相談することとなったのですが。とにかく、それなりの数をみて、しかも売買も絡むため、かなり目も肥えるようです。
 それにしても「蔵の一棟買い」というのは、夢があります。やれるものならやってみたいとは思いますが、まずは先立つものがないと。当然ながら価値の評価も難しく、美術館であれば美術的な価値判断もなされますが、博物館では、いつ、どこで、それが作られたり、使われたのかがわからないと、資料的な価値が失せてしまいます。
 さらに厄介なのは、品物の蔵出しはできても、蔵本体をどうするかです。大抵はその蔵の有効活用を、という話になりがちですが、市当局としてはきっともめることになります。何に利用して、どの部署で管理して、予算はどうこうと、課題ばかりが山積し、やがて「お蔵入り」ということに。
 さて、ここでいつものことわざですが、ふと浮かんだのが「捨てる神あれば、拾う神あり」です。これは、相手にしない人もいれば、助けてくれる人もいるので、くよくよするな、という意味ですが、博物館の場合、全く別の意味でとらえることができます。それは、その価値を見捨てる人もいれば、見出す人もいる、ととらえるのです。
 そのいい例が浮世絵です。日本から欧州へ陶磁器などを輸出する際、その梱包材として浮世絵が使われましたが、それがゴッホだのモネだのに見い出されて浮世絵ブームが巻き起こりました。まさに「捨てる紙あれば、拾う紙あり」といったことでしょうか。
 ゴッホは、モンマルトルに住んでいた時に、近くの古美術店の屋根裏ににあった大量の浮世絵に魅入られます。その後、日本に憧れながらアルルに移住し、南仏特有の明るい陽射しに、浮世絵版画の色彩を重ね、作品を生み出していったとのことです。惜しむらくそれは、山形にはない陽射しや色彩であろうかと。ただただ、暖冬を祈るばかりです。



除雪機もスタンバイさせました。


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最上義光騎馬像の周囲もすっかり冬木立に


付近の植栽も雪吊り・雪囲いがなされました。

 今年も早いもので師走に入り、いろいろと年末年始の予定を立てている方もいるかと存じます。その昔、バブルの時代に「こどものための博物館」(チルドレンズミュージアム)建設の調査検討を担当していたとき(結局、計画断念となったのですが)、ともにその作業をしていただいた東京の先生に、お正月の過ごし方を尋ねたところ、年末年始はお客さんがくるのも煩わしいので、いつも旅館で過ごしていると聞き、そういう正月の過ごし方を初めて知りました。年末年始を海外で過ごす人も少なからずいた時代でしたが、旅館で正月を迎えると。東京のセレブ層あたりでは珍しくもない話かもしれませんが、山形のセレブ層の、いわゆる本家あたりの年末年始の過ごし方は、年末から正月をはさんで出入りする親戚縁者とダラダラ酒飲みをしているうち、いつの間にか三が日が過ぎてしまうとのことです。
 ということで、今回は温泉の話でも。戦国武将は戦(いくさ)の疲れと傷を癒すため温泉を活用し、場合によっては隠し湯なども確保していました。特にいくつもの隠し湯を持ったのが武田信玄、また、信心的に隠し湯を持ったのが上杉謙信です。戦国武将御用達の温泉地で有名なのは、豊臣秀吉の有馬温泉、徳川家康の熱海温泉、前田利家の草津温泉などがあります。
 まずは最上家のご近所の上杉家そして伊達家に関わる温泉宿のご紹介でも。
 南陽市赤湯温泉にある「上杉の御湯 御殿守(ごてんもり)」は、上杉家別荘「赤湯御殿」の伝統を守り380余年という温泉宿です。まずは到着時に「お着き酒」、夕方には地元ワインの試飲、上杉資料展示室や甲冑体験室、東に5つ西に6つの風呂、オーディオのある図書室や卓球台もあり、およそ温泉旅館に求められるものは何でもあります。別注ですが米沢牛のステーキ、しゃぶしゃぶ、すき焼きがリーズナブルな料金でいただけ、宿泊料金もあのHグループがリニューアルを手掛けた付近の老舗旅館の半額程度です。
 また、秘湯で人気の米沢市「白布高湯温泉」の西屋・中屋・東屋前の広場には、直江兼続が火縄銃を製造させたことを記す「直江城州公鉄砲鍛造遺跡の碑」が建っています。同じく米沢市の「小野川温泉」は、西暦834年に小野小町が開湯したとされ、1587年(天正15年)には、伊達政宗が23歳のとき足を骨折し、ここで湯治したというのですが、こんな記録まであるんですねぇ。
 その伊達政宗ゆかりの宿が宮城県青根温泉の「湯元不忘閣」。「青根御殿」と「御殿湯」に滞在した正宗が、この感激と喜びを忘れないように「不忘」と名付けたことが由来とされます。「不忘閣」主人の先祖は、慶長年間、伊達公から「湯別当」の高禄をもらい、代々藩主の保養所守りの役と、関守りを兼ねていたとのこと。伊達公ゆかりの遺品が三つもの蔵にあり、現在、建物の最上階を甲冑をはじめとする資料の展示室にあて、展示ガイドも行っています。
 ここは先程の「御殿守」とは対称的な温泉宿で、秘湯好きにはたまらない湯宿です。ひと風呂浴びたらラウンジへ。休憩室「喫茶去」という広間ですが、座布団が置かれたベンチが何台かあり、壁際には民具が飾られ昭和感あふれるアルミサッシの掃き出し窓が広がっています。部屋の真ん中には地酒「蔵王」の一升瓶が置いてあり、その脇には串刺しこんにゃくの味噌田楽と柿の種が置かれ、これが勝手に飲めるのですが、気が付くと3合ぐらいいってしまい、夕食を気にしなければ一升の半分もいってしまうのでは、というくらいに不思議に飲めてしまいます。
 風呂は大浴場の他に立派な蔵の中にある貸切り風呂と定員2人の階段下の小さな半露店風呂があり、料理も「政宗鍋」という雉鍋や季節によってはしし鍋や鹿鍋なとのジビエ料理が出されるなど、秘湯の醍醐味が満喫できます。この不忘閣と前述の白布温泉の宿は、以前に紹介した「日本秘湯を守る会」の会員宿です。
 さていよいよ、最上義光ゆかりの温泉やその資料・武具を展示している宿についてですが、実は当館学芸員もそういう湯宿は聞いたことがないとのこと。ただ、蔵王温泉には行っていたようで、「義光が16歳のとき、義守・義光父子が高湯(蔵王温泉)に湯治に行き、鹿狩りをして眠りについたところ、近辺の盗賊数十人が来襲した。義光は近習の者たちの先頭に立って防戦し、二人に深手を負わせ、一人と組み合って刺し殺した。この武勇に義守は喜び、笹刀と称した家宝の名刀を授けたという」(粟野俊之「歴史館だより��8」)という逸話があります。まあ、蔵王温泉の場合、開湯1900年という歴史からすれば、最上義光は新参者ということかしらん。

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 いよいよクリスマスの季節とはなりましたが、クリスマスセールも昔のようには盛り上がらず、ましてクリスマスパーティーなどは、家庭以外では絶滅しつつあります。そんな暗い世間を照らすべくイルミネーションの類は色々がんばってはいますが、ネットではマライヤさんの印税はどのくらいなどという話題ばかりです(山下さんのも気になりますが)。もっとも今年は、違うパーティの話は賑やかです。
 さて、クリスマスはキリストの降誕祭ですが、12月25日が誕生日ではありません。聖書には誕生日を特定できる記述がないのです。12月25日とした理由は実はこうです。かつてローマでは、太陽神を祭る日を12月25日と定めていました。これは冬至を経て太陽の勢いが戻ることを祝ったものです。クリスマスはこの日に便乗したらいいと336年に教会が定めたものだそうです。
 キリストの生まれた年も紀元前4年というのが定説になっています。すると紀元前をBC(Before Christ)と表すと理屈に合わなくなるため、学術論文などではBCE(Before Common Era)と表記するようになっているそうです。ちなみに紀元後はADではなくCE(Common Era)となるそうです。
 また、クリスマスイブのイブは前夜祭のことではなく、単に「イブニング」を略しただけとのこと。カトリックの教会歴では、日没から次の日没までを1日と区切るため、クリスマスは12月24日の日没からとなります。それがクリスマスイブです。じゃ、翌朝は「クリスマスモー」と言うのかというと定かではありませんが、忌野さんと篠原涼子さんが「クリスマス・モーニング」という曲をデュエットしています(作詞作曲も本人たち!!)。
 ということで、クリスマスの蘊蓄をひととおり並べたところで、今回はキリシタン(切支丹)のお話でも。
 日本にキリスト教がもたらされたのは、1549年8月にフランシスコ・ザビエルが来日したときです。ザビエルはスペイン出身のイエズス会士です。イエズス会はスペインのカトリックの男子修道会であり、プロテスタントに対抗して1534年に創設されました。同じ年に織田信長が生まれています。
 最上義光は1546年に生まれ、1571年に山形城城主となります。その頃は既に南蛮貿易が盛んでしたが、1587年にバテレン追放令、1596年に禁教令が出され、1597年に長崎で二十六聖人が殉教します。さらに1612年にキリスト教禁止令が出され、1614年にキリシタン大名らが国外追放されます。同じ年に最上義光は亡くなりなります。
 1616年には家康が亡くなり、同年、初の鎖国令ともなる「二港制限令」が発令。その後1619年に京都の大殉教(52名)、1622年に元和の大殉教(55名)、1637、8年に島原の乱が起きます。つまり、最上義光が生きた時代は、南蛮貿易とキリスト教がもたらされ、それが禁教と鎖国へ向かった時代でありました。
 少し詳しく見ていきましょう。1543年に鉄砲がもたらされ、これ以降、ポルトガル人が頻繁に渡航し南蛮貿易が始まります。主な輸入品は絹や陶器などでしたが、大名達は鉄砲や弾薬などを買い求めました。鉄砲は国産化もされるのですが、火薬となる硝石や銃弾となる鉛は輸入に頼っていました。織田信長は国内に出回る硝石の流通を押さえており、これが天下取りの大きな要因だったとのことです。南蛮船は日本に宣教師を連れてきており貿易と布教がセットでしたが、一向一揆で苦しんだ信長は、仏教勢力に対抗するためにキリスト教を公認していました。
 豊臣秀吉も南蛮貿易を享受していたのですが、1587年に島津攻めに行った時、キリシタン勢力により現地の寺社が壊され、南蛮貿易で財力や武力を蓄えるキリシタン大名を目の当たりにするとともに、一向一揆を思わせるキリシタンの結束力や南蛮貿易における奴隷売買を警戒するようになり、同年、キリシタン宣教師の国外追放を定めるバテレン追放令をだしました。ただし、南蛮貿易を続けたかった秀吉は宣教師の布教を黙認し、宣教師たちも布教のための資金を南蛮貿易から得ていました。
 1612年の禁教令は、幕府直轄地の教会破壊と布教禁止を命じるものでしたが、諸大名は「国々御法度」として受け止め、同じ施策を行ったそうです。しかし、伝道者の一部は布教活動を続けていたため、1614年に伴天連(バテレン)追放之文を発布し禁教令を全国に広めました。この時、奥州外ヶ浜(津軽)には70余名の武士が流され、奥羽地方にキリシタンが流れ込みます。山形の伝導は、津軽を訪問する宣教師によりなされました。宣教師は、長崎から日本海の各港を経由し酒田に入ったとの記録があります。
 やがて弾圧が厳しくなり、全国的には、1619年に京都にて52人が殉教(京都の大殉教)、1622年に長崎西坂にて55人が殉教(元和の大殉教)、1623年に江戸にて50人が火あぶりで殉教(江戸の殉教)しました。伊達政宗はこの江戸での火あぶりを目の当たりにし禁教強化へとむかうのですが、1620年に慶長遣欧使節の支倉常長が仙台に帰着し、キリシタン家臣も何人かおり、その扱いに苦慮せざるを得ませんでした(詳しくは吉川弘文館「日本歴史」2023年12月号佐々木徹氏論説を)
 また、米沢の上杉景勝は宗教に寛容であったことから近隣の信者が流れ込み、領地には最大1万人とも言われるキリシタンが存在したそうです。景勝は禁教令を布達したものの取締りは寛大で、幕府に対し「当領内には切支丹一人も御座なく候」と答えたそうです。しかし上杉景勝を継いだ定勝の時代となると禁教圧力に抗えず、1629年に甘粕右衛門一族ら53人が殉教、その後も数多くのキリシタンが殉死しました。その処刑が行われた米沢市にある「北山原キリシタン殉教の遺跡」は、日本でも有数のキリシタン殉教の地となっています。
 山形城下でも城主鳥井忠恒のもと1630年に9人が火刑、26人が斬首され、それ以降も殉教者が出るのですが、棄教を求めても従わない者に対する処刑であり、殉教者は神のもとに召されることを喜びとしていたため、次第に投獄し一生をそこで終えさす対応になったそうです。
 さて、当館では現在、御城印販売記念「山形城下絵図展」を、令和6年3月31日(日) まで開催しています。当館所蔵の山形城下絵図7点を展示公開し、山形城の歴史と変遷等を紹介しています。その中の1688年に描かれた「羽州邑山郡山形城内屋敷之図」には、キリシタンの牢獄と思われる場所(籠屋)の表示があるのですが、そこには通常「切支丹」と表記されるところが「切死丹」となっていています、うわっ。


 山形市街中心商店街にあるツリーです。最近、自宅の近くで、これと全く次元が違う「二郎系イルミネーション」の一般住宅を発見しました。もう「マシマシ」です。


 同じ商店街で見つけた看板です。遊び心というか、いじらしいというか、脱帽です。隣接する某市の「光のページェント」の予算規模は1億円以上とのことですが、ここまではしないかも。でも、そのイベントでは仮設の屋外スケートリンクも設けるそうです。こうしたスケートリンクはNYのロックフェラーセンターが有名ですが、国内でも見かけるようになりました。市内にもあったらいいなと思いますが、おっと、スケートリンクの話はアンタッチャブルということで。


この「羽州邑山郡山形城内屋敷之図」に「切死丹篭屋」が表記されています。


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最上義光立像と記念植樹「ベニシダレ」


桜花で埋め尽くされたお堀(4/11撮影)


「風流花見流し」の筏が着岸している北門

今回ご紹介するのは、当館の正面の公園敷地にある「最上義光」立像です。これは、山形西ロータリークラブが創立60周年を記念し建立したものです。その右手奥に写っているのが、最上義光公没後四百年を記念し最上義光歴史館サポータークラブ「義光会」が植樹したベニシダレです。
今週末(4月15日、16日)も霞城観桜会の行事が開催されます。お堀に筏を浮かべて演奏・演舞を行う「風流花見流し」や、野点で抹茶がいただける「大茶会」、やまがた舞子の花見園遊、美術館前では大骨董市が予定されています。
桜花はそろそろ見納めですが、場所によってはまだまだ楽しめそうです。また、桜と電車の撮影に終日カメラを構えられる方を何人もお見かけします。特に今週末のお堀では、花吹雪に花筏といった風景がみられるかと思います。例えとしては何なのですが、落花の中を進む花見流しの筏は、流氷をつき進む「ガリンコ号」を思わせる姿となるのではと。