最上義光歴史館

 昨年、山形市は2月8日を「ラーメンの日」に制定し、今年の2月1〜11日に「『山ラー』フェア」を開催しスタンプラリーやトークイベントなど行います。このフェアとあわせ、当館にもお立ち寄りいただければ幸いです。「食べてから観るか、観てから食べるか」、昔、そんな宣伝文句があり、いや、あれは「食べる」じゃなくて「読む」でしたか、失礼しました。
 さて、この「ラーメンの日」というのは、総務省の家計調査においてラーメンの世帯当たりの消費額が県庁所在地で日本一となり、山形市が「聖地宣言」を行ったことによるものです。2月8日というのは、その家計調査の発表時期にちなむものです。
 山形市にはその他にも日本一があり、まず「さといも」と「こんにゃく」。これは「芋煮」の材料であるためですが、なぜか「炭酸飲料」の消費量も日本一です。これが本当によくわからず、炭酸飲料が芋煮会のマストアイテムというわけでもなく、コーラの早飲み競争が山形で流行しているわけでもなく、どう消費されるのかナゾなのです。あと日本一としては「たけのこ」があるのですが、これもよくわからず、「孟宗汁」とか「土佐煮」とかを頻繁に食べるわけでもなく、ちょいと牛肉とともに煮物にしたりはしますが、それでも重量ベースで2位の新潟市の2倍以上、金額ベースで2位の京都市の1.5倍というのはどうしたことなのでしょうか。
 とにかくこういうことからすれば山形市は、「こんにゃくの聖地」でも「炭酸飲料の聖地」でも「たけのこの聖地」でもでもよかったとは思うのですが、さてはともあれ「ラーメンの聖地」を宣言したのです。
 さて、ここで問題は、「おすすめの店はどこ」ということですが、その前にそもそも「山形ラーメンとはどんなもの」ということが問題です。これを山形市民に問うても、きっと某局のチコちゃんに質問された人のようになるかもしれません。まず、スープは牛骨、豚骨、鶏ガラ、魚粉、貝だしとなんでもありで、麺も細いちぢれ麺から太いストレート麺まで、チャーシューは牛、豚そして鶏もありで、つまりなんでもありというのが山形ラーメンの特徴です。関係者はこれを「多様性」と言っていまして、なんか先端を行っている感じはします。これを横文字で言えば「ダイバーシティ・ラーメンシティ」とでもなるのかしらん。
 そのうえで、どこがおススメかと問われれば、ここは「ソバリエ」の教えが役に立ちます。この「ソバリエ」というのは、かつて山形は、ラーメン推しの前にソバ推しだった経過があり、そのときにソバの案内役として、ソムリエをもじって「ソバリエ」というのを養成しました。その山形のソバというのも、そば粉は晒し粉からひきぐるみ粉まで、辛いツユから甘いツユまで、切り方も太麺から細麺まで、店によってまちまちで、ラーメンと同様に「山形そば」の定義ができないのですが、「ソバリエ」はうまいまずいということは言わず、どんなそばが食べたいのかを聞いて、それに合ったそば店を紹介するのを役割とします。例えば、更科系の上品なそばであればあそこ、そばの風味豊かな田舎そばであればここ、とお薦めするのです。これをラーメンにも適用してはどうかと。実際、ラーメンソムリエというのがあるそうですが。
 さて、本職のソムリエは、その品種や産地などの知識とともに「ワインの言葉」というものを持っています。アロマはとか、ポディはとか、アタックがとか余韻がとか、いくつかのポイントとともに、例えば、「ブラックチェリーの色彩にコーヒーの香ばしさ」とか、さらには熟成した赤ワインには「濡れた子犬のような匂い」とか、石油臭がするリースリングワインには「キューピー人形の香り」とか表現するそうです。まあ、客の方はせっかくの説明をきいても、そのうち酔っぱらって赤や白さえもごっちゃになってしまうのですが。
 では、ラーメンをそんな言葉で表現したらどうでしょうか。「蔵王山系の伏流水がきらめく黄金色のスープに、のびやかに育った肉牛のアロマと、恵まれた大地の小麦の香りが漂う、山形のテロワールが生み出した一杯。アタックは優しく、しかしながらボディはコクがあり、もう一杯食べたくなる余韻がある。」という感じでしょうか。どんなラーメンなのかよくわかりませんが。



↑ 「山ラー」フェアとあわせ、当館にもお立ち寄りを。今年は雪が少ないのですが、先日の大寒波のときはご覧のとおりでした。雪景色の中でラーメンが楽しめるかも。

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 新年、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。とは言え、年明け早々、地震や事故など大変な状況になっております。被害にあわれた方には、心よりお見舞い申し上げます。
 さてはなんとも「めでたくもあり めでたくもなし」といった感じですが、これは「門松や 冥土の旅の一里塚」という句に続く句で、一休宗純の作です。ところで一説によると、人は120歳まで生きられるそうで、ならば自分はまだ折り返し地点ぐらいか、とのんびり構えていますが、健康寿命となると男性72.7年、女性75.4年とのことで、干支の一回り程度しかありません。
 昨年亡くなった坂本龍一さんに、「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」という著書がありますが、あと何回、まともな食事ができるだろうと、その都度の食事を大切にしている人がいます。一方、30歳を過ぎたら歳をとらない(数えない)という女性もいるらしいのですが。
 さて、山形市では毎年1月10日に「初市」が行われます。主催者の山形商工会議所のホームページによると、「山形市初市は、最上義光公(1546〜1614)治世の江戸時代初期から続く伝統行事です。当時、山形には三日町、五日町、七日町、十日町など、定期の市が立つ市日町がありましたが、それら市の中心として十日町に市神(いちがみ)が祭られ、毎年1月10日に、市神祭りとして十日町から七日町にかけて多くの露店が立ち並び、縁起物をはじめいろいろな物を並べて売り立てるようになりました」とあります。
 それでは、ちょっと詳しくみてみましょう。
 最上義光が山形城を整備した頃には、二日町から八日町そして十日町がありました。それぞれの町名の日に市が立つのですが、九日町がないのは、毎月9のつく日も十日町で市が立ったためです。
 十日町はもともと、三の丸の中にあった正楽寺と勝因寺を結んだ地にあり、その門前市が十日に開かれていたことによるそうですが、最上義光が山形城建設にあたって、現在の地に十日町を移しました。その際に、旧十日町を割付ていた基準石を移し、今(新)十日町を割付る元標にし、これを市神石としたそうです。市神石は高さ70センチ、幅35センチの円筒型の安山岩の自然石ですが、当時の観光ガイド本である「山形風流松木枕」には、「又此石は市神といわひ、毎年正月十日市の立砌(みぎり)為商人者参詣せすといふ事なし」とあります。
 市神石は十日町の道路上に半埋されていましたが、明治5年に交通の妨害になるとして県庁に移動したところ、それを運搬した人が病死しました。その後、市役所の西側にあった湯殿山神社境内に移されました。湯殿山神社は市役所改築の時に現在の地に移転し、その境内に市神神社のご神体として祀られています。ご神体は、初市の1月10日と熊手市を開催する11月23日のゑびす講大祭のみに御開帳されます。初市当日は、縁起物である「かぶ」のお頒ちや敬神婦人会による「かぶ汁」の振る舞いがあります。また、ここの絵馬は蕪をかたどったものとなっており、とてもいいデザインです。
 一方、市神石の移転後も十日市跡地への参拝者が後を絶たず、もとの場所には新たに市神様の碑が祀られ、戦後に歌懸稲荷神社境内に移されています。
 さて初市では、初飴や団子木などの「縁起物」と、まな板や杵臼などの「木工品」の他、飲食物、野菜、工芸品等の露店が並びます。ここで縁起物の説明を少々。
 まず「だんご木」ですが、全国に様々な形や風習があるのですが、お正月、特に1月15日の小正月に、ヤナギ(山形はミズキ)などの枝に紅白の小さく切った餅や団子を飾り1年の豊作を願う正月飾りです。餅花とも言い稲の花を表し、小正月が終わった後は、これを焼いて食べると1年間無病息災でいられるとのこと。1月15日のどんと焼きで焼いたり、1月20日の二十日正月(はつかしょうがつ)に食べたりするようです。
 ただし、山形のだんごは丸い最中の皮に彩色したもので食べたりしません。だんごの色は、緑が春、赤が夏、黄が秋、白が冬を表しており四季を通してご利益があるよう祈願し、恵比寿・大黒・千両箱・宝船・小判・鯛などのふなせんべいで飾りつけます。その片付けは、小正月や二十日正月にするべきでしょうが、1月末や旧正月まで飾ったりします。
 また、養蚕が盛んな地域は、団子を繭の形に整えた繭玉で同じように飾るそうですが、こちらは養蚕の豊作を願うものです。木に刺さずにそのまま供えて、小正月にいただくところもあるようです。
 つぎに「蕪」ですが、これは同業者組合への加入権が株と呼ばれおり、株という言葉にかけて、商売繁盛や身代が大きくなるよう願ったことによります。そして、「白ヒゲ」と呼ばれるアサツキの類の野菜ですが、これは白髭の老人のように豊かで長生きができるようにとの願いによるものです。
 そして「初飴」ですが、白紙の上に点々と水飴を盛ってつくる盛飴がもとで、山形特産の紅花の紅餅を筵(むしろ)に並べる様子になぞらえて、紅花の豊作を願ったものです。紅花の筵干しの様子を表すように、半紙に紅白の飴を15〜16個ほど盛り付けては市神様にお供えしました。現在は切飴となり福を呼ぶ縁起物として売られています。
 飴の種類は紅白以外にもいろいろあり、餡入り、ゴマ入り、抹茶、ココアなどありますが、露店によって取り扱う品が異なります。ところでこの初飴、なかなかに慎重を要する食べ物でもあります。歯にくっつき、歯の詰め物がとれたりするのです。歯の治療技術も飴の品質も改善されているようで、こういうことは少なくなりましたが、今でも当館の学芸員は警戒しています。
 また、数年前からこの初市の夜に、霞城公園から打ち上げ花火が上げられるようになりましたが、この話をするときりがなくなるので、この辺で失礼いたします。本年も最上義光歴史館をよろしくお願いいたします。


湯殿山神社境内にある市神神社


歌懸稲荷神社境内にある市神様の碑


市神石の跡地に建てられた十日市碑


畑地化が進む明和の時代、「羽州最上御城内乃図」


市神神社の「蕪」絵馬、大きくなりますように


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 今年は雪が少なくていいねぇ、などと言っていたら、多少は雪が降りまして。そんな日はさすがに来館者も少ないのですが、それでも連日、数名の外国の方が来館しています。雪の降らない地域の方が雪景色を求め蔵王などに行ったついでに、当館にも寄られているようです。山形駅から歩ける距離にあり、近くには山形市郷土館という絶好のフォトスポットもあるためですが、山形駅で若干お時間がある際には、是非お立ち寄りください。
 さて、駅から当館まで、少し回り道にはなりますが霞城公園を経由すればちょうどいい散歩道となり、今の季節はまさに「冬の散歩道」であります。さてこれで「ああ、あの曲ね」と浮かんでくる方は、きっと昭和フォーク世代の方かと。当時、ちょっと人が集まるような場所や部屋には(部室とかにも)フォークギターが置いてあり、テレビ番組では白いフォークギターがプレゼントされていた時代でしたが、私自身、ここでフォークについて語るには、あまりにも貧弱なフォーク体験しかなく、例えば「フォークの神様」岡林信康のこととか、「フォークの女王」ジョーン・バエズのことなどを語れと言われても、全くお手上げです。ちなみに「和製フォークの元祖」は高石友也だったんですね。♪ぼ〜くは、悲しい受験生ぃ〜、というあれです。まさしく今の季節にぴったりです。それにしても、ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞し、井上陽水が50周年記念ライブツアーで山形にも訪れるなど、当時、誰が想像したでしょうか。ということで、フォークについての蘊蓄は、この程度で許してください。
 さて、「冬の散歩道」ですが、これはサイモンとガーファンクルの4枚目のシングルで、原題は「A Hazy Shade of Winter」。直訳すれば「冬の霞んだ影」とでもなるのでしょうか(この曲のシングルCD(!!)の対訳には「どんよりとした冬の影にかすんでいる」とあります)。なんとなく山形城の別名「霞城」につながるような曲名でもあります。
 その歌詞は、人生の冬と希望を歌っている(ちょっと難解な歌詞)のですが、曲名にも歌詞の中にも「散歩道」という語はありません。まあ、原題にはない言葉を邦題に用いることはよくあるのですが。そう言えば、かつてビートルズブームの時、日本語のカヴァーがいくつか出されましたが、中でも名訳というか迷訳というか、「オブラディ・オブラダ」の歌詞にでてくる「Desmond」と「Molly」という人名を、「太郎」と「花子」と訳して歌っているのがありました(The Carnabeats)。かなり深い意訳です。
 ちなみに山形城を「霞城」と言うのは、北の「関ヶ原の戦い」とも言われる「長谷堂合戦」で、山形城の城郭が霞で隠れて見えなかったため「霞ケ城」とよばれたことに由来します。「霞ケ城」と呼ばれる城は全国にもあり、二本松城や丸亀城が有名です。二本松城は、春は桜が咲き乱れ城全体が霞に包まれたような景色になることから。一方、丸亀城は、合戦時の不利な状態になると大蛇が現れて霞を吹き城を隠した、という伝説に基づくそうです。これらに比べ山形城は単に、霞んで見えたから、ということですが、それで攻められずに済んだということで、「戦わずして勝つ」ことができた最強の城かと。
 ということで今回は、実際の霞城公園とその周辺の「冬の散歩道」の写真も何枚か掲載します。機会があれば、是非お散歩を。


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山形駅から最上義光館までの道筋を簡単にご案内します。

↑ まずは「冬の散歩道」というと、こんな感じでしょうか。


↑ 山形駅西口を出て、霞城公園の南口に行くとこんな案内看板があります。
山形駅から当館までは、駅東口から線路沿いに行くのが最短ですが、
霞城公園(山形城跡)を経由していくといろいろ見ることができます。


霞城公園に隣接して山形新幹線「つばさ」が走ります。
時折、こんな銀色の旧型「つばさ」も走ります。


霞城公園の中に入ると山形城の本丸が見えます。
普段は空堀ですが、雪が降ると水を張ったようにも見えます。


霞城公園内には元は病院だった洋館(山形市郷土館)があります。
山形市内有数の写真スポットで、特に外国の方に人気です。


霞城公園の大手門の場所に最上義光の騎馬像があります。
雪が積もると、吹雪に向かっているような像に見えます。


霞城公園の大手門を抜けると、山形美術館の前にでます。
時価総額ん百億円の印象派の絵画が常設展示されています。


山形美術館の東側に隣接して最上義光歴史館があります。
山形城の御城印や百名城のスタンプもあります。
以上、山形駅から当館までの「冬の散歩道」でした。


霞城公園の梅の花、早くもこんな具合です。

 やはり今年の冬は暖かく、当館に隣接する霞城公園では、早くも梅の花が開花しました。例年3月上旬に開花する「早咲きの梅」として知られている梅なのですが、これが今年は2月14日に開花したとニュースがありました。
 梅というと、「東風吹かば にほひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」という百人一首にもある菅原道真公(菅公)の歌が有名ですが、その菅公を祀っているのが京都の北野天満宮です。その境内神域には、菅公ゆかりの梅が約50種、約1,500本あり、梅苑「花の庭」が3月下旬まで公開されています。入苑料は1,200円で茶菓子付、週末は時間を延長しライトアップしています。
 北野天満宮は全国約1万2千社ある天満宮・天神社の総本社で、入試合格・学業成就・文化芸能・災難厄除祈願のお社です。山形市内にもいくつかの天満と名のつく神社がありますが、梅とともに受験期の今が、やはり稼ぎ時でしょうか。もっとも、神だのみの受験というのも、良いのか悪いのか難しいところですが。
 さて、千年以上の歴史がある北野天満宮には、数多くの宝物が奉納されており、刀剣だけでも約100振、そのうち最上家にも伝来した「鬼切丸 髭切」など5振が重要文化財です。
 北野天満宮では、菅公の亡後25年ごとに「半萬燈祭」を行い、文化財の「再調査・研究・修繕・保存」がなされるそうです。令和9年(2027)は「菅公御神忌千百二十五年」にあたり、「太刀 銘 安綱〈鬼切丸 髭切〉」の失われた「拵え」(こしらえ)を制作、奉納することとしました。拵えとは、鞘(さや)、柄(つか)、鍔(つば)などの刀身の外装のことですが、〈鬼切丸 髭切〉には、この「拵え」が伝わっていません。
 製作にあっては実行委員会を組織し、この「拵え」の製作費をクラウドファンディングで募り、今年の1月25日に締め切りましたが、2,262人の支援により、15,000,000円の目標に対し、57,841,643円の資金を集めました。当館からも関係職員・ボランティアからの寄附を募り贈りました。
 今回の「拵え」の製作には、携帯電話やPCで使われていた金や銀をリサイクルして使用するとのことです。ちなみに、〈鬼切丸 髭切〉の「鎺」(はばき)、これは刀身と鍔の接する部分にはめる筒状の金具ですが、現在2種類あり、新しいものは純金製とのこと。「拵え」の作成費の予算は当初、10,000,000円(その他は諸経費)としており、これが5倍前後の予算規模となったわけで、純金製「鎺」などは何個でもつくれてしまいそうです。なんとなれば、純金製の鍔や柄や鞘さえも、いや、失礼しました。
 さて、「梅」と最上義光という話題に移すと、現存する義光の連歌の最初が「梅」を詠んだもので、しかも発句です。「梅咲きて匂ひ外なる四方もなし」。文禄2年(1593)2月、義光は朝鮮出兵に従い九州名護屋の陣営にいたのですが、里村紹巴の一門が京都で春の連歌会を催すにあたり、発句を義光から届けてもらったものです。詳しくは当館ホームページの片桐繁雄著「最上家をめぐる人々♯30 【里村紹巴】」をご覧願います。
 さてここで、例により伊達・上杉両家の梅に関わる話でも。
伊達政宗が文禄2年(1593)に朝鮮から持ち帰った朝鮮ウメの臥龍梅(がりゅうばい)が現存しており、国の天然記念物となっています。仙台城に植えた後,晩年の居城である若林城内に移植しました。ここは現在、宮城刑務所の敷地になっており、一般公開されていませんが、以前、ブラタモリで中を訪ねていました。
 上杉謙信は酒豪で有名ですが、一人で縁側に座り梅干しを肴に酒を飲み、親しい家臣らと飲むときも肴は梅干しだけだった、との記録があるそうです。ただ、こんな飲み方が原因したのか、重臣たちとの酒宴の席で脳出血を起こし、49歳で死去しました。なぜか梅がお気に入りだったようで、市立米沢図書館にある「上杉謙信朱印状」の朱印は、鼎(かなえ)の中に「梅」の字が記されています。また、某酒造会社では、酒豪「上杉謙信」にあやかり、純米梅酒「梅杉謙信」というのを販売しています。ウメエースギ・ケンシン、駄洒落好きの親父にはたまらんネーミングです。

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 今年度も残すところあとわずか、ということで、来年度の事業について学芸員と確認をしていました。令和6年度は山形市制135周年にあたり、各職場・施設で関連事業の開催が求められています。当館は市制100周年に開館しているため開館35周年ということにもなり、やはり何かしら記念事業のようなものを、とは思うのですが、5周年刻み程度では特別な予算などを計上できるはずもなく、でもこれを愚痴れば「足らぬ 足らぬは 工夫が足らぬ」と、物資の乏しいまま戦につっこんでいったようなときの言葉が返ってきかねません。
 この何周年記念といういわゆるメモリアルイヤーは、何か事業のきっかけにはなります。例えば最上義光公の場合、1546年1月1日生、1614年1月18日没ということで、あの、メモリアルイヤーとは当面の間、縁がなさそうです。最上義光没後400年として2013年に「よしあきフェスタ」というものを開催し、長谷堂合戦を模した合戦や、甲冑を着てのパレード、講演会や宝さがしなどが催されました。当時、市の担当課は「義光の存在と魅力をアピールすることができた。ヒーローとして33年後の生誕500年まで発信し続けたい」とコメントしていました。「その手ゆるめば戦力にぶる」という、またもや戦時中の言葉がうかんできます。
 よそ様の話ではありますが上杉謙信公の場合、1530年1月21日生、1578年3月13日没ということで、3年後ぐらいには没後450年、その2年後には生誕500年ということで、毎年鉄砲隊が繰り出す某イベントにおかれましては、「いつもより余計に鉄砲を撃ってます。」ぐらいでは、やはり済まされないかと。
 一方、歴史博物館業界においては、このメモリアルイヤーとは比べ物にならない神風のようなものが吹くことがあります。それはあの「大河ドラマ」というものですが、実際、上杉家と直江兼続を描いた「天地人」が放映された折には、当館においても普段の年の倍以上の来館者があり、いまだにこの記録を超えられません。その効果は凄まじく、当地においても、最上義光を大河ドラマに、との声があがっています。
 そこで話題になるのが配役ですが、その前にざっと主要な登場人物と物語のおさらいを。最上義光は背が高くて筋力にも優れ、連歌を嗜み京の都でも一目おかれました。その妹の義姫は、伊達政宗の母になる人。美人で大柄で勝気で、鬼姫とも称されました。義光の娘の駒姫は、東国一の美人と言われ、豊臣秀次に見初められ嫁ぐも、秀次が自刃。秀次と会うことなく処刑されました。享年15歳。
 最上家は天皇及び足利家に関係する家柄で、最上家11代目の義光は信長、秀吉、家康のそれぞれに仕えます。義光とその父の義守との間には確執があり、それに乗じて伊達家が進出したりします。近隣の領土拡大にあってはいくつかの策謀もあり、ゆえに悪名を被せられもするのですが、豊臣秀吉の「小田原征伐」に加わり出羽国24万石を得ました。しかし、「豊臣秀次事件」のこともあり、関ケ原の戦いでは東軍につきます。西軍の上杉方は、「北の関ケ原」と言われる「長谷堂城合戦」で、直江兼続らが最上軍と対峙しますが、東軍勝利の報を受け退却。義光はその戦功により57万石の大大名となります。山形城下を振興し、最上川の舟運と治水灌漑を整備します。最期は病をおして駿府まで行き家康に拝喝、翌年に生涯を閉じます。このくらいのキャラとストーリーがあればドラマは動いていくのでは。特に最上義光(1546-1614)と徳川家康(1543-1616)とは時代がまるかぶりで、57万石というのも家康の覚えめでたき故なのですが、残念ながら「どうする〜」では、かすりもしませんでした。
 そしてこのドラマを面白くするのは、実は妹の義姫です。米沢城主の伊達家に嫁いだ義姫は1567年に政宗を産みます。18年後の1985年、義姫40歳、夫の輝宗42歳の時、輝宗は二本松城に拉致されます。政宗は救出に行くも、捕らわれている父もろとも敵に銃を放ち、輝宗は亡くなります。1988年、兄(義光)と息子(政宗)が、義光の妻の実家の地で開戦、義姫はこれを止めるため戦境に小屋を建て80日間座り込みをしました。1590年の政宗毒殺未遂事件では、首謀者とされた義姫(最近では政宗の自作自演説が有力)は義光を頼って山形に出奔、28年後に政宗のところに戻ります。長谷堂合戦では、政宗に対し義光への援軍を急がせる手紙を送りました。
 戦国一の悪女とも称されますが、兄や息子らの書状などからは、兄や息子を慕い慕われた関係が読み取れます。義姫の配役にあっては兄や息子との年齢的な整合性も求められることから、まず義姫役を決めてから兄(義光)と息子(政宗)を決めていくことになりそうです。もはや義姫を主役にしていいくらいです。
 義姫の物語については、山形在住の直木賞作家である高橋義夫さんの小説「保春院義姫」や、郷土史研究家の石川藤男さんの「義姫ものがたり」などの資料もあり、シナリオや歴史考証、ロケハンも難なく取りかかれるかも。逆に、兜と指揮棒以外、何も残っていないことから、大道具・小道具・衣装については勝手放題です。義光は身長180cm以上、政宗はその21歳年下、上杉家はもちろん足利家も信長、秀吉、家康もでてくる。そして駒姫という悲劇の美少女も。ドラマとしては親子兄妹のホームドラマでも天下国家の歴史ドラマでも、あるいは過去の某番組では「戦国一のワル?最上兄妹の素顔」とのキャッチ−なタイトルもつけられたことからサスペンスでもピカレスクでもいけます。さあ、皆様が想定されるキャスティングはいかがなものでしょうか。

(→裏館長日誌に続く)

「鐵[kurogane]の美2024の展示風景


綾杉のきらめき-刀工月山〜軍勝

 新年度がはじまり当館では、企画展示として「鐵[kurogane]の美2024〜綾杉のきらめき-刀工月山〜」と題し、本県ゆかりの刀工「月山(古刀)」の作品を4月3日から6月末まで展示しています。綾杉肌(あやすぎはだ)と称される独特の鍛えがご覧いただけます。戦国時代の刀剣は、当然ながら実用品であり、地産地消と言いますか、需要のあるところに生産するところができてくるわけですが、当館学芸員によると、刀剣はどこでも作れるわけではなく、まずは材料と燃料が入手できるところ、刀剣であれば砂鉄と炭が入手できることがまず条件で、そして水が大いにかかわるとのことです。
 日本刀の鉄は、日本には鉄鉱床が少ないため、花崗岩などにわずかに含まれる砂鉄を原料としました。「たたら製鉄」です。水辺に自然に堆積した砂鉄を集めたほか、山際を掻き落とした土砂を水路に流し、比重で選別する「鉄穴(かんな)流し」という方法で砂鉄を得ていました。そのための水がかかせません。また、たたらでは、燃料は「石炭」ではなく「木炭」を使用するので、近くに炭となる樹木があることも望ましい条件となります。
 月山は名水の地として有名です。環境省の昭和の名水百選にも「月山山麓湧水群」として入っており、「月山自然水」などの名称で県内のスーパーで販売されています。かつて山形市内の某百貨店では、正月初売りの時にこれを若水として来店者に無料で配っていました。実は数年前にこの百貨店は倒産してしまい、県庁所在地では初めて百貨店が消えた例となりました。しかし、その建物はいまも残っており、地下食品売り場にある井戸からは、地下水がこんこんと湧き出ています。主に建物の空調の冷却タワーに利用されていました。付近の商店街では、このようなビル用の井戸が他に何本も掘られ、一時期、地下水の汲み上げ過ぎによる地盤沈下も起きました。
 話を元に戻すと、築城においても水が重要でして、生活用水は言うまでもなく、堀の水をどうするかというのも課題となります。特に堀の水は、川から引き込むのが一般的かとは思いますが、山形城の場合は地下水で満たすことができました。ちょうど扇状地の縁にあたる場所で、築城当時は地下水が豊富に湧出していたようです。しかし一時期、地下水位が下がって空堀になってしまいました。そうです。地下水のくみ上げ過ぎによるものです。しかしその後、地下水を動力で揚水し、農業用水路からも水を引き込み、現在は水を湛えた堀となっています。
 刀鍛冶にしろ築城にしろ、水は極めて重要な立地要件になるのですが、先端産業のAI開発でも水の確保が必須条件となります。AIのデータセンターでは、日に何百万リッターの水が冷却水として必要とのこと。最近、国内誘致で話題となった大規模半導体工場も大量の洗浄用水が条件で、誘致できた場所はそもそも地下水などに恵まれていたものの、国や関係自治体は上下水道等の整備確保にそれなりの費用をつぎこんだそうです。
 ということで、今も昔も興産に水は欠かせないという話ではありましたが、最上義光にも水をありたがる言葉があります。「命のうちに今一度、最上の土を踏み申したく候、水を一杯飲みたく候」。これは、朝鮮出兵にあたり、肥前名護屋城に留まった時に郷土への想いをうたったものです。水に恵まれれば業を興し千金を手にすることもできますが、一杯の水にも千金の価値があります。ふむふむ、今回はなんかいいこと言ったような。

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