最上義光歴史館

関東に於ける最上義光の足跡を求め ―特に関ヶ原戦以後に限定して―

【六 少将叙任の頃】

 義光の念願の少将への遭が開けたのは何時であったか。
 『寛政重修諸家譜』は、「慶長十六年三月二十三日、東照宮御参内有て、広忠卿の御贈官を謝せらる、このとき、少将に任ず」とある。また他にも同じような記述があるが、果たして事実であったのか。当時の公の文書や個人の記録等から、この年の義光叙任の記録を探しだすのは難しい。『武家官位記』や『武家補任』にはその記録は無く、見落としもあるとは思うが、しかし、『続撰武家補任』には、慶長十六年三月叙任の記録がある。
 この年は、三月に始まった江戸城普請、そして禁裏修造と、諸国大名達にとっては経済的負担を強いられた年でもあった。駿府を出立した家康が二条城に入ったのは三月十七日、そして二十・一日の両日に叙任の栄に浴した者達は徳川一門[注1]であり、それ以外の大名達の記録は見当たらない。
 昨今の文禄・慶長期に於ける「武官官位」に関する研究書[注2]を拾い読みすると、管見の限りに於いて、義光の私家史料の記事を是認、一方では叙任の証となる「口宣案」と公家「日記」等をもとに、諸家の叙任記録に疑問を呈するものと、大きく二通りの見解を示しているように思われる。このような中で、義光の十六年三月叙任は間違いではなかったか、それに疑問を投げかけるような史料も、散見するのである。
 先に公家の舟橋秀賢が義光と親交があったことを述べた。その秀賢が同年十月の参府に際し、将軍秀忠の催した猿楽の席に招かれ、義光も同席していることが、秀賢の日記は伝えている。

廿一日、朝、払暁冷認、黎明登城、即猿楽相始、大夫ハ今春・妻少進法印両人也、………伊達息子・橘左近・毛利宰相・最上侍従・加藤左馬助、其他大名衆相伴也、入夜前大樹へ参、備前女中より雁一ツ給之、

 この時の「最上侍従」とは義光なのか、それとも家親なのか。二日後の日記に見られる「最上侍従」とは、当然、家親のことであるから、前者の侍従とは義光を指しているものと考えてもよいのではないか。

廿三日、佐久間備前守へ朝 ニ行、次三縁増上寺へ見物ニ行、晩最上駿河守へ行、滌(扇)五筋遣之、対面畢、参前大樹(家康)、

 秀賢の日記は、この十月の時点に於いて、義光を侍従としていことは、秀賢は未だ義光の少将叙任を知ってはいなかったのか。それとも筆の誤り侍従としたのか。
 明けて十七年正月、家康が発した法令三ケ条を定めた誓書[注3]は、最上侍従としている。

   条々
去年四月十二日、前右府様如仰出、任右大将家以来代々将軍方式、可奉仰之、被損益而、重而於被出御目録者、弥堅可守其旨事、
(二ケ条略ス)
右条々若有背輩者、被遂御糾明、速可被処科者也、如件。
 慶長十七年正月
津軽越中守 会津侍従 丹羽宰相 南部信濃守
秋田侍従 越前少将 安房侍従 立花侍従
米沢中納言 最上侍従 大崎侍従

 この「誓書」については、数本の写しを参考にしたが、『上杉御年譜』のみ日付を十五日にしているが、内容は同じである。大崎侍従とは伊達政宗の事で、既に少将に任ぜられている。この最上侍従にしても、一国の藩主でもない家親に比定するのは無理であり。義光のことである。この「誓書」の最上侍従とするのは誤りで、最上少将とするのが正しいのではないか。
 地元に残る義光関連の「寄進状」の多くには、「慶長十七年六月四日 少将出羽守」と、圧倒的に慶長十七年六月には少将に叙せられていることを示している。また鶴岡の日枝神社に義光寄進の「鰐ロ」・「鉄鉢」にも、「慶長十六年辛亥四月十四日 少将出羽守義光」の著名がある。また他にも例を見ることから、少将叙任の時期は慶長十六年三月であろう[注4]。

出羽国庄内櫛引郡鶴岡山王之霊地久怠点処加再興殊奉納鰐口上下之社者也
慶長十六年辛亥卯月四月十四日
少将出羽守義光敬白

 また、この年の八月十二日発給の、少将叙任に関わるものかと思われる複数ある文書から、その一部を取り上げて見よう。

  最上出羽守義光書  秋田長山文書
 御位の御志うきとして、わさとまてにさし上申され候、御めてたふ
一、銀子   三匁
一、あふき 一本 なか山わかさ
   以上
慶長十六年
  八月十二日(小黒印)たちま
            ミの

 この叙任の祝儀として家臣達に与えた「目録」であろうが、その叙任の喜びを共に分かちあえたことであろう。大名やその嫡子の官位叙任に際しては、藩内では江戸と国元で一年かけて盛大な祝が為されたという。その時には、藩主から家中へ御祝儀が振るまわれ、また家中からも藩主へ御祝儀献上もあった。これらは近世前期から行われており、官位叙任は家中をも含め大きな慶事[注5]であった。
■執筆:小野末三

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[注] 
1、『史料綜覧』(慶長十六年三月条)
2、「近世武家官位制の成立過程について」(『史林』七四巻九号・平三年 季 煌)
李は家康・秀忠の時期は、将軍宣下・上洛と大きく関連があるという。それが慶長十六年の従四位下以上の叙任については、吉良義弥を除き、家康上洛の三月廿前後にとり行われたしており、義光の名も挙げている。
 「慶長期大名の氏姓と官位」(『日本史研究』四一四号・平九年 黒田基寿)
黒田は慶長期の諸大名とその嗣子の叙任について、年代別に示しているが、義光の叙任の記録もある。
 「天正・文禄・慶長年間の公家成・諸大夫一覧」(『栃木史学』七号・平五年 下村 效)下村は「武家補任や「寛政譜」などの誤りが多い事から、「口宣案」や「公家」日記などの確かな史料により、大名の官位叙任を拾っていくしかない。総じて諸家の「寛政譜」など、特に天正・文禄・慶長初期については、信頼しがたい部分が少なくない、と述べている。
3、「諸法度」(『大日本史料』12編之9)
4、『山形市史・史料編l』
5、「近世武家官位試論」(『歴史学研究』七〇三号・平九年 掘 新)
関東に於ける最上義光の足跡を求め ―特に関ヶ原戦以後に限定して―

【七 最晩年期を迎えて】

 最晩年期の慶長十七・八年頃の義光は、江戸での公儀へ「誓書」提出の正月五日に始まる。義光に残されたこの二年余の年月は、病躯を押しての領国経営の仕上げの時期であった。それはそれは庄内での開拓事業の根幹となる灌漑用水路の開削事業は、三月に始まる北館大堰の工事を以て、一応の幕を降ろしたといえよう。
 十七年正月、公儀に「誓書」を提出した義光が、帰国の途に就いたのはいつ頃であったか。それは三月に始まる大堰開削に併せての帰国だったのか。義光の北館大学宛の書状[注1]を見てみよう。

(イ)
おって京都ニて存もよらぬ我等くらいの事、御所様よりおほせ出され、くわふん忝なき事、かたかたにまんそくの事、尤ニ候、
  以上
藤十郎さうさうしやうし出候へは、よき事とまんそく候、殊にゆわ井のよしにて、たるさかな内て・中たてめんめんにさし上候、則五月一日をゆわい候へハ、そさうニ候へ共、かたひらとらせ候、端午ニちやしく候へく候、何事もめてたく、かしく
  五月一日   出
   北館大覚(学)とのへ

(ロ)
こゝもとかはる事なく候ゆかしくあるましく候、江戸するか(駿河)御しつかに候へく候、  以上
つるおか(鶴岡)のしよたうく(諸道具)風すかし候ハんためニ此もの共相下し候、さて又そこもとふしんなにほと出候や、心もとなく候へハ、かれらもとりの時分くハしく可承候、めてたくかしく
  五月九日   出
   北館大覚とのへ

 また、次の十八日付の書状[注2]には、「此時分気相も能候ハゝ罷下見候ハゝ、皆々も悦我々のなくさみに成候ハン物をと呉々残多候」と、気分も良いのでそちらに赴いたならば、皆も喜ぶだろうが、それも出来ない残念さを述べており、暗に体調の悪さを伝えているようだ。次の七月二日付の書状[注3]は、義光が大石田から清川に下ることを伝えている。そして、七月の末には開削工事の完工を見たのであるが、八月五日の書状には、その功を賞すると同時にこの月の十八日には参府することを伝えている。
 この今年初めての参府は、体調も思わしくなかったのか在府期間は短く、大学宛の十月廿七日付の書状[注4]から察すると、もうその頃には帰国していたようにも思われる。義光は今年は雪も多く大変だろうから、来春三月の中頃には山形に来て、積もる話しを聞かせてくれと、書き伝えている。
 この年、義光は国元の個人や寺院に対し、六月四日付の「寄進状[注5]」を多く発給している。そこには少将出羽守の署名が見られる。暮の十二月に始まる禁中仙洞普請の助役に、最上家も招集されている。上杉家の記録には、禄高に応じて銀の拠出が為されたとあり、労力の他にそれなりの負担を強いられたのだろう。
 翌十八年の正月を国元で迎えた義光は、四月に入って参府した。新年の江戸表は大名達による恒例の参賀、そして駿府へと華やかな年の初めとなる。しかし、この年の初めには義光の姿を見ることはできない。義光の江戸入りは四月に入ってからである。一月三日には、多くの国持ち大名の使者が駿府を訪れている[注6]。そこには最上家の使者の姿もあった。

三日、於御座処三献之御祝、宰相殿、中条将殿、少将殿、御装束、国持衆名代、献御太刀御馬、羽柴肥前守利家、米沢中納言景勝………最上出羽守義光……(後略)

 この時、義光は未だ山形に在った。これが義光も新年には駿府に入り、駿府築城の祝辞を述べ、太刀と馬を献上して帰国したというが[注7]、それは誤りである。また駿府城の新築はもう五年前のことであり、改めて祝辞を述べる必要もないであろう。
 この時、伊達政宗、上杉景勝などは新年を江戸屋敷で迎えている。最上家の使者は誰が勤めたであろうか。坂紀伊守であったろうか。
二月十三日付の秀忠よりの書状[注8]がある。内容からすると、新年の献上品に対しての謝辞かと思われる。

為音信蝋燭弐百挺、銀子五十枚、并黒之馬壱疋到来、入念候段歓思候、将又所労無油断養生肝要候、猶本多佐渡守可申候也、 恐々謹言
  二月十三日  秀忠(御判)
   最上少将殿

 このように、慶長十八年(1613)の正月を病床で迎えたであろう義光が、病躯を押して参府したのは四月に入ってからだ。それは林光宛の書状[注9]からはっきりする。

(長文のため前文は省略)…江戸へ十八日ニ上着候、即刻従御城預御使者、色々過分之御諚共にて、翌日御前へ被召出、仕合無残所候而、早々令下国、気相養可致之由、御意共ニ候へ共、これ迄参、駿府へ御見廻不申候者、如何と存、今日江戸を相立、加の川迄着候義ニ候、於駿府にも弥以仕合能、頓而加致帰国候、気相も少々験気に候、御祈念故と存事候、猶以無油断御祈祷頼入候、尚帰国之上直々可申理候、恐々謹言
  卯月廿六日  義光(小黒印)
林 光様

 義光は四月十八日に江戸に入り、翌日には早々に登城し秀忠に会う。秀忠は義光の体調を安じたのであろう、早々に帰国せよとの事。しかし、義光はここまで来て駿府を尋ねないことにはと、今日(廿六日)江戸を出て加の川(神奈川宿)まで来たことを告げている。しかしこの時、義光は駿府入りを果たしたであろうか。文面から察るに少しは元気になったとはいっているが、病躯を押しての長旅である。果たして駿府へ入ったのか。それには大変な気力を必要としたであろう。こゝに五月二十日付の家康からの書状がある。

  出羽守就病気、使者差上候刻、被成下御書候、
   御書之写
銀子弐百枚・蝋燭三百挺并鶴到来、入念候歓思召候、所労養生肝要也、猶本多佐渡守可申也、
  五月廿五日  家康(御黒印)
最上少将殿

 また、佐竹義宣へ宛てた四月晦日付の書状[注10]には、「気相之事少々験気之分ニ候、此儘早々好御座候可と存申候」と、少しは元気になったことを告げている。また義光の甥の松根備前光広が、熊野権現に義光の病平癒を祈る「祈願野[注11]」がある。

  以上
最上出羽守義光就煩、神馬壱疋并鳥目百疋奉納候、於御神前、御祈念頼入迄候、猶彼使者可申述候、 恐々謹言
  八月廿日  白岩備前守
             光広 (花押)
熊野那智
 御別当 御宿所

 この「祈願書」は、帰国した義光の病状を察した光広が、その平癒を願ってのものではなかったか。そして、義光の江戸・駿府への旅はこの年が最後となったのである。天正以来、常に家康の庇護のもと羽州の大守としての地位を勝ち取った義光である。気力を振り絞っての江戸、駿府への道を歩んだのであろう。『古今武家盛衰記』は次のようにいっている。

義光の曰く、我死遠からじ、我家康公の厚恩を得ること年久し、之に依って最期の御目見せん、各用意せよと、家人等之を諌む、義光聴かず、俄に内立ち同年九月駿府へ赴く、此事先立ちて家康公聞き給ひ、本多上野介正純を上使とし、途中迄遣され、労らひ給ひ、本丸式台迄、乗物似て参るべき旨仰越さる、義光関悦し、上野介同道にて登城するに、御居間迄召寄せられ、種々御懇志の詞、且病体を問ひ給ひ、御手づから御茶を賜はり、急ぎ帰国し心の儘に補養すべし、帰国の道なれば、江戸へも立寄り、将軍へも対面すべしとて、自筆の御書を添え遣さる、其文に日く、

今度出羽守不厭老病、今生之為暇乞令参府候条、諸事御懇意専一候、 以上
  九月廿一目  家康
   秀忠公へ

斯く認め義光に預け給ふ、義光感涙を催し退出すれば、押付け上使を以て、御夜着呉服并御菓子等を賜ふ、夫より義光江戸へ赴き、先立ちて家康公の御書を上る、此時も途中迄上使あり、御玄関迄乗輿にて登城、又御懇意の仰数々あり、偖御小袖金銀等腸はり、早々帰国し補養すべしと、御直に暇賜けりれば、翌日江戸を立ちて十月上旬山形へ到着し、今は思ひ置く事なしと、大いに喜ばる、終に慶長十九甲寅年正月十八日逝去、六十九歳、

 義光の駿府入りは九月に入ってからであろうか。先の林光宛ての書状には四月廿六日に駿府への道を取り、加の川(神奈川宿)まで来たといっている。しかし、このまゝ駿府へと歩を進めて行ったのか。家康はこの月の十七日には関東へ放鷹の旅に出かけ、二十七日には江戸城に入っている[注12]。義光の駿府入りはいつ頃であったのか。
 師走の十七日、将軍からの書状は、家親の江戸での役儀三分之一免除を知らせるものであった。それは義光への暖かき配慮を示すものであった。

所労験気之由弥養生尤ニ候、然者駿河守参在江戸の条、年来之役儀三ケ一免除候間、可得其意、猶本多佐渡守可申也、
  十二月十七日  秀忠(御判)
   最上出羽守とのへ

 この年の義光にとっては、念願の羽州の大半を掌中に収め、更に将軍家との深き繋がりを築き挙げたという満ち溢れた歳月であったろう。そして、明けて十九年正月十八日、波乱に満ちたその生涯を閉じる。六十九歳。
「梅津政景日記」 
正月廿九日、出羽守様御死去之様子、館岡(楯岡)宿にて承届候、十八日に御死去被成候と、在々まてふれまハリ候由、
「最上家伝覚書」 
慶長十九寅歳正月廿五日、権現様相州小田原御働座被遊候刻、去十八日出羽守少将義光死去仕候由、同名駿河守家親飛脚差上候、本多佐渡守殿則言上之、駿河守儀急致下着、仕置等可申付旨被仰出、則帰国仕候、
■執筆:小野末三

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[注] 
1、「北館文書」(『山形市史・史料編1』昭四十八年)
2、「狩川八幡文書」(1と同じ)
3、「本間美術館所蔵文書」(『最上川土地改良区史』昭五十三年)
4、「最上川土地改良区文書」(3と同じ)
5、『山形市史・史料編1』昭四十八年
6、「駿府記」(『大日本史料』12編之10)
7、『山形の歴史』(昭三十九年 川崎浩良)
8、この書状の発給年月については、『山形市史・史料編1』所収の「家譜」は三月とするが、『大日本史料』や『徳川実紀』などは二月とする。
9、「慈光明院所蔵文書」(1と同じ)
この年の正月に江戸入りを果たせなかった義光にとっては、寒気の去った時期を待ってのことであったろう。将軍は義光の身体に気を使い、早々の帰国を進めた。義光は駿府を訪れるべく、神奈川宿まで歩を進めた。そして、この書状を認めたのだ。 文中の「加の川」とは「神奈川」のことである。先の舟橋秀賢の日記にも、「十三日、晴、早朝出大磯到着藤沢、過富塚(戸塚)、狩野川(神奈川)、到品川投宿」とあり、中世から近世初頭の頃は、加の川ともいっていた。
10、「佐竹氏記録」(『大日本史料』12編之10)
この書状には、佐竹義宣が三月の晦日に駿府に至り、家康に会い金子・時服などを献上、四月九日に江戸へ下り、七月十一日に帰国の途に就いたとあるから、この書状は江戸にて交わしたものであろう。
11、「熊野夫須美神社文書」(『大日本史料』12編之13)
12、『史料綜覧』慶長十八年九月条
十七日、家康関東ニ放鷹セントシ駿府ヲ発ス、廿七日、家康江戸ニ著シ、江戸城西丸ニ入ル、諸大名、之ニ謁ス、
関東に於ける最上義光の足跡を求め ―特に関ヶ原戦以後に限定して―

【あとがき】

 山形藩主・最上義光の死から僅かにして、最上家は領国の崩壊を見るに至った。ここにその要因については、数々の説が挙げられてはいるが、主家一族の相剋に、それぞれ組した者達による権力争いによるものかと、探せば話題は尽きないようだ。あの戦国の世を生き抜き、徳川の世の奥州の一角に覇を成し遂げた義光である。その義光が残した偉大なる通産を、僅かにして失ってしまう程に、義光の死の反動の大きさは、凡なる後継者だった家親そして義俊の器量の無さから、結果は一国を失うことになってしまった。
 本稿は、関ケ原の役以後、徳川の政権下のもと江戸に集中せる諸大名の中に、羽州の最上義光の姿も見られた。そして、大坂の役を知らずに去ってしまった義光の、江戸を基点としての関東での動向を、残された僅かな史料を基に纏めたものである。それは勿論のこと、義光のその前後に歩を進めていた上方、本国での動きにも、多少は調べる必要が生じてこよう。
 義光が営々として築き挙げたものが、一瞬にして崩れ去ってしまった。そして、その失われた多くの物の中から、忠実に最上家を語る手立てを探すことはできないのか。勿論のこと、それには他家史料の利用が不可欠であることは、論を待たないであろう。
 本稿は、『山形県・地域史研究』(26・27号 平成13・14年)に収録したものに、新たな視点のもとに改訂、また訂正などの手を加え、書き改めたものである。

終り

■執筆:小野未三

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 現在、当館では屋根の補修工事のため、建物の前面に足場を組んでいます。工期は11月下旬までを予定しておりますが、通常どおり開館しております。ご不便をおかけするところもあるかと存じますが、どうぞご来館ください。
 実はタイミング悪く、この工事が始まる前に展示室で雨漏りが発生、それが出入りの新聞記者の知れるところとなり、写真付きの記事になってしまいました。当館の学芸員は、これでしばらく他所から展示品を借りることができなくなる、と嘆いていましたが。工事をすれば大丈夫!!とアピールしたいところなのですが、当面の間、だいたいその、人の噂になる75日間くらいは厳しいかも。
 ところで私の場合、なぜか異動する先々の施設で雨漏りに遭遇し、バケツだの雑巾だのを床に並べるのを目にしています。バケツを並べたりするのは落語とかの世界のこと程度に思っていたので、21世紀の世の中でもこうなのかと、ちょっと驚きました。
 雨漏りの原因というのは意外に様々で、当館の場合は、防水シートの劣化と雨水排水管の構造上の不具合によるものです。かつて音楽ホールのある某施設にいた時は、そのバックヤードの天井が雨の重みで剥がれ落ちてきたのですが、屋根の形状が複雑なため板金の隙間から雨漏れが発生したものです。また、築50年に近い建物の某本部にいた時は、4階部分の壁の亀裂から染みこんだ雨水が、3階の事務室の天井に回り漏れたものです。「壁際」や「窓際」にはだいたい管理職の席があるのですが、そこに落ちていました。山形などの寒冷地では隙間に染みた水分が、冬期間に氷結して膨張し、隙間が大きくなるのも一因です。いずれも以前から雨漏りが予見されており、前任者は対策を求めてはいたのですが、後回しにされていたようです。
 これも個人的なことなのですが、以前、マンション管理組合の理事長を20年以上担っていたことがあり、その維持補修に管理会社とともに関わったのですが、やはり最初に必要なのがこの雨漏り対策です。屋根の防水シートの経年劣化に対する修繕なのですが、これがだいたい15年目あたり。当館は築30年を優に超えてはいるのですが、やっと屋根防水の大規模修繕を実施ということで、一般のマンションなどと比べると、持っているというか、時間の流れが違うというか。ちなみに丹下健三設計の赤坂プリンスホテル新館は、築28年で取り壊しました。こっちは時間の流れがいきなり早い感じです。
 筒井康隆の小説に「横車の大八」というのがあります。大八はもともと腕の立つ大工でしたが、他人の仕事に横車ばかり入れるので疎んじられ、仕事は減るばかり。しかし、大八によると、建物にはそこを押すと全体が壊れるヘソという部分があり、いい家ほどヘソが一か所に集まっているという。新築する場合は壊すときのことを考えヘソを作らなければならない。しかし建物のヘソは、素人の目にはとまらないような場所に設けるため、ヘソをみつけ解体できるのは大八にかぎる、という話です。建物は丈夫で長持ちばかりがよいのではなく、社会環境に合わせスマートに解体できるのが大事ということで、この小説を学生の頃に読んで衝撃を受け、建設系の同級生にその設計思想を吹いて回ったことがあります。
 またもや話が横道に逸れてしまったのですが、最後にいつものようにことわざを。ここはやはり「畳と〇〇は、新しいほどいい」ということわざでしょうか。昔なら新郎にこんなことを言っていたかもしれませんが、今どきこんなことを言ったら、どこからどう刺されることやら。これとは逆に、「味噌と女房は、古いほどいい」という、罪滅ぼしのようなことわざもあるそうです、あっ、これでは伏字にした意味がなくなってしまう。それでも物と人とを一緒にしてしまうのは問題なわけで。ところで博物館の場合、古いのがいいのか、新しいのがいいのか。少なくても「屋根と空調機器は、新しいほどいい」とは思います。


現在の工事の様子。なんか一夜城みたいですが、通常どおり開館しています。

→ 館長裏日誌へ
 当館は公園の敷地内にあり、建物の前には噴水がある立派な石造りの池があります。聞くところによると、これはローマのトレビの泉をイメージしたものだそうです。トレビの泉は、「後ろ向きにコインを泉へ投げ入れると願いが叶う」そうで、ここに訪れた人は、泉に背を向け、コインを右手に持ち、左肩越しに投げます。コロナ禍以前は、1週間に約15,000ドル、年に780,000ドルざっと1億円以上のコインが投げ入れられていたとのことです。「あ〜、その100分の1でも、館の前の泉に投げ入れてくれないかなぁ」と、ずんの飯尾さんのようなことを考えてしまいますが、当方が管理する公園でもないので、なんともなりません。
 トレビの泉には、ネプチューン(芸人さんじゃない方)などの厳つい大理石像が並んでいるのですが、当館前の泉には2体のブロンズ像が建っています。「愛の女神・笹戸ちづこ」像(佐藤忠良、制作1988年)と「若き立像‘96・笹戸ちづこ」像(笹戸千津子、制作1996年)の2体の女性裸像です。それぞれの作者は師弟関係にあるのですが、笹戸千津子氏がモデルとなった彫像と自らを彫った像とが並ぶという画期的な場となっています。彫刻家の師弟関係というと、オーギュスト・ロダンとカミーユ・クローデルとの関係が想起されますが、それはさておき、やはり創作意欲は刺激されるようです。
 佐藤忠良氏の作品は多くの公共空間にも置かれ、宮城県立美術館に併設されている「佐藤忠良記念館」には 約600点の彫刻作品が収蔵されています。とりわけ笹戸千津子氏がモデルとなった「帽子」シリーズは代表作ともなり、上半身は裸でスリムジーンズに帽子を被るという、流行をも取り入れたような裸婦像は人気を博しました。
 当館の前の公園にある像は、逆にシャツだけをまとったものです。いわゆるwearingはしていないので、「Don’t worry!」ではありません。実際、小さな子がこの像のまわりで遊んでいるとき、「おしり、おしり」と騒ぐ声が聞こえてきたりします。ちょっとしたクレヨンしんちゃん状態というか。
 この「シャツ」シリーズとでもいうべき彫像は、全国各地にもあるとのことですが、とにかく日本では公共空間での女性裸婦像が多く、しばしば論争もおきており、ジェンダーやルッキズムなどさまざまな問題提起がなされています。
 日本に「銅像」が輸入されたのは明治以降。軍国主義が進むと同時に軍人像が増えたのですが、戦中の金属供出や、戦後、軍国主義の排除を目指したGHQの政策で大半が撤去されました。代わって登場したのが「乙女の像」。それは平和の象徴として、衣装により貧富や階層などが表出しないよう裸体になっているとの説があります。昨今、平和、平等、自由などについては、別の多様な表現が求められるところではありますが、まずは裸婦の是非についての問題というより、その製作意図が大切とのことです。
 少々難しい話になってしまいましたが、なにはともあれ、泉にしろ、彫刻にしろ、お金が置かれるようになれば、それは本物と個人的には思っています。
 さておしまいに、いつもの「ことわざコーナー」ですが、今回は「頭隠して尻隠さず」でしょうか。もちろんその意味するところは、彫像の話とは無関係なのですが、話の流れで、思わず浮かんできました。確か昭和の時代に、そんな漫画があったような。顔は誰だか知らないけれど、仮面モノだったよう気がするのですが。


奥が佐藤忠良作、手前が笹戸千津子作
佐藤作はシャツをまとい、笹戸作は一糸もまとっていません。


小さな子にも人気の像は、当館の事務室の窓からはこんな具合に見えます。
トレビの泉というより、コペンハーゲンの人魚姫の像がある岩場のようですが。


→ 館長裏日記に続く


 現在当館では、山形城の御城印を販売しています。通常版の他、数量限定の最上義光のイラストが描かれた特別版があり、戦国武将のイメージを前面に出したものとなっています。しかしながら最上義光は、連歌にも大変すぐれており、現在、248句が確認されています。連歌の発句数も戦国武将では、細川藤孝(細川幽斎)に次ぐ第2位とのこと。発句は連歌会(れんがえ)の主客が詠むことが多く、つまり頻繁に、主客として迎えられていたということです。当館学芸員は、この文人としての最上義光にも光を当てたいそうです。
 多くの戦国武将が理想としていたのは「文武両道」。細川幽斎は「歌連歌乱舞茶の湯を嫌ふ人 育ちのほどを知られこそすれ」、つまり武芸だけではお里が知れるとまで言っているそうです。また連歌は、古典に通じていなければ「本歌取り(ほんかどり)」などの歌のやりとりができません。当時、戦国武将の間では古典の教養として、「源氏物語」や「伊勢物語」などが読まれていました。最上義光は在京中に、古典学者である乗阿から「源氏物語」を学び、切り紙(免許状)を伝授されるほどでした。
 さて、連歌の成り立ちについてですが、「日本書紀」や「万葉集」にある、二人で一首の歌を即興的にかけ合う唱和に端を発する、との説があります。このようなものを単連歌といいますが、平安時代後期に盛んになり、やがて句を付け連ねてゆく鎖連歌(長連歌)となります。
 鎌倉時代には、百句を続ける形式が定着し、やがて百韻を十集めて千句にといった具合に規模が拡大します。北野天満宮にあった連歌会所では、足利義満は明徳2年(1391)に北野一万句興業をし、永享3年(1431)には足利義教も千句興業を催し、豊臣秀頼も十万句の連歌会を催したそうです。
 一方、様々な制約を加える「式目」というルールが定められるようになりました。同じような付句を繰り返す「輪廻」(いわゆるループ)などを避けるためです。式目はいろいろな所でつくられましたが、全国統一の式目としたのが「応安新式」(1372年)です。新式とは言え、戦国時代からすれば結構、古典です。式目では、例えば「月」と「花」の句は必ず入れるとか、それはどこに入れる(定座)とか、ある数以上繰り返えさない言葉とか、発句(一句目)、脇句(二句目)、第三句、挙句(最後の句)はどうあるべきだとかが記されています。例えば第四句は、特に軽い句を出すところ。発句、脇、第三と工夫が必要な句が続いた後で、また頑張ってしまうとかえって単調になる。これをさけるために古事、本説、本歌取り等は勿論、月や花のような重要な句は出さない、とのことです。このように古典と式目を基礎としながら、前の句の内容に呼応したものを考え、次の展開が広がる句を繋がなくてはなりません。
 連歌会は誰が開いてもいいのですが、会を統括する「宗匠」という連歌に熟達した人物を入れます。また、その宗匠を補佐し、連歌を記録する「執筆」をおきます。発句は主賓が詠むことが多く挨拶句とも言われ、発句の季語によって会の季節が示されます。脇句は会を催した亭主が句を付けます。第三句はその日の連歌の「行様」(全体の流れや方向性)を決定付ける重要な句でとなります。挙句は、挙句の段階で迷うと風情がなくなるため、すんなりと詠むことが良しとされ、前もって挙句を考えておくこともあったそうです。また、亭主や主客は挙句を詠みません。
 戦国武将などに対し、古典や式目を教授し、連歌を指導し、宗匠も務めたのが連歌師です。連歌師は、都や各地の有力者、公家なども回るため、多くの情報を持ち合わせていて「情報屋」の顔もありました。また、大名家と公家との間をつなぐなどの役目もあり、ゆえに政治の混乱に巻き込まれることもありました。
 と、ここまでの内容なら、私なんかよりchatGPTのほうが、もっと要領よくまとめられたかもしれませんが、次回に続きます。

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