最上義光歴史館

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画面右上から「日本号」「蜻蛉切」「御手杵」


 甲冑ペーパークラフトは皆さん上手くお作りいただけたでしょうか?

 飾ってみればなかなかの見栄えだと思いますが、それだけではどうも寂しい場合のオプション的な小道具が登場です。
 甲冑ペーパークラフトは明記していませんが、全て1/4サイズになっていますので、オプションもこのスケールで制作しています。
 まずは前田慶次の皆朱の槍にあわせて、名槍ぞろいの『天下三槍』が第一弾です。
 通常、実戦用の槍は穂先が5寸から6寸(15-18�僉膨�度で、これ以上長くなると重く使いづらくなると言われています。それでも力自慢の武勇を誇る武士は、大きく長い穂先の槍を携えて参戦しました。
 穂先が1尺(30�僉砲鯆兇┐襪發里鯊膺帆笋噺世ぁ�慶次の槍がちょうど1/4サイズでこの大きさです。
 それらの槍の中でも、特に名高い逸話を持つ日本号と、常識外れの大きさで知られた御手杵、それに徳川四天王本多忠勝の愛用の蜻蛉切の三つを、いつしか『天下三槍』と呼ぶようになりました。
 残念ながら、御手杵は戦災で焼失してしまいましたが、それでもレプリカが作られています。日本号、蜻蛉切も実物、レプリカが各地で展示されていますので、是非この機会に足を運んでみてください。
 オプションは甲冑の新作共々これから準備していきますので、お楽しみに。
木村吉孝 

※「米沢・戦国 武士(もののふ)の時代」より転載


※このペーパークラフトは米沢市の木村吉孝氏が企画したものです。

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土井利勝家臣時代の鮭延越前と新関因幡
                    
【はじめに】
 元和八年(一六二二)最上家のお家騒動後、同家重臣鮭延越前秀綱と新関因幡久正両名は、当時の老中土井利勝に身柄を預けられたが、翌同九年には晴れてご赦免となっている。その際鮭延秀綱には、二代将軍秀忠から次男忠長の附家老への招聘を打診されたというが、当の秀綱はこれを固辞したと伝えられる。この秀綱の固辞理由は不詳のままである(拙論 最上家改易事件に関する一考察 野木神社秘蔵史料を中心として 古河郷土史研究会 第三一号 一九九三年)。その後鮭延、新関両氏は老中土井利勝に預けられた所縁で、元和九年にそのまま家臣として召し抱えている。今回は土井利勝家臣時代の鮭延越前と新関因幡について若干考察を試みたいと思う。
 元和九年当時土井利勝は佐倉藩主知行高六五二〇〇石で、当時の家臣団分限帳は伝存していない。しかし主要家臣団の顔ぶれや知行高などは、近年ほぼ明らかとなってきている。主要家臣について知行高一〇〇石以上は一三〇名前後、大身者では御城代土井内蔵允元政三〇〇〇石(藩主利勝の同母弟)、筆頭家老寺田與左衛門時岡二〇〇〇石の二氏のみで、他は三〇〇石未満の小身者達であった(拙論 土井利勝研究ノート(7) 老臣寺田與左衛門について 古河郷土史研究会 第44号 二〇〇六年)。

【土井利勝家臣時代の鮭延越前と新関因幡】
 このような現状を背景として土井利勝は鮭延越前と新関因幡の両氏を、何石で召し抱えようとしたのであろうか。これについては、鮭延越前へ三〇〇〇石、新関因幡へは一〇〇〇石であったと思われる。これが当時の利勝の知行高からみても目一杯の知行高であることはほぼ確実である。そして利勝は、この禄高を鮭延、新関両氏に公式に提示前に、将軍秀忠に打診したのである。これについて将軍秀忠は新関因幡への一〇〇〇石はすぐに了承したが、鮭延越前への三〇〇〇石については難色を示し、当初から五〇〇〇石を給するように、さらに召し抱えるに伴い五〇〇〇石加増を利勝へ指示している。恐らく秀忠は利勝に対し、現知行高では五〇〇〇石の捻出が困難であることを考慮しつつ、将軍家としても近い将来に一四、五万の大身の大名へ取り立てる意向を内密に伝えていたものとみられる。鮭延越前への五〇〇〇石は、事実上将軍秀忠が給したものである。これにより鮭延氏は、俄かに利勝家中における禄高最高位となったのであった (寛政重修諸家譜 土井家部分 土井系図乾 国立公文書館内閣文庫) 。つまり二代将軍秀忠、幕閣の土井利勝等が、最上家浪人鮭延越前と新関因幡の両氏について極めて高い評価をしていたことが古河藩土井家史料により明らかなものとなっている。
 実はこれと同様に、戦国武将鮭延越前が当時の将軍家や幕閣が高く評価して描いた軍記物に『奥羽永慶軍記』がある。このことで筆者は、出羽の軍記物に造詣の深い鶴岡市の歴史家佐久間昇氏に直接尋ねたところ『作者の戸部正直は、在野の歴史家であるものの水戸徳川家二代藩主光圀とも親交があり、大日本史編纂中であった同藩彰考館にも出入りを許されており、鮭延越前と将軍家との情報も水戸徳川家から入手した可能性が高い』とのことであった(佐久間昇 出羽戦国期に関する軍記物(語)の系譜の研究2‐『奥羽永慶軍記』を中心としてー山形県民俗・歴史論集2)。
 さて次に土井利勝が元和九年に鮭延越前に五〇〇〇石、新関因幡へ一〇〇〇石の高禄にて召し抱える際、どのような条件を申し渡したのか、この辺の経緯についても徐々に明確となりつつある。利勝は『このような高禄で遇するのはあくまでも当人のみで、その期間も藩主利勝代に限る』という条件で、世臣とする考えはないというものであった。
 この利勝の条件をあっさり受け入れたのは新関因幡であったようである。彼は最上時代鶴ヶ岡城代(現山形県鶴岡市)にあって最上家の蔵入地八万石を預かっており、また自身も藤島において知行六五〇〇石を領し、有能な農務官僚として知られ、特に灌漑事業に功績があり『因幡堰』の名を遺している。新関氏は主家最上氏に代々仕えた世臣の家柄で、久正自身の才覚に加えて一途な奉公実績が認められ要職までに登用されたものと見られる。この新関氏とある面で対照的なのが鮭延氏である。鮭延氏は利勝から当人のみとの申し出に対しては『わが鮭延家は当代までと致す所存』と返答したが、加えて某の生ある間は利勝様御代のみでなく次の御代においても扶持して欲しい。さらに現在随従している家来達(出羽時代からの旧臣)については某(秀綱自身)の亡き後、みな土井家で直参に召し抱え世臣として遇してほしい。この秀綱からの申し出について土井利勝は基本的に了承している。利勝は柔軟な一面も持っていたことが今日理解されつつある。
 
【新関因幡古河城下に没す】
 なお久正は寛永一六年〜同一九年の間に古河城下で没したことは分かっているが、没年不明で組頭役二三〇〇石であった。その後は嫡男彦六が家督したが家禄は三〇〇石に留まり、藩主利勝.が正保元年死去すると、二代藩主利隆には仕えずに土井家を退藩している。これは久正が利勝に仕官する際には、利勝が藩主時代のみという事前に約束があったものと見られている。

【鮭延越前古河城下大堤に没す】
 一方鮭延秀綱は当時既に高齢であったことも関係していると思われるが、身分は客人のまま知行五〇〇〇石も没するまで、そのまま据え置かれた状況で一切変更はなかった。これは土井家内での鮭延秀綱の処遇については、先に藩主利勝の意向のみならず二代将軍秀忠の意向も深く関係するところであり、このため後年なかなか変更が困難であったろうと想像している。鮭延秀綱は正保三年(一六四六)六月二一日古河城下大堤にて没す、行年八五歳。秀綱が死去してもなお、その家来一三名が現存しており、彼らは同年七月一五日土井家へ直参に召し出されている。彼らの待遇は知行高一五〇〜三〇〇石の古河藩の中級藩士であった。また家来達は秀綱没後、屋敷址に菩提寺『鮭延寺』を創建し現存している。

【最近の土井利勝時代家臣団分限帳と城絵図の調査について】
 土井利勝時代の各家臣団分限帳と佐倉・古河各城絵図について筆者が調査した結果、佐倉城絵図(古河歴史博物館蔵 七万石 時代は元和九年頃)には、当時の佐倉藩士名が記されており分限帳と比肩できる正確さを備えている。これには鮭延越前と新関因幡両氏の屋敷と、その家来達(土井家の陪臣)の屋敷が確認できる。また庭月理右衛門屋敷もあり、彼は本来鮭延越前の家来であるものの、最上家出仕時代鮭延家中に唯一最上家旗本格であったことから、利勝側もその家格を尊重して直参として召し抱えている。さらに新関因幡の嫡男新関彦六の屋敷も見えている。
 これが時を経て古河城絵図(現茨城県立歴史館蔵 一六万石時代 利勝が正保元年七月没時点のもの これと同時期の正保分限帳も伝存する)になると、先述した佐倉城絵図とは様相が異なっている。古河城絵図には当時の鮭延越前屋敷は古河城下大堤にあり、同絵図にはこの地域は記されていない。また新関因幡、同彦六各屋敷も既に存していない。しかし特質すべきことは古河城絵図には鮭延氏の家来達が陪臣ではなく、古河藩より直参の家臣団の中に中級藩士として個別に屋敷を与えられて、既に直参に編入されている状況が確認されている。
 このことについて『土井系譜・乾』(国立公文書館内閣文庫蔵)や古河藩系譜略(古河市旧渡辺家文書)によれば、鮭延越前の家来達は土井家に直参に召し出された時期は、あくまでも越前死去後の正保三年七月一五日と記している。しかしながら近年の古河城絵図、正保分限帳(利勝が没した正保元年当時のもの)によれば、実質的には、鮭延越前の最晩年頃には土井家に直参に列したことが史実として確認されている。

■執筆:早川和見(古河郷土史研究会会員)「歴史館だより��26」より
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鞘から抜くと…
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刀掛けに据えるとこんな感じに…
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micro小柄&笄
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実物と比較…
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鞘は金梨地ですが、黒漆や朱漆などにもカスタムしてみてください!!

ちなみに…


黒漆風にカスタムするとこんな感じ!!
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朱漆風にカスタムするとこんな感じ!!
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さまざまな塗りにチャレンジしてください!!


※このペーパークラフトは米沢市の木村吉孝氏が企画したものです。

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博物館とデジタルアーカイブ

 「デジタルアーカイブ」という言葉は和製英語です。今から約30年前に月尾嘉男東京大学教授(当時)が考案しました。初めて世に出たのは1994年12月に開催された「世界の文化を未来に継承するデジタルアーカイブ国際会議」。高度情報化社会の始まりを告げるWindows95発売の直前です。
 当時、情報技術がもたらす未来に対する期待が関係者のなかで高まっていました。パソコンや通信網などはそれを実現するにはいたっていませんでしたが、情報技術の進化と普及のために、1996年4月に文化庁・通商産業省(当時)、自治省(当時)が支援し、関連企業等により「デジタルアーカイブ推進協議会(会長 平山郁夫)」が設立されました。この頃、「源氏物語絵巻」や広隆寺・薬師寺の仏像などの貴重な文化財が最新技術をもちいてデジタル化されました。それによって情報技術の有用性を証明しようとしたのです。しかし、あまりうまくはいかず、2005年にはデジタルアーカイブ推進協議会も解散してしまいました。多額の費用をかけてデジタル化しても当時高精細画像を表示できるのは高価なスタンドアローン端末のみ。しかも最新であるがゆえに技術の賞味期限は一瞬。すぐに古びて、次々と新しい技術が生まれます。そのどれが生き残るのかも数年経たなければわからず。2017年にデジタルアーカイブ学会が設立されるまでのおよそ10年間は、試行錯誤を繰り返しながら、私たちの生活にインターネットが浸透していく期間でした。
 1996年から東北歴史博物館(1999年開館)の情報システム構築担当となった私はデジタルアーカイブ推進協議会のシンポジウムなどにも参加していました。その場では、世界中の人々の瞬時にお互いの状況を理解しあえるようになり、世界は平和になるという説明がなされ、私はそれを信じていました。もう一つ当時話題になっていたのは博物館側が非協力的だということでした。博物館側は収蔵資料をネット上で公開してしまうとそれで満足して来館者が来なくなるという強い危機感を抱いていました。しかし、30年後の現在、ウクライナとロシアの戦争は終わらず、アメリカでは自国第一主義の大統領が当選しました。人々が移動コストをかけてわざわざ見に来るのはネット上で話題になったものであり、来館者は見たものをスマートフォンで撮影してSNSで共有できなければ満足しません。
 このように情報技術は博物館とそれを取り巻く人々の価値観を大きく変えました。今後も大きな変化にさらされていくことでしょう。そんな時代だからこそ、私は原点に立ち返る必要を感じています。「アーカイブ」という言葉はそもそも「保存(庫)」という意味です。ヨーロッパにおいては、後世の人々に利用される可能性がある文書を保存し、利用に供する文書館のことをいいます。アーカイブスで保存されるのは貴重な美術作品だけではありません。
インターネットの普及によって保存と利用は必ずしも同じ場所である必要がなくなり、検索によって人間の記憶力をはるかに超えた大量のデジタルデータを扱えるようになりました。その恩恵については私が説明するまでもないでしょう。
 博物館が今後も役割を果たしていくためには収蔵資料のデジタル化は不可欠です。しかし、その作業が非常に困難であることも30年近くこの仕事をしてきた私にはよくわかります。ですから、私が現在携わっている「山形アーカイブ」ではできるところから少しずつ情報を掲載していくこととしています。ただ範囲は広く、山形の過去だけでなく現在の風景や人々の記憶も掲載することとしました。現在は一瞬で過去になりますし、今を生きる人たちにとって大切な思い出ですから。この記憶の蓄積は今だけでなく未来の山形の方々が自分たちのまちの在り方を考える手がかりになるはずです。博物館もデジタルアーカイブもそのために存在すると私は考えています。
■執筆:佐藤琴(山形大学附属博物館 学芸研究員・学士課程基盤教育院 教授)「歴史館だより��32」より
「武士[mononfu]の晴れ姿を体験しよう!!」

○とき  
11月1日(土)、2日(日)、3日(祝)
午前の部10時〜12時/午後の部13時〜15時

○内容  
甲冑を着て馬に乗り、戦場におもむく武士の晴れ姿を体験します。

(1)甲冑の着用と乗馬コース 
各日16名 (午前の部8名/午後の部午後8名)
参加費1500円(保険料込)
※小学生の場合は高学年以上です
   
(2)甲冑のみ着用コース  
各日8名 (午前の部4名/午後の部午後4名)
参加費500円

○会場  
最上義光歴史館 前庭と研修室

○申込み 
10月18日(土)から最上義光歴史館へ電話(625-7101)で申込み、先着順で定員になり次第、締切ます。日時は完全予約制です。当日甲冑は選べません。
「武士[mononfu]の晴れ姿を体験しよう!!」

○とき  
11月1日(土)、2日(日)、3日(祝)
午前の部10時〜12時/午後の部13時〜15時

○内容  
甲冑を着て馬に乗り、戦場におもむく武士の晴れ姿を体験します。

(1)甲冑の着用と乗馬コース 
各日16名 (午前の部8名/午後の部午後8名)
参加費1500円(保険料込)
※小学生の場合は高学年以上です
   
(2)甲冑のみ着用コース  
各日8名 (午前の部4名/午後の部午後4名)
参加費500円

○会場  
最上義光歴史館 前庭と研修室

○申込み 
10月18日(土)から最上義光歴史館へ電話(625-7101)で申込み、先着順で定員になり次第、締切ます。日時は完全予約制です。当日甲冑は選べません。