最上義光歴史館

山形地方の山城の植生について


 県域は日本の植物区系上、日本海地区の中央部にあって、山地帯はブナ・ミズナラなどの落葉広葉樹を主とする冷温帯林が発達するところである。林床には裏日本型気候とくに多雪地に適応した比較的新しく分布したと考えられるマルバマンサク・タムシバ・タニウツギやオオバキスミレ・スミレサイシンなど、多くの日本海要素の植物が分布している。また多雪に圧伏し伏条性を身につけたヒメアオキ・チャボガヤ・エゾユズリハなどの常緑小低木の小群落も見られ、キバナイカリソウ・キクザキイチリンソウなどの日本海地区の植物と共存している。
 しかし内陸の中南部、特に山形市を中心とする山形地方の山地帯脚部は日本海要素の植物を伴う、クリ・コナラを主とする暖温帯系の落葉広葉樹林に覆われているが、局地的にはアベマキ・クヌギなどの暖帯落葉樹を混交する林分が見られる得意な地域である。アベマキは台湾・中国などの暖帯を自生の本拠地としている樹林であるが、その林分は市街地東方の丘陵地に、かなり広く分布しており、植栽起源と思われる大木が薬師公園や鈴川の印鑰神名宮などで見られる。また周辺の山地帯や山城の脚部にはコナラ林にクヌギの混交する残存林(木)が点在している。クヌギは本州の岩手・山形以南から沖縄、九州、中国大陸にかけて分布するが、その発生起源は中国雲南省の暖帯であるという。
 ちなみに、アベマキ・クヌギは褐色の枯葉を枝につけたまま越冬するので、他の木とは容易に識別できる。この現象は日本列島の温暖化に伴って、暖地系の樹木が寒地(山形地方が北限地)まで分布域を広げてすみついたが、その後の寒気に襲われたときに、離層を完全に形成する性質を身につけていなかったからだろうと説明されている。
 山形地方の山城は、山地帯脚部から標高200メートル前後の独立峠上にあって、山腹や頂上からの眺望は郡を抜く、天険の地に立地している。本丸(頂上)を中心に、曲輪が整然と階段状に造成されており、山腹を取り巻く自然の地形は急峻な断崖をなしている。また山麓は交通の要衝であって、深い峡谷や河川に挟まれ、人為的な空掘などが巡らされていたという。山城はまさに自然の要害を巧みに利用して構築されており、本丸には人知を尽くしても容易に踏み込めない構造である。
 現在、本丸跡などは公園や広場などに利用されており、曲輪の平坦部はスギ・クヌギ・クリ・カキなどの植栽地となっている。曲輪の法面や登攀路の周辺ではヤダケ・チャボガヤ・ケヤキなどの、山城特有の植生が残存しており、山麓の河辺にはケヤキ・オニグルミ・ミズキなどの二次林や植林されたスギ林が見られる。
 また広大な山腹はクヌギを伴うクリ・コナラの高木をはじめ、ケンポナシ・ネムノキ・ウワミズザクラ・アズキナシ・マルバマンサクなどの、萌芽力の強い落葉広葉樹林によって占められており、林床には角ハシバミ・ヤマウルシ・チャボガヤなどの低木や、それにシャガ・チゴユリ・オシダなどの草本からなる林分である。特に山城の水源地となりうる、やや湿り気の多い土地や沢筋、湧水地にはオニグルミ・ケヤキ・ミズキなどの高木林が見られ、林下にはシダ類が群生している。
 このように特筆すべき植生が見られる、山形地方の中南部、特に山形市は気候的には暖温帯(又は暖帯)に属する地域である。古くから政治・経済、教育・文化の集積地として発展しているが、さらなる枢要な役割を果たせる快適環境である。山形地方の山城は歴史的にも、また植物分布上からも市民共有の貴重な財産であって、その保全・保護には万全を期したいものである。

■執筆:吉野智雄(県文化財保護指導員・フロラ山形会長)「館だより��10」より

山野辺義忠とその時代

 平成12年は「慶長出羽合戦四百年」に当たり、各地で記念行事が開催されたのは記憶に新しい。それらを通して感じられるのは、近年の最上義光の人物像の再評価である。以前は何故こういう評価になるのか、不思議に思う文言が多かったのである。しかし、山形市・武田喜八郎氏は自筆書状の文体・文言からの人間性への提言があり、最上義光歴史館・片桐繁雄氏は多様な資料を駆使して解明を深め、「山形合戦」の鈴木和吉氏は実地を自分の足で歩きつつの考察等があり、真の人物像が構築されていくのは嬉しい極みである。
 平成13年の山辺町では、山野辺義忠の山野辺城入部四百年に当たり、当ふるさと資料館では「特別記念展」を開催して彼の業績と生涯を紹介した。実は、義忠の人物像については義光の場合と同じく一面的で客観性が無く、時代的背景を考慮しない内容で書かれた場合が多かったのである。しかも、それでも当地方では「神様・仏様、そして義忠公」というように、特別に高い地位を与えられてきた独特の存在でもあったのである。
 それでは、「義忠」はどういう人物で、時代をどう生きたのだろうか。彼は最上義光の四男として生まれたが、現在の大石田町深堀地区出身の女性を母とし、楯岡城主楯岡氏の庇護を受けて育ったのではないかという説がある(伊藤芳夫氏、後藤嘉一氏)。その縁であろうか、慶長五年、13歳で楯岡城代に就き、翌年、1万9千300石・山野辺城主となって入部している。山野辺家系図は義忠が最上家の證人(人質)として徳川家康の許におもむいたことを記録し、彼に「将来恐るべき怪童である」と言わせたと伝えられている。
 彼の領主としての業績のひとつに釣樋堰の改修がある。宮宿方面に西流する鵜川を畑谷の途中で分水して山形盆地に流れるこの堰は、上反田で上江堰(相模地区中心)を開き、沢江堰(若木・古館等)との二つに分け、現・山辺町南部の灌漑用水の安定を考えている。次は寺社への対応で、創設・優遇した寺等、それぞれに使い分け、その位置も分散して城下町としての万一に備え、同時にそれらに繋がる領民の精神生活の統一と安定を図っている。地理的にも周辺地域の中心に位置するので領民の生活の利便を考え商業の繁栄策をとり、後の九斉市につながっている。城下町としての縄張りは近世のことなので比較的単純であるが、道路の三叉路や喰違いの部分があちこちに散在していることにその面影が偲ばれる。それらを総合した城郭は中世においては最上氏に属する「山野辺氏」が当地方を支配し、白鷹丘陵から山形盆地に突き出た形の舌端部の小高地に主郭、その周辺に副郭がめぐらされていたのを、義忠はそれらを本丸、二の丸としつつ、さらに三の丸を計画し、西方は山岳地帯になるので四の塀を備え、全体としてまとまった城下町を形成している。
 ここで興味深いのは、義忠の行った業績をさらにスケールを大きくしてみると、義光が全て成し遂げているのである。つまり、偉大な父・最上義光の業績を模範として、領内ですばらしい治世を展開している。だからこそ、長い江戸時代の僅か約20年間の治世なのに、「名君」としてその名が語り伝えられている。最上家では義光の後の家親が頓死して義俊が継いだが、義俊を支持する派と山野辺義忠を宗家にという派に分かれてしまい、「最上百万石」と称される義光の偉業が崩れてしまった。この間の経緯については他の大名家の記録等、「第三者」の資料をもっと検討・研究し、真実に迫る必要があると思う。「武家諸法度」「武士道」等、当時の武家社会の規範を考えると、彼の行動は時代の中で生きているのが分かる。後に水戸・徳川家に客分家老として一万石で招かれ、その子孫は藩主・徳川家と婚姻関係を深め、その補佐役となっている。彼の人生は山形の地では開花不十分でも、水戸・徳川家においては考えられない程の大活躍をしているのである。

■執筆:後藤禮三(山辺町ふるさと資料館館長)「館だより?9」より
平成28年4月3日(日)まで
企画展示「自然のかたち―所蔵名品障壁画―」は、11月13日より一部展示替えが行われました。
≪山形城御殿杉戸絵≫は現在、鶴図を展示中です。
是非、この機会にご覧ください。

■企画展示
「自然のかたち―所蔵名品障壁画―」
 
■会期 
2018年9月12日(水)〜2019年1月20日(日)

■出品一覧
1 ≪薄図屏風≫江戸期/紙本金地著色/各149.7×352.0cm/山形市指定有形文化財(絵画)
2 ≪四季花鳥図屏風≫桃山〜江戸期/紙本著色/各153.0×357.8cm/狩野玄也筆/山形県指定文化財(絵画)
3 ≪山形城御殿杉戸絵(鶴図)≫桃山時代/板画著色/画面 各161.5×120.0cm 全体 各175.8×131.5cm
○内 容  
古文書のなんでも相談会
○日 時  
平成26年11月30日(日) 13時〜
○講 師  
森谷圓人氏(山形大学プロジェクト教員)
高橋加津美氏(山形大学附属博物館学芸員)
○会 場  
最上義光歴史館
○参加費無料
○事前予約不要
新出史料の山形城下絵図について
  
 山形城は延文2年(1357)斯波兼頼によって築城が始められたといわれている。今年で650年の節目を迎えている。その後最上義光による大規模な拡張と整備がなされたようで、それらの城下を描いたいくつかの城絵図が残されている。現存する山形城下絵図の中で最も古いといわれているものは、最上家が改易された際幕府の上使に差し出したとされる、山形県立図書館所蔵の「最上家在城諸家中町割図(以下本稿では便宜的に「元和城絵図」(注1)とする)」で、元和8年(1622)頃の山形城下を描いたものとされている。
 ここに、素朴なタッチで彩色のない一枚の山形城絵図の写本がある。従前発表されている城絵図とは明らかに相違し、随所にあらたな様相が認められる。縦101cm、横88cmセンチほどの小ぶりなもので、三の丸の範囲のみで従来の絵図にみられるような三の丸外の城下は書き込まれていない。また、題名、書写年代の記入はなく、欄外に「御本丸四方間合 四百六拾五間、二ノ丸四方間合 九百五拾五間、総堀四方間合 三千三百廿七間」「此外町家ト有之内ニ無足給人并組屋敷等アリ」と脚注がある。(旧山形藩秋元家藩士の子孫A氏に伝わる絵図であることから、以下本稿では「秋元本山形城絵図」と仮称する)。
 この一枚の城絵図から、最上義光が描いたであろう山形城下を読んでみたい。

郭内 
 既存の城絵図は、三の丸の出入り門は11口(十一口)を数え、吉の文字になぞらえ吉字の門といわれてきた。しかし、ここに紹介する絵図は10口の門であり、いわゆる「横町口」が記入されていない。また、出入り口には従前の絵図にみられる呼称は一切付されておらず、大手口には「関根口」、十日町口には「野山道」、吹張口には「成沢口」、飯塚口には「畑谷口」と書き込まれており、郭外への出口というよりも山形城下外への出口と言った表現である。鍄口ほかの出入り門に呼称は付されていない。
 「横町口」は郭外に形成される銀町、桶町等の職人町への至近位置にあり、義光による大改造により必要とされ、後世に創設された出入り口で、11口の吉字の門として喧伝されたのは、山形の城下町が完成された時代のものではなかろうか。
 本丸の総延長は850m、二の丸は1,740m、三の丸は6,060mである。「元和城絵図」と比較するに、本丸は変わりがないが、二の丸は2,300mで560m、三の丸は6,500mで440mほど広くなっている。山形城の堀は「元和城絵図」にみられるような改修が行われたとみるべきであろう。

二の丸 
 二の丸の内には、中館・サンセイ(「元和城絵図」では「西仙」とある)・御横目衆のほか、重臣の屋敷が配置されている。元和城絵図では布施野大学・和田九郎右衛門・神保四郎左衛門・里見蔵之進の屋敷のみで重臣の屋敷はない。一方紹介する城絵図には、山辺右衛門大夫・上山兵部大夫・氏家左近・鮭延越前守・里見内蔵丞・中山玄蕃といった重臣をはじめ、布施大学・日野数馬・神保隠岐・和田九左衛門・飯田大和守・鈴木太兵衛・齋藤伊豫・宮村主膳など14の屋敷がある。本丸の城主を守るように、重臣が配置されており、「元和城絵図」とは違った本丸防備策があらわれている。また北側には他絵図ではみられない「鷹部屋」とある一画がある。
 
三の丸
 この城絵図の特徴的なものの一つに、二の丸堀の外側には間隔を入れず、びっしりと家臣の屋敷が配置されていることである。「元和城絵図」では二の丸堀外周に緑地帯らしき空間が四面に配置されている。現市街地でいうなら美術館や山形駅あたりが該当するであろう。家臣と町人が一体となったこの光景が義光の描いた山形の城づくりの原形であり、肥前名護屋への出兵以後、義光の城作りの考え方が大きく変わった証左ではなかろうか。城絵図に表れた家臣団の屋敷数は392軒であり、郭外にも家臣の屋敷はあったかと思われるが三の丸の外側は書かれていない。
 三の丸内に書かれている町名の数は少なく、「元和城絵図」にみられるような町軒数などの書き込みはない。上町、下条は現在の地名と所在が一致するが、肴町が現義光歴史館の南面に、市日町として七日町が現豊烈神社前大通りに、横町が香澄町スズラン街の大通り(香澄町横町南)に書き込まれている。この南北に長い大通りは町場を形成していたようで、両側には「町家」が軒を並べている。また、三の丸の構築は南から北へ進められたと思われ、南側には町家が数多くみられるが、北側には立畠町、内畠町といった町名がみられ、以前は畠地だったのであろうか。北側には侍町の町名がみえる。また勝因寺の東に「職人アリ」と書かれた区画があり、三の丸内は武士・町人・職人・寺院が同居し、城下町として機能していたとみられなくもない。
 
寺社
 最上義光は慶長5年(1600)の出羽合戦のあと大改造をなし、寺院と町人を三の丸外へ誘導したとされている。郭内での寺院立地を「元和城絵図」にみると、光明寺、行蔵院、宝幢寺、来吽坊(院)、二王堂(正楽寺)、勝因寺、新山(寺)などであるが、紹介する「秋元本山形城絵図」は、上記のほか法祥寺、龍門寺、来迎寺、誓願寺、宗福院、法花寺(浄光寺)、観音寺、六椹観音、行人(月山寺ヵ)、導場寺が三の丸内にみえる。また南東の隅には「氏家衆の寺地」なるものがある。神仏の加護を求めた発想の配置であろうが、三の丸内に神社は書き込まれておらず、神社は全て郭外に置いたということであろうか。寺院の配置をみるに、元和八年頃のものとされる「元和城絵図」とはあきらかに相違している。なかでも常念寺が勝因寺の北側に小さく書かれており、常念寺が山形に招致された当時のものと考えられる。しかし、疑問点がないでもない。慶長8年(1603)義光嫡子修理大夫義康の菩提を弔った寺にしては屋敷が小さすぎる。また三の丸内に現在まで変わらず建っている寺院として各文献に紹介されている正楽寺(子の権現)がみえない。正楽寺を他の絵図では仁王堂として紹介している。なぜ書き込まれていないのか。
 城絵図の成立年代に大きく関わるものとして、火災の記録が斯波兼頼の菩提寺光明寺につたわる「遍照山光明寺由来記」(注2)の後段にみえる。「元和三巳年三月八日山形寺社多ク焼失当山モ不残焼失」とある。「秋元本山形城絵図」には中世に造立された寺院が残っており、元和3年(1617)大火以前に成立しているものと判断される。
 
家臣
 秋元家時代に書写された「秋元本山形城絵図」は、大改造されたのちに書写された他の城絵図とは、街路や家並みの違いにより比較検証できないが、気の付いた点を述べてみたい。まず、従来発表されている城絵図の解説には、三の丸の出入り門附近には義光の重臣を配置したとあるが、このたび紹介する「秋元本山形城絵図」で重臣が配置されているのは、下条口の野邊澤九内(注3)(野邊澤宮内・延澤遠江守)のみである。義光は当初穏やかな美しい城下町を描いていたのではなかろうか。また「後室」と明記ある屋敷も存在しない。中山玄蕃(没年不詳)らが生存している時代の成立ということであろうか。
 城絵図写本から家臣団の動向をみてみたい。「写本にみる屋敷割」(注4)に記載されている「元和城絵図」から二の丸及び二の丸濠周辺の侍名を比較検証すると、144名のうち同じ名の家臣が「秋元本山形城絵図」全体に載っている数は58名にすぎない。これは、世代交代や廃絶も考えられようが、寺院及び町家を郭外に移動させた際、大規模な屋敷替えが行われたことによるものなのかもしれない。このことは「元和城絵図」と「秋元本山形城絵図」との間に、時の流れが存在したことを感じさせるものがある。

 新出の城絵図は、家臣の没年などから推敲した場合、解明を要する事柄や問題点が浮き彫りになるであろうが、山形城大改造の諸相など、未解明であった部分に光をあてるべく、所蔵者A氏の了解をえて山形城下町を再現してみたものである。
義光の構想といわれている城下の大改造は、いつの時代であったものか。そして新出の城絵図はどのような時期を表しているのであろうか。ごく僅かな事柄の検証から城絵図の成立年代を推し量ることは容易でないが、私見として、郭内には慶長年間に郭外に移転したとされる寺社が残されていることから、推定年代の幅が広いことを承知しながら、この城絵図の成立年代は、上限は出羽合戦以後の慶長10年(1605)頃から、下限は大火があったとされる元和3年(1617)以前のものと判断をしたい。
 山形市在住の伊藤哲郎氏のご厚意により「秋元本山形城絵図」と同様な構図のものが、外にも存在することを示唆する古文書をご紹介いただいた。山形市船町の旧家、今野家所蔵のもので『最上家御系図』と表題があり次のように書かれている。「往昔義光公御在城之節之図、予所持するを見るに、今之図とハ違有、むかしハ横町口無之、亦今之本町通り御城内ニ有、寺院も多く有之、其外ハ御幕下城持衆之交代屋鋪、其外大身衆之屋鋪ニ而、平侍衆ハ今之町屋鋪侍屋鋪ニ而有しと見ゆる也、城内別往還の通路ニ而、諸大名衆も其節は城内を御通り被成候と也、今之三之郭之外ニ大郭有しと也、南は松原、東小白河、出口北は長町邊ニ大門有之、大囲ひ有しと也」
 今野家が所持していたとされる絵図は未確認であるが、古文書の内容は、三の丸の出入り門は横町口が無く10口であること、寺院が数多くあり城内に町場があったことなど、「元和城絵図」とはあきらかに相違していることを、今野家の先祖は記している。今野家古文書の内容は「秋元本山形城絵図」にみられるものと同じ内容であり、ここに紹介する山形城絵図の原本がかつて存在し、写本として残されたものである事を立証しているといえよう。また、往還の街道が城内を通っていたという興味ある内容も記されている。山形城の歴史を考えるうえで貴重な資料といえよう。
 「秋元本山形城絵図」は、従前紹介されてきた山形城絵図の概念を考え直す内容が記載されているのではなかろうか。山形城の生い立ちに新たな考察が加えられれば幸いである。
 この稿をおこすにあたり、城絵図所蔵者A氏、上山市立図書館長片桐繁雄氏よりご教示をいただきました。あつく御礼を申し上げます。

註1 平成15年3月 最上義光歴史館より複製本が刊行されている
 2 『山形開祖斯波兼頼公―訳注改定版』光明寺奉賛会 平成17年12月5日
 3 『延沢軍記』「野辺沢城記」に、「幼名又五郎と云、のち宮内少輔康満と
云、慶長八年遠江守光昌と号す」 尾花沢市史編纂委員会 昭和60年3月30日
 4 『山形城下絵図』高橋信敬 誌趣会 昭和49年2月6日

■執筆: 市村幸夫(村山民俗学会事務局長)「歴史館だより��14」より