最上義光歴史館

最上氏研究前進のために(一) 

 最上氏に関する基本的な文献とされてきたものに、まず誉田慶恩著、日本の武将60『奥羽の驍将−最上義光−』(人物往来社、1967年6月)がある。内容についてはのちに述べるが、この書名は「最上義光」という名前よりも「奥羽の驍将」という題名のほうが大きく目立っている。この本の題名は編集サイドの意向によるものと思われるが、最上義光という戦国武将の名前がまだ一般的ではなかったことを示している。
 次にあげられるのが、『山形市史』通史編である。『山形市史』中巻、近世編(山形市、1971年3月)の第一章は「最上氏治世下の山形」であり、「第一節 最上義光の支配」「第二節 改易と転封」「第三節 武将の面目とその文化」から成っている。このなかでは、第一節が中心となることは明らかであり、その執筆者は一部を除き誉田慶恩氏である。
 『山形市史』上巻、原始・古代・中世編(山形市、1973年3月)では、「第四章 中世の村山盆地」の「第二節 室町時代と村山地方」のうち、「2 大名領国の展開と斯波氏」「3 館・在家の構造と郷村制」「4 戦国争乱の進展と最上氏」が該当し、これも大部分が誉田慶恩氏の執筆である。『山形市史』上巻の記述は天正18年(1590)までであるが、中巻は天文15年(1546)の最上義光の誕生から始まっているため、両者には最上義光について記述が重なる部分がある。これは、中巻が上巻よりも先に出て、義光について天正18年の小田原参陣や奥羽仕置からではなく、誕生から記述されたことに原因がある。
 ともあれ、最上氏および最上義光に関する多くの文献のなかで、最も一般的で多くの人々の目に触れる文献が、『奥羽の驍将−最上義光−』(以下『義光』と略す)と『山形市史』(以下『市史』と略す)であったことは疑いなく、いずれも誉田慶恩氏の執筆になるものであった。したがって、『義光』と『市史』は後世に大きな影響を与えたが、この記述が妥当なものであるかについては問題がある。そこで、以下これを戦国時代を中心として検証していきたい。

 永正11年(1514)2月15日、最上義定は長谷堂において伊達稙宗の軍勢と戦い、大敗した。伊達軍は楯岡・長瀞・山辺式部・吉河兵部以下千余人を斬り、長谷堂城を抜き、小梁川親朝を駐留させた。この結果、翌永正12年最上氏と伊達氏は和睦し、最上義定に伊達稙宗の妹が嫁ぐことになる(伊達正統世次考)。誉田氏は「この戦で惣領制的性格の濃い最上武士団の脆弱性が暴露され、最上勢の足なみはまったくそろわなかった」と述べている(『義光』、『市史』上も同内容)。この稙宗による最上攻めは、伊達氏の家督継承後の最初の対外戦争とみられる。いわば、伊達氏において用意周到になされた作戦とみられ、最上側が大敗したことは事実であろうが、最上氏の体質が古く、伊達氏が新しいという見方は一面的と言わざるをえない。

 義光が16歳のとき、義守・義光父子が高湯(蔵王温泉)に湯治に行き、鹿狩りをして眠りについたところ、近辺の盗賊数十人が来襲した。義光は近習の者たちの先頭に立って防戦し、二人に深手を負わせ、一人と組み合って刺し殺した。この武勇に義守は喜び、笹刀と称した家宝の名刀を授けたという(最上義光物語)。この真偽のほどは明らかではないが、よく知られたエピソードである。義光が16歳といえば永禄4年(1561)にあたり、『最上義光物語』の作者は、義光が少年の頃から武勇に優れていたことを示したかったものであろう。しかし、誉田氏は「大名親子ともあろうものが野盗の襲撃をうけたとは、最上氏の権勢も疑わしいものである」「当時の最上氏は、まだ豪族の域を脱しない小大名で、近隣の大大名伊達氏の権勢の下に屏息し、辛うじて命脈を保っていた程度であったのであろう」と述べている。(『義光』・『市史』上)。義守の伊達氏天文の乱における戦歴やその後の義光の活躍をみれば、このような評価が当たらないことは明白である。戦国大名に組織されていない野盗の存在は、戦国時代には一般的であり、これをもって小大名と評価することは出来ない。ただし、最上氏側の警備体制に問題があったことは確かである。

 最上義光は戦国大名最上氏を飛躍的に発展させた人物であるが、義光による領国の発展過程、つまり歴史的な経緯については問題がある。誉田氏は天童落城について「根本資料がないため、不明な点が多く、落城の年月にも二説ある。『奥羽永慶軍記』『最上義光事歴』は天正5年10月とし、『愛宕社記』『諸城興廃考』『伊達世臣家譜略記』は天正12年10月としている。松尾姫が天正6年生まれと伝えられるところから、近時は天正12年説が有力となった。しかし、天正12年は、義光が白鳥氏や大江氏を滅ぼした年である。同年のうちに谷地・寒河江・天童の三面作戦を行って、一挙に成功したとは考えにくい。また天正九年には義光が最上郡に進出し、強力な庄内の武藤氏と激しく戦っている。義光の領土拡張の経過から考えると、遅くとも天正8年までに天童城は攻略され、村山郡の川東(最上川以東)地域は、完全に義光の領国化したとみるべき」としている(『市史』中、『義光』もほぼ同じ)。さらに、「義光はいつ頃一族を掃討し、村山地方に領国制を確立したかは明確でないが、遅くとも天正8年までには、川東地域をほぼ平定したと推定される」とされ(『市史』上)、推定とはいえ、天童落城を天正8年(1580)と確定している。

 しかし、その根拠は、義光が天正九年には最上郡に進出していること、天正12年もうちに谷地の白鳥氏、寒河江の大江氏とともに天童氏を滅亡させたとは考えにくいというものであり、状況証拠にもとづくものであって、確たる証拠があるわけではない。
 つまり、旧説のほうが正しいといえよう。天童落城の過程は次のようになる。天正5年義光は天童城を攻撃したが決着を見ず、和睦が成立し、その際、天童頼貞の女が義光の側室となった。これは、一般的に和睦の形態としてみられるものである。天童頼貞はこののち死去し、その跡は若年の頼久が継いだ。義光の側室天童氏は、天正10年義光の三男義親を生むが、その直後の同10年10月12日天童氏は死去した。ここに、婚姻関係を媒介とした最上・天童両者の関係は断絶した。そして、義光は次女の松尾姫(天正六年生まれと伝えられる)を延沢城主延沢満延の嫡子又五郎光満に嫁がせ、天童氏の同盟のなかでも最も有力な国人の切り崩しに成功した。このようななかで、天正12年九月義光は天童城を攻撃し、10月10日これを攻略したのである。近年、天童落城とその後の天童頼久の動向を示す史料が発見されており、現在では天童落城は天正12年で確定している。

 そして、誉田氏による義光の人物像については、末娘の駒姫の悲劇と長男義康の死、そして最終的な最上氏の改易という事実とともに、積極的評価はされていないと思われる。これが地元の人々に与えた影響は大きい。そして、これが全国的な広がりをみせ、一例を示せば、「秀吉の勢力が天下を支配したところ、その威を借りた義光のずるがしこいやりかたは、まさに虎の威を借る『最上のきつね』とでもいうべきであろう」などという記述もみられることになった(佐々木銀弥著、日本の歴史文庫?『戦国の武将』講談社、1975年5月)。このような評価の見直しが必要なことは言うまでもない。

■執筆:粟野俊之(駒澤大学講師)「歴史館だより?8」より

最上氏研究前進のために(二)

 最上量の城館に関する基本的な文献とされてきたものに、丸山茂著『最上四十八舘の研究』(1944年、〈『最上四十八舘の研究』歴史図書社、1978年5月復刊〉)がある。内容についてはのちに述べるが、この書は丸山茂氏が財団法人斎藤報恩会へ提出した研究成果報告書である。
 丸山氏は、同財団から学術研究費の援助を受けて「山形県下に於ける古城址」の研究を行い、第一部「最上四十八舘の研究」、第二部「城塞址を中心とする置賜庄内両地方の政治史」、第三部「山形県下城塞の築城学的考察と其の城下町の構成」の三部作として結実する予定であったが、第二部・第三部は知られない。太平洋戦争の激化と敗戦、戦後の混乱のためであろうか。ともあれ、三部作の構成を見ると、第二部が置賜・庄内を対象とすることから、第一部の「最上四十八舘の研究」(歴史図書社の復刊本は「舘」を「館」に替えている)は、村山・最上の城館址を対象とすることがよみとれる。

 さて、『最上四十八舘の研究』は七章からなり、その構成は最上氏の歴史に沿っている。つまり、延文元年(1356)斯波兼頼の山形入部、南北朝時代から室町期の最上一族の分封、天正9年(1581)の最上郡制圧、天正12年の天童・寒河江・谷地攻略、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦、元和8年(1622)の最上氏改易という流れに沿ったものである。
 取り上げられている城館は、具体的な記述のないものも含めて、七十七である。その記述は村山・最上の城館で占められ、庄内の城館の記述は若干あるのみで、由利郡では本庄館が唯一取り上げられている。城と舘の区別は明確ではない。城がつくものは、山形城・寒河江城・左沢城・谷地城・白鳥城・小国城・延沢城であるが、第七章第三節「最上四十八舘の整備」では、山形城以外はすべて館とされている。戦後においても、かつて城館が存在した山を「シロヤマ」ではなく「タテヤマ」と呼ぶのが一般的であり、江戸時代以来、地元でも「シロ」ではなく「タテ」と称してきたことを反映していると思われる。
 その記述方法は、古文書・系図・縁起・過去帳などによる城主の考察と古絵図・地形図・鳥瞰図・現地調査による城館の考察からなる。研究の時代的な背景から、実測図や発掘の成果というような手法は取り入れられていない。その内容は、城館を基軸とした最上氏の歴史と最上家臣団の研究といえ、現在でも基本的文献として取り上げられるべき優れた研究といえよう。

 「最上四十八舘」という名称について、丸山氏自身は次のように述べられている。

『此の時代(最上家覇権時代)が即ち所謂最上四十八舘の防衛陣を構へた黄金時代であって、最上家隆昌の最高峰点であった。最上家末期の攻防陣営の数を俗に四十八館と謂われているが、巷間に伝わる何れの記録を見ても、其の城塞のは決して四十八に止ってゐない。筆者が調査した範囲内に於いて五三、五四、六五、七五、七六といふ数字である事から観て、四十八という数字は、必ずしも城塞の直感数ではなく、単なる抽象数であったらしく、其の数の起りは、いろは四十八といふ古事の語呂に因んで、量多数の意を含ませたか、若しくは兼頼入部当時の封土、最上郡四十八郷の数字に倣ったかの何れかであろう。』 

 と述べられており、「四十八」という数字については、単なる抽象数として疑問を呈されている(同書23頁)。ただ、「最上四十八舘」という呼び方は既に存在していたようであるが、いつから誰が、このような呼び方をするようになったかは未詳である。最上家覇権時代とは、関ヶ原合戦ののち最上義光が慶長6年庄内、慶長七年由利郡を加増されて以後、元和八年の改易までの時期にあたり、この時期の最上家の城館が「最上四十八舘」ということになる。しかし、この書には、庄内の城館については若干の記述にとどまり、由利郡は本庄館のみであり、最上領の城館の研究としては、不十分の感を免れない。
 問題は、この「四十八」という数字が、丸山氏の意図とは別に、その後一人歩きしたことにある。誉田慶恩著、日本の武将60『奥羽の驍将−最上義光−』(人物往来社、1967年6月)には「最上領では大身豪族層の城下町集中が未熟で、領内各地に城塞を残し、俗に最上四十八舘と称された」と記述されている(同書211頁)。大身豪族層の山形城下集中が未熟であったかは疑問であるが、ここでは丸山氏が最上家覇権時代と呼んだ時期の城館を「最上四十八舘」と称するとしている。

 ところが、『山形市史』上巻、原始・古代・中世編(山形市、1973年3月)の「第四章 中世の村山盆地」「第二節 室町時代と村山地方」の「3 館・在家の構造と郷村制」に「最上四十八舘」の項があり、「最上領では、領内各地に城塞があり俗に『最上四十八』と称された四十八城とは、どれとどれなのか明確ではなく、はたして本当に四十八あったか疑わしい。最上四十八楯とは、浄土信仰の弥陀四十八願にちなんだ名数だったかもしれない」とされ、四十八という数字にこだわりを見せ、はたして四十八あったか疑わしい、とまで述べている。筆者は誉田慶恩氏である。
 しかし、この四十八という数字にこだわることは無意味である。つまり、最上領国の城館数は四十八ではない、ということである。中世には郷数や信仰に関わる数字として、八・十二・三十三・四十八・六十六・八十八などの数字がよく使われている。「最上三十三観音」「四国霊場八十八ヶ所」や誉田氏が言われる「弥陀四十八願」などである。信仰に関わるものは別として、八は末広がりの縁起がいい数字であり、四十八は「いろは四十八」の数字であるが十二の四倍にあたり、六十六は「日本六十六カ国」の数字で、三十三はその半分である。四十八という数字から身近なものをあげれば、相撲の決まり手「四十八手」があるが、実際の決まり手はこれより遥かに多いのであり、実体を示すものではない。
 つまり、「最上四十八舘」という呼称は、基本的に最上領の城館が多いということを示すが、実際に城館を数えて四十あったとしても五十あったとしても、基準となる数字である四十八に代表させるということなのであり、最上領に四十八の城館があったという意味ではない。郷数も同様であり、ある地域の郷数が三十三郷とか四十八郷といわれるのも正確な数字ではなく、その程度の郷数であるという意味である。江戸時代の村を基準に郷数を数えても、三十三とか四十八にならないのは当然なことである。

 この数字に関連するものとして、古くから言われているものに「天童八楯」「由利十二頭」がある。
 「天童八楯」は「最上八楯」とも称されるが、「最上八楯」の名称は不適切であり、天童氏を盟主とする国人一揆という意味で「天童八楯」が相応しい。戦国期の「天童八楯」とされる領主には、天童氏・延沢氏・飯田氏・尾花沢氏・楯岡氏・長瀞氏・六田氏・成生氏の八氏があげられているが、これは八という数字にこだわった数え方と言わざるを得ず、このほかにも東根氏や細川氏など、あげるべき領主が存在する。例え十氏になっても、この国人一揆は「天童八楯」と称されるのである。
 「由利十二頭」は、戦国期における由利郡の領主を端的に表現したもので、由利郡には小さな領主が多く割拠した、という意味であろう。実際に由利郡の領主を数えていくと、十二を超えることは確実である。この場合も、例え十三や十四になっても「由利十二頭」と称されるのである。
 近年、全国的規模で城館跡の調査が行われ、また城館跡の発掘が進行して新たな知見が付け加えられている。最上領でも新たな城館跡が多数発見されており、「最上四十八舘」という呼び方は、現在では「過去の遺物」といえよう。

■執筆:粟野俊之(駒澤大学講師)「歴史館だより��9」より


「山形最上氏と中野氏・寒河江大江氏―義光のゆかりを探る」

周知の通り、山形城主最上義光の父・義守は元々最上氏一族の中野氏の出身で、九代目義定の養嗣子として家督を継いだ人物である。そもそも、中野氏は最上氏三代目満直の子・満基を祖とし、そして八代目義淳の時、次男・義清に中野氏を継がせたと言われている。だから、宗家最上氏にとって中野氏は最も近い血筋を引いている分家といえる。

一方、義光の祖父にあたる義定について、すでに片桐繁雄氏は当館のページで詳しく解説している(注一)。片桐氏は『大江系図』を注目し、最上氏と寒河江氏、そして山野辺氏の縁戚関係を整理した(注二)。簡単に要約すればすなわち、「義定は山野辺氏から妻を入れ」て、その妻の母は寒河江宗広の娘とされている。また、宗広の娘には「中野妻」と記されており、それは正しいとすれば、寒河江氏は最上氏、中野氏とも縁戚関係を持つわけである。

―二、再び『大江系図』へ―
ただ、ここで注目しておきたいのはその前である。再び『大江系図』を見てみると、宗広の一人の姉妹にも「中野妻」と注記されており、そして、その女性より前には「中野妻」となった女性がいない。それは何を意味するのだろうか。

まず、上記の『大江系図』を信用すれば、寒河江氏は二代わたって中野氏と縁約を結んでいることになる。また、時代的に考えると、殆どの最上氏系図では、義定の父・最上義淳は永正元年(1504)頃に死去したとされている(注三)。一方、義定の母は明応八年(1499)に死没したので、義定の生年下限はそれ以前となる(注四)。そしてその没年は永正十七年(1520)とされているから、義定とすでに中野氏に入嗣していたはずの義建は遅くても永正元年以前、上限は大体文明末ないし長享年間頃(1470/80年代)の生まれと推定される。

一方、寒河江氏側を見てみると、『大江系図』では、寒河江知広(宗広の父)は明応三年(1494)に死去したとされている。それによって、「初代の中野妻」となった宗広の姉妹の生年下限は明応三年とならねばならないから、彼女は中野義建とはほぼ同世代の人間ということは十分にあり得る。

さらに、『常念寺本最上家系図』では、義淳は「中野山形両知行」とあり、言い換えれば、義淳は山形、中野両方の領主で、後に子・義建に中野氏を継がせた通説を踏襲すれば、「初代の中野妻」となった宗広の姉妹の結婚相手は選択肢として父の義淳か、子の義建としか思えないが、ここでは、子の義建に比定したい。

―三、二代目の「中野妻」の夫―
そうすると、片桐氏が指摘された宗広の娘(二代目の「中野妻」)の夫は誰なのだろうか。残念ながら、宗広の娘の生没年は伝えられていないため、仕方なくて先の方法で推算してみよう。

偶然なことに、宗広は義淳と同じく永正元年(1504)に死去したとされる。その末子で家督を相続した孝広は文亀三年(1503)生まれと記されるから、姉にあたる宗広の娘の生年下限は文亀三年となる(注五)。

それに対し、中野氏に継いだ義建はどうだろうか。先にも指摘した通り、彼の生年はせいぜい長享(1480年代後半)頃の生まれだろうから、年代的には宗広の娘とも合致するが、一方、息子の義清は『山形市史』所収の諸本の最上氏系図をみれば、義守の実父として登場を明記されるのはほとんどであるから、彼を無視することができない(注六)。

ただし、孫の義守は大永元年(1521)生まれで、その後、二歳で宗家に継いだと伝わるから、当時、父の義清はまだ青年と思われる。ただ、それにしても、義清の時代は父の義建がもちろん、伯父の義定とも差が小さく、むしろほぼ重なってしまうから、やや不自然と感じる。可能性として義建は若くして義清を生み、さらに義清もまた若くて義守を生んだとしか考えられないのだろう(注七)。

―四、高野山観音院過去帳の発見―
ここで注目に値する史料がある。それは、高野山観音院過去帳甲本である。

同史料は近年『仙台市史』の補遺史料として『市史せんだいvol.12』に既に紹介された(注八)。それは紀伊高野山観音院に所在したとされる伊達氏と関係する人物の過去帳である。その中には伊達氏のほか、最上を含むほかの南奥羽諸豪族の位牌も記録されているため、極めて貴重な史料というまでもない。

さて、その中にはこのような記録が残される。

東前院殿      モカミ    サカヘ殿姉
快庵良慶長光尼位   中野殿大方      逆修
                 天文十六年未

すなわち、「快庵良慶長光尼」(以下は便宜上「長光尼」と略称する)という女性は天文十六年(1547)に逆修を行ったのである。逆修とは死後の行事を生前にあらかじめ執り行うことだから、「長光尼」は天文十六年当時にはまだ健在するわけである。

大方とは貴人の母を指す通称で、つまり、「長光尼」は中野殿の母親である。このように、「長光尼」という最上中野殿の大方で、寒河江殿の姉である女性の存在は確かだが、問題は彼女の素性である。いったい誰だろうか。

―五、「長光尼」と義守―
前記した寒河江・中野・最上三氏の関係をもう一度見ると、候補として最も有力なのは、義清の妻と推定される宗広の娘(二代目「中野妻」)である。実際、時代的に考えると、天文十六年の時点の最上義守は既に二十五歳と数え、当時は最上家当主だから、「中野殿」と称することはありえず、なお、父の義清は中野氏家督の座に据えることもやや不自然に覚える。

さらに「サカヘ殿姉」という記事を重視すれば、天文十六年当時の寒河江氏の当主は兼広で、彼が寒河江家当主となった翌年である。その前の当主である広種は孝広の異母兄にあたる人物で、「長光尼」の兄弟である。したがって、合わせて考慮すると、「長光尼」は兼広の姉という可能性もあるが、裏づけられる史料がなく、そして孝広、広種との関係をも考慮すれば、やや低いと思われる。

ここで、筆者の憶測が許されれば、前述した通り、寒河江宗広と義定とは同世代であり、そして宗広の娘は義清ともほぼ同世代の人から考えると、「長光尼」は宗広の娘で、義清の妻である。さらに、天文十六年当時の中野殿は「長光尼」と義清の子で、最上義守の兄弟に当たる人物と推定したい。

―六、「長光尼」と永浦尼とは―
上記の推測には一つの疑問が残る。すなわち、あの宝光院の文殊菩薩騎獅像を編んだ永浦尼との関係である。それに関しては、松尾剛次氏は永浦尼を義守の妻と比定している(注九)。それに対して、当館にも掲載された粟野俊之氏の考察によれば、粟野氏は刺繍にある「源末葉」という文言を重視し、永浦尼を義守の姉妹としている(注十)。

先に結論から言えば、「長光尼」は寒河江氏の出身だから、「源末葉」はありえないため、永浦尼とは別人に違いない。ただ、「長光尼」と永浦尼は共に中野氏ゆかりの女性と見てよく、「長光尼」は義清の妻で、当時の中野氏当主の母親であれば、永浦尼と同時期に存在する可能性が高く、可能性としては「長光尼」と永浦尼は親子、もしくは嫁姑関係かもしれない。

―七、おわりに、最上氏と中野氏―
以上は片桐氏の成果に基づいてさらに整理・推測されたものである。上記の鄙見が許されれば、更なる可能性は生み出そう。

というのは、のちに天正二年の最上の乱において、『性山公(伊達輝宗)治家記録』に登場する「中野」の比定である(注十一)。『治家記録』天正二年の記事では、中野氏の名を「氏淳」としており、昔はその人を義光の弟・義時と比定されていたが、義時の実在は疑わしくなり、近年の大沢慶尋氏の研究では、それを義守ではないかと推測されている(注十二)。

ただし、「長光尼」の発見によって、すくなくとも天文年間には中野殿がまだ実在しており、義守とは同時期に存在する人という可能性が高くなるから、天正二年の最上の乱の「中野氏淳」は果たして義守かどうかは、また再考する必要があろう。

むろん、関連史料は極めて少ないため、新しい史料の発見に俟たねばならないが、上記の拙論はあくまでも一つの仮説として提示し、今後の研究に役立てばと切に願う次第である。

※最上中野寒河江系図案 >>こちら

■執筆:胡 偉権(歴史家/一橋大学経済学研究科博士後期課程在籍生)


≪注≫
(注一)http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=94673
(注二)ここでいう『大江系図』は、『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』所収「天文本大江系図」である。
(注三)『山形市史 史料編一 最上氏関係史料』所収する各種の最上氏系図に参照
(注四)『山形市史 史料編一 最上氏関係史料』所収「最上源代々過去帖」
(注五)中世武家の系図類には、女性に関する記載は殆ど簡略されるから、兄弟同士との長幼の序は不明なところが多い。孝広の場合、家督相続の際には父は他界しているから、幼年の家督相続との可能性が高く、宗広の娘はその姉と考えられる。
(注六)その殆どは、義守には「中野義清次男」という傍注が入れられている。
(注七)実際、義定の生没年から考えると、義守との年齢差はそんなに大きくないのであり、義定は弟が入嗣した中野氏が三代を経歴することは本文の推測したようにならねばならないだろう。
(注八)『市史せんだい』vol.12、2002年、仙台市
(注九)http://www.yamagata-u.ac.jp/jpn/yu/modules/topics0/article.php?storyid=17
(注十)http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=125870
(注十一)実際、『治家記録』天正二年の記事は「伊達輝宗天正二年日記」を参考にして作成されたものである。「日記」のほうでは、「中野」のみ記されて、「氏淳」の名は出ていない。仙台藩による『治家記録』の編さん過程で、どのような情報を以て「氏淳」と比定されたかは不明である。ただ、「氏淳」の読みに関しては明記されていないものの、「うじあつ」も「うじきよ」も読めるため、後者の場合、「義清」(よしきよ)の誤記という可能性もあるが、一つの仮説として掲げておきたい。
(注十二)大沢慶尋「「天正二年最上の乱」の基礎的研究 : 新発見史料を含めた検討」、青葉城資料展示館研究報告、青葉城資料展示館編,特別号、青葉城資料展示館, 2002年(改訂版)
山形市へ新たに寄付された最上義光文書をめぐって
           


 令和二(2020)年12月14日、秋田市在住の�盒興�夫氏から山形市に「天正九(1581)年九月一二日附最上義光知行宛行状」が寄付された。そこで、その文書の紹介と若干の考察を行う。
 本文書は、すでに『山形市史史料編一最上氏関係史料』(山形市、1973)257頁、『山形県史資料篇十五上、古代中世史料1』(山形県、1977)502頁に翻刻、紹介されており、非常によく知られた文書である。大きさは縱31.5センチ、横47センチで、紙は、いわゆる豎紙で使用されている。
 先述のように、本文書は周知の文書であるが、原文書の所在がわからなくなっていたので、今回所有者から寄贈にいたったのは喜ばしい限りである。秋田市在住というように、本文書を伝えた�盒恐箸蓮�江戸時代に佐竹氏家臣であったが、最上家改易以前は、おそらく最上家家臣であったと考えられている。「最上義光分限帳」には千石の「高橋但馬」など10人の「高橋」がおり、その内の一人が本文書の受給者の可能性がある。
 ところで、本文書は最上義光の印判(判子)研究においてとりわけ注目されてきた。というのも、図のような、いわゆる「七得」の印判(小黒印ともいう)使用における、年付けがわかる最も古い文書だからである。七得は、七徳のことと考えられる。すなわち、「春秋左伝」宣公一二年(紀元前597年)によれば、武の七つの徳を意味するという。その七徳とは、暴を禁じ、兵を治め、大を保ち、功を定め、民を安じ、衆を和せしめ、財を豊にすることである<『日本国語大辞典6』(小学館、2001)>。義光は、そうした武の七徳を理想にし、その思いを印判に込めたのであろう。
 義光は、A〜D型の四種類の印判を使用した。用途が限定された伝馬印のD型を別にすれば、当初は、鼎型のA型を、次にC型の七得の印を、その次にB型の使用が始まったと考えている。それらの印判の中で、もっとも使用頻度が高く、死の直前まで使用されたのが七得(C型)の印であった。印判の使用は、義光の支配領域の拡張と、家臣団の拡大を表している。本文書を翻刻すれば、上記(写真)の様なものである。


A型


B1型


B2型


C型


D型

 内容は、この度の山内での戦いにおいて、走り回っての奉公を行ったので、敵として成敗した安藤九郎兵衛の領地を�盒怯�鶴に末代にいたるまで支配することを認める、というくらいであろう。すなわち、恩賞として、土地を給付したもので、古文書学で知行宛行状と呼ばれるものである。
 ここで注目されるのは、山内がどこかであるが、はっきりしない。『山形県の地名』によれば、「山内 古口(ふるくち)から下流、清川(きよかわ)(現東田川郡立川町)までの最上川は(約16キロ)、出羽山地を先行、谷を形成しながら横断する。この区間は山内と称され庄内と内陸を結ぶ要路ではあったが、川の両岸は切立った崖となり川に沿って通行することは困難で、古くから舟による通行が盛んであった。現在は最上峡の名で知られる」山内かも知れない。また、安藤九郎兵衛が如何なる人物かも不明であり、今後の研究の進展を待って筆を置こう。 松尾剛次

■執筆:松尾剛次(山形大学名誉教授)「歴史館だより��28」より
山形城の瓦出現期の様相について

はじめに
 瓦は窯業製品であり、胎土に水が浸透し冬季にそれが凍る凍害が発生するため、雪国には不向きの建築部材である。江戸後期の史料であるが、山形は「寒国故御櫓之瓦年々損スル」(「山形雑記」『山形市史編集資料』第64号)と、冬季の気象条件により瓦が消耗すると強く認識されていた。それにもかかわらず、近世初頭の山形城の改修と同時に瓦が採用されるようになり、山形城での瓦採用は、城郭建築に伴うこの時期特有の政治的・社会的判断があったことは想像に難くない。この近世初頭における瓦出現期の様相と、その系譜を探ってみたい。

1 瓦の出現時期
 山形城本丸御殿跡で、多量の近世初頭の瓦が出土しているが、多くに被熱の痕跡が認められる(金箔瓦を含む)。これは瓦葺き建物が火災に遭ったことを示しており、その年代がわかれば、瓦出現の時期を考える重要な手掛かりとなる。本丸の火災は、12月7日付最上義光書状に「其上本丸ニ火事出来候」(秋田藩家蔵文書)とあるのが唯一である。これは年号を欠いているが、慶長4年説(『山形市史 年表・索引編』)と同7年説(宮島新一2010年「県下に残る桃山時代の城郭御殿障壁画」米沢市上杉博物館『図録戦国大名とナンバー2』)の両説あり、このどちらかとみてよいだろう。この火災より以前に、瓦は採用されているのである。では、製作年代はどこまで遡るであろうか。山形城の改修は、文禄2年(1593)に最上義光が「うちたて((内館))のほりふしん((堀普請))」(伊達家文書)について家臣に指示していることから、この段階ですでに開始されていた。「うちたて((内館))」は後の本丸を指すとみられる。最上氏時代は他に本丸の火災の記載はなく、現在までの発掘調査で火災の痕跡は一度のみであるため、文禄2年頃に製作された瓦が、慶長4〜7年の火災で焼失したとみるべきであろう。山形城の瓦は、金箔瓦を含め、豊臣政権時代に生産が開始されたのである。

2 瓦の系譜
 山形城で特徴的に現れる「山文」の軒丸瓦は、京の聚楽第城下町屋敷でも出土している。出土位置は、尼崎本「洛中洛外図屏風」(尼崎市教育委員会蔵)に描かれた最上義光京屋敷と位置的に近く、この瓦は最上屋敷に使用されたと考えられる。聚楽第城下町屋敷は、天皇行幸をひかえて天正19年の京中屋敷替えによって成立した、諸大名の京の邸宅街である。ここで山文軒丸瓦が発案、採用され、本国の山形城への生産へとつながっていくのである。
 ところで、最上家の家紋は、足利家の庶流であることから足利家と同じ「丸ニ引両」である。なぜ、瓦の文様に家紋ではなく、「山文」を採用したのであろうか。現在のところ、確たる結論を持ち合わせていないが、京で初めて生産されたのであろうから、京の政治状況が反映したものと考えられる。当時、室町幕府の最後の将軍であった足利義昭はまだ存命であり(1597年死去)、天正15年(1587)に京に帰還したのち、翌年に将軍職を辞し受戒したものの、秀吉から山城国填島に1万石を認められ、京や大坂を住まいとしていた。そのような状況で瓦の紋章を選択する際、足利家以外に「丸ニ引両」の紋を瓦に採用することはありえなかったと推測される。足利義昭は豊臣政権で重要なポジションを占めていたわけではないが、室町幕府将軍家の家紋と同様の紋章を最上家の瓦に採用することを避けたい意図が豊臣政権にあったことは十分考えられる。
 また、京都でも出土しているのであるから「山形」「山形城」という地名を示しているわけではない。最近の文献史学の研究で、特に豊臣政権時代に最上義光は「山形殿」と称されていることが知られているが、自らの呼称から「山文」の文様の採用に至ったのであろう。山形城の瓦出現期の様相は、当時の政治状況を色濃く反映しているのである。

■執筆:齋藤 仁(山形市教育委員会社会教育青少年課主幹/文化財保護担当)「歴史館だより��25」より
山形城の天守閣について                        

  一 謎の天守閣図面
 鶴岡市郷土資料館には小林家史料という史料群が所蔵されているが、その中に「御殿守之たてぢわり」という謎の天守閣図面(小林家史料一八一)がある。この図面は縦約三六八�僉�横約三三一�僂箸いΑ△箸討眤腓�な図面である。そこに石垣上に聳える五層の大天守閣が描かれている。このように大きな図面であるため、簡単に写真を撮影して紹介することが難しいので、トレース図を作製した(図1)。さて「御殿守」は天守のこと、「たてぢわり」は立面図のことで、本図は天守の立断面図を描いているが、残念ながらどの城の天守なのかは不明である。



 小林家史料の小林家とは庄内藩酒井家に仕えていた大工の家であった。とすると本図も鶴岡城の天守の設計図と考えられそうであるが、鶴岡城には天守は造られなかった。実は本図は小林家史料のうちの小澤若狭守光祐に関わる史料群に含まれている。それでは小澤光祐とは何者なのか。やはり庄内藩に関係すると考えられそうであるが、実は最上義光のもとでさまざまな建築や修理に携わっていたことが確認される。さらに『最上義光分限帳』(『山形市史』史料編1)にも光祐は最上家家臣の中に連なり、「弐百石 大工頭 若狭」と見え、義光に重用されていたことがわかる。
 本図が義光に仕えていた大工頭に関わるものとすると、山形城の天守閣の設計図の可能性が出てくる。しかし、実際には山形城にも天守が建てられることはなく、さらに義光自身が建てる必要はないと判断したことが伝えられている。『羽源記』(『山形市史』史料編1)に次のようなエピソードが描かれている。慶長十五年(一六一〇)春、義光は家臣たちから天守の造営などを進言されたが、百姓の負担になるから天守の造営は無用であると却下したという。関ヶ原の戦いの後、五十七万石の大大名となり、また全国的にも築城ブームであったから、義光も他の大名たちと同様に山形城を一新し、大大名にふさわしい大天守閣を建設しても不思議ではない状況であった。それにも関わらず天守は無用と判断したのである。では本図は何を意味するのか。
  
  二 天守閣図面の性格
 何城のものかを示すはずの貼紙が本図裏面にあり、「□□城繪圖」と記されている。しかし、肝心の「城」の上半分から上部がちぎれていて、城の名前がわからなくなっている。恐らく〇〇城と記されていたと思われるが、現状では不明とせざるを得ない。他に、図中に二箇所、文字が記されていて、一つは石垣を説明したもの、もう一つは天守の立断面図は大体このようなものであると説明したものである。
 石垣と天守の立面図の説明箇所を翻刻すると次のようになる。

(石垣の説明)
石かきたかさ五間、
此つほかす七拾つほ、かたおもて也、
四方合弐百八拾つほか、

(天守の立面図の説明)
御殿守之たてぢわり、大かたこれ也、
但すみ正になくてならは、世上の目、木工の
むねにあるへし、角のかたの柱のつよミ
ひき物つかいに、なほ以大工人ゝの
口伝の大事あるべし、其心を以一筆如件、
 慶長拾年       櫻井越後守
     十二月吉日     吉久(花押)

 天守の立面図の説明に「慶長拾年十二月吉日 櫻井越後守吉久」とあり、本図を櫻井吉久が作製したことがわかる。一方、「棚の図」(小林家史料四〇)も、慶長十八年(一六一三)三月吉日、吉久から小澤若狭守殿に差し出されたことが記されている。これによって天守閣図面も吉久から小澤光祐に送られたことが推測できる。
 


また、五層目の屋根には文様が描き込まれている。菊紋と桐紋があしらわれているが、いずれも最上家も使っていたものである。本来は天皇家の紋であるが、『最上家譜』(『山形市史』史料編1)によると、勅許紋とある。または最上家は足利一門であることから、その繋がりによるとも考えられる。そして注目されるのは、入母屋の頂部、拝の部分の丸瓦に「山」の一文字が描かれていることである(図1-2の��)。普通、丸瓦には巴文や家紋が使われることが多いが、「山」一文字である。実は「山」文字瓦は山形城でも見つかっている。しかも書体は独特で基本的に共通することがわかる。ではなぜ「山」なのか。義光の書状の中には自ら「山出羽守」のように記したものがある。たぶん「山形」の略と考えられ、自ら「山」一文字で表現していたのである。これは山形殿というブランドを強く意識していたことによると思われる。さらに「山」文字瓦は聚楽第と大坂城でも見つかっている。両城周辺に最上家の屋敷があり、そこにも「山」文字瓦が葺かれていたのである。恐らく伏見城や肥前名護屋城などにもあったはずで、今後見つかる可能性もあろう。
 このように本図には最上家の家紋や「山」文字瓦が描き込まれていた。とするとやはり山形城の天守の設計図かと思われそうだが、結局は櫻井吉久が作製して光祐に送ったものでしかない。家紋などは光祐が書き加えたのであろう。そこで注目されるのが他にも天守の図面が二点あることである。一つは習作だが、もう一つは立面図としておおよそ完成形のようである(小林家史料二三四―三)。この図も何城なのかは不明だが、恐らく光祐が作製したものと推測される。これらの図面の存在から、義光から天守造営を命じられた光祐が吉久に教えを求め、慶長十年(一六〇五)、吉久から本図が送られ、それを参考にしつつ光祐が設計を進めていたが、同十五年、義光は結局天守造営を断念したと推測できる。光祐自身が技術の集成のため、天守の情報を収集していた可能性もあると思うが、状況からするとこのようなことだったかもしれない。ひょっとしたら山形城にも大天守閣が造られた可能性がある。歴史ロマンを感じさせてくれる図面である。

■執筆:吉田 歓(山形県立米沢女子短期大学日本史学科教授)「歴史館だより��25」より


〔参考文献〕
�盒饗鵝Φ氾調拭崗影眸預膵�棟梁小林家文書(その8)」『米沢史学』二七、二〇一一年。
吉田歓「最上義光の大工頭小澤若狭と天守閣図面」『最上氏と出羽の歴史』高志書院、二〇一四年。
吉田歓「最上義光の天守閣計画」『温故』四一、二〇一四年。
山形市史編さん委員会他『山形市史』史料編1、一九七三年。