最上義光歴史館
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最上義光公が通った羽黒古道
慶長5(1600)年9月、出羽の長谷堂合戦の論功により、最上義光公は徳川家康から25万石から57万石に加封され大大名となった。義光公は戦国期に荒廃した神社仏閣の造営などに力を入れ、領内を穏やかで安定したものにするため寺社を優遇したと考えられる。 ※1『羽州羽黒山中興覚書』によると、羽黒山の御堂(現三山合祭殿)や五重塔の修造、奥の院荒澤寺御影堂、荒澤不動堂、月山本宮などの造営が成された。なかでも羽黒御堂の修造は、慶長10(1605)年にはじまり、翌年の6月に行われた落慶法要時の様子が次のように記述されている。 「慶長十一(1606)年六月、最上出羽守義光公、當山御参詣有。供ニ局・上�瓠⊂絏借防歓諭�武士大勢供奉。麓野路より荒澤江登山。出羽奥州無双之馬ニテ両國ト云フ秘蔵之名馬を被レ爲レ引。局・上�瓮蕨爾茲蟇�黒江被レ爲レ登。此日晴天成ル所ニ義光公荒澤江上着之刻より天氣俄に變り大雨切に降。依レ之。羽黒より金(鐘)ヶ岡通、八(鉢)子村より清川村江下向有。上臈供奉之乗物等、恠有ニて漸々下着也。山形御歸城三日之内ニ、荒澤より羽黒江被レ爲レ引名馬落死。」とある。 この金(鐘)ヶ岡通とは何処なのか。※2『三山雅集』に「そのかみ(阿久谷の上という意か)当山の大鐘鋳成シける旧跡にてかく名付け侍るや鐘鋳谷といふ処も爰に残る侍る。」とある。羽黒本社の図(P57)の下方に描かれている皇野と羽黒本社との間、阿久谷の上に「金ヶ岡」と描かれている。 この他、羽黒山絵図(文政十三年庚寅年初秋写之)や湯殿月山羽黒三山一枚絵図などにも同様に描かれている。 このように、この古道は、月山から流れる立谷川左岸にある鉢子集落から皇野を経て、羽黒山頂へ続く約3kmの道である。皇野には盛土状の地形を有する開山塚と呼ばれる所があり、蜂子皇子の墓と伝えられ、この一帯を元羽黒という。室町時代まで五百余の坊舎があり、手向の街並みが形成される以前は羽黒山への表参道であったといわれている。 また、※3『義経記』には義経の奥州下りの途次、弁慶ひとりが代理として羽黒山参詣の折、あげなみ山を通り、清川の五所王子(現 御諸皇子神社)で義経一行と合流する時に通った道といわれている。近年、地域住民によって整備され「羽黒古道トレッキングコース」として利活用されているのがこの古道である。 ![]() ■執筆:矢野光夫 参考文献 ※1 『羽州羽黒山中興覚書』P9〜10 経堂院精海著 戸川安章校注 昭和16年8月10日発行 ※2 『三山雅集』P57、P82〜83 経堂院往持 東水編纂 昭和49年8月25日 (株)東北出版企画発行 ※3 『義経記2』P250 佐藤謙三、小林弘邦訳者 1982年9月1日 (株)平凡社発行 |
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「最上義光再考 誉田慶恩『奥羽の驍将 最上義光』の見直しを通じて」
誉田慶恩『奥羽の驍将 最上義光』(人物往来社)は、50年近く前の1967年に刊行されたものであるが、現在も最上義光(1546−1614)研究の際の必読書といえる。誉田氏は多数の最上義光関係史料の博捜のもとに、等身大の最上義光像に肉薄している。本書の特徴は、最上義光を英雄としてではなく、実像を実証的に明らかにしようとしているだけに、大いに示唆に富んでいる。本書を読めば、現在においても最上義光研究のおおよそを知ることができる。 しかし、その後の武田喜八郎氏、片桐繁雄氏らの研究や、『横手市史』ほかの研究によって、ようやく誉田氏の提示された最上義光像にも疑義が提起されている。 私自身もここ10年ほど最上義光研究に従事し、できる限り史料の博捜に努め、250点ほどの最上義光書状などを収集できた。そうした史料などを使って見ると、誉田氏の玉著にもいくつかの問題があることがわかってきた。とりわけ、美術作品や文学作品が史料として使用されていない点なども大きな問題といえよう。そこで、『奥羽の驍将 最上義光』の問題点に注目しよう。 まず第1に、最上義光の幼年時代に関して、八日町の最上氏ゆかりの寺院宝光院旧蔵(現、山形大学図書館所蔵)の文殊菩薩騎獅像が全く利用されていない点がある。本像は刺繍仏であるが、それには、制作年・制作者名が刺繍されていてわかる。すなわち、この文殊像は、中野(山形市北西部)寿昌寺に住む源氏末葉の永浦尼が刺繍して、永禄6(1563)年4月17日に法(宝)光院住職増円に寄付したという文言が刺繍されている。宝光院は、最上家の改易(1622年)後は、最上氏の氏寺ではなく上野寛永寺の末寺として生き延びたために、最上時代の史料、とくに中野時代はまったく不明であった。本文殊像により、宝光院の住職は、永禄6年当時、増円であったことがわかる。 ![]() ところで、刺繍者である永浦尼が住む寿昌寺は最上義守の菩提寺であったと考えられ、そこに住む尼は、最上義守の嫡妻か母と推測される。母だとすると、当時、60歳を超えていたと推測され、当時は、平均寿命は短く、義守の母が生きていた証拠がないことから、ひとまず、永浦尼は妻だと考えたい。もっとも、尼だといっても、当時は在家の尼として、普通の生活を送っていた。 義守の正妻は、系図によって相違があるが、そのうち、最上氏と密接な関係にあった寺院の一つである「宝幢寺系図」によれば、小野少将の娘とされる。それゆえ、永浦尼とは、小野少将の娘であったと推測される。 ところで、注目すべきことに、永禄6年6月14日には最上義守・義光父子が京都にのぼり、将軍義輝に拝謁している。この拝謁は、義光が元服し、その際、将軍の義輝(第13代将軍、1536〜65)の一字をいただいた事に対するお礼と考えられる。すなわち、臣従の礼を行ったのであろう。 そこで、本刺繍の制作が、同年4月17日であり、京都へのぼる2箇月ほど以前であることなどから、義守妻(義光の母)が、夫と息子の上洛の旅の安全と武運長久を祈って刺繍したものと考えられる(拙稿「山形市宝光院と文殊菩薩騎獅像」『山形大学大学院社会文化システム研究科紀要 第6号』, 2009)。 次に問題となるのは中野義時である。誉田氏は天正2(1574)年の最上氏の内乱を通じて、最上義光の弟で、中野の城主となった中野義時と最上義光との対立に光りを当てている。誉田氏は、最上義守が義光の弟義時を寵愛して跡を継がせようとし、元亀2(1571)年に義光に家督を譲ったにもかかわらず、天正2(1574)年には娘婿の伊達輝宗の援助のもとに義光と戦った。これを最上の乱という。 この中野義時の存在に関しては、片桐氏ほかの実在を否定する見解が出、大いに注目されている。といのも、大澤慶尋『青葉城資料展示館研究報告「天正二年最上の乱」の基礎的研究』 (2001)によって、天正2(1574)年に起こった最上の乱の実態が明らかになり、天正最上の乱関係史料に出て来る中野殿とは最上義守であることが確実となった。すなわち、最上の乱とは義守と義光との対立であったのである。それゆえ、天正2年の最上の乱を最上義光と中野義時との抗争とみる説は成り立たないといえよう。とすれば、中野義時は実在しなかったのかというと、少し疑問が残る。 義守・中野義時と義光との対立・抗争説は、古くは『乩補出羽風土記』(1792年刊)あたりから見られる。それは、両所宮の里見光當氏らが作成を企画したが死去したために、結局、弟子平田一元が遺志をついで刊行した。その「中野城」の項目には 義守嫡義光に山形を領せしめ、二男義時を中野の領主とせり、然るに兄弟不和にして、兄義光を亡さんと企、中野村山王別当宝光院、山形吉事宮の神職大宮司と両家にて、調伏の祈祷有けるに、其催し既に顕れ、義光大に立腹有て、義時は切腹被仰付亡ひたり*天正三年の頃とそ、その子備中仙台へ逃行*山王別当宝光院は追放、大宮司は改易に成、吉事宮別当には成就院に被仰付、家中より宮の内え引越、(中略)、其後義光、薬師寺別当国分寺え御入之時、国分寺法印種々御詫言申上ければ、御厚免有て、山王社並宝光院共に山形に引地に被仰付、今の鉄砲町の宝光院是也、*此時里見氏先祖、両所宮え押へのために、被付置しか、最上家改易の後威勢衰へ、いつとなく社家となれりとぞ、此事国分寺へ証文有* とあり、宝光院と山形両所宮の大宮司が中野義時に味方して義光を呪詛した。おこった義光は山王別当宝光院を追放し、大宮司は改易され、山形両所宮は成就院の支配下になり、城内から宮の内へ移した。その後、国分寺法印の取りなしで、山王社並宝光院共に山形に移ってきたという。 この話は、山王社並宝光院が中野から山形城下に移ってきた理由を示していて興味ぶかい。というのも、中野時代の宝光院の資料については、文殊騎獅像以外になく、別当についても、はっきりせず、なぜ山形へ移転したのかも不明だったからである。この話は、一方の当事者であった両所宮に伝わった伝承で、「此事国分寺へ証文」が当時においては残っていたと考えられ、大いに示唆にとんでいる。 ところで、義時は、最上系図の菊地本にのみ見えるとされるが、注目すべきは、光明寺本(1746年編纂)最上系図には、最上義光の弟に「中野殿」と見えることである。 光明寺は、最上ゆかりの寺院であり、義光兄弟の一人に「中野殿」という、中野を拠点とした人物がいた可能性は残る。 とすれば、一つの可能性として、最上の乱に際しては、元服前の子供であったために、父義守が主導者であり、前面にはでなかったにせよ、義守は「中野殿」と呼ばれる義光の弟を擁していた可能性はまだ残っているのではなかろうか。 近年の研究によって、明らかになったいま一つは、文化人としての最上義光像であろう。すでに国文学の方では、最上義光の連歌を詠む文人としての側面に大いに光りが当てられてきた。しかし、誉田氏はそうした側面には光が当てられていない。近年は、片桐氏らによって、文化人としての側面が大いに注目されている。最上義光は決して田舎侍ではなかったのである。 さらに、最上義光の「目指していたもの」、理想が明らかにされていない。最上義光が戦国の動乱を武力とたくみな外交戦略によって、しだいに最上川を下って庄内に勢力を拡大していった。それは、偶然ではなかった。 というのも、最上義光は、「羽州探題」たらんと夢見ていたからである。最上家は、斯波兼頼が羽州探題として入部したことに始まる。義光は、この羽州探題として山形・秋田を支配することが夢であった。その夢は、天正16(1588)年に豊臣秀吉によって、羽州探題職に任命される(閏5月11日付中山光直書状、『横手市史 史料編 古代・中世』434頁)ことによって達成することになる。 ところで、私は、最上義光発給文書を250点ほど収集してみた。最上義光文書は年欠文書が多く、義光の活動を年代順に追うことは困難であった。だが、『横手市史』などによって、伊達のみならず、小野寺らの戦国大名との関係を通じて年が確定されつつある。 また、従来は、100点ほどの文書を使って最上義光の活動が論じられてきたこともあって、最上義光の生涯、とりわけ57万石を領有した江戸時代の叙述も十分とは言い難い。 ![]() たとえば、図のような七得の小印が押された横折り紙の印判状は数多く残っている。とりわけ、慶長17年6月4日付けのもは100を超える寺社に出されたが、まさに慶長17年こそは庄内支配も完成した最上時代の一大画期であったのだ。 この他にも論じたいことは多いが、紙幅がつきたのでこれで筆をおこう。 ■執筆:松尾剛次(山形大学人文学部教授)「歴史館だより��20」より 松尾剛次先生の研究室のホームページ>>こちら |
「最上義光等連歌巻『賦何舩連歌』一巻」について
本資料は最上義光が連衆(参加者)となっている連歌33巻(平成24年現在の確認数)のうちの1巻です。このたび山形市が購入し、当館で収蔵することになりました。内容・状態・伝来とも大変良く、本資料の購入によって、連歌に係わる資料の充実と強化を図り、これまで以上に連歌を通じて文化人最上義光を啓発する一助としていきます。 一般公開についてはまだ未定です。 公開の時期や資料の詳細につきましては随時報告します。 最上義光歴史館 |
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最上氏と山寺立石寺
一 立石寺の漆塗り和紙皿 2002年12月2日(月)『図説山形市の歴史と文化』執筆のために山寺立石寺へ写真撮影に伺った。山形市社会教育課の方・山形美術館加藤千明氏・高野山の日野西真定氏など、総勢10人でおじゃました。 予定通り写真は撮れたのであるが、その中で住職清原浄田さんが出してくれた寺宝のなかに、驚くべきものもあった。 それは仏事の際に使用する皿である。素材は紙でできていて、その上に赤漆を塗り、内側には黒漆で蓮の花を形作った模様が描かれているもので、全部で50個あった。50個全部の底には次のように記されてあった。 「 惣社徳蔵寺寄進 箕輪東光院貢献 五十枚之内 天正九(巳辛)八月吉日 」 天正9年(1581)に箕輪光院の弘賢が、惣社徳蔵寺に寄進したものであることがわかる。それがいつの時期かに出羽立石寺に運ばれてきたことになろう。しかも寄進された50個がそのまま残されているのである。 惣社は上野国の惣社であり(群馬県前橋市元惣社町)、隣接して徳蔵寺(功叡山放光寺ともいう)がある。この寺は天台宗の寺院で、文明3年(1471)足利氏の祈願寺として建立された(中世一宮制研究会編『中世一宮制の基礎的研究』岩田書院、2000年)。惣社の旧社地は現在地の北西500�辰砲△蝓�永禄9年(1566)武田氏の兵火にあい焼失したのを、元亀年間(1570〜73)現社地に再建したものである(『別冊歴史読本 日本神社名鑑諸国一宮』新人物往来社、2002年)。 上野国の惣社とすぐわかったのは、立石寺住職69世清原浄田氏がこの皿の底に記された寺名を見てすぐ「この名前は群馬県にある」と指摘されたことによる(群馬県前橋市)。その眼力たるやさすが、常人の及ばざるところ、感服する次第である。寺社間における関東と出羽国との交渉については、慈恩寺(寒河江市)の例に見られるように頻繁であること既に周知の事実である。 さて箕輪であるが、現在の群馬県箕輪町に位置する。榛名山の扇状地であり、西明屋北部の地形が蓑の形をしていることからくる地名である。同町西明屋にある箕輪城は長野氏が築城した山城である。その後武田氏と後北条氏が取り合いをした西上野の中心的な地位を占める重要な城となっていく。近世には井伊直政が城主となるが、慶長3年高崎城(高崎市)に移ると廃城となり、寺社もかなり共に移転したようである(『日本地名大辞典 群馬県』角川書店)。残念ながら東光寺については今のところよくわからない。 いずれにしても中世の貴重な史料でありしかも漆芸の面からもとても貴重な物であることはまちがいない(加藤千明氏のご教示による)。山寺の寺宝は、まさしく宝の山というべきである。 二 最上氏と立石寺の関わり この最上氏と立石寺は代々深い関係を有している。延文元(正平11、1356)斯波兼頼が羽州管領として入部すると、根本中堂を再建したことからはじまる。山寺のある位置が、山形城の鬼門鎮護の位置にあることに起因するとされる。 さて表は両者の関係を現している。永正17年(1520)伊達稙宗が天童・高�戮鮃兇瓩討�たときに、山寺の衆徒らが伊達方に加担したことを恨んで、大永元年(1521)天童・成生両氏が山寺に攻撃をして灰燼に帰してしまう。「寺中家無一十余年、其間堂社破」の状況にあった山寺を最上氏らの援助などによって再興していく。天文3年に立石寺日枝神社が修造されるが、旦那の一人「山形殿」は最上義守である。同じく焼き討ちによって不滅の法燈が焼失してしまったため、天文12年(1543)立石寺の一相坊圓海は、4月に比叡山に登拝し、6月に根本中堂の燈火を分火してもらい、海上を輸送した後に立石寺に納火する。この時助成したのが義守の母であるが、義守は中野義清の次男とされるので義清夫人ということになる。日枝神社の修造もそうであるが、山寺の復興を最上宗家だけでなく一族の総力を挙げて成し遂げようとしている姿がうかがえる。この燈火は元亀2年(1571)に信長の焼き討ちにあって焼失した比叡山根本中堂に、今度は立石寺側が天正13年に登拝して納めることになる。 永禄13年義光が願文を献じて、本懐を遂げたあかつきには、「他宗住居」を認めないことを誓っている。「本懐」については、従来から義光の家督相続のことを意味していると解釈されている。父義守との父子相克があって、家督相続に暗雲が立ちこめている状況下で願文が書かれたことになる。自分の将来を託すほどに山寺への崇敬が厚かったことになろう。それにしても山寺内部の対立抗争などについても、よく知っていたことには驚く。天正14年義光は常燈油田を寄進する。この時自らを「高楡小僧丸 義光」と称している。「高楡小僧丸」という呼称については、義光が高楡(天童)に居住していたからこう称したのだという解釈もあるが、どうであろう。高楡には、高楡城・石仏寺・専称寺(後に願行寺)などが存在して、確かに重要なところではある。しかしながら天正12年(1584)いわゆる天童合戦に勝利して、領地を現在の村山・最上両地域に拡大し、さらに庄内まで触手を伸ばしている段階で、高楡に居住することは考えられない。家督を相続する以前の段階であればあり得ないことではないが。それにしても何故「高楡小僧丸」と名乗ったのか。他にも天正17年2月20日、最上義光預置状(青木文書)で、義光は「谷地小僧丸」と名乗っている。いずれも今後の検討課題ではある。 その後近世に入ってから、慶長4年義光は、立石寺納経堂を修造している。慶長13年には楯岡光直(義光の弟)が、義光の長寿を祈願して立石寺根本中堂に鰐口を寄進している。 このように最上氏が山寺を崇敬し、保護するという関係は、最上氏が改易されるまで続いていった。 執筆:伊藤清郎(山形大学教育学部教授・文学博士)/「歴史館だより��10」より |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum









本稿は最上義康と家親の生母について考察してみることとしたい。
最上氏諸系図(注1)では、最上義康は義光の嫡男で天正三年(一五七五)に生まれた。一方、家親は次男として天正十年(一五八二)に生まれた。これは諸系図では一致するので、特に問題ない。彼らの兄弟については、諸系図では五人いることが共通している。すなわち、長男の最上義康、二男の家親、彼らの弟は清水光氏(後述)、山野辺光茂(のちに義忠)、上山光広(義直とも)と大山光隆である。一方、妹は野辺沢(延沢)光昌室、氏家国綱室、東根親宜室、そして豊臣秀次側室の四人が確認される(注2)。
今回の検討対象となる二人の生母はどうであろか。従来、義光の正室は大崎氏で、側室は二人居り、すなわち天童氏と清水氏といわれている。そして、義康と家親の生母は同じとされながら、義光正室の大崎氏とも次の正室の天童氏ともされている。
『山形市史史料編1最上氏関係史料』(以下は『市』と略す)で所収される諸系図では、義康の生母が明記されるのが以下4つである。すなわち、
�ヾ伽�重修諸家譜最上氏系図、「母は某氏」(注3)
�∧�幢寺本最上家系図、「母は天童四位少将頼貞女」(家親と同じ)(注4)
�5特枠擲抖貘∈脳綵弍�守義光系図、「少将殿本奥の腹の子也」(注5)
�さ特枠擲抖貘∈脳綏鷲茵◆嵎譴賄憩源涌名�将頼貞女」(家親と同じ)(注6)
�,話韻法嵋浸瓠廚箸△襪里澆如△茲蟠饌療�に明記するのは�↓��い任△襪�、上述したように、義康の生母は大崎夫人と天童夫人との二説が存在することが一目瞭然である。
さて、詳しくみると、�△鉢い脇韻犬�義康の生母を天童頼貞の娘とし、家親とは同腹の兄弟であると記されているのに対して、��はやや曖昧ではあるが、「少将殿本奥」の子となっている。問題は��の「少将殿本奥」は誰なのだろうか。
彼女たちに関してはすでに故川崎浩良氏(注7)、松尾剛次氏(注8)、片桐繁雄氏(注9)の考察があるので、詳しくはご参考いただきたい。ここでは二人の母を絞って若干検討をしてみたい。
そもそも、大崎夫人については、生年、そして義光の正室としていつ輿入れしたかは不明であり、その出自については大崎義直の娘という説があるが、確証はまったくなく、定かではない(注10)。もしそれが正しいというならば、義光と大崎義隆とは義兄弟関係となる。
『最上源氏過去帳』(以下は「過去帳」と略す)では彼女を「山形殿内室、奥州大崎家女」として文禄四年(一五九五)八月十六日に死去し、法名は「月窓妙桂大禅尼」である(注11)。大崎夫人を義光の正室としているのが『東大史料編さん所架蔵影写本最上家譜』のみで、ほかに、『光明寺本最上家系』注(注12)と前掲�△痢慂�幢寺本最上家系図』は義光の正室を天童夫人としている。つまり、最上家各系図では大崎夫人の存在をあまり知らないことが窺える。
一方、片桐氏の紹介によれば、義光の正室として知られる天童夫人は義光の三男清水光氏を生み、天正十年(一五八二)で死去したという(注13)。それ以外、彼女については一切わからない。
果たして大崎夫人は義康の生母かどうかは確証が欠いているが、義康が生まれた天正三年は「最上の乱」の翌年であり、その時点、対戦相手の天童氏との関係はまだ険悪らしい。それにしたがって、片桐氏は「義光の長男義康が生まれたのが天正三年であるから、正室は、これ以前に嫁いだはずである。それが天正初めのこととすれば、山形は天童・中野グループと激しい抗争を繰り広げていた真っ最中となる。はたして天童家から入ったのかどうか」と、天童氏の女を対立状態にもかかわらず、正室として迎え入れることに対して疑念を呈している(注14)。
たしかに、義光と義守との内紛は少なくとも元亀二年から天正二年まで断続的に続いていたので、その間に義光が敵の天童氏の女を正室とするのはまったく不可能とはいえないがものの、やはり天正二、三年の政治情勢から見ればやや考えにくい。
また、系図��の「少将殿本奥」についても、系図自体の検討は要るが、上述した天童夫人はすでに天正十年に死去したとされ、大崎夫人と見られる「月窓妙桂大禅尼」は十二年後の文禄四年に死去したのであり、系図��にある「本奥」とは「本妻」、「正室」という意味だから、より長生する大崎夫人を指すのが妥当ではなかろうか。
ところが、注目すべきは「過去帳」ではもう一人の女性がいる。それは「家親実母」という付記があり、法名が「高月院殿妙慶禅定尼」(以下は「高月院殿」と略す)とある女性である。家親については次節で触れることにして、ここは「高月院殿」を注目したい。
この「高月院殿」は今までの通説では義康と家親の生母であり、大崎夫人と同一人とされているが、大崎夫人=「高月院殿」であるかどうかは片桐氏も明確に示していない(注15)。「過去帳」では、この女性は慶長三年に死去したと記されており、大崎夫人のこと「月窓妙桂大禅尼」の死後三年だった。とすれば、大崎夫人と「高月院殿」は同一人であることはありえない。
もし「高月院殿」は大崎夫人とは別人とすれば、当時すでに他界したはずの天童夫人はもちろん当てはまらないし、三人目の妻である清水御前は元和八年(一六三八)に六二歳で死去したので、彼女も当てはまらない(注16)。
「過去帳」が言うように「高月院殿」は本当に家親の実母で、大崎夫人とは別人とすれば、義光の妻室は少なくとも四人いることになる。それでは、「高月院殿」は誰だろうか。
まず、「高月院殿」は寒河江に葬られ、そして家親は一時寒河江と名乗っていたことから、「高月院殿」が寒河江氏の出身の女性という可能性があろう。なぜなら、「高月院殿」が大崎夫人であれば、家親が藩主になっても山形に葬られないことは考えにくいからである。
現存史料では義光の妻室の中に寒河江氏の女がいたという記録はないが、その可能性を示唆するものが残される。それが「安中坊系譜」である。その中で寒河江兼広の項では、下記のよう書かれている。(注17)
永禄三年庚申三月、最上義光率兵攻寒河江(中略)後義光和解而以長男義康為兼広聟、大坂秀頼ニ仕、兼広無男子、有女子二人、一高基、二義康妻也
永禄三年(一五六〇)には、むろん義光はまだ家督を継いでいないので、誤記であるが、「義光」を義守に、「義康」を義光に置き換えればどうであろうか。
無論、天正二年以前義守の動向はほとんどわからない状態であり、寒河江氏を攻めた記録も残されていないから、右史料の信憑性が疑わしくなる。
しかし、同系譜によれば、兼広は天文十五年に寒河江家を継いだらしく、史料では兼広が最後に見られるのが永禄四年(一五六四))である(注18)。一方、「はとう物の覚」によれば、それを継ぐ寒河江尭元(注19)は永禄十一年から元亀元年の間(一五六八〜一五七〇)に御代始りしたらしいので(注20)、義康が兼広の婿であることはありえないものの、義康でなく、義光であれば矛盾が問題なく解消することになる。それが正しいならば、兼広の娘が義光の妻となり、家親を生んだ「高月院殿」ではなかろうか。
また、大崎夫人の法名は院号がないのに対して、この「高月院殿」は院号が付かれるのは後に家親が藩主になり、生母を尊敬するためであろう。とすると、せめて家親は大崎夫人の子ではないから、「高月院殿」の側で「家親実母」と明記したのも理解できよう。それが正しければ、義康の生母は大崎夫人で、家親の生母は「高月院殿」であるという可能性があれば、二人とも「高月院殿」の子である、ということも別におかしくない。
最後に、寒河江では義康が寒河江尭元の養子であるという伝承は根強いが、上記の「安中坊系譜」では尭元の妻は兼広の娘で「高月院殿」の姉となり、義康が「高月院殿」の子とすれば、息子がない尭元の養子となることは不自然ではない(注21)。一方、通説のように血筋とは関係なく、尭元は義康を養子とし、「高月院殿」の子で、寒河江の血筋を汲む家親が後に寒河江と名乗ったことも特に違和感がない。
いずれにせよ、上記の�◆↓い�言う天童夫人は義康と家親の生母である可能性が低く、そして、明らかな確証がないものの、義康の生母は大崎夫人か「高月院殿」のいずれかと推定したい。
以上、憶測の部分が多いことは否めないが、従来『最上源氏過去帳』と諸系図の比較検討はいまだ数少ないため、本稿はその試みとして一つの仮説を立てることで、最上義光の子息たちの関係のみならず、寒河江氏と最上氏との関係を再考する糸口と期待されたい。
■執筆:胡 偉権(歴史家/一橋大学経済学研究科博士後期課程在籍生)
(注1) ここでいう諸系図は『山形市史史料編1最上氏関係史料』一九七三年(以下は「市」と略す)で掲載されるものである。
(注2) しかし、義康の兄弟の中では、家親以外はいずれも関連史料がきわめて少ないため、不明点が多く、未だそれぞれの実態を把握できないのが実情であるので、今後の課題としたい。
(注3)『市』三二頁
(注4)『市』五五頁
(注5)『市』六五頁
(注6)『市』六九頁
(注7) 『浩良史話集』川崎浩良全集四 郁文堂書店、一九六四年
(注8) 『山形学―山形の魅力再発見』山形大学都市・地域学研究所、山形大学出版会、二〇一一年、初出は二〇〇三年平成十五年度・山形大学公開講座報告集
(注9) 片桐繁雄「最上家をめぐる人々」、最上義光歴史館公式ホームペイジで連載される(http://mogamiyoshiaki.jp/?p=list&c=951)。以下同シリーズは「最」+番号で略す。
(注10) 伊藤卓二「大崎義隆の墓」『奥州探題大崎氏』所収、高志書院 二〇〇三年
(注11)『市』八六頁
(注12)『市』四八頁
(注13) 片桐繁雄「最�◆廖�http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=110860)
(注14) 同右
(注15) 片桐繁雄「最��」(http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=125693)
(注16) 片桐繁雄「最��」(http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=111190)
(注17)『寒河江市史資料編』大江氏関連史料 一〇五頁、以下は『寒』番号と略す
(注18)『寒』三六八頁 宝林坊文書二号
(注19) 寒河江尭元は実名が高基、隆基などの異説があるが、寒河江氏当主の実名
には「元」、「広」の通字が使われるから、「隆基」ではないと考えられる。慈恩寺に見られる「大江ノ尭元」にしたがって、小稿は「尭元」と統一したい。
(注20) 『寒』三七二頁、広谷常治氏所蔵文書二号
(注21) 寒河江氏一部の系譜では、