最上義光歴史館
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最上家信奉納の神馬図
天童城本丸趾に建つ愛宕神社には「慶長八年(1603)菊月」の棟札があったとされるが、今は所在が確かめられない。その後、寛文年間に暴風のため社殿が破壊し、現在の建物は延宝六年(1678)に再興されたと伝える。 当社に山形最上家の最後の城主、家信が奉納した紙本金地着色の神馬図一幅が伝わり、天童市の文化財となっている。 ![]() 紙本金地著色「神馬図」 天童市・愛宕神社 写真提供:天童市美術館 縦188・0センチ、横212・0センチとたいへん巨大である。構図が似ていることが指摘されている若松寺(天童市)の郷目貞繁筆の絵馬よりも大きく、最上家の当主の奉納品としていかにもふさわしい。図には「奉納/馬形/一疋/為諸願/成就/(欠失)/九月二十四日 家信」という墨書があるが、肝心の年号部分が欠損している。裏面には「慶(カ)□□四年酉九月□四日/□□源五郎家信自筆/愛宕社奉納」と記された後世の貼紙があるが、当然のことながら絵馬から掛軸に改装した後のものである。慶長十四年が酉年にあたるが、家信はわずか四歳でしかなく自筆という文言と矛盾する。箱に「御宝物最上出羽守少将義光公御真筆」と書かれた板が打ち付けられているので、義光存命中の年号にしようとする意図的なものが感じられる。 ![]() 『山形市史』は奉納年次を元和六年(1620)としている。同じく家信が奉納した山形市内の日枝神社の絵馬に「おさめたてまつる馬形三疋/元和六年十月十六日 家信」と記されているのを参考にしたのだろう。日枝神社の絵馬は猿が馬を曳く様子を描いた珍しい図で、猿が描き加えられているのは日枝神社の使いが猿だからである。また、猿は厩を守るとされている。 厳密に言えば、奉納の年は家信の在国期間を点検したうえで結論を出すべきである。なぜ在国中に限るかと言うと、江戸から送り届けたのでは藩主が奉納した効果が薄らぐからである。以下では『山形県史』史料編の「金石文」の項に集められた、家信による造営、寄進史料をもとに在国期間を考えてみた。あわせて、小野末三氏による綿密な考察「山形藩主・最上源五郎義俊の生涯」を参照した。 最上家信は元和三年三月に父の最上家親が死去したニカ月後に、わずか十二歳で家督を相続している。当時の習慣では大人として認められるぎりぎりの年齢であった。江戸で生まれ育った家信は相続後なるべく早く国の家臣らに顔を見せる必要があった。家信の若さに不安があったのか、幕府は元和四年九月に最上領検使として榊原左衛門をさし向けている。おそらく、それまでに家信は帰国していたはずである。 家信は帰国するや領内安定を願って矢つぎばやに各地の神社を再興している。元和四年七月に鳥海大権現薬師堂と遊佐町の蕨岡大物忌神社を再興し、八月にはかねてから進行していた慈恩寺本堂落成法要を執り行ない、九月には酒田市の亀崎八幡神社を再興している。また、致道博物館に伝わる擬宝珠には「羽州鶴岡垂虹従山形三日町橋令造立之畢 元和四戊午年霜月吉辰」の銘文があるので、これも家信の助力によるのであろう。 このほか『神道体系 神社編』に収録されている羽黒山本社東之坊早鐘銘には「元和三年五月廿八日」の年紀と、「国主時代源朝臣家信公」という耳慣れない文言が記載されている。五月は相続直後にあたるので、父、家親の事業を受け継いだのであろう。もう一つ、西之坊勤仕鐘銘として「元和四年林鐘(六月)吉日」という年紀とともに「国主源朝臣家信公」と記載されている。ここから元和四年の六月から十一月まで造営事業が連続していることがわかる。家信は相続後一年ほどたった六月までに帰国して検使を迎え、在国中に新しい藩主の威光を示そうと、もろもろの造営にいそしんだのであろう。 家信は翌年の正月は山形で過ごしている。『梅津政景日記』によれば、元和五年二月に秋田藩主が参府の途中、天童にて家信より贈り物を受けているからである。三月の細川忠興書状には「東奥の衆すみやかにのぼらるの由」とあるので、やがて家信も江戸に向かったのであろう。五月には秀忠上洛につき江戸留守居役を勤め、六月には取り潰しとなった福島正則の江戸藩邸の接収にあたり、功績をあげている。 ところが翌年の元和六年三月になって幕府は再び監視役を山形に派遣している。「家士など相論おだやかならず。家信、放逸、淫行をほしいままにして、家臣の諌めを用いず。」という理由からだった。『徳川実紀』の同年九月十二日の条には、家信が舟遊びの挙げ句に大名という身分でありながら船頭と争論した、という不名誉なことが記録されている。ただし、同年七月から九月にかけて江戸城普請に携わる家臣らを労う家信の書状(山形市史・史料編1)が存在することによって、この時には家信が山形に在国中だったことが明らかなので事実はともかく、時期については誤りとしなければならない。 元和六年には元和四年と同じように家信の神社への寄進、造営が連続している。おそらく、家臣間の不和を静めようとする願いがこめられていたのだろう。十月には先にもふれたが日枝神社に絵馬を奉納し、十一月には鶴岡市湯田川の田川八幡神社、十二月には飽海郡八幡町の一条八幡神社を再建したことが棟札によってわかる。いつまで在国していたか不明だが、翌年の元和七年五月の銘がある伝山形城大手橋擬宝珠(酒田市佐藤家)が存在することや、大沼浮島神社の石灯籠に「羽州最上山形源五郎源家信 元和七辛酉年六月吉日」の銘があることから、元和七年六月までは在国していたようだ。 『梅津政景日記』によれば、元和七年十月十三日に佐竹義宣は江戸城での茶会のため家信の招待を断っているので、それまでには江戸に戻っていた。佐竹義宣は翌年の元和八年三月の書状で、最上家信の町屋での傾城狂いと酒乱による不行跡を伝えており、八月になってついに所領の没収が決定した。十七歳だった家信はわずか一万石に改易され、近江に転封となった。 一般には家信が義俊と改名したのは改易後とされるが、元和九年閏八月十三日付け慈恩寺別当宛書状に「最源五家信(花押)」とあるので、改易後もしばらく家信を名乗っていたようだ。改名の時期はまだはっきりしていないが、翌年二月に寛永と改元されているので、このあたりが改名のきっかけになったかもしれない。愛宕神社の絵馬は改名前の寄進ではあるが、改易後とは考えにくい。諸社への寄進は元和四年六月から十一月までの間と、六年十月から七年六月までの間に集中している。ただし、『神道体系』の羽黒山の部には「藤松丸木像」の銘文として「国主時代山形源朝臣家信公 干時元和八稔卯月吉日」という意味の取りにくい記載がある。これをも含めるならば、改易直前の元和八年も範囲に入れなくてはならない。 本図は26・5センチ四方という日枝神社の絵馬とちがって規模がきわめて大きいことを考えると、初めて入国を果たした元和四年(1618)の可能性を考えてみたくなる。奉納日の直前の九月十二日に幕府の最上領検使を迎えていることもその心証を強くする。「諸願成就」の中には検視が無事終わることを願う意味もあったのかもしれない。絵馬は九月に奉納されている。上述のように家信が九月に在国していたのは元和四年と六年である。七年の可能性もまったくないわけではないが、除外してもよいだろう。 奉納先の愛宕権現は火除けの神でもあるが軍神でもある。愛宕権現は武神らしく馬に乗る姿をしている。そこに巨大な絵馬を奉納して、入国早々に家臣らに君主としての意気込みを見せようとしたのだろう。たまたまかもしれないが、元和四年は午(うま)年にあたる。だが、日枝神社に猿を描いた絵馬を奉納した同六年が申(さる)年だったことを考えると、単なる偶然とも思われない。ここでは元和四年を奉納の年と考えておきたい。 この絵馬からは初めて領国と家臣を目にする、年若い大名の心の昂ぶりが感じられないだろうか。図は、白地に茶色の横縞が入った小袖に緑色のたっつけ袴を穿き、紐を足首で結ぶ皮足袋に草鞋履きの若者が手綱を強く引いて、はやる馬を抑えながら駆けて行く光景である。形式的な図がほとんどの絵馬の中にあって他には見られない躍動感がある。口取りを画面中央馬体の前に配して馬よりも強く印象づけようとしており、風俗画としても見ることができる。腰に結んだ赤い帯に差した脇差は印籠刻鞘風の拵で、金色の盛上げ彩色が施されている。若者の月代を剃らずに頭部全体の髪を短く伸ばした髪型と、南蛮風俗を意識したものだろうか、首の回りに認められる鋸歯状の襟飾りが印象的である。 ![]() 風俗や馬の表現からすると家信の署名がなければ、この図はおそらく寛永期以降の作とみなされるだろう。だが、本図が元和四年(1618)の作であるならば、従来、寛永期とされていた風俗画、代表的な作品をあげれば国宝の「彦根屏風」などを、元和期にまでおし上げる有力な根拠となるだろう。その可能性についてはすでに『風俗画の近世』(至文堂 日本の美術)において指摘したことがあるが、本図の存在を知ってその意をいっそう強くした。 元和期の作とはっきりとわかる絵画は少ない。元和五年の建物に描かれた旧円満院(現在は京都国立博物館)障壁画中の風俗画は、慶長二十年(1615)に描かれた名古屋城対面所の風俗図の系統を引く。従来は、十年間におよぶ元和期は慶長期の尻尾のように扱われてきた。最近、狩野博幸氏によって紹介された元和六年の東福門院入内行列を描き加えた「洛中洛外図」屏風にしても桃山時代の作品との区別が難しい。しかし、今後は元和期を寛永期を先取りした時代として二重写しにして見てゆく必要があるだろう。 『治代普顕記』(『大日本史料』12編47)によれば、最上家信は「平生、遊女傾城にたはふれ、有時は舟をもよおして夜を明かし、有時は居屋敷へ数十人の遊君を招集めかふき躍を事とし」ていたとある。家信が改易された翌年の元和九年に、福井藩主の松平忠直が乱行を咎められて隠居を命じられ、豊後に配流されている。忠直も十三歳で家督を相続し、一国という都の遊女をつれ帰っている。家信と忠直の行跡はぴったりと重なる。松平忠直も最上家信も元和期という、大坂夏の陣の「戦後」という同じ空気を吸いながら、享楽的な日々を過ごした若き大々名であった。 松平忠直は岩佐又兵衛という希代の風俗画家を世に押し出した。一方、最上家信は自筆の絵馬を残した。本図を日枝神社の同じ白黒斑の絵馬と比較すると、尾の表現や斑の具合から見て同筆と考えられ、職業絵師らしからぬ大胆な筆遣いで描かれているところから、伝承どおり最上家信筆とみなす可能性は十分にある。 ![]() 杉板金地著色「猿曳馬図」(三面のうち) 山形市・日枝神社 そうであるならば、最上家信は自身の手で元和期の風俗を今に伝えるという、思わぬ功績を残したことになる。 ■執筆:宮島新一(山形大学教授/日本絵画史)「歴史館だより�17」より |
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最上家親を見直す−花押に注目して−
山形藩第二代藩主最上家親(1582〜1617)に関しては、治世期間が三年と短いこともあって、その謎の死ばかりが注目されてきた。しかしながら、家親の人生を史料に即して見てみると、義光の跡を引き継ぐだけの器量を有していたことがわかってきた。ここでは、家親の花押(サイン)に注目しながら、家親の実像に迫ろう。花押は、同じものをずっと使うというよりも、その人物の立場の変化などと連動して変える場合も多く、家親の立場の変化を花押の変化から追うことができるからだ。 家親は、天正十九(1591)年、大森(福島市)で九戸討伐に来た徳川家康に拝謁を遂げ、それ以後は家康の近習となった。慶長元(1596)年からは、秀忠の近習となって江戸で暮らしたが、慶長十九(1614)年二月には第二代山形藩主となる。もっとも、花押は、成人してから使えるので、花押に注目すると、文禄三(1594)年八月五日、十三歳で家親が徳川家康の前で元服式を行なって以後が対象となる。 家親花押の研究といえば、武田喜八郎氏(『武田喜八郎著作集 巻一 山形県文化史の�躙Φ罅戞幣�松印刷所、2007)によって、明朝体の図(2)と図(4)の二つの花押が知られている。 ![]() 図(2)�況� ![]() 図(4)�祁殖� 明朝体とは、江戸時代に流行した花押型で、徳川判ともいい、「中国の明の太祖が始めたところとも。名乗りの字を使わないで、上下に一画を置いて中間にいろいろな形を作る」(『日本国語大辞典』12、1972)。武田氏は、図(2)は慶長初年頃から、図(4)は慶長十五・六年から元和三(1617)年まで見られるとする。 もっとも、武田氏は『山形市史史料編1 最上氏関係史料』(山形市、1973、『市史史料編1』)では、文禄四(1595)年八月十三日付最上義康・家親連署状(『市史史料編1』182頁)の家親花押も挙げておられるが、『武田喜八郎著作集』では挙げられていない。理由は書いておられないが、最上義康・家親連署状を後世の写しとされたからであろう。私見も、そうした内容の文書が出されたとは考えるが、写しと考え、花押分析では除いている。そうした武田説は大いに示唆にとみ、基礎的な研究と評価できるが、以下に見直してみる。 家親文書については、黒田富善氏「最上氏時代の寒河江領主について」(竹井英文編著『シリーズ戦国大名の研究6最上義光』戎光�捗佝如■横娃隠掘砲篶詭攘�氏「最上(寒河江)家親文書に関する一考察」(初出は『西村山の歴史と文化』�検■横娃娃押�後、竹井編『最上義光』採録)の研究があるが、花押の分析などはなされていない。 管見に及んだ家親発給文書としては、慶長七(1602)年四月二日付の菅井掃部左右衛門義満宛最上家親宛行状が初見である(黒田「最上氏時代の寒河江領主について」924頁の表10−1「最上家親発給文書一覧」参照)。 今度、当村在方扱に依って申出し候事者 右件の赤田千苅は、永代未来に、出し置き候ところは実正である、もし猶自今以後違乱の儀これあらば、彼状をもって糺明を致すべき者なり、仍って件のごとし 慶長七年 寅卯月二日 家親(花押) 菅井掃部左右衛門とのへ 〈菅井文書、阿部酉喜夫氏所蔵写真〉 内容は、家親が、赤田(寒河江市)千刈の土地を菅井掃部左右衛門義満に宛行なっている。宛名人の菅井氏は、溝延八幡宮(山形県西村山郡河北町)の神官で、菅井義満は寛永元(1624)年七月二十九日に死去している(『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』、2001、168頁など)。 本史料から、家親が慶長七(1602)年四月二日には寒河江領主であったことは確実である(『寒河江市史 上巻』(寒河江市、1994、942頁)。ただし、本史料は、寒河江領主としての家親の活動を示すのみならず、家親の花押研究においてもきわめて重要である。 本文書に書かれた花押は、従来、全く注目されてこなかったが、図(1)のようなもので、これまで知られている図(2)や図(4)の花押とは異なっている。 ![]() 図(1)�儀� それゆえ、図(1)の花押を花押�機⊃沺複押砲硫峅,魏峅´供⊃沺複魁法�図(4)の花押を花押�掘複舛硲臓砲閥菠未垢襦� それらの三類型の花押は、基本的に図(5)のような、慶長五(1600)年七月七日付村上義明宛徳川秀忠書状に見える徳川秀忠花押(藤井譲治『近世史小論集』思文閣出版、2012、163頁)と似ている。 ![]() 図(5) 慶長五年七月七日付村上義明宛 徳川家康書状に見える花押 家親は、主人の秀忠の花押に似せた花押を使っていたのである。 ところで、翌年慶長八(1603)年二月晦日付宛名不詳最上家親知行宛行状(白田佐著『新病院の落成を記念し「白田病院の歴史」を考える』白田病院、1982、15頁)では、家親の花押は図(2)のような�況寝峅,吠儔修靴討い襦�すなわち、慶長七年四月二日から慶長八年二月晦日までの間に花押が変わったと考えられる。その花押変化の背景は明確ではないが、慶長七年七月以降に義康が没落し、家親が家督継承者となったことによるのではと考えている(この点は別稿『最上三代』ミネルバ書房刊行予定で述べる)。なお、慶長八年二月晦日付文書も先の慶長七年四月二日付の文書も、いずれも原史料は所在不明であり、『山形県史』などで紹介されてこなかった文書である。 ところが、慶長十五(1610)年になると、図(3)のような花押�沓舛砲覆蝓�以後、花押�祁燭鮖箸ぢ海韻襦� ![]() 図(3)�祁殖� 管見に及んだ花押�沓舛僚颪�れた初見文書は、以下の慶長十五(1610)年九月十二日付島津家久宛最上家親書状である。 (端裏捻封上書) 「 嶋津陸奥守様 山形駿河守 人々御中 家親 」 以上 先刻者、於御城卒度得御意、御残多存候、然者琉球王御奏者申候条、今晩御門へ御礼申度候間、御内儀被仰入可被下候、何様以参可得御意候、恐惶謹言 (慶長十五年) 九月十二日 家親(花押) (島津文書、『市史史料編1』291頁、東大史料編纂所架蔵マイクロフィルムにより訂正) 島津家久は、慶長十五年八月に琉球王尚寧を率いて江戸城に徳川秀忠に拝謁した(『大日本史料』12の7、638頁)。前年慶長十四(1609)年に、琉球王国は嶋津領となったので、島津家久は、その挨拶のために江戸へ参った。家親は、その際、琉球王尚寧を秀忠に取り次ぐ奏者の役を命じられた。本文書の伝えるように、家親は、無事に奏者の役を果たし、そのお礼の挨拶をしたい旨を島津家久に伝えている。 本文書には、図(3)の花押�沓膳燭�書かれている。図(4)のような花押�祁燭箸呂い┐襪�、右に少し傾いているという相違がある。 家親はなぜ、�況燭�ら�祁燭慂僂┐燭里任△蹐Δ�。家親は、この尚寧以後も摂家クラスが秀忠との対面に際しては、奏者(取り次ぎ役)を勤めるように命じられた(『徳川実紀』慶長十五年八月二十八日条)。いわば、家親は秀忠の近習から幕閣の一員となったのである。 とすれば、�況燭�ら�祁燭悗硫峅(儔修蓮�家親が奏者(秀忠のスポークマン)となるなど、幕閣の一員として江戸で活躍するようになったことによると考えられる。そうした立場の変化に応じて、花押を変えたのであろう。 ところが、慶長十六(1611)年正月十一日付け城志摩宛て最上家親一字状(『山形県史資料編上』378頁)では図(4)のような、傾きのとれた花押となる。また、その花押は、最大縱幅4.0cm、同横幅横7.0cmと大きい花押である。山形藩主継承(予定)者としていわば自信に満ちた花押となってゆく。 以上、(1)家親の花押は花押�機銑靴了絢鑪爐�あったこと、(2)花押�気老陳梗掲�四月二日には使用されたこと、(3)花押�兇老陳紅�年から十五年まで、花押�靴老陳構集淒�九月十二日には見られ死去するまで使われたこと、(4)花押�気牢┣蝋称亮腓箸靴董�花押�兇狼糎�の家督継承者として、花押�沓舛亘詆椶遼覲佞琉谿�、花押�沓造六碍組夕隋瞥縦蠎圈砲箸靴討硫反討鮠歡Г垢襪海函△覆匹鮟劼戮拭� 本稿作成に際し、北畠教爾氏、鈴木勲氏のご教示を得た。 ■執筆:松尾剛次(山形大学名誉教授)「歴史館だより��27」より |
重要文化財 太刀 銘 安綱 (号鬼切) 京都・北野天満宮蔵
最上家伝来の宝刀「鬼切丸」の謎 『太平記』に見る「鬼切」―その行方と最上家への経路 源氏重代の宝刀の一つ鬼切。その由緒については『太平記』の記すところであり、これが最上家伝来の「鬼切丸」に該当するものとされている。 同書によると、越前藤島城で自害した新田義貞(1301-38)。彼の首級と佩いていた鬼切・鬼丸の太刀二振りを、斯波尾張守高経(1305-67)へ献じたのは、越中住人氏家伊賀守重国であった。重国は当時、斯波兼頼(1316-79)の幕下として、越前戦線に参戦していたという(『山形市史』上巻)。 こうして得た鬼切は、斯波高経の手元に留め置かれたようだ。一方の鬼丸は、足利将軍家へ渡ったと推測される。前者がその後、どのような道筋を経て最上家の祖の兼頼に渡ったのか。この点については謎であるが、ここでは大まかに二つの経路を考えてみたい。 一つは伯父の高経から直接兼頼への道筋であり、もう一つは高経から父伊予守家兼(1308-56)をとおして、兼頼へという道筋が想定される。いずれにしても、これら二つの経路に、前に触れた氏家重国の働きが関与していたと見たいのである。そのことをとおして、兼頼に渡る蓋然性はあるだろう。 他には次のような理由も想定される。斯波高経のもとにあった鬼切は、斯波家兼が奥州管領(探題)として下向するに当たり、餞として高経から家兼に譲られた。先ずはそう仮定する。そして延文元年(1356)、家兼の死の直後、鬼切は嫡男の直持(大崎殿)には渡らずに、出羽大将として山形に赴く、次男の兼頼に与えられたのではあるまいか。 以上が、最上家への鬼切丸伝来のはじまりである。この移動経路についての確証は何も無いが、新田義貞が自害時に佩いていた鬼切と号する太刀は、いつの頃からか最上家重代の家宝として大切に守り伝えられてきた。この太刀は、江戸時代の若干の記録とともに現在に至っている。 「鬼切丸」と名物「童子切」「鬼丸」について ![]() 「安」の字が「国」の字に改竄された鬼切の銘 写真:茎(なかご)の部分 この鬼切丸の作者は、『太平記』の記載のとおり、作風上からも明らかに伯耆国(鳥取県)安綱と見なされる。彼は平安時代後期、すなわち後三年の役(1083-87)終了後あたりに鍛刀した刀工と推定されている。 しかし、この太刀の銘をよく見ると「國綱」になっている。実は安綱の安の字が、意図的に国の字に改竄されているのだ。これは鬼切が何らかの理由により、安綱銘では不都合が最上家に生じたことを物語っている。では、いったいなぜ、そのようなことがなされたのであろうか。また、その時期はいつであろうか。これまた大きな謎である。 ズバリ結論的に言うと、その原因は源氏重代の宝刀鬼切・鬼丸の説話と、これから述べる童子切安綱(現国宝)や鬼丸国綱(現御物)の出現と、無関係ではないと思われる。すなわち、重代の名刀や名物の持つ重みと、それに該当する刀工を意識し過ぎた結果の所産であると見てほぼ間違いないであろう。 さらに付言すると、鬼切を江戸時代に至って鬼切丸と呼ぶようになったことさえも、単に自然発生的に元来の称号に接尾語として道具の愛称の「丸」を付したのではなく、鬼切と鬼丸の呼称を半ば意図的に組み合わせ、銘の改竄と関連させたと考えることは穿ち過ぎであろうか。 さてここで、鬼切の他に伯耆安綱の手による童子切という太刀の存在について触れることにする。これは筆者が経眼した数振りの安綱中では群を抜く名刀であり、日本刀の王者としての貫禄が十分である。 伝説によると、この太刀は源頼光が、大江山の酒顛童子を斬ったときに佩いていたもの。童子切の号はそのことによるという。斯界の通説では、この太刀は室町時代以来、鬼丸国綱とともに天下五剣の内に数えられ、足利将軍家に伝来し名高かったとなっている。だが、二振りとも管見の限り、桃山時代(1585-1600)を遡る史料を見ない。 一方現存する鬼丸についてはどうか。この太刀は、実は北条時頼(1227〜63)が、京の粟田口国綱を鎌倉に呼び寄せ、作刀させたものである。国綱の二字銘がしっかりと切ってある。ちなみに、国綱は建長(1249〜55)頃の刀工と伝えられている。 「鬼切丸」謎解きの私見 童子切と鬼丸が名刀として広く知れ渡るのは、やはり桃山時代からであると言っていいだろう。鬼丸についてはひとまず措くとして、童子切について考えてみよう。 憶測を逞しくすればこうである。秀吉が権力に任せ名刀を蒐集していく過程で、類いまれな安綱の太刀を入手した。それに、当時有力な鑑定家であった本阿弥光徳が関与し、童子切という新たな名物を誕生させたのでなかろうか。その伝説の基になったのは、『太平記』の鬼切伝説の刀工安綱であり、それに世上に流布していた大江山酒顛童子伝説などが加味されたのではあるまいか。 最上義光の時代は、すなわち太閤秀吉の時代である。その頃には少なくとも、名刀や名物刀剣の存在が、大名の間でしだいに知れ渡っていたと思われる。正宗や粟田口吉光を初めとして、名刀=著名工という概念が定着してくると、当然のことながら、大名や武将の多くは著名工の作刀を贈答品としてあるいは家宝として意識せざるを得なくなった。 このような状況下で、前代から選定のための一定の評価基準が成立していたことが、いくつかの史料によって知られる。それらの中には、先に挙げた正宗や吉光などとともに、国綱の名はあるが、安綱の名を見出すことができない。希少価値があり且つ優秀な作品の一つとして、国綱が選定されているのである。最上家では、先ずはこの辺りに敏感に反応したのではなかろうか。これが銘の改竄理由の一つである。 一方、これとは別に、童子切という大名物が、桃山期から江戸初期にかけて世に知られるようになる。穿った見方をすれば、最上家において鬼切安綱では気後れを感じ、ならば国綱名に改竄しようということになった。そして、この事件とほぼ時を同じくして、敢えて鬼切丸と呼称し、鬼丸国綱に紛れるような「鬼切丸国綱」を創出したのではなかろうか。 傍から見れば愚挙とも思える銘の改ざんの背景には、やはり童子切安綱や鬼丸国綱の存在が、影響したことは否定できないだろう。時代的には、有名刀工やその作品が広く顕在化し、また、徳川将軍家と各大名や大名間相互の贈刀が盛行する江戸時代初期頃のことと、さしあたり私見の仮説としてあげておきたい。 (執筆:布施幸一/「歴史館だよりNo13」より) |
最上義光と北楯利長
周知の通り、「北館大堰」は最上義光の家臣・北楯利長が命懸けて完成した偉大なる功績である。本館のホームページにおいて、片桐繁雄氏は大堰普請の経緯について詳しく紹介しているが、本稿は視点を少々変えて、家臣に対する主君・義光のお気遣いと、利長の由緒について、もう少し掘り下げたい(註1)。 1.主君義光の素顔 意外なことかもしれないが、「もう一度最上の土を踏みたい、最上川の水を飲みたい」という郷土に強い想いを持つ義光は、礼節的祝言や、軍功・手柄の褒美を除くと、彼が家臣や親族にお気遣いや配慮を示す史料は多く残られない。 最も有名なエピソードは、天正16年(1588)の大崎の乱における妹・義姫との交信や、文禄の役に際して、新婚した娘と婿の野辺沢康満(又五郎、のちに光昌)に会いたいと家臣に報じたことぐらいであろう。それ以外は、ほとんど見られなない。また、北楯利長宛の義光書状や安堵状は11通ほど現存しており、これは、同じ家臣に宛てる義光書状として現存量が最も多いであるから、北楯利長との書信は義光の素顔を知る素材としても、最上義光関連史料としても極めて貴重なものといえる。 一連の書状にはすでにその一部を片桐氏によって現代語訳で紹介されているので、以下は氏の成果を学びつつ、さらに当時の義光と利長のやりとりを見ていこう。 ちょうど大堰が完成する前のものであるが、慶長17年(1612)5月9日付の義光書状では、義光は、諸道具の虫干しのために人を鶴岡城に遣わすと共に、「そちらの(大堰の)普請はどれほど出来たか心許ないが、彼らが戻ってきたら、詳しく報告してくれるだろう」(註2)と利長に報じた。 それに加えて、片桐氏にも紹介された同月18日の書状の冒頭においても「そちらの普請心許ないから、また書状を送る」(註3)と書いており、当時の義光が大堰の進捗を知りたくて、日夜心配している心境は如実に表れる。 だからといって、義光は家臣への慰問を忘れるわけではない。実際、その前の6月20日付の書状で、義光は普請に苦労している利長を心配し、「あなたが日夜の苦労を察す」と言いつつ、さらに「川風が寒いから、頭巾を一枚送る」と述べている(註4)。一行の文ではあるが、陣頭指揮を取る利長の健康を心配する主君・義光の温情が充分にうかがえよう。 結局、大堰は無事で完成した後の8月5日付の書状では、義光は「自分が上洛した際、あなたの功績を幕府に報告する」と告げ、喜びが溢れる様子が容易に想像できる(註5)。その直後の8月20日付の義光書状(註6)では、利長が山形城下の蔵屋敷の新築を賀し、さらに山形城下の下屋敷の所望を上申した。それを聞いた義光は、利長の所望に応え、さらに「山城(山形城)は川風が強いから、あなたが(屋敷を)麓にすることは尤もである。また、下屋敷については、あなたが望んだ通り、蔵屋敷の近くにしてやる」と、功勲者の利長への配慮を特に払っている。 その続きは、「絵図通りに(下屋敷を)あなたに永代に与える。年貢上納を免除し、下屋敷の普請は好きにしてよい」と附言しており、いわば無償で下屋敷を与えるわけである。そもそも、藩の主城に屋敷を下賜されることは、家臣の功績に応える賞与であり、栄誉でもある。義光にとって、利長の貢献がどれほど大きいかは多言を要しないだろう。そして、大手柄を立てた家臣に賞与を惜しまず、十分の配慮を払う主君・義光の素顔がはっきりと表れるのではなかろうか。 2.利長の知行について 前節では、利長に対する義光の褒美と思いやりを触れたが、ここでは、利長について検討しておきたい。そもそも、利長の素性には不明点が多く、一説では狩川楯主と伝われているが、それについては未検証のため、考察する必要がある。そこで、北楯氏の由緒についてより参考に値するのは、利長の孫に当たる北楯十右衛門が著した覚書(註7)である。 それによれば、利長は庄内の出身で、後に狩川楯を預けて、狩川・清川と立谷沢の支配に当たったという。また、地元の郷土史家・上林職応の『大堰由来記』(註8)によれば、元の狩川楯主斎藤氏が義光に滅ぼされた後、北楯利長が入部したとしている。狩川楯の楯主になった理由はわからないが、もともと狩川の在地領主ではなかったことは確かであろう。 ここで注意すべきは、利長の所領と最上家における地位である。実際、下屋敷の下賜のほか、義光は大堰の功績として利長に無音村(現在の鶴岡市無音と思われる)300石を与えた。史料を見れば、その300石は「本之知行に引きだし」(註9)としているから、加増給恩とみてよいだろう。しかし、最上氏の家臣団知行の根本史料として知られる『最上義光分限帳』などでは、利長の禄高は恰も300石となっている。それは無音村300石を指すか、それども利長の本領地の知行を指すかは不明である。さらに10月27日付利長宛義光書状では、「本知三千石」のほか、大堰成就の加恩として義光が利長に「三百石取らせ」るという文言が書き綴られている(註10)。 しかし、「三千石」の知行に疑問視を呈した意見もあるため、以下は少々考察をしておきたい。前掲の『北楯十右衛門覚書』によれば、当時北館氏の領地は狩川・清川と立谷沢で、ほぼ現在の庄内町のあたりである。大堰の開削によって、将来に何万石の新田ができるとはいえ、開削直後の当地ではもちろん、貧しい土地と変わらないはずである。 のちに元和8年に入部した酒井氏が整理された『御知行目録』によれば、狩川村の村高は866石余り、立谷沢七ヶ村は669石余となる。慶長17年から元和8年までは11年しか経っていないため、参考に値する数値と判断される。結局、利長の領地(狩川・清川と立谷沢)の石高が三千石か否かはともかくして、300石ではなく、少なくとも1000石以上ではないかと推定される。 ちなみに、『最上義光分限帳』に記載される家臣団の知行高の実否を裏付けられる資料がなく、後に改易された際、隣国の伊達氏が記録した『最上氏収封諸覚書』(註11)に比較すると、上級家臣クラスの知行高も微かな食い違いが認められることから、『分限帳』の記載には誤記の可能性があるだろうし、もしくは、『最上義光分限帳』の作成者は利長の本知行を知らないかもしれない。『分限帳』については今後の研究を俟たねばならない。 それでは、果たして北楯利長は最上氏の中でどのクラスの家臣だったろうか。それを明示する資料がないが、ほかの史料をもって側面から考えてみよう。まずは慶長16年とされる6月10日付の義光書状では、義光は「近日庄内へ下向するため、路次・宿所の支度」を利長とその父と思われる北楯兵部少輔に命令した(註12)。さらに、7月2日付の義光書状では、「昨日一日に大石田に着いた(中略)明日三日に清川に下る予定で、それを志村伊豆守と下治右衛門に即時に伝えよ」と利長に命じた(註13)。 その他、年未詳10月27日付利長書状で、利長は湯殿山大日坊に対して、材木運送の便宜を図ると報じた上、「今後(最上)川の口に御用があれば、お申し付けください」(註14)と述べた。また、大堰開削の際、義光は利長と「清川・狩川の者ども」を慰問しており、『最上義光分限帳』を見ても、当時、清水、新庄を除き、最上川中下流域を治める家臣が明記されていない。したがって、北楯氏はそこを押さえる家臣であり、そして利長は少なくとも開削前にはすでに清川・狩川のあたりに影響力を持っていたと見てよかろう。 『覚書』もそれを示唆する記述が見られる。時は、家親の代に勃発した一栗兵部の乱である。当時、狩川にいた利長は反乱軍が庄内から最上川に沿って最上郡方面へ侵入するのを防ぐべく、与力家来300人ほどを率いて清川に待ち伏せようとしたが、反乱軍が添川に転進するや、利長は手勢を率いて添川に向かい、そこで一栗兵部の軍勢と激戦した末、兵部の家来を百人ほど討ち取ったという。 むろん、『覚書』のこの一節を裏付けられる史料がないため、すべて信用できないとはいえ、以上の史料を合わせて見ると、利長の出自と知行高が定かではないにもかかわらず、少なくとも中級クラスの家臣と考えてよかろうし、所領地の地理的条件と筆者が推定した知行高からしても、『覚書』の記述は根も葉もない作り話とは思えないし、先の7月2日付の義光書状からも、利長が内陸部の山形と日本海側の庄内の連絡役を務めていたことが十分にありうると考えられる。 以上、やや長くなってしまったが、乏しい史料の中で、北楯利長を介して最上家中級クラス家臣の活躍を探ってみた。いまだ義光晩期と家親の内政や、最上家家臣団の研究が十分に進められない中、本稿が少し貢献できれば幸いである。 ■執筆:胡 偉権(歴史家/一橋大学経済学研究科博士後期課程在籍生) 参考文献: 註1、最上家をめぐる人々♯28 北楯大学助利長 http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=197094 註2、北館文書2号、『山形市史 資料編1 最上氏関係史料』山形市、1973年 註3、北館文書4号、同上 註4、狩川八幡神社文書5号、同上 註5、狩川八幡神社文書9号、同上 註6、狩川八幡神社文書2号、同上 註7、「北楯氏先祖代々の覚」、『鶴岡市史 荘内史料集』1−下、109号、2004年 註8、上林職応『大堰由来記』、余目町史資料第二号 註9、狩川八幡神社文書10号 註10、狩川八幡神社文書11号 註11、『山形市史 資料編1 最上氏関係史料』363ページ 註12、北館文書5号 註13、本間美術館所蔵文書、『山形市史 資料編1 最上氏関係史料』山形市、1973年 註14、北館文書3号 |
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「鮎貝(白鷹町鮎貝を中心とする地頭)のことは、(政宗自らが米沢城から)出馬したので、直ちに(当主鮎貝宗信を)自落(他氏領国への落ち延び)させる。早々に(鮎貝)城中へ打ち入るので詳しくは述べない。」。現在いうところの「鮎貝宗信の政宗への謀反事件の勃発」である。その慌ただしい状況下で認められた天正十五年「十月十四日、伊達五郎(成実)宛、伊達政宗書状」(図1 仙一四三)中の記載である。
図1 伊達政宗書状(竹田 秀 氏所蔵)
この事件を『貞山公治家記録』天正十五年十月十四日の条は、『鮎貝宗重入道日傾斎より「嫡子宗信とずっとずっと私は不和の上、最上義光の勧めで(伊達政宗に対する)謀反の企てがあった。私はしきりに意見したが聞き入れなかった。このたびすでに鮎貝城に拠って兵を起こそうとした。私(宗重)は高玉(白鷹町)へ退出した。すみやかに宗信を退治してほしい。」と言上してきた。(政宗公は)時刻を移さずすぐに誅伐すると仰せ出だされた。その時、老臣らは協議して「最上より加勢があるだろう。特に宗信の他にも(伊達家中に)内通の者があるかもしれない。」と政宗に言上した。』と記す。このように、元禄期編纂の伊達家の正史『貞山公治家記録』は、この鮎貝父子の一件を、
⑴伊達政宗に対する鮎貝宗信の謀反。
⑵最上義光が鮎貝宗信に勧めたことによる謀反。
としており、この説は現在定説となっている。
さらに『貞山公治家記録』は、「乱を武力鎮圧し鮎貝宗信を自落させた後、政宗は鮎貝日傾斎(宗重)の忠義の志に感謝し、柴田郡の内に采地を与え、二男の七郎宗益を家督に命じ、もとのように伊達家中では一家の上座においた。」と続ける。
⑶政宗が事件後、鮎貝氏をいかにも手厚く処置した。
という表現である。
果たして、⑴・⑵・⑶は真実なのか。以下、後世の編さん書ではなく、確かな同時代史料のみから検証していこう。
同じく事件勃発の天正十五年「十月十四日、桜田兵衛資親宛、伊達政宗書状」(仙一四一)には次の記載がある。
➀鮎貝の地において、父で隠居している鮎貝宗重と当主宗信父子の間が取り乱れ、隠居している宗重が鮎貝から高玉へと除かれ、難しい事態となっているので、政宗自身今日下長井へ出陣し下知をもって静める。
�∈脳綮瓩醗肪�氏の境目のことなので、心得ておくように。
➀より、鮎貝父子の紛争に、政宗が自らの意志で軍事介入したことがわかる。�△茲蝓∪�宗は軍事進攻する鮎貝の地が最上領との境目であることから警戒していることがわかる。
さらに、同日の天正十五年「十月十四日、後藤孫兵衛信康宛、伊達政宗書状写」(仙一四四)には次の記載がある。
�0廠�親子(鮎貝宗重と当主宗信親子)の間に紛争がおき、隠居している宗重らの面々とその仲間(一派)が取り除かれた。政宗はそのまま出陣し鮎貝へ押し寄せて合戦に及び、(宗信の兵)五十人余りを討ち取り、鮎貝城の実城(本丸)ばかりが残る状態となっている。明日は実城を押し破るであろうからご安心ください。
�い修両紂∈脳紊箸旅餠�あたりは何事もなく静かである。
以上、➀・��より、この事件を当初政宗は「鮎貝父子間の紛争」と認識し、政宗自身の判断で鮎貝城へ向けて出陣し宗信を攻めたことが判明する。�い茲蠅海琉豬錣乃糎�は鮎貝宗信に加勢せず全く動いていないことが判明する。
しかし、天正十五年「十一月四日、宮沢元実宛、伊達政宗書状写」(仙一五〇)では、一変して次のような表現となる。
�グ廠�宗信のことは去る十月十四日伊達氏に対する逆意(謀反)を企てたけれども、即刻出馬し、数百人を討ち取り、そのまま鮎貝城に押し詰めたので、鮎貝勢は一日も支えられず、その夜鮎貝宗信は行方知れずになって失踪してしまった。これによりすぐに仕置き(処置・裁定)を行い、翌日十五日に米沢城に馬を納めた。
�Δ修慮紂�何事もなくいかにも静かで平和そのものである。
事件勃発当初「鮎貝父子間の紛争」と認識してた政宗が�イ砲茲蝓△修僚酋綟�後に「鮎貝宗信による伊達政宗への謀反」と認識を一変させていることが判明する。政宗はこの事件が「鮎貝父子間の紛争」であるという事実を勃発当初から完全に認識していたにもかかわらず、十九日後の十一月四日に「鮎貝宗信による伊達政宗への謀反」であると事実のねつ造を行い、それを家中に宣伝し始めたと考えられるのである。
�Δ蓮↓い塙腓錣仔匹爐筏糎�がこの件で最後まで一切加勢せず全く動かなかったことを証明するものである。さらに、鮎貝の一件に義光が関係していることを示す史料は、政宗自身の発給書状をはじめリアルタイムのものは一切なく、政宗自身義光が関係しているとの認識を持っていなかったと考える。『貞山公治家記録』 編者が「最上義光ノ勧メニ依テ叛逆ノ企アリ。」と自らの解釈を記した可能性が極めて高く、事実としては義光はこの一件に全く関係していない公算が極めて高い。
政宗は、鮎貝氏が最上領の境目を領する大きな勢力をもち、伊達家中で「一家」の最上位という位置付けの一方で、伊達氏とは独立した鮎貝七郷を領する国人であることに不安を覚えていた。鮎貝氏が近い将来最上氏と同心し、さらに近隣の境目の「伊達氏の従属国人であるが伊達氏・最上氏の両属的性格をもつ国人(中山の小国氏など)」らとともに、一大勢力となって伊達氏に敵対することになることに大きな脅威を感じていた。そのため鮎貝氏を境目の地から排除し、伊達氏の完全家臣化したいと考えていた。そんな折、「鮎貝父子間の紛争」が勃発したのを好機ととらえ、政宗自ら大軍を率い鮎貝領に出陣し、当主宗信を最上領に自落させ、事後処理として鮎貝氏を柴田郡内へ移し、伊達氏の完全家臣化することに成功したというのが真相であろう。
実は鮎貝氏は、政宗の出自と同じ藤原北家の山蔭中納言を祖とし、その孫の藤原安親が下長井荘の荘官となり、やがて武士として土着化した氏族で、伊達氏に全く劣らぬ名門であった。それもまた政宗にとっての脅威の一つであったろう。
現在、この鮎貝の一件を、「最上義光が北の庄内へ侵攻しそれに集中しており、南の伊達氏からの侵攻を恐れ、その手だてとして義光が鮎貝宗信に勧めて謀反事件を勃発させた。これにより政宗・義光の不和が決定的となった。」と説かれる傾向にある。しかし、これは逆に庄内侵攻で手一杯で義光が介入できないこの時期を好機ととらえ、政宗が鮎貝領へ軍事侵攻し、自らの目的を果たしたというのが実情であると考える。
図2 伊達晴宗知行状(部分 鮎貝宗房氏所蔵)
本来、伊達氏は独立国人である鮎貝氏の本領七郷、そして「天文二十二年正月十七日、鮎貝兵庫頭宛、伊達晴宗知行状」(図2)で保証していた「守護不入」特権(棟役・段銭・諸公事を免除された上に、守護伊達氏の裁判権=検断権の不入を許されること)を有する知行地には入ることができないルールであった。しかしそれを犯して政宗が侵攻するには「正当なる理由」=「政宗への謀反」を創出する必要があったと解されるのである。
尚、政宗・義光の不和が決定的となったのは、天正十五年八月政宗の斡旋により成立した義光と庄内の大宝寺義興の和睦が、十月の義光の庄内侵攻により破綻したことによる。
《註》
・鮎貝氏は本領「最上川左岸の鮎貝・山口・箕和田・高岡・深山・黒鴨・栃窪の一帯七郷」を領する伊達氏とは独立した国人であった。
・本文中の「仙一四一」・「仙一五〇」は『仙台市史 資料編』⒑(一九九四年)掲載の「一四一号」・「一五〇号」文書の略。
■執筆:大沢慶尋(歴史博物館青葉城資料展示館主任学芸員)「歴史館だより��22」より