最上義光歴史館
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駒姫の死について
最上氏といえば、義光のほか、駒姫が一番有名ではないだろうか。彼女は悲劇な人生を送り、若く横死したことは、誰でも哀しき想いをさせる。かつて、片桐繁雄氏は当館のホームページで、いわゆる「秀次事件」における彼女の最期を、すでに詳しく追究している(注一)。 駒姫は秀次のために殺されたことは紛れも無い事実だが、ここでは、視点を変えて、駒姫と秀次を語る歴史像の形成について再考してみたい。ところで、一次史料による限り、彼女の本当の名前は「おいま」の方が有力だが、以下は、耳馴染みの「駒姫」として文を進めたい(注二)。 【1】秀次について 今までの通説では、駒姫の登場は秀次に強く関わった。すなわち、天正十八年の大崎葛西一揆に際して、秀次は駒姫の美しさを知り、山形に立ち寄り、義光に対して駒姫を強要した。義光は固辞したが、秀次の執拗な要請に負けて、可愛がる娘を渋々と差し出したという。 このエピソードは、最近の歴史番組でも紹介され、あまりにも有名である。あたかも「漁色家」と貶される秀次の所行は、後に彼自身の滅亡、そして駒姫の悲惨な死につながるというわけだが、問題はそのエピソード自体はどれほど事実だろうか。 近年の研究では、豊臣政権及び秀次の研究が進められ、小和田哲男氏(注三)をはじめ、近年の藤田恒春氏(注四)と矢部健太郎氏(注五)の近著などから、秀次事件の顛末、そして新しい歴史像が判明されつつある。 要するに、秀次事件は豊臣政権の政争と権力闘争に深く関わり、秀次と叔父の秀吉の間に秀頼のために誤解と矛盾が深まった結果であり、秀次の奇行は後世の軍記に潤色された部分が多く、必ずしも真実ではないなどの指摘が出ている。ここではそれ以上の論及を控えるが、詳しくは各氏の関連書籍をご参照されたい。 【2】通説の形成と仙台藩 さて、本題に戻ると、秀次は駒姫を強要したエピソードはどうだろうか。興味深いことに、最上義光の生涯を語る軍記『最上記』(または『最上義光物語』、注六)は、駒姫のことを全く触れていない。また、駒姫に関する一次史料も皆無に近く、その管見の限り、秀次の強要と駒姫の死を語る初見史料は、伊達氏の重臣である伊達成実の『成実記』(注七)と考えられる。後述するように、仙台藩の藩史で、政宗の一代記である『貞山公治家記録』(注八)においても、駒姫の死を述べる際、基本的には『成実記』の記述を踏襲している。 その後に成立された最上氏を述べる諸軍記、たとえば、後に触れる『会津四家合考』(注九)や『奥羽永慶軍記』(注十)なども『成実記』の記述とは大筋がほぼ類似している。したがって、駒姫をめぐる通説の根元は『成実記』と見て差し支えなかろう。 かつて筆者は天正十六年の鮎貝氏反乱について、『成実記』の性格を触れた(注十一)。再言になるが、その史料は成実が晩年に書いた回憶録であり、片倉景綱と並ぶ政宗の右腕と称えられる成実であれば、その証言の信ぴょう性が高く、簡単に無視することはできない。 だからといって、駒姫の件を含み、その中に書き綴られる様々な事件とエピソードには裏付けられる史料が必ずしも揃えているとも限らない。駒姫の件について、そのまま鵜呑みしては危険である。 【3】秀次の強要は本当か 駒姫の件に関する通説の形成を検証してみよう。まず、『成実記』によれば、秀次は家康とともに九戸一揆を鎮圧するため、奥羽に下向した。家康は岩出山に、秀次は山形に立ち寄った。その後、秀次の切腹を記す部分では、「最上義光の娘(駒姫)をはじめ、三十六人の御目懸衆(女房)を殺害した」(現代語訳は筆者による、以下同)とし、駒姫が巻き込まれたきっかけは「義光の娘は奥州一揆の時、秀次が最上に御在陣の時、(義光から)献上された」ことにあったという。 前出の『貞山公治家記録』巻十九、文禄四年(1595)七月八日条と八月上旬にわたって同じ趣旨の文が記されているが、その間に「この一条は豊臣(秀吉)譜に記されるところと違う。しかし、どちらが事実かはわからないため、当家旧記のまま、ここに記す」という注記が綴った。ここの「旧記」とは『成実記』であり、『治家記録』の編さん者は秀次事件を記述する際に、『成実記』を主要な根拠としていることが明らかである。 ちなみに、『成実記』を読む限り、駒姫の献上は義光が自らしたことであり、秀次が強要したわけではないのである。それでは、「秀次が強要した」という書き入れはいつ、どこに加えられたのか。『最上記』とほぼ同時期に編さんされた『会津四家合考』(1662年成立)巻七・「義光由来の事」に秀次と駒姫の死を「罪のない娘を無理に太閤(秀吉)に殺された」のみで、秀次が強要したことは触れていない。 それに対して、18世紀初頭に成立した『奥羽永慶軍記』巻廿五を読むと、事件の経緯はさらに詳しく、通説の秀次が駒姫の美しさに魅了され、執拗に強要するという内容がようやく見られた。その後に成立した『羽源記』(注十二)、『羽陽軍記』(注十三)などは『奥羽永慶軍記』の説を踏襲し、定説となりつつあった。 『奥羽永慶軍記』の著者は何を根拠として秀次が強要したことを書き入れたかは不明だが、事件の経緯は『成実記』のそれと大差がないから、根本的問題は、やはり『成実記』の記事の信ぴょう性である。以下は簡略に追ってみよう。 『成実記』が述べた、天正十九年夏の秀次の奥州下向は事実ではあるが、秀次は山形に立ち寄ったかは別の問題である。藤井氏によれば、秀次は七月に家康とともに奥州に入ったが、九戸一揆の鎮圧を政宗、蒲生氏郷、そして浅野長政に任せ、自身は八月中旬に三迫まで進軍し、そこに本陣を敷いた。その後の一か月はその動向を語る史料がなく、翌々月の十月中旬に白川、宇都宮に立ち寄って京都へ帰った(注十四)。 そうすると、秀次が山形へ「立ち寄った」ことが可能なのは九月頃でしか考えられず、また、藤井氏によれば、秀次と家康は九戸一揆の平定後、平泉まで足を伸ばしているという。そうすると、総大将格の秀次はずっと家康と同行していたことは自然であり、わざと山形に立ち寄った可能性は全くないわけではないが、極めて低いと思われる。 さらに、九戸一揆を討伐する当時に、最上を経て進軍したのは上杉景勝・大谷吉継なのであり、一方、義光は秀次と家康が二本松についたのを知り、二本松まで両人に謁見した後、一旦山形に戻り、九戸一揆の鎮圧に赴くと自ら語ったから、秀次は山形に立ち寄る予定がなさそうで、義光もまた九戸一揆のために出陣しようとするから、秀次を招く余裕がなかろう(注十五)。逆に言えば、秀次の強要にせよ、義光が自ら娘を献上したことにせよ、駒姫と秀次の対面を可能にしたのは、上記の二本松の面会でしかないが、以上の考察による限り、同年末、義光が上洛した後のことではないかと考えられる。 上記の考察によって『成実記』や『奥羽永慶軍記』による秀次と駒姫のエピソードを全面に否定することはできないが、少なくとも私見では、「漁色家」秀次の強要はこの事件において、にわかに信用できないと考えられる。 一方、駒姫との関係ないかもしれないが、義光は秀次との交流はその前にすでに始まったようだ。天正十九年と推定される五月三日付の書状によれば、義光は京都から尾張を経て山形に帰る際、秀次に厚意を受けたらしい。その後、山形に着いた義光は、山形の到着を報じると共に、秀吉と秀次に良い馬をそれぞれ献上したいとし、とりわけ、秀次へ献上する馬は奥州へ「御出馬」の際に用意しておくと述べた。(注十六) この書状を読む限り、義光は秀次に急接近し、それを通じて秀吉との関係を緊密化する思惑は容易に読み取れる。思えば、当時の秀次は天下統一を成し遂げた豊臣政権の後継者の最有力候補でもあり、大名たちは同じ考えを抱えていても、別に不思議ではないから、義光が自ら駒姫を献上したという『成実記』の見方は、むしろ事実に近いのではないか。 だが、その結果、義光も、同じく家臣を通じて秀次に接近したため、秀次事件に巻き込まれた政宗も、事件後に秀吉側から疑惑をかけられた。駒姫の死は極端的にいえば、父の義光の政治利益のために犠牲してしまったといえるが、その死にともない、最上家と豊臣政権のパイプは共に葬り去り、義光にとって最愛の娘の横死を悔みながら、新しいパイプ役を差し出すことも忘れてはならない。そこで嫡男の義康の登場が見られる。 義康は慶長年間、秀頼の近習となったから、時間的に考えると、あたかも駒姫の死の直後に、豊臣政権に召し出され、人質として秀頼を祗候しはじめたのではないかと推測される。だが、皮肉なことに、それは後にまたも義康の死の引き金ともなった。最上家の安泰のために、義光は知恵を絞り、豊臣政権と必死に結び付こうとしていたが、その結果は悲惨だった。関ヶ原の戦いに義光は家康に絶対的な忠誠を誓った裏目には、『会津四家合考』が言ったように、豊臣政権への「恨みが深かった」からかもしれない。 ■執筆:胡 偉権(歴史家/一橋大学経済学研究科博士後期課程在籍生) 注 一 最上家をめぐる人々#6 【駒姫/こまひめ】 (http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=103062) 二 「関白御手懸衆車注文」、『上宮寺文書』 三 小和田哲男 『豊臣秀次−「殺生関白」の悲劇』、PHP新書、2002年 四 藤田恒春 『豊臣秀次』、人物叢書、吉川弘文館、2015年 五 矢部健太郎 『関白秀次の切腹』、KADOKAWA、2016年 六 『山形市史 最上氏関係資料』に収録 七 『仙台叢書』第三冊 八 『伊達治家記録』二、宝文堂出版、1972年 九 『会津四家合考』、国史研究会、1915年 十 『奥羽永慶軍記』復刻版、無明舎出版、2005年 十一 拙稿「鮎貝謀叛事件」の再考―大沢氏の論考に寄せて (http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=416523) 十二 注六に参照 十三 注六に参照 十四 藤井譲治 『織豊期主要人物居所集成』第二版、思文閣出版、2016年 十五 天正19年8月12日付小介川治部少輔ら宛最上義光書状写 十六 『山形県史』十五、古代中世史料上 |
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「古河藩土井家における鮭延越前とその家来達について」
元和八年八月最上家改易事件後、山形藩主最上義俊の重臣達は全国の諸藩に身柄を預けられている。老中土井利勝(下総佐倉藩主)には、鮭延越前秀綱、新関因幡久正の二名が預けられた。この小論においては、最上家重臣鮭延越前が土井利勝に預けられた後に、その家臣として召し出されているが、これらの経緯について古河藩土井家史料を中心に、紙数の許す範囲で考察してみたいと思う。 鮭延越前秀綱、新関因幡久正の両氏は元和八年八月の最上家御家騒動後、土井利勝に身柄を預けられた。この期間の出来事については、鮭延秀綱の庶子で、後に同家来に列した森川弥五兵衛の子孫が遺した森川系図によれば、秀綱は幕命により預期間中は江戸本郷宿に身を寄せており、妻、嫡男秀義に先立たれており全くの単身状態であり、身の回り世話をする者もなかったという。このため自身の身の周り世話のため、在郷の娘を雇い入れている。 秀綱はこの在郷の娘との間に元和九年男児を設けている。しかしこの男児は嗣子とはせず、出生地に因んで『森川』姓を名乗らせ秀綱側で引き取っている。この男子は後に寛永一〇年古河城下で元服、森川弥五兵衛と称し、秀綱の家来に列している(拙著 山形最上家と古河土井家について )。 もう一方の新関因幡については全く何も伝えられていない。同氏も鮭延氏同様で、一時江戸本郷宿に居住していたのであろうか。 元和八年土井利勝に預けられた鮭延越前秀綱、新関因幡久正の両名の預期間はほぼ一年であって、翌九年には正式に御赦免となったが、その行き先が注目されたのであった。 この時二代将軍秀忠に鮭延秀綱に対し、ニ男駿河大納言忠長の附家老で招聘しようとしたが、これには秀綱自身が固辞したと伝えられる。その後、鮭延秀綱と将軍秀忠、土井利勝との間で、どのような遣り取りが展開されたのかは伝えられていない。しかしその後将軍秀忠は、腹心の土井利勝に対して知行五〇〇〇石で、鮭延秀綱を召し抱えるように命じたことが、近年研究から明らかとなっている(拙論 最上家改易事件に関する一考察 野木神社秘蔵史料を中心にして 古河郷土史研究会会報三一号)。 これは元和九年当時、老中土井利勝は下総佐倉藩主で知行六五二〇〇石であったため、この身代ではとても鮭延氏を知行五〇〇〇石で召し抱えることは事実上困難であったことは、二代将軍秀忠自身も事前に承知していた。そこで鮭延氏の知行五〇〇〇石分は召し抱えると同時に、別途これと同高を将軍が加増するということで、利勝も了承したことが分かっている(拙論 鮭延越前研究ノート(4) 古河藩土井家時代の鮭延越前について 古河郷土史研究会会報四九号)。 なお新関因幡久正も同時に土井利勝は知行一〇〇〇石で召し抱えているが、これには将軍秀忠はこれに了承のみで特に介入していない。 この時鮭延氏は知行五〇〇〇石で待遇は客人分で、一方の新関氏は一〇〇〇石で御組頭(家中では家老の次ぐ要職)であった(拙著 山形最上家と古河土井家について )。 この当時の土井利勝家臣団は戦国時代の軍事形態を色濃く残しており、後世の藩経営を主体とした藩体制とは大きく異なる。城代は藩主利勝の同母弟の土井内蔵允元政で知行三〇〇〇石、筆頭家老は寺田與左衛門時岡二〇〇〇石で、この二名がまさに利勝の腹心で、利勝に対する影響力も行使できる人物でもあった。この当時の土井利勝の主要家臣数は知行一〇〇以上の者が一二〇名前後とみられている。当時はまだ戦時体制が色濃く、その家臣のほとんどが平士級で三〇〇石未満であった(拙論 土井利勝研究ノート(7) 老臣寺田與左衛門について 古河郷土史研究会会報四四号)。 しかし残念ながらこの当時の分限帳は伝えられていない。 利勝の家臣団・藩体制が大きく変貌するのは、寛永二年九月に知行高が一挙に倍増となる一四二〇〇〇石となってからのことで、これに伴い利勝は、自弟の土井内蔵允元政には三〇〇〇石から八〇〇〇石へと、筆頭家老寺田與左衛門時岡が二〇〇〇石から六〇〇〇石へと大幅な加増を行っている。ここに至って土井家内では、鮭延氏の五〇〇〇石を超えるものが出現して来たのである。この時新関氏の役職は組頭のままであるものの、一〇〇〇石から一八〇〇石へ、さらに二三〇〇石へと加増されている(拙著 山形最上家と古河土井家について )。 実はこの時点で主要家臣のほぼ全員が大幅加増になったことと、家臣団の役職が藩経営に即応した複雑細分化なものとなり、藩士の階層も一斉に多極化していった(拙論 土井利勝研究ノート(7) 老臣寺田與左衛門について 古河郷土史研究会会報四四号)。 これらの現象を前提にして近年、鮭延越前秀綱が元和九年から没する正保三年六月まで、実に二三年の間(土井家自身知行高の変遷や藩主の交代などもあり)、秀綱自身の役職も「客臣」のままで、しかも知行「五〇〇〇石」もそのままで全く変更されなかったのは、新関因幡が加増されたことをみても、真に奇異なことと言えるであろう。 これは土井利勝が鮭延氏を召し抱えるに当たり、当時の二代将軍秀忠が仲介し指示したこともあって、これを召し抱えた土井家一存のみでは、勝手に変更が困難であったことと解釈される(拙論 鮭延越前研究ノート(4) 古河藩土井家時代の鮭延越前について 古河郷土史研究会会報四九号)。 鮭延秀綱の晩年は、嫡男秀義が最上家出仕時代に早世したため嗣子がおらず、さらに元和九年に男子を設けたが嗣子とはせず、元服後家来に列し「森川」姓を名乗らせている。嫡男秀義は既婚したことから男子(秀綱の内孫)がおり、この嫁と孫も秀綱とともに古河城下大堤にいたことも今日分かっている。古河城下の秀綱には、嫡男秀義の遺児が健在であったが「籠宮」姓を名乗らせ別家としている(拙論 鮭延越前研究ノート(2) 籠宮家について 古河郷土史研究会会報37号)。秀綱は自ら意思により当代で絶家としたが、古河時代周囲には出羽時代からの家来達はそのまま扈従し続けた者たちがおり、土井家へ陪臣として奉公していた。 秀綱は正保三年六月古河城下にて八十四歳にして没。その屋敷跡には家来達の手で菩提寺『鮭延寺』が創建され、同寺も秀綱の墓碑も現存している(拙著 山形最上家と古河土井家について )。 ![]() ○鮭延越前墓所 ![]() ○鮭延家の守本尊「聖観音立像」(鮭延寺所蔵) 恐らく秀綱の家来十四名にとっては、主君鮭延秀綱が土井利勝のもとに召し出された元和九年から正保三年六月に主君鮭延氏が没したまでの、家来達は土井家には陪臣として奉公したが、これがある意味で最も寛いだ充実した期間でなかったか想像している。秀綱の家来一四名は主君鮭延氏死去後、土井家と予てよりの約束通り正保三年七月一五日古河藩主土井利隆(一三五〇〇〇石)に直参として召し出されている。この時十四名の家来の中では、岡野九郎左衛門が家老であったことから、土井家ではこの家格をそのまま認め彼のみ三〇〇石鑓奉行で遇し、残りの十三名は二〇〇石から一五〇石は平士級であった(拙著 山形最上家と古河土井家について、拙論 古河城下における鮭延氏の家来動向について 山形県地域史研究四〇号)。 さて、鮭延氏は後嗣をたてなかったことから、跡は土井家に直参に召し出された家来十四名に託された。それでは古河藩土井家臣が鮭延氏の旧家来に好意的で、彼らに居心地が良かったかといえば、これは全くの別問題であると言える。 というのは、古河藩主土井家の系譜は徳川家三河時代からを継承しており、また家中には近畿圏出身の有力家臣が多く、当時この地域が国政の中心地、先進地であり、かつ又経済的にも豊かであったことから、これに優勢感を持つ家臣が多かったように思われる。 反面関東以北は未開地で経済的にも概して豊かではなかったことで、出羽最上郡出身の旧鮭延氏出身の家来などは…土井家家中において一段格下と偏見の目で見られたのではないかと、今日想像している。さらに旧鮭延氏出身の家来達は、土井家内では新参者で特に頼るべき後ろ楯となる有力家臣もなかった。土井家家臣としてまさに真価が問われる時節が到来しつつあったのである。 ■執筆:早川和見(古河郷土史研究会会員/山形県地域史研究協議会会員)「歴史館だより��23」より |
「光明寺本『遊行上人縁起絵』をめぐる謎を解く」
山形市にある時宗寺院光明寺には、寛永八(1631)年七月十五日付で最上家信(義俊、義光の孫)によって寄付された国の重要文化財紙本著色『遊行上人縁起絵』十巻がある。それは時宗の開祖である一遍の伝記を絵と詞で書きあらわしたものだが、第二祖の他阿真教の伝記も書かれている。ただし、一遍の伝記は四巻分に過ぎず、他阿真教の伝記に六巻分が宛てられている。本絵巻のオリジナルは、一遍(1239―1289)の弟子であるとともに、第二祖他阿真教の弟子であった宗俊によって、嘉元二(1304)年から徳治二(1307)年の間に制作されたと考えられる。一遍の十三回忌を意識して制作されたと考えられている。 『遊行上人縁起絵』は、異本が多く制作されたが、鎌倉時代末の原本はなくなってしまっている。とりわけ、光明寺本『遊行上人縁起絵』は、鎌倉時代末の写本(藤沢清浄光寺旧蔵、明治時代に焼失)を狩野宗秀が書写したものである。本絵巻は、十巻で全長がほぼ170メートルという浩瀚なものであるが、近年、『一遍聖絵』十二巻とともに、日本美術史、仏教史研究などにおいて大いに注目されてきた。 ![]() 本絵巻には、各巻に奥書がある。それによれば、(1)本絵巻は狩野永徳(1543―1590)の実弟である宗秀(1551―1601)の手になること、(2)最上義光が制作させ、文禄三(1594)年七月七日に一旦は光明寺に寄付したが、理由があって、寛永八年七月十五日に再度、義光の孫である家信によって再び寄付されたこと、がわかる。寛永八年七月に再び寄付した家信は、その年の十一月二十二日に二十六歳で死去している。狩野宗秀は兄の永徳に比して有名ではないが、織田信長像を描くなど当代を代表する絵師で、とりわけ文禄三年当時は、永徳は亡くなっており、狩野派の代表者であった。また、全十巻を納めた箱に記された箱書きの「絵詞伝筆者顕考」によれば、詞書きの筆者は遊行三十三代他阿上人すなわち時宗総本山清浄光寺の満悟上人であるという。満悟は天正十七(1589)年に第三十二代普光から遊行上人の位を引き継いだ。当時において時宗の最高指導者の立場にあった。 ようするに、本絵巻は、中世から近世への過渡期にあたる戦国時代に制作されたものである。ことに、最上義光は慶長十九(1614)年に亡くなったので、2013年は最上義光の没後四百年にあたる。本絵巻は、平成元年に奈良国立博物館に寄託され、普段は見ることが困難であるが、義光没後四百年を記念して里帰りし、史上初めて、全巻が山形市の最上義光歴史館で展示・公開された。フル・カラーの図録『重要文化財光明寺本遊行上人絵』(最上義光歴史館、2013)も作成され、販売されている。 依頼主の最上義光は、激動の戦国時代を生き抜き初代山形藩主として五十七万石を領した。その財力をもとに、義光は東北有数の大大名として栄華を極め、南部の置賜地域を除く現在の山形県域と秋田県南部を領した。光明寺本『遊行上人縁起絵』も、いわば義光の栄華の産物の一つである。 ところで、本絵巻には謎が多い。そもそも、なぜ最上義光は文禄三(1594)年七月七日に光明寺に寄付したのかという理由がはっきりしなかった。光明寺は、最上氏の祖とされる斯波兼頼(1315―1379)が隠居して開いた寺院である。祖師絵伝などの制作は、通常、遠忌を期する場合が多い。たとえば、『遊行上人縁起絵』と別系統の『一遍聖絵』は、聖戒が一遍の十周忌に合わせて作成したものである。 それゆえ、まずは光明寺の開基斯波兼頼の遠忌にかかわるのかと思われる。しかし、斯波兼頼は康暦元(1379)年六月八日に死去しているので、年月日ともに関係はない。そのため、謎とされてきたのである。そこで、次に注目されるのは、光明寺の方で、そういう寺宝を送られるに足る盛大な祝儀があったのではないかということである。たとえば、建物が新築されたとか、新住持が入ったといったことだ。実際、そういう目で光明寺の歴史を見直して見ると、きわめて興味ぶかいことがわかる。 光明寺は、永和一(1375)年に、斯波兼頼の跡を継いで山形城主となった直家が、応永七(1400)年に引退し、城内にあった兼頼の庵を隠居所として「遍照山光明寺」と名付けた、寺院にしたという。 ところで、光明寺の歴史を書いた『光明寺由来記』というものが光明寺にある。それによれば、「光明寺十七世俊山和尚が、文禄年中に当所に引き、開山兼頼公尊骨ならびに代々の遺骨を移し、今霊屋を建てる」という記事があるのが注目される。光明寺は、かつては城内でも本丸内にあったが、第十七世の其阿俊山の時代の文禄年中(1592―96)に、本丸内を出て、山形城東門の前に移転したという注目すべきことがわかる。また、兼頼および代々の遺骨も移し、霊屋を建てたという。それゆえ、文禄年中は、光明寺が、本丸から二の丸内であって、本丸東門の前あたり(現在の最上義光歴史館あたり)に移転し、御廟所も新築されるという画期的な時期であったのだ。 また、光明寺の『光明寺世代記』によれば、其阿俊山について、当山の一臈として、天正十九(1591)年より慶長六(1601)年まで十一年居住したことがわかる。また、光明寺に伝わる文禄三年一月二十八日付けの最上義光が光明寺に宛てた書状も注目される。それによれば、最上義光は、住職が寺領を直々に支配されるのは尤もであることと、在家(家を指定して、そこから寺役を取る権利を認めた)も住持の支配下にあるべきことを認めている。最上義光は、光明寺が本丸を出て新築されるに当たって、最上家の直轄の寺院から、寺領・在家を与えられた独立した寺院への転換を認めたのであろう。光明寺は、一七六〇石の寺領をもらっている。 さらに、注目されるのは、文禄三(1594)年五月に以下のような禁制が下されている。 一、寺中狼藉の事、一、殺生人不入の事、一、山林竹木猥りに伐採する事 右の条々堅く禁断せしめ候、もし、違犯の輩これ有らば、罪科たるべき也 文禄三年五月 最上家の城(山形城)の本丸内にあった時には、寺内狼藉や殺生人の乱入、竹木伐採などのことを心配する必要がなかった。しかし、本丸の外に出れば、そうした心配が出て来ることになる。 以上のような記録、書状、禁制などから判断すれば、光明寺が本丸を出ることになった文禄年中とは、文禄三年頃で、とりわけ、禁制が掲げられた五月頃には建物は建設されていたことになる。とすれば、文禄三年という年次が寄付の年次として選ばれたのは、光明寺の本丸から東門前の地への移転による新築という一大慶事があったからであろう。 つぎに問題となるのは、兼頼の忌日である六月八日ではなく、七月七日にしたのはなぜであろうか、である。七月七日は七夕の節句の日である。それゆえ、七夕の節句に合わせて寄付したと考えられる。しかし、重要なのは、七月七日という日は、民俗上は精霊を迎えるための準備をする日とされている点だ。『日本史大事典』(平凡社)によれば、七夕とは、民俗的には、盆の一部で、祖霊を迎える盆祭の準備をする日であった。 とすれば、本丸から、兼頼以下の代々の骨を移し、御霊屋を作った光明寺にとって、七月七日はお盆入りの先祖供養に最適な日付けであったことになろう。 もっとも、推測に過ぎないが、七月七日は、兼頼の忌日である六月八日に近く、その日に間に合わせようとしたが、結局、納入が遅れてしまったのかも知れない。そのために次善の策として七月七日にしたのが本当の理由かもしれない。 次に問題となるのは、なぜ寛永八(1631)年七月十五日付で最上家信が再び寄付を行ったかである。先述の『光明寺由来記』によれば、光明寺は無住になった時期があった。俊山は慶長六(1601)年まで住職を勤めた。その跡を受けて、慶長六年には、当代一の連歌の名匠一華堂乗阿が住職となったが、慶長十(1605)年に京都へもどり金光寺へ入ったという。そのために、それ以後、光明寺は寛永三(1626)年までは無住となった。とりわけ、元和三(1617)年三月八日には山形の大火により、光明寺も焼失した。そこで、元和三年から寛永三年までの遊行上人廻国の際に、いったんは家信に返されたとある。 ところが、家信は、寛永八(1631)年七月十五日付で再び寄付を行ったのは、寛永三年には新住持も入ったので、盆である七月十五日に再度、寄付することにしたのであろう。また、寛永七(1630)年は義光の十七回忌なので、それも意識していたかもしれない。 ![]() ■執筆:松尾剛次(山形大学人文学部教授)「歴史館だより�21」より 松尾剛次先生の研究室のホームページ>>こちら |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum












旧鶴岡城本丸御殿の障壁画とされる九幅はいずれも鶴岡市の文化財に指定されており、昭和五十一年に刊行された『目で見る鶴岡百年 付酒田』上巻に全ての図が掲載されている。これらに加えて新たに、克念社(風間家丙申堂)の金地著色「竹林図」一面が同じく鶴岡城本丸御殿の障壁画として紹介され、平成九年十月二十六日に初めて公開された。
「竹林図」克念社
「竹林図」は一見して、桃山時代の作品とわかる特色を備えているにもかかわらず、他の図と同じく鶴岡藩の御抱え絵師三村常和筆として紹介された。寸法も縦2.7メートル、横5.4メートルと巨大で、全国的にも遺例の少ない貴重な作品である。また、普通には「竹虎図」や「竹鶴図」として描かれるにもかかわらず、竹林だけで構成されている点も他に例を見ない。
報道に際して三村常和筆とされたのは次のような文献の存在による。旧庄内藩士、黒谷時敏が明治十一年に著わした『くだくだ草』(史料叢書第7編・昭和三年)に、玄間に接続する建物に「竹の間とて殿の御在国の折は御徒一人づつ出番する所」、「此西の間を桜の間と云いて御広間なり」、「其の西の間を桐の間と云い又金鶏の間とも云う」「其の西の間を松の間と云う御番頭の詰所なり、茲には北へ折曲がりて上段の間もありけり」と部屋の名前を列挙して、「竹の間より此所まで皆金張付けに、常和と云う画工が其物を間毎に書きたるによりてかくは名づけられたる也」と記されている。
これらの間取りや部屋の名前が正しいことは鶴岡市郷土資料館の「出羽国庄内鶴岡城住居絵図」によって確認できる。黒谷時敏は金地の図はすべて三村常和筆としているが、幕末期には確かにそう伝えられていたのだろう。三村常和(1678没)は名前からすると狩野常信(1636〜1713)から一字を戴いたようである。常信は慶安三年(1650)に父、尚信が没した後、わずか十五歳で家督を継いでいる。その翌年に常和は酒井家に抱えられ、承応二年(1653)に酒井忠当に従って庄内に下っている。
画風からすると、本丸御殿障壁画とされているうちで、常和が描いたと見なされるのは致道博物館と木村家に分蔵されている「群鶴図」だけである。田圃に下りたった鶴といういかにも江戸狩野らしい主題と画風であり、致道博物館に襖三面分が一幅、木村家には四面分二幅が残されている。『くだくだ草』に白木書院に関して「西の壁際には鶴の群居たるを書きし金屏風立て置かる」とあるのはこの図のことらしく、諸士のお目見えにあたって外されていた襖絵を屏風と見まちがえたのかもしれない。
「群鶴図」致道博物館
明治期の証言だけでは心許ないので、もう少し古い記録を探ってみよう。『雞肋編』巻十九に、「承応元年より御普請所覚書」という本丸御殿の建築記録がある。そこには「承応二年御城御本丸御居間、御同所御寝間、黒木白木書院、御奥御室三つ表台所、御金蔵、御城御長局、御鷹部屋夜居座敷建」、「明暦元年御城御広間建」、「明暦二年御本丸御小座敷建」などと見える。これらの建築にあわせて三村常和が抱えられ、鶴岡に下向したことがわかる。
画題からすると風間家の「竹林図」は「御広間」の玄関に接続する「竹の間」の大床に張り付けられていた図だったと考えられる。図の横幅はほぼ三間分に相当し、図面の間数と一致する。問題は明暦元年(1655)に建てられたという「御広間」が新築だったのかということである。普通、古い障壁画を新たな建物に再利用した場合には画面が切り取られたり接続に乱れが生ずるものだが、「竹林図」にはそういった形跡はまったく見られない。建物との一体性が極めて強いのである。白木書院など城主の居住空間にあたる多数の建築物が建てられた二年後に「御広間」一棟だけが別に建てられていることを考えると、まったくの新築ではなかった可能性が考えられる。もし、そうだとするといつの建物なのだろうか。
鶴岡藩士の志田則富が著わした、宝暦八年(1758)の序をもつ『鶴ヶ岡昔雑談』(庄内文庫・大正二年刊)には「(御入部の節)御本丸ばかりにて粗末なる萱葺、微々なる御殿ありて一向御手狭なる事なりし、(略)御花畑と申所へ急に仮御殿と号して御普請、(略)御本丸御殿御造営仰せ付けられし」とある。同書に引用される「御鷹匠山田氏雑談」によれば「高畑の御仮御殿には成覚院様御入国以来四五年も御座遊ばされ御本丸御造立卒りて御移徒」とあるので、寛永三、四年(1617・18)には本丸御殿の増築が終わっていたようだ。普通に考えれば、この時の建物ということになるが、「竹林図」にしても、もとは桐間の襖絵の一部だったと考えられる致道博物館の「桐図」や「躑躅図」にしても、画風からすると寛永期以前の作であり、この時に描かれたとは考えられない。
「桐図」致道博物館
「躑躅図」致道博物館
実は、入国当時には貧弱な建物しかなかったとする志田則富の記事には誇張がある。元和八年(1622)に酒井家が最上家より酒田の亀ヶ崎城を受け取った時には豊富な障壁画があったことが記録に残されている。『大泉紀年』の元和八年九月十日の条に所載される「亀崎本丸土蔵帳」によって、書院の「桃之間・墨絵之間・金之間・鷹之間・すすきの間・はきの間」の腰障子および、上広間の「絵かき障子拾貳枚」を引き継いだことがわかる。
さらに、岡田悟・飯淵康一・永井康雄氏による「藩政期における酒田の亀ヶ崎城とその本丸について」(日本建築学会計画系論文集605号・2006年7月)によれば、この時の亀ヶ崎城本丸御殿は七室からなる書院、七十八帖からなる広間、四十帖の上広間、さらに奥を中心に浴室や台所などからなっていたことが明らかにされている。亀ヶ崎城は慶長六年に最上家家臣の志村光安が城主となり、同十四年に同人が没したあと光惟が継いだものの、十九年に鶴岡にて一栗兵部に暗殺されたため、以後は最上家の直轄地となったものである。
一方、鶴岡城は当初から最上家の直轄地であり、連歌師乗阿による慶長八年(1603)の『最上下向道記』には「(六月)羽州庄内今あらため鶴岡といふにいたれは御城の普請の奉行衆とて」とあって、最上義光の命によって普請が進められていた。義光は晩年には庄内地域の開発経営に力を注いでおり、慶長九年(1604)閏八月二日の北館大学宛最上義光書状には「鶴岡へもおりおりまかりいて」とある。この時までには御殿は完成していたようで、城代として新関因幡守久正が置かれていた。鶴岡城の引き渡しの際には兵具類の記録しかないが、数は亀ヶ崎城を上回っている。慶長十七年五月九日付北館大学宛書状には「つるおか諸道具風すかし候はんために此もの共相下し候」とある。御殿についても亀ヶ崎城の規模を下回ることはなかったであろう。
「竹林図」を最上義光が慶長九年に建てた鶴岡城御殿の障壁画としても年代に問題はない。慶長十五年に完成した仙台城本丸御殿障壁画の一部である二曲一隻の「竹図」(仙台市博物館)と比較するとより柔軟な趣があり、いっそう古風である。また同じく慶長十五年頃に創建された熊本城本丸御殿が近年再建されたが、その根拠となった「御城内御絵図」(1769)の大広間の間取りと画題は鶴岡城の「御広間」とよく似ている。式台の間につづいて「鶴の間」があるところが違うが、奥へ「梅の間、桜の間、桐の間、若松の間」と並んでいるのは、梅が竹に入れ替っているだけでまったく同じである。
ただし、厄介な問題がもう一つある。「竹林図」には二重に金雲が描かれているのに対して、「桐図」や「躑躅図」は総金地で雲が描かれていない。この二つは別の絵師の手になるもので、制作年代についても若干の差を考えなくてはならない。両者の来歴については異なるルートを考える必要がある。
そこで再び『鶴ヶ岡昔雑談』にもどると、「小寺信正聞書の内に云う」として「京極家の御家取壊の時御書院の張出御取寄せ成らせ候て荘内へ御差下仰せ付けられ、今の御城金張付絵の間は皆彼京極家の張付を御取寄御張らせ遊され候由」という記事が見出される。小寺信正によれば、金張付け絵は宮津京極家の絶家に際して江戸屋敷を拝領した時に庄内に取寄せたというのである。しかしながら、『徳川実紀』の寛文六年(1666)五月七日には「京極丹後守が自邸は松平遠江守忠倶に、麻布別墅は松平対馬守忠豊にあづけらる」とあってその信憑性が疑われる。だが、『雞肋編』巻百四十二には「小嶋氏筆記」として「寛文七年末六月十五日(養正公御代也)大手先御屋敷差上られ、大名小路京極丹後守様上り屋敷御拝領、但是ハ御装束屋敷」とあって、この時拝領したのは自邸ではなく登城にあたって装束を改めた装束屋敷だったことがわかる。京極家の屋敷を拝領したのは事実となったが、寛永十八年(1641)および、明暦三年(1657)という二度の大火を経た後の大名の江戸屋敷に、桃山時代の障壁画が残されていたとはとても考えにくい。寛永大火では九十七町が焼け、百二十三の大名屋敷が焼失したため大名火消しが設置されるきっかけとなった。明暦の大火はいわゆる「振袖火事」のことで、過去最大規模の火災だったことで知られている。
京極家の江戸屋敷から引き取ったことが怪しいとなると、同じ頃の寛文元年(1661)に亀ヶ崎城の本丸に新たに広間を建造しているので、その際に旧御殿の障壁画が鶴岡城に運ばれたということも考えたくなる。だが、小寺信正は享保年中(18世紀初め)に『荘内物語』を著わした人物であり、京極家の屋敷を拝領した年代に近く信憑性は決して低くない。少なくとも他家の取り潰しにあたって金碧画を入手した、という内容に関してはまだ検討の余地がある。
『大泉紀年』に、寛永十年末に断絶した島根・松江藩主、堀尾山城守忠晴の御屋敷を拝領したことが寛永十一年(1634)にみえる。六月二十六日付け村井兵左衛門あて書状に「堀尾山城守殿御屋敷御拝領御移被遊候由目出度」とある。堀尾家の屋敷拝領は慶長六年(1601)の大火以後、寛永十八年の大火以前のことで、「桐図」や「躑躅図」の年代とも矛盾はない。ちなみに断絶した堀尾家のあとに松江藩主となったのは小浜藩の京極忠高であった。忠高と絶家となった宮津藩の京極忠国の父、高広は従兄弟の関係にあたる。その忠高も寛永十四年(1637)に末期養子として甥、高和を立てたが認められず丸亀
に改易となっている。どうやら小寺信正は京極高国の断絶と京極忠高の改易とを混同した節がある。
「竹林図」と「桐図」および「躑躅図」との画風の違いを説明しようとすると、「竹林図」については最上義光時代のものとし、「桐図」と「躑躅図」は断絶した堀尾家の江戸屋敷から引き取ったというように、別ルートによる伝来を想定しなくてはうまく説明できない。「竹林図」は今のところ最上時代の障壁画の可能性がある唯一の遺品と思われる。
時代が大きく変化するときには文化財や美術品が失われる。明治になって破壊された文化財は廃仏毀釈と廃城令によるものがとりわけ甚大である。明治六年の「廃城令」によって全国で百四十四の廃城(鶴岡・新庄・上山・米沢を含む)が決まり、黒崎研堂の『庄内日誌』の明治九年四月には「お城の取り壊し作業書くに忍びず」と記されている。山形城は存続とされたにもかかわらず、廃城になった城と同じ時期に払い下げられて破却されてしまった。酒井家臣の松宮長乳の日記『老いの友』には「(明治五年四月頃)御城内御道具御城外へ夫々御片付」とある。多くの襖絵の中でなぜ「竹林図」が残されたのだろうか。
『雞肋編』巻三十八の「年始御規式帳 二」によれば、一月三日に大庄屋および鶴岡・酒田の町人年寄・御用聞町人らのお目見えの儀がなされるのが恒例だった。この日には桐の間と桜の間の間仕切りが取り払われ、桐の間の拭い縁に並んだ庄屋や町人らが松の間上段に出御した殿様に披露された。御殿に上がったときに真っ先に目に入る玄関に最も近い床の間の巨大な竹林図は、きっと彼らの目を驚かせたに違いない。その時の強い印象がこの図を在りし日の姿のままで残させたのだと思う。
■執筆:宮島新一(山形大学教授/日本絵画史)「歴史館だより�18」より