最上義光歴史館
河北町谷地城跡の発掘調査
【はじめに】 現在の河北町谷地地区に所在した谷地城は、白鳥十郎長久の居城である。白鳥氏は現在の村山市西部に本拠をもつ国人で、その出自については謎が多い。長久の頃、天正二年(1574)の「最上の乱」における伊達氏と最上氏の和解を仲介、中央政界には織田信長に名馬を送るなど、巧みな外交術で頭角を表す。これに危機感を覚えた最上義光は、天正十二(1584)年に谷地城へ侵攻、白鳥氏は滅亡となる。 このときのエピソードとして、義光は病気と称して山形城に長久を呼び出し、彼を謀殺。そのまま3,000の兵を率いて谷地城を落としたと、軍記物では語られる。この逸話が後世の様々な物語で語られる義光の狡猜で残忍な人物としてのイメージのもととなり、長久の返り血を浴びたとされる「血染めの桜」伝説につながっている。しかし、実際にこのような謀殺劇があったことを示す史料は軍記物以外、残されていない。ドラマチックな物語を抜きに当時の状況としていえることは、白鳥長久が外交を駆使して義光の地位を脅かすまでの存在となり、討たれたという結果である。 ちなみに大石田町次年子には、白鳥長久の墓と伝えられる塚があり、過去に発掘調査がなされている。結果、大腿骨に大きな傷をもつ40代男性の人骨が出土している。しかし、それが長久本人かどうかまでは定かではない。 この長久が築いたとされる谷地城は、文献上、築城の時期が明らかではなく、最上侵攻の前年1583年以前とされるのみ。最上領有後は、斎藤伊予守が4,000石で城主となり、最上方の支城のひとつとして機能した。慶長五年(1600)の上杉方との出羽合戦の際、一度は上杉方に奪われ、それを再び最上方が奪還するという拠点争奪戦の舞台として登場する。その際の様子を伝える記述として、「七日の間、城けんごにもち候へ共」や「二の丸迄敵押込み申し候所押返し」など、激しい籠城戦となったことが窺える。最後は元和八年(1622)の最上家の改易と共に廃城となっている。在りし日の谷地城の姿を伝える絵図はなく、廃城から67年が経過した元禄二年(1689)の「谷地本郷絵図」に現在の三社宮付近が「古城跡」と記されるのみである。 史料が限られる状況において、発掘調査成果は重要な情報源となる。遺跡としての谷地城跡は、『山形県中世城館遺跡調査報告書』第2集に掲載され、現在の河北町谷地地区の市街地全域に渡る広大な遺跡として知られている。この遺跡範囲内に立地する河北町役場を建て替えることとなったため、建設予定地の発掘調査が令和元年五月から八月までの期間で実施された。これは谷地城跡では初めての大規模な発掘調査であり、その成果は既に発掘調査報告書として山形県埋蔵文化財センターから刊行されている。ここではその成果についてまとめる。 【特徴的な建築方法の発見】 発見された主なものは、500基を越える柱穴と溝跡である。柱穴はいくつかがセットになって建物を構成し、溝跡は建物群を区画するためのものと考えられる。当時の建物は、掘った穴に柱を埋めて建てる掘立柱建物が主流である。柱材は建替えの際に抜き取られたり、腐ってなくなってしまったりする。そのため、遺跡には柱穴だけが残されるのが常である。今回発見された柱穴で特徴的なのは、多くの柱穴の底面に沈下防止のため、枝や廃材などが敷かれていたことである(図1)。谷地城の立地は寒河江川扇状地の末端部にあたる。湧水も多い軟弱地盤のため、このような方法をとったのではないかと考えている。同じ目的で、柱穴の底に板や、石を敷くという事例はあっても、切りっぱなしの枝や廃材を敷く事例は、全国をみてもほかに探すことが難しい。より低コストの建築方法であったと思われる。しかし、類例は思いのほか近く、山形城三の丸跡の第十四次調査において発見された(図2)。 第14次調査の柱穴 ![]() 図1 谷地城跡の柱穴 ![]() 図2 山形城三の丸跡 この調査地点は広大な山形城三の丸でも西端に位置し、馬見ヶ崎川扇状地の端部にあたる。立地環境としては今回の谷地城調査区と類似している。谷地を占領した義光は、当地の鋳物師たちを山形城下に呼び寄せたとされるが、同時に大工たちも連れて行き、山形城内の整備にこの方法を持ち込んだと解釈できるかもしれない。山形城三の丸では現在のところ確認できているのはこの一基のみのため、付近での調査事例の増加に期待したい。 【谷地城の姿について】 これらの柱穴を区画する溝は、調査区の軸に沿って縦横に発見されており、大小の規模がみられる。いくつがセットになって区画をなしていたと考えられ、その区画は一部が重なっていることから、古い区画を埋めて、新しいものをつくったと考えられる。 では、この古い区画は、いつごろのものか。時期判断の材料となる陶磁器の出土が少ないため難しいが、溝の底面から出土した漆器などを炭素年代測定にかけたところ、十五世紀前半から半ばという結果が出ている。遺跡全体でみれば、これと同時期にあたる古瀬戸後期の陶磁器片を一定数得ていることからも、この測定結果は裏付けられる。よって、古い区画は十五世紀半ば頃から機能し、新しい区画の建設に伴い埋め戻されたと考える。現在の谷地地区の開発は、白鳥長久か、あるいはその前代の頃にはじまったとされ、十ハ世紀中頃からというのが従来の説である。これに対して今回の調査成果は、それよりも百年近く前には既に、区画された屋敷地があったことを示すものとなっている。 現在の谷地地区は、南北に走る県道25号などを中心に20度ほど東に傾いた軸で市街地が形成されている。今回の調査で発見された区画溝をみると、後述する新しい時期のものも含めても、その方向は現在のものと同じ軸の傾きでつくられている。これは十五世紀の中頃に谷地の開発がはじまってから現在に至るまで、土地利用が変わり、区画の変化はあったとしても、基幹的な町割りは変わっていないことを示すものである。 次に新しい区画をみると、大きいもので、幅4m、深さは1m弱あり、調査区内を東西方向にまっすぐ80m以上展開し、東側は更に調査区外へ延長し、西側は調査区の端で直角に折れて調査区外へのびている。この溝の底面からは十六世紀中頃の陶磁器片が、溝の埋まりきった上面からは十七世紀初頭のものが得られており、この区画溝の構築時期と廃絶時期を示しているものと考えられる。この年代観は、文献上、推定されてきた谷地城の存続期間と合致するものである。ではこの溝は谷地城に関連するものなのだろうか。 谷地城の姿をめぐっては、戦前からの研究があり、本丸に対して二の丸堀が部分的にめぐるものや、山形城のように全体を三重に囲むものなどが提示されている。今回の調査区は、どちらの復元案でも、本丸西側の二の丸堀にあたる。そのため調査前は南北方向にめぐる堀跡の発見が予想されていた。 しかし、今回の調査で得られたものは、堀とするには規模の小さい溝跡である。考古学上、溝跡と堀跡の違いについて、明確な定義がなされているわけではないが、一般的に防御施設である堀というには、前述の規模でその機能を担えるのかという疑問が湧く。山形城と比較するには、築城の時期も城主の地位も異なるが、筆者が担当した山形城三の丸跡第十次調査において発見された三の丸の堀跡は、幅12m以上、現地表からの深さは5mを越えている。また、これが本丸を守る防御施設であるならば、東側の本丸を守るため、南北方向になければ防御の用をなさないだろう。しかし、発見されたのは本丸に向かって一直線に80m以上のびるものである。よって、ここで発見された溝跡は、谷地城の主たる防御施設としての堀跡とは考えられない。しかし、これらは廃城の時期に埋め戻されているため、谷地城本体に付随して補助的な防御機能を担っていたものとも考えられる。よって、現在のところは城内、あるいは城外に隣接して築かれた家臣団の屋敷地を区画するものと推測しておきたい。 谷地城の二の丸については、冒頭でふれた出羽合戦における争奪戦の記録からも、その存在は認められる。しかし、今回の調査成果によって、これまで推測されてきた谷地城の二の丸の姿とは異なるものを想定しなければならないだろう。 【まとめ】 このように発掘調査は、机上の調査では得られなかった結果を導くことがある。文書には残されていない客観的な情報を得ることができるのは、発掘調査の醍醐味といえよう。しかし、それはすべてを明らかにしてくれるわけではない。文献調査がもたらす情報に比べれば、発掘調査が伝えることはあまりにも限定的である。 発掘調査と文献調査は、両者どちらかを選ぶというものではなく、お互いの弱点を補完しあうことができる関係にある。両者の成果を統合することで、より立体的な歴史像が復元されることを期待したい。 ■執筆:天本昌希(山形県埋蔵文化財センター主任調査研究員)「歴史館だより��28」より |
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関ヶ原合戦と最上義光 ― 義光宛家康書状を読み解く ―
【はじめに】 今年(西暦二〇〇〇年)は、関ヶ原の戦いからちょうど四〇〇年ということで、関ヶ原の戦いに対する関心の度が高くなっている感じがする。そこで、″東北版・関ヶ原″などといわれる長谷堂城の戦いにからめ、そのときの最上義光の動向を追いかけてみたい。 周知のごとく、家康は、関ヶ原の戦いを前にして、諸大名に実にたくさんの書状を出しており、慶長五年(一六〇〇)に入って、戦い直前九月十四日までの分だけでも一六九通を数えている。書状の内容は、恩賞を約したものもあれば、上方での戦況を報じたものもあり、作戦上の指示を与えたもの、さらには東軍へ誘ったものなどまちまちであるが、これら政治工作、すなわち、根まわしが進められたことを意味する。 そこで、ここでは、家康から最上義光に宛てられた書状を通して、義光が、家康の考える大きな関ヶ原戦略の中で、どう位置づけられるのかを見ていくことにしたい。なお、書状については読み下しにして引用した。原文は、中村孝也編『徳川家康文書の研究』中巻にあたっていただきたい。 【第一報 七月七日付】 急度申し入れ候。仍って会津表出陣の儀、来る廿一日に相定まり候。その表の衆、同心有り、御参陣有るべく候。然者、最寄(前カ)申し候如く、北国表にて北国の人衆を相持ち、会津へ打ち入らるべく候。猶、津金修理亮・中川市右衛門申し達すべく候。恐々謹言 (慶長五年)七月七日 御諱御判(徳川家康) 出羽侍従殿(最上義光) (「古文書集」十) 家康は、六月十八日、伏見城を発し、会津討伐に向かった。「五大老」の一員であるにもかかわらず、上杉景勝が会津に引っこんだまま、領内の軍事強化を進めていることを、「豊臣家に対する謀反」と判断したためである。もちろん、家康の腹の中には、畿内を留守にすることによって、石田三成の挙兵を誘うという思惑もあった。 七月二日に江戸城に入った家康が、七日付で最上義光に出した書状がこれである。ちなみに、会津攻めにあたって家康が定めた部署はつぎの通りである。 白河口 徳川家康・秀忠および東海・畿内の大名 仙道口 佐竹義宣 伊達・信夫口 伊達政宗 米沢口(最上ロ)最上義光と仙北(最上川以北)の諸大名 津川ロ(越後ロ)前田利長・堀秀治・同直寄・村上義明・溝口秀勝 七日付書状に、「猶」としてみえる津金修理亮と中川市右衛門の二人は、家康の家臣で、このとき、使者となって山形に赴いている。もっとも、この二人は、単なる使者ではなく、家康から最上家に送りこまれた軍監のような立場だったのではないかと思われる。というのは、同じ七月七日付で家康がこの二人に宛てた覚書が「書上古文書」にあり、そこに、会津へ攻め入るときには義光を先手とすること、戦いになったときには兵糧を義光から借りることなどが指示されているからである。 そして、家康は、予定通り、七月二十一日に江戸城を出陣し、会津攻めに向かった。ところが、二十二日、二十三日と軍を進める内に、三成挙兵が次第にたしかな情報として入ってくるようになり、二十三日、下総の古河に着いたところで、進軍中止を指令した。それを物語るのがつぎの義光宛第二報である。 【第二報 七月二十三日付】 急度申し入れ候、治部少輔(石田三成)・刑部少輔(大谷吉継)才覚を以って、方々に触状を廻らすに付て、雑説申し候条、御働の儀、先途御無用せしめ候。此方よりせ重ねて様子申し入るべく候。大坂の儀は、仕置等手堅く申し付け、此方は一所に付、三奉行の書状披見の為これを進せ候。恐々謹言 (慶長五年)七月廿三日 家康御判 出羽侍従殿(最上義光) (「譜牒餘録後編」四) この文書は、家康が会津討伐中止を指令した一番早いものである。このあと、二十四日に家康は下野小山(おやま)まで進み、二十五日、有名な「小山評定」を開き、そこで、反転して畿内にもどり、石田三成を討つ作戦を決めている。そして、家康自身、二十六日に小山の陣を引き払い、八月五日に江戸城にもどるわけであるが、その間、諸大名に精力的に書状を出している。つぎの第三報もその一つである。 【第三報 七月二十九日付】 急度申し入れ候。仍って上方奉行衆一同の者、鉾楯の由申し来るに付て、会津の閣、先ず上落せしめ候。併、中納言(秀忠)差し置き候条、彼表働の儀を相談尤に候。猶、後音の時を期すべく候。恐々謹言 (慶長五年)七月廿九日 御諱御判(徳川家康) 出羽侍従殿(最上義光) (「古文書集」十) ここで注目されるのは、会津のことはひとまずさしおいて、まず上方にもどり、三成を討つことにしたことを義光に伝えていることと、「秀忠を押さえとして残したので、今後のことは相談するように」といっている点である。 つまり、七月二十九日の時点では、家康は秀忠を残すつもりでいたことがわかる。事実、秀忠軍が下野宇都宮を陣払いしたのは八月二十四日であった。そのあと、代わったのが結城秀康ということになる。 江戸城にもどった家康は、何と二十六日間もの間、動こうとしなかった。その間、東軍先鋒として福島正則ら豊臣恩顧の大名たちが東海道を西に攻めのぼり、八月二十三日には岐阜城を攻略している。家康から義光への第四報はそのことにかかわるものである。 【第四報 八月二十七日付】 急度申し入れ候。去る廿三日午の刻、岐阜の城乗崩し、中納言(織田秀信)兄弟一人も洩らさず撫切申す由注進候条、書状持たせ進せ候。政宗より参るべく候。我等父子も出陣申し候間、万事そこもと御行仰せ付けられ給うべく候。委細(今井)宗薫申すべく候間、具にする能わず候。恐々謹言 (慶長五年)八月廿七日 家康御判 出羽侍従殿(最上義光) (「譜牒餘録後編」四) 家康はこのように、東軍先鋒の戦いの模様を義光に報じており、翌日にも、第五報(八月二十八日付)で三成らが美濃に出てきたことを伝えている。 【おわりに】 九月十五日の関ヶ原の戦いを前にした義光宛家康の最後の書状は九月七日付で、これが第六報ということになる。 そこでは、三成らを大垣城に「追籠」たことを報じ、「其口、政宗と相談し、油断無き行等、分別尤に候」といっている。 おそらく、この第六報が義光の手もとに届く前のことと思われるが、上杉景勝の老臣直江兼続が最上領へ侵入してきた。九月十三日には、山形城の支城である畑谷城が攻められ、城将の江口五兵衛父子が殺され、水原親恵率いる上杉軍はその勢いで長谷堂城を包囲しているのである。 上杉軍の猛攻を支えながら、長谷堂城が破られた場合、本拠山形城も危なくなると判断した義光は、長子義康を政宗の本陣北目城に人質として送り、援軍の要請をしている。 結局、政宗は自分の名代として伊達政景を援軍に送り、最上・伊達連合軍有利な状況となった。その長谷堂城の攻防戦の最中、具体的には九月三十日の朝といわれているが、関ヶ原での東軍勝利の報が最上陣営に届けられ、ついに、十月一日、長谷堂城攻囲の上杉軍が撤退したのである。 ■執筆:小和田哲男/静岡大学教育学部教授・文学博士(2000年執筆当時)・静岡大学名誉教授 (2009年) 「歴史館だより�7」より |
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「義光はなぜ「虎将(こしょう)」と呼ばれてきたのか」
御存知の通り、最上義光は後世に「虎将」と呼ばれている。しかし、そのきっかけは何だっただろうか。 江戸時代晩期の儒者・塩谷宕陰に「山形従役詩」という詩集の中に義光を偲ぶ「雑詠(二首)」がある。そこに「散歩時尋虎将蹤」(散歩して時に虎将の蹤を尋ぬ)と、義光のことを「虎将」と称するわけである。その理由は、義光の官途と関係するものである。 義光は慶長十六年(一六一一)三月に従四位上左近衛少将に叙任された。左近衛少将とは内裏内の警衛、警固を担当する令外の官、いわゆる「六衛府」の中の左近衛府の次官である。むろん、戦国時代になると、官途の実際的意味を持たず、単なる名誉的なものに過ぎないというまでもない。 さて、この「左近衛少将」と「虎賁郎将」との関係といえば、「虎賁郎将」は「左近衛少将」の「唐名」なのだ。「唐名」とは律令制の官職・部署の名前を、同様の職掌にあたる中国の官称にあてはめたものである。 「虎賁郎将」はもともと「虎賁中郎将」の略称であり、その起源は少なくても中国の西周時代までさかのぼることができる。その後、前漢の元始元年(西暦一年)に官職として定着されるようになった。 もともと、「虎賁」とは古代中国において勇士の代名詞であり、「虎賁」の語源を尋ねると、そもそも「賁」とは「奔る」、「勇む」意味で、「虎賁」とは虎が獲物を猛襲する姿を指すものである。後に戦場で敵を果敢に攻撃する兵士の姿を、虎が獲物を襲う雄姿に喩えて転用されるようになったのである。 そして、官職としての「虎賁郎将」の由来を調べれば、周王朝の開国功臣・周公旦(しゅうこう・たん)の著書『周礼』(しゅうれい)に初めて「虎賁」の語が見られる。それによると、遥かなる夏の時代に、「虎賁氏」という官職がすでに存在しており、その職務を簡単にまとめると、以下の内容である。すなわち、 (1)王様が親征、あるいは外出の時、王様に扈従し、その安全を守ること (2)王様が王宮にいる時は、王宮の内外を警備すること (3)王様が崩御した後、万が一に備えて、葬儀が終わるまで王宮への各口を警戒し、王様の棺が納められた車を御陵に着くまで守ること (4)崩御のお知らせを各地に伝達する使者と同行すること ![]() 『周礼』の類本の目録に「虎賁氏」が見られる 『周礼』の記事を裏付ける史料はほとんどないため、その真偽を問うことができないが、前漢の平帝は従来の王宮の宿衛部署である「期門郎」を「虎賁郎」に名を改め、その長官として「虎賁中郎将」を設けた。それをきっかけに、「虎賁中郎将」は官職として歴史に登場するようになり、唐の時代まで存在していた。 このように、古来の「虎賁氏」と後の「虎賁郎将」の職務は王様の身柄を守ることであり、いわば王様の親衛隊、精鋭中の精鋭部隊を引率する筆頭といえよう。また、「虎賁中郎将」とも関係する「虎賁」は漢の時代以降、「羽林」(うりん)と共に、帝国の最精鋭部隊の代名詞として史書に随所に見られる。やや煩わしいかもしれないが、「虎賁中郎将」は官職の名で、「虎賁」はそれに従える兵士、あるいは「虎賁中郎将」その人を指す呼称、とお分かり頂けば幸いである。 したがって、「虎賁中郎将」も「左近衛少将」も、王様、日本といえば天皇の警護役を担当する役職であるため、左近衛少将に叙任される義光も当然、日本版の「虎賁中郎将」となる所以である。 また、上述したように、「虎賁」は勇猛の兵士を意味するから、その長官の「虎賁中郎将」最上義光は、あの長谷堂の戦いで最上勢を率いて、撤退中の上杉勢を追撃し、敵の侵略から領国を守るために奮戦することを偲べば、まさに雄々しく獲物を猛襲する虎ではなかろうか。 蛇足だが、従四位左近衛少将は最上氏歴代当主の中でも最も高い官途なのである。そのためか、義光は「左近衛少将」に叙任されてから慶長十九年に没するまで、しばしば「少将出羽守」、「少将」を署名として使っていた。彼本人もよほど気に入ったようだ。 ■執筆:胡 偉権(歴史家/一橋大学経済学研究科博士後期課程在籍生)「歴史館だより��23」より |
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宮本武蔵の養子・伊織は最上家浪人の子か
剣聖宮本武蔵の養子の一人に有名な伊織がいる。彼は15歳の時に、播磨国明石城主小笠原忠真に近習として仕え、弱冠20歳で家老になったという。その後豊前小倉15万石小笠原家において禄高4000石という破格の出世を遂げている。もちろん、養父武蔵の後押しもあったろうが、それにしても、彼はよほど才能に恵まれていた人物と言える。 さてこの伊織だが、吉川英治の原作『宮本武蔵』では三之助という名で登場する。そして「最上家の浪人」として祖父三沢伊織が出てくる。また、三之助は武蔵の恋人お通の弟という、いかにも面白い筋書きである。 この小説の材料になったのは、主として武蔵の伝説で有名な『二天記』である。その中では、巌流佐々木小次郎に関する記載に次ぐほどの紙幅を費やし、武蔵と伊織(本書では無名の童)の出会いが語られる。 物語は武蔵が出羽の正法寺原というところで、泥鰌取りの童に出会うところから始まる。紙面の都合で話の内容を紹介できないが、この話の終わりに興味深い付記があるので、その原文を上げておこう。 伊織父は正法寺村の者と雖も、本羽州最上家の浪士にて、此処に住みて自然に 農夫となれりとも云へり、伊織武蔵養子と成、宮本を号す(下略) この一節が、伊織の出自を「最上家浪人の子」とする根拠になっていた。だが、現在はこの記述そのものが疑問視またはデタラメとされているのだ。 そもそも『二天記』なる書はというと、肥後藩筆頭家老松井家の家臣豊田正剛の書留が原典。それに子の正脩が『五輪書』等の記実を加え、宝暦5年(1755)に『武公伝』としてまとめたものを、さらに正脩の子景英が安永七年(1778)に改めて一書にしたもの。武蔵没年(正保2年・1645)から百年余りが経っていたため、彼に関する伝承は紛然として、真偽のわからない風聞が飛び交い、過大評価やこじつけも多かった、と編者の景英もみずから奥書に記している。 ところが、昭和40年代になって、伊織の出自を明らかにする史料が出てきた。それは彼が、郷里の氏神である泊神社(兵庫県加古川市)に奉納したとされる棟札である。某かに書かせたものであるが、記録によれば、伊織は村上源氏の流れを汲む赤松氏の末孫田原氏の出であるという。 その棟札は、武蔵没後比較的早い時期の承応2年(1652)に成立した史料であり、且つ氏神の社殿造営に伴うものとして、やはり信頼のおけるものであるとする説が有力である。一方、棟札の冒頭に見る村上源氏云々の書き方は、個人顕彰の意味合いが強く、必ずしも事実を記したものとはいえない、と疑問視するむきもある。 いずれにしても、伊織の子孫に伝わる『宮本家系図』等の史料に基づけば、彼は慶長17年(1612)播磨国印南郡米堕村(兵庫県高砂市米田町米田)の田原久光の次男として出生。武蔵は久光の実弟と言うから、伊織は歴とした武蔵の甥ということでほぼ定説化している。また、このことによって武蔵の生誕地は美作ではなく、播磨とする説が有力になってきている。ただ、棟札には、伊織が元和元年に小笠原家に仕えたとあり、生年が正しければ、彼は11、2歳の時となる。この点は冒頭の15歳と齟齬をきたす。 それにしても、『二天記』の童(伊織)は、なぜ「最上家」浪人の子なのであろうか。また、これが全くの虚構ということになるのであろうか。筆者は『二天記』を何度か読み返し、且つ多くの関係書を渉猟したが、なお釈然としない。さらに些か私見もあるが、残念ながら紙数が尽きた。※『二天記(肥後文献叢書第二巻)歴史図書社 昭和46年』 ■執筆:布施幸一「歴史館だより��11」より |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum











初折の表部分
名残の折裏と句上部分
慶長二年(一五九七)八月七日に催された連歌です。
義光は七句を詠じています。
連衆(同席者)は一流の文化人ばかりで、義光が地方大名でありながら風雅を解する優れた人物として、京都の文化人の間で高く評価されていたことを物語る貴重な資料です。
義光(光)の他、里村紹巴(紹巴・巴)、木食上人応其(興山上人・上人)、日野輝資(日大)、細川幽斎(玄旨・旨)、前田玄以(徳善院・徳)らが一座した桃山連歌の屈指の秀作で、義光の文化人としての交友関係も知ることができます。
【句上】
紹巴 八 新三位 七 長俊 七
上人 七 玄旨 九 玄仲 一
白 八 玄仍 八
昌叱 九 義光 七
徳善院 八 景敏 六
日大 八 友益 七
紹巴(巴) = 里村紹巴(連歌師)
興山上人(上人) = 木食上人応其(僧侶)
白 = 聖護院道澄(僧侶)
昌叱(叱) = 里村昌叱(連歌師)
徳善院(徳) = 前田玄以(僧侶・戦国武将/五奉行)
日大 = 日野輝資(公家)
新三位(新) = 飛鳥井雅庸(公家)
玄旨(旨) = 細川幽斎(戦国武将)
玄仍(仍) = 里村玄仍(連歌師/紹巴の長男)
義光(光) = 最上義光
景敏(敏) = 里村景敏(昌叱の子/のち昌琢)
友益(益) = (姓は北小路か速水/近衛家の関係者)
長俊(俊) = 山中長俊(戦国武将)
玄仲 = 里村玄仲(連歌師/紹巴の二男)