最上義光歴史館

「時は今 天が下しる 五月哉」について雑感

 連歌の冒頭の句を発句と言う。その詠み様に作法があったことは、周知のことである。ただし、十五世紀後半より、発句を独立させて鑑賞する風潮が現れる。今日の俳句につながることは、言うまでもない。

 さて、戦国の武人たちは連歌をたしなみ、風流を心がけていたことは、常識化しつつあるが、それらの人々の発句の中で、著名なものの一つに、明智光秀のそれがある。
 以下にそれを示す。(論述の都合上、第三の紹巴句まで示す。本文は「連歌集」新潮日本古典集成 昭和五十四年 島津忠夫氏校注に依る。)

  賦何人連歌 天正十年五月廿四日
1 ときは今天が下しる五月哉     光秀
2  水上まさる庭の池水       行祐
3 花落つる池の流れをせきとめて   紹巴

 島津氏は光秀句の解釈を、こうとらえている。
 時は今、土岐の一族である自分が天下を治めるべき季節の五月となった。

 信長を討つ決意を秘めたとする解釈は、人々に疑われることもなかった。(あくまで俗説であるが、それを察知した紹巴は「せきとめて」と、中止させようとの意を含ませた句を詠じたとされることもある)江戸期の人々も浄瑠璃や歌舞伎の中などで、そのような解釈を常識として来た。四世鶴屋南北の「時今也桔梗旗挙(ときはいまなりききょうのはたあげ)」一八四八年作は外題でこの発句を活している。これ以前に近松半二等の「三日太平記(みっかたいへいき)」一七六七年作の中で光秀の口にするせりふにこの句が採り上げられている。その場面は、以下の通りである。

 尾田春永(「小田」とも、以下役名)は天下平定を目指し、各方面へ武将を遣し、当人は中国の真柴久吉を助けようと、本能寺に宿泊していた。そこに勘気を蒙って遠ざけられていた武智光秀が、あえて目通りを願い出る。
 光秀は、春永に武人の鑑となってほしいとして、劉備玄徳を例に挙げ直諌する。怒った春永の命で、森蘭丸が、鉄扇で光秀を打ち、要で額を割る。(眉間割り)
 屈辱に耐えていた光秀は「最早これまで」と、謀反を決意しこの発句を呟く。時ならぬ陣太鼓等が打ち鳴らされ人々は狼唄する。小柄を抜いた光秀は「忠孝」と書かれた額を、それで打ち落し、春永に張本が自分であることを告げる。
 
 近世までの人々は、この発句の重要性・意図を、例えば以上のように理解していた。すなわち、謀反の意を読みとっていた。
 近代に至り、この理解に疑義が、桑田忠親氏を中心として、さしはさまれる。論点は二つある。その一は、本文の問題である。底本等は「連歌集」島津氏校注の解題にあるので参照してほしいが、この懐紙の原本はなく、写本の中で「天が下しる」を「天が下なる」とするものもある。後者ならば「世の中すべて五月雨の今にふさわしい光景」との従来の作法通りの自然詠となる。先述した紹巴に関する物語の中には、後に秀吉の追求を怖れた紹巴が書き改めたとするものまである。
 その二は、仮に、光秀が決意を秘めたこの発句を詠じた時に、一座の者などの中に( 連衆は光秀を含め九名、五名は連歌師。光秀の縁者は行澄(ゆきずみ)・光慶(みつよし)の二名)、光秀の意図を察して、信長方に通報するような者がいなかったであろうか、光秀は安心して心情を吐露出来たかという点である。
 言われてみればその可能性もあって、通説を否定する考えの柱となっている。

 以上のことは、光秀という謎に満ちた人物の魅力もあってか、多くの研究書・文芸書に採り上げられている。興味のある方は、サイト等で、詳細を調べてほしい。
 
 今年でNHK大河ドラマは六十作目。この稿を記している時点で様々の困難に直面しているようである。筆者としては、第三作目「太閤記」の佐藤慶が良かったように、個人的には思っている。               

■執筆:名子喜久雄(山形大学名誉教授)「歴史館だより��27」より
「連歌の概要」 ―義光の一座した作品に触れながら

 ある時代に隆盛を極めた文芸ジャンルが、時の流れにより、創造のエネルギーを失ってしまうことは、多い。平安時代の物語・中世の軍記は、その代表である。(創造のエネルギーを失いかけても、変質することにより今日まで、人々に何らかの形で継承されたものに能・歌舞伎がある。和歌・俳諧は「改良」されることにより、短歌・俳句となった)
 連歌は、創造のエネルギーを失ったジャンルの一例であろう。その発生を、連歌を「筑波の道」と称することからわかることだが、倭建命の東国での御火焼の翁との問答
  新治 筑波をすぎて 幾夜か寝つる
  かがなべて 夜には九夜 日には十日を
とするのが通例である。(五七五・七七の歌体でない所から、「万葉集」巻八の家持と尼の唱和とする考えもある)
 五七五(長句)と七七(短句)のいづれが先行しても良いが、前記のように1セットで終わるものを「短連歌」という。先に詠まれた句(「前句」)に、付けられた句が「付句」である。その付句に、次の付句を続けて、その連続が、一定の句数(三十六・五十・百)になったものを「長連歌(鎖連歌とも)」と称する。
 前記の倭建命の例のように、連歌は和歌よりは、会話性・問答が強かった。鎌倉期以後中世を通じて大流行するが、好者は無論のこと、連歌の名人が、宗祇・紹巴の如く身分卑しき者から輩出する。
 ところで、長連歌を人々が詠む折に、安易な句作を嫌って、様々に制約を加えるようになった。その制約を、まとめたものが「式目
」である。「式目」は、時代の中で一部手直しが行われた。それが「新式」である。これらを心得ていなければ、連歌の場(座)に居ることは難しい。
 「式目」を人々に教授したりした、連歌の職業的名人が宗匠である。連歌の座を差配するだけでなく、源氏物語・古今集などの古典文学の解釈の伝承者でもあった。


「連歌新式」最上義光注 里村紹巴加筆(当館蔵)

 さて、義光も一座した「慶長元年(1596)十二月二十五日 賦何舩連歌」を素材として、いささかながら、連歌の作り方を略説したい。
 発句(第一句目)は、

  雪晴(れ)て行く水遠き末野哉 唱叱

 詠作の季節(冬十二月)に応じて、眼前の景を詠みこむ。詠み人は、主客が普通。貴人の場合もある。
 脇句(第二句目)は、

  風さえつつも明(け)渡る山  光高

 発句の世界を受け、季節を同じくして、かつ、発句に詠まれていないもの(「風」と、「末野」の反対方向にある「山」の明け方の時間)を詠む。普通は亭主が詠者。(光高が亭主かは存擬)
 第三(第三句目)は、

  引(く)雲にはなるゝ月の影澄(み)て  光

 第三句目を、特に第三と称す。第四句から最後の句(「挙句」)の直前までを、一部を除き、「平句」という。第三は、発句・脇句の世界を転じ、作中世界を広げる。風に雲が動き日が姿を見せる。空に視線が移った。貴人(ここでは義光・「字名「光」)が詠む。
発句が貴人の時は主客。


「賦何船連歌」初折の表部分(当館蔵)

 このように連歌の世界は展開する。挙句で世の千秋万歳を寿ぎ、連歌は終わる。

 ※現在入手しやすい参考書
 「連歌辞典」 廣木一人 平成22年 東京堂出版
 「連歌とは何か」 綿抜豊昭 平成18年 講談社
  (後者は、義光についての言及もある)  

■執筆:名子喜久雄(山形大学名誉教授)「歴史館だより��20」より       
「愛」の前立の兜に「金小札薄浅葱糸威二枚胴具足」(上杉神社所蔵)を着用したナオエカネツグがついに登場しました!!最上義光(モガミヨシアキ)とならんで、戦国時代の山形のもう一人の英雄です!!今後、「最上義光からの挑戦状!!」の特別版「最上義光と直江兼続からの挑戦状!!」や山形の歴史、当館の事業など、モガミヨシアキと力を合わせてわかりやすく楽しく紹介してもらう予定です!!



※キャラクターについては上杉神社さんのご許可を得て制作いたしました。無断で使用することを禁じます。
【伊達政宗の母 義姫】

 伊達政宗の母義姫は、山形城主最上義守の娘として天文17年(1548)山形城に生まれた。最上義光の二歳年少の妹である。後に米沢城主伊達輝宗と結婚し、政宗をはじめ二男二女を生んだ。元和9年(1623)7月16日、仙台で没している。享年76。法名は保春院。墓は仙台市青葉区北山の覚範寺にある。

【勝気で行動的な性格】
 義姫は、ずいぶん気丈な人だったらしい。男勝りで、頭がよく、政治にも積極的にかかわる行動的な女性だった。こんな話がある。天正16年(1588)伊達氏が最上・大崎の両氏と対立し、一触即発の状態になったときのこと。当時、政宗は郡山(福島県)で常陸の佐竹氏、会津の芦名氏らと対陣中であり、現場に駆けつけることができなかった。これをみた義姫は、みずから最上、伊達両軍の間に輿で乗り込み、献身的なはたらきで両者を斡旋し、ついに和睦させている。
 また、慶長5年(1600)長谷堂合戦のときには、山形城に迫り来る上杉勢を防ぐため兄の義光が政宗に援軍を乞うと、義姫も手紙をおくり、窮状を知らせて一時も早い救援を要請している。このとき義姫が政宗の叔父留守政景に宛てた手紙が残っている。上杉・最上両軍の配備と各地の戦闘、落城間近の緊迫した状況などを的確に知らせる内容で、とても女性のものとは思えない。政宗は上杉軍の篭もる白石城(宮城県)を攻略中であったが、要請を受けてすぐに政景を総大将とする援軍を派遣。これより力を盛り返した最上勢は上杉勢を撃退することができた。義姫の決断力、行動力がこの二例によってもうかがわれる。

【政宗毒殺未遂事件】
 伊達政宗と母義姫。この母子については我々がもっとも知りたいと思うことは、例の毒殺未遂事件の真相だろう。わが子の膳に毒を盛るなどということが本当にあったのか。
 事件が起きたのは天正18年(1590)4月。伊達政宗が関白豊臣秀吉に謁見するため小田原(神奈川県)へ参陣する直前に起きた。場所は会津黒川城(後の会津若松城)。
 事件の経緯は伊達家の正史『貞山公治家記録』(元禄16年=1703年)に詳しい。4月5日、母の陣立ちの祝いの席に招かれた政宗は、母の用意したお膳に箸をつけたところ、たちまち腹痛を起こす。急ぎ館にもどり投薬を受け、危うく一命をとりとめた。母が自分を毒殺しようとしたことにショックを受けた政宗は、母が溺愛する弟の小次郎に伊達家を継がせるために自分を殺そうとしたこと、その背後に母の実家最上家の陰謀があることを感じとり、同月7日みずから弟の屋敷に赴き小次郎を手討ちにする。不憫だが、母を殺すわけにはいかない、というのが理由であった。義姫はその晩、山形の最上氏のもとに逃げ帰った。以上が『貞山公治家記録』の記す事件の概要である。
 このような義姫首謀説に対し、この事件は政宗が伊達家内部の弟擁立派を一掃するために仕組んだ一人芝居ではなかったか、とする説がある。作家の海音寺潮五郎はこの説をとる(『武将列伝』)。いったい真相はどうなのだろう。
 私は、『貞山公治家記録』が記す義姫出奔の時期について、かねてから疑問をいだいてきた。『貞山公治家記録』は義姫出奔の日を、政宗が弟小次郎を手討ちにした4月7日としているが、はたしてそうだろうか。その後の二人の関係を追っていくと、どうも信じられない。例えば、この事件のあと、二人はたびたび手紙でやりとりをしている。伊達家文書のなかには、母に宛てた手紙が数多く残っているが、いずれも親子の濃や豊かな情愛を感じさせる内容で、事件のわだかまりをうかがわせるものはひとつもない。特に、事件から3年後、秀吉の命で朝鮮に出兵した政宗が、朝鮮での戦況を詳しく知らせた手紙には、母から送られた小遣い対する率直なよろこびと感謝の気持が溢れており、「ぜひ無事に日本にもどって、もう一度おあいしたい」と繰り返している。このような手紙が山形に逃げ帰った義姫との間でとりかわされるとは考えにくいことである。

【新史料の発見と事件の真相】
 私の長年の疑問は、5年前(1999年当時)に発見された一通の古文書によって氷解した。それは文禄3年(1594)11月27日、政宗の師である虎哉和尚が岩出山(宮城県)から京都にいる大有和尚に宛てた手紙である。大有和尚は政宗の大叔父。この手紙のなかで、虎哉は「政宗の北堂(母堂)が今月四月夜、最上に向かって出奔しました。お聞きおよびですか」と述べている。
 この注目すべき史料の出現によって、母義姫の出奔は天正18年4月7日ではなく文禄3年11月4日であることが初めて明らかとなった。つまり『貞山公治家記録』の出奔の時期は誤りで、事件後義姫は政宗とともに黒川城から米沢を経て岩出山に移り、この年11月4日まで岩出山にいたことになる。これで事件後も二人の間で頻繁な手紙の交換が可能だったことも理解できる。ちなみに伊達家文書に残る母宛の政宗の最後の手紙は文禄3年11月25日、京都から出したもの。家臣の屋代勘解由に託されたこの手紙には、政宗が京都であつらえた母への小袖が添えられていた。しかし、この手紙も小袖も母のもとに届くことはなかったはずである。
 新しい史料によって義姫の出奔の時期が正されたいま、それ以外の事件の核心に係わる『貞山公治家記録』の記述も疑ってかかる必要があろう。義姫が毒を盛ったとするなら、事件後も政宗のもとに居つづけ、手紙のやりとりをしていることは理解に苦しむ。『貞山公治家記録』は政宗が弟を手討ちにしたその晩に山形へ出奔したとして、義姫と背後の最上氏の事件への係わりを強く印象づけているが、そこに伊達家の正史としての作為は含まれていないだろうか。しかし、いずれにせよ4年後に義姫が岩出山から実家の山形に帰ったのは事実である。義姫はなぜ出奔したのか。
 従来あまり注目されることのなかった史料だが、『貞山公治家記録』の付録のなかに、この謎をとく手掛かりとなる文書がはいっている。日付はないが、事件の直後、伊達政宗が側近(茂庭綱元か)に事件の経緯を知らせた手紙がある。このなかで政宗は、お膳に毒を盛ったのは母と思われ、その背後に弟を擁立する勢力があること、このままでは伊達家内部が二分し内乱となるおそれがあるため、やむをえず弟を手討ちにしたこと、弟には罪がないが母を殺すわけにはゆかぬので、可愛そうだが殺さざるをえなかったこと等を詳しくうちあけている。そして最後に「このようなことは自分の口からは言えないのでそなたの方で斟酌して、よいと思うことは世間へくどき広めてほしい」と意味深長なことばで締めくくっている。おそらく、こうした政宗の意向が、政宗が岩出山をはなれ京都・朝鮮へ行っている留守に徐々に噂となって家中に広まり、周囲の疑惑の目に居たたまれなくなった義姫が山形へ出奔したというのが真相ではなかろうか。
 政宗毒殺未遂事件の全容は、まだ闇の中にある。しかし、義姫を事件の首謀者としてきた従来の見解は、『貞山公治家記録』の信憑性とあわせて見直されるべきだと思う。

【母子の再会】 
 山形と仙台、別れた二人が再会するのは28年後、元和8年10月のことである。最上氏の改易にともない、義姫は政宗のもとに身を寄せる。しかし二人が仙台で一緒に暮らしたのは束の間。政宗のもとにもどった10ヵ月後、義姫は黄泉へと旅立つ。晩年の義姫は足も不自由で、目も悪かったらしい。しかし、江戸にいる政宗夫人愛姫に手製の下げ袋を贈って感激させるなど、姑としての細やかな気配りを見せている。
 再会した母子の間で交わされた贈答歌が、政宗の歌集に残されている。

○年月久しうへだたりける
         母にあいて
あいあいて心のほどやたらちねの
 ゆくすえひさし千歳ふるとも

○母の返し
双葉より植えし小松のこだかくも
 枝をかさねていく千代のやど

 義姫の生涯は、文字どおり伊達家と最上家の安泰を願って奔走した一生であった。この歌をみると伊達政宗の母としての誇りを終生持ちつづけた大したお母さんではなかったか、と思う。
■執筆:佐藤憲一/仙台市教育委員会文化財課長(1999年執筆当時)・仙台市博物館館長(2008年) 「歴史館だより�癸供廚茲�

伊達政宗の母義姫(保春院)の最晩年(後編)

贈答歌
 二十八年振りに仙台で再会した二人の心中はどのようなものであったか。再会して間もない頃と推測される二人の贈答歌が、政宗自筆の歌集「貞山様御筆御歌」(仙台市博物館蔵)に記されている(写真1)。

(写真1)『貞山様御筆御歌』伊達政宗筆 仙台市博物館蔵
※写真は「歴史館だより��32」参照。

  年月久しうへだゝりける母にあいて
あひあひて心のほどやたらちねの
  ゆくすゑひさし千とせふるとも
  母の返し
二ばよりうへしこまつの木だかくも
  えだをかさねていく千世ノやど

 政宗の和歌の心は、二十八年振りにお母さんにお会いして心の内を述べるならば、お母さんにはいつまでも元気で長生きしてほしいと願うだけだ、というもの。一方、母の歌は、幼い頃から大切に育ててきた松の木が今や大きくなって幾重にも枝を張り立派な松になった。その下に行ってこれからお世話になるのだ、という喜びだろう。言うまでもなく松は政宗である。
 実はこの母の返歌で思い出される和歌がある。政宗の父輝宗が書いた和歌色紙(写真2)である。

(写真2)伊達輝宗筆「和歌色紙」 仙台市博物館蔵
※写真は「歴史館だより��32」参照。

二葉よりたのもしきかなかすが山
こだかき松のたねとおもへば

 この色紙は政宗が、父の形見として大事にしていた輝宗自筆の書状(政宗宛)と一緒に保管していたもの。後に二つとも息子の伊達忠宗(政宗の次男、仙台藩二代藩主)に譲っている。
 和歌は『拾遺和歌集』に収められた大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ/九二一〜九一)の和歌である。その心は、栄華を誇る藤原氏の御子の誕生を祝い、藤原氏の若君だと思うと、幼くとも頼もしく見える、というもの。輝宗がこの色紙を、いつ、どのようなときに書いたかは未詳だが、わが子政宗の誕生を祝い、その成長と将来への期待を込めて書いたもの、とも推測される。伊達氏も本姓は藤原である。
母の返歌はこの能宣の和歌を踏まえたものではなかったか。輝宗は当然この色紙を義姫にも見せていたと思われる。能宣の和歌は輝宗、義姫、政宗親子にとって忘れることのできない思い出の和歌だったに違いない。義姫の返歌に、政宗の母としての誇りが感じられるのはそのためだろう。

政宗との別れ
 仙台での再会を喜び合った二人だが、年が明けて元和九年(一六二三)四月十七日政宗は仙台を発って江戸へ上る。将軍徳川秀忠、家光親子に供奉して上洛するためであった。仙台を発つ一カ月前、母に宛てたと思われる手紙が「伊達家文書」に残されている(写真3)。従来注目されることのなかった手紙なので、全文と訳文を掲げる。

(写真3)伊達政宗自筆消息 こし□宛 
(元和9年カ)3月12日 36.4�僉�52.5��
仙台市博物館蔵
※写真は「歴史館だより��32」参照。

御ほ(思)しめし(召)よせ(寄)られ、御文こと(殊)にちう(重)のうち(内)、うちお(内置)かす詠入まいらせ候。まことに、ちかちか(近々)の、のほ(上)りにて御さ(坐)候まゝ、御いとまこい(暇乞)かれこれ』しかう(伺候)申候て、申上たく(度)候へとも、いかにもすき(隙)御さ(坐)なく候まゝ、わたくしなから、御ゆる(許)しなされへく候。かしく。

ことしハゑと(江戸)にとし(年)をこし(越)申候ハんまゝ、きたる春正月のうちにハ、御いとま(暇)したい(次第)に、まか(罷)りくた(下)り候へく候。御とし(歳)のうへ(上)なれは、一しほ(人)御のこ(残)りおほ(多)きとの御ことハり(理)、かたしけなく、』時ならぬ袖に、しくれ(時雨)をもよをし申事にて候。くハしく、こせう(小少将ヵ)かたより申上まいらせ候。めて、かしく。
 (切封ウワ書) 
「三月十二日 (墨引き)
 (元和九年ヵ)   
 こし□殿        むつのかミ (伊達政宗) 
     御申                  」

〔訳〕
心のこもったお手紙をいただき、また重の内、早速拝見いたしました。本当に近々江戸へ上らなければなりませんので、お暇乞いに伺候して色々申し上げたいのですが、どうにも隙がなく、勝手ではございますが御ゆるしください。かしく。

今年は江戸で年を越すことになりそうです。来年の春正月には、(将軍から)お暇をいただき次第仙台に帰るつもりです。年を取ってしま
ったので、(そなたに直接会って挨拶ができないのは)一入残念であるとのお言葉、身にしみて有難く、思わず涙を流してしまいました。
詳しくは、小少将方より申し上げます。めでたく、かしく。

 宛名の「こし□」は母義姫の侍女か。文中の「こせう」は母の侍女小少将と思われ る。「こし□」は、あるいは政宗と母の取次役か。文中に「すき御さなく候まゝ」とあるのは、将軍秀忠・家光親子の春中の上洛が予定されており、上洛の日取りが決まり次第、政宗は直ぐに江戸に上り上洛に供奉するつもりであった。このため二月頃から待機中で、母のもとへ伺候する余裕がなかったものと思われる。母からは、年寄でもありこれが最後かもしれないので、江戸へ発つ前に是非一度お会いしたいとの意向が伝えられたのだろう。政宗も同じ気持であった。「かたじけなく、時ならぬ袖に時雨を催し申す事に候」と感涙している。
 政宗は四月二十五日に江戸に着き、将軍秀忠・家光親子に供奉して上洛。江戸出立は五月十六日、京都着は六月八日であった。政宗は供奉する大名達の先駆を命ぜられ、一番に上洛を果たす。息子忠宗も同行した。この手紙が仙台での母との最後の別れとなった。
 母の死は七月十六日。享年七十六。母の訃報を政宗は京都で受け取った。追悼の和歌二首が残されている(「貞山公治家記録」)。

立さりて浮世の闇を遁れなば
  心の月や猶も曇らじ
鳴虫の声を争ふ悲みに
  涙の露ぞ袖にひまなき

愛姫や孫たちとの交流
 仙台での約十カ月間の短いくらしの中で、義姫は江戸にいる政宗夫人愛姫(一五六八〜一六五三)や孫たちとも交流している。義姫から手作りの提げ袋を贈られた愛姫は「お贈りいただいたお母様お手製の提げ袋、その美しさに見惚れています。このように立派にお作りになられるのですから、さぞや御目も達者であられることと、提げ袋を眺めながら喜んでおります。このように見事で美しい提げ袋は見たことがありません。感激しております」(意訳)と手紙で述べている。姑として嫁に対する細やかな気遣いが窺がえて微笑ましい。
 愛姫が豊臣秀吉の人質として政宗、義姫と別れ米沢から上京するのは天正十八年(一五九○)、二十三歳のとき。その後徳川家康の人質として江戸に移り、以後死ぬまで仙台に来ることはなかった。従って、二人は米沢で別れてから一度も会うことはなかったのである。
 孫たちとの交流も、元和九年六月五日上洛途上の政宗に宛てた手紙では、江戸にいる忠宗夫人振姫(徳川秀忠の養女、実は池田輝政の娘)の出産が間近と聞き、お付きの者たちと相談して安産祈願の御守を送り届けたことを知らせている。また、千勝丸(政宗の十男、後の宗勝。当時、三歳)が賢く、立派に育ち、千勝丸が住む屋敷の造作も順調に進んでいるので安心するように、と述べている。


(写真4)義姫消息(侍女小宰相代筆) 牟宇姫宛 
(元和9年)7月6日 34.2�僉�47.2��
角田郷土資料館

 同じく七月六日牟宇姫(むう/政宗の次女。当時、十六歳)に宛てた手紙(写真4)では、病気の見舞いに対するお礼を述べている。牟宇姫は伊達家の重臣、角田(宮城県角田市)の石川家に嫁いだ。夫は石川宗敬である。この時、義姫は口の中を傷め臥せっていたようである。心配した牟宇姫は祖母が病気と聞き見舞状を出したのだろう。可愛い孫娘の気遣いに「薬など用いたら、そろそろ良くなりましたのでご安心ください」と述べている。しかし、心配した牟宇姫は夫の宗敬に直接義姫を見舞わせている。七月八日付の牟宇姫宛の手紙で「わざわざお見舞いいただき恐縮しております、くれぐれも民部(宗敬)殿によろしくお伝えください」と感謝している。
 義姫の手紙はいずれも侍女小宰相による代筆である。石川家には牟宇姫に宛てた義姫の手紙が九通あったと記録されているが、今はこの二通しか残っていない。義姫が黄泉へと旅立つのは、この八日後である。

保春院の諡号について


(写真5)義姫(保春院)の墓  仙台市北山・覚範寺

 義姫の遺骸は仙台北山にある伊達輝宗の菩提寺、臨済宗覚範寺で荼毘に付され、その地に埋葬された(写真5)。導師を務めたのは覚範寺の清嶽宗拙(せいがくそうせつ/一五六四〜一六四四)である。清嶽は伊庭惣八郎といい政宗の家臣であったが、同輩を斬って逃亡。その後政宗の師である虎哉宗乙(こさいそういつ/一五三〇〜一六一一)の法嗣となり、虎哉が開山となった覚範寺の第三世となった。政宗の信頼大きく、後に政宗の母の菩提寺保春院の開山となり、また政宗の菩提寺瑞鳳寺の開山も務めた。政宗の葬儀の導師も務めている。
 義姫の法名、保春院殿花窓久栄尼大姉を授けたのも清嶽である。「貞山公治家記録」(元和九年七月十六日の条)には次のように記されている。

去年九月以後今年ニ至リ、月日不知、落飾シ玉ヒ、覚範寺清岳和尚御院号法名ヲ奉ラレ、保春院殿花窓久栄尼大姉と号セラル、且ツ御寿像ノ
賛アリ、其詞ニ云ク、脱却羅綾錦繍紗、法身堅固仏袈裟、念珠百八秘持呪、永保春風却外花

 これによると、義姫が落飾し保春院を号するのは仙台に帰ってから死までの間となる。しかし、義姫が生前に自ら「保春院」を号したことも、又、周りからそう呼ばれたことも、今のところ同時代の一次資料によって確認できない。先に紹介した元和九年六月五日上洛途上の政宗に宛てた手紙でも、「仙東(仙台東)より」となっており、「東」と称していたこと分かる。周りからは、「お東様」と呼ばれていたのだろう。
 また、「花窓久栄」の法名については、既に虎哉和尚から授かっていたことが、高野山にある自身の逆修供養塔(宝篋印塔)によって明らかである。この供養塔は天正十三年十月八日伊達輝宗の死去にともない、義姫が輝宗の供養塔と一緒に建てたものである(写真6)。輝宗の供養塔には「奥州伊達 性山受心居士 天正十三年十月八日」、義姫の供養塔には「伊達女中 花窓久栄 逆修 天正十三年十月八日」と刻まれている。輝宗の戒名「性山受心」は輝宗の葬儀の導師も務めた資福寺の虎哉和尚が授けたものである。義姫の戒名「花窓久栄」も虎哉和尚から授かったものだろう。


(写真6)伊達輝宗供養塔(左)と義姫逆修供養塔(右) 
高野山(写真提供/仙台市・保春院)

 これらのことから、「保春院」の院号は清嶽和尚が葬儀の際授けた諡号と考えられる。
 更に、この「貞山公治家記録」の記述で注目されるのは、義姫の寿像の存在だろう。寿像には清嶽和尚の賛があったことが分かる。生前の義姫の容姿を知る貴重な資料であるが、覚範寺には今この寿像は伝わっていない。

おわりに
 義姫の最晩年、仙台での生活は約十カ月。その内政宗との水入らずのくらしは五カ月に満たない。短期間ではあったが、江戸の愛姫や孫たちとの交流は幸せな時間でもあったのではないか。義姫は羽州探題を務めた由緒ある最上家に生まれ、伊達家に嫁いで政宗を産んだ。「奥羽の鬼姫」などと呼ばれるが、それは誤解であり、実際は政宗の母としての誇りを持ち、生涯伊達家と最上家の安泰を願って奔走し、戦国の世をたくましく生きた女性であった。四百年の時を経て、改めてその生涯が見直されて然るべきと思う。

〔注〕
1 『大日本古文書 伊達家文書』(以下、『伊達家文書』と略す)十 三二六八号。輝宗自筆の書状と和歌は、政宗自筆の包紙に、さらに
忠宗自筆の包紙に二重に包まれている。政宗から忠宗へ引き継がれたことを示している。なお、書状と和歌は『大日本史料』第十一編之二十
一 天正十三年十月八日の条にも写真入りで掲載されている。
2 『仙台市史 伊達政宗文書』(以下、『伊達政宗文書』と略す)三七一八号。
3 『伊達政宗文書』二三五八号(元和九年二月六日 佐竹右京大夫義宣宛書状)ほか、同二三五九号、二三七一号、二三七八号、二三八
一号、二三八三号等に上洛に向けて仙台で待機している様子が窺える。
4 『伊達家文書』八五三号。
5 『伊達家文書』八四六号。
6 角田市文化財調査報告書第55集『角田石川家に嫁いだ伊達政宗の次女 牟宇姫への手紙 三』角田市郷土資料館 令和四年三月
7 同右
8 「受心」の戒名は、輝宗が隠居した後の文書に見える。例えば伊達輝宗筆「正月仕置之事(天正十二年極月 政宗宛。『伊達家文書』三
一九号)。
9 神坂次郎「奥羽の鬼姫―伊達政宗の母」『戦国を駆ける』所収 中央公論新社

■執筆:佐藤憲一(伊達政宗研究家/元仙台市博物館館長)「歴史館だより��32」より

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伊達政宗の母義姫(保春院)の最晩年(前編)

はじめに
 伊達政宗(一五六七〜一六三六)の母義姫(一五四八〜一六二三)の最晩年はどのようなものであったか。元和八年(一六二二)九月山形から仙台の政宗のもとに帰り、翌年七月亡くなるまでの約一年間の暮らしぶりを、新しい資料などを紹介しながら探ってみたい。
 ところで義姫の名前については、手紙や日記など当時の一次資料で確認できない。伊達家の居城米沢城の東館[注1]に住んでいたためであろうか、「お東」「お東様」と呼ばれていたようである。元禄十六年(一七〇三)に編纂された伊達家の正史「貞山公治家記録」(仙台市博物館蔵)には政宗の母として義姫の名が出てくる。ここでは「貞山公治家記録」(以下、「治家記録」と略す)に従って義姫として話を進めていきたい。なお、保春院は諡(おくりな)である。

義姫の願い
 文禄三年(一五九四)十一月四日夜政宗の居城岩出山(宮城県大崎市)から山形へ出奔した義姫が二十八年振りに仙台の政宗のもとに帰る契機となったのは、元和八年八月の実家最上家の改易だった。内紛により山形藩五十七万石が幕府によって城地没収とされたのである。三代藩主最上家信(後の義俊。当時十七歳)の時である。家信は義姫の兄義光(山形藩初代藩主。一五四六〜一六一四)の孫にあたる。
 改易によって行き場を失った義姫を政宗は幕府の許可を得て仙台に引き取る。それは母義姫の希望でもあった。元和八年九月六日義姫が政宗の家臣片倉小十郎重綱と山岡志摩守重長に宛てた手紙[注2]では、「せひ(是非)せひかち(徒歩)はたし(裸足)にても、政宗のくに(国)のはし(端)へころひ入候はんと、心かけ(懸)申候(中略)とし(年)のうへ(上)と申三年ほとわつら(患)ひ候て、たちゐ(立居)さへふちゆう(不自由)にて候(中略)内々よしあき(義光)は(果)て候て此かたハ、一入さんさん(散々)のてい(態)にてお(居)り申候」と苦衷を訴えている。慶長十九年(一六一四)一月兄義光が亡くなった後は苦しい生活が続き、年の上とは言いながら三年前からは病のため体調を崩し、立ち居さえもままならない状況であったことが分かる。徒歩、裸足ででも政宗の国の端に転び入りたい、という言葉に切実な思いがこもる。
 義姫が政宗のもとに帰りたいと願ったのは、実は最上家改易以前からである。前年の七月二十日と推定される仙台の資福寺(仙台市青葉区北山にある伊達家の菩提寺)に宛てた手紙[注3]でも、政宗の国へ参り、そこで死にたいと述べている。従来あまり注目されることがなかった手紙なので、全文を掲載する。


保春院(伊達輝宗夫人・最上氏)消息 資福寺宛 (元和七年ヵ)文月20日
仙台市博物館所蔵
※写真は「歴史館だより��31」参照。

なをなを(猶々)、此くに(国)も、あとあと(後々)の人之心も(持)ちハ、ゆめゆめ御入なふ候間、何事ニつけ、たの(頼)ミなふ候、さりとてハさりとてハと、たの(頼)ミまいらせ候、以上、
 
わさ(態)と使して申まいらせ候、うけたまハ(承)り候へハ、ちかちか(近々)ニまさむね(政宗)江戸へ御のほ(上)りのよしにて候、これニより、かねてよりたの(頼)ミ入申候ことく、ハれら(我等)事とし(年)もふかふか(深々)よ(寄)り申候ニ、三ねん(年)にむし(虫)をハつら(患)い申候、此頃ハ一しほ(入)つよ(強)ふ候間、何とも何ともあや(危)ふく思ひ申候間、さりとてハさりとてハ、そこもと御くに(国)の内へまいり、とにもかくニも、は(果)て申度候間、いわミとの(石見殿)ニ、ハれら(我等)心中御物かた(語)り候て、何とそ何とそとりな(取成)し、御そこい(底意)をうけられ候やうニ、おほ(仰)せ候て』可給候、ハけハけ(訳々)の事ハ、ふミ(文)にハ申かね候間、くハ(詳)しく使ニ申候間、よくよくき(聞)かせられ、御ことハりたの(頼)ミ入候、こゝもとめいわく(迷惑)、よろつ(万)ニたいくつ(退屈)申事もさしおき、たゝたゝけふ(今日)あす(明日)のやうにて候間、その事までニ候、むし(虫)ゆへ、ふ(臥)せり候て、かきミた(書乱)し候、よ(読)め申ましく候、めてたくめてたく、かしく、

(元和七年ヵ)文月廿日

               もかミ(最上)より

  しふく(資福)寺へ   こさいしやう(小宰相)
          人々
 

〔訳〕
わざと使者をして申し上げます。お聞きしたところ、近々政宗が江戸へお上りとのこと、これを機に兼ねてお頼み申しておりましたが、私も大分年寄りとなり、三年程虫を患って(虫気=癇)おります。此の頃は一段と酷くなり、命さへ危うく感じております。是非とも是非とも、そちらの国の内へ参り、とにもかくにも果てたいと願っておりますので、石見殿に私の心中をお伝えいただき、何卒何卒(政宗に)私の心の奥をご理解いただけるよう取り成しお願い申し上げます。詳しいことは手紙には書けませんので使者に伝えてあります。よくお聞きになられお取次ぎをお頼みします。こちらでの難儀や退屈はさて置き、唯々今日か明日かとばかり毎日を送っております。虫気で臥せっているため、乱筆・乱文でお読みになりにくいかと存じます。めでたく、かしく。

猶々、この国(山形藩)も後々の人の気持ちは到底分かりません。何事につけ頼りなく感じております。(そのような訳で)どうしても、お頼み申し上げる次第です。以上。


 差出人の「小宰相」は義姫の侍女。高齢のため侍女に代筆させたのだろう。乱筆・乱文を詫びているが、どうして、教養を感じさせる見事な筆跡の仮名消息である。「石見殿」は政宗の側近茂庭石見守綱元である。文中の『伊達家文書』では、この手紙を資福寺の虎哉和尚(一五三〇〜一六一一)に宛てたものとしている。しかし、虎哉が資福寺の住職を務めるのは天正十三年(一五八五)十二月まで[注4]であり、これは当たらない。前述の義姫が片倉・山岡に宛てた手紙と内容が重複することから、元和七年のものと推定される。ちなみにこの年、政宗は八月二十日に仙台を発ち同二十八日に江戸に着いており(「治家記録」)、手紙の内容とも一致する。元和七年とすれば資福寺の住職は虎哉の法嗣、祝峰和尚か。
 「かねてより頼み入り申し候ごとく」とあるように、これ以前から義姫は政宗のもとへ帰りたいとの希望を政宗側に伝えていたことが分る。それは政宗本人ではなく、ここに見られるように、伊達家ゆかりの寺である資福寺や政宗側近の茂庭綱元を通して行われていたと考えられる。綱元は元和四年夏、政宗の五男宗綱の菩提を弔うため高野山に入り、入道して了庵高吽と号していた。同六年六月頃仙台に戻り、引き続き側近として政宗を補佐した。当時は「茂庭石見入道」[注5]と呼ばれていたようである。
 綱元は天正十八年四月の「母による政宗毒殺未遂事件」と「政宗による弟小次郎殺害事件」の直後に、政宗から内密の手紙を受け取り、事件の詳しい経緯を知らされた人物である。これについては既に『歴史館だより』30号で紹介したところである。綱元は政宗から二つの「事件」が、実際は政宗と母による狂言であることを知らされていた可能性がある。このため山形へ出奔した義姫との連絡は綱元に任されていたのだろう。
 袖追書(追伸)にある「山形藩も後々の人の気持ちは到底分かりません。何事につけ頼りなく感じております」とは、兄義光亡き後の最上家内部の対立、内紛への不安だろう。義光の跡を継いだ二代藩主最上家親は元和三年六月、三十六歳で急死(変死)。三代目となった家信(義俊)は十三歳だった。

仙台へ帰る
 義姫がお付きの者たちと山形を発ったのは九月十一日[注6]である。仙台からは義姫一行を迎えるため大勢の人数が派遣され、道中で使用する食糧や物資も送られた。当初は十日に発つ予定であったが、山形城請取のため幕府から派遣された上使本多正純と永井直勝に挨拶するため一日遅れたのである[注7]。
 一行は笹谷峠を越え砂金(宮城県川崎町)を通り、秋保(仙台市太白区)、愛子(仙台市青葉区)を経て根白石(ねのしろいし/仙台市泉区)の御仮屋(満興寺境内)に入った。この御仮屋は政宗が近くを流れる七北田川へ川狩(鮎漁)に訪れたときの宿泊所(別邸)であった。義姫は約一カ月ここに滞在した後、十月初め頃に仙台城下の屋敷へ移る。ただ、その場所は不明である。想定されるのは仙台城の北、後の二の丸の辺りか。当時この場所には政宗の子どもたちの屋敷があった。元和六年に江戸から移った長女五郎八(いろは)姫の屋敷(西屋敷)もあった。いずれ城の近辺であったろう。
 義姫と政宗が二十八年振りに再会するのは、政宗が江戸から仙台に帰る十月二十四日以降である。

[注]
1 米沢城内には「西館」も在り、家督相続以前の政宗は「伊達西殿」(『大日本古文書伊達家文書』三一七号。以下『伊達家文書』と略す)と呼ばれていた。
2 「片倉代々記」(『白石市史4 史料編(上)』所収。原本は仙台市博物館蔵)。なお「治家記録」にも採録されている。
3 『伊達家文書』三二六九号。   
4 虎哉和尚「年譜」「行状」(『訓注 虎哉和尚語録』所収。覚範寺 、平成二十二年刊)による。
5 『仙台市史 伊達政宗文書』二〇三四号、二二三四号など。
6 「梅津政景日記」(『大日本史料 十一編之二十一』)によると九月十一日「政宗様之御袋、今七つ時山形御立なされ候」とある。
7 (元和八年)九月十日付茂庭了庵宛小宰相消息(登米市歴史博物館所蔵「佐沼亘理家文書」)による。

■執筆:佐藤憲一(伊達政宗研究家/元仙台市博物館館長)「歴史館だより��31」より

伊達政宗の母義姫(保春院)の最晩年(後編)>>こちら