最上義光歴史館

去年から義光関連の本が続々と出版されていますが、
このたびなななんと!!!
またしても義光の本が出版されました!!

かっこいい表紙ですね(^^)

いろんな人に義光のことが知ってもらえて嬉しいかぎりです。
これからもどんどん盛り上がって欲しいですね(^^)
 いつも喫茶室を、ご利用いただきありがとうございます。
12月1日〜2月29日の間、お休みさせていただきます。
 なお、3月1日より営業いたしますので、ご来店お待ちしております。
「鮎貝謀叛事件」の再考―大沢氏の論考に寄せて

去年、歴史博物館青葉城資料展示館の大沢慶尋氏は「歴史館だより」22号および当館のホームページで、天正十五年十月のいわゆる「鮎貝謀叛事件」について再検証を行った上、御見解を示した(注1)。

大澤氏は、伊達氏の正史『貞山公治家記録』における「鮎貝謀叛事件」の記事を同時代の史料を以て検討したところ、次の見解を示した。すなわち、
� ∪�宗は義光が関与するとの認識を持っていることが確認できないこと
�◆◆峙糎�関与」は『貞山公治家記録』編さん者の見解であり、義光が関与しない可能性が高いこと
��、事件自体は政宗が鮎貝氏を完全家臣化したいと推測されること

結論を先に言っておけば、筆者は大沢氏の見解にほぼ賛成したい。だが、�△砲弔い討呂發�少し考える余地があると思われる。したがって、本稿は�△鮹羶瓦法�大沢氏の見解を踏まえて、自分なりの見解を補足として述べさせていただきたい。

まず、�△亡悗靴涜臑�氏は義光の関与疑惑を、あくまでも『貞山公治家記録』の編さん者の発案と指摘している。しかし、もう一度『貞山公治家記録』の関連部分を見てみると、やや気になるところがある。実際、「鮎貝謀叛事件」が勃発したのは天正十五年十月だが、それについて『記録』では、その前月の九月は二十六日が最後として、その後に続く十月の記事の前に「此後日記不伝」と書かれている。(注2)

「日記」とは『伊達日記』(『伊達家日記』とも)で、それは天正十五年から天正十八年四月まで伊達政宗の行動とその周辺を誰かがの手によって簡単に記録される公的記録で、のちの『貞山公治家記録』の編纂における重要な参考資料の一つであり、特に天正期の政宗の行動を解明する根本史料といえる(注3)。さて、『日記』における天正十五年十月から十二月までの記事は書かれていない理由は不明である。肝心な「鮎貝謀叛事件」はちょうど同年十月の出来事だから、やや残念である。

『日記』が伝われないというならば、『記録』は『日記』以外の史料に基づいて「鮎貝謀叛事件」を記録することは間違いない。それでは、『記録』の編さん者は何を依拠にして「鮎貝謀叛事件」を書き綴ったのだろうか。そこで、大沢氏は『記録』以外の史料を博捜して、その真相を突き止めたところ、「鮎貝謀叛事件」を語る史料は四点あると指摘している。すなわち、

A、天正十五年十月十四日、伊達五郎(成実)宛、伊達政宗書状(『仙台市史 資料編』��(以下「仙」)、一四三)
B、天正十五年十月十四日、桜田兵衛資親宛、伊達政宗書状(仙一四一)
C、天正十五年十月十四日、後藤孫兵衛信康宛、伊達政宗書状写(仙一四四)
D、天正十五年十一月四日、宮沢元実宛、伊達政宗書状写(仙一五〇)

実は、その以外に同日の史料はもう一点ある。それは湯目又次郎景康宛伊達政宗書状写(『政宗君治家記録引証記』所収文書)である。同史料は『記録』にも引用され、文意は上記の4点とはほぼ同じく、義光の関与が明記されていないものである。ここでは省略させていただく。

四点の書状の中、B以外は『記録』にちゃんと引用されているから、編さん当時は実物の確認が行われたと見てよく、「鮎貝謀叛事件」が本当にあったことも疑う余地がない。

しかし問題は、もし大沢氏が指摘した通り、上記の史料を見る限りでは、いずれも「義光関与」を明記することが見られないとすれば、『記録』の編さん者は何をもって、「最上義光ノ勧メニ依テ叛逆ノ企アリ」との認識をもつようになったのだろうか。そこで、注目すべきは『成実記』である。

『成実記』(注3)は周知の通り、政宗の重臣である伊達成実が書いた政宗一代記で、のちに内容を整理して改めて『政宗記』(全十二巻)(注4)を書いたのである。また、『成実記』は覚書の形で、小見出しが設けられていないが、それに対して後に成立した『政宗記』各巻には小見出しを設けられている。実際、『記録』での「鮎貝謀叛事件」の記事は、『政宗記』巻三の「最上大崎使者之事」と『成実記』の相当部分とは極めて酷似するのである。

読者の皆さんに理解しやすくするために、原文を書き下し文に改め、文体を片仮名から平仮名に変えて掲載しよう。

「十四日庚午、鮎貝安房宗重入道日傾斎より、嫡子鮎貝藤太郎宗信連々某と不和の上、最上殿義光の勧めに依て叛逆の企あり、某、頻に異見を加ふといえども承引せず、今度既に城に拠て兵を起さんと仰出さる。時に老臣等相議して、最上より加勢もあるべし、殊には藤太郎外にも最上に内通の者あるも計りがたし、兎角御出馬の儀は様子を御覧合せられ、しかるべしと言上す。各相議する所、其理ありといえども、左様に遠慮せば向後米沢を出玉ふ事は成間敷と思召さる。此節鮎貝に於て是非を極らるべしと仰られ、伊達碩斎・富塚近江・五十嵐蘆舟斎を御城の留守居とし、即時に鮎貝城に御出馬あり、御人数急に町曲輪に押詰め、五十余人討捕り、所々に火を放て攻戦ふ…藤太郎最上へ早馬を以て頻に加勢を乞けれども、一騎も来らず、藤太郎籠城叶わずして、此夜潜に城を出て逃奔す、鮎貝城に於て逆徒数百人を撃殺す」

そして、『記録』のかかる部分は既に大沢氏の論考で現代語訳して掲載されたため、便宜的に大沢氏の訳文を引用させていただきたい。

『鮎貝宗重入道日傾斎より「嫡子宗信とずっとずっと私は不和の上、最上義光の勧めで(伊達政宗に対する)謀反の企てがあった。私はしきりに意見したが聞き入れなかった。このたびすでに鮎貝城に拠って兵を起こそうとした。私(宗重)は高玉(白鷹町)へ退出した。すみやかに宗信を退治してほしい。」と言上してきた。(政宗公は)時刻を移さずすぐに誅伐すると仰せ出だされた。その時、老臣らは協議して「最上より加勢があるだろう。特に宗信の他にも(伊達家中に)内通の者があるかもしれない。」と政宗に言上した。』

事件の経過は大沢氏の論考では既に詳しく整理されたため、ここでは略するが、要するに、鮎貝父子の不和→義光の扇動によって宗信挙兵→政宗による宗信討伐という流れである。義光の関与疑惑を絞ってみると、『記録』では明確に「義光の勧めによって」とあり、そして伊達家家臣たちは、最上からの加勢と家中にほかの内通者がいるかもしれない、という理由で政宗の出馬に懸念したという。結局、政宗の快進撃によって、鮎貝城が落城させられ、宗信は義光に援軍を要請したが、義光からの援軍は一切来なく、その後、籠城もできない宗信は城を後にして逃亡したという。

一方、『政宗記』と『成実記』では、「鮎貝謀叛事件」をその翌十六年大崎の乱の関連記事として綴られているが、両者は「鮎貝謀叛事件」を天正十五年三月十三日の出来事とする。それは上記の史料から考慮すると、誤りといえる。ただ、鮎貝宗信の謀叛経過について『政宗記』、『成実記』を見てみると、『記録』とはほぼ相似するとはいえ、微妙なズレも見受けられる。

まず、『政宗記』の部分では、
「(義光は)米沢と最上の境に、鮎貝藤太郎と云し者居たりけるを、義顕(光)語らひ、天正十六年三月十三日に右の藤太郎伊達へ向て手切をなす。政宗時刻を移さず退治せんと宣ふ。家老の面々「義顕(光)手の悪き大将なれば、隣国へ如何なる武略計略無嫌疑、一左右を聞玉ひしかるべし」と申す。「各申処は理りなれども、打延けること如何」の由にて、已に馬を出さるべきに相済けり。然る処に鮎貝、最上より加勢を頻りに望と云へども、如何ありけるやらん一騎一人も助け来らず、剰へ政宗出馬のこと藤太郎聞及ぶ、則最上へ引除けり。是に付て米沢中弥静謐にて候事」

そして『成実記』では、
「此砌米沢ヘノ事切ヲ被思召、最上境ニ鮎貝藤太郎ト申者被仰合、天正十五年三月十三日、鮎貝手切仕候。政宗公被聞召、時刻ヲ移候ハバ成間敷候間、即御退治可被成由被仰出候。家老衆被申上候ハ、最上ヨリ加勢可有之候。其上又モ最上ヘ申寄候衆可在之条、様子御覧被合、御出馬可然由申サレ候ヘドモ、左様ニ候ハバ、米沢ヲ御出候事成マジク候間、是非鮎貝ヲ御退治可被成由御意候而御出馬候處、最上ヨリ一騎一人モ御助無之、鮎貝最上ヘ加勢乞候ヘドモ不被相助上、政宗公御出馬候被承、則最上ヘ引除被申候間、長井無子細候。」

『政宗記』、『成実記』と『記録』の内容が酷似するが、共通するのは以下三点である。
(イ)、義光の扇動によって鮎貝宗信が挙兵すること
(ロ)、宗信は義光に援軍を要請したが、来ないこと
(ハ)、負けた後、宗信は最上へ逃亡すること

むろん、細かい相違も見受けられるものの、『記録』は前掲した幾つの書状のほか、『成実記』を底本として、『日記』にない「鮎貝謀叛事件」を記録したことはほぼ間違いないだろうが、ここで注意すべき点が二点あげられる。

まず一つ目は、三者から見た伊達家家臣たちの意見の相違である。『記録』と『成実記』はほぼ同じで、義光については特に言及しないが、『政宗記』は『成実記』を敷衍した上、さらに「…家老の面々「義顕(光)手の悪き大将なれば、隣国へ如何なる武略計略無嫌疑、一左右を聞玉ひしかるべし」と申す(義光は手が悪い大将で、隣国に対してどんな手段を問わないものは明白だから、お知らせをお聞きになってよいでしょう)」となる。

実際、伊達成実の義光評は芳しくなく、『成実記』では、「最上義顕(光)公は、政宗公の伯父ですが、輝宗公御代の時も度々戦争があった。しかし近年は、別して(政宗とは)仲良くなった。ところが、義光公は、家内の家臣、兄弟まで両人に切腹させた手ごわい人だから、油断はできない」と言いつつ、さらに、「諸大名と手を組んで、伊達家に戦争を起こし、長井(最上領と接する伊達領)を奪い取るつもりである」とすら摘発している。

それのみならず、義光に対する悪意や懸念のような記事は同書では随所見られる。たしかに、最上と伊達の関係は不安定の状態が多いから、『成実記』などに見られる義光評は、このような両家の関係を意識する成実の個人的感想か、あるいは成実が代表する一部の伊達家家臣の義光に対する総意的な見方かもしれないが、上記の義光が伊達領を狙う告訴はやや誇張とはいえ、成実らが義光に対する不信感と警戒心が如実に吐露している。

そして二点目、鍵となる「鮎貝謀叛事件」の義光関与疑惑についてである。『政宗記』、『成実記』と『記録』はいずれもそういうふうに記されているが、大沢氏の列挙した史料では、義光の関与がまったく言及されていない。そして『政宗記』、『成実記』と『記録』は同じく宗信が最上へ逃亡とするが、前記の書状Dで政宗は逃亡した宗信が行方不明となったという。その後、『記録』編さん者が何らやの情報をもって宗信が最上へ逃亡と確認したか、あるいは『政宗記』、『成実記』を依拠にしてそのまま引用してしまったかと思われる(注6)。

そこで、最近発見された史料から重要な情報が示された。(注7)

鮎貝、大ゟ引除候間、則、彼城江打入候様躰、内々自是可相理候処、脚力越候間、顕之候、即時ニ隙明候事、於各々も可心安事察入候、扨々、其境□弥々静謐之由、肝要候、委曲者、自米沢可申遣候、謹言
    十ノ十五日      政宗(花押)
     小国蔵人殿
(〈天正十五年〉十月十五日付小国盛俊宛政宗書状)
 
これは、去年『市史せんだい』が紹介された政宗史料の一つである。ちなみに、宛先の小国蔵人盛俊は時の中山城主(現・上山市中山)で、中山城は鮎貝城と同じく伊達氏が最上氏に備える境目の城である。

さて、この史料の日付は「十ノ十五日」とあり、そして鮎貝がみられるから、「鮎貝謀叛事件」当時の書状に違いない。傍線部分の文意はやや難解ではあるが、「鮎貝(宗信)は「大」から逃げたから」、政宗は「すぐ彼の居城(鮎貝城)に攻め入れた」と言った。問題は、「鮎貝、大ゟ引除候」の「大」とは何か。宗信の通称は藤太郎だから、「鮎貝大(=太郎)ゟ引除候」と読めば、「宗信は逃げた」と理解できる(大沢氏のご教示による(注8))。

一方、もし「大」はどこかの地名であれば、宗信は「大」から逃げたということになる。ただ、「大」をどう取ればよいかは、今後の課題とさせていただく。いずれにせよ、史料を読むと、十月十五日当時、宗信がすでに逃げたことが確かであり、そして当時、彼が最上方面に逃げたかどうかは、政宗にはわからないのである。

つまり、事件から二週間経った後、書状Dで「其夜鮎貝事不知行方相走候」(十月十四日の夜、鮎貝(宗信)は逃げて行方不明です)と見られたように、この史料から読むと、騒乱を未然に鎮圧した伊達氏は、宗信の行方を未だ把握しえていなかったことが明らかである。

また、先ほどの10月15日付の書状に政宗はその続き「内々(あなたに鮎貝のことを)知らせるつもりだが、(あなたから)飛脚が来たので、(鮎貝のこと)を打ち明けよう。既に落ち着いたから、皆々も安心するだろう(内々自是可相理候処、脚力越候間、顕之候、即時ニ隙明候事、於各々も可心安事察入候)」と盛俊に告げた。鮎貝氏の騒動は伊達氏の境目を動揺させた様子がうかがえよう。

とはいえ、同時期の義光の動向を見ると、同年10月末には庄内の大宝寺氏を滅ぼした直後であり、その前に大宝寺氏との対立をめぐって、義光と政宗は関係悪化となりつつあったが、その間、双方は言葉の応酬にとどまり、さらに悪化する兆候が見られない。また、義光からみれば、庄内の始末は完全に落ち着いておらず、さらに同年末に、自ら庄内へ向かったため、わざと伊達氏を挑発する理由はないと考えられる。

いずれにせよ、現在のところ、確実に行動した形跡も確認できないため、そこに書かれる伊達家臣たちの発言が本当にあったとしても、あくまでも義光への不信に基づいた疑惑に過ぎず、決定的根拠にはならない。つまるところ、伊達家家臣たちの疑心暗鬼と解して妥当であろうし、『政宗記』、『記録』の底本である『成実記』は成実が老年の時に書き綴られたもので、多少の誤記・覚えの相違がありうると考えられる。

結局、『成実記』の影響をうけて、「鮎貝謀叛事件」に義光が関与した疑惑は仙台藩時代に形成し、『記録』の編さんによって、仙台藩の公式見解では定説となってしまったのである。

蛇足であるが、事件が落着した翌十六年四月に政宗の命令により、鮎貝城と近隣の荒砥城とともに普請が行われた。その前後には国境において伊達勢と最上勢との小競り合いが断続的に行っていたから、普請自体は最上へ警戒するためと見てよいが、それは「鮎貝謀叛事件」とは関係なく、同年の庄内をめぐって義光と対立した本庄繁長と連携した政宗は、大崎家内紛により、義光との関係が一層悪化したため、義光をけん制する方策として、鮎貝城と荒砥城を新たに普請したと考えてよいだろう。

■執筆:胡 偉権(歴史家/一橋大学経済学研究科博士後期課程在籍生)


《注》
(注1) 大沢慶尋「再検証『鮎貝宗信謀反事件』〜政宗・義光の不和発端説の誤りを正す〜」http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=387678、のちに山形郷土史協議会の『研究資料集』第37号「天正十五年鮎貝宗信謀叛事件〜伊達政宗・最上義光不和発端説の検証」に改題、山形郷土史協議会の『研究資料集』第37号、2016年4月10日刊
(注2) 『貞山公治家記録』巻二、天正十五年九月二十六日条 平重道 編、宝文堂出版 一九六七年
(注3) 『伊達史料集(下)』第二期戦国史料叢書11、小林清治 校注、 人物往来社 一九六二年
(注4) 『群書類従』第拾四輯【巻三百九十】
(注5) 『伊達史料集(上)』第二期戦国史料叢書11、小林清治 校注、 人物往来社 一九六二年
(注6) 同書状では、政宗は宗信が「逆意を企てる」と摘発したが、そもそも、「逆意」を最上に内通するとまで解することできないし、湯目景康宛の政宗書状では、宗信が「様々抱置き」しているとある。おそらく当時の宗信は既に籠城する構えを見せているだろう。当時の風習では、家臣が無断に籠城することは謀叛と等しく、まさに「逆意」そのものだから、政宗が言うのは籠城のことではないかと考えられる。
(注7) 『市史せんだい』vol.25 史料紹介 伊達政宗文書・補遺(九)・補180号
(注8) 大沢氏は注1の『研究資料集』論文にて同じく宗信謀叛事件と『成実記』との関連性を指摘されたので(同資料集24ページ、注〔11〕)、併せて参照されたい。

《参考資料》
政宗記(巻三)(人物往来社 戦国史料叢書10 「伊達史料集上」)
…斯くて義顕は政宗母儀方の伯父にておはせども、輝宗代には度々軍なりしが、政宗へは和睦を入、近頃は懇にておはす。しかりといえども我家の大身を多く滅ぼし、或は御子両人迄死罪に行ひ、以の外なる悪大将なり。されば政宗四本ノ松・二本松を取給ふに仍て、佐竹・会津・相馬・岩城・白川・須賀川、各伊達へ敵対し給ふ故に、義顕近所と云ひ互に時を見合せ、右の大将へ一和ありて、伊達へ戦、在城の米沢を日来のぞみ給ふ処に、況や今度大崎にて伊達の勢とも利なくして、人質の泉田安芸を、義隆より最上へ遣はし給へば、尚も政宗へ手切の為に、米沢と最上の境に、鮎貝藤太郎と云し者居たりけるを、義顕語らひ、天正十六年三月十三日に右の藤太郎伊達へ向て手切をなす。政宗時刻を移さず退治せんと宣ふ。家老の面々「義顕手の悪き大将なれば、隣国へ如何なる武略計略無嫌疑、一左右を聞玉ひしかるべし」と申す。「各申処は理りなれども、打延けること如何」の由にて、已に馬を出さるべきに相済けり。然る処に鮎貝、最上より加勢を頻りに望と云へども、如何ありけるやらん一騎一人も助け来らず、剰へ政宗出馬のこと藤太郎聞及ぶ、則最上へ引除けり。是に付て米沢中弥静謐にて候事。

伊達成実記(群書類従. 第拾四輯【巻三百九十】)
義顕公政宗公伯父ニテ候トモ、輝宗公御代ニモ度々御弓矢ニ候。然共近年ハ別而御念比ニ候。義顕公大事ノ人ニテ洞ニテ大臣兄弟両人共ニ切腹被仰付候、政宗公二本松・塩ノ松御弓矢強、佐竹・会津・岩城・石川・白川迄御敵ニ候間、此時右ノ諸大名衆仰合サレ、伊達へ弓矢ヲ取、長井ヲ御取可被成由被思召候處、結句大崎ニテ伊達衆負、泉田安芸守ヲ最上へ可被相渡ニ候間、此砌米沢ヘノ事切ヲ被思召、最上境ニ鮎貝藤太郎ト申者被仰合、天正十五年三月十三日、鮎貝手切仕候。政宗公被聞召、時刻ヲ移候ハバ成間敷候間、即御退治可被成由被仰出候。家老衆被申上候ハ、最上ヨリ加勢可有之候。其上又モ最上ヘ申寄候衆可在之条、様子御覧被合、御出馬可然由申サレ候ヘドモ、左様ニ候ハバ、米沢ヲ御出候事成マジク候間、是非鮎貝ヲ御退治可被成由御意候而御出馬候處、最上ヨリ一騎一人モ御助無之、鮎貝最上ヘ加勢イ乞候ヘドモ不被相助上、政宗公御出馬候被承、則最上ヘ引除被申候間、長井無子細候。
「羽源記」に見る天文現象について

 
◆「羽源記」に義光誕生のときの事として次のような記事がある。
 
「出生の日より山王権現の宮の上に白幡虚空より降り、照空を七日ありしとか」

 さて、これはどんな現象だったのか?考えられるのは、表現から見て天文か気象の現象であろう。
1.天文現象で特別なものと言えばまず日食月食が思いつく。日食は前年5月1日にあったが、天文15年にはなかった。また、月食は同年4月16日の記録はある。しかし、この月食は事実あったかどうか疑わしい。いずれにしても「照空を七日」には適合しないだろう。
2.「照空を七日」という表現に、最も妥当と思われるのは彗星出現であろう。彗星の尾が夜空に伸びているものは雲のように見えることから、伊達貞山公治家記録では、元和2年の彗星に「俗呼テ旗雲ト称ス」と書いている。『幡』は、意味も読みも『旗』と同じになるから、「白幡」が彗星を指すことは考えられる。しかし、天文15年の彗星出現記録は「日本天文史料」にはなく、彗星のカタログ、[彗星を追う・広瀬古川香西共著]にも無い。
3.他の現象
 古文書によく記録されている現象としては、他に月星接近・惑星現象・流星などがあるが、天文十五年前後五年間を見ても特別なものは見つからなかった。
 天文というより気象現象で思いつくのは、オーロラである。米沢藩家老莅戸善政(のぞきよしまさ)の「三重年表(さんじゅうねんぴょう)」で寛永12年7月に「二十六日夜紅氣満天」とあるのがオーロラであり、他にも、享保15年[上山三家見聞日記・上山市史]、明治7年[大町念佛講帳・河北町誌]等々多くの記録がある。しかし、これも天文15年の記録というものは「日本天文史料」他にも見つからない。しかし、記録が無くても、そういう現象がなかったとは言えない訳だから厄介である。
 結局、「白幡」は解明できないままである。

◆「羽源記」にはまた、慶長13年の事として、次のような記録もある。
「葉山、鳥海山といふ両峯より、光物毎夜星の如くに続いて月山の腰に見え、立石寺燈明堂の上迄布引いて光渡る、紫雲空中に充満せり」
 「紫雲」は別にして、これは何だろうか。「星の如く」というから、恒星惑星ではないだろう。「毎夜布引いて」見えるのは彗星・流星群というところか。現象の日時が不明なので、調べるのに困るが、慶長13年の光り物として、江戸京都では3月29日・4月23日・7月14日・10月3日の記録があり、いずれも、流星と見られる。流星群ならば、何日かに亙って同じ方角から出現することはあるのだが、群れらしきものの記録は見つからなかった。
 彗星では、同年5月21日に「客星東南に出現、月光の如し」、しかも数日にわたりて毎夜見えた、との記録はある。しかし、この客星については残念ながら他に記録がなく、多分木星だろうと言われている。また、同年4月13日の「今夜旗雲出現」との記録は、彗星ではなく雲のことらしい。慶長12年ならば、6月から9月までハレー彗星が毎夜現われ、明るいときは光度一等級だったらしく、国内記録も数多いのだが。

◆話は変わるが、大国富丸氏(南陽市在住)は、自分で発見した小惑星に「義光」「兼続」と命名し国際天文学連合に登録・承認された。去年(2000年)は義光と兼続が仲直りした行事もあったし、戦火を交えた二人の武将が、今では仲良く天空に輝くというのはいい話である。ただ、小惑星は大変暗い天体で、肉眼で見えないのが少々残念である。

■執筆:鈴木靜兒(山形天文同好会事務局)「館だより�癸検廚茲�
「最上屏風」の由来について


 「最上屏風」がほんとうに「大坂夏の陣」を描いたものか、という疑問を払拭するのが小文の目的である。

 
大坂夏の陣図(通称:最上屏風) 上山城蔵>>拡大

 山形市の光禅寺に伝来していた原本は残念ながら明治二十七年の大火で焼失してしまった。原本が残っていれば制作年代がある程度推定できるので疑問が解消できたかもしれないが、摸本からはそうした手立ては失われている。その結果、生々しい合戦の実態を記録した貴重な図であるにもかかわらず、絵画資料としての位置づけは不安定なままである。ほとんどの合戦図が後世の想像図に過ぎないだけに、いっそう原本の焼失が惜しまれる。
 そのかわり、もう一つの大坂夏の陣図屏風のように大名の黒田家が秘蔵してきたのではなく、寺院に伝来したために模写が容易だったのだろう、数多くの摸本に恵まれている。それにともなって他の合戦図にはない豊富な記録にも恵まれている。川瀬同氏は「文献に見る光禅寺蔵大坂夏の陣屏風図」(山形郷土史研究協議会『研究資料集』11・17号)において記録類を網羅するとともに、そこに登場する人物の考証もあわせて行なっている。「最上屏風」に関するもっとも基本的な文献として小文でも参考にさせていただいた。
 それによれば、「最上屏風」に関する最初の情報は意外な著名人によって記録されている。『解体新書』で有名な医師、杉田玄白は『いくさの絵の記』(『大日本史料』第十二編十九)に、「五十二年前」のこととして次のように記している。
 「童部なりし時物学びたりし桐江先生と言える人の、一日賓客に(中略)、慶長末の一年難波津の御合戦ありしとき、(最上殿の)御内の武夫ばかり軍の御供をして罷り上りたるが、彼地にてはなばなしき功名せし。その武夫共の戦の仕様をそのまま絵に写し主のもとへ土産にせしを彼国に残し伝へ侍る(中略)。その絵を見るに、武具せし人少なく、多くは素肌者なり(中略)。その屏風見し人の申したるよし語られたり。」
 寛政十二年(1800)七月の五十二年前、すなわち、寛延元年(1748)には玄白はまだ十六歳だった。「五十年ほど前」ではなく、「五十二年前」とはっきり記しているところをみると、玄白はよほど記憶力がよかったようだ。晩年の玄白に『鷧斎日録』という日記があるが、若い頃から日記をつけていたのかもしれない。その内容は信じてもよいだろう。ただし、日録の寛政十二年には屏風に関する記事は見出せない。そのかわり、文化元年(1804)五月四日の条に、大坂の陣に思いを馳せて太平の世に暮せる感慨を書き残している。
 玄白が少年の日のできごとをまざまざと思い出したのは、先の文章に続けて「今年思わずも或人此図を出し(中略)、此頃是を写し得侍りたるとて見せ給えり、翁これを見るに彼の桐江先生の語り給うに露違わず。」とあるように、子供のころに聞いた話とぴったりと一致する図が目前に出現したことの驚きによるものであった。
 この図が広く流布するようになったのは、山形・上山城本の桂川中良(桂林舎)による寛政十一年九月の由緒書に「寛政十一年秋、秋元侯家臣小俣七郎彼地に下りける時、一本を模写し予に賜與す、実に此図の世に出るは此摹本を始とす」とあるとおりで、杉田玄白はそれから一年もたたないうちに目にしたことになる。図を写し帰った小俣七郎義陳は当時山形藩主であった秋元家の江戸詰めの家臣で、その妻と桂川中良とは父が同じという関係にあった。一図を得た中良は玄白とともに『解体新書』の翻訳にあたった甫周の弟にあたり、父の桂川甫三も玄白の友人で『解体新書』を将軍家に献呈した奥医師であった。


大坂夏の陣図(通称:最上屏風)部分 上山城蔵

 杉田玄白は享保十八年(1733)に小浜藩医の子として江戸藩邸、矢来屋敷に生まれたが、幼年時代を小浜で過ごし延享二年(1745)に父とともに江戸に戻っている。桐江先生は江戸での最初の学問の師ということになろう。玄白は寛延二年(1749)頃には宮瀬龍門および奥医師の西玄哲に入門しているので、桐江先生への師事はわずか三年たらずだったことになる。
 桐江先生は年少の杉田玄白がそば近くで師事しているからには、多少なりとも小浜藩とのゆかりがあった人物に違いない。桐江先生のもとを訪れた「屏風を見た人は」、その存在が広く知れわたる以前に見ている。その人は山形の人か、もしくは山形にそうした図があることを聞き及んだ人の、どちらかである。図を写し帰った小俣義陳の例からすると、地元の人ではなかったように思われる。
 玄白の記述は、実際に屏風を見た人が桐江先生に語った内容を、桐江先生がある賓客に話し聞かせたかたちになっている。したがって桐江先生は摸本が流布するより前に、いち早く屏風の存在を聞き知っていたことになる。ここから桐江先生が「最上屏風」の謎を解くキーパーソンとして浮かび上がってくる。だが、残念ながら桐江と号した人物が誰かはっきりしない。参考のために桐江を号とした人物を列挙してみる。

 1、田中桐江(1663〜1742)は出羽鶴岡の出身。天和三年(1683)に江戸に出て朱子学を学び、柳沢吉保に仕え、そこで荻生徂徠と出会い親交を持つ。正徳三年  (1713)に吉保の奸臣に対して刃傷におよび奥州に逃げ落ちたが、高槻・光徳寺の僧、独麟の勧めにより、享保九年(1724)に仙台から摂津池田に移り「呉江舎」を設立して多くの門人を育てた。富永仲基もそこで学んでいる(『新編庄内人物辞典』)。ただし、墓誌には「武陵に生まれ父田中氏は豊州築城主の臣、忽朝卓爾として遂去し奥に適す、十二年にして武陵に還る」とある。余談になるが、鶴岡出身の日本美術史研究者、故田中一松氏は田中桐江の子孫にあたり、関係資料を本間美術館に寄贈している。

 2、菊池桐江は明和六年(1769)版の『古今諸家人物志』に名が見え、徂徠門下の漢学者である入江南冥に学んでいる。名は忠充、字は子信、武助とも大助とも称した。江戸の人で銀座に住んでいた。著述に『桐江山人集』、『唐明詩聯集』(元文元年・1736刊)、『文章雋譜』(宝暦八年・1758刊)などがある。

 3、三田義勝(1701〜1777)は蘭室とも号した。享保七年(1722)に江戸詰となり、丸亀に帰国して藩儒となる。

 4、平林惇信(1696〜1753)は書家。細井広沢門人で静斎とも号す。弟子が二千人もいたとされる(三田村竹清『近世能書伝』)。

 四人のうち田中桐江は後年には関西に居を構え、寛保二年(1742)に世を去っているので、玄白の師であった可能性はない。残る三人の中では秋田藩儒の入江南冥に学んだ菊池桐江が有力視される。生没年は不詳だが、師の南冥が明和二年(1765)に八十歳で没していることから推測される年齢や、著述の出版年からすると玄白が師事することは可能である。彼が著わした『桐江山人集』三巻の存在がわかれば、その当否がもう少しはっきりするだろう。
 小川貫道氏は『漢学者伝記及著述集覧』において、菊池桐江を「水戸藩儒」と記している。水戸の彰考館総裁の安積澹泊と交流のあった新井白石(1725没)は仙台の儒者で画家の佐久間洞厳とも親しかった。白石の洞厳宛て手簡の一つに「送桐江翁帰江都の御作二首ともに可然候」という一文が見出せる。新井白石は主君であった堀田正仲の山形移封に従い、貞享三年(1686)に『山形紀行』を著わしたとされている。新井白石はしばしば大坂の陣について軍談を講じ、同陣に関する記事を多く書き残してもいる。桐江先生に最上屏風について語った人物が新井白石だったとすれば面白いが、ここでの桐江翁は仙台から江戸に帰っていることから田中桐江の可能性がつよい。性急な判断は避けなくてはならないだろう。
 杉田玄白の聞き書きでもっとも注目しなくてはならないのは、「最上殿の御内の武夫が軍の御供をして、はなばなしい功名をあげた。その武夫どもが戦の仕様をそのまま絵に写し、主のもとへ土産にした。」という一節である。ところが五十二年後に玄白に摸本を見せた人物は「大御神(徳川家康)が最上家親に給う所の」と語っており、この間に由来に関してすっかり変わっていることに注意したい。
 こうした伝承は明和六年(1769)正月の『山形棚佐賀志』に名が見える『山形風流松の木枕』において、「家康公より義光へ被下置候御枕屏風此寺の御什物也」とあるので、すでに山形において形作られていたことがわかる。歳月の経過とともに事実が薄らいでゆくにつれて、重々しい由緒が付け加わる典型である。ここでは最上家親ではなく、父の義光が拝領したことになっており、上山城本も含めてそう伝える記録がほとんどである。しかし、義光は大坂夏の陣以前に世を去っており、はじめから馬脚が露われている。「家康から拝領云々」は無視してよいだろう。だが、同時に大坂夏の陣図であることまで否定するのは行過ぎである。
 寛延元年(1748)の玄白の聞き書きの重要性は伝承が粉飾される以前の、当初のかたちを伝えているところにある。大坂の陣に最上家親の家臣が参戦していたのは事実で、二人派遣されている。『最上家伝覚書』(国立公文書館)によれば、「大坂御陣中為伺御機嫌、武久庄兵衛・冨田加兵衛と申者、両度為使者差上候」とあって、二人とも冬と夏の両陣に「使者」として参戦し、その功績により冨田加兵衛が三百から六百石へ、武久庄兵衛は五百から千石への加増となっている。
 武久庄兵衛は最上家改易後には武勇を認められて松平忠輝の家臣を経たあと、寛永九年(1632)に川越藩主酒井忠勝の預かるところとなり、同十一年の藩主の小浜へ移封に従い、敦賀奉行を勤めるなどして、承応三年(1654)に没している。小浜藩に「大坂夏の陣図」を描かせたと思われる人物の子孫がいたのである。
 武久家については『新稿 羽州最上家旧臣達の系譜−再仕官への道程−』(最上義光歴史館)を著わした小野末三氏がとても興味深い事実を明らかにしている。すなわち、今日国宝となっている「伴大納言絵巻」が寛政九年に酒井家に召し上げられるまでは武久家が所持していたこと、『若むらさき』(大田南畝編「三十輻」所収)に「絵巻物者賜於最上家焉」と、最上家から賜ったと記されていることなどを紹介している。
 かねがね、どういう経緯から武久家が「伴大納言絵巻」を所持することになったのか、不思議に思っていた。そこで、次のように考えてみた。
 武久庄兵衛の武功はすでに加増によって報われている。絵巻を賜ったのは「大坂夏の陣図」との交換であり、献上に対する褒美である。参陣を許されなかった家親はなんとしてでもこの図が欲しかったのだろう。後に「大坂夏の陣図」が最上家を出て最上義光の菩提寺に移った事情については、重要文化財の狩野宗秀筆「遊行上人絵伝」十巻が家親の子の義俊が亡くなる寛永八年(1631)に、光明寺に再寄進していることが参考になる。本図も同時に光禅寺に寄進されたのであろう。最上家改易の原因となった義俊が最期に臨んで、父祖の足跡を山形の菩提寺に残そうとした心情を察してやりたい。
 この図をめぐる多くの伝承の中では、もっとも早い杉田玄白の聞き書きを何よりも尊重しなくてはならない。それに従えば、原本は最上家から大坂夏の陣に派遣された武久庄兵衛昌勝が主君への土産として描かせた可能性がつよい。他の合戦図のように六曲屏風ではなく画面が小さいのもいかにも土産にふさわしい。最上家改易後に武久庄兵衛が小浜藩に仕官したことから、同じ藩の藩医の子供の耳にも正確な情報が入ってきたのだろう。
 五輪塔の旗指物が目立つことから本図を最上義光の合戦を描いたとする指摘はすでに江戸時代からある。そのせいで本図を大坂夏の陣図とする意見が抑えられてきた。だが同時に、同じ旗指物で大坂夏の陣に参戦した武士がいたことも考証されている。現存する幾多の合戦図を見ればわかるが、誰も知らない出羽での局地戦を「リアルタイム」で描きとどめるような行為があったとはとても考えられない。
 別の秋元家家臣、国友恆足は「山形光禅寺蔵屏風合戦絵考」において、文化八年(1811)八月晦日に光禅寺にて実見したときの印象を次のように記している。「屏風は二枚折り(中略)、地は金紙にて彩色も亦あしからねど、年をふるままに今はうすらぎ(中略)、いと古雅なり」






大坂夏の陣図(通称:最上屏風)部分 上山城蔵


 「古雅」という言葉が死体が横たわり、手に首を提げる武士が描かれる合戦図に似つかわしいとも思われないが、その言葉にふさわしい場面が画面の左上片隅に見える。城内の中門あたりに並ぶ三人の男子の姿がある。先頭の子は末期の水であろう、竹筒の水を椀に入れて傷ついた兵にさしだしている。二人目は目を覆い、三人目は口元を覆っている。
 彼らの髷の形は上流階級の子供を意味する「稚児輪」らしく、後頭部に二つの輪を結ったように見える。牛若丸の髪型と言えばわかる人がいるかもしれない。肖像画では上級武士の子供の風俗として室町時代末期にしか見ることができない髪型である。豊臣秀頼の周囲には古い風俗が残されていたことを物語っている。
 結論を言えば、本図は大坂夏の陣の目撃者、武久庄兵衛が描かせた希有な合戦図である。
■執筆:宮島新一(美術史学者/日本絵画史)「歴史館だより�19」より
「三部抄」について ―内容と成立を中心に―


 一 「抄」とは何か
 現代で「抄」と言えば、「ある作品などから精進したり、抜き出したりしたもの」の意味で用いられる。ところが、古典では、以下の意味でも使用されている。

ア さまざまなものを集成したもの
イ 注釈書
ウ 現代で言えば、ノートにあたる聞書

 西行に仮託された説話集「撰集抄」、鴨長明の歌論集「無名抄」は、アの例である。江戸時代・元禄期の国学者北村季吟が著した「源氏物語湖月抄」は、イの例である。また、室町期の五山僧は、多くのウに該当する「抄物」を残した。(イ・ウの内容は重なることもある)
 この「三部抄」ではアの意味で使われている。すなわち「三部」の書を集約したものの意となる。

 二 内 容
 書名は「三部抄」であるが、その内容は、いずれも新古今時代の大歌人にして古典学者藤原定家と何らかの形で関係する五種の書から成る。


 一は、「詠歌大概(えいがのたいがい)」。建保三〜四年(一二一五〜六)に後鳥羽院皇子・尊快法親王(十二〜三歳)のために書いた。初学者のための、和歌に対する心得・基本的な考えが記されている。


 二は、「秀歌躰大略(しゅうかていのたいりゃく)」。一とセットになっており、八代集の中から心がけて学ぶべき和歌を示している。(一・二はまとめて一書とされることが多い)小学館「新編日本古典文学全集・歌論集」に、口語訳も付されて所収。


 三は、「百人一首」。内容については周知のことと思う。文暦二年(一二三五)に、定家は、愛息為家の舅たる宇都宮入道頼綱の求めに応じて、「百人一首」の基盤となる百一首から成る「百人秀歌」を選定した。その後、定家または為家が、「百人秀歌」から三首を切り出し、代りに後鳥羽院・順徳院の作を入れたものである。「百人一首」の完成者は、定家・為家の二説あって定まっていない。多くの解説書がある。


 四は、「未来記」。そもそもこの書名は、聖徳太子などの特別な力を有した人物の、未来を予言した書に使われる。ここでは、定家が、後世に和歌が衰えた時の戒めとして、詠むべきではない例を示したものとされる。
無論、定家仮託の偽書で鎌倉末までの成立とされる。作者は不明。


 五は、「雨中吟(うちゅうぎん)」。四と同じ目的で、定家が自作を集めたとされるが、現在は、孫で一流を成した冷泉家周辺で、延慶三年(一三一〇)までに成立したらしいと考えられている。(一部の作は、定家の作として、玉葉集などに入っている)
 四・五は、一まとめとされることが多く、五種の書の集約ながら「三部抄」と呼ぶ。四・五は、河出書房新社・久保田淳編著「藤原定家全歌集下」に略注などを付して所収。図書館などで手にとっていただきたい。
 
 三 成立と流布など
 この五種の書は、十五世紀後半には「三部抄」としてまとめられていたと考えられる。誰がまとめたかは不明。
 為家の子の為氏を始祖とする二条家(中世和歌の主流派)は、室町中期には絶える。ただし、その弟子たちの流れ(二条流・兼好法師も宗祇も紹巴も、それらの流れを受ける)において「三部抄」は、和歌の入門書・戒めの例を示した書として重んじられていく。
 今川義元は、信長に敗死したため文弱の人とされ評価は低いが、これらの人々は武家貴族の末裔を自任しており、自分たちが宮廷文化(和歌・連歌・物語など)を学ぶことは当然と考えていた。
 その際、宗祇・紹巴のような連歌師が、身につけた古典の教養を、地方の武家貴族の末裔たちにも伝えたのである。この時代、その教養は、誰が師であるかが大切であった。その中で、紹巴が最上家のために筆を執ったことは、実に意味のあることであった。

■執筆:名子喜久雄(山形大学名誉教授)「歴史館だより��24」特集「三部抄」より