最上義光歴史館

「武士[mononfu]の晴れ姿を体験しよう!!」

○とき  
11月1日(土)、2日(日)、3日(祝)
午前の部10時〜12時/午後の部13時〜15時

○内容  
甲冑を着て馬に乗り、戦場におもむく武士の晴れ姿を体験します。

(1)甲冑の着用と乗馬コース 
各日16名 (午前の部8名/午後の部午後8名)
参加費1500円(保険料込)
※小学生の場合は高学年以上です
   
(2)甲冑のみ着用コース  
各日8名 (午前の部4名/午後の部午後4名)
参加費500円

○会場  
最上義光歴史館 前庭と研修室

○申込み 
10月18日(土)から最上義光歴史館へ電話(625-7101)で申込み、先着順で定員になり次第、締切ます。日時は完全予約制です。当日甲冑は選べません。
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※[ダウンロード]してプリントアウト(A4サイズ)することができます。


武田信玄公所用「伝諏訪法性兜」 下諏訪町立諏訪湖博物館所蔵のペーパークラフトの縮小版です。
テーブルなどに飾ることができます!!
実際にかぶることができるフルスケールもあります!!
厚紙にプリントアウトして完成させよう!!








★ほかの武将兜ペーパークラフトは>>こちら

※このペーパークラフトは米沢市の木村吉孝氏が企画し、川島印刷、精英堂印刷が設計製作したものです。
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※[ダウンロード]してプリントアウト(A4サイズ)することができます。


武田信玄公所用「伝諏訪法性兜」 下諏訪町立諏訪湖博物館所蔵のペーパークラフトのフルスケールです。
実際にかぶることができます!!
テーブルなどに飾ることができる縮小版もあります!!
厚紙にプリントアウトして完成させよう!!

※画像は縮小版です!!








★ほかの武将兜ペーパークラフトは>>こちら

※このペーパークラフトは米沢市の木村吉孝氏が企画し、川島印刷、精英堂印刷が設計製作したものです。
義光と連歌

義光は、当時の知識階級が文学的な楽しみとした連歌が非常に優れていました。

連歌は源氏物語や古今和歌集以下の古典を背景にしながら、一座の人々と静寂優雅な境地を楽しむものです。
桃山時代の連歌は数多くありますが義光の作品は数においても質においても同時代諸侯の中では、細川幽斎を別格例外とすれば、他に匹敵する人物は黒田如水だけです。
作品の数は現在確認されたものだけでも33巻、句数は約250句にのぼります。

同席した文人としては、里村紹巴とその一派の連歌師たち、公家では日野輝資、飛鳥井雅庸、大名では細川幽斎、前田玄以、黒田如水、僧侶では木食上人応其、聖護院道澄、醍醐寺光台院の亮淳僧正、豪商では灰屋紹由、角倉了以など。
まさに錚々たる文化人たちです。

義光が国文学者の間で以前から高く評価されていたのも当然でしょう。
義光連歌の中には、発句を後陽成天皇から賜ったものがあります。
まさに驚くべきことです。(勘)


※写真「慶長三年卯月十九日 賦何墻連歌(義光発句)」初折表部分
◆◇◆文禄四、五年の謎◆◇◆

 文禄四(一五九四)年八月、秀次事件で駒姫が三条河原で刑死した。その二七日(ふたなのか)には、妻が急死した。愛する者二人を一挙に失った義光の悲嘆、いかばかりか、自らは閉門蟄居。連歌の師里村紹巴も財産没収のうえ、近江へ流罪。最上家にとっては存亡に関わる重大事件の年であった。
好きな連歌も、年末の十二月十六日になってようやく開催できたらしい。発句は義光。

 「入る月の影やとどめし雪の庭」

以下、悲愁感ただよう百韻となる。
 このときの連衆の中に「弥阿」なる時宗僧の名があるが、ほかの連歌にこの名は見えない。いったい何者かという疑問を持ったまま時が過ぎた。

     *
 
 ところが、最近驚くような史料が現れた。一つは名古屋市博物館から、一つは地元山形市光明寺から。
 二つの新史料によって、山形を代表する二大寺院、すなわち時宗光明寺・真言宗宝幢寺の住僧が、このころ京畿周辺で動いていた事実か明らかになったのである。
 まず、宝幢寺尊海。義光の信頼絶大な祈祷僧である。彼は、年が明けたばかりの文禄五年正月三日、尾張国(愛知県)知多の圓蔵寺に伝来する美麗な古写経の末尾に、「羽州山形殿」子孫の末長い繁栄を祈る願文を書き留めていた。(名古屋市博物館紀要第34号、鳥居氏・橋村氏論文)
 次に、光明寺の弥阿。彼は、同じ年の五月下旬に里村紹巴の発句揮毫を手に入れている。紹巴自身「最上光明寺弥阿の御所望により」と、そのいきさつを記した(光明寺蔵軸物)。前年十二月十六日の連歌に参席したのは、この「弥阿」(光明寺第十七世俊山)だったと考えてよかろう。
 それなら、尊海、弥阿の二人がこの時上京していたのは何故か。弥阿の紹巴訪問は、義光同道ではなかったか。
 文禄五年の両者の動きは、最上氏内部の事情によるものであろうし、それは即義光自身の意向と密接な関わりをもつものだったに違いない。
 想像をめぐらすことは可能だが、それはやはり想像にとどまる。さらなる史料の出現が待たれるところだ。

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより��19/研究余滴12」より